第56部 | 1874年 | 77才 | 神楽面のお出まし |
明治7年 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「神楽面のお出まし」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【お筆先を三号から六号半ばに亘ってご執筆】 |
1874(明治7)年、教祖77才のとき、教祖がお筆先を再開し、三号から六号半ばに亘ってご執筆された。急ぎに急がれる親神の思召しのほどを誌され、重大な時旬の迫って居ることを告げて、道人の心の成人を強く促されている。 |
【「お節会」始まる】 |
教祖の膝下に寄り集い、元旦に供えた鏡餅のお下がりを、一同打ち揃うて賑やかに頂くことは、既に早くから行われていたが、そのお供え餅の量も次第に殖えて、明治7年には、7、8斗にも昇った。この行事は「お節会」(おせちえ)と呼ばれて、後年、次第に盛んになった。 |
【重大な時旬、真柱の擁立】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この時期、教祖は、道人を束ねる核として、真柱を中心に据えようとの動きを為された。真柱について、お筆先3号に集中して誌されている。
教理では、これを次のように説く。当時真之亮は9才で、いつもいちの本村からお屋敷へ通うていたが、教祖は家族同様に扱うて可愛がられた。まだ幼年でもあり、親神の思召しが皆の人々に徹底していたわけでもなく、嗣子として入籍したわけでもない。そこで、一日も早く中山家へ呼び、名実ともに道のうちを治める中心と定めるよう急き込まれた云々。 |
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しかし、八島秀雄氏は異説を説いている。後に真柱になる真之亮はこの時満7歳であることを思えば、真之亮の成長を待つというのには無理がある。これはこかんを呼び寄せようとの教祖の思いではなかったかと。当時こかんは、おはる亡き後の梶本家の後妻として迎えられていた。こかんが35才になって一人身であったことと、梶本家に残された子供の不憫さが立てあった結果、こかんが出向くこととなった。これには秀司夫婦の強い意向が働いていたとも考察されている。秀司夫妻との折り合いが悪く締め出されるようにお屋敷を後にしたとも云われている。 教祖がこれに強く反対していた。こかんは「お道」取次人第一人者であり、飯降伊蔵と並ぶ最も忠実な教祖派の道人であった。こかんなき後のお屋敷内は、応法派が「政府の指導する神ながらの道」に準じた「お道」へと急速に変質を遂げつつあった。こういう背景から、教祖が、こかんを真柱として「お道」の束ね人になるようにと「早く帰っておいで」のせき込みなされたものと説いている。 |
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私は、八島説を踏襲しつつも、この時期教祖は、もっと一般的に「お道」の確たる引継ぎ人としての真柱の確立と道人の結束を促そうとしていたものと拝察させて頂く。それは、お道の発展とそれに伴う弾圧の予感とに対する教祖の断乎とした決意であり、緊急の指示であった、そういうものと拝察させていただく。 |
【教祖の「神の国日本」諭し】 | ||||||||||||||||||
この頃、教祖は、唐人が干渉し、唐人が支配しようとしている「日本」に抗して、せかいろくぢに向けての元の理を教え、つとめの理の完成を、身をもってお説きになられていた。
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【教祖の辻忠作への「かきもち」諭し】 | |||||||
「みちのだい第33号「教祖特集号」28−29p」の辻芳子 (本部婦人) 「かたいかきもち」が遺されている。これを確認しておく。
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諸井政一「正文遺韻」249頁。
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【教祖の予言】 | ||||
4月、教祖は、お屋敷内がお手振りと節つけで賑わう中、お筆先四号で次のように予言している。
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【神楽面のお出まし】 | |
教祖は、神楽面が揃うことをお待ちくだされた。神楽面とは、親神のご守護の理をそれぞれの働きに相応しく人格化させた面のことを云う。「神楽づとめ」の際に十人の「つとめ人衆」にこの面を被らせ、親神のご守護の働きを表現させる。実際には、つとめ人衆は甘露台を取り囲んで、お歌鳴物の調子に従い、親神の人間創造の働きをそのままに、その理を手振りに現わして勤めることになる。その効能は、「つとめ人衆」が「元の理」一つに溶け込んで、「一手一つ」に勤める時、親神の自由自在の守護があざやかに現われ、如何なる身上の悩みも事情の苦しみも取り除かれ、道人を勇ませ、「お道」の前途が開かれ、「世直し、世界の立て替え」を通じて陽気暮らしの世界を現出させる、というところにある。
杏助がいつ頃製作を依頼されたのかは定かではないが、明治5年9月に80才で出直しているので、少なくともそれ以前には神楽面が出来上がっていたことになる。こうして時旬の到来を待って前川家に保管されていた。 |
【「証拠守り」が渡され始める】 |
この頃、親里へ帰った証拠として「証拠守り」が渡されるようになった。 |
【教祖のコレラ教理】 | ||
明治7年、教祖は、「うしのさきみち」牛疫をコレラの前触れとしてお筆先で次のように予告している。
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【飯降夫婦に男の子授かる】 |
陰暦12.26日、父伊蔵、母おさとの二男として飯降政甚(いぶりまさじん)が誕生している。 これより先、おさとが数え年5歳で亡くした長男政治郎のことを思い出しては悲しんでいる或る日、教祖が、「おさとさん、お前、死んだ政治郎のことをそう思うなら政治郎を返してやるで。今度できたら男やで。先に名前をつけておくで。木は柾ほどきれいなものはない、靭ほど堅いものはない。それゆえ政甚とつけておくで」と仰せられている。教祖に安産を申し上げると、「男やろうがな。先に名はつけてあるで」と仰せられお喜びになった。生まれたばかりの政甚を抱いておぢばへ参詣した伊蔵に、教祖は、「先の政治郎がまた帰ってきたのやで。それでこの子は元は留治郎であって、迎え取りになり政治郎と生まれて、その時、かしこねのみことの魂を持ってきたのやで」、「この子は前生は破れ衣服を着て長らく苦行したるによって、そのいんねんで元のぢばへつれ帰って楽遊びをさせるのや」とも仰せられた。 飯降政甚は明治41年12月14日、本部員として登用され、書や歌に長けた才を発揮した。昭和12年(1937)年1月18日、64歳で出直している。(参考文献植田英蔵「新版飯降伊蔵伝」(善本社、平成7年)、天理教道友社編「天の定規 本席・飯降伊蔵の生涯」(平成9年)) |
(道人の教勢、動勢) | |
「1874(明治7)年の信者たち」は次の通りである。この頃より、教祖の噂が大和を越えて、河内や大阪にまで広がっていくこととなった。 | |
西浦弥平(31歳) | |
1874(明治7)年、大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)の農業/西浦弥平(31歳)が長男・樽蔵のジフテリアが手引きでご守護頂き入信。上田嘉治郎(嘉助)、ナライト等を導く。本席より甘露台の授けを戴く。 稿本天理教教祖伝逸話篇「39、もっと結構」は次の通り。
1899(明治32).6.14日、出直し(享年56歳)。 |
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泉田籐吉() | |
同年、大阪の泉田籐吉が入信。 | |
宮森与三郎(18歳) | |
同年、宮森与三郎(18歳)が本人の左腕痛が手引きで入信。 稿本天理教教祖伝逸話篇「40、ここに居いや」は次の通り。
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増井りん(32歳) | |
12.4日(陰暦10月26日)、河内国大県郡大県村(現・大阪府柏原市大県)の増井りん(32歳)が眼病の手引きで初参拝、入信。明治7年、教祖より「針の芯」のお許し・赤衣を頂く。教祖・本席のお守り役、別席取次人、息のさづけ。明治10年、長女とみゑ(1867年−1908年)が最初に三曲を教えられている。(稿本天理教教祖伝逸話篇36「定めた心」、44「雪の日」) 1939(昭和14).12.17日、出直し(享年97歳)。長男・幾太郎(1863年−1926年)は大縣支教会(現大教会)初代会長。 |
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稿本天理教教祖伝逸話篇「36、増井りん/定めた心」が、増井りん入信時の様子を次のように語っている。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「45、増井りん/心の皺を」の逸話は次の通り。
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高井猶吉(なおきち、13歳) | |
河内国志紀郡南老原村(現・大阪府八尾市老原)の高井猶吉(なおきち、13歳)が姉なをの産後の患いから、その婿養子と初参拝、入信。明治17年、教祖より息のさづけ、赤衣のお下げ。明治20年のおつとめで、神楽手踊りをつとめる。 1941(昭和16).11.21日、出直し(享年81歳)。泉支教会(現大教会)3代会長。 |
【この頃の逸話】 | |
西尾ナラギク | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「37、神妙に働いて下されますなあ」。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「38、東山から」。
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(この頃の国内社会事情) |
1.14日、右大臣・岩倉具視、赤坂で襲撃され負傷。 |
1.17日、板垣退助ら、民選議院設立建白書を提出。 |
2.1日、西郷の下野に応じて佐賀に帰郷していた江藤新平と島義勇(よしたけ)らが「佐賀の乱」を起した。2.6日、閣議、台湾征討を決議。3.29日、佐賀の乱の首謀者・江藤新平ら捕縛される。4.13日、前参議、司法卿・江藤新平、処刑される。5.22日、台湾出兵。陸軍中将・西郷従道ら、台湾に上陸。6.23日、黒田清隆、北海道開拓使次官に任命される。 |
6月、征韓論問題で下野していた西郷が私学校を発足させた。西郷を慕って帰郷した青年たちの指導統御と練成を目的にして藩庁の旧厩跡(うまや)に設立された。学校は、銃隊学校や砲隊学校に分かれ、生徒数はざっと800人。やがて本校だけででは収容できなくなり、鹿児島市内に分校を設け、県内にも及び始めた。西郷人気の凄まじさであった。明治維新のその後に不満を覚える者たちが続々結集していった。7.3日、三宅島噴火。12.3日、西郷従道ら、台湾から撤兵。 |
この年、明六雑誌創刊(1874‐1875)。西周、形式論理学に関する解説書『致知啓蒙』出版。カント哲学流行。マルクスを紹介した福田徳三(‐1930)出生。京橋、銀座にガス灯が点火。 |
(田中正造履歴) |
1874(明治7)年、34歳の時、疑いがはれ小中村に帰り、商売と勉学に励む。この頃より、自由民権者として歩みだす。 |
(宗教界の動き) |
1874(明治7).6.7日、教部省達第22号別紙教部省乙第33号で、「祈祷禁厭をもって医薬を妨げる者を取り締まる」(「禁厭、祈祷等を行ない、医療を妨げ、湯薬を止めることの禁止」)。 |
1874(明治7)年、修験道中心寺院の金峯山寺が廃寺に追い込まれた。熊野、羽黒、白山、立山、英彦山などの修験霊山は神社化させられた。修験者や僧侶は強制的に還俗させられ農民や氏神鎮守の神職となった。本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。富士講は扶桑教、実行教に、御岳講は御岳教と云うように教派神道として公認された。(その背景には、国際ユダ邪にとって、修験道が「文明開化」の流れにもっともなじまない抵抗勢力であったことによるものと思われる) |
奈良中教院設置。 |
(この頃の対外事情) |
(この頃の海外事情) |
(私論.私見)