第56部 1874年 77才 神楽面のお出まし
明治7年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【お筆先を三号から六号半ばに亘ってご執筆】
 1874(明治7)年、教祖77才のとき、教祖がお筆先を再開し、三号から六号半ばに亘ってご執筆された。急ぎに急がれる親神の思召しのほどを誌され、重大な時旬の迫って居ることを告げて、道人の心の成人を強く促されている。

【「お節会」始まる】
 教祖の膝下に寄り集い、元旦に供えた鏡餅のお下がりを、一同打ち揃うて賑やかに頂くことは、既に早くから行われていたが、そのお供え餅の量も次第に殖えて、明治7年には、7、8斗にも昇った。この行事は「お節会」(おせちえ)と呼ばれて、後年、次第に盛んになった。

【重大な時旬、真柱の擁立】

 この時期、教祖は、道人を束ねる核として、真柱を中心に据えようとの動きを為された。真柱について、お筆先3号に集中して誌されている。

 日々(にちにち)に 心尽くする その方は
 胸を治めよ 末は頼もし
二号28
 このたびハ 門の内より たちものを
 早く急いで 取り払いせよ
三号1
 すきやかに そふぢしたてた 事ならば
 なハむねいそぎ 頼みいるそや
三号2
  真実に そふぢをしたる そのゝちハ
 神一条(ぢよ)で 心勇むる
三号3
 段々と 世界の心 勇むなら
 これが日本の 治(おさ)まりとなる
三号4
 今ゝでハ なによの事も ハかりない
 これからみゑる 不思議合図が
三号5
 こんものに むりに来いとハ ゆうでなし
 つきくるならば いつまでもよし
三号6
三号7
 真実に 神の心の せきこみは
 真の柱を 早く入れたい
三号8
 この柱 早く入れよと 思えども
 濁りの水で ところわからん
三号9
 この話し 速やか悟り ついたなら
 そのまま入れる 真の柱を
三号10
 このはなし さとりばかりで あるほどに
 これさとりたら しよこだめしや
三号14
 このたびハ たすけ一ぢよ をしえるも 
 これもない事 はしめかけるで
三号17
 いままでに ない事はじめ かけるのわ
 もとこしらえた 神であるから 
三号18
 にちにちに 神のはなしが やまやまに
 つかえてあれど とくにとかれん
三号19
 何ににても 説かれん事は ないけれど
 心すまして きくものハない
三号20
 すみやかに 心すまして きくならば
 よろづのはなし みなとききかす
三号21
 この世うの 確か験(ため)しが かけてある 
 これに間違い ないと思えよ
三号22
 このためしす みやかみえた 事ならば
 いかなはなしも みなまことやで
三号23
  なにもかも いかなはなしも とくほどに
 なにをゆうても うそとをもうな
三号24
 めへにめん 神のゆう事 なす事わ
 なにをするとも 一寸にしれまい
三号25
 はやはやと みへるはなしで あるほどに
 これがたしかな しょこなるぞや
三号26
 これをみて なにをきいても たのしめよ
 いかなはなしも みなこのどふり
三号27
 人のもの 借りたるならば りがいるで
 はやくへんさい れいをいうなり
三号28
 今の事 何も云うでは ないほどに
 先の往還 道が見えるで
三号36
 今の道 いかな道でも 嘆くなよ
 先の本道 楽しんでいよ
三号37
 今年には 珍し事を はじめかけ 
 今まで知らぬ 事をするぞや
三号42
 今までは 何よのことも 世界並み
 これから分かる 胸の内より
三号43
 このたびは 助け一条に かかるのも
 我が身の験し 掛かりたるうえ
三号44
 助けでも 拝み祈祷で いくでなし
 伺い立てて いくでなけれど 
三号45
 このところ よろずの事を 説き明かす
 神一条で 胸のうちより  
三号46
 分かるよう 胸のうちより 思案せよ
 人助けたら わが身助かる
三号47
 高山は 世界いちれつ をもうよう
 ままにすれども さきはみえんで
三号48
 段々と をふくよせたる この立ち木
 よふほくになる ものハないぞや
三号49
 いかな木も をふくよせてハ あるけれど
 いがみかゞみハ これわかなハん
三号50
 世界中 胸のうちより 真柱
 神のせき込み 早く見せたい
三号51
 世界ぢう 胸の内より このそふぢ
 神がほふけや しかとみでいよ
三号52
  これからハ 神がをもてい あらわれて
 山いかゝりて そふちするぞや
三号53
 一列に 神がそうちを するならば
 心勇んて 陽気つくめや
三号54
 なにもかも 神がひきうけ するからハ
 どんな事でも 自由自在(ぢうよぢさ)を
三号55
 このたびは 内を治める 真柱
 早く入れたい 水を澄まして
三号56
 これまでハ いかな話しを 説いたとて
 日がきたらんで 見みへてないぞや
三号62
 これからわ もふせへつうが 来たるから
 ゆへばそのまゝ 見へてくるぞや
三号63
 しかと聞け 三六二五の くれやいに
 胸のそふぢを 神がするぞや
三号64
 思案せよ なんぼすんだる 水やとて
 泥をいれたら 濁る事なり
三号65
 濁り水 早く澄まさん 事にてわ
 真の柱の 入れよふがない
三号66
 はしらさい はやくいれたる 事ならば
 まつたいしかと をさまりがつく
三号67
 このよふを はじめた神の しんぢつを
 といてきかする うそとをもうな
三号68
 今ゝでも しんがくこふき あるけれど
 元を知りたる ものハないぞや
三号69
 そのはづや どろうみなかの みちすがら
 しりたるものハ ないはづの事
三号70
 これまでハ このよはじめて ない事を
 たん/\といて きかす事なり
三号71
 なにもかも ない事はかり とくけれど 
 これにまちごた 事ハないぞや
三号72
  十一に 九がなくなりて しんわすれ
 正月廿六日をまつ
三号73
 このあいだ しんもつきくる よくハすれ
 にんぢうそろふて つとめこしらゑ
三号74
 にち/\に 神の心のせきこみハ
 ぢうよじざいを はやくみせたい
三号75

 教理では、これを次のように説く。当時真之亮は9才で、いつもいちの本村からお屋敷へ通うていたが、教祖は家族同様に扱うて可愛がられた。まだ幼年でもあり、親神の思召しが皆の人々に徹底していたわけでもなく、嗣子として入籍したわけでもない。そこで、一日も早く中山家へ呼び、名実ともに道のうちを治める中心と定めるよう急き込まれた云々。

 しかし、八島秀雄氏は異説を説いている。後に真柱になる真之亮はこの時満7歳であることを思えば、真之亮の成長を待つというのには無理がある。これはこかんを呼び寄せようとの教祖の思いではなかったかと。当時こかんは、おはる亡き後の梶本家の後妻として迎えられていた。こかんが35才になって一人身であったことと、梶本家に残された子供の不憫さが立てあった結果、こかんが出向くこととなった。これには秀司夫婦の強い意向が働いていたとも考察されている。秀司夫妻との折り合いが悪く締め出されるようにお屋敷を後にしたとも云われている。

 教祖がこれに強く反対していた。こかんは「お道」取次人第一人者であり、飯降伊蔵と並ぶ最も忠実な教祖派の道人であった。こかんなき後のお屋敷内は、応法派が「政府の指導する神ながらの道」に準じた「お道」へと急速に変質を遂げつつあった。こういう背景から、教祖が、こかんを真柱として「お道」の束ね人になるようにと「早く帰っておいで」のせき込みなされたものと説いている。

(私論.私見)

 私は、八島説を踏襲しつつも、この時期教祖は、もっと一般的に「お道」の確たる引継ぎ人としての真柱の確立と道人の結束を促そうとしていたものと拝察させて頂く。それは、お道の発展とそれに伴う弾圧の予感とに対する教祖の断乎とした決意であり、緊急の指示であった、そういうものと拝察させていただく。

【教祖の「神の国日本」諭し】
 この頃、教祖は、唐人が干渉し、唐人が支配しようとしている「日本」に抗して、せかいろくぢに向けての元の理を教え、つとめの理の完成を、身をもってお説きになられていた。
 にほんみよ ちいさいよふに をもたれど
 ねがあらハれば をそれいるぞや
三号90
 いまゝでの 事ハなんにも ゆてくれな
 廿六日に はじめかけるで
三号113
 いまのみち 上のまゝやと をもている
 心ちがうで 神のまゝなり
三号120
 上たるハ せかいぢううを まゝにする
 神のざんねん これをしらんか
三号121
 これまでハ よろづせかいハ 上のまゝ
 もふこれからハ もんくかハるぞ
三号122
 今の道 埃だらけで あるからに
 ほふけを持ちて 掃除ふしたて
三号145
 後なるハ 道ハ広くで ごもくなし
 幾たりなどと 連れて通れよ
三号146
 二二の 二の五つに 話しかけ
 万づ因縁 皆な説き聞かす
三号147
 高山の 説教聞いて 真実の 
 神の話を 聞いて思案せ
三号148

【教祖の辻忠作への「かきもち」諭し】
 「みちのだい第33号「教祖特集号」28−29p」の辻芳子 (本部婦人) 「かたいかきもち」が遺されている。これを確認しておく。
 「『これを見て思案しなされ。そして、これを食べてみなされ』 と仰せられて、教祖は祖父忠作にお歌(おふでさき三首)に添えて『かきもち』を下さいました。 それは明治7年2.22日の夜、祖父が歯の痛みに耐えかねて、お願いに上がった時のことでした。
 二二の 二の五つに 話しかけ
 よろつ因縁 みな説き聞かす
三号147
 高山の 説教聞いて 真実の
  神の話を 聞いて思案せ
三号148
 日々に 神の話を 段々と                      
 聞いて楽しめ こうきなるぞや
三号149
   このお歌と『かきもち』をいただいたものの、祖父にしてみれば、歯の痛いところに、かたいかきもちを下さるのは、どういうわけであろう。食べられるはずがないのに……と一瞬、とまどいました。その頃の祖父忠作は、昼は多くお助けに廻り、または家業の畑仕事に精を出し、夜になるとお屋敷に伺い、教祖から数々のお話を聞かせて頂くのが慣わし(ならわし)でありました。教えを聞いて十年、その頃の祖父には、やはり様々の世情の話に心とらわれる事もあったのでしょう。心迷うこともあったことでしょう。

   教祖には、これらのお歌を通して、『神道(しんとう)や仏教の話に耳傾けることなく、親神様の仰せ下さる真実の教えに一条(ひとすじ)に進むように』と、祖父の信仰を促されたのでした。 『迷いを取れよ』との思召であったのでした。お言葉を静かに味わいつつ、いただいた『かきもち』を口にした時、不思議にも歯の痛みはすっきり去っていた、と言います。

 祖父は、お歌の理を噛みしめるとともに、『かきもち』のうまさを心から味わったことでした(でしょう)。そこには言い知れぬ、温かい親心がにじみ通っていたことでしょう。喜びにあふれる祖父の姿が眼に見えるようです。また祖父忠作は、こだわりのない、正直な、さっぱりした気性(きしょう)の人 でありましたが、反面、 頑固(がんこ)で、一途(いちず)なところがあったようです。 これは美点でもあるし、同時に欠点とも言えるでしょう。 『お前の心は、このかきもちのようにかたいよ』 。教祖は、そう仰せられているのではないでしょうか。 『頑固さを取り去って、神の言葉を噛みしめて素直に通れよ』 と仰せられているのでありましょう。 一途な気性であったからこそ、あの初期の、苦難の道をも通り切ることができたと言えますが、また反面、頑固ゆえに周囲の人々に多くの苦痛を与えていたこともあったかも知れません。『かきもち』に思いを託して、祖父の気性を戒(いまし)められた、教祖の親心を思うとき、謙虚になれ、謙虚になれと、私は自分に言い聞かせます」。
 諸井政一「正文遺韻」249頁。
 「これは、明治7年2月22日の夜の五つ時のお筆なり。 辻先生はいつも、多くは昼は家業をして、夜分に参拝せられることなるが、この夜、お宅にありて歯が痛み耐えられぬにつき、さっそく神様へお参りせんと、痛むを堪(こら)えて歩み来られしに、三島の村地へかかるとパッと痛みが治まりしゆえ、不思議にも、かつ有り難く思い、神様へお参りして、御教祖様(おやさま)にこの事を申し上げたるところ、 『今、これを書きました。これを見て思案しなされ。そして‘’かきもち‘’があるが、食べてみなされ』 と仰って、この御筆先(おふでさき)」と‘’かきもち‘’とを下されしと。実に不思議のことなり。

 辻様は、御筆先をとくと眺めて、やがて‘’かきもち‘’も食べ試(こころ)みしに、少しも歯に障ることなく、そのまま歯は痛まざりしという。思うに、このお筆をお付けあそばされたるより、辻様にも、身上よりお知らせ下されて、お引き寄せ下されたるなるか。『高山の説教聞いて』云々(うんぬん)というは、ご維新(明治維新)後、大いに神道を知らしむる御上(おかみ)の目的より、教導職という者を命じて、神道の説教や、演説を各所にてやるようになって、この頃が一番盛んの頃でありしゆえ、この事を仰せらるるならん。 そこで、 『神様のお話と、ひき比べて思案して、神様の真実なる話の理を悟って、楽しむよう』との事なりかし」。

【教祖の予言】
 4月、教祖は、お屋敷内がお手振りと節つけで賑わう中、お筆先四号で次のように予言している。
  この日柄(ひがら) いつの事やと をもている
 五月五日に 確か出てくる
四号3
 それよりも をかけはぢまる これを見よ
 よるひるしれん よふになるぞや
四号4

【神楽面のお出まし】

 教祖は、神楽面が揃うことをお待ちくだされた。神楽面とは、親神のご守護の理をそれぞれの働きに相応しく人格化させた面のことを云う。「神楽づとめ」の際に十人の「つとめ人衆」にこの面を被らせ、親神のご守護の働きを表現させる。実際には、つとめ人衆は甘露台を取り囲んで、お歌鳴物の調子に従い、親神の人間創造の働きをそのままに、その理を手振りに現わして勤めることになる。その効能は、「つとめ人衆」が「元の理」一つに溶け込んで、「一手一つ」に勤める時、親神の自由自在の守護があざやかに現われ、如何なる身上の悩みも事情の苦しみも取り除かれ、道人を勇ませ、「お道」の前途が開かれ、「世直し、世界の立て替え」を通じて陽気暮らしの世界を現出させる、というところにある。

 この経過を見ておこうと思う。稿本天理教教祖伝は次のように記している。

 「教祖は、かねて、かぐら面の製作を里方の兄前川杏助に依頼して居られた。杏助は生付き器用な人であったので、先ず粘土で型を作り、和紙を何枚も張り重ね、出来上りを待って粘土を取り出し、それを京都の塗師へ持って行って、漆をかけさせて完成した。月日の理を現わすものは、見事な一閑張の獅子面であった。こうして、お面が出来上って前川家に保管されて居た」。

 杏助がいつ頃製作を依頼されたのかは定かではないが、明治5年9月に80才で出直しているので、少なくともそれ以前には神楽面が出来上がっていたことになる。こうして時旬の到来を待って前川家に保管されていた。

 1874(明治7)年、6.18日(陰暦5.5日)、親神の思召しの日となり時旬立て合い、教祖は主だった信徒(秀司、飯降、仲田、辻等)を連れ立ち、依頼していた教祖の実家先である前川家へ神楽面をお受け取りに行かれた。教祖は、できあがった神楽面を見て、「見事にできました。これで陽気におつとめができます」と大層ご満足をなさると共に、前川家の庭先で初めて一同にお面を付けてお手振りを試みられた。教祖は、この時、「いろいろお手数を掛けましたが、お礼の印しに」と仰せられて、自ら書き写されたお筆先2冊に虫札10枚を差し出されている。

 この2冊はお筆先三号と四号であった。その表紙には共に、「明治7紀元より2534年戌6月18夜にくだされ候」とあり、更に三号には、「くにとこたちのお神楽、前川家に長々お預かり有り、その神楽むかひにみる候節に、直筆二冊持って外に虫札10枚と持参候て、庄屋敷中山より神様之人数御出くだされる。明治7年6月18日夜神楽本勤め」と記し、四号には「外冊、神様直筆、77才書」と記されている。

 なお、「明治7年6月18日夜神楽本勤め」とあることを踏まえれば、この時前川家の庭先で神楽つどめの最初となる本づとめが行われたと云うことになる。付言すれば、この「おぢば」を離れた所での「本づとめ」を教義的に認めるのが八島教理であり、本部教理はこれを認めず「ぢば一つの理」として対立していると云う現状がある。

 神楽面が揃ったということは、おつとめの体裁まで整備されたということを意味する。後は、甘露台の完成を待つばかりとなった。こうして、お屋敷では、毎月26日には、お面を付けて神楽、次に手踊りと、賑やかに本づとめを行い、毎日毎夜つとめの後で、お手振りの稽古が行なわれることとなった。


【「証拠守り」が渡され始める】
 この頃、親里へ帰った証拠として「証拠守り」が渡されるようになった。

【教祖のコレラ教理】
 明治7年、教祖は、「うしのさきみち」牛疫をコレラの前触れとしてお筆先で次のように予告している。
 今迄の 牛のさきみち をもてみよ
 上たるところ 皆な気をつけよ
四号18

【飯降夫婦に男の子授かる】
 陰暦12.26日、父伊蔵、母おさとの二男として飯降政甚(いぶりまさじん)が誕生している。 これより先、おさとが数え年5歳で亡くした長男政治郎のことを思い出しては悲しんでいる或る日、教祖が、「おさとさん、お前、死んだ政治郎のことをそう思うなら政治郎を返してやるで。今度できたら男やで。先に名前をつけておくで。木は柾ほどきれいなものはない、靭ほど堅いものはない。それゆえ政甚とつけておくで」と仰せられている。教祖に安産を申し上げると、「男やろうがな。先に名はつけてあるで」と仰せられお喜びになった。生まれたばかりの政甚を抱いておぢばへ参詣した伊蔵に、教祖は、「先の政治郎がまた帰ってきたのやで。それでこの子は元は留治郎であって、迎え取りになり政治郎と生まれて、その時、かしこねのみことの魂を持ってきたのやで」、「この子は前生は破れ衣服を着て長らく苦行したるによって、そのいんねんで元のぢばへつれ帰って楽遊びをさせるのや」とも仰せられた。
 飯降政甚は明治41年12月14日、本部員として登用され、書や歌に長けた才を発揮した。昭和12年(1937)年1月18日、64歳で出直している。(参考文献植田英蔵「新版飯降伊蔵伝」(善本社、平成7年)、天理教道友社編「天の定規 本席・飯降伊蔵の生涯」(平成9年))

 (道人の教勢、動勢)
 「1874(明治7)年の信者たち」は次の通りである。この頃より、教祖の噂が大和を越えて、河内や大阪にまで広がっていくこととなった。
 西浦弥平(31歳)
 1874(明治7)年、大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)の農業/西浦弥平(31歳)が長男・樽蔵のジフテリアが手引きでご守護頂き入信。上田嘉治郎(嘉助)、ナライト等を導く。本席より甘露台の授けを戴く。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「39、もっと結構」は次の通り。
 「明治7年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(当時2才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから匂いがかかった。お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎がお助けに来てくれ、不思議な助けを頂いた。弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。

 ある日のこと、お屋敷からもどって夜遅く就寝したところ、夜中に床下でコトコトと音がする。これは怪しいと思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、アッと言って闇の中へ逃げてしまった。後には大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、お蔭で、結講でございましたと教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、『ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか』と仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という」。

 1899(明治32).6.14日、出直し(享年56歳)。
 泉田籐吉()
 同年、大阪の泉田籐吉が入信。
 宮森与三郎(18歳)
 同年、宮森与三郎(18歳)が本人の左腕痛が手引きで入信。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「40、ここに居いや」は次の通り。
 「明治7年、岡田与之助(註、後の宮森与三郎)18才の時、腕の疼きが激しく、あちこちと医者を替えたが、一向に快方へ向かわず、昼も夜も夜具にもたれて苦しんでいた。それを見て、三輪へ嫁いでいた姉のワサが、一遍、庄屋敷へやらしてもろうたら、どうやと、匂いをかけてくれた。当人も、かねてから庄屋敷の生神様のことは聞いていたが、この時初めてお屋敷へ帰らせて頂いた。そして教祖にお目通りすると、『与之助さん、よう帰って来たなあ』と、お言葉を下された。そのお言葉を頂くと共に腕の疼きはピタッと治まった。その日一日はお屋敷で過ごし夜になって桧垣村へもどった。ところが、家へもどると又腕が疼き出したので、夜の明けるのを待ちかねてお屋敷へ帰らせて頂いた。すると不思議にも腕の疼きは治まった。こんな事が繰り返されて、三年間というものは、ほとんど毎日のようにお屋敷へ通った。そのうち、教祖が、『与之助さん、ここに居いや』と仰せ下されたので、仰せ通りお屋敷に寝泊まりさせて頂いて用事を手伝わせてもらった。そうしないと、腕の疼きが止まらなかったからである。こうして、与之助は、お屋敷の御用を勤めさせて頂くようになった」。
 増井りん(32歳)
 12.4日(陰暦10月26日)、河内国大県郡大県村(現・大阪府柏原市大県)の増井りん(32歳)が眼病の手引きで初参拝、入信。明治7年、教祖より「針の芯」のお許し・赤衣を頂く。教祖・本席のお守り役、別席取次人、息のさづけ。明治10年、長女とみゑ(1867年−1908年)が最初に三曲を教えられている。(稿本天理教教祖伝逸話篇36「定めた心」、44「雪の日」) 

 1939(昭和14).12.17日、出直し(享年97歳)。長男・幾太郎(1863年−1926年)は大縣支教会(現大教会)初代会長。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「36、増井りん/定めた心」が、増井りん入信時の様子を次のように語っている。
 「明治7年12月4日(陰暦10月26日)朝、増井りんは、起き上がろうとすると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日に悪化し、医者に診てもらうとソコヒとのことである。そこで驚いて医薬の手を尽したが、とうとう失明してしまった。夫になくなられてから2年後のことである。こうして、一家の者が非歎の涙にくれている時、年末年始の頃(陰暦11月下旬)、当時12才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった人から、『大和庄屋敷の天竜さんは何んでもよく救けて下さる。三日三夜の祈祷で救かる』という話を聞いて戻った。それで早速、親子が大和の方を向いて三日三夜お願いしたが、一向に効能はあらわれない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を召された教祖(おやさま)を拝み、取次の方々から教の理を承わり、その上、角目角目を書いてもらって戻って来た。これを幾太郎が読み、りんが聞き、『こうして、教の理を聞かせて頂いた上からは、自分の身上はどうなっても結構でございます。我が家の因縁果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも助け一条のため通らせて頂きます。今後、親子三人は、たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます』と、家族一同、堅い心定めをした。りんは言うに及ばず、幾太郎と8才のとみえも水行して、一家揃うて三日三夜のお願いに取りかかった。おぢばの方を向いて、なむてんりわうのみことと、繰り返し繰り返してお願いしたのである。

 やがて、まる三日目の夜明けが来た。火鉢の前でお願い中、端座し続けていたりんの横にいたとみえが、戸の隙間から差して来る光を見て、思わず、『あ、お母さん、夜が明けました』と言った。その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から一条の光がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸をくると、外は昔と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全快の御守護を頂いたのである。りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通してお礼を申し上げると、お言葉があった。『さあさぁ一夜の間に目が潰れたのやな。さあさぁ因縁、因縁。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれまするよう』と仰せ下された。その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、教祖(おやさま)からお言葉があった。『さあさぁ因縁の魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。悩めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。ようならんはずや。違う事しているもの。ようならなかったなあ。さあさぁ因縁、因縁。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。さあ、手をのけたら直ぐ見える。見えるであろう。さあさぁ勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めんめんの心次第やで』と仰せ下された。その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へ戻らせて頂こうと、仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、『遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやなあ。さあさぁその定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。さあさぁ着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤めるのやで。さあさぁ楽しめ、楽しめ、楽しめ』とお言葉を下された。りんはものも言えず、ただ感激の涙にくれた。時に、増井りん32歳であった」。註/仲田儀三郎、前名は佐右衞門。明治六年頃、亮・助・衞門廃止の時に、儀三郎と改名した。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「45、増井りん/心の皺を」の逸話は次の通り。
 「教祖は、一枚の紙も、反故やからとて粗末になさらず、おひねりの紙なども丁寧に皺を伸ばして、座布団の下に敷いて御用にお使いなされた。お話に、『皺だらけになった紙をそのまま置けば、落とし紙か鼻紙にするより仕様ないで。これを丁寧に皺を伸ばして置いたなら、何なりとも使われる。落とし紙や鼻紙になったら、もう一度引き上げることは出来ぬやろ。人のたすけもこの理やで。心の皺を、話の理で伸ばしてやるのやで。心も皺だらけになったら、落とし紙のようなものやろ。そこを落とさずに救けるのが、この道の理やで』と、お聞かせ下された。

 ある時、増井りんが、お側に来て、『お手許のお筆先を写さして頂きたい』とお願いすると、『紙があるかえ』と、お尋ね下されたので、丹波市へ行って買うて参りますと申し上げたところ、『そんな事していては遅うなるから、わしが括ってあげよう』と仰せられ、座布団の下から紙を出し、大きい小さいを構わず、墨のつかぬ紙をよりぬき、御自身でお綴じ下されて、『さあ、わしが読んでやるから、これへお書きよ』とて、お読み下された。りんは、筆を執って書かせて頂いたが、これはお筆先第五号で、今も大小不揃いの紙でお綴じ下されたまま保存させて頂いている、という」。
 高井猶吉(なおきち、13歳)
 河内国志紀郡南老原村(現・大阪府八尾市老原)の高井猶吉(なおきち、13歳)が姉なをの産後の患いから、その婿養子と初参拝、入信。明治17年、教祖より息のさづけ、赤衣のお下げ。明治20年のおつとめで、神楽手踊りをつとめる。

 1941(昭和16).11.21日、出直し(享年81歳)。泉支教会(現大教会)3代会長。

【この頃の逸話】
 西尾ナラギク
 稿本天理教教祖伝逸話篇「37、神妙に働いて下されますなあ」。
 「明治7年のこと。ある日、西尾ナラギクがお屋敷へ帰って来て、他の人々と一しょに教祖の御前に集まっていたが、やがて、人々が挨拶してかえろうとすると、教祖は、我が子こかんの名を呼んで、『これおまえ、何か用事がないかいな。この衆等はな、皆な用事出して上げたら、かいると言うてない。何か用事あるかえ』と仰っしゃった。すると、こかんは、沢山用事はございますなれど、遠慮して出しませなんだのやと答えた。その時、教祖は、『そんなら、出してお上げ』と仰っしゃったので、こかんは糸紡ぎの用事を出した。人々は、一生懸命紡いで紡錘に巻いていたが、やがてナラギクのところで一つ分出来上がった。すると、教祖がお越しになって、ナラギクの肩をポンとおたたきになり、その出来上がったのを、三度お頂きになり、『ナラギクさん(註、当時18才)、こんな時分には物のほしがる最中であるのに、あんたはまあ、若いのに神妙に働いて下されますなあ。この屋敷は用事さえする心なら、何んぼでも用事がありますで。用事さえしていれば、去のと思ても去なれぬ屋敷。せいだい働いて置きなされや。先になったら、難儀しようと思たとて難儀出来んのやで。今しっかり働いて置きなされや』と仰せになった」。註、西尾ナラギクは、明治9年結婚の時、教祖のお言葉を頂いて、おさめと改名、桝井おさめとなる。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「38、東山から」
 「明治7年頃、教祖は、よく、次のような歌を口ずさんでおられた、という。『東山からお出やる月はさんさ小車おすがよにいよさの水車でドン、ドン、ドン』節は、『高い山から』の節であった」。


 (この頃の国内社会事情)
 1.14日、右大臣・岩倉具視、赤坂で襲撃され負傷。
 1.17日、板垣退助ら、民選議院設立建白書を提出。
 2.1日、西郷の下野に応じて佐賀に帰郷していた江藤新平と島義勇(よしたけ)らが「佐賀の乱」を起した。2.6日、閣議、台湾征討を決議。3.29日、佐賀の乱の首謀者・江藤新平ら捕縛される。4.13日、前参議、司法卿・江藤新平、処刑される。5.22日、台湾出兵。陸軍中将・西郷従道ら、台湾に上陸。6.23日、黒田清隆、北海道開拓使次官に任命される。
 6月、征韓論問題で下野していた西郷が私学校を発足させた。西郷を慕って帰郷した青年たちの指導統御と練成を目的にして藩庁の旧厩跡(うまや)に設立された。学校は、銃隊学校や砲隊学校に分かれ、生徒数はざっと800人。やがて本校だけででは収容できなくなり、鹿児島市内に分校を設け、県内にも及び始めた。西郷人気の凄まじさであった。明治維新のその後に不満を覚える者たちが続々結集していった。7.3日、三宅島噴火。12.3日、西郷従道ら、台湾から撤兵。
 この年、明六雑誌創刊(1874‐1875)。西周、形式論理学に関する解説書『致知啓蒙』出版。カント哲学流行。マルクスを紹介した福田徳三(‐1930)出生。京橋、銀座にガス灯が点火。
 (田中正造履歴)
 1874(明治7)年、34歳の時、疑いがはれ小中村に帰り、商売と勉学に励む。この頃より、自由民権者として歩みだす。

 (宗教界の動き)
 1874(明治7).6.7日、教部省達第22号別紙教部省乙第33号で、「祈祷禁厭をもって医薬を妨げる者を取り締まる」(「禁厭、祈祷等を行ない、医療を妨げ、湯薬を止めることの禁止」)。
 1874(明治7)年、修験道中心寺院の金峯山寺が廃寺に追い込まれた。熊野、羽黒、白山、立山、英彦山などの修験霊山は神社化させられた。修験者や僧侶は強制的に還俗させられ農民や氏神鎮守の神職となった。本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。富士講は扶桑教、実行教に、御岳講は御岳教と云うように教派神道として公認された。(その背景には、国際ユダ邪にとって、修験道が「文明開化」の流れにもっともなじまない抵抗勢力であったことによるものと思われる)
 奈良中教院設置。

 (この頃の対外事情)

 (この頃の海外事情)





(私論.私見)