第54部 1872年 75才 「別火別鍋」宣言、おはるの出直し
明治5年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【教祖が断食】

 明治5年、6月の始め頃から、教祖は75日間にわたって断食を始められた。この間、穀気を一切断って火で炊いたものは何一つ召し上がらず、ただ水と少量の味醂と生や際とを召し上がるだけであった。


【教祖が松尾市兵衛宅へお助けに出向く】

 7月、断食を始められてから30余日たった頃、教祖は、この時75日の断食であったにも関わらず、若井村(奈良県生駒郡平群村)の松尾市平衛の長男の足に腫れ物ができたとのことで、約4里の道のりを歩いて松尾宅へお助けに出掛けられた。いとも軽やかに早く歩かれるので、お供の者はついていきかねるほどであった。次のように伝えられている。

 「教祖は明治5年御年75才の時に、75日の断食をなさっているのです。この断食が30日以上も続きました時に、4里もある遠方からお助けを頼みに来たのであります。我々もし断食30日以上になった時に、お助けを頼みに来られたらどうするか、ということを、私はいつも思うのですが、教祖は早速いそいそとお出掛けになったのであります。(中略)教祖は早速お出掛けになって、いそいそと歩いて西の方ですね、行く先が竜田の一寸北ですから、二階堂へんまでお出でになった。その時に道傍に駕籠屋さんが居りましたので、お供の人が駕籠屋さんに頼み、教祖の所へ連れてまいりまして、どうかこの駕籠にお乗り下さいませと頼んだ時に、教祖は、『駕籠は要らぬ、さあ歩いて行きましょう』と、こう仰せになってサッササッサと歩いて行かれた。まだ三十代のお供が息せき切ってやっと付いて行けるという程の早さであったというのです。そして、歩きながらお仕込み下されましたお言葉に、『人は道を歩いてしんどいとか疲れたとか言うが、それは親神様に歩かせて頂いているという事を思わず、自分で歩こうと思うからや。親神様に歩かせて頂いているということを思うてさえいれば、何里歩いても疲れはせぬ』と、かようにお仕込み下されたのでございます。そうして四里の道をいそいそと歩いて竜田を通って東若井村へ御到着になった」(「歩くということ 」、昭和四十三年四月号みちのTも「原典の本義」上田嘉成より)。

 教祖は滞在中も断食を続けられていた。滞在中、夫婦に様々な諭しをされている。仏壇を移動して、神様祀りもされた。この時、食事を勧めてくれる人々に、次のようなお言葉を遺されている。
 「わしは今、神様の思召しによって食を断っているのや。お腹は、いつも一杯や」、「おまえら、わしが勝手に食べぬように思うけれど、そうやないで。食べられぬのやで」(逸話篇25)。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「25、七十五日の断食」(昭和51年1月、天理教教会本部発行)に次のように記されている。
 明治5年、教祖75才の時、75日の断食の最中に、竜田の北にある東若井村の松尾市兵衞の宅へお助けに赴かれた時のこと。教祖はお屋敷を御出発の時に、小さい盃に三杯の味醂と、生の茄子の輪切り三箇を、召し上がってから「参りましょう」と仰せられた。その時、駕篭でお越し願いますと申し上げると、「ためしやで」と仰せられ、いとも足取り軽く歩まれた。かくて、松尾の家へ到着されると、涙を流さんばかりに喜んだ市兵衞夫婦は、断食中4里の道のりを歩いてお越し下された教祖のお疲れを思い、心からなる御馳走を拵えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、「えらい御馳走やな。おおきに。その心だけ食べて置くで。もうこれで満腹や。さあ早ようこれをお下げ下され。その代わり水と塩を持って来て置いて下され」と仰せになった。市兵衞の妻ハルが、御馳走が気に入らないので仰せになるのかと思って、お尋ねすると、「どれもこれも、わしの好きなものばかりや。とてもおいしそうに出来ている」と仰せになった。それで、ハルは、何一つ手も付けて頂けず、水と塩とだけ出せと仰せられても、出来ませんと申し上げると、「わしは、今、神様の思召しによって食を断っているのや。お腹はいつも一杯や。お気持はよう分かる。そしたら、どうや。あんたが箸を持って、わしに食べさしてくれんか」と仰せられた。それで、ハルは、喜んでお膳を前に進め、お茶碗に御飯を入れ、それでは、お上がり下さいませと申し上げてから、箸に御飯を載せて、待っておられる教祖の方へ差し出そうとしたところ、どうした事か、膝がガクガクと揺れて、箸の上の御飯と茶碗を、一の膳の上に落としてしまった。ハルは、平身低頭お詫び申し上げて、ニコニコと微笑をたたえて見ておられる教祖の御前から、膳部を引き下げ、再び調えて教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、「御苦労さんな事や。また食べさせてくれはるのかいな」と、仰せになって、口をお開けになった。そこで、ハルが、再び茶碗を持ち、箸に御飯を載せて、お口の方へ持って行こうとしたところ、右手の、親指と人差指が、痛いような痙攣を起こして、箸と御飯を、教祖のお膝の上に落としてしまった。ハルは、全く身の縮む思いで、重ねての粗相をお詫び申し上げると、教祖は、「あんたのお心は有難いが、何遍しても同じ事や。神様が、お止めになったのや。さあさぁ早く、膳部を皆お下げ下され」と、いたわりのお言葉を下された。

 こうして御滞在がつづいたが、この様子が伝わって、五日目頃、お屋敷から、こかん、飯降、櫟枝の与平の三人が迎えに来た。その時さらに、こかんから、食事を召し上がるようすすめると、教祖は、「おまえら、わしが勝手に食べぬように思うけれど、そうやないで。食べられぬのやで。そんなら、おまえ食べさせて見なされ」と、仰せられたので、こかんが、食べて頂こうとすると、箸が、跳んで行くように上へつり上がってしまったので、皆々成る程と感じ入った。こうして、断食は、ついにお帰りの日までつづいた。お帰りの時には、秀司が迎えに来て、市兵衞もお伴して、平等寺村の小東の家から、駕篭を借りて来て竜田までお召し願うたがその時、「目眩いがする」と仰せられたので、それからは、仰せのままにお歩き頂いた。「親神様が『駕篭に乗るのやないで。歩け』と仰せになった」とお聞かせ下された」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「26.麻と絹と木綿の話」(昭和51年1月、天理教教会本部発行)に次のように記されている。
 「明治5年、教祖が、松尾の家に御滞在中のことである。御居間へ朝の御挨拶に伺うた市兵衛、ハルの夫婦に、教祖は、『あんた達二人とも、わしの前へ来る時は、いつも羽織を着ているが、今日からは、普段着のままにしなされ。そのほうが、あんた達も気楽でええやろ』と仰せになり、二人が恐縮して頭を下げると、『今日は、麻と絹と木綿の話をしよう』と仰せになって、『麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。3年も着ると色が来る。色が着てしもうたら、値打ちはそれまでや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反故と一しょや。絹は、羽織にしても、着物にしても、上品でええなあ。買う時は、高いけど、誰でも皆なほしいもんや。でも、絹のような人になったら、あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもならん。そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、夏は汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところまで使えるのが木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで』とお仕込み下された。以後、市兵衛夫婦は、心に木綿の二字をを刻み込み、生涯、木綿以外のものは身につけなかった、という」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「27、目出度い日」(昭和51年1月、天理教教会本部発行)に次のように記されている。
 「明治5年7月、教祖が、松尾市兵衞の家へお出かけ下されて、御滞在中の十日目の朝、お部屋へ、市兵衞夫婦が御挨拶に伺うと、『神様をお祀りする気はないかえ』と、お言葉があった。それで、市兵衞が、『祀らせて頂きますが、どこへ祀らせて頂けば宜しうございましょうか』と伺うと、『あそこがええ』と仰せになって、指さされたのが、仏壇のある場所であった。余りに突然のことではあり、そこが、先祖代々の仏間である事を思う時、市兵衞夫婦は、全く青天に霹靂を聞く思いがした。が、互いに顔を見合わせて、肯き合うと、市兵衞は、『では、この仏壇は、どこへ動かせば、宜しいのでございましょうか』と伺うた。すると教祖は、『先祖は、おこりも反対もしやせん。そちらの部屋の、同じような場所へ移させてもらいや』との仰せである。そちらの部屋とは旧客間のことである。早速と大工を呼んで、教祖の仰せのまにまに神床を設計し、仏壇の移転場所も用意して、僧侶の大反対は受けたが、無理矢理、念仏を上げてもらって、その夜、仏壇の移転を無事完了した。そして、次の日から、大工四名で神床の工事に取りかかった。教祖に、『早ようせんと間に合わんがな』とお急ぎ頂いて、出来上がったのは12日目の夕方であった。翌朝、夫婦が、教祖のお部屋へ御挨拶に上がると、教祖はおいでにならず、神床の部屋へ行ってみると、教祖は、新しく出来た神床の前に、ジッとお坐りになっていた。そして、『ようしたな。これでよい、これでよい』と仰せ下された。それから、長男楢蔵の病室へお越しになり、身動きも出来ない楢蔵の枕もとに、お坐りになり、『頭が痒いやろな』と、仰せになって、御自分の櫛をとって、楢蔵の髪をゆっくりお梳き下された。そして、御自分の部屋へおかえりになった時、『今日は吉い日やな。目出度い日や。神様を祀る日やからな』と言って、ニッコリとお笑いになった。夫婦が、どうしてお祀りするのかしら、と思っていると玄関で人の声がした。ハルが出てみると、秀司が、そこに立っていた。早速、座敷へ案内すると、教祖は、『神様を祀る段取りをされたから、御幣を造らせてもらい』とお命じになり、やがて、御幣が出来上がると、御みずからの手で、神床へ運んで、御祈念下された。『今日から、ここにも神様がおいでになるのやで。目出度いな、ほんとに目出度い』、と心からお喜び下され、『直ぐ帰る』と仰せになって、お屋敷へお帰りになった。仏壇は、後日、すっきりと取り片付けた」。

 10余日間の滞在中も、穀気は一切召し上がらなかったのに、お元気は少しも衰えず、この75日の断食の後、みずを満たした三斗樽を、いとも楽々と持ちはこばれた。信者に手を握らせて力試しをされ、「豪敵あらば験して見よ。神の方には倍の力」と仰せになられたと伝えられている。

【おはるの出直し】
 6.18日、いちの本の梶本家の梶本惣治郎に嫁いでいたおはる(教祖の三女、初代真柱・中山眞之亮の実母)は、教祖から最初にをびや許しを頂いた人であるが、5人目の子供楢治郎を産んだ直後に急死した(亨年42歳)。古老の昔話(諸井政一手記「改訂正文遺韻」)で、「春子様御死去、産むなり、死ぬなりやったと(辻先生に承る)」と伝えられている。

(私論.私見) 「おはるの出直し」考

 教理では、おはるの出直しに言及しない。しかしこれは許されない。「をびやほうそ道明けの理」から云えば、おはるはその試しの台となった人であり、そのおはるが「をびや」で亡くなったことは、教祖の「をびや助け」能力に対して重大な疑念を生むと云わざるを得ない。この問題に対する教祖の言及がないので判断し難いが、教祖の「をびや助け」の限界的一面を物語っているとすべきではなかろうか。但し、このことを踏まえても、教祖の教祖的偉大さを損なうものではないと、れんだいこは拝する。

【おはるの出直し時の教祖のお言葉】
 切り口上・捨て言葉について」(「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社刊、77−79pより)。
 「教祖の三女である梶本お春さんが、出直された時のお話し。夫の惣治郎さんは、”仏の惣治郎”とあだ名された程の正直者で、縁談の際、教祖より『惣治郎ならば、見合いも何もなくとも心を見てやる』と言われた程の方であります。(前略)それから一年たちますと、櫟本、梶本様へ、御嫁入りになりましたお春様が御死去致されましてござります(註・明治5年6.18日出直)。御年はまだ42の分別盛り、御夫婦の仲も至ってむつまじゅう御暮しになって、御子供もすべて六名おあげなされたのに、最後の男のお子をお生み遊ばされて、その産後がもつれまして、遂にそのまま御長眠なされましたものですから、夫惣治郎様のお嘆きは一通りやござりません。御教祖様も、御実子の事でありますから、お越し遊ばされましたが、更に御くやみもあらせられずして、夫惣治郎様のお嘆きなされるを見そなはして、仰しゃるには、『神さんがな、望みどおりにしてやったのやで、嘆くことあるまいがな。と、仰しゃるで』と、御言葉をくりかえして御聞かせになりましたそうでござります。実に恐れ入った事ではござりませんか。これはどういう訳かと申しますれば、この前年八月十三日に、櫟本の祭礼がござりまして、親族を招いて、酒盛りを致されました時に、聊かの事で、客に不体裁に成りましたところから、御夫婦で一寸、どうやこうやと物言いを致されましたが、何分一ぱい機嫌の時ですから、惣治郎様が言い過ぎましたのであります。『鍛冶屋ごときが御地場の娘さんとは性が合わん。勿体ない。いんで呉れ』と仰った。それから、その時、辻先生も御親族の事で招かれて往っていましたから、中へ入って、まあ/\と言うて、双方をなだめて後へ理の残らぬ様に治め成されましたそうでござりますが、是が即ち切り口上、捨て言葉と云うものでござります。神様のお話に『愛想尽かしや、捨て言葉、切り口上は、おくびにも出すやないで』と御いましめ下されますは、ここの事でござります。”いんでくれ”と仰ったお言葉が、はしなくも神様の御受け取りなさるところとなって、神様の方へ引き取られてしもうて、後悔しても間に合わん、望み通りにしてやったのやでと、恐れ入ったお言葉を頂かにゃならん様になりましたのでござります」。

【こかんの苦悩】
 梶本家には三男女が残され、不憫に思ったこかんが手伝いに行くうちに、惣次郎にも見初められ、子供達にも慕われ「ぜひ後添いに」と望まれるようになる。神一条の取次ぎとして見定めていた教祖が頑としてこれを認めず、こかんは理と情の板挟みになり苦悩が始まることになる。最終的に教祖が「三年間だけ貸してやる」(「それでは三年だけやで。三年の後には、赤き着物を着て、上段の間へ坐って、人に拝まれるのやで」)と同意し、こかんは梶本惣次郎の後添いに入った。こかんは、「もしも、そんな事になる様やったら、どうぞ止めて下されや。わしゃ、そんな事かなわぬさかいに」と人々に頼んだと伝えられている。結果的に、こかんは三年過ぎても教祖の許に帰らなかった。

 「稿本教祖伝」は次のように記している。
 「魂のいんねんにより、親神は、こかんを、いついつまでも元の屋敷に置いて、神一条の任(つとめ)に就かせようと思召しされていた。しかし、人間の目から見れば、一人の女性である。人々が縁(かた)づくようにと勧めたのも無理はなかった。こかんは、この理と情との間に悩んだ」。

 (以下、「小寒はなぜ出直したのか?」その他参照)

 諸井政一の「正文遺韻」は次のように記している。(「正文遺韻」(山名大教会版)P120、「改訂正文遺韻」(復刻版)P109)
 「明治八年九月二七日、若き神さんと呼び奉りたる小寒様、御死去被遊。是より前、明治五年姉春子様、赤児をのこしてみまかりし故、その赤児を養育する為に、来てくれとの頼みにより、御教祖様、御許しあらざるに、小寒様は無理にもゆきたいと被仰、教祖様の御止めに成るを聞かざりしかば、(教祖が、梶本家に行くことになったこかんに向かって)『それでは三年だけやで。三年の後には赤い着物を着て、上段の間に座って、人に拝まれるようになるのやで』と御咄あり。こかんは、『もしもそんなことになるようやったら、どうぞ止めてくだされや。わしゃ、そんなことかなわぬさかいに』と人々に頼んでいった云々」。

 増野鼓雪全集22巻の「小寒子略伝」23P(1929(昭和4)年)の「小寒子略伝」は次のように記している。
 「小寒殿が姉春子殿の死を、深く痛み給うたのは当然であるが、それにも増して姉の遺子が、行く末如何になり行くやと、同情の涙に暮れ給うた。その時梶本家からは、小寒殿を後妻として迎へたき旨申し込まれた。その頃中山家では秀司殿の内室松枝殿が、一家の主婦として万事処理してをられた。従前主婦の地位にあった小寒殿は、最早中山家としては隠居同様の身である。唯御教祖に奉仕して、其の世話をせらるゝのみが、為すべき凡てであった。梶本家からの申込に対して、御教祖は『小寒はこの尾敷から出るのやない出すのやない』と仰せられて、極力反対し給うたのである。

 しかし小寒殿の心は右の様な事情から次第に梶本家へ傾いて行った。御教祖は、最早小寒殿の心を引留むる術なしと観て、遂に『三年の間貸す』と仰せになって、梶本家へ遣られたのである。梶本家に於ける小寒様は、神棚に向って時々扇の伺をなされたり、山伏等の質問に答へられたり、時には神懸もあったとの事であり、その時の扇は今尚梶本家に保存せられてゐる。

 三年の月日は夢の如く過ぎた。御教祖は一日も早く小寒殿の帰られるのを待たせ給うた。けれども既に妊娠してをられた小寒殿は、中山家へ帰るのを好まれず、まして梶本家では帰す心は更になかったのである。其所(そこ)に神意と人意との大きい矛盾がある。見許し聞逃してをられた神様も、遂に心得違いを諭されるべき時が来た。小寒殿は明治八年六月末に至って、流産せられてから病床に親しむ身となられた」。

 大平隆平編「評注おふでさき」11号13の「註」(大正5年)は次のように記している。
 「小寒子嬢六月よりお障りを受く。これは神の止めるのを無理に梶本家へ子供の世話に行き遂に惣次郎(春子の夫)氏と関係して妊娠した。その為め妊娠八ケ月目で中産して遂にお引き取りになつた。梶本家へ行く時教祖は『貸すことの出来ない身体であるけれども今から三年、年を切つて貸してやる。三年経つと赤衣を着せて生き神として祀ってやる』と仰せになつた。その時小寒子嬢はお婆様は面白いことを云うと云つて笑つて行つたが果して三年目にその通りに死骸に赤衣を着せて祀られる様になつた。それで『月日より 一度云うて置いたこと 何時になりても 違うことなし』と仰せになつたのである」。

【教祖が「別火別鍋」宣言】

 9月、断食を終えられて間もない頃、「別火別鍋」と仰せられた。「別火別鍋」は、教祖の確定的な神格化であったと拝察される。今やみきは、自ら神であることを姿形においても明確にさせ、道人に納得させようとされたことになる。


 (道人の教勢、動勢)
 「1872(明治5)年の信者たち」は次の通りである。
 4.19日、伊蔵の妻おさとが次女まさゑを出産(伊蔵夫婦が次女授かる)。
 教祖の兄で初めてかぐら面を制作した前川杏介が出直し(享年80歳)。

【この頃の逸話】
 この頃、山中忠七が、教祖に、「道も高山につけば、一段と結構になりましょう」と申し上げると、教祖は次のように仰せられた。
 「上から道をつけては、下の者が寄りつけるか。下から道をつけたら、上の者も下の者も皆なつきよいやろう」。
 7.11日、伊蔵の長男政治郎(5才)がふとした事故からなくなった(伊蔵の長男政治郎出直す)。教祖は、悲しみに沈むおさとに対し次のようなお話をされている。
 「おさとさん、お前、死んだ政治郎のことをそんなに思うなら、政治郎を返してやるで。今度できたら男やで。先に名前をつけておくで。木では柾ほど綺麗なものはない。木では靭(じん)ほど堅いものはない。それゆえ政甚と付けておくで」。

 (当時の国内社会事情)
 1872(明治5).1月、梓、巫女、市子、憑き、祈祷、狐下げ等の所業禁止。
 明治政府が、修験宗の廃止の布告を地方官宛てに通達した。本山派、当山派、羽黒派の修験宗教派は、これによって解体を余儀なくされた。修験は天台宗、真言宗の僧侶へと所属変更の措置を強いられた。これについて様々な理由付けがされているが正鵠を射たものがない。これに先立つ天社神道(陰陽道)廃止との絡みのラインで考察するのが道筋であろう。
 2.15日、土地の永代売買禁止を解禁。
 2月、福沢諭吉が「学問のすすめ」発刊。
 「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの者を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明らかなり。『実語教』に、『人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり』とあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。また世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い心配する仕事はむつかしくして、手足を用いる力役はやすし。故に、医学、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし。身分重くして貴ければ自ずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとに由ってその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺に云く、『天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなり』と。されば前にも言える通り、人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。・・されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。地理学とは日本国中は勿論世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見てその働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行いを修め人に交わりこの世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取調べ、大抵の事は日本の仮名にて用を便じ、或いは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事に就きその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商おのおのその分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり」。
 ミル著『自由之理』。
 2月、キリシタン解禁。
 3.14日、神祇省が廃止され教部省が設置される。4.25日、教導職が設置される。
 4.28日、三条の教憲(三条教則)を定む。教導職に示された。
 4.25日、肉食妻帯帯蓄髪勝手令。
 5.15日、太政官からこれまでの庄屋、名主、年寄の制度を廃止し、代わりに大小区制の戸長を置くことが発令された。。
 5.29日、東京師範学校が開校。
 6.21日、山内容堂、没。
 7.19日、西郷隆盛、陸軍元帥・近衛都督になる。
 7月、地租改正(地価100分の3)。
 8.17日、僧官廃止。
 9.5日(陰暦8月)、文部省が国民皆学の学制頒布。
 9月、大教院設置。
 9.13日、東京の新橋−横浜間を汽車が開通する。
 9.14日、琉球王国を琉球藩として、国王・尚泰を華族にする。
 9.14日、僧尼の苗字の令。
 10.2日、年季奉公を禁止。
 10.4日、官営・富岡製糸場が開業。
 10.23日、対朝鮮政策を廻って西郷全権交渉論(征韓論と詐称されている)に敗れた西郷が下野した。西郷の下野は新政府に勤めていた鹿児島県出身者に大きな衝撃を与え、西郷に殉じて職を辞め帰郷するものが続出した。陸軍少将の桐野利秋、篠原以下300人が近衛兵を辞めた他、司法省警保局でも300人ほどが辞表を提出、帰郷した。板垣退助や江藤新平らも下野した。
 11月、太陽暦が採用され、12月3日を以って、明治6年1月1日と定められた。
 11.28日、徴兵の詔(徴兵令)が出される。
 11.29日、山城屋和助、官金の不正流用の露見を恐れて陸軍省内で自刃。
 12.3日、太陽暦が採用され、12月3日を以て明治6年1月1日と定められた。これにより、日付は1872(明治5)年12.2日までは旧暦、12.3日以降が新暦表示となる。新旧表示分け記述されることもある。
 この年、江藤新平の尽力で、人身売買禁止令を発布。
 この年、関門海峡に海底電信線が敷設される。

 (宗教界の動き)
 1872(明治5).1月、梓、巫女、市子、憑き、祈祷、狐下げ等の所業禁止。
 2.17日、金光教教祖川手文次郎が、小田県大谷村の戸長から神前の撤去を命じられている。
 官社以下の神官の給録を制定(明治5年2月25日太政官第58号「神官給禄定額ヲ定ム」)。
 6月、本門仏立講弾圧。
 9.15日、神仏分離令に続いて太政官布達第273号で「山伏の道、修験道は今後いっさい廃止する」とする修験道廃止令が発布された。
 「修験宗ノ儀自今廃止サレ本山当山羽黒派トモ従来ノ本寺所轄ノママ天台真言ノ両本宗ヘ帰入サレ、仰セツケ候条各地方官ニ於イテコノ旨相心得管内寺院へ相達スベシ候事。但シ、将来営生ノ目的等之ヲ以テ、帰俗出願ノ向キハ始末具状ノ上、教部省ニ申シ出スベク候ノ事」。

 これにより、本山派修験、羽黒修験は天台宗に、当山派修験は真言宗に所属するものとした。「修験道廃止令」以降、公には山伏は存在しなくなり、真言宗、天台宗のいずれかに属するか、神官となるか、帰農するしかなくなった。さらに追い打ちをかけるように明治政府は、山伏の収入源であった行為を禁止する命令を相次いで出している。これにより、修験道は一宗としての活動が禁止された。明治政府は、このように山伏修験道を弾圧した。これにより凡そ17万人とも18万人とも云われる山伏たちは帰俗を促され、あるいは天台、真言の僧侶、神職に転ずることを余儀なくされた。修験道につき「別章【山伏修験道考】」で確認する。
 9.18日、太政官布達の三日後、次のような太政官布告が出されている。
 「法相宗華厳宗律宗兼学宗融通念仏宗ノ五宗各派並ビニソノ他諸宗ノ内総本山へ所轄サレ、仰セニ付候条各府県ニ於イテコノ旨相心得管内寺院ヘ相達シ願書取纏メ所轄の処分教部省へ伺イ出スベキ事」。
 神祇官が担った宣教と祭祀が二つに分けられ、宣教事務は教部省(明治5〜 10 年)が、 祭祀事務は太政官式部寮が管轄するようになる。 宣教事務を管轄することになった教部省は、明治5年に教導職制を創設する。それは、「対キリスト教教化を目的」として創設されたもので、 (4) 教導職は無給の国家官吏 であり、その公務は「三条の教則」、「十一兼題」にそって各地で説教を行い国民教化にあたることとなった。

 神道の宣布強化のため大教院設置される(神祇省廃止、教部省設置。大教院設置)。宣教使を廃し、教導職の制度を定めて宣教体制を確立。天皇を「奉戴」することを命じた「三条ノ教則」(残り2か条は敬神愛国、天理人道を明らかにする)を国民教導の中心とした。教義に関する著書出版免許願は教部省に提出させることとした。
 この年、プロテスタント史上、最初の受洗者12名が洗礼を受ける。
 明治5年頃には明治初頭の神道国教化政策が破綻し、教部省が廃止された頃には平田派は既に政府内から駆逐されており、その影響力を失くしていた。

 (この頃の対外事情)

 (この頃の海外事情)
 





(私論.私見)