第54部 | 1872年 | 75才 | 「別火別鍋」宣言、おはるの出直し |
明治5年 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「別火別鍋宣言、おはるの出直し」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【教祖が断食】 |
明治5年、6月の始め頃から、教祖は75日間にわたって断食を始められた。この間、穀気を一切断って火で炊いたものは何一つ召し上がらず、ただ水と少量の味醂と生や際とを召し上がるだけであった。 |
【教祖が松尾市兵衛宅へお助けに出向く】 | ||
7月、断食を始められてから30余日たった頃、教祖は、この時75日の断食であったにも関わらず、若井村(奈良県生駒郡平群村)の松尾市平衛の長男の足に腫れ物ができたとのことで、約4里の道のりを歩いて松尾宅へお助けに出掛けられた。いとも軽やかに早く歩かれるので、お供の者はついていきかねるほどであった。次のように伝えられている。
教祖は滞在中も断食を続けられていた。滞在中、夫婦に様々な諭しをされている。仏壇を移動して、神様祀りもされた。この時、食事を勧めてくれる人々に、次のようなお言葉を遺されている。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「25、七十五日の断食」(昭和51年1月、天理教教会本部発行)に次のように記されている。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「26.麻と絹と木綿の話」(昭和51年1月、天理教教会本部発行)に次のように記されている。
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稿本天理教教祖伝逸話篇「27、目出度い日」(昭和51年1月、天理教教会本部発行)に次のように記されている。
10余日間の滞在中も、穀気は一切召し上がらなかったのに、お元気は少しも衰えず、この75日の断食の後、みずを満たした三斗樽を、いとも楽々と持ちはこばれた。信者に手を握らせて力試しをされ、「豪敵あらば験して見よ。神の方には倍の力」と仰せになられたと伝えられている。 |
【おはるの出直し】 |
6.18日、いちの本の梶本家の梶本惣治郎に嫁いでいたおはる(教祖の三女、初代真柱・中山眞之亮の実母)は、教祖から最初にをびや許しを頂いた人であるが、5人目の子供楢治郎を産んだ直後に急死した(亨年42歳)。古老の昔話(諸井政一手記「改訂正文遺韻」)で、「春子様御死去、産むなり、死ぬなりやったと(辻先生に承る)」と伝えられている。 |
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教理では、おはるの出直しに言及しない。しかしこれは許されない。「をびやほうそ道明けの理」から云えば、おはるはその試しの台となった人であり、そのおはるが「をびや」で亡くなったことは、教祖の「をびや助け」能力に対して重大な疑念を生むと云わざるを得ない。この問題に対する教祖の言及がないので判断し難いが、教祖の「をびや助け」の限界的一面を物語っているとすべきではなかろうか。但し、このことを踏まえても、教祖の教祖的偉大さを損なうものではないと、れんだいこは拝する。 |
【おはるの出直し時の教祖のお言葉】 | |
「切り口上・捨て言葉について」(「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社刊、77−79pより)。
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【こかんの苦悩】 | ||||
梶本家には三男女が残され、不憫に思ったこかんが手伝いに行くうちに、惣次郎にも見初められ、子供達にも慕われ「ぜひ後添いに」と望まれるようになる。神一条の取次ぎとして見定めていた教祖が頑としてこれを認めず、こかんは理と情の板挟みになり苦悩が始まることになる。最終的に教祖が「三年間だけ貸してやる」(「それでは三年だけやで。三年の後には、赤き着物を着て、上段の間へ坐って、人に拝まれるのやで」)と同意し、こかんは梶本惣次郎の後添いに入った。こかんは、「もしも、そんな事になる様やったら、どうぞ止めて下されや。わしゃ、そんな事かなわぬさかいに」と人々に頼んだと伝えられている。結果的に、こかんは三年過ぎても教祖の許に帰らなかった。 「稿本教祖伝」は次のように記している。
(以下、「小寒はなぜ出直したのか?」その他参照) 諸井政一の「正文遺韻」は次のように記している。(「正文遺韻」(山名大教会版)P120、「改訂正文遺韻」(復刻版)P109)
増野鼓雪全集22巻の「小寒子略伝」23P(1929(昭和4)年)の「小寒子略伝」は次のように記している。
大平隆平編「評注おふでさき」11号13の「註」(大正5年)は次のように記している。
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【教祖が「別火別鍋」宣言】 |
9月、断食を終えられて間もない頃、「別火別鍋」と仰せられた。「別火別鍋」は、教祖の確定的な神格化であったと拝察される。今やみきは、自ら神であることを姿形においても明確にさせ、道人に納得させようとされたことになる。 |
(道人の教勢、動勢) |
「1872(明治5)年の信者たち」は次の通りである。 |
4.19日、伊蔵の妻おさとが次女まさゑを出産(伊蔵夫婦が次女授かる)。 |
教祖の兄で初めてかぐら面を制作した前川杏介が出直し(享年80歳)。 |
【この頃の逸話】 | |
この頃、山中忠七が、教祖に、「道も高山につけば、一段と結構になりましょう」と申し上げると、教祖は次のように仰せられた。
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7.11日、伊蔵の長男政治郎(5才)がふとした事故からなくなった(伊蔵の長男政治郎出直す)。教祖は、悲しみに沈むおさとに対し次のようなお話をされている。
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(当時の国内社会事情) | |
1872(明治5).1月、梓、巫女、市子、憑き、祈祷、狐下げ等の所業禁止。 | |
明治政府が、修験宗の廃止の布告を地方官宛てに通達した。本山派、当山派、羽黒派の修験宗教派は、これによって解体を余儀なくされた。修験は天台宗、真言宗の僧侶へと所属変更の措置を強いられた。これについて様々な理由付けがされているが正鵠を射たものがない。これに先立つ天社神道(陰陽道)廃止との絡みのラインで考察するのが道筋であろう。 | |
2.15日、土地の永代売買禁止を解禁。 | |
2月、福沢諭吉が「学問のすすめ」発刊。
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ミル著『自由之理』。 | |
2月、キリシタン解禁。 | |
3.14日、神祇省が廃止され教部省が設置される。4.25日、教導職が設置される。 | |
4.28日、三条の教憲(三条教則)を定む。教導職に示された。 | |
4.25日、肉食妻帯帯蓄髪勝手令。 | |
5.15日、太政官からこれまでの庄屋、名主、年寄の制度を廃止し、代わりに大小区制の戸長を置くことが発令された。。 | |
5.29日、東京師範学校が開校。 | |
6.21日、山内容堂、没。 | |
7.19日、西郷隆盛、陸軍元帥・近衛都督になる。 | |
7月、地租改正(地価100分の3)。 | |
8.17日、僧官廃止。 | |
9.5日(陰暦8月)、文部省が国民皆学の学制頒布。 | |
9月、大教院設置。 | |
9.13日、東京の新橋−横浜間を汽車が開通する。 | |
9.14日、琉球王国を琉球藩として、国王・尚泰を華族にする。 | |
9.14日、僧尼の苗字の令。 | |
10.2日、年季奉公を禁止。 | |
10.4日、官営・富岡製糸場が開業。 | |
10.23日、対朝鮮政策を廻って西郷全権交渉論(征韓論と詐称されている)に敗れた西郷が下野した。西郷の下野は新政府に勤めていた鹿児島県出身者に大きな衝撃を与え、西郷に殉じて職を辞め帰郷するものが続出した。陸軍少将の桐野利秋、篠原以下300人が近衛兵を辞めた他、司法省警保局でも300人ほどが辞表を提出、帰郷した。板垣退助や江藤新平らも下野した。 | |
11月、太陽暦が採用され、12月3日を以って、明治6年1月1日と定められた。 | |
11.28日、徴兵の詔(徴兵令)が出される。 | |
11.29日、山城屋和助、官金の不正流用の露見を恐れて陸軍省内で自刃。 | |
12.3日、太陽暦が採用され、12月3日を以て明治6年1月1日と定められた。これにより、日付は1872(明治5)年12.2日までは旧暦、12.3日以降が新暦表示となる。新旧表示分け記述されることもある。 | |
この年、江藤新平の尽力で、人身売買禁止令を発布。 | |
この年、関門海峡に海底電信線が敷設される。 |
(宗教界の動き) | |
1872(明治5).1月、梓、巫女、市子、憑き、祈祷、狐下げ等の所業禁止。 | |
2.17日、金光教教祖川手文次郎が、小田県大谷村の戸長から神前の撤去を命じられている。 | |
官社以下の神官の給録を制定(明治5年2月25日太政官第58号「神官給禄定額ヲ定ム」)。 | |
6月、本門仏立講弾圧。 | |
9.15日、神仏分離令に続いて太政官布達第273号で「山伏の道、修験道は今後いっさい廃止する」とする修験道廃止令が発布された。
これにより、本山派修験、羽黒修験は天台宗に、当山派修験は真言宗に所属するものとした。「修験道廃止令」以降、公には山伏は存在しなくなり、真言宗、天台宗のいずれかに属するか、神官となるか、帰農するしかなくなった。さらに追い打ちをかけるように明治政府は、山伏の収入源であった行為を禁止する命令を相次いで出している。これにより、修験道は一宗としての活動が禁止された。明治政府は、このように山伏修験道を弾圧した。これにより凡そ17万人とも18万人とも云われる山伏たちは帰俗を促され、あるいは天台、真言の僧侶、神職に転ずることを余儀なくされた。修験道につき「別章【山伏修験道考】」で確認する。 |
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9.18日、太政官布達の三日後、次のような太政官布告が出されている。
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神祇官が担った宣教と祭祀が二つに分けられ、宣教事務は教部省(明治5〜 10 年)が、 祭祀事務は太政官式部寮が管轄するようになる。 宣教事務を管轄することになった教部省は、明治5年に教導職制を創設する。それは、「対キリスト教教化を目的」として創設されたもので、
(4) 教導職は無給の国家官吏 であり、その公務は「三条の教則」、「十一兼題」にそって各地で説教を行い国民教化にあたることとなった。 神道の宣布強化のため大教院設置される(神祇省廃止、教部省設置。大教院設置)。宣教使を廃し、教導職の制度を定めて宣教体制を確立。天皇を「奉戴」することを命じた「三条ノ教則」(残り2か条は敬神愛国、天理人道を明らかにする)を国民教導の中心とした。教義に関する著書出版免許願は教部省に提出させることとした。 |
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この年、プロテスタント史上、最初の受洗者12名が洗礼を受ける。 | |
明治5年頃には明治初頭の神道国教化政策が破綻し、教部省が廃止された頃には平田派は既に政府内から駆逐されており、その影響力を失くしていた。 |
(この頃の対外事情) |
(この頃の海外事情) |
(私論.私見)