【教祖の屋敷の掃除おせき込み、おちゑ離縁】 |
しかし、教祖は、どういう訳かおちゑを嫁として認める風がなく、その子供に対しても情愛薄く、共々屋敷内から立ち去ることを指図していた。この頃、教祖は、お筆先でしきりに屋敷の掃除をせき込まれている。関係するお筆先は次の通りである。
このたびハ 屋敷の掃除 すきやかに
したててみせる これを見てくれ |
一号29 |
この子供 2年3年 仕込もふと
ゆうていれども 神の手離れ |
一号60 |
思案せよ 親がいかほど 思ふても
神の手離れ これはかなハん |
一号61 |
このお歌から察するのに、助け人衆に縁のない者をこれ以上屋敷内にとどめさせて置けぬ、というものであった。しかし、これには「それを知った全ての者が驚いた。秀司とおちゑは内縁関係ではあったものの、子をもうけ、長く連れ添っている二人である。それをいきなり離縁させ、実家へ帰すという所業は、人々を驚かすに十分だった。だが教祖は、そうした思惑を斟酌しない。教祖の為す所業は神の目から見ての指令であり、峻烈極まりない時がある。中山家の財産放逐などはその典型的な例であった。あの時教祖は、家人と親族一切の反対と嘆きを押し切って、ことの成就を貫いた。そうせざるを得ない突き上げるものがあるなら、それが神意であるならそれに身を委ねる。それが教祖の処世であった。
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「正文遺韻」(昭和12年、山名大教会発行P128-129)の「おちゑ様のこと」は次のように記している。
「おちゑ様お子二人あり、はじめの方はおかのさまと申し、この方、前生には、教祖様の夫、善兵衛様のお手かけにて、やはりおかのと云いたりしと。その頃は、心良からぬ者にて、善兵衛様のご寵愛あるを良きことにして、教祖様を邪魔にし、ひどく害をなさんと企みたりしとなん。それゆゑ、今生にても、お手かけの腹に宿りたることわりなるか。/娘盛りの頃となり。茶つみ女の群れに入りて、山城へまかり越し、そのまゝお屋敷にはかへらで、京にて男をもちたりけり。/次の方は男にて音次郎と申す。この方出産のとき、おちゑさまは、お屋敷にて産みおろしたくおもほすものから、にぢらんばかりに立ち入りけるを、教祖様は、なか/\聞き入れ給はず、送り出し給うこと度々なりける。やがて、臨月となりて、今にもと思うばかりの朝に、なほ押しかけて入り来りければ、またもや人をもて送り帰し給う。その時、おちゑさま、川原城なる我が家に帰り、敷居をまたげつるやいなや、この子を生みたりしとなん。神様の許し給はぬなかなれば、お屋敷にはふさはずして、かくもあることならん。/この音次郎殿と云ふは、年(とし)たけるつど、勝負ごとをで好み、博奕なんど常のわざとなしたりける。かゝる様なれば、幼少の頃より、お屋敷には入れ給はざりきとぞ。されど、父君の身代わりにもと云ふ、神様の思召もありしとなん承りはべりぬ」。 |
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「正文遺韻」(昭和12年.山名大教会発行P225~226)の「おちゑさんとかのと音次郎」は次のように記している。
「さてこゝに、足のちんばのなほらぬのも、悪事がのかんゆゑのことなりとありて、悪事と仰せらるゝは、御手掛の事と思はる。この手掛けといふは、川原城村のちゑといふ女にて、秀司様、十七歳の時より、四十九歳、則ち明治二年まで、三十三年の間つきまとひ、本妻といふわけにもゆかず、手掛として御おきなされしなり。そして、その間に二人の子を挙げられたり。長は女にしてかのといふ。この者前世には、教祖様の夫、善兵衛様のお手掛けにて、やはりおかのといひたりしと。その頃は心よからぬ者にて、善兵衛様の御寵愛あるをよきことにして、教祖様を邪魔に思ひ、毒がいをなしたることありしと。されども、神様の踏ん張り被下たる為、教祖様は助かりし由、神様お下りの後、委しく御聞かせ被下たり。こは、教祖様十八九歳の頃にて、俄かにかくらんがおきたる様にて、便所にて上げ下しし非常の御苦しみなりしが、何が害になりたとも気付かず、追々と治まりければ、一時のかくらんと思ふて過ぎたりと、御咄しありたる事あり。かゝる毒婦のかのも、遂には教祖様の誠となさけとに感じて、多少心を改めしものと見え、夫れとなく、本妻たる方を、ないがしろにしたることを、悔いたりとなん。今、そのものが出かはりて、又々この家へ生れ、且つ手掛の腹にやどるとは、不思議のことなるかな。この児は娘ざかりの頃、茶つみ女に交りて茶つみに出かけ、そのまゝ帰り来らず、京にて男を持ち暮せしとなん。次の方は男にて、音次郎と申す。この方、出産の砌、母ちゑはお屋敷にて産みたく思い、にぢる様に立入りけるを、神様はお許し下さらず、送り出し給ふこと、たびかさなりたり。やがて、臨月となりて、今にもと思ふばかりなるを、なほおしかけて、入り来りければ、又もや、人をして送り返し給ふ。その時、ちゑ女川原城の実家の敷居をまたぐや否や、この児を生みたりしと。誠に思ひやらるゝ事ながら、神様の許し給はぬ手掛の事なれば、又是非もなき事なりけり。さてこの音次郎といふ人は、年たける程、勝負事を好み、博奕なんど常のわざとなしたりける。かゝるさがなれば、十一歳の時、母と共に預けられ、翌年、大阪へ奉公させられ、程なく母ちゑ死亡なりたれば、帰り来りしに、秀司様、再びお屋敷へ入れおかんと被遊たれど、『一度いがめたものは役にたゝん、門をふまさぬ』と仰せられて、神様御許し被下ぬより、後に田村といふ処に家を別たれたり」。 |
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小滝氏は、「おやさま」の中で次のように記している。
「教祖の家族は、常に人を救けることを義務付けられた聖家族だ。従って、その成員には己の利益より他者の利益を優先させる利他主義が要る。絶対に要る。でなければ、世界たすけなど及びもつかない。ということは、日常規範のみをもって暮らしてゆこうとする者は、聖家族には入れぬということだ。恐らく教祖は、そうした問題意識を秘めながら、家人を見ていたに違いない。そして、その意識が頂点に達した時、神勅が発せられた。教祖は、神の目に適わぬ者の一掃に乗り出した。かくして、おちゑと音次郎は中山家から去っていった」。 |
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(私論.私見) 教祖による秀司の内妻おちゑ排斥考 |
「教祖による秀司の内妻おちゑ排斥」も思案するに足りる。要するに、教祖の手引きと排斥の基準について一考を要すると云うことである。「人類は皆な兄弟姉妹」の博愛教理との兼ね合いも問題になる。恐らく、それはそれとして、だがしかし設けねばならない「因縁寄せて守護うする」とする霊格基準があり、逆の者は去らねばならなかった、と云うことであろうと拝察させていただく。 |