第51部 1869年 72才 秀司が内妻おちゑと離縁、小東まつゑと結婚
明治2年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「秀司が内妻おちゑと離縁、小東まつゑと結婚」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【教祖の断食】
 1869(明治2)年4月、教祖は、この年4月末から6月始めにかけて、38日間の断食を為されその間少々の味醂を召し上がるだけで、穀類はもとより煮たものは少しもお上がりにならなかった。
 この頃、ハッタイ粉を御供として渡している。

【若江(若井)の松尾市兵衛宅へ御出張】
  同年、大和国龍田の北の東若井村の松尾市兵衛はお道に非常に熱心で、入信当初は高弟の一人として教えの取り次ぎに尽瘁(じんすい)していたが、理屈っぽくて気の強い人であったから、肝心自分の事になると、親神様のお諭しを、素直にそのまま受け容れることができなかった。その松尾市兵衛の子息が病気になり、願いに応じて教祖がお助けに出向いている。供をしたのは、こかん、飯降伊蔵、つじ忠作、仲田佐右衛門、西田伊三郎の5人。数日間滞在し、色々と教えを説いたが効果が表れなかった。皆なが案じていると、5日目の夕方、こかんが神がかり、「あっけんみょうおう」と云う荒ぶる神が入り込んで、「こもと高慢強い。直ぐと送りかやせ」との天啓が下った。高慢が強過ぎるので救いようがない、早く帰れの意味に解されている。この子息は7月の盆の15日に病死している。(「天理の霊能者」97P参照)次のように伝えられている。
 「しかるに明治2年5五月の半ばより、松尾市兵衛様のご子息が、身上大いにお障りでござりまして、追々大層になりますところから、教祖にお願いになりますと、お出張(でば)り下さる事になりまして、6月差し入りに、38日ご絶食のお身体をもって、いささかお疲れのご様子もなく、快くお出張りになりましたと申すことでござります。世並みの者でありましたら、いかがでござりましょう。いかな剛的(屈強な人)でも到底動く事もできますまい。実に恐れ入った事でござります。この時お伴致されたお方は、只今の本席(飯降伊蔵)様、辻〈忠作〉様、それから仲田佐右衛門様に、西田伊三郎様と四名で、ほかに小寒(こかん)様も、ご随行あそばされたそうでござりますが、教祖お出張りになりまして四、五日のあいだ、段々お話しもあり、お諭しも下されましたが、速やかというところへ参りませんで、五日目の夕方になりますと、小寒様に〈神様の〉お降りあって仰せられるには、『あっけん明王がお越してあるのに、こもとに。高慢強い。すぐと〈教祖御一行を〉送り返やせ』と厳しきお諭しでござりましたので、そこで、何はともかくも『すぐ返やせ』とのお言葉であるから、すぐさま駕籠(かご)を雇うて教祖に召して(お乗り)頂き、一同お伴して、夜にかけてお帰りになりましたそうでございます。この『高慢強い』と仰せられるところは、実に恐れ入った次第でござりまして、気の毒なことには市兵衛様のご子息は、その後段々身上悪しくなりまして、7月盆の15日にお迎え取りになりましたそうでござります」。(諸井政一集前篇「道すがら外篇、若江へ御出張」)
 「市兵衛様の息子は、段々身上悪しくして、7月の中頃にお屋敷へ参詣したりしが、ますます迫り危うくなりたるより、7月14日の夜、戸板にのせて送り返し、その翌15日には、ついに出直しとなりたり」。(諸井政一「正文遺韻、御筆先釈義第二号、戸板にのせて」より)
 深谷耕治「松尾市兵衞とおふでさき」を参照する。
 お筆先に松尾市兵衞に関連するくだりがあるので、これを確認しておく。松尾市兵衞の信仰は、元治元年(864)年、30歳のときに、妻はるの産後の患いを教祖にたすけて頂いたことにはじまる。それから5年後の明治2年に執筆されたお筆先二号43-45にこう記されている。
 何もかも 強欲尽くし そのゆへハ
 神の立腹 見えてくるぞや
二号43
 たんへと十五日より みゑかける
 善と悪とハ 皆なあらハれる
二号44
 この話し とこの事とも ゆハんてな
 見えてきたれば 皆な得心せ
二号45

 このお歌に対する次の「註」がある。
 「以上三首に関連する史料としては、明治5年、大和国東若井村の松尾市兵衞の話が伝えられている。市兵衞はお道に非常に熱心で、立教当初は高弟の一人として教えの取次に尽していたが、理屈っぽくて気の強い人であったから、肝心自分の事になると親神様のお諭しを素直にそのまま受け容れる事ができなかったので、親神様からお手入れを頂いていたその長男は盆の15日に迎え取りになった」。

 教祖は、逸話篇の25、26、27に記されているが、楢蔵のお助けのために明治5年、75歳の時、松尾宅に赴かれ13日間滞在されている。楢蔵は学問が好きで「将来は大阪や京都へ出て勉強したい。この家は二男に譲る」といって一日中机に向かっているようなお子だった。そのような楢蔵を市兵衞はとても可愛がっていたのだが、明治5年、15歳頃に結核を患い寝たきりになってしまう。市兵衞は教祖におたすけを願った。

 教祖は、松尾宅に行くに際して「ためしやで」と仰せられて、75日の断食中にもかかわらず、駕籠にも乗らずに16キロの道のりをご自分で歩いて行かれた。滞在2日目、楢蔵の気分も優れ教祖の部屋にご挨拶に行った。そのとき教祖は、「楢蔵さんや、自分の体と学問と、どちらが大切やと思う?」と尋ねられ、楢蔵は「体です。しかし学問も大切です」と答えた。すると教祖は、「体を大切にすることは親孝行の第一歩や、親に安心させてあげなされ」と諭されている。それからも、教祖は度々楢蔵の部屋に赴かれて、種々とお仕込み下さった。

 滞在中のある朝、市兵衞夫婦に、「今日は麻と絹と木綿の話をしよう」といって、「形がのうなるところまで使えるのが木綿や。木綿のような心の人を、神様はお望みになっているのやで」とお諭しされている。滞在10日目の朝、教祖は市兵衞夫婦に「神様をお祀りする気はないかえ」と仰せられた。夫婦は戸惑いつつもその言葉にしたがって、急遽神床を造ることにした。それから2日後の夕方には完成し、その翌朝教祖は、新しく出来た神床の前に、ジッとお坐りになって、「ようしたな。これでよい、これでよい」と仰せられた。それから楢蔵の部屋に赴かれて「頭が痒いやろうな」といってその髪をゆっくりと梳かれた。秀司が来て、御幣を造り、教祖がみずからそれを神床に運んで祈念された。そして、「今日から、ここにも神様がおいでになるのやで。目出度いな、ほんとに目出度い」といってお屋敷に帰られたのである。楢蔵は、翌明治6年には畑仕事を手伝うまでに回復した。ところが、翌明治7年7.15日(陰暦6.2日)に、風邪をこじらせて出直した。

 その翌年の明治7年5月、お筆先五号が執筆された。その56-57にこう記されている。
 けふの日ハ 何が見えるや ないけれど 
 八月を見よ 皆な見えるでな
五号56
 見えるのも 何の事やら 知れまいな 
 高い山から をふくハんのみち
五号57

 同じ年の明治7年陰暦10月、市兵衞は仲田儀三郎と共に大和神社へ問答に行っている。これをきっかけにして、陰暦11月、教祖ご自身が山村御殿に赴かれて、「学問に無い、古い九億九万六千年間のこと、世界へ教えたい」と神職たち伝えている。

 それから、2カ月ほど経った明治7年12月に六号が記されているが、その20、21のお歌にこう記されている。
 にちへに 神の心わ せゑたとて 
 人ぢう十人 揃いなけねば
六号20
 十人のなかに 三人かたうでわ 
 火水風とも 退くとしれ
六号21

 このお歌の「註」は次の通り。
 「かたうでは、片腕の意。東若井の松尾市兵衞、竜田の乾勘兵衞、大西の北野勘兵衞の出直しを見て、当時の人々は、このお歌に思い当たったという」。

 この歌から4年後、市兵衞は病気にかかり、翌年に出直している。その信仰は次男輿蔵に受け継がれ平安大教会のもとになっている。

【教祖が屋敷の掃除急き込み、秀司の内妻おちゑの排斥】
 明治2年のこの年、秀司は数え年49才であったが正妻がなかった。この当時おちゑと云う内縁の妻がおり、お秀と音次郎(12歳)の子供をもうけてお屋敷内に同居させていた。 

 これにつき、「改訂正文遺韻」243-244頁が次のように記している。
 「さてここに、足のちんばの直らぬのも、悪事がのかん故の事なりとありて、悪事と仰せらるるは、お手掛けの事と思わる。この手掛けと云ふは、川原城村のちえと云ふ女にて、(中略)その間に二人の子を挙げられたり。長は女にしてかのと云ふ。(中略)次の方は男にて、音次郎と申す。この方、出産のみぎり、母ちえはお屋敷にて産みたく思ひ、にぢる様に立ち入りけるを、神様はお許し下さらず、送り出し給ふこと、度重なりたり。やがて、臨月となりて、今にもと思ふばかりなるを、なほ押しかけて、入り来たりければ、又もや、人をして送り返し給ふ。その時、ちえ女川原城の実家の敷居をまたぐや否や、この児を生みたりしと」。
 
 中山慶一(よしかず)本部員講話「秀司先生の御足跡」(天理青年教程第5号96頁)は次のように記している。
 「お屋敷に奥さんとして住んで居られるのであります。(中略)しかも丁度貧のどん底の中頃に音次郎さんと云う男の子もできておるのでありまして、(中略)貧のどん底時代から共につまり糟糠(そうこう)の妻であります」。

【教祖の屋敷の掃除おせき込み、おちゑ離縁】

 しかし、教祖は、どういう訳かおちゑを嫁として認める風がなく、その子供に対しても情愛薄く、共々屋敷内から立ち去ることを指図していた。この頃、教祖は、お筆先でしきりに屋敷の掃除をせき込まれている。関係するお筆先は次の通りである。

 このたびハ 屋敷の掃除 すきやかに
 したててみせる これを見てくれ
一号29
 この子供 2年3年 仕込もふと
 ゆうていれども 神の手離れ
一号60
 思案せよ 親がいかほど 思ふても
 神の手離れ これはかなハん
一号61

 このお歌から察するのに、助け人衆に縁のない者をこれ以上屋敷内にとどめさせて置けぬ、というものであった。しかし、これには「それを知った全ての者が驚いた。秀司とおちゑは内縁関係ではあったものの、子をもうけ、長く連れ添っている二人である。それをいきなり離縁させ、実家へ帰すという所業は、人々を驚かすに十分だった。だが教祖は、そうした思惑を斟酌しない。教祖の為す所業は神の目から見ての指令であり、峻烈極まりない時がある。中山家の財産放逐などはその典型的な例であった。あの時教祖は、家人と親族一切の反対と嘆きを押し切って、ことの成就を貫いた。そうせざるを得ない突き上げるものがあるなら、それが神意であるならそれに身を委ねる。それが教祖の処世であった。

 「正文遺韻」(昭和12年、山名大教会発行P128-129)の「おちゑ様のこと」は次のように記している。
 「おちゑ様お子二人あり、はじめの方はおかのさまと申し、この方、前生には、教祖様の夫、善兵衛様のお手かけにて、やはりおかのと云いたりしと。その頃は、心良からぬ者にて、善兵衛様のご寵愛あるを良きことにして、教祖様を邪魔にし、ひどく害をなさんと企みたりしとなん。それゆゑ、今生にても、お手かけの腹に宿りたることわりなるか。/娘盛りの頃となり。茶つみ女の群れに入りて、山城へまかり越し、そのまゝお屋敷にはかへらで、京にて男をもちたりけり。/次の方は男にて音次郎と申す。この方出産のとき、おちゑさまは、お屋敷にて産みおろしたくおもほすものから、にぢらんばかりに立ち入りけるを、教祖様は、なか/\聞き入れ給はず、送り出し給うこと度々なりける。やがて、臨月となりて、今にもと思うばかりの朝に、なほ押しかけて入り来りければ、またもや人をもて送り帰し給う。その時、おちゑさま、川原城なる我が家に帰り、敷居をまたげつるやいなや、この子を生みたりしとなん。神様の許し給はぬなかなれば、お屋敷にはふさはずして、かくもあることならん。/この音次郎殿と云ふは、年(とし)たけるつど、勝負ごとをで好み、博奕なんど常のわざとなしたりける。かゝる様なれば、幼少の頃より、お屋敷には入れ給はざりきとぞ。されど、父君の身代わりにもと云ふ、神様の思召もありしとなん承りはべりぬ」。
 「正文遺韻」(昭和12年.山名大教会発行P225~226)の「おちゑさんとかのと音次郎」は次のように記している。
 「さてこゝに、足のちんばのなほらぬのも、悪事がのかんゆゑのことなりとありて、悪事と仰せらるゝは、御手掛の事と思はる。この手掛けといふは、川原城村のちゑといふ女にて、秀司様、十七歳の時より、四十九歳、則ち明治二年まで、三十三年の間つきまとひ、本妻といふわけにもゆかず、手掛として御おきなされしなり。そして、その間に二人の子を挙げられたり。長は女にしてかのといふ。この者前世には、教祖様の夫、善兵衛様のお手掛けにて、やはりおかのといひたりしと。その頃は心よからぬ者にて、善兵衛様の御寵愛あるをよきことにして、教祖様を邪魔に思ひ、毒がいをなしたることありしと。されども、神様の踏ん張り被下たる為、教祖様は助かりし由、神様お下りの後、委しく御聞かせ被下たり。こは、教祖様十八九歳の頃にて、俄かにかくらんがおきたる様にて、便所にて上げ下しし非常の御苦しみなりしが、何が害になりたとも気付かず、追々と治まりければ、一時のかくらんと思ふて過ぎたりと、御咄しありたる事あり。かゝる毒婦のかのも、遂には教祖様の誠となさけとに感じて、多少心を改めしものと見え、夫れとなく、本妻たる方を、ないがしろにしたることを、悔いたりとなん。今、そのものが出かはりて、又々この家へ生れ、且つ手掛の腹にやどるとは、不思議のことなるかな。この児は娘ざかりの頃、茶つみ女に交りて茶つみに出かけ、そのまゝ帰り来らず、京にて男を持ち暮せしとなん。次の方は男にて、音次郎と申す。この方、出産の砌、母ちゑはお屋敷にて産みたく思い、にぢる様に立入りけるを、神様はお許し下さらず、送り出し給ふこと、たびかさなりたり。やがて、臨月となりて、今にもと思ふばかりなるを、なほおしかけて、入り来りければ、又もや、人をして送り返し給ふ。その時、ちゑ女川原城の実家の敷居をまたぐや否や、この児を生みたりしと。誠に思ひやらるゝ事ながら、神様の許し給はぬ手掛の事なれば、又是非もなき事なりけり。さてこの音次郎といふ人は、年たける程、勝負事を好み、博奕なんど常のわざとなしたりける。かゝるさがなれば、十一歳の時、母と共に預けられ、翌年、大阪へ奉公させられ、程なく母ちゑ死亡なりたれば、帰り来りしに、秀司様、再びお屋敷へ入れおかんと被遊たれど、『一度いがめたものは役にたゝん、門をふまさぬ』と仰せられて、神様御許し被下ぬより、後に田村といふ処に家を別たれたり」。
 小滝氏は、「おやさま」の中で次のように記している。
 「教祖の家族は、常に人を救けることを義務付けられた聖家族だ。従って、その成員には己の利益より他者の利益を優先させる利他主義が要る。絶対に要る。でなければ、世界たすけなど及びもつかない。ということは、日常規範のみをもって暮らしてゆこうとする者は、聖家族には入れぬということだ。恐らく教祖は、そうした問題意識を秘めながら、家人を見ていたに違いない。そして、その意識が頂点に達した時、神勅が発せられた。教祖は、神の目に適わぬ者の一掃に乗り出した。かくして、おちゑと音次郎は中山家から去っていった」。
(私論.私見) 教祖による秀司の内妻おちゑ排斥考
 「教祖による秀司の内妻おちゑ排斥」も思案するに足りる。要するに、教祖の手引きと排斥の基準について一考を要すると云うことである。「人類は皆な兄弟姉妹」の博愛教理との兼ね合いも問題になる。恐らく、それはそれとして、だがしかし設けねばならない「因縁寄せて守護うする」とする霊格基準があり、逆の者は去らねばならなかった、と云うことであろうと拝察させていただく。

【秀司に対する厳しいお仕込み】
 お筆先一号の始めで、「秀司に対する厳しいお仕込み」 が為されている。
 これまでの 残念なるハ 何の事
 足のちんばが 一の残念
一号31
 この足ハ 病とゆうて いるけれど
 病ではない 神の立腹
一号32
 立腹も 一寸の事でハ ないほどに
 積もり重なり ゆへの事なり
一号33
 立腹も 何故なると ゆうならハ
 悪事がのかん ゆへの事なり
一号34
 この悪事 すきやかのけん 事にてハ
 普請の邪魔に なるとこそ知れ
一号35
 この悪事 何ぼしぶとい ものやとて
 神が攻め切り のけて見せるで
一号36
 この悪事 すきやかのけた 事ならバ
 足のちんばも すきやかとなる
一号37
 足さいか すきやか直り したならバ
 後ハ普請の 模様ばかりを
一号38
 一寸話し 正月三十日と 日を切りて
 をくるも神の 心からとて�
一号39
 そばなもの 何事すると おもへども
 先なる事を 知らんゆへなり
一号40
 
 親神様は、正月三十日と日を切って、おちえ一家(おちえ、かの、音次郎)を実家に送り返されている。秀司は、おちえの前におやそと夫婦のの契りをしており、嘉永6年、二人の間に庶子お秀(しゅう)が生まれている。その後、おやそとの縁が切れる際に御子はお屋敷に引き取られている。おちえとの内縁関係はそれ以後と考えられる。音次郎は1858(安政5)年生まれで、姉おかのがいたことを考えると、二人の付合いは1855-56(安政2-3)年頃で十三、四年続いていたことになる。

【秀司が教祖の世話取りで小東まつゑと結婚する】
 一方で、教祖は、秀司(49歳)に対して、平等寺村(現、生駒郡平群町)の旧家豪農の小東家の当主・小東政吉の次女まつえ(1851(嘉永4).3.3日出生)を迎えるようにと諭された。しかし、まつえは当時数え年19才であり、秀司とは30才も年の差があった。ちなみに、まつえの実姉が高安大教会初代会長・松村吉太郎の生母・松村さくである。

 小東家の様子につき、「松村さく刀自小伝」1-2頁が次のように記している。
 「小東家は地方での旧家であり、財産家でもあつた。当主政吉氏は農業の傍ら、法隆寺斑鳩(いかるが)御所の名目金を人に貸し付けて富裕の生活をして居られた。政吉氏が亡くなられた時には、箱に七杯の黄金(こがね)が残って居たと云う話もあるくらいである。この平和な村で、この不自由なき家庭に於いて刀自(長女さく、後の松村さく)は健やかに育って行かれた。刀自の他には政太郎、定次郎、仙次郎、松恵の四人の弟妹(兄弟)があった。お筆先第一号の中で『五人ある、中の二人は内に置け、あと三人は神の引受けと仰せられたのは、この五人の御兄弟の事を仰せられたのであつて、中の二人とは政太郎、定次郎のことで、あと三人とはさく刀自、仙次郎、松恵のことで、この三人は神が引き受けるとまで仰せられたのである。この御神言の通り、さく刀自は後に道に引き出されて高安の理の土台とおなり下され、松恵様は教祖の御長男秀司先生に嫁して、共に地場の御教祖膝下(しっか)近くに引き寄せられることとなつたが、仙次郎のみは神意に背いて遂にお道から遠退いて行かれた。しかし、小東家は道には因縁浅からざる御一家と云わねばならん」。


 この縁談には、最初は竜田村の乾ふさの息子・勘兵衛が仲人として小東家に交渉に行ったが、なかなかまとまらず、教祖自ら小東家へ出掛けるに及び、諄々と魂のいんねんを説いて納得させることとなり、明治2年、婚約ととのい、まつえはめでたくお屋敷の人となった。戸籍簿には翌年8.26日(陰暦)入嫁と記載されている。関係するお筆先は次の通りである。婚礼の模様が高安大教会史に次のように記されている。

 「それは聞いている。結納は扇子一対、高安大教会史に書いてある通りで、当座の着替えがなければ困るだろうというので、荷物はきわめて質素なものであつた、という風に聞いている。又、お祝いの膳も、すべて手作りのもので、両家で持ち寄った、と聞いた。ごく質素に、虚礼を一切省いてということだと思う。今日も、本部では嫁入りの荷物としては買わない。本人の与えだけ。つまり、お祝いに頂いたものだけ持っていくという建前になっている」。

 これからは 心しいかり いれかへよ
 悪事払うて 若き女房
一号65
 これとても 難しように あるけれど
 神が出たなら もろてくるそや
一号66
 日日に 心尽した そのうえハ
 後の支配を よろづ任せる
一号67
 五人ある 中の二人ハ 内に置け
 後三人ハ 神の引き受け👇
一号68
 よろづよの 世界の事を 見晴らして
 心鎮めて 思案してみよ
一号69
 いままても 神の世界で あるけれど
 仲立ちするは 今がはじめや
一号70
 これからは 世界の人は をかしがる
 なんぼ笑ても これが第一
一号71
 世界には 何事すると ゆうであろ
 人の笑いを 神が楽しむ
一号72
 銘々の 思う心ハ いかんでな
 神の心ハ 皆な違うでな
一号73
 前世の 因縁寄せて 守護うする
 これは末代 しかとおさまる
一号74

 教祖は、この結婚を台として淳々と夫婦の理を教えられている。

 「高安大教会史」は次のように記している。
 「」。





(私論.私見)