第5部 | 1813年〜1815年 | 16〜18歳 | へらわたし.この頃の世相と折々の逸話 |
文化10年〜文化12年 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.9.16日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「へらわたし.この頃の世相と折々の逸話」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【へらわたし】 |
1813(文化10)年、「みき」が嫁いでわずか3年目の時にみき16才、しゅうと夫婦が隠居することとなった。世間が驚くほどに尚早の「へらわたし」であった。「みき」の信頼のされ方が並々でなかったことの証左であろう。旧家としての家柄格式によりしきたりの難渋な面もあったであろうが、こうして家督が善兵衛夫婦に譲られ、世帯一切を任せられることとなった。早くも中山家の主婦となり、家政の切り盛りに責任を持つことになった訳である。 |
|
日本式家族制度の枠組みにおける家督の継承は、実に大変な業であった。家督継承を廻ってのしゅうと夫婦と跡取り夫婦の争いごとは枚挙にいとまなく、その難渋さを知れば、そうした一大事をかくも容易に得た「みき」の嫁としての有能さと信頼のされ方こそ、克目されねばならないであろう。 |
【みきの「自律」足跡行程(3)、「へらわたし」後の伸展】 |
「へらわたし」は、「掌中の自由」を次第に拡大させて行くことになったと推測し得る。家業の合間合間に時折の説話、聴聞へ出掛けて行く様子が伝えられているのがその例左である。娘盛り若盛りの身としては、物見遊山、芝居見物に心を寄せるのが普通であろうが、「みき」は、そうした人混みに出入りするよりは、むしろお坊主さんの説話とか寺社廻りするのを悦びとしたとのことである。 |
この時期の文化9年(1812年)8.5日、「みき」15才の折、前川家の祖母おひさが出直している。
【みきの宗教的精神史足跡行程(4)、生活体験】 |
親の庇護から離れて現実に直面せざるをえなくなった「みき」は、嫁いでわずかに3年目にして「へらわたし」を受けるに至ったのであったが、この頃のみきは、中山家に溶け込むことを精一杯にしていたご新造時代に比べてはやや落ち着きを得つつ、ひたすら生活の幅を拡げていっていたことと思われる。この時期のみきは、かっての出家願望による厭離浄土の彼岸思想に基づくその尼僧願望とは裏腹に生活経験を重ねることによって、疲弊していく農村の実情と農民の悲惨な生活ぶりに直面することとなった。その渦中をいかばかりの思いを廻らしていたのであろうか。「みき」の御性情からして、「時代の子」として見えてくる疲弊していく農村と農民の窮状に慈悲の感情を沸かさずにはすまなかったであろう、と拝察させて頂く。 恐らく「みき」は一時の日々の念仏の唱えにおいて、そうした農民の悲惨生活よりの救済を願う真剣な祈りを続けていたことであろう。みきの信仰はこうして鋭く深い問いかけを発しながら精進されていたものと推察される。恵まれた立場の者は自らを保身することで満足と諦観を覚え易いところ、「みき」は、衆生の生活を思いやる御性情の赴きによってか、「衆生救済」の思いを益々亢進せしめていくこととなった、と窺わせて頂く。 してみればこの時期の「みき」は、信仰としては「厭離浄土」を基調とする浄土信仰を、他方で「現世救済」の方途を願うという一種背反した状況下に追い込まれつつあったことを意味する。このことを「みき」自身どの様に受け止め、今後解決していくのであろうか。こうした御性情を持つ「みき」の生活経験の更なる積み重ねは、「厭離浄土」の思想との間に、ある種の矛盾となる一点へ近づけて行くことにはならないであろうか。「現世救済」の願いは、「厭離浄土」を基調とする浄土信仰といずれ齟齬をきたす筈であり、やがて「みき」の信仰に何らかの変貌を迫り、「厭離浄土」を採るか「現世変革」に乗るか、早晩決着に向かわざるを得ないこととなるであろう、と拝察させて頂く。 |
(当時の国内社会事情) |
1813(文化10)年、佐藤一齋(1772-1859)、「誌録」完成。 |
海保青陵(1755-1817)が「稽古説」完成。 |
1814(文化11)年、伊能忠敬が「沿海実測量地図」を完成。 |
馬琴が「八犬伝」著す。 |
杉田玄白「蘭学事始」書き終える。補筆を経て翌年完成。 |
(二宮尊徳の履歴) |
1815(文化12)年、29歳の時、服部家より帰る。服部家政御取り直し趣法帳を起草する。 |
(宗教界の動き) |
1814(文化11)年、11.11日、黒住宗忠(1780-1850)が「天命直受」。 黒住教始める。 |
1814(文化11)年、金光教創始者である川手文治郎(1814-1883)が出生する。 |
(当時の対外事情) |
1813(文化10)年、ロシアと人質を交換。英国船の来航。 |
1814(文化11)年、杉田玄白が「蘭学事始」を著す。「初一念には、この学今時の如く盛んになり、かく開くべしとは曾てよらざりしなり」と記しており、この当時、蘭学が如何に盛んであったのかが窺える。 |
(当時の海外事情) |
1813(文化10)年、プロイセン軍がフランスに進撃。 |
1814(文化11)年、フランスが連合軍に敗戦。 |
1814(文化11)年、ウィーン会議開かれる。 |
(私論.私見)