第43部 1866年 69才 古市代官所へのお出まし、応法の理の動き1
慶応2年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「古市代官所へのお出まし、応法の理の動き1」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【教祖の古市代官所へのお出まし】
 この頃、おぢば近郊の農民達ばかりでなく、古市代官所、和邇(わに)代官所など、諸藩の藩士の中にもお屋敷へ参拝する者が多くなっていた。その半面、お道に対する反対攻撃も激しくなっていた。こうなると、管轄の古市代官所としてもお屋敷や教祖の動向に関心を持たざるを得なくなった。こうして「教祖の古市代官所へのお出まし」となった。その時の様子を、「御教祖伝史実校訂本中二」が次のように記している。
 「教祖様古市へ御出張の事。(出願の端緒)古市には藤堂藩の奉行所があった。その時に、余り事が段々大きくなり、いろんな事が始まる為に、三島、庄屋敷は古市の管轄だったから捨てて置けず、奉行所より教祖様をお呼び寄せになり、教祖様は古市奉行所へ出張せられた。足達源右衛門は当時、庄屋だったので、村内に事があると、公式になつた時には村役人として付き添う事になっていたから、付き添う👇て来た。教祖様は1回来られて、何でもこちらで二日ないし三日居られた。(中略)そして同じ年にもう一遍来られた。その時はじき帰られた。古市の地をお踏みなされたのは確か2回だったと思う。その年月日は、何分腕白時代だったので、はっきり記憶にないが、『御かげ御かげ』と云って、滅茶滅茶に踊る一方しゃべる一方の歳がった。その年が私の9歳の年であったから、教祖様の来られたのは、その明けの年で、慶応二、三年と思う」(「中川庸三(76歳)談」、昭和9年1.24日)。
 「教祖の古市代官所へのお出まし」につき、稿本天理教教祖伝が「神祇管領の公認」の項で次のように記している。
 「お屋敷からの一行は、宿にあてられた会所に二、三日宿泊された。代官所では段々と実情を聴取したが、不都合の廉は少しもない。たゞ公許を受けて居ない点だけが問題として残った。そこで、話し合いの上、吉田神祇管領へ願い出ることとなった」。

【「応法の理の動き」を廻る三派鼎立】
 この代官所における取り調べの結果から、人々の集う参詣所としての公認を受けておかねば万事不都合であるとの考えが、秀司やその周辺の信者たちの間に生み出されることとなった。こうして、布教上の摩擦を避け、妨害や迫害からの難を逃れる為の公認運動が推し進められて行くこととなった。いわゆる「応法の理」とも云える動きである。教祖は、この動きに対し、「この屋敷の神は元の神、実の神や。吉田神祇管領の配下の神ではない。そんなところへ願いでるやない。神が退く」と強く叱り、「元の神、実の神におわす親神の教えが公許を受けねば広められぬなどというのは教えの根幹に触れる不都合」として公認化の動きを退けた。してみれば、「応法の理の動き」は、教祖存命中に、その指示に服さぬ動きであったことになる。こうして、「お道」は早くも草創期において教祖及び教祖に忠誠一途の教祖派と、教祖の意に反してでも「応法の理」に向かおうとする応法派と、その間にたって事の成り行きを見守ろうとする中間派の三派に分かれることとなった。世俗の権力と妥協をはかるこの「応法の理」 の道の選択はこの時に端を発し、以後様々に形を変えつつ「お道」の歴史の上に何度も繰り返されることとなる。

【吉田神道考】
 この時の公認運動の経過について見ておこうと思う。この当時、京都の吉田神祇管領家が、神道の認可に関わる一切を管理、監督していた。ここで吉田神道について一瞥しておく。

 吉田神道とは、唯一神道あるいは卜部神道という吉田神社の祠官吉田家に伝わる神道であり、戦国時代吉田兼倶(1435~1511)によって組織された。従来神祇界の中心であった神祇伯/白川家に対して神祇長上なる称号を作り、地方の神社に位階を授け、神職への免許を発行した。江戸時代に入ると白川家を越えた勢力を擁することとなり、全国の神職の多数を吉田神道の下におくこととなった。こうして当時の神道の許認可権限を持つ家元のような格を維持していた。石上神宮や大和神社、大神神社などの大社はその管轄外ではあったが、それぞれ固有の関わり方で影響を受けていた。

 1665(寛文5).7月、「諸社禰宜神主法度(ねぎかんぬしはっと)」を定めた。その内容は要約次の通り。 (櫟本分署跡参考館発行の「教祖伝資料集」の「吉田家の大和国の神職支配と天理教」参照)
 諸社の禰宜・神主などは専ら神祇道を学び、神体を崇敬し、神社祭礼につとめること。
 社家が位階を受ける場合、神社伝奏(神社に関し天皇に言上する役職の家柄)が前々より決まっていれば、従来通り行う。
 無位の社人は白張(しらはり)を着すること。白張以外の装束を着ける時は、吉田家の許状が必要である。
 神領の売買禁止。
 神社の維持保全。
 この法度の第3条によって、神職支配における吉田家の優位は、揺ぎないものになった。

 更に、1674(延宝2)年、幕府は装束着用に加えて遠国神職の官位を天皇に申請すること(執奏)を吉田家に許している。とはいえ、幕府は、吉田家の神職支配の独占を許した訳ではなく、白川家など他の伝奏も認めていた為、吉田家と白川家の支配争いが激化していくことになる。1718(享保3)年、吉田家は、大和国の神社31社を所属させている。大和神社、石上神宮(布留社)、大神神社(三輪社)の三社は、独自のかかわり方で吉田家の支配に組み込まれていた。1757(宝暦7)年、8月、神祇伯白川雅富王が諸国社家を白川家に属させようとしたことについて、神祇権大副・吉田兼雄は、伝奏広橋兼胤に訴えを起こしている。こうした争いの中、吉田家は積極的に幕府に働き掛け、1782(天明2)年、自らに有利な寛文法度を再触れさせることに成功している。1791(寛文3)年、初めて吉田家関東役所が設置される。これは、幕府による吉田家を利用しながらの新興神職層の掌握、その支配強化政策であった。1814(文化11)年から白川、吉田両家は神職配下支配について、朝廷において争論を起こしている。

【この当時の教祖の予言】

 なお、この当時教祖は、予言的な意味において、次のようなお言葉を為されている。

 「針金がものをいう、人間空を飛ぶこともある。山の上まであかりのともる日がくる」。

 針金とは、後の電信、空を飛ぶとは、航空機、山の上の灯とは、電力事業の発達のことであろう。こうした予言的面も教祖の特徴となっている。

 この逸話に関連する「みちのだい叢書より(その八) 」を転載しておく。
 梶本うの(本部員梶本宗太郎先生母堂)-梶本そのゑ

 祖母の事につきまして何か書く様にとの仰せで御座いますが、祖母は私の幼い頃出直して居りまして何の追憶もございませんので、祖母の子として現存しております父(梶本宗太郎)、島村の叔父(島村国治郎)、上田の母(上田みち)の三人からお聞き致しました思い出話によりまして、祖母の面影を偲ばせて頂きます。
 梶本家の入信は別に誰の身上からと言うのではございません。土地では仏惣治郎と”あだな”せられた程正直で、素直な曽祖父惣治郎の心を見抜いて教祖様から『惣治郎さんの心見込んで嫁にやるのや』とのお言葉がありまして見合もなく、教祖様の三女”はる”様が嫁いでこられてからの信仰でございます。神様は曽祖父惣治郎に『早く御地場へ出てくる様に』と仰せになりましたが、当時のおやしきは未だ困難の最中で「あの御苦労の中へ、家族連れで住み込む事は、却っておばあ様に御心配を掛ける様なものやから、一生懸命家業に精出して陰から力にならしてもらおう」と言う気持から、櫟本に踏み留まって鍛冶屋を続けて居たのでございます。そして家族の方々ーー初代真柱様(祖父の弟)、松治郎祖父、ひさ様(祖父の妹 後に山沢家へ嫁す)等はかわる/\おやしきへ帰って、いろ/\と御用を勤めて居られましたが、日増しに官憲の圧迫干渉や世間の迫害が激しくなりましてからは、夜昼無しに御老体の教祖様のお側に詰めきって、何くれとなくおつとめなされたのであります。

 祖母は文久元年旧四月五日、同じ櫟本町の菊池喜平の長女として生れ、明治十二年十一月一日、十九才の時縁あって松治郎祖父の許へ嫁入って来られました。実家の喜平父も既に入信しておりまして、たび/\おぢばへも参拝し教祖様にも御目にかゝっていました。結婚後は夫と共に時々おやしきへ帰ってはいろ/\御用をつとめ、教祖様よりじきじきにお話も聞かせて頂いたのでございます。その頃教祖様は中南の十畳においでになりました。或る日の事『ちょっとおいで』との仰せで祖母がお側へ参りますと、南側の窓をお開きになって『今はこんなに淋しい所やけどなあ、さきになったらたんと家が建って、米屋も、酒屋も醤油屋も、味噌屋も出来て賑やかになるのやで』とお聞かせ下さいました。又『これから先になったら、針金で話する様になるのやで』との仰せでありましたが、その時は何の事やら分らず「おかしな事仰しゃるなあ」と思いすごす中、後になってそれが電話の御予言であった事が分かったのや、と祖母は口癖に申して居りました。又島村の叔父が生れまして、其の御礼参りに帰りますと教祖様は『おーお/\、色の白い可愛らしい子やな』と仰りながら 早速御抱き下されましたとの事。こうして、たび/\お膝元へ帰らせて頂き 教祖様の御人格にふれさせて頂く毎に、いよいよ祖母の信仰は深まって行きました。教祖様は又、奈良の監獄への往き帰りには街道に面した梶本家の前をお通りなされますので、御帰りの途中お立寄り下された時、祖母の手作りの五目ずしを差し上げたこともあったと申します。教祖様が明治十九年、櫟本警察署へ御苦労下さいました時、梶本の家が同署の近くであった関係上、教祖様の御身をお案じ申して、先生方が入り替り立ち替りお越しになりましたし、又教会本部設置の時も初代真柱様始め先生方が内密の御集りの場所となされたので一家の主婦としての祖母の心使いは並大抵では無かったのであります。(後略)~

 昭和二十六年二月発行「みちのだい叢書・第二集」(天理教婦人会編)5~13ページより





(私論.私見)