第42部 1866年 69才 真之亮の誕生.武士階級にも浸透し始める
慶応2年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「真之亮の誕生.武士階級にも浸透し始める」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【教祖の山中宅出張り】

 1866(慶応2)年()、2.7日、教祖の山中宅出張りが為され、この時、永代の物種を授けている。この日の夜、「神床(かんどこ)の下に納めてある壺を取り出せ」と云われ、山中忠七が取り出すと、次のように仰せ下された。

 「これまで、お前に、いろいろ許しを渡した。なれど、口で云うただけでは分かろうまい。神の道について来るのに、物に不自由になると思い、心配するであろう。何にも心配する事は要らん。不自由したいと思うても不自由しない。確かな証拠を渡そう。この物種(ものだね)は、一粒万倍になりて増えて来る程に。これは、大豆越村の忠七の屋敷に伏せ込むのやで。これは家の宝や。道の宝やで。結構やったなぁ」。

 教祖は、その壺を忠七に渡された。永代の物種として、麦六升、米一トゥ二升、小遣い銭六十貫、酒六升の目録と共に、四つの物種が授けられた。

【真之亮の誕生】

 1866(慶応2)年の春、かくして教勢頓に伸びゆくうちに、大和国添上郡櫟本(いちのもと)町大字高品の梶本家へ嫁いでいた教祖の三女おはるが、後に初代真柱となる真之亮を身籠ることとなった。教理では、先に飯降伊蔵のお引き寄せを見たが、この度の真之亮の身籠りも又深い神意に基づいたものであったとされている。 この年5.7日、梶本家三男として真之亮が誕生した。

 これより先、おはるが懐妊した時から、既に教祖は、「今度おはるには、前川の父上の魂を神が宿し込んでおいたで。これを真之亮と名づけてぢばに連れて帰り、道の真柱とするのやで」と仰せになって、その誕生を待ち兼ねられていた、と云われている。案のごとく玉のような男の子が生まれたので、早速このことをお知らせすると、大層お喜びになり、「先に長男亀蔵として生まれさせたが、長男の為親の思いが掛って貰い受けることができなかったので、一旦迎えとり、今度は三男として同じ魂を生まれさせた」と仰せになって、真之亮と命名された(明治初年、亮、衛門等廃止の時に、新治郎と改名する)。これが後の初代真柱中山新治郎誕生のいきさつである。

 聞かせて頂くところによると、この年から12年前の安政元年、おはるが長男亀蔵を生んだ時、既に「この者は道の真柱となるいんねんの者であるから、屋敷へ貰い受けたい」という様な意味のお言葉を仰せ下されていたが、おはるは充分にその理を悟れぬままに(我が家の相続人であるから差し上げることはできないという思いで)過ごしていた。ところが1860(安政6)年、亀蔵は6歳で出直した。その時、教祖はその遺骸をお抱きになって、「これは庄屋敷の真柱真之亮やで」と仰せになったと言われている。かくて7年の後、真之亮誕生に際して、これこそ先の亀蔵の生まれ替わりであることをお聞かせ頂いて、人々は今更のごとく「奇しきいんねんの理」に粛然としたのであった。

(私論.私見)

 教祖のこの「お話し」が事実であるとすれば、教祖が「輪廻転生」論を説いていた例証になる。私は、後の応法派による脚色説話ではないかと訝っているが、いずれにせよ定かではない。

【諸藩士のお屋敷来訪】
 ここまでの「お道」の歩みを通じて、教祖への信頼と敬慕は益々強く深くなっていくと共に、その範囲も次第に拡大されていった。この頃の道の動きの中で特に見逃すことのできない顕著な事実として、お屋敷に参詣する人々の顔ぶれが、単に百姓ばかりでなく、芝村藩、高取藩、郡山藩、柳本藩、古市代官所(藤堂藩)、和爾代官所等に所属する諸藩士にまで及んだことである。即ち、「お道」の信仰者が武士階級の中にまで拡がっていったということになる。既に世は幕末とは言いながら、未だ士農工商という階級制度が厳として持続されていた時代であることを思えば、身分、格式、面子という封建秩序的規制がなお強く人心を支配していた時代に於いて、町人百姓の中に唱導されていた教えに、武士が素直に耳を傾けるということは希有の事であったであろう。これを思えば、如何に教祖の評判とその教えに魅力があったかを拝察することができる。恐らく、教祖の珍しい助けと、その説かれる「心の入れ替えによる世の立て替え、世直し」の教えが、既に確固たる政道観を見失い不安と動揺の中にあった武士たちの心に強く関心を抱かせたものと思われる。こうして、「お道」の黎明は愈々輝かしく世の暁闇を照らし始めた。

【「あしきはらひ」のおつとめ御言葉と御手振り】
 秋頃、小泉村(大和郡山市)不動院の山伏らが狼藉。この頃、「あしきはらひ」の「おつとめ御言葉」と御手振りが教えられる。 

【1866(慶応2)年の暮れの様子】
 時期は特定できないが、飯降本席が後年、この頃の年の暮れの様子を次のように伝えている。
 「今日の日あるは全て教祖のお陰である。教祖ご存命中には、冬の夜中に柴一本もないところをお通り下された。或る年の暮れのこと、夜12時過ぎに、寒いから火で暖まろうと柴を探したが何もなかった。ようやくのことで松葉のこぼれを掻き寄せて両手に一杯持ってきて、小さな火鉢で焚いて差し上げた。松葉だから火が残らんので、ご家族三人で火鉢の縁をさすってお寝みになったこともある云々」。

 (道人の教勢、動勢)
 「1866(慶応2)年の信者たち」は次の通りである。1866(慶応2)年正月、辻忠作が俄然熱心な道人となった。「さよみさん(仲田儀三郎のこと)の行く限り、誰が何と言おうと行く!」と宣言し、毎日参拝し始めることとなった。
 松尾市平衛(32歳)、その妻はる()
 1866(慶応2)年、5月頃、白石畑村(現生駒郡平群町白石畑、若井村)の農業/松尾市平衛(32歳)が妻はるの産後の煩いを手引きに入信。妻はるの産後の肥立ちが悪く、同村の岡仙吉から神様の話を聞き、鮮やかなご守護を頂いた。20日目に教祖の下を訪ねた。以降、夫婦ともども熱心な道人となった。

 松尾ハルは、天保6年9.15日生まれ。大正12年5.1日、89才で出直した。
 この年、岡本重治郎が教祖より黒骨の扇の授けを頂いている。
 この年、飯降伊蔵夫婦の間に長女誕生。「教祖もお喜びになって、『伊蔵さん、何でも良き事はよしよしと云うのやから、よしゑやで』と仰せられたので、『よしゑ』と命名した」と伝えられている。

【この頃の逸話】


 (当時の国内社会事情)
 1.21日、薩長連合の密約が成立。この日から、薩摩と長州が幕末の動向の鍵を握ることになった。その立役者は、土佐藩の坂本竜馬と中岡慎太郎であった。「龍馬にすれば、世界から見れば日本は梅干みたいなもの、またその中から長州だの薩摩だのと、小さなことにこだわって大局的に物事を考えない奴の方が大馬鹿者だ。幕府ときたら公の政治どころか、私の徳川家の延命を決め込み、どこを見渡しても人材不足、この期に及んでもまだ己の出世を追い求めている。こんな幕府は一日も早く葬らなければ、日本丸は沈んでしまう。一刻も早く手を打たなければ西洋の餌食にされてしまう。それには薩長同盟を成立させ、幕府に代わる組織を確立させなければならない。」(木村幸比古「日本を今一度せんたくいたし申候」99P)。

 長年の怨恨が尾を引き容易なことでは成立しなかったが、遂に西郷が「薩摩は日本を救うために長州を全面に援助する」と言葉を発し、これが証文となって薩長同盟へと一気に進んだ。密約のため不文であるが、長州による対幕府戦争において予想される事態に対して薩摩の陰に陽にの長州支援策6か条の取り決めが為された。坂本竜馬がこの立会人として「すこしも相違これなく候。後來といえども決して変わりごと之なきは神明の知るところに御座候」と一筆している。これによって長州の反薩摩感情が一掃し、天下の形成が倒幕一色に塗り替えられていくことになった。
 2.23日、龍馬、深夜寺田屋にいるところを幕幕府吏に襲われ負傷。寺田屋事件起きる。坂本竜馬危うく捕縛されんとするも危地脱出する。3月、お竜と結婚し鹿児島にて新婚旅行を楽しむ。
 6.6日、高杉晋作が長州の海軍総督に就任。
 6.7日、幕府が長州を攻撃、「第二次長州征討」開始される。幕府の軍艦が長州海岸を砲撃する。
 6.17日、幕府と長州の下関海峡での海戦に、ユニオン号の船将として長州軍に加わる。高杉晋作と会談。
 この頃、江戸と大阪に打ちこわしが起こる。全国で百姓一揆も盛んとなる。武州一揆。信州一揆。
 7.18日、幕府、石見方面で大敗。
 7.20日、将軍・徳川家茂、大阪城で没。幕府、家茂の喪を伏せる。8.20日、徳川慶喜、第十五代将軍に決まる。幕府、家茂の喪を発する。
 8.21日、孝明天皇、長州征伐休戦の勅命を下す。8月、将軍家茂死去のため、幕府長州征伐を中止。
 坂本竜馬らによる薩長連合成立。
 12.25日、孝明天皇、崩御。
 12.5日、慶喜が将軍職に就く。

 (宗教界の動き)
 1866(慶応2)年、(金光教関連)備中の国(今の岡山県下)の金光教教祖金光大神(赤沢文治)が、白川家から「金光河内」と称する許可を得、さらにその年、金百両を領主に献上して添書を得て、教弟3名を遣わして白川家に公許を願い出ている。この時の白川家と金光大神側との応答ぶりが「金光大神覚え」に記されている。これを確認しておく。
 概要「慶応2年2.13日、金光大神の使者三人が上京するに際して、金光大神は金神(こんじん)よりのお知らせによって、『このたびは、地頭より添簡下され、官位の儀、宜しうお願い申し上げ候。しかし、金神広前では京都御法通りの事はでけません、と申してくれ』。使者は白川家に着いて領主の添書を差し出し、金神の有難いおかげを説明し、拝むこと、六根の祓い、般若心経を神前であげることを願った。白川家では、使者の願いの筋を聞き取った上で、『なるほど、この方の法通りでは、神が聞かれねば、お陰くださらいでは、何ぼう法を祈りても役に立たず。拝む人の願いで神がますます感応いたされ。それでよかろう。心経だきは言われにゃえ(よ)いに。これは経文じゃ。仏の方」と答えられた。さらに、『吉田家には遠路の人でも留めおいて、礼拝諸礼の事、二十日(はつか)三十日(みそか)かかりても教えると申す。この方には人を留めて入用させません。地頭の願い通りの許し出し』と付け加えた」。
 (金光教関連)神主職の補任宮の建築は当初は順調に進むものと思われていたが思いのほか困難を伴った。幕府の禁令があるなかで宮を建てるには、神拝式許状だけでなく 正式な神主の資格が必要だった。そのためにはまず神主職の取得に領主の添書が必要なことが判明した。他村で、その手続きを踏まなかったために罰せられた例があ ることも分かった。さらに領主の添書を得るのに百両もの多額の献金が必要だった。当時、百両といえば、米がおよそ五十石(約九千リットル)買える金額で、大谷村の年間経費の約三分の二に相当する額だった。
 10.2日、(金光教関連)文治良は、改めて金光文治の名で、自宅神拝の節、冠布斎服浅黄差貫を願い、河内との称を得た。そして、この日、金子駒次郎、 金子坂介、金子秀蔵、金子多蔵、金子房太郎、金子左京、金子又兵衛の7名が初入門し、神拝式をうけている。
 11月、(金光教関連)藩へ百両を献金したい旨の願書を提出して認可が あった。続いてその年12月、神主職取得のための領主の添書を願い出た。それは、 「私の持ち山に金神宮がありましたが、立ち入りの社人、社僧などなく、かねがね私が信仰神事を取り扱っております。しかし、俗人では神明に対しおそれ多いので、このたび白川殿において、神主職の許状を拝受したく存じます。どうかご添翰くださるよう、願い上げ奉ります」という内容のものだった。新規に社を造ることは、たとえ 小さな祠であっても許されない状況にあり、しかもそのなかで神主職を得るには、こ のように、「金神宮」という架空の名目で願い出るほかなかった。それに対して、翌慶応三年(1867、五十四歳)二月十日に、領主の添書を受け取ることができた。こう して思わぬ年月を要し、元治元年(1864)の年頭に神伝が下がってから、三年余りが過ぎていた。(『金光大神』P188.2003.)

 (当時の対外事情)
 1866(慶応2)年6.16日、イギリス公使・パークスが薩摩藩邸を訪問。

 (当時の海外事情)
 プロシア・オーストリア戦争起る。





(私論.私見)