第40部 1864年 67才 大和神社のふしと伊蔵の真実
元治元年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【大和神社のふし】
 八島教理によれば、本章の「大和神社のふし」の様子が著しく異なる。恐らく八島教理説の方が正しいのであろうが、ひとまず稿本天理教教組伝の記述に従い考察することにする。
 こうして棟上げ後の骨休めで、大豆越村の山中忠七宅で飲み直しをすることになったが、この道中で事件が勃発することとなった。これを「大和神社の節」と云う。「お道」の最初の事件であり、初期信者が瓦解することとなった。

 翌朝27日は天気にも恵まれた。いよいよ出発に当って、一同の者が教祖にご挨拶に出向くと、「そうかや、皆な一緒に行くのかや、さあさあ行っておいで。一寸言っておくが、神様の前を通る時には拝をして行くのやで」と仰せになられた。道中は普請のことやら将来の夢や希望へと話しがはずんで賑やかな一行となった。

 秀司、伊蔵、山中忠七をはじめとした芝村清蔵、栄太郎(現奈良県桜井市芝の人)、久太郎(現奈良県桜井市芝の人)、大西勘兵衛(現奈良県桜井市の人)、弥三郎(現奈良県桜井市大西の人)、兵四郎(現奈良県桜井市大西の人)、やす(現奈良県桜井市大西の女人)、くら(現奈良県桜井市大西の女人)、弥之助(現奈良県桜井市大西の人)の面々約十二、三名の者逹であったと伝えられている。庄屋敷を出て南へ、山口、乙木の村々を過ぎ、上ツ道へ入って佐保庄、やがて教祖の生家のある三昧田の村を進むと、右手に大和神社の森が見えてくる。この大和神社は、教祖誕生の項で既に述べたように崇神天皇6年の創建と言われ、大国魂神を祭神とした古社で、この国の国土、農業の守護神として神格も高く、三輪の大神神社とともに、大和一国の尊崇を集めている由緒ある社であった。

 やがて大和神社前にさしかかった時、誰からともなく、「教祖は、神様の前を通る時は拝をして行けとおっしゃったで。さあ拝をして行こう」と言い出した。「そうやそうや」、「いつものようにお祈りをすればよいのやろう」、と、その頃お屋敷でしているように「南無てんりん王命、南無てんりん王命」と声を揃えて神名を流し、一同は持参した太鼓を打ち、拍子木を叩いた。太鼓と拍子木を持参していたのは、山中家で盛大につとめ場所の棟上げを祝う配慮からであったのであろう。はずむ心は声や動作にも現れて、時ならぬ陽気な声が、社頭の森の静寂を破った。忽ち、騒ぎを聞き付けた神官が現れ、厳しく叱りつけ太鼓を没収すると同時に、一同を社務所へ引致するところとなった。


 この時の後日談として次のように知らされている。悪いことをした覚えのない一同には何が何やらさっぱりわからない。しかし、先方の言い分は、恐らく由緒深い神社の社前にて卑俗な鳴物を打ち鳴らし、聞いたこともない神名を高唱するとはけしからんというにあったのであろう。たまたまその日は、図らずも1825(嘉永5)年に吉田神祇官管領家から筑前守の国名乗りを受け、大和一国の神職取締りに任ぜられていた守屋筑前守(1809(文化6)年、現奈良県磯城郡田原本町蔵堂生まれ。同町にある守屋神社の神職。1879(明治12)年、71歳で出直し)が一週間の祈祷をしている最中であった。故意に大切な祈祷の妨害を行いに来たものとさえ誤解されたものらしく、こうして神職の忌諱に触れ、取り調べの済むまで一人も帰ることはならんと、一同は神社の向いにあった成興という旅人宿へ、監禁同様に三日間留置されてしまった。一同は、何が故にこれ程の目に遭うのかさっぱり納得ができない。このうわさは忽ち四方八方へ知れ渡り、直ちに庄屋敷にも大豆越にも知らされることとなった。ところが誰一人調停に来てくれる者もなく、神社側からも何らの音沙汰もない。こうして一日が暮れ二日も暮れた。

 一体この先どうなるのか、何時までこのまま留めおかれるのか、心細く不安にもなってくる。三日目になってやっと、櫟本(いちのもと)村の庄屋代理として岸甚七が調停に来てくれた。その人の話しによると、「丁度筑前守が京都から帰ってきて、一週間の祈祷をしていた最中なので、その大切な祈祷の妨げをしたという科で留置されているのだ」とのことであった。日本の永らくの伝統で由緒とかお役向きの権威というものは絶対であった。問答無用の不届者の一言で方づけられる時代であった。「これは平身低頭おわびするより仕方がない」との岸甚七の意見に、一同も「それではどうかおわびをお願いします」となり、岸を通して謝罪し漸く許されたが、「今後はかかる所へは絶対に立ち寄りません」という請け書を取られた。これで事件は終わったが、3日間の費用が凡そ3百目程かかり、一同の中で誰もその持ち合わせがなかった。秀司が散々苦労の末、付近の知り合いの「かけ岩」という所から一時借用してその用を弁じ、その後にこの一行に参加した一同が分担した、と伝えられている。

 この一行に参加した人々は、当時の信仰者の中でも代表的な人々であったと思われるのであるが、この事件により、伊降伊蔵を除く主だった面々でさえ暫くの間お屋敷への足が途絶え、漸く揃いかけた信徒の群れが散りじりとなってしまった。これにより折角できかけた講社もぱったりと途絶えてしまった。こうして「大和神社事件の節」は「お道」の最初の「大節」となった。当時の純朴な信徒たちにしてみれば、教祖の御言葉に従順した結果が、お上の逆鱗に触れるに至ったということが大層な衝撃であったようである。

 明治31.8.26日のお指図は次のように記している。
 「それより道の順序、廃って了うた」。

 明治34.5.25日の刻限お指図は次のように記している。
 「なかなかこれ38年以前、9月より取り掛かり、十分一つ道ようよう仮屋々。仮家は大層であった。ちょっと節があった。皆な背いてしもうた。大工一人になった事思うてみよ々。八方の神が手打った事ある々。八方の神が手を打ったと云うてある。それより叉一つ々あちらこちらから、段々成って来たる間、丸九年という々。年々大晦日という。その日の心、一日の日誰も出て来る者もなかった。頼りになる者なかった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、ようよう随いて来てくれたと喜んだ日もある云々」。
 初代真柱手記「翁より聞きし咄」が次のように記している。
 コノ一件(元治元年の大和神社の節)ヨリ、デキ掛カリシ講社ハ一時バタリト止マリタリ。小寒様ノ仰(おっ)シャルニハ、『行カザレバ宜シカリシニ』ト言イオルヤ否ヤ、教祖様ニ神カカリアリテ、『不足云フノデハナヒ。後々ノ咄シノ台である程ニ』トノタマエリ。小路村ノ儀兵衛来タラヌ様ニナラレヌ。コノ年普請ニツキ入用(いりよう)ハ嵩(かさ)ミアリ。節期ニナレバ掛取リハ来ルシ、ドウシタラヨカロトテ案ジ居ラレヌ。翁曰ク、『何ニモ案ジテクダサルナ。内作リハ必ズ致シマス』ト申されたり。コノ普請ニカカルヤ、翁夫婦ハ子ナク只二人ユエ常ニ来タリ居レリ。コノ年12月26日、仕舞フテ翁ハ櫟本エ帰ラレタリ。秀司様ノ仰セラルルニハ、『オ前帰りタラ、後ハドウスル事モデキン』ト。翁、山中翁ニ咄シセラルト、山中翁モグヅグヅ申シヲラレシ由。同月27日、翁、櫟本より来り、坂の材木屋、守目堂の瓦屋え節期の断りに行けるに、『お聞き下されテダアリマショ、お大和(おやまと)デノ事。かの件につき、費用も嵩みしきつき、当度払フ事でき難きにつき、暫く待って貰フトテ頼みに来りしなり。決して損はカケマジク間、待ってくだされ』と申されたレバ、両方とも異議ナク承諾セラレタリ。その時守目堂ノ瓦屋ハ天保銭8枚にて商売シカケテヨリ4年目トノ事。翁帰り来り、材木屋モ瓦屋モ承知セラレシ旨申されたれば、秀司君も悦び玉エリ。小寒様モ悦び玉ヒテ仰せラルニ、『私の内も田地は三町余りモアルケレドモ、今は年切りにて預けてアルカラ自由にならぬケレド、暫く辛抱すれば戻るから、その時、壱弐反ノ田地を売ればソレデ借金は返せるから神様が捨てて置かせられても、私等が捨てて置かぬ。決して損はカケヌ』ト仰せ玉エリ。秀司君も同様に仰せ玉エリ。(後略)()。

【教祖と前川半兵衛の微妙な関係考】
 初代真柱手記が次のように記している。
 「一、大和(おやまと)の件につき、前川翁は尋ねにも来たらず。ごく難儀の時に、門前を過ぎるにも脇見して通れり。一、教祖曰(のたま)えるには、半兵衛何しに来たり居るや。早く帰せと仰せたまえりし事あり。一、教祖度々道のため御苦労あそばされし時分に一度も尋ねに来たりし事なし」(復元第39号25頁)。

【伊蔵の金策】

 その中で、飯降伊蔵と山中忠七はその後も引き続いてお屋敷に運んでいた。如何なる節に出会っても、その中に心をつくり信仰の誠を尽す喜びは、その後幾重の道もお連れ通り頂き、段々のお仕込みを頂いて初めて体得し、真に心に得心ができたのであって、未だ創草期とも言うべきこの時代にはなお前途遼遠の感が深い。

 思えば今回のことは、今まで教祖が施しに施しを続けて以来、親子共々が中山家の屋敷内にて「堪能」の日々を送られていた時代を終え、漸くその教えが広い往還の道へ出て世間一般に日の目を見せ始めた頃であった。この流れに冷や水を浴びせる、これまでの苦労を台なしにしかねない受難であった。見遣れば、普請は棟が上がったままで、冬も近い寒空に骨組みばかりが風にさらされている。後難を恐れて誰も寄りつかず、昨日にうって変わる淋しいお屋敷の様子に、こかんが思わずも、「こんな事になるのなら、およばれなどに行かなければよかったのに」と言うと、教祖の様子改まり、間髪をいれず、「不足言うのやない。後々での話しの台である程に」とお諭し下されたと伝えられている。教祖の眼差しは深く、この大節は後代の「ひながた」になる「練りあいの一駒」でしかなかった。

 しかし、建屋建築の責任者であった秀司にしてみれば、棟上まで漕ぎ着けた普請の後始末がどうなるのかが心配の種となった。教祖は、こうした現実には全く目をつむっておいでの様子であった。金策等の俗事に至っては全くの無関心で取りつくしまもなかった。秀司が、相談相手として他になく伊蔵に、「どうしたらよかろうか」と、その当時の心のままにぶちまけて相談すると、伊蔵の答えはまことに頼もしく、「決しててご心配下さるな。この普請は私一人でも必ず内造りを仕上げさせて頂きます」と答えている。伊蔵の信念と真実の程が窺える。事実、伊蔵は口先だけの人ではなかった。その後もコツコツと変わりなく仕事を続けて、大工仕事はいうまでもなく左官も手伝い役も全部引き受けてし遂げ、その丹精の効むなしからず12月中旬には完全にこれを仕上げてしまった。「手間だけは私が引き受けます」と誓った心定めを完全に果たし了えたのであった。

 この当時、伊蔵には未だ子供がなかったことにもより、この普請が始まると、その最初から夫婦ともどもお屋敷に住み込んで、普請の上に精魂を傾けつくしてきた。そして大和神社の節の後も、人々の信仰にはそれぞれ動揺もあったが、伊蔵夫婦の信仰は微動だにもせず益々心の冴えを示した。「節から目が出る」とお教えになり、今回の節に当っても「後での話しの台である」とお諭しになったみきは、この節の中にぐんぐんと成人を進めていく伊蔵の信仰を楽しんで見守られており、こうして、たとえその数は少数でも、節に伸び行く子供の心をじっと見守り下されていたものと拝察する。

 こうして普請も完成したこの月の12.26日、御命日も滞りなく勤め終えた時、伊蔵は久しぶりで一寸櫟本(いちのもと)へ帰らせて頂きたいと申し出た。この時秀司は、心細げに「お前が帰ったら、あとはどうすることもできん」と云う。伊蔵を絶対に信頼している言葉であった。歳月から言えば今年の5月以来の僅か入信後半年余りの伊蔵が、既にこれほどの信任を受けている様子がわかる。これほどの言葉を聞いては伊蔵もそのまま帰ることもならず、山中忠七に今後の事を種々相談をかけたが、あまりはっきりした返事も聞けなかったようである。これは捨ててはおけぬと考えたのか、その日は櫟本へ帰ったが、翌27日には、早々にお屋敷に姿を現し、直ちに材木屋や瓦屋へ足を運んで年末の支払を延ばして貰うように頼んで廻った。正直な伊蔵が事情をそのままにさらけ出して真心から頭を下げて頼むと、先方も否とは言えなかった。話しは借金のことわりというようなぎこちないものではなく、何処も極めて和やかに進んだ。殊に守目堂の瓦屋等では快く受けてくれたばかりでなく、「自分の家は天保銭8枚から商売を始めて今日で4年目である」というような身の上話しから、四方やまの話しに花が咲く程の和やかさであった。この顛末を秀司に報告すると、秀司とて一番心に懸けていた問題だけに、その喜びは非常なものであった。

 こかんも大いに喜び、伊蔵の苦労を深く感謝しながら次のように仰せられている。

 私ノ内モ田地ハ三町余リモアルケレドモ、今ハ年切りニテ預ケテアルカラ、自由ニナラヌケレドモ、暫ラク辛抱スレバ戻ルカラ、ソノ時一、二反ノ田地ヲ売レバソレデ借金ハ返セルカラ、神様ガ捨テオカレテモ、私等ガ捨テテオカヌ。決シテ損ハカケヌト仰セ玉ヘリ。秀司君モ同様ニ仰セ玉エリ。

 その言葉の如く、安政2年に10年の年切り質に入れた田地は、丁度この翌年戻る予定になっていた。従って、翌年になれば何とかなる見込もたつが、この年の瀬こそ全くどうにもならぬ難関であった訳である。それも伊蔵の真実からどうにか越せる見通しがつくこととなった。秀司は、普請のかかりから今日まで一文の金を受け取っていない伊蔵を見るに見かねて、肥米3斗あるから持って帰るように云ったところ、伊蔵はそのうち1斗だけ頂いて帰った。翌慶応元年正月早々、未明に伊蔵はお屋敷に参拝した。秀司とこかんが「早かったな」と迎えた。初参りを済ませて、その日のうちに櫟本へ帰った。そして正月を済ませると、三度庄屋敷へ来て、夫婦ともども詰めきり人足やら何やら手伝った。伊蔵はこの年より9年間、大晦日には必ずお参りし、掃除してから神祭りをして、夕飯は屋敷で済まし、櫟本へ帰ったと伝えられている。


【伊蔵の真実】
 「年越しの辛さ(その一)」、「年越しの辛さ(その二)」が次のように記している。
 (前略)さて、前に申した”(勤め場所の)普請”もいよ/\できあがりましたが、今の神様の上段の畳を上げてみてもわかるが、削り板にしてあるは、畳を敷くことはできかねたる確かな証拠であります。外は荒板にて張りつめてあるが、その家は漸くにして建てたなれど、障子は容易に買われず、板間のままの住まいと申せば二つの袖を絞るほど血の涙があふれるが、御教祖様には六尺四方の中で、たった二畳の畳の上でお暮らし遊ばされしもなか/\長い間で、じつに世の中のため人のためにご苦労くだされましたが、お気の毒のようなことでありました。月日の暮れるのは早いもので、かれこれするうちにその年の暮になりました。よって材木屋と瓦屋の方へ勘定をせにゃならんけれども、お銭というたら一文もなし。寄り来る人はなおのことにて誰一人も来ず、ただ御教祖様と秀司様とこかん様の御三名がいかんとも詮方つきて、しお/\として見えましたから、その憐れなさまをお察し申して、私も何とか致したいは思いましても、その日暮らしの職人が六月の月より十二月まで丁度半年ばかり、仕事をすれども神様の”普請”についての仕事なれば、作料として一文も貰われず、その時は御教祖様の御家族も必死の場合、私の家も同様な有様で、明日正月というのに一合の米もなく、何も知らぬ子供は可哀相なれども、着替える着物は一枚もなく、隣り近所は結構な暮らし、こちらは憐れな有様。その時の辛さはなあ。‥‥と仰せられながら、御本席様はホロ/\と涙を流して、うつむいて泣いておられましたが、暫らくしてまた頭を上げてのお話にはー

 さて、その節は右のごとき有様ゆえ、私も御教祖様の御前で思案にくれて、どうしたらなあーーと首をかたげておりましたが、やがて静かに首を直して御教祖様に申し上げましたのには、『どうも私にも何とも致し方ありませぬが、材木屋と瓦屋の方は、何と先方が言われるかは知らぬが、お断りに行かしてもらいます』と言うて、豊井村の材木屋を指して行きました時の切なさ、その時も門口から両手を下げて地べたへ頭をつけんばかりにして頼みますと、材木屋の主人の言われるには、『神様の事やから決して心配はしなさるな。よろしうございます』と言うて下さったが、この材木屋が前に申しました丸木三十本と五分板二枚だけしかない身代、そこへ初めに金五両を渡したるばかり、それ限りその年も他からの買手一人もない様子でありました。それから瓦屋へ行かねばならぬが、何と言うて断りを言うたらよかろうかと思えば、どうも足が前へ出なんだ。その時のことは今に忘れやせんが、この瓦屋へ初めて注文した時にも一文も渡さず、また今度も前と同じ空手で断りを言うこととなり、またその家も前に言うたような七百文を資本として始めたばかりの店ゆえに、じつに気の毒で断りが言えなんだ。なれども、心を定めて断りを言うた時、主人が、『心配しなさるな。どうなりと致しておきましょう』と言うてくれた時は、これを御教祖様に申し上げたら、さぞ/\お喜びであろうと思えば、嬉しいて/\嬉し涙がホロホロと落ちましたが、それから瓦屋を出て、急いで神様の処へ戻りました。『材木屋と瓦屋と双方とも同じように快く聞いてくれました』と申し上げたら、御教祖様も大層お喜びなされて、『今日はなあ、おまえの心を天の親様が受け取りて、向こうの心へ入り込んで都合よくすまして下されしなり』と仰せられ、また秀司先生もこかん様も大喜びにて、『ああ、よく行ってくれた。さぞ/\行きにくかったであろうのに、有難うござりました。飯降さん』と私の苗字を呼びかけて御礼を申されましたのは、すでにその年の大晦日の晩になっておりました。(つづく)
 さて、話は後や先になりましたが、大晦日のその朝も早くより裸足になって、前にあった堀一面に張りつめた氷を削りて砂を上げて、お屋敷一面にまき散らして、神様のお屋敷の内外の掃除をさしてもろうたが、その日はいつにない寒さも強かったが、掃除を仕舞うてから戻りましたのが、大晦日の夜の八時頃でありました。さて、それから心の内で思うには、神様の用事はどうやらすましたが、我が家もいろいろと勘定せにゃならんが、どこからもお銭を受け取ることは出来ぬ、また子供もある故すこしは餅もつかねばならん。と言うたところで、銭もなし米もなし、定めし女房や子供が私の帰りを待ちかねているやろうが、さて/\どう致したらよろしからんと思案に暮れて首を傾けていると、秀司様が、『内に餅米がありますから持って帰りて下さい』と仰せられましたから、『さようならば少し貸して下さい』と申して、少しばかり借用して帰りました。すると家内が待ちかねて申しますには、『どうしても金三円五十銭ほどもなくては、この暮の勘定がすまんから、お隣りで借金して勘定をどうやらすましたところで、ここに八百文だけ残りてあります』と申しました。それから借りて帰った餅米を湯につけて餅についてしまいましたら夜が明けました故、どうなりこうなり新玉の春のめでたき正月をお祝い致しましたが、子供というたら平日のボロ着物のままで着替えもなかったから、隣りの子供を眺め、またわが子供ながら親の切なさを察して別によき着物を欲しがりもせなんだが、親ながらその子供の顔を眺め、胸いっぱいになって思わず涙にくれました。翌二日になりましたら、奈良の町にいる私の弟が、やはり大工をしておりましたが、年の始めのことなれば年始に参りましたところが、弟の申しますには、『兄さん、お困りなら、たくさんはないが四円だけあるからあげましょうか』と言うてくれましたから、『そんならすまぬが暫らく貸しておくれ』と言うて借りましたから、先にお隣りで借りた三円五十銭を早速返して、三ケ日を過ごさしてもらいました。

 かれこれという間に正月も終わり、段々三月になりました。その頃、よう/\今の上段へ新しい畳を八枚と障子四本を買うて入れましたが、他は皆ゴザを敷いて置きました。その時の障子が今に残ってあります。それから内造りが完成できるようになりますにまでには、実に十八年間かかっています。その間には切ない事もあった。また言うに言われん苦しい事もあり、また涙をこぼし、今日どうしようと思案に暮れて悲しんだ時もあったが、その時にこかん様が、「飯降さん、今日の日は神様のためにその苦労をして下さるが、神様はさておき、人間が放っておかんで。人が捨てておきやせん」と言われたことがあったが、今日になってもその嬉しかった事を忘れやせん。この苦労が神様の道の苦労となるか、また神様が受け取って下さるか、と思えば嬉しかった。‥‥と申されながら御本席様は、両の眼より涙を流してのお話~(後略)。
 平成七年十一月発行「新版 飯降伊蔵伝」植田英蔵著(善本社)166~172ページより
 ※「注記」この一文は、本席が明治三十年、東京の中央支教会(当時)にご巡教の節、火鉢を囲んで教会の人々に語られたお話の筆記録であり、のちに大正十四年一月、同教会より謄写(とうしゃ)印刷されたものであります。なにぶん三十数年以前を回想してのお話ですから、中には時代が前後している部分がありますが原文のまま収録します。
 「ひとことはなし」56頁は次のように記している。
 秀司君、飯降氏に仰セラルルニハ、掛リカラ今日マデ、一文ノ物モ持ツテ帰ランカラ御前ノ帰ルノヲ見ルニ見カネオルニ依りテ、今肥米(こえまい)三斗アルカラ、ソレヲ持ツテ帰レト仰セラレシヲ、翁ハソノ内一斗ヲ頂イテ帰レリ。(後略)。
 「お指図明治34年5月25日」が次のように記している。
 大工一人になった事思てみよ/\。八方の神が手打った事ある/\。八方の神が手を打ったと言うてある。 それより又一つ/\あちらからこちらから、だん/\成って来たる間、丸九年という/\ 。年々大晦日と いう 。その日の心、一日の日誰も出て来る者もなかった。頼りになる者なかった。九年の間というものは 大工が出て 、何も万事取り締まりて、よう/\随いて来てくれたと喜んだ日ある。これ放ってをかるか、 放ってをけるか。それより万事委せると言うたる。そこで、大工に委せると言うたる。これが分からん。

【瓦幾の瓦御用達】
 この時の瓦屋の屋号は「瓦幾」(かわらいく)で、幾蔵が初代。幾蔵は三州三河(さんしゅうみかわ)の出身で、代々瓦づくりが家業の家に生まれ、若くして郷里を出て、大和の帯解(おびとけ)の近くの池田村で同じく瓦屋を営んでいた親族の家で修業し、この守目堂村で「瓦幾」を開業していた。逝去年は74歳。
 鼓雪の「瓦屋の引立」(「みちのとも」大正5年4月号)で次のように記されている。
 御本席在世中は、本部で入用の瓦は皆な守目堂から買って居たのである。人の親切を何時までも忘れず、親切を以って親切に報いられたところに、御本席の心使いが伺う事ができる。

 飯降*之助筆「永尾芳枝祖母口述記」(復元第3号)も次のように記している。
 本席様はこの時の恩をお忘れにならず、質が悪いという評判にも拘わらず、御在世中建築の際は必ず瓦幾の瓦を取ってやれと仰言(おっしゃっ)たと聞く。現存する古い建物の瓦は殆どそれである。

【つとめ場所の完成】

 1865(元治2)年、教祖67歳の時、とにもかくにも普請ができあがり三間半(6.3m)に六間(10.8m)の約21坪(約69㎡)のものが建った。幾多の波乱を乗り越え人の心の真実をふるいにかけたかの如くに紆余曲折の道中ではあったが、これこそ「お道」に相応しいとも言える最初の普請の姿でもあった。この普請の中心になったのは、言うまでもなく伊蔵の丹精であったが、それだけに伊蔵が伏せこんだ「理」(神の前にまいた心の種)の隠徳は大きい。この普請によって、みき(親神)は伊蔵の誠真実の心を見抜き、「お道」教内一の成長を促したのである。とまれ、この伊蔵の「ひながた」から、後々「お道」における普請とは、真実を運ぶ場、心の入れ替えをすすめる場、御守護を頂くたすけの場、「ひのきしん(日之寄進)」を捧げるつとめの場、これに関わる人々の心を勇ませる陽気な場として受け止められ、教えの上で大きな意義を持つこととなった。

 こうしてでき上がった建物は「つとめ場所」と呼ばれた。3間半に6間の建物は、8畳の間3つと6畳の間3つに仕切られ、その北西の8畳を上段の間として、その一角に神床がつくられ、西よりに壇を設けていた。いわゆる祭壇は設けられていなかった。教祖はそこで終日東向きに端座して、寄り集まる人々に親神の深い思惑を説き、「陽気暮らし」と「世の立替え、世直し」への道をじゅんじゅんと説き導かれた。木の香も新しいつとめ場所の上段に、姿も正しく、穏やかなうちにも威厳をもって、冒しがたい態度で道を説かれるみきは、まことに神々しく、この頃、既に人々は教祖を「神様」と呼び称えているようである。こかんは「小さき神様」と仰がれ取次ぎ第一人者となっていた。つとめ場所ができ上がってからは、伊蔵夫婦は毎日お屋敷に詰め切っており、山中忠七もしばしば手伝いにきていた。辻忠作、仲田佐右衛門らは住まいも近いので、これも又殆ど毎日詰め切ってつとめていた。「お道」では、これを「通いつとめひのきしん」と云う。

 この頃の教祖と伊蔵との逸話が伝えられている。伊蔵は、入信以来、明治15年にお屋敷に移り住むまでの実に20年の長年月、「通いつとめひのきしん」を果たした。教祖は、伊蔵の来るのを待ちかねておったようで、姿を見せる時刻が少しでも遅くなると、「伊蔵さんはまだ見えぬかえ」と、お尋ねになってお待ち下されたと云われている。こうして伊蔵は毎夜のようにみきのお仕込みを受ける事となった。この頃の「お諭し」として次のようなお噺しがあった。

 伊蔵さん、この道は陰徳を積みなされや。人の見ている目先でどのように働いても、勉強しても、陰で手を抜いたり、人の悪口を云うていては、神様のお受け取りはありまへんで。何でも人様に礼を受けるようなことでは、それでその徳が勘定済みになるのやで。欲しい、惜しい、可愛い、憎い、恨み、腹立ち、欲、高慢、この八つの心は埃であって、この埃の心が病の元となりますのや。

【「神の世帯」考】
 つとめ場所の完成とともに、一時寄り付かなくなった人々も、追々と復帰してきて、お屋敷は再び賑わいを取り戻した。ここへ来れば、苦しみも悲しみも消えて、母の懐に抱かれているような心持ちになる。人々は海越え山越え、引き寄せられるように帰ってきた。既に教えの線は、大和河内、山城、摂津、和泉の5幾内から、紀州、阿波へまで伸び、更には東国へも及ぼうとしていた。

 植田義弘氏の著作「教祖ひながたと現代」に、この頃のことを回顧した教祖のお言葉が記載されている。復元第22号(昭和29年)に「教祖様のお話」と題して掲載されたもので、梶本宗太郎氏による聞き書きとのこと。

 明治41.12月頃、「三島村の産婆おなかが、愚妻おさよのお産をする時来たり、食事をしながらの話には」として次のように紹介されている。
 教祖様存命中私が41歳の時、教祖様の仰せには、『おまいの年にはなー神様の御用に召され、67歳より神の世帯をしたで。気長い心で通りや』と、仰せ下されたと話したり、また、髪をすかしていただくと、時々居眠りあそばされた。そうして筆を取りて何かお書きになられた。なにをなされますと申しあぐると、『後で、守り歌にでも謡うようになるのやで』とお聞かせ下されました、と語る。

 「神の世帯をした」とは、「助けを求める人々が寄り集い、夜なべをする時間もなくなり、神様の御用に専従する日常になった」ことを意味している。それが「67歳より」とあるので、神懸かりの年41歳で神のやしろに定まって以降から数えて「25年に及ぶ長い伏せ込み」の年限があったことになる。

【古川文吾の押しかけ問答事件】
 この年、並松の古川文吾が、教祖の下へ弁難に来て問答している。古川は、卜部(吉田)神道を研究史、後に吉田菅領家から神職名豊後守(ぶんごのかみ)を賜り、自ら古川豊後守橘正修と名乗っていた。傍ら、医学を研究し、漢方医学の他に西洋医術も修得していた。元冶元年のこの時35歳であった。どんな問答が為されたのか伝えられていないが、後年「偉い人だったよ。私は負けたよ」と語っている。(高野友冶「御存命の頃」の「12、守屋筑前」の項参照)

【ハンセン病患者の「お助け」】

 天理教治道大教会史によれば、この頃以前より教祖の元へハンセン病の患者が「助け」を求めてやって来ており、49日目にはすっかりご守護を頂いたことが記されている。この患者が治道村を通っていたことから評判となり、一時は全村こぞって教祖の下へ参拝に来た、とも云われている。





(私論.私見)