第40部 | 1864年 | 67才 | 大和神社のふしと伊蔵の真実 |
元治元年 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「大和神社のふしと伊蔵の真実」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【大和神社のふし】 | ||
八島教理によれば、本章の「大和神社のふし」の様子が著しく異なる。恐らく八島教理説の方が正しいのであろうが、ひとまず稿本天理教教組伝の記述に従い考察することにする。 | ||
こうして棟上げ後の骨休めで、大豆越村の山中忠七宅で飲み直しをすることになったが、この道中で事件が勃発することとなった。これを「大和神社の節」と云う。「お道」の最初の事件であり、初期信者が瓦解することとなった。 翌朝27日は天気にも恵まれた。いよいよ出発に当って、一同の者が教祖にご挨拶に出向くと、「そうかや、皆な一緒に行くのかや、さあさあ行っておいで。一寸言っておくが、神様の前を通る時には拝をして行くのやで」と仰せになられた。道中は普請のことやら将来の夢や希望へと話しがはずんで賑やかな一行となった。 秀司、伊蔵、山中忠七をはじめとした芝村清蔵、栄太郎(現奈良県桜井市芝の人)、久太郎(現奈良県桜井市芝の人)、大西勘兵衛(現奈良県桜井市の人)、弥三郎(現奈良県桜井市大西の人)、兵四郎(現奈良県桜井市大西の人)、やす(現奈良県桜井市大西の女人)、くら(現奈良県桜井市大西の女人)、弥之助(現奈良県桜井市大西の人)の面々約十二、三名の者逹であったと伝えられている。庄屋敷を出て南へ、山口、乙木の村々を過ぎ、上ツ道へ入って佐保庄、やがて教祖の生家のある三昧田の村を進むと、右手に大和神社の森が見えてくる。この大和神社は、教祖誕生の項で既に述べたように崇神天皇6年の創建と言われ、大国魂神を祭神とした古社で、この国の国土、農業の守護神として神格も高く、三輪の大神神社とともに、大和一国の尊崇を集めている由緒ある社であった。 やがて大和神社前にさしかかった時、誰からともなく、「教祖は、神様の前を通る時は拝をして行けとおっしゃったで。さあ拝をして行こう」と言い出した。「そうやそうや」、「いつものようにお祈りをすればよいのやろう」、と、その頃お屋敷でしているように「南無てんりん王命、南無てんりん王命」と声を揃えて神名を流し、一同は持参した太鼓を打ち、拍子木を叩いた。太鼓と拍子木を持参していたのは、山中家で盛大につとめ場所の棟上げを祝う配慮からであったのであろう。はずむ心は声や動作にも現れて、時ならぬ陽気な声が、社頭の森の静寂を破った。忽ち、騒ぎを聞き付けた神官が現れ、厳しく叱りつけ太鼓を没収すると同時に、一同を社務所へ引致するところとなった。 この時の後日談として次のように知らされている。悪いことをした覚えのない一同には何が何やらさっぱりわからない。しかし、先方の言い分は、恐らく由緒深い神社の社前にて卑俗な鳴物を打ち鳴らし、聞いたこともない神名を高唱するとはけしからんというにあったのであろう。たまたまその日は、図らずも1825(嘉永5)年に吉田神祇官管領家から筑前守の国名乗りを受け、大和一国の神職取締りに任ぜられていた守屋筑前守(1809(文化6)年、現奈良県磯城郡田原本町蔵堂生まれ。同町にある守屋神社の神職。1879(明治12)年、71歳で出直し)が一週間の祈祷をしている最中であった。故意に大切な祈祷の妨害を行いに来たものとさえ誤解されたものらしく、こうして神職の忌諱に触れ、取り調べの済むまで一人も帰ることはならんと、一同は神社の向いにあった成興という旅人宿へ、監禁同様に三日間留置されてしまった。一同は、何が故にこれ程の目に遭うのかさっぱり納得ができない。このうわさは忽ち四方八方へ知れ渡り、直ちに庄屋敷にも大豆越にも知らされることとなった。ところが誰一人調停に来てくれる者もなく、神社側からも何らの音沙汰もない。こうして一日が暮れ二日も暮れた。 一体この先どうなるのか、何時までこのまま留めおかれるのか、心細く不安にもなってくる。三日目になってやっと、櫟本(いちのもと)村の庄屋代理として岸甚七が調停に来てくれた。その人の話しによると、「丁度筑前守が京都から帰ってきて、一週間の祈祷をしていた最中なので、その大切な祈祷の妨げをしたという科で留置されているのだ」とのことであった。日本の永らくの伝統で由緒とかお役向きの権威というものは絶対であった。問答無用の不届者の一言で方づけられる時代であった。「これは平身低頭おわびするより仕方がない」との岸甚七の意見に、一同も「それではどうかおわびをお願いします」となり、岸を通して謝罪し漸く許されたが、「今後はかかる所へは絶対に立ち寄りません」という請け書を取られた。これで事件は終わったが、3日間の費用が凡そ3百目程かかり、一同の中で誰もその持ち合わせがなかった。秀司が散々苦労の末、付近の知り合いの「かけ岩」という所から一時借用してその用を弁じ、その後にこの一行に参加した一同が分担した、と伝えられている。 この一行に参加した人々は、当時の信仰者の中でも代表的な人々であったと思われるのであるが、この事件により、伊降伊蔵を除く主だった面々でさえ暫くの間お屋敷への足が途絶え、漸く揃いかけた信徒の群れが散りじりとなってしまった。これにより折角できかけた講社もぱったりと途絶えてしまった。こうして「大和神社事件の節」は「お道」の最初の「大節」となった。当時の純朴な信徒たちにしてみれば、教祖の御言葉に従順した結果が、お上の逆鱗に触れるに至ったということが大層な衝撃であったようである。 明治31.8.26日のお指図は次のように記している。
明治34.5.25日の刻限お指図は次のように記している。
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初代真柱手記「翁より聞きし咄」が次のように記している。
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【教祖と前川半兵衛の微妙な関係考】 | |
初代真柱手記が次のように記している。
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【伊蔵の金策】 | |
その中で、飯降伊蔵と山中忠七はその後も引き続いてお屋敷に運んでいた。如何なる節に出会っても、その中に心をつくり信仰の誠を尽す喜びは、その後幾重の道もお連れ通り頂き、段々のお仕込みを頂いて初めて体得し、真に心に得心ができたのであって、未だ創草期とも言うべきこの時代にはなお前途遼遠の感が深い。
その言葉の如く、安政2年に10年の年切り質に入れた田地は、丁度この翌年戻る予定になっていた。従って、翌年になれば何とかなる見込もたつが、この年の瀬こそ全くどうにもならぬ難関であった訳である。それも伊蔵の真実からどうにか越せる見通しがつくこととなった。秀司は、普請のかかりから今日まで一文の金を受け取っていない伊蔵を見るに見かねて、肥米3斗あるから持って帰るように云ったところ、伊蔵はそのうち1斗だけ頂いて帰った。翌慶応元年正月早々、未明に伊蔵はお屋敷に参拝した。秀司とこかんが「早かったな」と迎えた。初参りを済ませて、その日のうちに櫟本へ帰った。そして正月を済ませると、三度庄屋敷へ来て、夫婦ともども詰めきり人足やら何やら手伝った。伊蔵はこの年より9年間、大晦日には必ずお参りし、掃除してから神祭りをして、夕飯は屋敷で済まし、櫟本へ帰ったと伝えられている。 |
【伊蔵の真実】 | |||
「年越しの辛さ(その一)」、「年越しの辛さ(その二)」が次のように記している。
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「ひとことはなし」56頁は次のように記している。
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「お指図明治34年5月25日」が次のように記している。
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【瓦幾の瓦御用達】 | ||
この時の瓦屋の屋号は「瓦幾」(かわらいく)で、幾蔵が初代。幾蔵は三州三河(さんしゅうみかわ)の出身で、代々瓦づくりが家業の家に生まれ、若くして郷里を出て、大和の帯解(おびとけ)の近くの池田村で同じく瓦屋を営んでいた親族の家で修業し、この守目堂村で「瓦幾」を開業していた。逝去年は74歳。 | ||
鼓雪の「瓦屋の引立」(「みちのとも」大正5年4月号)で次のように記されている。
飯降*之助筆「永尾芳枝祖母口述記」(復元第3号)も次のように記している。
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【つとめ場所の完成】 | |
1865(元治2)年、教祖67歳の時、とにもかくにも普請ができあがり三間半(6.3m)に六間(10.8m)の約21坪(約69㎡)のものが建った。幾多の波乱を乗り越え人の心の真実をふるいにかけたかの如くに紆余曲折の道中ではあったが、これこそ「お道」に相応しいとも言える最初の普請の姿でもあった。この普請の中心になったのは、言うまでもなく伊蔵の丹精であったが、それだけに伊蔵が伏せこんだ「理」(神の前にまいた心の種)の隠徳は大きい。この普請によって、みき(親神)は伊蔵の誠真実の心を見抜き、「お道」教内一の成長を促したのである。とまれ、この伊蔵の「ひながた」から、後々「お道」における普請とは、真実を運ぶ場、心の入れ替えをすすめる場、御守護を頂くたすけの場、「ひのきしん(日之寄進)」を捧げるつとめの場、これに関わる人々の心を勇ませる陽気な場として受け止められ、教えの上で大きな意義を持つこととなった。
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【「神の世帯」考】 | |
つとめ場所の完成とともに、一時寄り付かなくなった人々も、追々と復帰してきて、お屋敷は再び賑わいを取り戻した。ここへ来れば、苦しみも悲しみも消えて、母の懐に抱かれているような心持ちになる。人々は海越え山越え、引き寄せられるように帰ってきた。既に教えの線は、大和河内、山城、摂津、和泉の5幾内から、紀州、阿波へまで伸び、更には東国へも及ぼうとしていた。 植田義弘氏の著作「教祖ひながたと現代」に、この頃のことを回顧した教祖のお言葉が記載されている。復元第22号(昭和29年)に「教祖様のお話」と題して掲載されたもので、梶本宗太郎氏による聞き書きとのこと。 明治41.12月頃、「三島村の産婆おなかが、愚妻おさよのお産をする時来たり、食事をしながらの話には」として次のように紹介されている。
「神の世帯をした」とは、「助けを求める人々が寄り集い、夜なべをする時間もなくなり、神様の御用に専従する日常になった」ことを意味している。それが「67歳より」とあるので、神懸かりの年41歳で神のやしろに定まって以降から数えて「25年に及ぶ長い伏せ込み」の年限があったことになる。 |
【古川文吾の押しかけ問答事件】 |
この年、並松の古川文吾が、教祖の下へ弁難に来て問答している。古川は、卜部(吉田)神道を研究史、後に吉田菅領家から神職名豊後守(ぶんごのかみ)を賜り、自ら古川豊後守橘正修と名乗っていた。傍ら、医学を研究し、漢方医学の他に西洋医術も修得していた。元冶元年のこの時35歳であった。どんな問答が為されたのか伝えられていないが、後年「偉い人だったよ。私は負けたよ」と語っている。(高野友冶「御存命の頃」の「12、守屋筑前」の項参照) |
【ハンセン病患者の「お助け」】 |
天理教治道大教会史によれば、この頃以前より教祖の元へハンセン病の患者が「助け」を求めてやって来ており、49日目にはすっかりご守護を頂いたことが記されている。この患者が治道村を通っていたことから評判となり、一時は全村こぞって教祖の下へ参拝に来た、とも云われている。 |
(私論.私見)