第3部 1810年 13歳 「嫁入り問答」 騒動
文化7年

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【みきの嫁入りとその問答】

 」が13才になった頃、叔母にあたるおきぬから、中山家の大事な跡取り息子善兵衛の嫁御として白羽の矢がたてられた。半七の妹であったおきぬは、姻戚の間柄として度々里帰りしており、早くより「みき」の人並み優れた聡明さと素直な気質を見抜いて、善兵衛の嫁御に卯ってつけとその成長を待ちかねていた。この頃の女性は、初潮が認められるや大人になった証しとして赤飯で祝され、同時に適齢期を迎えるのが一般的であった。恐らく、「みき」にその印があったことが叔母の耳に届けられたのであろうか、1810(文化7)年の稲の刈り入れも終わった秋を択んで、前川家へ正式に伜の嫁に貰いたいとの申出が為されることとなった。

 「みき」の両親としては、眼に入れても痛くない程の可愛く先行き楽しみな子ではあったが、中山家とは既に姻戚関係があり、互いの事情も良く通じた間柄として不足のない相手先であったことと、「みき」貰い受けは前々から内々に打診されていたことでもあり、この度はたっての願いということで正式に申込みされたことから、その意を汲んで、この申し出を受け入れることとした。ちなみに夫となる善兵衛は、中山家の長男であり大事な跡取り息子であった。「みき」より10才年上の従兄妹の関係だった。

 当時は、上層農民の家柄ともなると武家のそれと同じく、結婚は「家」同士の縁組みであり、つまり一族と一族との結びつきであった。個人としての当人の意向はさておき、適齢期の娘は、双方の家格、身分、財産等の釣り合いにより親の選んだ男を夫として生涯仕えるものと相場が決まっていた。こうして定められた婚家へ嫁ぐことの第一義は、家格を継承する跡取りの出産であり、いずれ嫁ぎ先一家の世帯の切り盛りにあった。今日的な意味での恋愛的感情の入り込む余地は未だ成熟しておらず、「女は家に在っては父に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従うこと」という「女三従の道」を鏡とする家督婦道の時代であった。当然「みき」も良家の子女としてその様に躾られながら育てられてもいたであろう。


 両親は「みき」を呼び寄せ、このたびの祝言の取り運びを伝えたところ、これまで親の云い付けに何一つ背いたことのないみきがどうしても首肯かない。どうしたことかと根堀り葉堀り問い詰めてみると、「みき」口数少なく打ち明けるには、「私は細身の質で百姓仕事を為しえるほど生来身体が余り丈夫でないこと、浄土に憧れており、生涯を尼さんとして過ごしたい」云々と言いなし、「どうかこの話はご遠慮願います」の一点ばりであった。

 両親は驚いた。はじめのうちはそれが少女期にありがちな感傷に過ぎないものと了解し、「女(おなご)は三界に家なし」と云って嫁ぐのが務めであり、一番幸せな婦道であることを懇々と諭した。けれどもこの度の「みき」の決意は堅固であった。両親は「みき」の云い条を聞いていくうち、その尋常でない思い込みとひたすらさに舌を巻くところとなった。「みき」の心は親の思惑を越えて、いつしか生涯を仏に仕える身へと憧憬させていたようである。


 しかし、当時の時代風潮からして、子が親に坑うことは不可能であった。懇々と「女は嫁いで夫に仕え、嫁ぎ先の両親に孝養を尽くすことこそ正しい道である」(「嫁(か)して夫に仕えるこそ婦道(ふどう)である」)と諭されると、縁づくことを承諾するより他なかった。「みき」は、「結婚後も(そちらへ参りましても)、夜業(よなべ)を終えてからの念仏称名を唱えることと、家業の合間をみての寺社参りをお許し下さいますように」との希望を述べ、これが受け入れられて、縁談が纏まる運びとなった。時に夫善兵衛23才、みき13才であった。善兵衛が「みき」より十才年上だったことになる。

 こうして、1810(文化7)年10.13日(陰暦9.15日)、丁度この日は石上神社の祭礼の日に当っていたが、「みき」は白無垢に角かくし姿となり、フセン蝶の門のついた箪笥二本、長持ち二差、両掛一荷という五荷の荷物とともにお籠に召されて前川家を後とした。このとき「みき」きは、初々しく白菊の匂うような花嫁姿であったと伝えられている。ちなみに、この時使用されたお籠は、三昧田の前川家即ち「中山みき誕生の家」の内倉に現在に至るまで保存されている。

 中山家は、当主を善右衛門、長男を善兵衛と云い、この家の主は一代交代に善右衛門と善兵衛を名乗る仕来たりであった。このたびの結婚式は中山家にとって跡取りの嫁の入嫁という大事なことであったから、盛大に儀式をとり行い、豪家にふさわしく秋深い宵のことで門前にかがり火をたいて迎えたと云う。この時の嫁入りの時の行列を、先頭が庄屋敷村についているのに、後尾はまだ三味田にいたと伝説しているが、これも後に教祖となる身にありがちな修辞であろう。

 「みき」の嫁入りについては、13才で足入れ、15才で本当の結婚をされたという別の話も伝わっているが、真偽のほどはよくわからない。いずれにせよ信仰史上の重要事ではない。知るべきは、当時の純日本的な家族制度の仕組みであろう。即ち、当時の結婚は、他家に輿いれした嫁は1、2年は生活を共にして、その間に家風に馴染み得て、始めて正式の結婚になったようである。嫁の性格次第では家風に合わぬとして、離縁される場合も珍しくなかったと云う。これを今日的な基準の物差しで批判的に批評するのは如何なものだろうか。その時代性、その時分の合理性を窺うべきではなかろうか。

(私論.私見) みきの嫁入り考
 教理では、「みき」の嫁入りを、「魂の因縁」ある身として、人類宿し込みの為された「元の屋敷」へ必然的に引き寄せられたこととして理解する。後に「みき」が誌すことになる「お筆先」十一号69に、「この世の始まり出しは大和にて、山辺郡の庄屋敷なり」とあるお歌がこれを裏づけるのであるが、私は、序文で述べたように、この執筆を能う限りにそうした宗教的理解へ誘なわず、「みき」自身の生涯の足跡を忠実に辿り、「みき」自身の内的葛藤の昇華としての教祖へ至る道筋を明らかにしていきたいと思う。そういう意味では、「みき」のこの嫁入り自体については単に史実として了解すれば良いことと思われる。

【中山家の考察】
 中山家は、三昧田村から二十町程東北の二十余戸の農家で成り立っていた布留郷庄屋敷村の庄屋であり、年寄役を務める村役人層の家柄で、「庄屋敷小在所、西からみれば、安達金持ち、善兵衛さん地持ち、はなのかせやは妾持ち」と当時の俚謡に歌われたり、「安達は油屋、中山は鴻ノ池」と噂されるほどの数町の田畑を持つ大百姓でもあり、通称「綿屋の中山様」と呼ばれていた。

 中山家の資産を見るに、その石高は、当時の中山家の米倉にはいかなる不作にあっても四斗俵が山のように積んであり、一説には、「米の百石もとれる家」であったと云われている。古老の伝承とはいえ「百石」という重みは、「天理市史」に紹介された安達家文書の1649(慶安2)年の「年貢免状」によれば、庄屋敷村の村高が三百一石五斗三升一合となっており、又石上神社近世文書のうち、「明治8年7月/郷中村戸人員録」の庄屋敷村についての記述に「戸数三拾戸、人数百三十五人、三百一石五斗三升一合」とあるのを見ると、この時代の村惣高は約三百石と考えることができ、「百石」が事実とすれば、中山家は村惣高の3分の1を占めていたことになる。いずれにせよ、中山家が村有数の資産家であったことは疑いない。

 なお、所有する田地は、1815(文化12)年の隣の安達家の記録によれば同家の所有田地は四町四反八畝とあり、中山家もそれに匹敵するかそれ以上の田地を持っていたと考えることができる。江戸時代の本百姓とは、「田畑合わせて一町歩前後の耕地と屋敷地を持ち、それを家族労働力をもって経営している」ことからすれば、既に豪農と呼ばれるに近い家産を所有する家筋であったことになる。

 中山家は「綿屋」として通称されていたが、これとは別に「明和四丁亥年二月改」と刻印された庄屋敷村質屋善右衛門という私札が残されていることから、中山家が農間渡世に質屋を営んでいたことがわかる。既に中山家では、江戸時代中期の元禄年間の頃において質地としての土地集積をしていたようであり、この頃においては綿花の作付に加えて、綿屋仲間商としての活動に及んでいたようであり、又そうした商業資本としての金銭の出入りが伴うことにより、その過程で金融機関としての質屋業を派生させたものではないかと思われる。

 一般に江戸時代の在村地主型の近世的豪農の特徴として、農作物商品生産者、質地地主、農村金融という側面があり、中山家も又その典型とも云える時流に即応した複合的農業経営にあたっていたものと思われる。江戸時代の中頃から幕末にかけては、本百姓体制が崩壊し、少数の富裕農民と貧しい零落農民への分解が進行して行くこととなったが、そうした現実は大和においても顕著に現われており、そうした中にあって中山家は着実に富農化への道を歩んでいたものと思われる。

 なお、こうして中山家は在村における豪農ではあったものの、村の古くよりの草分けとしての名家ではなかったと考えられる。こうした場合、石上神社の宮座の構成員である年預の家筋であるかどうかにより判明さすことができるが、中山家は、1712(正徳2)年の「補任出シ人数覚」において、庄屋敷村の四軒の年預筋の中に名前はなく、1729(亨保14)年の名簿改めでは庄屋敷村から14名も補任されているにも関わらず、その中にも該当しない。戸数30前後の村からほぼ半数を占める14の筋目がでているにも関わらず、その中に中山家が入っていないということになり、ということは中山家が村の草分けの家柄ではなく他所の出自であることを伺わせることになる。

 ところが、1795(寛政7)年3月の文書に「庄屋敷村年寄 善右衛門」とあり、善兵衛の代に至っては、1832(天保3)年9月の水利権の条約書に「庄屋敷村庄屋善兵衛」、同10年の宗旨御改帳にも「庄屋敷村庄屋善兵衛」と記されていることからすれば、むしろ先代善右衛門辺りから急速に豪農化しつあったものと伺うことができる。

【みきの「自律」足跡行程(1)、嫁入問答】

 ここで、「みき」の宗教的精神史足跡行程とは別に、「みき」の「自律的自由」の足跡行程をも追跡しつつ考察していくこととする。この二つのベクトルが絡み合いながら「みき」の精神史が綾なしていくという私観による。

 「みき」が嫁入り前の条件として提示した、結婚後も「信仰と寺社参りの保証」という一風変わった要請は、それを渇望する「みき」の信仰が相当の深みにあったということを明らかにしているが、ここではこの問答を通して拝察し得る別の重要な意味についても着目してみようと思う。凡そこの当時に女子が結婚するということは、世継をもうけるということと家内労働力としての役割意外にはなかったところ、「みき」が、この問答を通して、結婚の当初より、当時の婦女子にあっては極めて珍しい、ある種の「自律的な自由」の精神乃至は生活の場を端緒として獲得したのではなかったか、ということに着目すべきではなかろうか。信仰心の格別に厚い「みき」ならでは獲得した稀有なものではなかったか。


 もとより賢明な「みき」は、この自律を恣意という意味に使うことはなく、「時代の子」としての影響を受けながら、手さぐりでこの自律を育んでいくこととなる。尤もこの時点での自律は、哲学的な意味での端緒的なものであり、これから先海のものになるとも山のものになるともわからない。この「自立的自由」は、当時の倫理規範であった「女三従の教え(子にしては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う)」意識からの相対的な解放ともなったのではなかろうか。

 但し、「みき」のその後の動きを見守っ行くならは、結論から云えば、「みき」
は、今後この「自律的な自由」の領域を次第に拡大して行くことにより、動乱の時代を当人の思慮さえ越えて飛翔していくことになった。ある意味において、「みき」の人生とは、掌中にしたこの「自律的な自由」を拡大せしめていく過程における、当初は家族との、続いて村落との、更に法律や制度との、最後は「世直し、世の立替」まで志向する闘争となって行ったのではなかろうか。それを思えば、この嫁入り前の信仰と寺社参りの保証問答は、結果的にとてつもない大きな意味を伏在せしめていたということになる。「みき」が掌中にしたこの自律的な自由」こそ、立教の背景にあった着目すべき精神として踏まえておかねばならない、と拝察させて頂く。


【みきの宗教的精神史足跡行程(2)、尼僧願望】
 「みき」の宗教的史実を述べる上で重要なこととして、先に「みき」の信仰の「発心の早さ」を見たが、このようにして芽生えたみきの信仰は、傍目で見られるよりも深く鋭く成長を遂げていき、やがて誰知らぬうちに、生涯を仏の途に仕えたいと思いつめさせる程にその宗教的性情を亢進させて行った。嫁入り前の条件として、世俗的な名誉.地位.財産について求めることはなく、ただひたすらに信仰の継続の許可を求めるほどであった。これを、「みき」の宗教的精神史の第2行程として着目したいと思う。

 「みき」のこうした宗教的感化は決して一時的な戯れでなく、宗教的資質に根ざす深い情動であった。何人も「みき」の御性情が通常人の情動とは大きな差異を示していることに驚かされるであろう。
こうした「みき」の幼くしてよりの豊かな宗教的天分は何処より生じたのであろうか。人生経験何程もない小娘をして、世間並の道を捨て出家の身を願望せしめたということを、我々はどう理解すればよいのであろうか。

 一般に人が信仰を志すには、思春期の頃を発心年齢とし、齢十才前後で真剣な関心を寄せることは極めて珍しく、信仰に至る動機としても、何等かの現実的な身上事情を原因として、充たされない何かを充足させようとして探求するのを常とするのではなかろうか。こうした見地に立った場合、「みき」をして信仰に向かわせる様な身上事情とはいかなるものがあったのであろうか。これまで見てきたように、「みき」は凡そ不足ない家庭で、祖母両親をはじめ近隣の人々の暖かい愛情に包まれてすくすくと成長を遂げていたはずである。こうしてみると、「みき」の信仰発心の早熟さと豊かな宗教的天分を、奇跡的なこととして認める以外には理解できず、教理の「魂の因縁」として説く所以のところと理解すれば容易となるが、はたしてそうであろうか。


 私見によれば、こうした「みき」の宗教的精神の開花は、「みき」の遺伝子に組み込まれた血統的な長尾家の霊統も含めた宗教的な感受性の鋭さに時代の気分が伝播したことに因がある、と拝察させて頂く。つまり、「みき」自身の資質と、その資質が身近な世界、続いてその当時の社会の事情と交接したことにあるのではなかろうか。史上の偉人形成に度々見られるところの「歴史の動向に感応して動く研ぎ澄まされた情緒.感性」を、「みき」もまた強く保持する御身の方ではなかったか、と拝察させて頂く。

 
「みき」にとって、みきを育む家庭的環境に不足はなかったとはいえ、一歩外へ目をやると世間の事情は大きく異にしていたであろう。自身は「お嬢さん」と呼ばれる立場ではあっても、時に連れ立ち遊ぶこともあったであろう近所の子の住まいは粗末なものであり、見出すものは、貧困に呻吟する世界の列なりであったであろう。特に、この頃の農村の疲弊は凄まじく、眼を覆うばかりの荒んだあれこれの現実に出会すことも少なくなかったであろう。又、この時代は身分制社会であり、身分秩序による傲慢と卑屈を見ることにより、下層農民達の生態に憐れを覚える機会も多く、なおかつそうした制度の矛盾がきわだち始めた時代に遭遇していたであろう。加えて、無足人であった前川家では、訴訟、喧嘩の苦情、年貢の猶予の陳情等の雑事が持ち込まれることもままあり、これをこなす父半七の仕事ぶりを通して、社会の複雑なあれこれを見聞する機会が多く、「みき」の小さな胸を傷めることが少なくなかったのではなかろうか。

 
何不自由なく育ち、人からちやほやされる立場で成人していく子供は、人の苦しみなどには無理解な我が儘な子になっていくのが普通であるが、「みき」の聡明さと隔てない慈悲の心厚き心は、逆にその幼き心を傷められることとなり、平穏な生活の中にも社会の不合理と理不尽に困惑することがあったのでなかろうか。そうした意味において、「みき」はまさしく時代の影響を受けた「時代の子」であり、そのひたむきさの度合いは、変動しつつある時代の深刻さと釣り合っていたのではなかろうか。そう考え合わせることによってはじめて理解を容易にしえるものと思案させて頂く。


 幼少時代の「みき」に子供らしい快活さを認めるよりも、やや大人びて物思いに沈む姿がまま為されていた由の伝えがあるが、この辺りの事情を解くことによって理解されるのではなかろうか。つまり本人の気質性行というだけに止まらず、感受性の鋭い「みき」にそうした時代の気分が伝播していたと云えるのではなかろうか。凡庸な者にはわからないほど、「みき」の感受性は豊かで鋭く、その心は深く静かに社会の動向及びその矛盾をまで嗅ぎ分けていたことと拝察させて頂く。

【みきの血筋的宗教的資質考】
 こうした「みき」の資質及び人生観が奈辺から形成されたものであるかを尋ねることも興味深いことと思われる。こうした「みき」の性情の一つに、父母の与えた影響について一言しておくことは、意味のないことではない。

 既に見た様に前川家は、三昧田村の上級農民として村の役をも仰せつかる家柄身分であった。こうした役をこなす上で要求されていた、農民層全体に配慮を及ぼす能力、諸事公正、聞き分けの指導精神がいわば家風家格として前川家の血統に流れていたのではなかろうか。とりわけて父半七正信はこうした立場での働きが有能であった様で、聞き分け上手で、政治的手腕、諸事取り纏めに能力を発揮し、村人からも又領地する当代の藩主/藤堂高猷からも信頼厚かったと云われている。
「みき」の生まれた頃の父半七正信は丁度三十代半ばの働き盛りであり、家作を為すと同時に藩と村の間に立って雑務をこなす、多忙な日々を送る身であったであろうことが推測される。留意すべきは、父半七が読書を欠かさぬ日はないほどの読み書き自在の教養人であったと伝えられていることである。(これにつき、「当時の農民が字が読めない書けない者がほとんどで、上層の者でようやく字が読めるといった程度であった」とする記述が見られるが、正確とは云い難いのではなかろうか。日本の場合、日本語の能力から来る歴史的特徴で、当時も案外と識字率が高かったのではなかろうか) 

 なお半七は学究的な見識家でもあり、蔵書も含めて相当な読書を常としていたらしい。こうした父半七の活躍する折柄は、幕府の屋台骨を揺るがす様な事件の相続く激動期でもあった。既成の価値観が崩壊し新たな理念が要望される変革期でもあった。そういう意味で、半七自身が、時代の激浪に焦燥を感じる質の才気あふれる「士」だったのではなかろうか。こうした父の資質が自然とみきの性情に反映したと考えられなくはなかろうか。在村における前川家の履歴、父祖の社会的立場、その能力を踏まえておくことは、「みき」の生育環境を考える上で重要な示唆になるであろう。しかしながら上述の程にしかわからない。この方面での研究は進んでおらず、資料的に明らかにしうる術がないことが残念であるが、かく伝聞されており、間違いないことと思われる。

 他方、母きぬは同村長尾家の出で、針持つ技に秀でた淑やかな人柄だった。姑おひさとの折り合いも良かったようで、連れ立って檀家寺である丹波市の迎乗寺にお詣りする等、共に信仰心の厚かったことが伝えられている。

 なお、「みき」の母方の実家・長尾家は、日本書紀に「崇神天皇7年11月、長尾市を以て倭大国魂神(大和神社の祭神)を祭(いわ)う主と為す」とあるように、大和朝廷以前のヤマトを統治していたと推定し得るニギハヤヒの命(大和大国魂大神)を祭神として奉祭する「長尾市」直系の末裔であり、「長尾市」以来、何代にも亘って大和国一の宮の大和神社の神主を司り、或いは巫女を出してきた神官の家系であった。この家系的履歴も又「みき」の霊能的な素養の原風景として注目されて良いと思われる。しかしながらこちらの方も上述の程度しかわからない。いずれこの方面での考証が必要であると思われる。
 

 こうして「みき」を取り巻く環境は、その後のみきを予兆させる幾分かの因果を見せており、必ずしも「魂の因縁」なる教説に拠らずとも解明しうるのではなかろうか。

【みきの宗教的資質考(1)、共生志向】
 このような資質を持つ「みき」の生涯を通じて特徴的なことは、先に触れた宗教的天分と「みき」の自律足跡とは別の、「みき」ならではの思想的因子が介在しているように思われる。れんだいこは、この三ベクトルが絡み合いながら「みき」教理が形成されたように窺う。

 
「みき」の思想的因子の一つは、「みき」が自身の幸せを衆人の多幸との調和の中に見出そうとしていたことにある。「みき」が尼僧の境涯を希求していた事実も、「みき」が単に一身の幸を求めての求道的な願いであったというより、悲惨な周辺世界に対する深い感慨を内在させていたのではないかと拝察させて頂く。このことが、幼い「みき」自身の意識にどの程度顕在化していたかどうかは別にして、こうした衆人の苦悩を分かちあい、その喜びも又共に頂こうとする精神は「みき」の生涯を貫く赤い糸であり、終生変わらぬ根源となる。

 「みき」を貫くこうした原理が何処より発しているのかは不明であるが、資質と時代が大いに関係していたものとして理解する以外にはない。この原理はやがて「世直し、世の立て替え」の教えとして発展を遂げていくこととなる。とはいえ、この行程は一本道に平坦に辿り着くわけではなかった。この行程をじっくりと跡づけて行きたいというのが本書執筆の課題である。筆が及ぶかどうかは別にして、私論私観で追ってみようと思う。




(私論.私見)