第4部 1810年~ 文化7年~ 13~ みきの御新造時代、その浄土宗信仰

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【みきの御新造時代のご様子】
 中山家の人となった「みき」は、親から懇々と諭された婦の途そのままに、甲斐甲斐しいご新造さんぶりを発揮することとなった。その様は、ご新造時代の「みき」の精神世界がどの程度これに規制されていたのか定かではないが、「庭訓往来」、「女大学」の教えそのままに過ごされていたやに受け取らせていただく。もし違いがあるとするなら、「女は40歳になるまでは、宮や寺など人の多く集まるところへ、あまり行ってはいけない」に対し、寺の行事的な法会(ほうえ)や説教聴聞会に出向くことを無上の楽しみとしていたことであろうか。

 13才で嫁いだ「みき」にとって、娘から嫁という蚕が繭を破って飛び出した様な生活の大変化であったろうし、自ずと家風の違いというものがありまごつくこともあったであろうが、親に孝養を尽し、夫に素直に仕え些かも逆らうことなく、家事万端ぬかりなく、早朝家族の一番に起床しては朝餉の支度に取り掛り、日昼は炊事、洗濯、針仕事、機織りと家事に勤しみ、夜は翌朝の準備をしてから夜業と息つく暇もなく小忠実な働きぶりを発揮した。

 
結婚前は、百姓仕事の向かぬひ弱い体質を自ら卑下していた「みき」であったが、愚痴一つこぼさなかった。了いは、戸締まりをした後に、嫁ぐ前の条件でもあった静かに仏間に座って念仏を唱え、寝床に就くといった日課であったことであろう。こうして、親の庇護から離れて現実に直面せざるをえなくなった「みき」であったが、積み重ねる日々の生活経験にいかばかりの思いを廻らしていたのであろうか。この頃の「みき」は、当時の家父長的家族制度の下で、中山家に溶け込む事を精一杯にしている時分であろうし、ひたすらこうした生活体験経験の幅を拡げていったことと思われる。農繁期には、男衆と一緒に田植え、草刈り、稲刈りから、麦蒔き、麦刈りと多忙であった。「みき」が後年この頃を回想して「私は、幼い頃はあまり達者ではなかったが、百姓仕事は何でもしました。只しなかったのは、荒田起こしと溝堀りだけや。他の仕事は二人分働いたのやで」と述懐するように、当時男の仕事とされているこの二つの力仕事を除いては、百姓仕事は何一つとして為さらぬ事はなかったという程に、実に懸命の働きづくめであった。

 なお、当時の大和地方では、大和木綿と云われる良質の綿の作付が盛んになっており、綿作栽培はなかなかに活気を帯びていた。畿内ではいち早く、この大和地方が綿作を行い始め、大和絣(かすり)の好調な販路の進展に伴い、元禄年間(1688~1704年)には、河内、伊勢、播磨等にも広がりを見せて行くこととなった。綿作は、平年作の場合は稲にたいして肥料、手間、収穫三倍といわれ、豊凶の差が著しく、多分に投機的な性格を持ったものであるものの、単位面積当たりの収穫量は水稲以上であった為、その好調な販路の進展にともなって、当時の農民層の大きな現金収入源として、特に大和地方で盛んであった。なかでも中山家は「綿屋」と称されるほど沢山の綿花を栽培していたので、こうして田畑ともどもの働きがが入り用であり、加えて中山家は在所一番の地持ちであり、奉公人、使用人も多くその采配も大変であったが、「みき」は男衆女衆の人使いの手並みも鮮やかで、優しく労うと同時に率先して働いた。後日、教理で「早起き、働き、正直」と喩すことになるが、わが身の経験に裏打ちされたお言葉であったと思われる。

 親族付合にも粗相なく、近所の気受けもよく、いつしか村内近村にまで「中山さんの嫁御料は、働き者で気立ての優しい、申し分のない嫁御料」との評判を得たという。こうして、現代的に見ればまだ13才という少女に過ぎなかった「みき」ではあったが、生活の大変化の中で、懸命になって立ち働き、人間的成長の大いなる試練をこなしている時期が窺えて興味深い。この時期文化9年(1812年)8月5日、みき15才の折、前川家の祖母おひさが出直している。

 この頃の逸話として、次の様な伝えがある。嫁いで間もない頃の事、「みき」が姑の髪鋤を上手に為すのをみて、舅の善右衛門が「そなた髭をよう剃るか」と顔の髭剃りを云いつけたところ、剃刀と砥石を持出し、器用に剃刀を合わせて髭を剃られたので、「この子はなんとまあ器用な子や」と、舅にいたく気に入られ喜ばせた。こうして忙しいさ中ではあるが、以後は「みき」の役としてお引受けされたと云う。「みき」が、舅姑夫婦に気にいられている様子を伺うことができるであろう。

 又、綿木引きをしても普通は一日に男二段、女一段半と云われていたのを、二段半抜くほどの人の倍の働きぶりであった。或る日、作男の一人が見かねて、「ご新造さん、そのようにお働きなさっては体に障ります。もっと楽になさっては如何ですか」と話したところ、「ありがとうさん。私は、生れつき体が達者な方ではありませんから、少しは余計に働かしてもらった方が丈夫になって良いのです」と晴れやかに答え、なお手を休めなかったという。この逸話は、「みき」の懸命な働きづくめの様子とみきが家作人に厚意の言葉を頂く程に家内の受けが良かったということを問わず語りしている点で味わい深いであろう。又、「みき」は機織りの技術に天分を見せ、どのように込み入った絣でも柄を自分で考えて組み立て、自在に織り上げた。しかも、一人前といわれた人が普通二日かかるものを、一日で織り挙げることも度々であったという。又、「みき」の性質は温和で、慈しみ深く、奉公人たちにも優しい言葉をかけて労り、仕事休みの時などは、自ら作った弁当を持たせて遊山に出したりした。

 嫁いだ翌年14才の時、当時の習慣にあった「やぶいり」(奉公人や嫁が盆と正月に主人に休みを貰って実家へ帰った当時の風習)で正月に初めての里帰りをしたが、その時、着物は入嫁の折に召した振袖で、髪は年増の三十女の結う両輪という出で立ちだった。その姿を見た村の人たちは、「みきさんの格好、ありゃなんじゃいな」、「三十振袖や」と、不釣合な姿を私語いたという。

 この逸話によって、「みき」が、この頃早くも嫁としての気苦労と重労働が重なり、ふけこんでいた証左として理解することもできよう。又、その聡明さが年に似合わぬ程の大人びていた様子を漂わせていたとも解することができよう。けれども、思案するのに、恐らく「みき」は、その美形の姿態によってと言うべきか、にも拘らずと言うべきか衣服髪飾り等外形的なものについては、平生より質素で地味を好む性格だったと伺う方が自然ではなかろうか。つまり、「みき」は世間並の風体にはあまりこだわらない質の方ではなかったかと垣間みることができるように思われる。逆に云えば、さほどまでに心の内面的な世界へ重きをおいていたのでは、と拝察させて頂くことができる。 

【当時の婦女子教訓書考】
 「みき」の御新造時代は、「庭訓往来」、「女大学」の教える通りのありようだったと思われる。そこで、簡単に確認しておく。

 
当時の寺小屋では、婦女子への教訓書として「庭訓往来」、「女大学」(貝原益軒)を手本として習字させ、読み書き且つ修身の指導をしていた。往来物は現在七千種ほど存在が確認されているが、そのうち「女今川」、「女大学」、「女小学」、「女庭訓(ていきん)」、「女中庸」など約一千種が女子用のものになっており、一般に女訓書(じょくんしょ)と云われる。その中でも、「女今川」と「女大学」の二書の系統が全体の中でも大きなウエイトを占めている。「女今川」は、今川了俊(いまがわりょうしゅん、室町時代の武将で歌学者)が息子に向けて記した戒めになぞらえて、女子用に作り変えられたものである。

【「女大学」の世界】
 「女大学」は、享保年間(1716-1736)頃の刊行で、江戸時代の中期以降広く普及した女子用の初等教育用教科書である往来物(おうらいもの)の一種である。「女大学」の著者は不明で、貝原益軒(江戸期の儒学者、教育思想家)の「和俗童子訓」巻5の「女子に教ゆる法」を基に綴られたと云われている。最古の版本は、1716(享保元)年、大坂柏原清右衛門、江戸小川彦久郎合梓(ごうし)の「女大学宝箱」と云われている。明治初年以降は、活字本による「女大学」が公刊され、女子用の修身本として、第二次大戦終了時まで使用された。

 「女大学」は女子の修身、斉家の心得を仮名文で記したもので19条から構成されている。「嫁入り道具を立派にすることより、幼少の頃からのこの19条教育の方が婦人を幸せに導く」として、「この条々を()く教ゆること、一生身を保つ宝なるべし」と説き、女性の心得が次のように諭されている。女大学宝箱本文」を参照する。
 それ女子(にょし)は成長して他人の家へ行き、舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)に仕(つか)ゆるものなれば、男子(なんし)よりも、親の教えゆるがせにすべからず。父母寵愛(ちょうあい)して恣(ほしいまま)に育てぬれば、夫の家に行きて、必ず気随(きずい、我がまま)にて疎(うと)まれ、又は舅の誨(おし)え正しければ堪え難(がた)く思い、舅を恨み誹(そし)り、悪しくなりて終(つい)には追い出だされ、恥を曝(さら)す。女子の父母、我が順(おし)えなき事を謂わずして、舅、夫の悪しきと而己(のみ)思うは誤りなり。これ皆な女子の親の教えなき故なり。
 (概要訳) 女児はひとえに親の教えひとつで育つものである。女子はいずれ嫁に入り、夫と親に仕えるのであるから、幼少の頃から良い躾(しつけ)を身につけさせねばならない。
 女は容(かたち)よりも心の滕(まさ)れるを善(よ)しとすべし。心緒(こころばえ)無美(よしなき)女は心騒がしく、眼(まなこ)恐ろしく乱して人を怒り、言葉訇(あら)らかに物をいい、さがなく口諬(き)きて(下品な口をきいて)人に先立ち、人を恨み嫉(ねた)み、我が身に誇り、人を謗(そし)り笑い、我れ人に滕り皃(かお)なるは皆な女の道に違えるなり。女は唯(ただ)和(やわ)らぎ順(したが)いて貞信に(心正しく操を守って)、情(なさけ)深く静かなるを淑(よし)とす。
 (概要訳) 女は容貌より心の勝っているのがよろしい。容姿よりも心根の善良なことが肝要で、従順で貞節そして情け深くしとやかなのがよい。
 女子は、稚(いとけな)き時より、男(おとこ)女(おんな)別(わか)ちを正しくして、仮初(かりそめ)にも戯(たわぶ)れたることを見聞かしむべからず。古(いにしえ)の『礼』に、『男女(なんにょ)席(しきもの)を同じくせず。衣裳をも同じ処に置かず。同じ所にて浴(ゆあみ)せず。物を請(う)け取り渡すことも、手より手へ直(じき)せず。夜行くときは、必ず燭(ともしび)燈(とも)してゆくべし。他人はいうに及ばず、夫婦、兄弟にても、別を正しくすべし』となり。今時(いまどき)の民家は、かようの法を知らずして、行規(ぎょうぎ)を乱りにして名を穢(よご)し、親兄弟に辱(はじ)を与え、一生身を空(いたずら)にする者あり。口惜しき事にあらずや。『女は、父母の命(おおせ)と媒妁(なかだち)とに非ざれば、交わらず親しまず』と、『小学』にも見えたり。仮令(たとい)命を失うとも、心を金石のごとくに堅くして、義を守るべし。
 (概要訳) 女子は圧さない時より男女の別を正しくして、独自の徳を身につけなければいけない。女子は日常生活全般に亘り、男女の別をきちんとしなければならぬ。
 婦人は夫の家を我が家とする故に、唐土(もろこし)には嫁入りを「帰る」という。我が家に帰るという事なり。縦(たとい)夫の家貧賤なりとも、夫を怨(うせ)むべからず。天より我に与え給える家の貧しきは、我が仕合せの凶(あ)しき故なりとも思い、一度(ひとたび)嫁入りしては、その家を出ざるを女の道とすること、古(いにしえ)の聖人の訓(おし)えなり。し女の道に背き、去らるる時は、一生の恥なり。されば婦人に七去(しっきょ)として、悪しきこと七つあり。
一には、嫜(しゅうとしゅうとも)順(したが)わざる女は去るべし。(不忠)
二には、孑なき女は去るべし。これ妻を娶(めと)るは子孫相続の為なれば也。しかれども、婦人の心正しく行儀よくして妬(ねた)むこころなくば、さらずとも同姓(おなじうじ)の子を養うべし。あるいは妾(てかけ)に子あらば、妻に子なくとも去るに及ばず。(不妊)
三には、淫乱なれば去る。(淫乱)
四には、悋気(りんき)深ければ去る。(焼きもち)
五に、癩病(らいびょう)などの悪しき疾(やまい)あれば去る。(病気)
六に、多言(くちまめ)にて慎みなく、物いい過ごすは、親類とも悪しくなり、家みだるるものなれば去るべし。(多弁)
七には、物を盗む心あるは去る。(盗癖)
 この七去は皆な聖人の教えなり。女は一度嫁いりしてその家を出だされては、仮令(たとい)再び富貴(ふうき)なる夫に嫁すとも、女の道に違(たが)いて大いなる辱(はじ)なり。
 (概要訳) 女性にとって婚家が我が家となる。女は一度嫁入りした以上は、その家を出ないことが女の道である。離縁されることは女の恥である。婚家では七去の法に従うべし。一つ不忠。二つ不妊。三つ淫乱。四つ焼きもち。五つ病気。六つ多弁。七つ盗癖。守れない嫁は離縁されるべき。
 女子は、我が家にありては、わが父母に専ら孝を行なう理(ことわり)なり。されども、夫の家に行きては、専らを我が親よりも重んじて厚く愛(いつく)敬い、孝行を尽くすべし。親の方(かた)を重んじ、の方を軽んずることなかれ。の方の朝夕の見まいを闕(か)くべからず。の方の勤むべき業(わざ)を怠るべからず。もし命(おおせ)あらば、慎み行ないて背(そむ)くべからず。万(よろづ)のこと、舅、姑に問うて、その教えに任(まか)すべし。舅、姑もし我を憎み誹(そし)り給うとも、怒り恨むることなかれ。孝を尽くして誠をもってつかゆれば、後(のち)は必ず仲好(よ)くなるもの也。
 (概要訳) 嫁いだら、生家の親より、夫方の舅、姑に孝養をつくすべきである。舅、姑の仰せがあれば背かず、舅、姑の教えの通りに行いなさい。
 婦人は別に主君なし。夫を主人と思い、敬い慎みて事(つか)うべし。軽(かろ)しめ侮(あなど)るべからず。総じて婦人の道は、人に従うにあり。夫に対するに、顔色言葉づかい慇懃(いんぎん)謙(へりくだ)り、和順なるべし。不忍(いぶり、不平をいうこと)にして不順なるべからず。奢りて無礼なるべからず。これ女子第一勤めなり。夫の教訓あらば、その仰せを叛(そむ)くべからず。疑わしきことは夫に問うて、その下知(げち)に随うべし。夫問うことあらば正しく答うべし。その返答疎(おろそ)かなるは無礼なり。夫もし腹立て怒るときは、恐れて順(したが)うべし。怒り諍(あらそ)いてその心に逆(さから)うべからず。女は夫をもって天とす。返すも夫に逆らいて天の罰を受けべからず。
 (概要訳) 婦人は夫を主君として仕えなさい。夫を軽んじ侮ってはいけない。夫の教えに背いてはいけない。疑わしいことは夫に尋ねて、その言葉に従いなさい。女は夫は天としなさい。夫に逆らって天罰を受けるようなことをしてはいけない。
 兄公(こじゅうと)、女公(こじゅうとめ)は夫の兄弟なれば、敬うべし。夫の親類に謗られ憎まるれば、舅、姑の心に戻(そむ)きて、我が身の為にも宜しからず。睦まじくすれば、の心にも(かな)う。又娌(あによめ)を親しみ穆(むつ)まじくすべし。殊更夫の兄嫂(あによめ)は厚くうやまうべし。我が昆(あに)、姉と同じくすべし。
 (概要訳) 夫兄弟や親戚を敬愛し、睦まじくしなさい。
 嫉妬の心、努努(ゆめゆめ)発(おこ)すべからず。男淫乱ならば諫(いさ)むべし。妬(ねた)み甚だしげれば、その気色、言葉も恐ろしく冷(すさ)まじくして、却って夫に疎(うと)まれ見限らるものなり。もし夫不義過(あやま)ちあらば、我が色を和(やわら)ぎ、声を雅(やわらか)かにして諫むべし。諫めを聴かずして怒らば、先ず暫く止(とど)めて、後に夫の心和らぎたる時、復(また)諫むべし。必ず気色を暴(あら)くし、声をいららぎて、夫に逆(さから)い叛くことなかれ。
 (概要訳) 夫の浮気に対して嫉妬の心をおこしてはならない。その諌(いさ)め方として、夫に対して感情的にならず、落ち着いて諭すのが良い。ヒステリーになり金切り声をあげぬのが賢い。
 言語(ことば)を慎みて多くすべからず。にも人を誹(そし)り、偽りを云うべからず。人のりを聞くことあらば、心に修めて人に伝え語るべからず。りを云いつたうるより、親類共間の仲悪しくなり、家の内おさまらず。
 (概要訳) 言語(ことば)を慎みなさい。人の悪口、悪評を伝えぬのが良い。気をつけないと家族、親類の不和を招く元になる。
10  女は常に心遣いして、その身を堅(かた)倶謹み護るべし。朝(あした)は早く起き、夜は遅く寝(い)ね、昼はいねずして、家の内の事に心を用い、織り、縫い、績(う)み、緝(つむ)ぎ、怠るべからず。また茶、酒など多く呑むべからず。歌舞妓小歌(こうた)浄るりなどの淫(たわむ)れたる事を、見聴くべからず。宮・寺など都(すべ)ての人の多く集まる処へ、四十歳より内は余りに行くべからず。
 (概要訳) 婦人は身持ちを堅くせねばならない。朝は早起き、夜は遅く寝、昼寝せず、家内の機織り、裁縫、綿打ち、糸紡ぎを怠ってはならない。40歳になるまでは、歌舞伎や、神社仏閣等、人の多く集まるところへ行かぬのが良い。
11  巫(みこ)、覡(かんなぎ)などのことに迷いて、神仏(かみほとけ)汚(けが)し近づき、猥に祈るべからず。只(ただ)人間の勤めをよくする時は、禱(いの)らずとても神仏は守り給うべし。
 (概要訳) 巫(みこ)、覡(かんなぎ)に迷ってはならない。神仏に頼り過ぎの祈り過ぎは良くない。人事を尽くせば神仏が守ってくれるものだ。
12  人の妻となりては、その家をよく保つべし。妻の行ない悪しく放埓(ほうらつ)なれば、家を破る。万事倹(つづま)やかにして、費(つい)えを作(な)すべからず。衣服、飲食なども、身の分限にしたがい用いて、奢(おご)ることなかれ。
 (概要訳) 妻はその家の分限に従って家庭を切り盛りしなければならない。万事倹約を旨とせよ。
13  若き時は、音の親類、友達、下部(しもべ)等の若き男には、打ち解けたる物語し、近づくべからず。男女(なんにょ)の隔てを固くすべし。如何(いか)なる用ありとも、若き男に文(ふみ)など通わすべからず。
 (概要訳) 主婦がまだ若い場合は、たとえ夫の親戚や下男であっても若い男に近づいてはならない。
14  身の荘(かざ)りも衣裳の染いろ模様なども目にたたぬようにすべし。身と衣服との穢れずして潔(きよ)げなるはよし。勝(すぐ)れて清(きよ)らを尽くし、人の目に立つほどなるは悪し。只我が身に応じたるを用ゆべし。
 (概要訳) 衣服衣裳は目立たぬようにするのが良い。清潔にしておくのは良い。
15  我が郷の親の方(かた)私(わたくし)し、夫の方の親類を次にすべからず。正月、節句などにも、まず夫の方を勤めて、次に我が親の方をつとむべし。夫の許さざるには、何方(いずかた)へも行くべからず。私に人に饋(おく)りものすべからず。
 (概要訳) 実家よりも夫方の親類を大切にあつかえ。自分の親への勤めを果たすときでも夫の許しを得ることが肝要である。
16  女は、我が親の家をば継がず、の跡を継ぐゆえに、和が親よりもを大切に思い、孝行を為すべし。嫁入りしてあとは、我が親の家に行くことも稀(まれ)なるべし。まして、他の家へは、大形(おおがた)は使いを遣わして音問(いんもん)をなすべし。又我が親郷(おやさと)の良きことを侈(ほこ)りて讃(ほ)め語るべからず。
 (概要訳) 嫁ぎ先のに、生家の親よりもあつく仕えよ。みだりに他人の家へ出入りするな、普段は使いをやるのがよい。
17  下部余多(あまた)召しかかうとも、万(よろづ)の事自ら辛労を忍(こら)えて勤むること女の作法なり。の為に衣(きもの)を縫い、食を調え、夫に仕えて、衣(きぬ)を畳み、席(しきもの)を掃き、子を育て、汚れを洗い、常に家の内に居て、猥(みだ)りに外へ出ずべからず。
 (概要訳) 下男下女を多数使う際には苦を使うのが良い。任せきりでなく、自分の労苦をいとわずやるのがつとめである。、夫、子に対して不足なきようにしなさい。常に家の内に居て、猥(みだ)りに外へ出ないのが良い。
18  下女を使うに心を用ゆべし。云う甲斐なき下﨟(げろう)は習わし悪しくて智慧なく、心奸(かたまく、心がねじけていること)しく、もの云うこと祥(さが)なし。夫のこと、舅、姑、姨(こじゅうと)のなど、我が心に合わぬ事あれば猥(みだ)りに譏(そし)り聞かせて、それを却っての為と思えり(主人である妻へ忠義づらをしている)。夫人もし智慧なくしてこれを信じては、必ず恨み出来安し。元来(もとより)夫の家は皆な他人なれば、恨み叛き恩愛を捨つること安し。構えて下女の詞(ことば)を信じて、大切なる嫜、姨の親しみを薄くすべからず。もし下女れて多言(くちがま)しくて悪しき者ならば、早く追い出すべし。か様の者は、必ず親類の中をも云いさまたげ、家を乱す基いとなるもの也。恐れるべし。又卑しき者を使うには、気に合わざること多し。それを怒り罵りて止まざれば、約々(せわせわ)しく腹立つこと多くして、家の内静かならず。悪しき事あらば、折々云い教えて、誤りを直すべし。少しの過ちは、忍(こら)えて怒るべからず。心の内にはあわれみて、外(ほか)には行規(ぎょうぎ)を固く訓(いましめ)めて、怠らぬ様につかうべし。与え恵むべき事あらば、財を惜しむべからず。但し、我が気に入りたるとて、用にも立たぬ者に猥りに与うべからず。
 (概要訳) 下女には注意せねばならない。性格が悪くおしゃべりな下女は碌なことにならないから解雇すべきである。褒美をやるときはけちけちしないで与えるのが良い。
19  凡そ婦人の心様(こころざま)の悪しき病は、和らぎ順(したが)わざると、怒り恨むると、人を謗(そし)ると、智慧浅きとなり。この五つの疾(やまい)は、十人に七八は必ずあり。これ婦人の男に及ばざる所なり。自ら顧み戒めて改め去るべし。中にも智慧の浅きゆえに、五つの発(おこ)る。女は陰性(いんしょう)なり。陰は夜にて暗し。所以(ゆえ)に、女は男に比(くら)ぶるに、愚かにて目の前なる可然(しかるべき)ことをも知らず。又人の誹(そし)るべきことをも弁(わきま)えず。わが夫、我が子の災(わざわい)と成るべき事をも知らず。科(とが)もなき人を怨み、怒り、呪詛(のろい)、あるいは人を妬み憎みて、我が身独(ひと)り立たんと思えど、人に憎まれ疎(うと)まれて、皆な我が身の仇となることを知らず、最(いと)はかなく浅猿(あさま)し。子を育つれども、愛に溺(おぼ)れて習わせ悪し。斯く愚かなる故に、何事も我が身を謙(へりくだ)りて夫に従うべし。の法に、『女子を産めば、三日床(ゆか)の下に臥(ふ)さしむる』といえり。これも、男は天に仮(たと)え、女は地に象(かたど)るゆえに、万(よろづ)のことにつきても、夫を先立て、我が身を後にし、我がなせる事に能(よ)きことありとても、誇る心なく、赤悪しきことありて人に云わるる迚(とて)諍(あらそ)わずして、早くあやまちを改め、重ねて人に謂われざるように我が身を敬(たしな)み、また人に侮(あなど)られてもはらたら憤(いきどお)ることなく、能く堪えて物をおそれ慎むべし。如斯(かくのごとく)心得なば、夫婦も仲、おのずから和らぎ、行く末ながく連れそいて、家のうち穏やかなるべし。
 (概要訳) 主婦の心の持ち方として、女の心ざま悪しき五種の病気(従順であれ、怒り恨むことなかれ、人の悪口をいうな、ねたむな、思慮浅くするな)に気をつけ、徳を身につけるのが良い。
 右の条々、稚(いとけなき)きときより、よく訓(おし)ゆべし。又書き付けて、折々読ましめ、忘るることなからしめよ。今の代の人、女子(むすめ)に衣服道具など多く与えて婚姻(よめいり)せしむるよりも、この条々をくおしゆること、一生身を保つ宝なるべし。古き語(ことば)に、『人よく百万銭を出して女子(むすめ)嫁(か)せしむることを知って、十万銭を出して子をおしゆることを知らず』といえり。誠なるかな。女子の親たる人、このを知らずんばあるべからず。かしこ。
益軒貝原先生述 享保元丙申八月吉日

書林 江戸日本橋南一丁目 小川 彦九郎
    大坂心斎橋順慶町 柏原清右衛門
 慶安御触書(江戸幕府が農民統制のため発令した幕法とされていた文書。原本は発見されておらず、写本によれば百姓に対し贅沢を戒め、農業など家業に精を出すよう求めたものであり32ヵ条と奥書から成る)は次のように記している。
 「幕府の法令を怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えず、また名主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること」。
 「酒や茶を買って飲まないこと。妻子も同じ」。
 「農民達は粟や稗などの雑穀などを食べ、米を多く食べ過ぎないこと」。
 「農民達は、麻と木綿のほかは着てはいけない。帯や裏地にも使ってはならない」。
 「早起きをし、朝は草を刈り、昼は田畑を耕作し、夜は縄を綯い、俵を編むなど、それぞれの仕事を油断なく行うこと」。
 「男は農耕、女房は機織りに励み、夜なべをして夫婦ともよく働くこと。たとえ美しい女房であっても、夫のことをおろそかに存じ、大茶を飲み、寺社への参詣や遊山を好む女房とは離別すること。しかし、子供が多くあり、以前から色々と世話をかけた女房であれば別である。また、容姿が醜くても、夫の所帯を大切にする女房には、親切にしてやるべきである」。
 「煙草を吸わないこと。これは食物にもならず、いずれ病気になるものである。その上時間もかかり、金もかかり、火の用心も必要になるなど悪いものである。全てにおいて損になるものである」。

【みきの「自律」足跡行程(2)、御新造時代】
 「みき」を見ていく場合に、先に述べた自律の発展行程を追って行くことがカギとなることは前述したところである。新婚直後のみきにとって、「自律的な自由」とは、例え一日の内の寸暇を惜しむような一時であったとは云え、夜業仕事を終えた後の仏間に座っての一人念仏を唱和する片時の間がそれであった。こうして「みき」は、日中の働きと夜業を終えてからの一時の信仰とを見事に両立させながら日々を経る身となった。既に述べたように、この「自律的な自由」は、当時の婦女子、嫁にあっては極めて珍しいものであり、信仰心の格別に厚い「みき」ならでは獲得したものであったが、御新造時代がその原初的な始まりとなった。

 
ところで、「この自由な一時」は、日々の生活の積み重ねの中にあって、「みき」自身を埋没させることなく自己を保ちえたという効能をもたらしたようにも思われる。この当時世の中は動乱の様相を帯び始めていた。何につけ感受性の鋭い「みき」は、こうした時代の息吹を感じ取ることも一方ならぬものがあった。こうした時代との邂逅に、「みき」が掌中にしたこの「自律的な自由」精神がその後の「みき」の成育に重大な影響を与えて行くこととなった、と拝察させて頂く。「みき」自身の内在的発展をみようとしない立場からは、見えてこないことであるけれども、「みき」の信仰史的変遷をみてゆく場合、やがてこの「みき」の「掌中の自由」の貴重な深い意味が次第次第に明らかにされて行くこととなる。

【みきの宗教的精神史足跡行程(3)、浄土宗信仰】
 御新造時代の「みき」の信仰は、どの様な為され方であったのであろうか。人一倍の働きを見せ中山家の一員に溶け込むことに懸命なこの頃のことである。信仰に向かうほどの余裕が果たして可能であったであろうか。驚くべきというか、「みき」は、嫁ぐ際の条件にまで高めていた信仰を決して空証文とはせずに、結婚によってもどんなに忙しく疲れた日々においても、念仏称名を欠かすことなく、浄土宗信仰を更に深め精進して行くことになった。この信仰過程をみきの宗教的精神史足跡の第3行程として捉えておこうと思う。

【浄土宗について】
 さて、みきの宗教的資質の発心を開き、やがて尼僧願望へと志を向かわさせ、尼僧の途が閉ざされるやその信仰を結婚の条件にまで高めさす栄誉を担い、実に嫁いで後の御新造時代のこの時期にまで一途な念仏を唱えさせしめたのは浄土宗であった。その浄土宗とは、どのような教義を体系としているのであろうか。この辺りでその機縁を取り持った浄土宗について一瞥しておきたい。
 浄土信仰は、7世紀の中頃日本に伝えられ、空也(903~972)によって民衆の間に広められていった。空也は人々に阿弥陀仏の信仰を説き、常に念仏を唱え、諸国を廻って厳しい修行を重ねた、と伝えられている。

 浄土宗は、1175年(承安5年)に法然上人(1133~1212)によって開かれた。法然は、岡山県久米南町の出身で、9才の時に父の非業の死にあって以来出家して比叡山で修業したが、43才の時、念仏の教えに出会って感動し、比叡山を下りて、京都の町でその教えを説くこととなった。これが浄土宗の起こりである。

 ちなみに法然に機縁を取り持った念仏の教えは、次の一節であった。「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行往坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、是れを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に」(唐の善導大師著「観無量寿経疏」)。 「その昔、世自在王仏の説法を聞き、菩提心を起して沙門となった法蔵菩薩(ダルマカーラ)という修行僧がいた。彼は仏の本願を自力ではなく、他力(念仏)として構想し、それをひたすら遂行する。その結果、彼は見事に往生し、西方極楽往生の主=阿弥陀仏として成仏する。それ故、仏の本願に至るには、ただ念仏により、念仏によってのみ、達成されるのである」。

 その宗義書とも言える浄土和賛は、「南無阿弥陀仏」で始まる。「.娑婆界をば厭ふべし、厭ば苦海を渡りなん、安養界を願ふべし、願ば浄土に生きるべし、草の庵は静かにて、八功徳池に心すみ、夕べの嵐音なくて、七重宝樹に渡るなり...」、「....泣くも笑うも五十年、むなしく過ぎぬる夢ぞかし。あても力も蓄えも、身に付くものとて何がある。たましい中に去りぬれば、再び帰らぬ死出の旅。名無阿弥陀物、阿弥陀物、たすけたまえや、弥陀如来」という文句に明らかなように、「流転定めなきかりそめの世界という頼りにならないものを頼りにし、当てにもならないものを当てにするところに嘆きや悲しみや苦悩は絶えず」、「阿弥陀如来こそ、西方浄土で衆生の済度を念じて止まぬ大慈大悲の仏であり」、「人の力には限りがあるも阿弥陀様のお力は無限でありあまねく衆生の信をみて救いの手を差し延べ給いており」、「されば人は一切のはからいを捨て阿弥陀様のお慈悲にすがりただ一向に念仏称名せよ」という「欣求浄土」(ごんぐじょうど).「厭離穢土」(おんりえど)の思想を根幹にして、「人が人を救うことは出来ず」、そうした人間のさまざまなはからいを捨てて、ひたすらに仏の救済の力すなわち「他力本願」を信じ、「阿弥陀如来に寄り添うことによりのみ救われる」、と云う阿弥陀如来信仰を基調としている。

 ここでは「阿弥陀仏一仏に帰依し」、「阿弥陀仏に救け給えと手を合わせ、口に念仏する素直な心」を「深心」と言い、信者としての大切な要件とされた。つまるところ阿弥陀仏の救済力を信じ、念仏を唱えることにより、心身の安らかさが生まれ、その生を全うすることにより、死後は阿弥陀仏のおはします浄土へ生まれさせて頂けると、いうのが教えであった。

 浄土宗は、阿弥陀仏信仰を基調としていた。浄土宗において阿弥陀仏とは、限りない慈悲を垂れる、善人悪人の別を問わず慈悲を垂れる、知っていながらも、なお悪を行い、苦界に沈むしかない人間を、そのままにそれ故に救い助ける、念仏を唱えれば、救いの手を差し出さざるをえない仏-それが阿弥陀仏である。そこには何らの差別はない。光の仏(光明仏)であるアミターバ(阿弥陀仏)は、世界をあまねく照らし出す。漆黒の闇の中で苦吟する全ての人々を救う最高仏であった。この教説は当時の民衆にとって有り難いものとなり、信仰者を獲得していくことになった。

 浄土宗の原則は、至誠心にある。信仰の境地として教えられている。至誠心に基づき、助けたまえと心に念じ、手を合わせ、口に念仏し、ひたすらに阿弥陀仏に帰依すれば、必ず浄土に救われるという教理となっている。心と口と形の身口意で阿弥陀仏にお願いする信仰が浄土宗の本義となっている。この教えは、当時の社会にあって身分階層の差別も男女の差別も無かったことにより、多くの民衆に受け入れられ、仏教が生活と結びついた信仰へと変遷していった契機を為す点で意義深い。

【浄土宗の他力本願について】
 浄土宗の他力本願は、浄土真宗の開祖親鸞によって明確にされた。親鸞は「教行信証」の中で、「悲しいかな、愚禿(ぐとく)親鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山(だいせん)に迷惑して定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快(たのし)まざることを。恥ずべし、傷むべし」と述べている。親鸞は、そうであるが故に、弥陀の本願によって救われる道筋を発見した。自己のはからいに絶望するはてに、弥陀に自己の全存在を預け、その絶対他力のただ中で救済されていく道を問うた。

【「お道信仰における浄土宗の及ぼした意義」考】
 ここで浄土宗教義を語る意義は、浄土宗の「南無阿弥陀仏」を唱える信仰礼拝要領が、終生に亘る「みき」の信仰礼拝要領を決定づけたことにある。「みき」は、その信仰史として、今後、浄土宗、真言蜜教、山伏修験蜜教、古神道等々へと歩みを進めて行くことになるが、教義教説の違いに関わらず、「南無」と唱える礼拝要領は変わることがなかった。「南無」と唱えることは、仏教各宗派共通の礼拝要領であり、浄土宗に限定されるものではないが、各宗派により多少の違いがあるようでもあり、そういう意味において、浄土宗的な「南無」の礼拝要領が、「みき」の信仰における最初の刻印となったことをここで着目しておこうと思う。

 事実、この影響には大きなものがあったことと思われる。ちなみに、「南無」とは、「帰命頂礼」と「帰投身命」の二つを意味しており、普通「帰命」と訳される。「命」とは、生き方という意味であり、「帰」するとは、一体になるという意味であり、「頂礼」というのは、「頂いて拝礼する」という意味である。つまり、「帰命頂礼」とは、心の持ち方として、「仏」に助け給えと、ただひたすらおすがりする素直さでもって、「仏」と一体になるという信仰を意味している。「帰投身命」とは、行い方として、身も心も投じて「仏」に帰す。つまり、私の身も生き方も「仏」に帰して生きるという信仰を意味している。他に、仏教界には「即身成仏」という言葉がある。これは、身体はそのままに、心は「仏」となることである。「仏」とは、信賞必罰の神の存在や霊魂不滅論からくる天国、地獄、生まれ変わりの輪廻論などの、あらゆる悩盲から解脱した者という意味であり、「解脱」とは、真理にめざめた者、悟った者に達っした状態を云う。本来の仏教では、「仏」とは、死人を指す言葉ではなく、仏様といって何かのご利益をくれるような超越的なものでもない、又お釈迦さま一人だけを指すものでもない、いわば、私、釈迦族出身のゴーダマ.シッダルダは、第一号の仏真理であり、誰でもが「仏」となれる素質を持った存在であり、世界中一日も早く私のように悩盲から目覚めなさいというのが、釈迦の教えであった。

 後年、みきは、神懸かりを経て立教することになるが、その際の信仰礼拝要領として、「南無転輪王の命」という教語を確立する。「南無転輪王の命」とは、帰投身命転輪王、つまり転輪王の心となって生きますという誓いの祈りである。特徴的なことは、法界の救世主としての「仏」ではなく、俗界の救世主としての転輪王に対し、身はそのままに、心は転輪王の命となって生きる、ということにあった。更に特徴的なことは、みきの云う転輪王は、従来の俗界の救世主のみならず、転輪王は、世界を助けたい「実の神」であると共に、生命あるものを元こしらえた「元の神」でもあるというものだった。人間も、この世の始めだしの元一日に立ち戻って、人を助けるのが真の誠という本性に目覚めて、銘々が転輪王のような心になって生きてもらいたいというものだった。簡単に云うと、従来までのは神仏にすがる信仰であり、みきの教えは、自分がたすけたい一条の神になるという信仰だった。

 (当時の国内社会事情)
 「みき」が嫁いだ文化7年前後のこの時代は、天災地変の多い年であった。農村経済は、幕府の経済政策の失政と相俟って深刻な打撃を蒙りつつあり、こうした事情は大和においても大差なく、赤子の間引き、捨て子、妻や娘の人身売買、離散等が頻繁に見られていた。この頃の社会事情として資料により伺うと、まず文化年間は天災地変の多い年であった。1812(文化9)年の夏に、「大水、布留の烏帽子岩三間流レ大橋流失ス、丹波市青石橋浸水五尺ニシテ、家屋八戸流失ス」(奈良県山辺郡史)ほどの激しい風雨のあったことが記録されている。ただでさえ、窮状著しい農家への打撃は、いかばかりであったろうか。 

 この頃幕府、各諸藩は、享保以来続いていた財政緊縮政策と全国的な諸物価の高騰が、農村経済に打撃を与えていたことの打開策として、農村の振興政策に懸命に取り組んでいた。特に文化年間に入って新田開発を奨励し、一時的には功を奏し、連続的に続いた豊作と重なって、農家に暫しの潤いを与えることとなった。しかし、皮肉なことに、一方では米価の下落をみ、諸物価は依然高騰を続けるという事態にあって、農村危機は一層進行していくという具合であった。幕府は、米価の低下を止めるべく買米等の施策を講じたがあまり効果はなく、そこへ、冷害、飢饉等が農村を襲うこととなり、農民は一層窮状を深めた。農民の離散、貧しさゆえの赤子の間引き等が日常茶飯事に行なわれるようになった。大和における農民の疲弊も、他国と大差なく赤子の間引き、捨て子、妻や娘の人身売買、離散等が頻繁に見られた。
 1810(文化7)年から1830(文政13)年迄の20年間を歴史上「化政時代」という。11代将軍家斉が大奥中心の贅沢な生活に明け暮れた時代である。世情は天下泰平であり、大和でもこの20年間における凶作の年は文政4、6、9年の3ケ年だけで、順調な天候にも恵まれて米、綿とも豊作であった。一方、農村にも商品経済の波が一層押し寄せ、富農と貧農との階層分化はますます進んで行くこととなった。
 1810(文化7)年、米・綿大豊作。各地飢饉。
 1810(文化7)年、水戸藩の第2代藩主徳川光圀の提唱で編纂が始った「大日本史」が朝廷に献上された。
 1811(文化8)年、丹波市、檪本村等の地に大洪水。
 最後の朝鮮通信使(第12回目)来日。
 平田篤胤(1767-1843)、「古道大意」完成。
 (二宮尊徳の履歴)
 1810(文化7)年、24歳の時、既にある程度の資産を持ち、江戸見物、伊勢、奈良、大阪、四国の金毘羅などの見物に出る。
 1812(文化9)年、26歳の時、小田原藩(藩主・大久保忠真)家老・服部十郎兵衛家(千二百石)の中間若党となる。林蔵と云われる。

 (宗教界の動き)
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 (当時の対外事情)
 1810(文化7).2月、幕府は、白河、会津両藩に、相模、安房沿岸に砲台構築を命じている。この頃になってしきりに出没し始めた異国船に戦々恐々と神経を尖らせていた様子が知られる。

 (当時の海外事情)
 この当時の外交の動きは次のようであった。

 1812年、米英戦争(1812年戦争)開始。
 1812(文化9)年、ロシアの海軍少佐ゴローニンが、クナシリ島に上陸してきて、幕府の役人につかまった。先年、間宮林蔵が発見した海峡のあたりを測量に来ていたとのことである。3.24日、ゴローニンら脱獄し、4.4日、再び逮捕される。今度は逆に、8.14日、ロシアの軍艦に高田屋嘉兵衛が捕まえられることとなった。去年、エトロフ島でとらえられたゴロウニン艦長の消息を知る為に、リコルド副長が日本船を待ち構えていたところへたまたま、高田屋嘉兵衛の船が通りかかり、捕捉されることとなった。嘉兵衛の船はエトロフの海の幸を山と積んで、函館へ帰る途中であった。嘉兵衛はカムチャッカまで連れていかれた。やがて一年がかりで、嘉兵衛とリコルドの努力が実を結び、ゴロウニンはロシアへ、嘉兵衛は日本へ帰ることができた。
 1812年、ナポレオンがロシアに敗戦。
 1812(文化9)年、英国船の来航。




(私論.私見)