第4部 | 1810年~ | 文化7年~ | 13~ | みきの御新造時代、その浄土宗信仰 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.16日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「みきの御新造時代、その浄土宗信仰」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【みきの御新造時代のご様子】 |
中山家の人となった「みき」は、親から懇々と諭された婦の途そのままに、甲斐甲斐しいご新造さんぶりを発揮することとなった。その様は、ご新造時代の「みき」の精神世界がどの程度これに規制されていたのか定かではないが、「庭訓往来」、「女大学」の教えそのままに過ごされていたやに受け取らせていただく。もし違いがあるとするなら、「女は40歳になるまでは、宮や寺など人の多く集まるところへ、あまり行ってはいけない」に対し、寺の行事的な法会(ほうえ)や説教聴聞会に出向くことを無上の楽しみとしていたことであろうか。 13才で嫁いだ「みき」にとって、娘から嫁という蚕が繭を破って飛び出した様な生活の大変化であったろうし、自ずと家風の違いというものがありまごつくこともあったであろうが、親に孝養を尽し、夫に素直に仕え些かも逆らうことなく、家事万端ぬかりなく、早朝家族の一番に起床しては朝餉の支度に取り掛り、日昼は炊事、洗濯、針仕事、機織りと家事に勤しみ、夜は翌朝の準備をしてから夜業と息つく暇もなく小忠実な働きぶりを発揮した。 結婚前は、百姓仕事の向かぬひ弱い体質を自ら卑下していた「みき」であったが、愚痴一つこぼさなかった。了いは、戸締まりをした後に、嫁ぐ前の条件でもあった静かに仏間に座って念仏を唱え、寝床に就くといった日課であったことであろう。こうして、親の庇護から離れて現実に直面せざるをえなくなった「みき」であったが、積み重ねる日々の生活経験にいかばかりの思いを廻らしていたのであろうか。この頃の「みき」は、当時の家父長的家族制度の下で、中山家に溶け込む事を精一杯にしている時分であろうし、ひたすらこうした生活体験経験の幅を拡げていったことと思われる。農繁期には、男衆と一緒に田植え、草刈り、稲刈りから、麦蒔き、麦刈りと多忙であった。「みき」が後年この頃を回想して「私は、幼い頃はあまり達者ではなかったが、百姓仕事は何でもしました。只しなかったのは、荒田起こしと溝堀りだけや。他の仕事は二人分働いたのやで」と述懐するように、当時男の仕事とされているこの二つの力仕事を除いては、百姓仕事は何一つとして為さらぬ事はなかったという程に、実に懸命の働きづくめであった。 なお、当時の大和地方では、大和木綿と云われる良質の綿の作付が盛んになっており、綿作栽培はなかなかに活気を帯びていた。畿内ではいち早く、この大和地方が綿作を行い始め、大和絣(かすり)の好調な販路の進展に伴い、元禄年間(1688~1704年)には、河内、伊勢、播磨等にも広がりを見せて行くこととなった。綿作は、平年作の場合は稲にたいして肥料、手間、収穫三倍といわれ、豊凶の差が著しく、多分に投機的な性格を持ったものであるものの、単位面積当たりの収穫量は水稲以上であった為、その好調な販路の進展にともなって、当時の農民層の大きな現金収入源として、特に大和地方で盛んであった。なかでも中山家は「綿屋」と称されるほど沢山の綿花を栽培していたので、こうして田畑ともどもの働きがが入り用であり、加えて中山家は在所一番の地持ちであり、奉公人、使用人も多くその采配も大変であったが、「みき」は男衆女衆の人使いの手並みも鮮やかで、優しく労うと同時に率先して働いた。後日、教理で「早起き、働き、正直」と喩すことになるが、わが身の経験に裏打ちされたお言葉であったと思われる。 親族付合にも粗相なく、近所の気受けもよく、いつしか村内近村にまで「中山さんの嫁御料は、働き者で気立ての優しい、申し分のない嫁御料」との評判を得たという。こうして、現代的に見ればまだ13才という少女に過ぎなかった「みき」ではあったが、生活の大変化の中で、懸命になって立ち働き、人間的成長の大いなる試練をこなしている時期が窺えて興味深い。この時期文化9年(1812年)8月5日、みき15才の折、前川家の祖母おひさが出直している。 この頃の逸話として、次の様な伝えがある。嫁いで間もない頃の事、「みき」が姑の髪鋤を上手に為すのをみて、舅の善右衛門が「そなた髭をよう剃るか」と顔の髭剃りを云いつけたところ、剃刀と砥石を持出し、器用に剃刀を合わせて髭を剃られたので、「この子はなんとまあ器用な子や」と、舅にいたく気に入られ喜ばせた。こうして忙しいさ中ではあるが、以後は「みき」の役としてお引受けされたと云う。「みき」が、舅姑夫婦に気にいられている様子を伺うことができるであろう。 又、綿木引きをしても普通は一日に男二段、女一段半と云われていたのを、二段半抜くほどの人の倍の働きぶりであった。或る日、作男の一人が見かねて、「ご新造さん、そのようにお働きなさっては体に障ります。もっと楽になさっては如何ですか」と話したところ、「ありがとうさん。私は、生れつき体が達者な方ではありませんから、少しは余計に働かしてもらった方が丈夫になって良いのです」と晴れやかに答え、なお手を休めなかったという。この逸話は、「みき」の懸命な働きづくめの様子とみきが家作人に厚意の言葉を頂く程に家内の受けが良かったということを問わず語りしている点で味わい深いであろう。又、「みき」は機織りの技術に天分を見せ、どのように込み入った絣でも柄を自分で考えて組み立て、自在に織り上げた。しかも、一人前といわれた人が普通二日かかるものを、一日で織り挙げることも度々であったという。又、「みき」の性質は温和で、慈しみ深く、奉公人たちにも優しい言葉をかけて労り、仕事休みの時などは、自ら作った弁当を持たせて遊山に出したりした。 嫁いだ翌年14才の時、当時の習慣にあった「やぶいり」(奉公人や嫁が盆と正月に主人に休みを貰って実家へ帰った当時の風習)で正月に初めての里帰りをしたが、その時、着物は入嫁の折に召した振袖で、髪は年増の三十女の結う両輪という出で立ちだった。その姿を見た村の人たちは、「みきさんの格好、ありゃなんじゃいな」、「三十振袖や」と、不釣合な姿を私語いたという。 この逸話によって、「みき」が、この頃早くも嫁としての気苦労と重労働が重なり、ふけこんでいた証左として理解することもできよう。又、その聡明さが年に似合わぬ程の大人びていた様子を漂わせていたとも解することができよう。けれども、思案するのに、恐らく「みき」は、その美形の姿態によってと言うべきか、にも拘らずと言うべきか衣服髪飾り等外形的なものについては、平生より質素で地味を好む性格だったと伺う方が自然ではなかろうか。つまり、「みき」は世間並の風体にはあまりこだわらない質の方ではなかったかと垣間みることができるように思われる。逆に云えば、さほどまでに心の内面的な世界へ重きをおいていたのでは、と拝察させて頂くことができる。 |
【当時の婦女子教訓書考】 |
「みき」の御新造時代は、「庭訓往来」、「女大学」の教える通りのありようだったと思われる。そこで、簡単に確認しておく。 当時の寺小屋では、婦女子への教訓書として「庭訓往来」、「女大学」(貝原益軒)を手本として習字させ、読み書き且つ修身の指導をしていた。往来物は現在七千種ほど存在が確認されているが、そのうち「女今川」、「女大学」、「女小学」、「女庭訓(ていきん)」、「女中庸」など約一千種が女子用のものになっており、一般に女訓書(じょくんしょ)と云われる。その中でも、「女今川」と「女大学」の二書の系統が全体の中でも大きなウエイトを占めている。「女今川」は、今川了俊(いまがわりょうしゅん、室町時代の武将で歌学者)が息子に向けて記した戒めになぞらえて、女子用に作り変えられたものである。 |
【「女大学」の世界】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「女大学」は、享保年間(1716-1736)頃の刊行で、江戸時代の中期以降広く普及した女子用の初等教育用教科書である往来物(おうらいもの)の一種である。「女大学」の著者は不明で、貝原益軒(江戸期の儒学者、教育思想家)の「和俗童子訓」巻5の「女子に教ゆる法」を基に綴られたと云われている。最古の版本は、1716(享保元)年、大坂柏原清右衛門、江戸小川彦久郎合梓(ごうし)の「女大学宝箱」と云われている。明治初年以降は、活字本による「女大学」が公刊され、女子用の修身本として、第二次大戦終了時まで使用された。 「女大学」は女子の修身、斉家の心得を仮名文で記したもので19条から構成されている。「嫁入り道具を立派にすることより、幼少の頃からのこの19条教育の方が婦人を幸せに導く」として、「この条々を能く教ゆること、一生身を保つ宝なるべし」と説き、女性の心得が次のように諭されている。「女大学宝箱本文」を参照する。 |
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慶安御触書(江戸幕府が農民統制のため発令した幕法とされていた文書。原本は発見されておらず、写本によれば百姓に対し贅沢を戒め、農業など家業に精を出すよう求めたものであり32ヵ条と奥書から成る)は次のように記している。
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【みきの「自律」足跡行程(2)、御新造時代】 |
「みき」を見ていく場合に、先に述べた自律の発展行程を追って行くことがカギとなることは前述したところである。新婚直後のみきにとって、「自律的な自由」とは、例え一日の内の寸暇を惜しむような一時であったとは云え、夜業仕事を終えた後の仏間に座っての一人念仏を唱和する片時の間がそれであった。こうして「みき」は、日中の働きと夜業を終えてからの一時の信仰とを見事に両立させながら日々を経る身となった。既に述べたように、この「自律的な自由」は、当時の婦女子、嫁にあっては極めて珍しいものであり、信仰心の格別に厚い「みき」ならでは獲得したものであったが、御新造時代がその原初的な始まりとなった。 ところで、「この自由な一時」は、日々の生活の積み重ねの中にあって、「みき」自身を埋没させることなく自己を保ちえたという効能をもたらしたようにも思われる。この当時世の中は動乱の様相を帯び始めていた。何につけ感受性の鋭い「みき」は、こうした時代の息吹を感じ取ることも一方ならぬものがあった。こうした時代との邂逅に、「みき」が掌中にしたこの「自律的な自由」精神がその後の「みき」の成育に重大な影響を与えて行くこととなった、と拝察させて頂く。「みき」自身の内在的発展をみようとしない立場からは、見えてこないことであるけれども、「みき」の信仰史的変遷をみてゆく場合、やがてこの「みき」の「掌中の自由」の貴重な深い意味が次第次第に明らかにされて行くこととなる。 |
【みきの宗教的精神史足跡行程(3)、浄土宗信仰】 |
御新造時代の「みき」の信仰は、どの様な為され方であったのであろうか。人一倍の働きを見せ中山家の一員に溶け込むことに懸命なこの頃のことである。信仰に向かうほどの余裕が果たして可能であったであろうか。驚くべきというか、「みき」は、嫁ぐ際の条件にまで高めていた信仰を決して空証文とはせずに、結婚によってもどんなに忙しく疲れた日々においても、念仏称名を欠かすことなく、浄土宗信仰を更に深め精進して行くことになった。この信仰過程をみきの宗教的精神史足跡の第3行程として捉えておこうと思う。 |
【浄土宗について】 |
さて、みきの宗教的資質の発心を開き、やがて尼僧願望へと志を向かわさせ、尼僧の途が閉ざされるやその信仰を結婚の条件にまで高めさす栄誉を担い、実に嫁いで後の御新造時代のこの時期にまで一途な念仏を唱えさせしめたのは浄土宗であった。その浄土宗とは、どのような教義を体系としているのであろうか。この辺りでその機縁を取り持った浄土宗について一瞥しておきたい。 |
浄土信仰は、7世紀の中頃日本に伝えられ、空也(903~972)によって民衆の間に広められていった。空也は人々に阿弥陀仏の信仰を説き、常に念仏を唱え、諸国を廻って厳しい修行を重ねた、と伝えられている。 浄土宗は、1175年(承安5年)に法然上人(1133~1212)によって開かれた。法然は、岡山県久米南町の出身で、9才の時に父の非業の死にあって以来出家して比叡山で修業したが、43才の時、念仏の教えに出会って感動し、比叡山を下りて、京都の町でその教えを説くこととなった。これが浄土宗の起こりである。 ちなみに法然に機縁を取り持った念仏の教えは、次の一節であった。「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行往坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、是れを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に」(唐の善導大師著「観無量寿経疏」)。 「その昔、世自在王仏の説法を聞き、菩提心を起して沙門となった法蔵菩薩(ダルマカーラ)という修行僧がいた。彼は仏の本願を自力ではなく、他力(念仏)として構想し、それをひたすら遂行する。その結果、彼は見事に往生し、西方極楽往生の主=阿弥陀仏として成仏する。それ故、仏の本願に至るには、ただ念仏により、念仏によってのみ、達成されるのである」。 その宗義書とも言える浄土和賛は、「南無阿弥陀仏」で始まる。「.娑婆界をば厭ふべし、厭ば苦海を渡りなん、安養界を願ふべし、願ば浄土に生きるべし、草の庵は静かにて、八功徳池に心すみ、夕べの嵐音なくて、七重宝樹に渡るなり...」、「....泣くも笑うも五十年、むなしく過ぎぬる夢ぞかし。あても力も蓄えも、身に付くものとて何がある。たましい中に去りぬれば、再び帰らぬ死出の旅。名無阿弥陀物、阿弥陀物、たすけたまえや、弥陀如来」という文句に明らかなように、「流転定めなきかりそめの世界という頼りにならないものを頼りにし、当てにもならないものを当てにするところに嘆きや悲しみや苦悩は絶えず」、「阿弥陀如来こそ、西方浄土で衆生の済度を念じて止まぬ大慈大悲の仏であり」、「人の力には限りがあるも阿弥陀様のお力は無限でありあまねく衆生の信をみて救いの手を差し延べ給いており」、「されば人は一切のはからいを捨て阿弥陀様のお慈悲にすがりただ一向に念仏称名せよ」という「欣求浄土」(ごんぐじょうど).「厭離穢土」(おんりえど)の思想を根幹にして、「人が人を救うことは出来ず」、そうした人間のさまざまなはからいを捨てて、ひたすらに仏の救済の力すなわち「他力本願」を信じ、「阿弥陀如来に寄り添うことによりのみ救われる」、と云う阿弥陀如来信仰を基調としている。 ここでは「阿弥陀仏一仏に帰依し」、「阿弥陀仏に救け給えと手を合わせ、口に念仏する素直な心」を「深心」と言い、信者としての大切な要件とされた。つまるところ阿弥陀仏の救済力を信じ、念仏を唱えることにより、心身の安らかさが生まれ、その生を全うすることにより、死後は阿弥陀仏のおはします浄土へ生まれさせて頂けると、いうのが教えであった。 浄土宗は、阿弥陀仏信仰を基調としていた。浄土宗において阿弥陀仏とは、限りない慈悲を垂れる、善人悪人の別を問わず慈悲を垂れる、知っていながらも、なお悪を行い、苦界に沈むしかない人間を、そのままにそれ故に救い助ける、念仏を唱えれば、救いの手を差し出さざるをえない仏-それが阿弥陀仏である。そこには何らの差別はない。光の仏(光明仏)であるアミターバ(阿弥陀仏)は、世界をあまねく照らし出す。漆黒の闇の中で苦吟する全ての人々を救う最高仏であった。この教説は当時の民衆にとって有り難いものとなり、信仰者を獲得していくことになった。 浄土宗の原則は、至誠心にある。信仰の境地として教えられている。至誠心に基づき、助けたまえと心に念じ、手を合わせ、口に念仏し、ひたすらに阿弥陀仏に帰依すれば、必ず浄土に救われるという教理となっている。心と口と形の身口意で阿弥陀仏にお願いする信仰が浄土宗の本義となっている。この教えは、当時の社会にあって身分階層の差別も男女の差別も無かったことにより、多くの民衆に受け入れられ、仏教が生活と結びついた信仰へと変遷していった契機を為す点で意義深い。 |
【浄土宗の他力本願について】 |
浄土宗の他力本願は、浄土真宗の開祖親鸞によって明確にされた。親鸞は「教行信証」の中で、「悲しいかな、愚禿(ぐとく)親鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山(だいせん)に迷惑して定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快(たのし)まざることを。恥ずべし、傷むべし」と述べている。親鸞は、そうであるが故に、弥陀の本願によって救われる道筋を発見した。自己のはからいに絶望するはてに、弥陀に自己の全存在を預け、その絶対他力のただ中で救済されていく道を問うた。 |
【「お道信仰における浄土宗の及ぼした意義」考】 |
ここで浄土宗教義を語る意義は、浄土宗の「南無阿弥陀仏」を唱える信仰礼拝要領が、終生に亘る「みき」の信仰礼拝要領を決定づけたことにある。「みき」は、その信仰史として、今後、浄土宗、真言蜜教、山伏修験蜜教、古神道等々へと歩みを進めて行くことになるが、教義教説の違いに関わらず、「南無」と唱える礼拝要領は変わることがなかった。「南無」と唱えることは、仏教各宗派共通の礼拝要領であり、浄土宗に限定されるものではないが、各宗派により多少の違いがあるようでもあり、そういう意味において、浄土宗的な「南無」の礼拝要領が、「みき」の信仰における最初の刻印となったことをここで着目しておこうと思う。 事実、この影響には大きなものがあったことと思われる。ちなみに、「南無」とは、「帰命頂礼」と「帰投身命」の二つを意味しており、普通「帰命」と訳される。「命」とは、生き方という意味であり、「帰」するとは、一体になるという意味であり、「頂礼」というのは、「頂いて拝礼する」という意味である。つまり、「帰命頂礼」とは、心の持ち方として、「仏」に助け給えと、ただひたすらおすがりする素直さでもって、「仏」と一体になるという信仰を意味している。「帰投身命」とは、行い方として、身も心も投じて「仏」に帰す。つまり、私の身も生き方も「仏」に帰して生きるという信仰を意味している。他に、仏教界には「即身成仏」という言葉がある。これは、身体はそのままに、心は「仏」となることである。「仏」とは、信賞必罰の神の存在や霊魂不滅論からくる天国、地獄、生まれ変わりの輪廻論などの、あらゆる悩盲から解脱した者という意味であり、「解脱」とは、真理にめざめた者、悟った者に達っした状態を云う。本来の仏教では、「仏」とは、死人を指す言葉ではなく、仏様といって何かのご利益をくれるような超越的なものでもない、又お釈迦さま一人だけを指すものでもない、いわば、私、釈迦族出身のゴーダマ.シッダルダは、第一号の仏真理であり、誰でもが「仏」となれる素質を持った存在であり、世界中一日も早く私のように悩盲から目覚めなさいというのが、釈迦の教えであった。 後年、みきは、神懸かりを経て立教することになるが、その際の信仰礼拝要領として、「南無転輪王の命」という教語を確立する。「南無転輪王の命」とは、帰投身命転輪王、つまり転輪王の心となって生きますという誓いの祈りである。特徴的なことは、法界の救世主としての「仏」ではなく、俗界の救世主としての転輪王に対し、身はそのままに、心は転輪王の命となって生きる、ということにあった。更に特徴的なことは、みきの云う転輪王は、従来の俗界の救世主のみならず、転輪王は、世界を助けたい「実の神」であると共に、生命あるものを元こしらえた「元の神」でもあるというものだった。人間も、この世の始めだしの元一日に立ち戻って、人を助けるのが真の誠という本性に目覚めて、銘々が転輪王のような心になって生きてもらいたいというものだった。簡単に云うと、従来までのは神仏にすがる信仰であり、みきの教えは、自分がたすけたい一条の神になるという信仰だった。 |
(当時の国内社会事情) |
「みき」が嫁いだ文化7年前後のこの時代は、天災地変の多い年であった。農村経済は、幕府の経済政策の失政と相俟って深刻な打撃を蒙りつつあり、こうした事情は大和においても大差なく、赤子の間引き、捨て子、妻や娘の人身売買、離散等が頻繁に見られていた。この頃の社会事情として資料により伺うと、まず文化年間は天災地変の多い年であった。1812(文化9)年の夏に、「大水、布留の烏帽子岩三間流レ大橋流失ス、丹波市青石橋浸水五尺ニシテ、家屋八戸流失ス」(奈良県山辺郡史)ほどの激しい風雨のあったことが記録されている。ただでさえ、窮状著しい農家への打撃は、いかばかりであったろうか。 この頃幕府、各諸藩は、享保以来続いていた財政緊縮政策と全国的な諸物価の高騰が、農村経済に打撃を与えていたことの打開策として、農村の振興政策に懸命に取り組んでいた。特に文化年間に入って新田開発を奨励し、一時的には功を奏し、連続的に続いた豊作と重なって、農家に暫しの潤いを与えることとなった。しかし、皮肉なことに、一方では米価の下落をみ、諸物価は依然高騰を続けるという事態にあって、農村危機は一層進行していくという具合であった。幕府は、米価の低下を止めるべく買米等の施策を講じたがあまり効果はなく、そこへ、冷害、飢饉等が農村を襲うこととなり、農民は一層窮状を深めた。農民の離散、貧しさゆえの赤子の間引き等が日常茶飯事に行なわれるようになった。大和における農民の疲弊も、他国と大差なく赤子の間引き、捨て子、妻や娘の人身売買、離散等が頻繁に見られた。 |
1810(文化7)年から1830(文政13)年迄の20年間を歴史上「化政時代」という。11代将軍家斉が大奥中心の贅沢な生活に明け暮れた時代である。世情は天下泰平であり、大和でもこの20年間における凶作の年は文政4、6、9年の3ケ年だけで、順調な天候にも恵まれて米、綿とも豊作であった。一方、農村にも商品経済の波が一層押し寄せ、富農と貧農との階層分化はますます進んで行くこととなった。 |
1810(文化7)年、米・綿大豊作。各地飢饉。 |
1810(文化7)年、水戸藩の第2代藩主徳川光圀の提唱で編纂が始った「大日本史」が朝廷に献上された。 |
1811(文化8)年、丹波市、檪本村等の地に大洪水。 |
最後の朝鮮通信使(第12回目)来日。 |
平田篤胤(1767-1843)、「古道大意」完成。 |
(二宮尊徳の履歴) |
1810(文化7)年、24歳の時、既にある程度の資産を持ち、江戸見物、伊勢、奈良、大阪、四国の金毘羅などの見物に出る。 |
1812(文化9)年、26歳の時、小田原藩(藩主・大久保忠真)家老・服部十郎兵衛家(千二百石)の中間若党となる。林蔵と云われる。 |
(宗教界の動き) |
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(当時の対外事情) |
1810(文化7).2月、幕府は、白河、会津両藩に、相模、安房沿岸に砲台構築を命じている。この頃になってしきりに出没し始めた異国船に戦々恐々と神経を尖らせていた様子が知られる。 |
(当時の海外事情) |
この当時の外交の動きは次のようであった。 1812年、米英戦争(1812年戦争)開始。 |
1812(文化9)年、ロシアの海軍少佐ゴローニンが、クナシリ島に上陸してきて、幕府の役人につかまった。先年、間宮林蔵が発見した海峡のあたりを測量に来ていたとのことである。3.24日、ゴローニンら脱獄し、4.4日、再び逮捕される。今度は逆に、8.14日、ロシアの軍艦に高田屋嘉兵衛が捕まえられることとなった。去年、エトロフ島でとらえられたゴロウニン艦長の消息を知る為に、リコルド副長が日本船を待ち構えていたところへたまたま、高田屋嘉兵衛の船が通りかかり、捕捉されることとなった。嘉兵衛の船はエトロフの海の幸を山と積んで、函館へ帰る途中であった。嘉兵衛はカムチャッカまで連れていかれた。やがて一年がかりで、嘉兵衛とリコルドの努力が実を結び、ゴロウニンはロシアへ、嘉兵衛は日本へ帰ることができた。 |
1812年、ナポレオンがロシアに敗戦。 |
1812(文化9)年、英国船の来航。 |
(私論.私見)