第39部 1864年 67才 建て家談議と普請の始まり
元治元年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「建て家談議と普請の始まり」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【建て家談議】
 こうした折、伊蔵夫婦の申し出から「お道」初の普請が為されることになった。そのいきさつはこうであった。伊蔵の妻おさとが、「かようにお助け頂いたのですから、お礼の印に何なりとお供えさせて頂いたらどうでしょう」と発案し、伊蔵が、「自分は大工だから、神様のお社なりと造って差し上げたい」と述べ、奇しくも二人の気持が同じ思いに通じあい、「こんなお助けを頂いて、何もお礼に差し上げるものが御座いません、せめてお社なりとも拵えて差上げとう御座います。幸い私は大工でありますから如何ようにも致します」と教祖に申し上げた。教祖は、「それは良いところに気がついて下さった。できることなら拵えてください」と仰せられた。続いて、「社はいらぬ。そこに金仏、石仏を据えたとて、ものをいわん。みんなの集るつとめ場所が大事じゃ。小さいものでも建てかけ」と仰せになられた。今一つその仰せの意味がわかりかね、今度は秀司が同じことをお尋ねすると、重ねて、「一坪四方のもの建てるのやで。一坪四方のもの建家ではない。つぎ足しは心次第」との仰せが為された。秀司より、「一坪四方のもの何処に建てるので御座りますか」とお尋ねすると、「米倉と綿倉を取り払い、そこへ建てるのや」、「話しかけたら、できるまで話しするで」と仰せになられた。

 その意は、社をつくってそこにご神体を納め、これを礼拝する形式をとる世の常の神社仏閣様式の装飾つきの構えが立派な建家ではなく、只あくまで参拝者のおつとめを行う為の囲い家を建ててくれと解することができる。更に、「これは上段の間の普請とも、勤め場所の普請とも云うで。この普請は30年の見込み、30年目に建て替えるのやで。仮屋で宜しい」と仰せられ、伊降が、「必ず30年目には、きっと建て替えさしていただきます」と答えた、とも伝えられている。

 ところで、伊蔵が後年本席になってからのお話によると、昼は大工仕事をして、夜は毎夜毎夜早々と庄屋敷へ運んでいた頃、教祖の方から、「さあさあ普請普請。さあ六尺四方、この六尺四方の中へ米も入る、薪も入る、何でも切れ目なしに入る。さあさあ早く早く」と仰せられた故、村方の講社の面々と相談した、と述べている。これができ上がると、教祖は、「さあさあこれより住むところ一間四方」と仰せられ、三間半に六間の普請へと繋がった、と述べている。こちらの方が真相ではなかろうか。

 「稿本教祖伝」178頁は、桝井孝四郎本部員の話を次のように伝えている。
 「あの一坪は、つとめ場所の建築になっております。丁度つとめ場所の、一番北の八畳の間に神様が祀られていた。そこが、丁度一坪四方であります。そのことを指しておられるように聞かせていただきました。そのものは何で、どういうところであつたかと聞きますと、九億九万九千九百九十九人の子数を三日三夜(みっかみよさ)に宿し込まれて、三年三月とどまられたところであると、聞かせていただきましたそのままを申し上げます」。

【普請の始まり】

 伊蔵の申し出から始まりみきの了承となった建屋づくりは次のように進行していくこととなった。伊蔵は、早速秀司に相談をもちかけた。「私は、今の言葉はどうしても、小さいながらもお参りの場所を建てよとの仰せのように悟らして頂きますが」。すると秀司も「私もそう思う」と応じ、丁度来あわせていた山中忠七の意見を求めると、山中忠七も「私もそんなものができれば有難いと思っていた」と言い、一同の悟りが期せずして同じところに落ち着いた。その頃はこかんの口からも親神のお言葉が聞かれたので、この旨こかんにお伺いしてみると、「心配するに及ばぬ。神がさせて見せる」と鮮やかに許しと力づけを頂いて、いよいよ3人の心も定まった。

 越えて8.19日、教祖又、大豆越村の山中忠七宅にお越し下された。そこでもこの建築の目論見について種々お話しがあった。山中忠七が、これはいよいよ捨ておけんと当時の重だった信仰者にも相談を持ちかけると、参拝所の狭隘さは誰もが感じていた折でもあったのか、旬が熟していたというのか、話しはどんどん進んで、我れも我れもと寄進を申し出た。それによると、山中忠七と飯田善六が費用を(飯田善六が即座に30両を出した。当時、1両が7千枚の銅銭に替えられたので相当な金額ということになる)、伊降伊蔵は手間の引き受け、辻忠作は瓦一切、仲田佐右衛門は畳六枚、西田伊三郎は畳八枚と、それぞれ精神定めができた。米倉と綿倉を除けたら丁度教祖の云う寸法の建物が納まる広さであった。そこに三間半(6.3m)に六間(10.8m)の約21坪(約69u)ものを建てさして頂こうという構想が決定した。そこで、8.26日、お勤めが終わって一般参拝者の帰った後、重だった人々が寄付を持ち寄ると、金5両となった。これが信者の醵金によってなされた本教最初の寄付金であった。

 これを手付け金として早速に伊蔵は阪の大新(滝本村)という材木屋に走って材木の註文をすました。小路村の儀兵衛は守目堂村にあった瓦屋に瓦の注文をした。こうして伊蔵のお社献納の申し出が奇縁となって建築の議が急速に具体化され、熱心な信者たちは勇みきって仰せの通り米倉と綿倉の取り払いに着手した。助けられた喜びと、教祖慕わしさに参詣する信者たちも、こうした仕事が始められると、お参りをするにも今までと違った張合いを感じてくる。お助け頂いたお礼に何なりとできることでお手伝いをと言う気持は何人も同じであったろう。我も我もと手伝いに参加し、お屋敷は一層の賑わいを加えてきた。やがて地均しも終わって9.13日にはちょんの始め(家を建てるとき、手おのの別名ちょんのを最初に材木にあてる式のこと。いわゆる起工式のことを云う)が行われた。この間僅か半月の工程としては実に急速に運んだものである。当時の人々の喜びと勇み心もよく窺われる。こうして人々の心勇んだ鑿の音、槌の響きがこだまして、嘗って味わったことのない雰囲気が醸し出された。


【棟上げの時の様子】

 この普請は人々の心の普請を伴いつつ順調に進んで、早くも10.26日には棟上げを行うところまで漕ぎ着けた。この日は、この教えの開かれた「元一日」に縁りの日であるので殊の外参拝者も多く賑やかにお祭りが行われた。いよいよ棟上げが始まると、特にこの普請に初めから精魂を打ち込んでいた飯降伊蔵と山中忠七の喜びは格別であったとみえ、唄などにはあまり縁がなさそうに思われる2人の口から流れ出る鼻歌が最後までつづけられていたと云われている。しかもその歌が終始同じ歌であったばかりでなく、伊蔵が、「おしゃか様さえばくちに負けて」と唄うと、忠七が、「卯月八日はまるはだか」と続けたと言うことが、一つ話しのように伝えられている。当日のほほえましい風景が目に浮かんでくる心地がする。棟上げもめでたく済んでお祝いということになるが、いささかの余裕もない当時のこと、酒は一升、肴は小さな干物のかます一匹ずつという簡素なものであった。「せめてもう一升でも」と、何か物足りない気持もないではない。その気持を察するとじっとしていられなかったとみえ、おさとが徳利を堤げて駆けだした。

 この時のおさとの逸話が残されている。いよいよ棟上もできたので、祝いをしようと酒一升用意したものの、何分手伝いのもの含めて20人ばかり来ていたので忽ちなくなってしまった。4、5丁離れた布留の村にあった酒屋まで一走りして豆腐屋兼酒屋の宮嘉まで行ったものの、お金を持ち合わせておらず、「棟上で賑わいお酒が足らなくなりました。後刻持ってまいりますのでツケ貸ししていただけませんか」とお願いしたところ、そこの嫁さんは一旦酒を量りながら、「お金がなければ売らない」と云い、せっかく量った酒を元の樽へ戻してしまった。おさとは、「手伝いの人が一杯飲んでくださるところですから、どうぞ貸して下され」と頼み込み、「それなら私のこの帯を替わりに取っておいてください」と帯を解いた結果、やっと一升の酒を買うことができ、帰ってみんなに喜んでもらった。おさとの、祝い振る舞いの真心から帯を酒に代えたという挿話が伝えられている。かくて首尾よく1升の酒を手に入れて振る舞った。この間、教祖は、一同の楽しむ様見て自身も機嫌良く為されたという。こうして、感激のお祝いも終わったが何とかもう少し歓を尽くしてみたいという気持ちが昂ぶり、そこで忠七は「明日はみんなで私の家へ来てくれたらどうだろう」と提案すると、一同の人々に異議のあろう筈がなく、話しは直ぐにまとまって、その由を教祖にお伺いすると快くお許し下された。これが事件に繋がるとは誰も夢にも思わなかった。

 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「永尾芳枝祖母口述記(その三)」を転載しておく。

 永尾芳枝祖母口述記(その三)

 「この時、教祖様は『これは上段の間の普請とも言えば、勤め場所の普請とも言うで。この普請は三十年目に仕換えるのやで』と仰言ったので、父様は『三十年目には、きっと建てかえさせて頂きます』とお誓いして、普請にかゝらはったのやった。その時の材木は、坂(今の瀧本や)の大新という材木屋、瓦は“もりめんどう”(守目堂)の瓦幾という瓦屋から買わはったが、もとより前借りや。その年の暮になっても、とても払えんので父様は、断りに行くと、『正直なあんたの言うこっちゃ。いつでもえゝわ』と両方とも、心よく承知して下はったのは誠に結構なこっちゃった。(本席様はこの時の恩をお忘れにならず、質が悪いという評判にもかかわらず、御在世中建築の際は必ず瓦幾の瓦をとってやれと仰言ったと聞く。現存する古い建物の瓦は殆んどそれである。尹) さて棟上げの日(元治元年十月二十六日)、当時は余り熱心な人がなかったので、僅か一升の酒も買い兼ねる有様やった。母様は、魚を買うた残りのたった六銭持って布留の『みあか』という豆腐屋を本業として酒の小売りもしている家へ行って、少しの酒を買うて来て十五六人の手伝い衆に飲んで貰うたが、ちょっと喉を湿(しめら)す位で、中には行き渡らん人もある。母様は急いでもう一ぺん『みあか』へ行ったが、その時は一銭のお金もあらへん。母様は『今あんまり急ぎましたんで、ぜにを持って来まへなんだ。あとからぢきに持って来ますさかいに』と言うと、『“ぜに”があとなら、よう売りまへん』と言うて、折角桝に量って入れた酒を“もと”の酒樽へ戻して仕舞うたのや。母様はどうしようかと思案したが、とっさに思いついて腰の帯を解いて、酒代を持って来るまでの抵当にして酒を貰うて帰らはったのやった。当時の教祖様の御苦労は、以前から引続いて並や大抵でなかったのは言うまでもないことやが、山中忠七さんなどは普請中にも時々お米を二升なり三升なり持って来て下はったが、その普請がすっかりでき上らんうちに事情が起きて(この事情というのは、御存知の大和神社事件である。尹)熱心な人達まで、“いづんで”、道は丁度消えた様なもので誰一人寄ってくる人もないと言うてえゝくらいやった。その中父様は、たった一人でもふん張らせて貰うのやと言うて、それから満九年(勿論それからもやが)お地場と櫟本との一里の道を、日に何べんも通うて勤めはった。また母様もよく家の事を放っといて教祖様のもとへ通わはった。弟(政治郎、明治元年生れ)や妹(政枝、明治五年生れ)の守りをしながら私が御飯焚きを憶えたのは七つの時(芳枝祖母は慶応二年八月十七日生れる)やった」。(つづく)


【つとめ場所普請のみ神楽歌】
 つとめ場所普請のみ神楽歌が次のように歌われている。
三下り目 二ツ 不思議な つとめ場所ハ 誰に頼みは かけねども
三ツ 皆な世界が 寄り合うて でけたち来るが これ不思議
八下り目 二ツ 不思議な普請を するなれど 誰に頼みハ かけんでな
二ツ 皆な段々と 世界から 寄り来たことなら でけてくる
二ツ 欲の心を 打ち忘れ とくと心を 定めかけ

(私論.私見) つとめ場所の普請考

 飯降伊蔵夫婦の申出に始まる「つとめ場所の普請」は、お道の生成の歴史にあって、画期的なことであったことを新ためて注目する必要があると思われる。当初、飯降夫婦は、お社の建築をお伺いしたのであるが、教祖の希望は、「社は要らぬ、それより信者の勤め場所なら欲しい」ということであった。みきにとって、お道の今後に見えていたのは、続々と列なり来る人々の姿であり、親神様の思召を伝える上で、今までの勤め方を一層深めたおつとめの在り方の探求であったのであろう。「一坪四方のものを建てかけよ、継ぎ足しは心次第」という意は、そうした新の「お道」の発展をお見通しされた謂いであったことと拝察させて頂く。こうして、つとめ場所の建築が始まることとなった思えば、こうした時期に、大工が現れ、当時の主だった信者のとんとん拍子の寄進申出と、その実行こそは、何より親神様の御守護の為せる技ともいえるのではなかろうか。こうして始まったつとめ場所の建築は、「お道」の「きりなし普請」の門出ともなった。同時に、この普請に立ち働いた信者の喜び勇んだ姿こそ、「お道」の独特の教義ともなる「ひのきしん」の最初の現れでもあった。そういう意味で、このつとめ場所の普請は、「お道」の歴史の上に深い意義と価を持つものであったと云わざるを得ない。





(私論.私見)