教祖の周りにこういう積極的な気運が漲って来た時、後の本席ともなる飯降伊蔵(32歳)が訪れることになった。このお引き寄せが、後々に大きな意味を持つことになった。伊蔵がお屋敷を訪ねる以前から、教祖が「大工が出て来る、出て来る」と予言されており、愈々お屋敷を訪れた来た時には、「さあさあ待っていた。待っていた。よう帰った。思惑の大工が出来た。八方の神が、手を打ってお喜びになったぞ」と仰せ下されたと言われている。この予言から、教祖と伊蔵のこの出会いには、「これを親神の深い思惑の掛った出来事であった」と受け取められている。教祖のこの予見能力も考察に値するように思われる。
その時の様子は次のように伝えられている。伊蔵は、当時、櫟本(いちのもと)の高品で大工を渡世としていた。初婚の妻おなつが産後の患いで旅立ち、追って子供も2歳の時に亡くなった。長いやもめ暮らしの後おさとを娶った。ところが、妻女さと(31歳)も流産し、産の患いが思わしくなく、近所の医者にかかって種々手を尽くしたが一向に効がなかった。ある時、河内の富田林にお産に妙を得ている人があると聞いて、そこへ依頼に出向こうと思っているところへ、知り合いの椿尾村の喜三郎という人がひょっこり訪れ、「七条村の矢追という医者の所へ行っての帰途、横田村で人の話しに、今度庄屋敷に産に妙のある神様が現れている」と教えられた。伊蔵は、早速庄屋敷へ訪れる道筋を聞きだして、その日の夕方にみきの許をお訪ねするところとなった。1864(元治元)年の5月のことであった。
こうして特に深い思し召しで引き寄せられた伊蔵は、この時は直接教祖にはお目にかからず、こかんからお伺いして頂いたものの様である。この時期、こかんは「若き神」と呼ばれて教祖の代役を務めるほどになっていた。お指図(明治31.7.14日夜)に「若き神と言うた。十年の間若き神という」と仰せられている。こかんが取次ぎ、おさとの症状を聞きただした後に、教祖にその由を伝えると次のように仰せ下された。
概要「それはそれはようこそ来なさった。神様は助けてやろうと仰せになっているで。ない寿命でも心次第で踏ん張るで。家内の病気は心配すること要らん。安心しなされ。が、天理王命という神は初めてのことなれば、誠にすることがむつかしかろう」。 |
初代真柱による「翁より聞きし咄(はなし)」(二代真柱著「ひとことはなし」に収録されている)は次のように記している。
「時は元治元年五月ノ頃、丁度今カラ三十五年前(明治32年)ノ事、家内ノさとガ半産シマシテ、ソノ産後がモツレマシタノデ、近辺ノ医師ニカカリ種々手ヲ尽シマシタガソノ効ナク、困りハテ、河内富田林ニ産ニ妙ヲ得テルヲル者アリト云フ事聞クニツキ、ソコヘ依頼ニ行ク積モリナリシ処ヘ、椿尾村喜三郎ナル人、七條村ノ矢追ト申ス医者ノ処ヘ行キ、帰リガケ横田村ニテ咄シ居ルヲ聞クニ、庄屋敷村ニ産ニ妙ノアル神様アルトノ事聞イタ。ト教エラレシニツキ、庄屋敷村ハ何レニ当ルヤト寄リ集リ居ル人々ニ尋ルラレシニ、庄屋敷村トハ布留村ノ下、ト聞キ、大急ギ夕頃ニ参拝シテ来ました。ソノ時ニ丁度秀司様、小寒様在宅。小寒様御尋ネ遊バスニハ、『何(いず)レヨリ御越シナリマシタ』ト。ソレニ対シテ、飯降翁(当時32歳)、『櫟本(いちのもと)ノ高品(たかしな)』トオ答ニナツタニ対シテ、小寒様ハ、『鍛冶屋ヲ御存知デアリマスカ』トオ尋ネニナツタ。(中略)小寒様神様ニ御伺ヒナサレテ仰セラルルニハ、『神様助ケテヤロト仰セラル。助ケテヤルケレドモ天理王命ト云フ神ハ始メテノ事ナレバ、誠ニスル事ムツカシ』ト仰せ玉エり」。 |
こかんが伊蔵に教祖のお言葉が伝えると、伊蔵はつつしんでこの言葉を頂き、重ねてお助けを願った。こうして、こかんはさとの患いに三日の願をかけて親しくお札を書き、散薬三服を与え、「流産でも腹帯をしていなさるだろうが、それを取り除きなさい」と教えた。散薬を押し頂いた伊蔵は、すぐその足でいちの本村まで帰って、帰宅早々おさとに話しを取り次いだ。おさとは、「心次第で踏ん張ると仰せ下さるからにはどんな心にもならして頂く」と云って喜び、教えられた通りに御供をいただき、「夜一服、朝方一服」と指図通りに過ごしたところ、さとは少し気分がよくなった。
伊蔵は、御守護の様を目の前に見せて頂いた喜びと、余程お屋敷に通じ合うものがあったのか、夜が明けるのを焦れるようにして、再び参拝するところとなった。伊蔵が、一々容態を御報告申し上げ、且つ又お礼の言上を為すに及び、こかんが再び教祖に取次ぐと、「神様が助けてやろうと仰せになっているのだから、決して案じてはいかん」とのお言葉が為された。こかんはその由聞かせて、さらに御供を与えた。これを頂いて帰って伊蔵は、早速にその一服をさとに頂かせると、さとはその日の夕方から大変楽になった様子であった。伊蔵は喜び、その日の夜、又々一里の道を歩いてお屋敷を訪れた。思えば1日2回のお礼参拝、昨日の朝からは都合3度のお引き寄せであった。愚直なまでに純真な伊蔵の心映えを示す所業であった。今に伝えられる伊蔵入信のあらましである。こうして3日目には、それまで身動きもできないでいたおさとが物にもたれてではあるが、自分で食事をすることができるようになった。
伊蔵は大いに喜んで早速お屋敷に駆けつけると、今度は秀司が、「容態はどうですか」と尋ねたので、「大変お助け頂きました」と、嬉しそうに答えると、「よく助かってくれたなあ」と、わが事のように喜び、話しはよもやま話しに移って行った。助けた者と助けられた者とは、その瞬間から十年の知己以上に心が和やかに融けあえるものである。「あなた、高品なら、あそこにある私の家の親類を知りませんか」、「知りません」。伊蔵は不審顔である。「あそこの鍛冶屋が親類ですよ、おはるが私の妹です」。伊蔵は益々怪訝顔である。(鍛冶屋なら知っているどころじゃない。長い間の友達付合の間柄である。それなのに未だそんな事は聞いたことがない) その後、早速伊蔵は梶本家に行って、「あの様な結構な神様を何故もっと早く教えてくれなかった」と、なじる様に言ったところ、「他人ならば知らしもするが、なまじ親族の間柄故知らさなんだ」という様な会話が交わされた模様である。
「翁より聞きし咄(はなし)」の続きはこう記している。
「三日目ニ、モタレテ自分ニ食スルニ至ル。喜ンデ参拝ス。秀司様『ドウデアル』ト尋ネラル。翁『大ヒニ助カリマシタ』ト答エラル。秀司様『能ク助カリテクレタ』ト仰セラル。秀司様ノ仰セニハ、『高品ニ私トコノ親族アリマス。知リテオイデカ』ト。翁『知リマセン』ト応フ。小寒様『ヨウ知りナサラヌナ』ト仰セラル。『鍛冶屋ガ親類ヤ。御春ガ私ノ妹ヤ』ト仰セラル。梶本翁ト飯降翁トソノ頃朋友ノ間故ニ、飯降翁帰リテ梶本翁ニ云エルニハ『何故ニ知ラシテクレナカッタ』ト。梶本翁云エルニハ、『他人ナラバ知ラシモスルナレドモ親族ノ間故ニ知ラサナカッタ』ト云エリ」。 |
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