第38部 1864年 67才 こかんが吉田神祇管領より裁許状を授かる
飯降伊蔵のお参りと真実
元治元年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「こかんが吉田神祇管領より裁許状を授かる。飯降伊蔵のお参りと真実」を確認しておく。お道が歩みだしてより4年経過後のこの頃、教祖みき亡き後の後継者となる伊降伊蔵が参上する。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【教祖に山澤良助入信】
 「山中忠七伝」によると、妻そのの実弟の山澤良助が、姉そのの重い痔病を教祖に助けられたことを機縁に入信している。正月半ば、芝村の清兵衛が山中家へ手引きに来て、その後僅か十日ほどで全快している。2.15日、山中そのがお屋敷へ初参りしている。山澤良助の入信はこれに重なる。この時、数え年34歳。山澤良助は、1831(天保2)年2.22日、山辺郡朝和村大字新泉(現在の天理市新泉町)で、山澤利助とべんの長男として生まれている。妻のぶとの間に、良蔵、為造、音吉の三人を設けている。お道と深い関りを持つことになる為造は1857(安政4)年、良助の次男として生れている。

【こかんが吉田神祇管領より裁許状を授かる】
 1864(元治元)年、子2月、こかんが、中山小嘉舞名義で、吉田神祇管領配下の神祇管領/長上家より布教裁許状を受ける。
「中山小嘉舞 右中臣祓 三種太祓 六根清浄祓 当所能免授如 件 神祇管領長上家 元治元年子二月頭役 ㊞」。

 木綿手スキ(ゆうたすき)を掛ける許可と裁許状の二枚の許可書が交付された。裁許状には中臣祓、三種太祓、六根清浄祓いという神道系、陰陽道計、仏教系などの広範囲にわたる許可が書かれている。この許可書を手に入れたことにより、宗教的行為と活動が許可された。これにより、つとめ場所の普請が公然とできるようになり、御神楽歌を教えることも公認されることになる。


 「中臣祓」とは、天皇制神道のイデオロギーを為す中臣氏の神道で、これにより神道的宗教流布権を得た。「三種祓い」とは、修験道系のもので、これにより修験道的宗教流布権を得た。「六根清浄祓い」とは、人間の六器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)の清浄行のことであり、これにより仏教的宗教流布権を得た。

 この背景には、飯田岩治郎のお助けの際に、教祖と吉田神祇管領の教理的権威者・古川豊後守と興福寺金剛院の僧侶との神学問答があった。この時の問答の内容は不明であるが、教祖は歌うが如く語るが如くにこの世の始まりから行く末について語り、談じ合いしたところ古川豊後守は深く得心し、その結果神祇管領の持つ全ての権限が与えられることになった、と云う。八島英雄氏は、概要「こかんの許状は、考えられる全ての宗教の儀礼を許可したものである」と評している。この時要した費用は、安堵村の飯田家が立て替えた、と伝えられている。
 「奉書へ立派に書かれし二通」が発見された経緯が次のように明かされている。

 1981(昭和56).6.28日、修養科の一期講師として天理に滞在していた東王京布教所の小松崎氏が、村屋神社の宮司から「奉書へ立派に書かれし二通」の存在を知らされ、確認し、天理教協会本部の史料集成部に渡した。その経緯が機関紙「東王京」に記されており、これを確認しておく。(「吉田神社の「こかん名義の裁許状」考 森本筑前守の介入と ...」参照)  
 吉田神社の裁許状は、昭和56.6月に修養科の一期講師として天理に滞在していた東王京布教所の小松崎氏が、村屋神社の宮司からその存在を知らされ、確認し、天理教教会本部の史料集成部に渡したものである。その経緯は、「東王京」という布教所の機関紙に記されている。数年前に小松崎氏はお亡くなりになり、その経緯を知っている方も少なくなっているかと思うので、ここに全文を載せておきます。
 昭和56年6.28日、村屋神社の宮司に何か資料を見せてほしいと電話したところ、最近、こかんさんの資料が出てきたと教えてくれた。

 言霊を表したものを文字と云うが、その中には霊的な生命さえ感ずるものがある。それは、元治元年(1864)に若き神と云われた小寒様が、京都の吉田神祇管領家より頂いた、幻の裁許状(神道布教許可証)二通が、117年ぶりに私どもの眼前に現れたのである。そんなことなど天理教人として誰が考えたであろうか。まさに、青天の霹靂(へきれき)の如き響きをもって、教祖百年祭後の天理教教祖伝研究者の上に、大きなバイブレーションを与えたのである。その出現のエピソードをお話ししよう。

 昭和56年6月28日(日)、第1回目の修養科講師の折、天理市に隣接する磯城郡田原本町鍵の中島富雄氏の紹介で、同町蔵堂の村屋神社(正式には、村屋坐弥富津比売神社で、天理教関係の書物には守屋神社と出ているが、これは間違い)の宮司、守屋廣尚先生(物部守屋の66代目の孫)に知遇を得ていたので、守屋筑前守の資料を見せて頂くべく電話をすると、守屋『いや、小松崎さん、あんたは運がいいですよ。田原本町史編纂の気運がようやく高まったので、当神社の古文書を、この一年間に、元県立高校校長の吉田栄治郎先生がすっかり整理してくれました。そうしましたら小寒さんの資料が一部出て来たのです。天理教の資料は、先代の宮司が、史料集成部の上田嘉*先生と友人だった関係上、ほとんど天理図書館に入れたそうです。そのうちに『守屋文書』として拝観できるようにすると約束されましたが、今のところはまだ図書館で整理がつかないのでせう。その後、何人もの先生が見えて、何か資料はないかと云われましたが、ご期待に添えなかったのです。それが今度、目録ができたのです。すぐ来られませんか』と云う、びっくりするような返事。私は修養科生に、守屋筑前守の古文書を写真にして見せたいと思っていたので、小寒様の資料と聞いて胸が躍った。

 小寒様と云えば、天保9年10月、母親である教祖(おやさま)が月日のやしろとなられた時は、生後11ヶ月の乳飲み子であった。もの心つく以前より、月日のやしろとなられた母と生活を共にし、常人とは思われない母の姿の中から、次第に実の神を認識していったのである。そして、将来は、若き神と崇められ、お筆先9号によれば、『月日より やしろとなるを 二人とも 別間隔てて 置いてもろたら』(九号5)の中の『やしろとなるを 二人とも』を見ても判るように、月日親神が、神の社となる二人、即ち教祖と小寒様とを見立てられたと云うことは、小寒様を後継者と見定められていたのに、明治8年9月27日に、39歳と云う若さで出直されてしまった。その後、天理教婦人会や女子青年の方々の心の中に、ほのぼのと活き続けては来たものの、余りにも資料がなさ過ぎる。ただ私達の目に触れるものとしては、東講堂に飾られている嘉永6年大阪布教の絵と、十三峠にある中央大教会会長/柳井徳次郎先生の『小寒様を敬いて』の碑ぐらいであろうか。さて、それから、取るものも取りあえずと云う意気込みで、自転車を飛ばして村屋神社に着く。

 お茶を頂きながら、この一年間の吉田先生の苦労話に華が咲き、そのあと、立派に整理された、森屋神社所蔵文書目録を出して下さった。『社寺・宗教』の中に、『№262 神道裁許状 長上家頭役 某社・中山小嘉舞 元治元.2』とあるものを早速、震える手に左頁の図のような裁許状を見せて頂いた。守屋『たくさんの天理教の資料の中で、これが二通だけ残っていたことが不思議です。秀司さんの裁許状は大和国山辺郡庄屋敷村と、住所が書いてあったので判ったが、これは、中山小嘉舞 と名前だけだったことが、先代宮司時代に、上田嘉*先生が見落としたのではないでせうか。何しろたくさんの古文書があったのですから』。小松崎『今、私は修養科の講師をしているので、一週間ほどお借りできませんか』。守屋『いいですよ』と快く、この貴重な資料をお借りできた。守屋家と中島家とが親戚とのことで、人脈の尊さをしみじみと感じさせられた。次の日、修養科掛長の吉*先生にお見せしたら、庶務課長を通じて、平*主任に見せるようにと云われる。写真とコピーもOKとの由を申し添えると、修養科職員室内はただならぬ雰囲気となる。早速に道友社のカメラマンは来るし、史料集成部の方々の出入りも激しくなった。

 一週間と云う約束だったので、次の日曜日(7月5日)に村屋神社に返しに行くと、守屋『小松崎さん、丁度いい。天理大学の先生らしい人が、学生を連れて来ていますのでご一緒しませんか』と云われる。その時、天理大学の先生と思われた人は、何と、史料集成部の梶*国*本部員ではないか。守屋筑前守の系図を前に、色々質問しておられたが、守屋『今、修養科一期講師の小松崎さんから返してもらった小寒さんの資料ですが、これが現在、当神社に残っている唯一の天理教の資料です』。梶*『えっ、本当ですか。一寸拝見。写真取らしてもらってもいいですか』。早速、同行の道友社のカメラマンがシャッターを切った。それで、そそくさと帰られようとしたから、私はふと、これは、この裁許状の出所と、ものの真偽を確かめに来たのだな、と思った。今まで、五、六十年間、本部がたくさんの金を使い、それこそ屑屋の反故紙から、襖の下張りに使用した和紙に書かれてあるような古文書までも集め、教祖に関係のあった方々を、それこそ虱(しらみ)潰しに当って収集し、ほとんど完璧に近い姿の教祖伝を『稿本天理教教祖伝』として、教祖七十年祭の時に発行したのだ。もし、この中山小嘉舞の裁許状が本物となれば、慶応3年、秀司先生が吉田神祇管領より頂いたものより3年も古いことになる。さらに、出処が、当時、大和国神職取締役の守屋筑前守の所であるとすると重大なことになる。即ち、稿本教祖伝の一部改訂にまで発展するのではなかろうか。

 とにかく、これは本部に寄贈して頂きたいと念じ、中島さんに依頼してみた。中島さんは、『お互いに神様同志だから、金銭のやりとりではなく寄付してもらうよう、守屋さんに話す』と云ってくれていたので、思い切って宮司さんに話したら、気持ちよくOKして下さったのには、感激した。守屋『何故、小寒さんの裁許状がうちにあるのか判りません。でも、筑前は、大和国神職取締役だったので、何かの不都合で預かったのでせうが、もう百年以上も経っています。本部に治まるのが本筋だと思います』と、清々しく言われた。教祖関係の古文書類には、凄く高価で本部へ売りつける人があると聞いてはいたが、守屋先生の信仰者としての真摯な一面を伺うことができて嬉しかった。

 早速、その裁許状を押し頂き(コピーを元の書類袋に納め)帰途につくと、そこから1キロぐらい離れた、武蔵の大師(教祖が、安達照之丞の黒疱瘡平癒の為、願をかけられた処)の前で、バッタリと先程の史料集成部のワゴン車に出会った。小松崎『梶*先生、先程の裁許状を本部へ寄贈して頂くことになりました』。梶*『エッ。本当ですか』。一瞬、先生の顔が真っ赤になった。驚きと喜びと感激とが重なり合ったのだろうか。梶*『では、何時頂きに行けば良いのですか』。小松崎『今、ここにあります』。梶*『エッ。そこに----』。さっと両手を差し出された。小松崎『私は、修養科の一期講師ですので、明日、主任を通してお渡し致します』。梶*『今、すぐ、どうかお渡しください。これから若い者達を連れて、稗田の大師を巡り、教祖の史跡見学をするつもりでしたが、すぐ本部へ帰りますから』。その間、梶*先生は両手を差し出されたままだった。私は、もう一度、念を入れて写真をとってからと思ったが、117年間文字一つと村屋神社の宝物として、古文書の中に身を潜めていた小寒様の裁許状が、今こそ水を得た魚のように息を吹き返し、本部に帰って行くだなぁー、と思いすぐにお渡しした。裁許状の名前は 中山小嘉舞 吉田神祇管領の名前はさすがである。『小寒』より『小嘉舞』の方が、喜びに満ちた可憐な乙女の舞を見る如くである。その裁許状を大切に胸に抱いた、梶*先生一人を乗せた車は、それこそ宙を飛ぶ天馬の如く、お屋敷目がけて私達の視野から消えて行った。主が去った史料集成部のワゴン車は稗田の大師へと向かったが、私ども三人は、今日一日の劇的な出来事が、余りにもスラスラと運んだことにつき、信じられないような虚脱感に襲われ、武蔵野大師の拝殿に座り込んでしまった。資料は無料で譲られ、再度出会った梶◯氏に話し、彼は胸に抱いて本部に帰った。

 昭和56年7月5日(日)は、記念すべき日であったが、その後、史料集成部からは何の話もなく、天理時報にもニュースとしては取り上げられなかった。あれ程、興奮して受け取られた史料集成部の梶*国*先生はどう判断されているのだろうか。この貴重な資料に対して本部の見解を知りたいが、これは後の楽しみとして、講師一同は、そのコピーを記念に、**期の修養科を修了した。

 その後、この裁許状の解読を専門家に依頼したところ、次の通りであった。中山小嘉舞の裁許状』(全文略)。この(全文略)につき、その後も各方面に当ってみたが、なかなか明解な答えが得られないまま丸一年が経った。その後、手元にあった『御水屋敷人足社略伝記』と云う古文書のコピーを亡父が解読して、一冊の本に綴じてくれてあったのだが、それを読んで血の気がサーッと引いていくのが判るほどの驚愕を覚えたのである。それは、水屋敷事件で、異端者と云われた飯田岩治郎の伝記を麹町支教会の板倉喜代平(松操と号す。埼玉県蕨市住)が、感激をもって明治30年に書き記したものであった。飯田岩治郎については、天理教史参考年表には、『明治30年、飯田岩治郎謀反』とあり、私はただ悪と云うイメージが心に残っていただけで、詳しくは知る由もなかった。しかし、その本より伝わって来るニュアンスは、お道の謀反人と云う感じは全くなく、文久、元治年間の教祖の活き活きとしたお救けの状況の中に、教祖より『人足社』の理を許された飯田岩治郎を通して、却ってお道の黎明期をはっきり認識することができた。そして、文中(御水屋敷人足社略伝記)に、本号で取り上げる、中山小嘉舞の裁許状に関係するところを発見したのである。『御水屋敷人足社略伝記』(冒頭より吉田より出たる二通の許し云々まで、全文略)、『稿本天理教教祖伝』(教祖が飯田家に行かれたことを記した文、全文略)。

 裁許状について、本部の反応は何もなかったが、『御水屋敷人足社略伝記』にこれについての記述があるのを発見した。後者を要約してみると、イ、並松村の稲荷下げする行者が二両二分無心に来た。文久2年頃。ロ、並松村の医師古川文吾が、奈良の金剛院の僧を連れて、飯田家にいる教祖を尋問しに来た。元治元年2月。と、二つの事件に分けていることが判る。この件につき、青地*が、天理教(昭和43年、弘文堂新社刊)に、『文久4年の正月にも古川某と云う医師が奈良の金剛院の山伏と連れ立って、安堵村の飯田家に滞在中のみきを訪ね、難詰を加えたことがある。このときの様子は、詳しく伝わっていない。後に飯田岩次郎が水屋敷事件を起こして天理教を離れたので、聞き書きが取れなかったのであろう』とあるが、安堵村に関した出来事は、杳として霧の中に没してしまったのであろう。

 さて、略伝記の引用部分最後の箇所-耳に入り云々ありたる事は略す-と云うところを推測してみよう。飯田家より三両出さしたる理由は、その折、教祖より『水屋敷』と云うお救け場所の理を許されたため、場所代と云う意味からだろうか。教祖より五両(飯田家立替)預かった。ところが、見抜き見通しの教祖は、古川文吾がそのお金を吾がものにすることは知っておられたので、『老婆には、彼らはお金が欲しいのやから、マー任しておいたがよいと笑いおられしが、程なく御許しなりとて奉書へ立派に書かれしを二通持参せられたり』とあるように、吉田神祇管領の事務取扱いをしていて、豊後守と云う守名を貰っている関係上、大和国神職取締役の守屋筑前守に話を通さず、適当に自分で書類を作り、一般的な裁許状と異なる『頭役』と云う名で捺印して持参している。中山こかん宛てにしたのは、教祖の威力に恐れをなしてか、当時、既に教祖の名代として御言葉も下がり、お取次ぎをしていたので、古川豊後が考えたことであろう。(明治になり守名廃止により文吾と改名したのだから、元治元年時代は、古川豊後である/小松崎註) 

 ところが、直に事が露見して、古川豊後は守屋筑前守に叱責を受け、この裁許状は没収となった。でも、全くのインチキのものであれば、その場で破棄するべきものだが、ただ筋を通さなかったと云うだけのことだから、この裁許状の効力はあったのだろう。それで、そのまま117年間の眠りについたのである。これにより、稿本教祖伝のイ、ロと二つの事件が一つに繋がり納得がいく筋となるようである。この時以来、筑前守は、近頃とみに人気が高まっている、庄屋敷の狐つきと云われている教祖に関心を持ち始めたのであろう。

 元治元年と云えば、お道も永い暗黒の時代からようやく抜けて、後の高弟達が続々と入信した黎明期へと入った時である。そして、この秋、最初のつとめ場所の普請が行われた。その上棟式の次の日、有名な大和神社事件が起きて、次第に庄屋敷村を中心に信仰の輪が大きく拡がりて行くことを見て取った筑前守は、教祖にお目通りして、すっかりその威力に感服してしまったため、自ら進んで京都の吉田神祇管領へ。布教許可証である裁許状の申請の労を取ったのである。それが、本部に現存する秀司治繁名義の裁許状である。このことにつき、上田嘉*先生は、『復元32号』(教祖伝史実校訂本中二)に、『慶応3年、天理王明神許可の事は、従来極めて簡単に扱われているが、事実、前後少なくも二、三年を費やした苦心運動の結晶であって、当時に於いて、初めて花の都へ上って公認を受けるという事は、気分の上に於いては、後年の一派独立の喜びに比すべきものがあったろうと思う。従って、当時に於いて、直接、この運動の衝に中られた、秀司先生のご苦心、ご努力は、後年の独立運動に於けるよりも以上であったと思われる』と述べられている。 筑前は直にこの事を知り、裁許状を没収した。ただ、すぐに破棄しなかったのはこの書類の効力はあったからであろう。これにより、筑前は教祖に関心を持ち始めたのである。

 以上、考え合わせると、この中山小嘉舞の裁許状の件により、大和神社事件最後の慶応元年頃から、秀司先生と筑前守が急速に接近し、慶応3年の裁許状交付の引き金になったことは間違いないことと思う。そして、いよいよお道は神道色を濃くして、廃仏毀釈の激しい明治時代へと入って行くのである。それまで、善右衛門と云われていた方が、この時以来、秀司と云う名を用いるようになったようである。吉田神祇管領のたくさんの資料が、終戦直後に、又、村屋神社の天理教関係の資料が、それこそ『守屋文庫』としてできるぐらい、前宮司時代に、天理図書館に入ったとのこと。専門家に調べて頂ければ、元治元年から慶応にかけての裁許状の交付の状況が判るのではなかろうか。

 天理図書館の蔵書にも含まれていないほどの貴重本である『御水屋敷人足社略伝記』を、不思議なご縁で入手したのであるが、これと、117年の眠りからさ覚めた、中山小嘉舞の裁許状が重なり合って、元治元年時代に複合的な光を当てたことは、教祖伝研究者の上に、大きな衝撃を与えたことは事実である。それは、教内はもとより、教外に於いても、宗教学者の村上重良先生が、『仏教と日本人』(春秋社刊、昭和63年)の『天理教の神道と民衆救済』の項の中に、この裁許状を写真入りで載せていることでも判る。或る歴史家が、次のような言葉を述べていることが、改めて実感として胸に迫って来るのである。『生活の展開が要求すると、死んだ歴史も蘇り、過去の歴史も二度現在のものとなり得るものである』」。この裁許状の件により、筑前と秀司が急速に接近し、慶応3年の秀司名義の裁許状につながるのである。
 この「森本筑前守」について、「あらきとうりょう」(153号、103P、天理教青年会本部出版部1988)の吉田栄治郎「森本筑前守」が次のように記している。
 「森本筑前守は、幕末大和の神道家として、卓越したオルガナイザーでありイデオローグであった。まず、筑前守のオルガナイザーとしての才能は、天保末年頃から、(中略)祭祀権論争の調停に入り、各神主家の吉田神道家入門の労をとり、大和国内での吉田神道の勢力拡張に働き、同時に主として神宮宮の別当僧や宮座に対して神主側の立場を守り、その当該神社内での身分を確立することに大いに発揮されたのであった。そして、天保11年(1840)に早くも蔵堂村浄福寺から神主家の離檀(寺の檀家を止め、神道宗旨として、葬祭を自らの手で行うこと)をはかり、この際には成功しなかったが、安政6年(1859)7月になって遂に念願の筑前本人と嫡子及び妻と母4名の神道葬祭を獲得したのであった。この家族神道葬祭は一、二の例外を除いて大和国では最も早い離檀でせあり、森屋郷中との祭祀権論争を通じて、彼の思想が在地の伝統的な祭祀構造の中に安住できなくなっていったことが窺えるのである。また、天保3年(1832)から同11年(1843)までの12年間の長期にわたって、当時白川神道家の大和国触頭であった宇陀郡高塚村八タ鳥神社神主河合摂津らによる森屋郷への教化活動と対決すると共に、嘉永2年(1849)には村屋座弥富郷都比売神社の主宰権を廻って神宮寺別当僧や森屋郷中と争い、遂には神宮寺別当僧の境内地からの退去を勝ち取ったのであった。そしてこの間、嘉永元年(1848)12月には、大和国の吉田家神祇道示諭方に任命され、大和一国の吉田家配下神職の取締りに当った。そして、同5年(1852)3月には朝廷から正式に従五位下の位階を与えられている。又、はたしてこうした職が吉田家神道家内部にあったのかどうか今のところ確かめ得ないのだが、文久元年(1861)正月には吉田家大日本諸国神祇取締り方に就任したと伝えられるなど、幕末から明治初年にかけての吉田神道の理論的、実践的指導者として目覚しい活動をしたのであった。(中略)ところで、社僧の退去と神宮寺の廃寺は、当然のこととして境内地からの仏教色排除をもたらしたに違いない。確固とした神道理論に裏づけされた、明確で且つ直截的な行動力を持つ筑前守は必ずそれを実現させたであろう。安政6年(1859)の離檀と共に、境内地からの仏教色排除に成功した筑前守は、神仏分離、廃仏毀釈運動が政策的な保証を受けて展開し高揚する十年以上も前に、自らの力によって森屋社祭祀の中に実現させたのであった」。
 「白川家と吉田家の関係」について次のように解説されている。
 「白川家は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り、臣籍降下して神祇官の長官である神祇伯に任命されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになった為に『伯家』とも、又、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったから『白川王家』とも呼ばれた。室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏の吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威が衰退した。江戸時代には白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた」(「ウィキペディア白川家」)。

【山中忠翁宅が神の出張り所になる】
 山中忠翁宅が神の出張り所になる経緯が、「山中忠七伝」20Pに次のように記されている。
 3.15日、 翁が信仰して約二ヵ月目、丁度この時、翁は教祖のお傍におり、息子の彦七も参詣させて頂いておった時の事であります。教祖は翁と彦七をお呼びになりまして、「大豆越村の山中忠七の宅は神の出張り所である、これより神が行く」との御言葉を下され、翁に御幣をお授け下されました。翁はこの御幣のお供をして帰り、家の隠居所の床の間に八足を置いて安置させて頂いたのであります。これは元々 神様にいんねんある屋敷である処から、神様が大豆越の山中宅へ出張って下さったのであって、これより神様のいんねんの屋敷として許されたのであります。
 この年の四月八日(大豆越村の連座=春祭の日)、教祖は秀司先生に、「大豆越村の山中忠七の宅は神の親類であるからお前行け」と仰言って、秀司先生は初めて大豆越へ御来遊下されることになりました。かくして、翁は信仰を始めて三ヵ月にして、元のおやしき中山家と親類の交わりをさせて頂くようになり、秀司先生も春秋の村祭などには必ずお出で下さったのであります。

【飯降伊蔵のお参り】

 教祖の周りにこういう積極的な気運が漲って来た時、後の本席ともなる飯降伊蔵(32歳)が訪れることになった。このお引き寄せが、後々に大きな意味を持つことになった。伊蔵がお屋敷を訪ねる以前から、教祖が「大工が出て来る、出て来る」と予言されており、愈々お屋敷を訪れた来た時には、「さあさあ待っていた。待っていた。よう帰った。思惑の大工が出来た。八方の神が、手を打ってお喜びになったぞ」と仰せ下されたと言われている。この予言から、教祖と伊蔵のこの出会いには、「これを親神の深い思惑の掛った出来事であった」と受け取められている。教祖のこの予見能力も考察に値するように思われる。

 その時の様子は次のように伝えられている。伊蔵は、当時、櫟本(いちのもと)の高品で大工を渡世としていた。初婚の妻おなつが産後の患いで旅立ち、追って子供も2歳の時に亡くなった。長いやもめ暮らしの後おさとを娶った。ところが、妻女さと(31歳)も流産し、産の患いが思わしくなく、近所の医者にかかって種々手を尽くしたが一向に効がなかった。ある時、河内の富田林にお産に妙を得ている人があると聞いて、そこへ依頼に出向こうと思っているところへ、知り合いの椿尾村の喜三郎という人がひょっこり訪れ、「七条村の矢追という医者の所へ行っての帰途、横田村で人の話しに、今度庄屋敷に産に妙のある神様が現れている」と教えられた。伊蔵は、早速庄屋敷へ訪れる道筋を聞きだして、その日の夕方にみきの許をお訪ねするところとなった。1864(元治元)年の5月のことであった。

 こうして特に深い思し召しで引き寄せられた伊蔵は、この時は直接教祖にはお目にかからず、こかんからお伺いして頂いたものの様である。この時期、こかんは「若き神」と呼ばれて教祖の代役を務めるほどになっていた。お指図(明治31.7.14日夜)に「若き神と言うた。十年の間若き神という」と仰せられている。こかんが取次ぎ、おさとの症状を聞きただした後に、教祖にその由を伝えると次のように仰せ下された。

 概要「それはそれはようこそ来なさった。神様は助けてやろうと仰せになっているで。ない寿命でも心次第で踏ん張るで。家内の病気は心配すること要らん。安心しなされ。が、天理王命という神は初めてのことなれば、誠にすることがむつかしかろう」。

 初代真柱による「翁より聞きし咄(はなし)」(二代真柱著「ひとことはなし」に収録されている)は次のように記している。

 「時は元治元年五月ノ頃、丁度今カラ三十五年前(明治32年)ノ事、家内ノさとガ半産シマシテ、ソノ産後がモツレマシタノデ、近辺ノ医師ニカカリ種々手ヲ尽シマシタガソノ効ナク、困りハテ、河内富田林ニ産ニ妙ヲ得テルヲル者アリト云フ事聞クニツキ、ソコヘ依頼ニ行ク積モリナリシ処ヘ、椿尾村喜三郎ナル人、七條村ノ矢追ト申ス医者ノ処ヘ行キ、帰リガケ横田村ニテ咄シ居ルヲ聞クニ、庄屋敷村ニ産ニ妙ノアル神様アルトノ事聞イタ。ト教エラレシニツキ、庄屋敷村ハ何レニ当ルヤト寄リ集リ居ル人々ニ尋ルラレシニ、庄屋敷村トハ布留村ノ下、ト聞キ、大急ギ夕頃ニ参拝シテ来ました。ソノ時ニ丁度秀司様、小寒様在宅。小寒様御尋ネ遊バスニハ、『何(いず)レヨリ御越シナリマシタ』ト。ソレニ対シテ、飯降翁(当時32歳)、『櫟本(いちのもと)ノ高品(たかしな)』トオ答ニナツタニ対シテ、小寒様ハ、『鍛冶屋ヲ御存知デアリマスカ』トオ尋ネニナツタ。(中略)小寒様神様ニ御伺ヒナサレテ仰セラルルニハ、『神様助ケテヤロト仰セラル。助ケテヤルケレドモ天理王命ト云フ神ハ始メテノ事ナレバ、誠ニスル事ムツカシ』ト仰せ玉エり」。

 こかんが伊蔵に教祖のお言葉が伝えると、伊蔵はつつしんでこの言葉を頂き、重ねてお助けを願った。こうして、こかんはさとの患いに三日の願をかけて親しくお札を書き、散薬三服を与え、「流産でも腹帯をしていなさるだろうが、それを取り除きなさい」と教えた。散薬を押し頂いた伊蔵は、すぐその足でいちの本村まで帰って、帰宅早々おさとに話しを取り次いだ。おさとは、「心次第で踏ん張ると仰せ下さるからにはどんな心にもならして頂く」と云って喜び、教えられた通りに御供をいただき、「夜一服、朝方一服」と指図通りに過ごしたところ、さとは少し気分がよくなった。

 伊蔵は、御守護の様を目の前に見せて頂いた喜びと、余程お屋敷に通じ合うものがあったのか、夜が明けるのを焦れるようにして、再び参拝するところとなった。伊蔵が、一々容態を御報告申し上げ、且つ又お礼の言上を為すに及び、こかんが再び教祖に取次ぐと、「神様が助けてやろうと仰せになっているのだから、決して案じてはいかん」とのお言葉が為された。こかんはその由聞かせて、さらに御供を与えた。これを頂いて帰って伊蔵は、早速にその一服をさとに頂かせると、さとはその日の夕方から大変楽になった様子であった。伊蔵は喜び、その日の夜、又々一里の道を歩いてお屋敷を訪れた。思えば1日2回のお礼参拝、昨日の朝からは都合3度のお引き寄せであった。愚直なまでに純真な伊蔵の心映えを示す所業であった。今に伝えられる伊蔵入信のあらましである。こうして3日目には、それまで身動きもできないでいたおさとが物にもたれてではあるが、自分で食事をすることができるようになった。

 伊蔵は大いに喜んで早速お屋敷に駆けつけると、今度は秀司が、「容態はどうですか」と尋ねたので、「大変お助け頂きました」と、嬉しそうに答えると、「よく助かってくれたなあ」と、わが事のように喜び、話しはよもやま話しに移って行った。助けた者と助けられた者とは、その瞬間から十年の知己以上に心が和やかに融けあえるものである。「あなた、高品なら、あそこにある私の家の親類を知りませんか」、「知りません」。伊蔵は不審顔である。「あそこの鍛冶屋が親類ですよ、おはるが私の妹です」。伊蔵は益々怪訝顔である。(鍛冶屋なら知っているどころじゃない。長い間の友達付合の間柄である。それなのに未だそんな事は聞いたことがない) その後、早速伊蔵は梶本家に行って、「あの様な結構な神様を何故もっと早く教えてくれなかった」と、なじる様に言ったところ、「他人ならば知らしもするが、なまじ親族の間柄故知らさなんだ」という様な会話が交わされた模様である。

 「翁より聞きし咄(はなし)」の続きはこう記している。

 「三日目ニ、モタレテ自分ニ食スルニ至ル。喜ンデ参拝ス。秀司様『ドウデアル』ト尋ネラル。翁『大ヒニ助カリマシタ』ト答エラル。秀司様『能ク助カリテクレタ』ト仰セラル。秀司様ノ仰セニハ、『高品ニ私トコノ親族アリマス。知リテオイデカ』ト。翁『知リマセン』ト応フ。小寒様『ヨウ知りナサラヌナ』ト仰セラル。『鍛冶屋ガ親類ヤ。御春ガ私ノ妹ヤ』ト仰セラル。梶本翁ト飯降翁トソノ頃朋友ノ間故ニ、飯降翁帰リテ梶本翁ニ云エルニハ『何故ニ知ラシテクレナカッタ』ト。梶本翁云エルニハ、『他人ナラバ知ラシモスルナレドモ親族ノ間故ニ知ラサナカッタ』ト云エリ」。
 大和神社事件の経緯についてクレームを付けたのが『中山みき研究ノート』で、これに反論したのが、青年会機関誌『あらきと うりょう149号』。この論争で、元治元(文久4)年に「こかん名義の裁許状」が存在したことが明らかになった。 この論争以前には全く知られていなかったことで、本来ならば議論がさらに深められるべきであったが、寸止めされている。

 元治元年正月には岡山の金光教も宮建築の計画を立て段取りをしている。金光教にはこの時の経緯が記録として残さ れている。その記録から分かることは、宮建築をするためには宗教者として認められることが必要で 、そのためには藩主の添書を得なければならず、これには多額の費用がかかるということである。天理教も「つとめ場所」という宗教施設を作るには宗教者としての認可が必要であり、慶応3年に古市代官所(藤堂藩)の添書を得るのに多額の費用が掛かったはずである。しかし、この点について天理教では全く問題にされていない。

【飯降伊蔵(32歳)夫婦入信】
 この年、飯降伊蔵が妻おさとの産後の患いから入信。珍しいお助けを頂いた伊蔵の信仰はこの日より始まり、日に日に深く一日も欠かすことなくお屋敷に運ぶこととなった。その間おさとの身上も日々にご守護頂き、翌月6.26日のお参りの日には立って歩けるようになったので、夫婦つれ立ってお礼詣りにやって来た。この時、教祖が、「さあさあ待っていた。待っていた。よう帰った。思惑の大工が出て来た。八方の神が、手を打ってお喜びになったぞ」(本席長女・永尾よしえ伝)と仰せられた、と伝えられている。

 他方、初めて訪ねるところとなったおさとにとって、こんなにあらたかな御守護を下さる神様にも関わらず案外に貧相な礼拝所であったように思えた。この頃のお屋敷は「谷底の道のひながた」の時分であり、粗末な一軒家に教祖と秀司とこかんの三人がわび住まいしており、神様が祀られていた8畳間には床の間に一本の御幣が飾られ、その前に拍子木が置かれていたばかりであった。これでは申し訳ないという心が先に立ったようで、伊蔵夫婦は厚く御礼を申し上げながら、秘かにお社造りを心に堅く刻むことになった。

 7月、伊蔵夫婦が再びお参りをした。このお参りには文久年間に母きくの信仰から父のぜん息の御守護を頂いていた桝井伊三郎、山中忠七を筆頭に横田村、大西村、古市村、芝村等からも信仰の先輩乃至同輩が見えて相当な賑わいであった。思いがけずもこの日、伊蔵夫婦は、その誠真実の心根が見定められて、二人共々「扇と御幣のさづけ」を頂くこととなった。さとの身上の患いから始まった信仰もまだ日が浅いのに、誰にも負けぬほど熱心に参詣の歩を運んでくる二人への親神からの御さづけであった。伊蔵夫婦が早くも親神のお眼に叶うた証左でもあろうが、ひとしお深い感銘を覚えたことと察せられる。

【続「扇、御幣、肥えのさづけ」】
 12月、辻忠作、仲田儀三郎ほか数名の道人が、「扇、御幣、肥えのさづけ」を頂き、前年のさづけの時と同じお言葉を頂いている。

 (道人の教勢、動勢)
 「1864(元治元)年の信者たち」は次の通りである。

【この頃の逸話】

 (当時の国内社会事情)
 文久4年2月、文久が元治に改元した。
 1864(元治元)年、3.27日、天狗党の乱。藤田小四郎ら、筑波山で挙兵。
 6.5日、新選組が、池田屋で会合中の宮部鼎蔵、吉田稔麿らを急襲。長州藩士ら尊攘志士20名と新撰組の激突のいわゆる「池田屋事件」発生。新撰組の討ち入りで勤皇の志士多数が殺傷された。この時、坂本竜馬と親交のあった土佐藩士望月亀弥太が自刃している。龍馬はこの頃、勝海舟の支社として、東奔西走し、横井小楠、西郷隆盛とも知り合う。
 6.15日、五稜郭完成。
 7.11日、佐久間象山(1811‐1864)が、京都三条木屋町の路上で白昼暗殺される。
 7.19日、禁門の変(「蛤御門の変」)起こる。長州藩、御所を攻撃し敗れる。
 7.24日、幕府、第一次長州征伐を命ずる。
 8.2日、第一次長州征伐始まる。
 8.5日、アメリカなどの四国艦隊が下関を砲撃。長州藩の下関砲台を占拠する。
 11.11日、長州藩の三家老が自刃し、幕府に対し謝罪する。
 12.16日、高杉晋作ら、下関で挙兵。
 12.17日、天狗党、加賀藩に降伏。
 12.27日、幕府、長州領から撤兵する。
 この年、干ばつ。綿不作。大洪水で米不作。米価、綿価急騰。
 (田中正造履歴)
 

 (宗教界の動き)
 1864(元治元)年、中山秀司が公許を願って苦心していたのと丁度同じ頃、備中の国(今の岡山県下)では金光教教祖金光大神も同じ努力を重ねていた。
 元治元年正月朔日、金光教祖赤沢文治は、神から「二間四面の宮を 立ってくれい」というさとしを受けた。 これを受けて、『金光大神』(P248.金光教本部教庁.1953)によれば、このみさとしを奉じて、ただちにこれが建設の手続にとりかかった。まず村役場の意向をうかがい、判頭藤井俊太郎をわずらわして村方に談示のうえ、正月十日、赤沢浅吉を願主とし、世話人川手保平・同森田八右衛門、判頭藤井俊太郎等の名で、村役人を経て、浅尾藩庁にねがいでた。当時の村役人は、庄屋小野惧一郎、年寄西三郎治であった。かくて金光大明神は、棟梁川崎元右衛門を代理とし、橋本卯平をさしそえ、白川神祇伯に神拝式許状をこい、かねて、「金神の宮の儀」について、その内意をうかがわしめた。橋本卯平は大和丹生川上神社社家であった関係から、この種のことに、こころえがあったので斡旋の労をとった、とある。白川家に神拝式許状を求め、宮の建築許可を得たことで、弟子たちが入門し始めた。

 金光河内は、初入門の時は大谷村の百姓の文治良であった。神拝式と風折浄衣白差袴の許しを得、お礼は500疋であった。4.9日、それと一緒に金光の宮建築の棟梁の川崎元吉も初入門し、上棟式風折浄衣浅黄差貫の許しを得た。金光教の資料では、川崎元右衛門(元吉)と橋本卯平(加賀)の両人が上京し、役人の林大和守と安部田備前守に頼んだところが聞済にしてくれた。そして居宅祈念の許状と、宮を新築するについても屋敷内に建てて苦しからずと4.9日に達せられたとある。その翌年正月24日、笠岡の斎藤数馬は、神拝式風折浄衣の許しを、六条院西村の高橋冨枝は神拝式千早衣の許しをうけると、金光の教え子の二人が初入門している。

 (当時の対外事情)
 英国軍艦が薩摩を砲撃(薩英戦争)。馬関戦争、英仏蘭米の艦隊、下関砲撃。英仏米蘭の四カ国艦隊が徴収藩の下関を砲撃する。

 (当時の海外事情)
 アメリカで南北戦争始まる(1863-65年)。リンカーン大統領が奴隷解放宣言発布。





(私論.私見)