1863(文久3)年、12.10日、教祖はこかんと共に大和国生駒郡安堵村の素封家の飯田善六宅へ「お助け」に出向いている。息子の岩次郎(当時6歳)が激しい腹痛を起し、医者、生駒の室山寺、奈良の二月堂と八方手を尽くして出来る限りの方法を講じたようであるが、何処も験がなく、教祖の許へ願い出ることとなった。教祖は、夜中ではあったが提灯を下げて、いとも気軽にお出かけ下さると、この子は忽ち快気を覚え、はや牡丹餅を食べる様になったと云われている。あまりの不思議さに、人々は言葉もなく顔見あわせ感嘆しあったという。この時の滞在はほぼ7、8日と伝えられており、その間に岩治郎は完全に平癒するご守護を頂き、その間も寄り集う人々を助けられ、又付近に種々珍しいお助けを為されたという。
その後、飯田岩治郎と母親は綿蔵に住み込み、教理を勉強する身になった。 この時のことが「御水屋敷並びに人足社略伝」に記されている。これは代々飯田家に保存されてきた貴重資料となっている。以下、この記述に従い概略を追うことにする。
「この時文久3年12月10日の7ツ時なり。老婆とは、天理教教組、奈良県山辺郡三島村中山善兵衛様の令室、みき様なり。(中略)老婆は家族の者に一礼を述べ、病人の枕辺に至り、満面笑みを含ませられ、薬要らぬ、川に流しておくれ。祈祷するにも及ばぬ。皆な断り為したがよろしい」 |
なる前口上が為されたことが明らかにされている。次に、教組が為したことは「お話し」であった。その様子が次のように記されている。
「教組には御入りありても、別にまじないのようなこともせず、神仏を祈念するでもなく、居合わせし人にこれから先の道すがら、その道筋というのはな、これこれに変わる、世の中はかようかように移るのや。又は、人間の始まりはどういうことというならば云々と、謡う如く話しするが如く、耳慣れぬ不可思議のことのみを語られました」。 |
岩次郎は1週間ほどで全快した。
この時の何日か滞在したある日、教祖は、いくつかある井戸の一つを定めて、岩次郎に「安堵(あんど)の井戸」による「水の授け」を渡している。これを「安堵(あんど)の水」と云う。「御水屋敷人足社略伝」は次のように記している。
「この小児には水の授けを渡す。水の授けと云うは、この小児の汲みたる水を飲んだることなら、いかな悩み患いも助けるぞ。水は5勺(しゃく)(5勺は約90リットル)入れの釣り瓶で汲むべし。5勺が5合となる道がつくのや。5合が5升となると、大環(往還)大道となるのや。すぐに5勺入れの釣り瓶をつくれ」。 |
「さぁさぁ、どこに参るとも、ここの井戸でこの釣り瓶で汲む心で汲めば、同じ理で受け取るでな。(中略)この屋敷に一升入りの油壺を伏せおくほどに汲んでも汲んでも尽きん。これ末代のことやで。油は水へ垂らすと妙に広がろうがな」。 |
又、教祖は岩治郎氏のことを「前生のおじさん」といい、将来は「人足社」としてのお役があると述べた。更に「さあさあこの屋敷を神水場所、水屋敷という因縁をつけおく」とも話したと伝えられている(「安堵(あんど)の水 と 東(あずま)の水」他参照)。滞在日数は不明であるが、暮れ近くまで滞在し、正月も近くなり一旦お屋敷に帰る。正月を迎えてまもなく再度飯田宅へ「お助け」に出向いている。
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