第37部 1863年 65歳 お助け出張り、信者寄り来る
文久3年

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「お助け出張り、信者寄り来る」を確認する。この頃より教団の歩みが始まる。これより「お道」、信者を「道人」と言い換えて見て行くことにする。 
 
 2007.11.30日 れんだいこ拝


【教祖がお助け出張りで多忙になる】
 1838(天保9)年、神掛り以来20数年に及ぶ道すがらを経て、ようやく親神様の守護を願う声が澎湃と湧き起こることとなり、みきが安堵村でおたすけに向かい、その周りに信徒集団が形成されるようになった。文久年間には、みきがお見せくだされる珍しい「お助け」に引き寄せられ、みきの説く教理に耳を傾ける人々が現われてくるようになった。初めて教えを説くに説きがいのある時代が訪れた。みきはこの当時65才であるが、先方の求めがあれば、道の遠近を問わず、いとも気軽にお助けにお出かけになられた。すると、その噂を聞き伝えて、その滞在地へ近辺の人々が押し寄せるという具合で、至る所に珍しい「お助け」の実が挙がり、「お助け」を頂く者は日を追うて増加し、教祖の身辺は益々多忙になり、「昼は助けが忙しくて、夜が夜中、糸紡ぎや針仕事をして通り越してきた」という様子となった。

【教祖の「岩田家へのお助け出張り」、お諭しの様子】
 稿本教祖伝46頁が次のように記している。
 「(文久3年)安堵村り飯田善六の子供が、一命も危ないという容態になった時、両親は教祖に願うて来た。早速出掛けられた処、子供はみるみる中(うち)に元気になり、牡丹餅を食べるほどになった。教祖は、七、八日間滞在され、寄り集う人々を助けられた」。

 (道人の教勢、動勢)
 「この時期の入信者たち」は次の通りである。
 飯田善六()、その妻テイ()、息子岩次郎(6歳)

 1863(文久3)年、12.10日、教祖はこかんと共に大和国生駒郡安堵村の素封家の飯田善六宅へ「お助け」に出向いている。息子の岩次郎(当時6歳)が激しい腹痛を起し、医者、生駒の室山寺、奈良の二月堂と八方手を尽くして出来る限りの方法を講じたようであるが、何処も験がなく、教祖の許へ願い出ることとなった。教祖は、夜中ではあったが提灯を下げて、いとも気軽にお出かけ下さると、この子は忽ち快気を覚え、はや牡丹餅を食べる様になったと云われている。あまりの不思議さに、人々は言葉もなく顔見あわせ感嘆しあったという。この時の滞在はほぼ7、8日と伝えられており、その間に岩治郎は完全に平癒するご守護を頂き、その間も寄り集う人々を助けられ、又付近に種々珍しいお助けを為されたという。 その後、飯田岩治郎と母親は綿蔵に住み込み、教理を勉強する身になった。 この時のことが「御水屋敷並びに人足社略伝」に記されている。これは代々飯田家に保存されてきた貴重資料となっている。以下、この記述に従い概略を追うことにする。

 「この時文久3年12月10日の7ツ時なり。老婆とは、天理教教組、奈良県山辺郡三島村中山善兵衛様の令室、みき様なり。(中略)老婆は家族の者に一礼を述べ、病人の枕辺に至り、満面笑みを含ませられ、薬要らぬ、川に流しておくれ。祈祷するにも及ばぬ。皆な断り為したがよろしい」

 なる前口上が為されたことが明らかにされている。次に、教組が為したことは「お話し」であった。その様子が次のように記されている。

 「教組には御入りありても、別にまじないのようなこともせず、神仏を祈念するでもなく、居合わせし人にこれから先の道すがら、その道筋というのはな、これこれに変わる、世の中はかようかように移るのや。又は、人間の始まりはどういうことというならば云々と、謡う如く話しするが如く、耳慣れぬ不可思議のことのみを語られました」。

 岩次郎は1週間ほどで全快した。

 この時の何日か滞在したある日、教祖は、いくつかある井戸の一つを定めて、岩次郎に「安堵(あんど)の井戸」による「水の授け」を渡している。これを「安堵(あんど)の水」と云う。「御水屋敷人足社略伝」は次のように記している。
 「この小児には水の授けを渡す。水の授けと云うは、この小児の汲みたる水を飲んだることなら、いかな悩み患いも助けるぞ。水は5勺(しゃく)(5勺は約90リットル)入れの釣り瓶で汲むべし。5勺が5合となる道がつくのや。5合が5升となると、大環(往還)大道となるのや。すぐに5勺入れの釣り瓶をつくれ」。
 「さぁさぁ、どこに参るとも、ここの井戸でこの釣り瓶で汲む心で汲めば、同じ理で受け取るでな。(中略)この屋敷に一升入りの油壺を伏せおくほどに汲んでも汲んでも尽きん。これ末代のことやで。油は水へ垂らすと妙に広がろうがな」。

 又、教祖は岩治郎氏のことを「前生のおじさん」といい、将来は「人足社」としてのお役があると述べた。更に「さあさあこの屋敷を神水場所、水屋敷という因縁をつけおく」とも話したと伝えられている(「安堵(あんど)の水 と 東(あずま)の水」他参照)。滞在日数は不明であるが、暮れ近くまで滞在し、正月も近くなり一旦お屋敷に帰る。正月を迎えてまもなく再度飯田宅へ「お助け」に出向いている。

 仲田儀三郎(33歳)
 1863(文久3)年、2月、豊田村の農業/仲田儀三郎(33歳)が妻女かじの産後の患いを手引きに入信。仲田は入信後は毎日お屋敷でみきのお話を聞かないと一日が終わらないほど熱心な信者となった。初期信仰者の総代的役目を担っており、1886(明治19)年の「教祖最後のご苦労」に同道し、檻の折檻を受けたことにより重態に陥り、その後間もなく56才で出直す身となった。稿本天理教教祖伝が簡略に記していることにより、さほど知られていないが、仲田の見直し研究は急務であると思われる。
 辻忠作(28歳)
 同年3月、豊田村の農業/辻忠作(28歳)が入信。妹くらの気の病気からみきに助けを乞うてお引き寄せ頂いた。忠作は当時の模様を自らの手記に書き留めているが、それによると、彼は妹の病気にこれまで色々心を砕き諸処に祈願していた模様で、教祖のうわさを耳にした日も、奈良の二月堂にお参りするつもりで家を出掛けたが、その途次親戚に当る櫟本の梶本家に立ち寄り、そこでおはるから教祖におすがりするように勧められた。おはるは教祖の3女であり、その結婚は忠作の媒介で行われたのであるから、既に十数年のじっ懇の間柄であったが、この時代になって教祖の膝下へ引き寄せられたのも縁であろう。ところがこの日は、おはるの夫の惣次郎から、「せっかく奈良詣りを思い立って来たのなら、一度奈良へ詣って来るのもよかろう」との言葉もあり、二月堂に参詣して7日間の祈祷札を貰って帰宅したが、何の変化もないところから、愈々おはるを通じて教祖にお尋ねして貰った。ところが、「この者は先長く寿命ある」と仰せ下された故、今度は自身で参詣した。すると、「このところ八方の神が治まるところ、天理王命という。ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど日々薄やいで来る程に」と仰せ下された。これを聞いた忠作は、もうこれから外へは信心せぬ、と決心したと書いてある。教祖のご容子やお言葉が余程強く心を打つたものと思われる。以来、忠作の熱心な信仰が始まっている。

 この当時は、未だおつとめの様式を教えて頂いていなかった頃であるから、人々はただ「南無天理王命」と幾度も繰返し神名を唱えて祈願を込めていたらしく、忠作も以来線香で時間を計りながら朝夕神名を唱えてお願い申し上げた。すると幾分ご守護を見せて頂いた様ではあったが、今少しはかばかしくなく、もどかしさを感じて、再びおはるを通してお伺いして貰うと、「つとめ短い」と仰せになられた。忠作はハタと思い当たるところあり、というのも最初は線香一本を時間の区切りとしておつとめしていたものの、途中からはこれを二つ折にしておつとめするようになっていた。早速お詫びしてお願いを続けていると、四カ月ばかりですっかりご守護頂いた。先に「日々薄やいで来る程に」と仰せ頂いたお言葉の通りであった。

 ところがそのご守護に引き続いて、今度は当時4才になる忠作の長男由松(よしまつ)の顔が赤くなってむずかるので、早速祖母が背負うて教祖の許に伺うと、「親と代わってこい」との仰せに、母のますが代わって参ると、「ふた親の心次第で助けよう」と仰せになって、段々お仕込み下され、4、5日でご守護を頂いた。それから暫くはお屋敷から遠のく時期もあったが、1866(慶応2)年正月から俄然熱心な道人となった。「さよみさん(仲田儀三郎のこと)の行く限り、誰が何と言おうと行く!」と宣言し、毎日参拝し始めることとなった。
 桝井キク()
 同年夏頃、伊豆七条村(現大和郡山伊豆七条村)の農業/桝井キク(39歳)が入信。夫の喘息のご守護を頂こうとして参った。この時、教祖から、「あんた、あっちこっちえらい遠回りをしておいでたんやなぁ。おかしいなぁ。ここへおい出たら、皆んなおいでになるのに」とのお言葉を頂いている。これより一筋の信心の道を歩み、息子伊三郎を連れて参るようになった。
 前川喜三郎(31歳)
 同年、農業/前川喜三郎(31歳)が妻たけの胃痛を手引きに入信。質実で誠実地味な性格でコツコツと裏方の仕事をこなしたと伝えられている。弟の清蔵もその縁で入信。翌年、山中忠七に匂いがけする。

 (稿本天理教教祖伝逸話篇66「安産」)。

【この頃の逸話】

 (当時の国内社会事情)
 1863(文久3)年、1月、坂下門外の変。春、将軍家茂(いえもち)が海防の視察に幕府艦隊順動丸で大阪湾に入った。この持その案内役を勝海舟が務め、熱弁を次のようにふるった。「今や日本は外国艦隊から狙われております。日本にも蒸気機関を備えた軍艦と新式兵器を扱える人材を育てる教育機関の塾を作ることが急務でございます」。この上申が受け入れられ、神戸の地に操練所の建設が始まることとなった。2.4日、清河八郎の提唱により、浪士組の募集が始まる。2.6日、長州藩重臣・長井雅楽、暗殺される。2.23日、浪士組、入京。
 3.4日、将軍・徳川家茂、入京。3.13日、浪士組、江戸に帰るが、近藤勇らは残留。4.13日、清河八郎、暗殺される。5.10日、長州藩が下関を通る外国船(米・仏・蘭)を砲撃し始める(馬関戦争)。6.6日、高杉晋作、奇兵隊を結成。6.10日、緒方洪庵、没。6.13日、将軍・徳川家茂、江戸に帰る。7.2日、生麦事件による薩英戦争起こる。イギリス軍艦が鹿児島に砲撃し薩摩藩が応戦する。8.17日、公家・中山忠光らの天誅組、大和五条代官所を襲撃。8.18日、朝廷内部に政変が起こり、尊王攘夷過激派の公卿や長州藩の兵が京都から一掃された。、八・一八の政変。8.19日、七卿落ち。三条実美ら、七卿が都落ち。以降、公武合体派が台頭し、薩摩藩の島津久光、越前藩主の松平慶永、土佐藩前藩主の山内豊信(とよしげ・容堂)などを京都に呼び寄せ、将軍家茂と後見職慶喜を加えて開国貿易の大方針を立てようとした。近藤勇ら新選組の隊名を得る。尊王攘夷運動高まり、天誅組の乱がおこった。天誅組牢人ら(土佐藩脱藩志士第一号の吉村寅太郎隊長)が8.14日急進的な尊皇攘夷派の公卿中山忠光を擁して大和に挙兵、8.17日、五条代官所の代官を殺し、武力倒幕の狼煙を挙げた。ところが、折悪しく8.18政変で急進派公卿、長州勢が京の町より一掃せられ、連動する動きは起こらなかった。天誅組は十津川郷士に援軍を求め、8.26日、高取藩を襲い城攻めしたが、朝廷から討伐の命が下されるなど利あらず、藤堂藩・紀州藩・郡山藩・彦根藩の総勢3万2千名が討伐に向かうこととなった。9.23日、敗兵五人が福智堂村権現辻で藤堂藩士に捉えられる というように、大和路は騒然の気配を増していた。時代は、こうして幕末の不穏な空気を醸し出していた。9.18日、芹沢鴨ら、暗殺される。9.21日、土佐藩が勤王党を弾圧。武知瑞山ら投獄される。9.25日、天誅組、鎮圧される。10.12日、生野の乱。平野国臣ら、生野代官所を襲撃。10.14日、平野国臣ら、鎮圧される。10月、龍馬、神戸海軍操練所の塾頭となる。新選組結成される。 
 (田中正造履歴)
 1863(文久3)年、23歳の時、大沢カツと結婚、六角家の改革のため活躍。

 (宗教界の動き)
 1863(文久3)年、7.24日、後の井出国子(井出クニ)が吉永亀吉、吉永立つの長女として播州の三木町に誕生した。吉永家は代々鍛冶屋であった。

 (当時の対外事情)
 1863(文久3)年、1月、長崎にグラバー邸完成。英国軍艦が薩摩を砲撃(薩英戦争)。5.10日、長州藩、関門海峡通過中の外国艦船を砲撃。

 (当時の海外事情)
 1863(文久3)年、アメリカで南北戦争始まる(1863−65年)。リンカーン大統領が奴隷解放宣言発布。





(私論.私見)