第36部 1861年~62年 64歳 「お道」の黎明、最初期の信者たちとその信仰形態
文久元~文久2年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「「お道」の黎明、最初期の信者たちとその信仰形態」を確認する。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【「お道」の黎明】
 これまで「みき」と記してきたが、ここら辺りで「教祖」(「おやさま」と読む)と表記しようと思う。どこで線引きするかはさほど重要でない。れんだいこは、信者が集い始めた時期をもって「教祖」と言い換えることにする。

 ようやく旬に至ったというか、「をびやほうそはよろづ道あけ」と仰せられた通りに、最初は安政4年と6年の2回にわたって珍しいをびや助けを頂いた清水惣助の妻ゆきが、逢う人毎に力を込めて自己の不思議な経験と「をびや許し」の有難さを物語ることとなり、近隣の人々は次第に「教祖」(おやさま)への認識を改めていくこととなった。ゆきの口を経て、またたくまに「おゆきさんが結構なご利益を頂いたらしい」、「中山の御新造さんは本当の神様らしい」、「わし等もお産の時にお願いしてみよう」、こうした噂が何時とはなしに人々の口に交わされていった。

 「安産の生神様がおられるそうな」との噂が口から口に広まって行き、初産を前にして心配している人、産後の煩いで床についていた者、お産の重さを苦にしている妊婦等が、次から次へと不思議な助けを願ってお参りにやってくることとなった。やがて「庄屋敷に珍しいをびや神様が現れた」から次第に「庄屋敷に生き神様現れる」となり、「庄屋敷へ参ったらどんな病気でも助けてくださる」というように増幅され、漸次付近の村々に伝わって行った。近在に広まるのに一年とはかからなかった。この頃、「この神様は、をびやだけの神様でございますか」と尋ねられ、「そうやない、万病助ける神やで」とお答えされている。こうして安政6年から、2年後の文久2、3年間(1862~63年、教祖65才頃)にかけて珍しいお助けを頂いた人たちが近村に続出する有様となった。「をびやほうそはよろづ道あけ」と仰せ下されたお言葉通りとなって、文治、元治のすがすがしい道の黎明が訪れることとなった。

【最初期の信仰形態考】
 この頃のおつとめは、ごく簡明至極なものであったようである。この頃の教祖は、嘉永6年に母屋を取り払って後、8畳と6畳の古い粗末な建物に暮らされており、奥の8畳の座敷間の床の間に御幣が祀ってあり、それを礼拝の目標とされていた。教祖のもとに来る人はここに集ることとなった。いつも何人かの人が親神を念じ、教祖の話しを聞こうとしている。その人たちに教祖は倦むことなく教えを説き続けられた。現在のようなおつとめの様式が整っておらぬ時分であったので、 信者が参拝しても神棚が設けられているわけでもなく、線香がくゆる中、籠の中に何本となく入れてあった拍子木を取りだし、粗末とも云える床の間に祀られていた御幣に向かって、それを叩いて「なむてんりん王命」と繰り返し神名を唱えるという按配であった。太鼓も時に応じて叩かれていたようである。

 毎月26日が殊に立教のいんねんから例祭日とされていた。この日は早朝からお参りするする人で屋敷内は満たされ、庭をはみ出し門のあたりまで人の群れが額ずく有様となった。約5、60人の人々が集まっていたと推測されている。この当時より、教祖は「神様」として尊崇され始めたようである。それに応じてその居所も「お屋敷」と呼ばれることになっていた。なお、請われるままに出張って行き、時には滞在しつつ教えを説いていた様子も伝えられている。この時こかんは27才であるが、母である教祖の指し示す神一条の道に従い、世間並みに結婚に向かう風もなく教祖の思し召しを取り次いでいた。この頃より既に教祖の代役として筆頭取次役を勤めていた。こかんは「小さき神様」と仰がれ、道人の諸々の伺いに対して、細々としたことは皆こかんを通じて伺いを立てるのが常であったようである。

【講を結べ】
 1861年(文久元)年、教祖64歳の時、教祖は、村々に於ける信者の集まりとしての講を結べとお急(せ)き込みになられた。

 (道人の教勢、動勢)
 「最初期の信者たち」は次の通りである。
 西田伊三郎
 1861(文久元)年、5月、櫟枝(いちえだ)村の農業/西田伊三郎(36歳)が妻ことの歯痛をお助け頂いた縁で入信。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「8、一寸身上に」は次の通り。
 「歯痛ぐらいはなんでもないように思われるが、当時のこととて性の悪いものになれば、随分難渋したものと見え、困り果てた揚げ句、なんでも千束村にある稲荷さんに参詣しようと思って家をでたところ、路上で別所村に嫁いでいる知人に出会い、その人の口から教祖のうわさを耳にしたようである。庄屋敷へ参ったら、どんな病気でも皆な助けて下さる、と聞かされ、早速みきをお訪ねした処、『よう帰って来たな、待っていたで』、『一寸身上に知らせたのや』と仰せになり、親しく神様の話が為された後、ハッタイ粉の御供えを下さった。これを頂いて家に帰る頃には、すっかりご守護頂いていたということである。その後暫くの間、麦秋の忙しさにかまけてお礼参りを怠っていたところ、今度は目が激しくうずきだした。お屋敷へ急いでお参りすると、教祖は、『身上に知らせたのやで』、『旦那さんも連れておいで』とのお言葉を頂き、それからというもの伊三郎も参拝するようになった。この西田夫婦はその後お屋敷に住み込み、農事手伝いや米つきひのきしんに励む等、よふぼくとなり、終生信仰を続けることとなった。お道の最初の信仰者とみなされている」。
 文久元年、西田コトは、庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆な救けて下さるという事を聞き、早速お詣りした。すると、夕方であったが、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と仰せられ、更に、「一寸身上に知らせた」とて、神様のお話をお聞かせ下され、ハッタイ粉の御供を下された。お話を承って家へかえる頃には、歯痛はもう全く治っていた。が、そのまま四、五日詣らずにいると、今度は目が悪くなって来た。激しく疼いて来たのである。それで、早速お詣りして伺うと、「身上に知らせたのやで」とて、有難いお話をだんだんと聞かせて頂き、拝んで頂くと、かえる頃には治っていた。それから三日間程、弁当持ちでお屋敷の掃除に通わせて頂いた。こうして信心させて頂くようになった。この年コトは32才であった。
 乾ひさ
 1861(文久元)年か二年頃、飯田家がある安堵村からさらに西方に行ったところの龍田村戒下の乾ひさが入信。乾勘兵衛は乾ひさの息子である。古伝によると、飯田家より数年も早く教祖様が親しくおいでになっており、一時は参拝客で門前市をなしたと云う。なお、後に秀司の奥として松枝が登場することになるが、この仲介人が表向きが乾勘兵衛、実際は乾ふさだったと云う。(高野友治「天理教伝道史」28P、道友社1954年) 辻忠作の話の中に「乾勘兵衛」が出てきて「自分より信仰が早いのに云々」とある。高安大教会史によると、乾ひさは教祖様から「言上の許し」を貰っていたと云う。この附近の古い信仰者たちの話によると、教祖様が親しくしておいでになり、よくお立ち寄りになったという。秀司先生の奥様松枝様の仲介人になったのが、表面上は息子の乾勘兵衛であるが実際にはこの乾ふさであったという。天理教伝道史ⅠのP28、高野友治.1954.道友社は次のように記している。
 「いずれにしても信仰が早く熱心で、この附近の中心人物ではなかったかと思う。安堵村の飯田岩次郎の入信はその後ではないか」。
 明治十年、息子の勘兵衛が死んでからは、乾ふさが信仰活動をしなくなった。一時は乾家の門前は市をなしたという。そのために家業の百姓が出来なくなった。勘兵衛の妻と、孫の亀太郎が、戸を閉ぢて、病気平癒願いに来る人々を入れなかったという。(「『御神前名記帳』と『天輪王講社名簿』に見る信仰地域の推移」P122)

【この頃の逸話】

 (当時の国内社会事情)

 この頃の世情の様子は、一段と喧騒を極めつつあった。孝明天皇が条約破棄・攘夷実行を要求。

 1861(文久元)年、5.28日、水戸浪士ら、東禅寺のイギリス公使館を襲撃。7.2日、長州藩重臣・長井雅楽、老中に航海遠略策を上申。8月、武市半平太ら、土佐勤皇党を結成。皇女和宮、御降嫁のため京都を発つ。11.15日、和宮、江戸到着。幕府、関八州の浮浪者を鎮圧、蝦夷地に送る。干ばつ。米・綿不作。米価暴騰で農民一揆・打ちこわし頻発(1860‐1855)。


 (宗教界の動き)

 キリスト教徒内村鑑三(‐1930)出生。


 (当時の対外事情)
 1861(万延2、文久元)年、幕府の使節団がヨーロッパへ出発する。

 (当時の海外事情)
 1861年、アメリカで南北戦争始まる(~65)。イタリア王国の成立。





(私論.私見)