第35部 1855年〜
安政2年〜
1860年
安政7年・万延元
58歳〜63歳 貧のどん底、身内外へのをびや許し

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「貧のどん底、身内外へのをびや許し」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【貧のどん底】

 嘉永6年に行われた「こかんの大坂布教」と、翌年の安政元年に出された「をびや許し」によって世界助けの道は力強く踏み出された。とはいえ、この間も中山家はますます厳しいどん底生活へと進んでいた。即ち、嘉永6年、夫の出直しと相前後して長年住み慣れた本家を売り払って以来、当時中味はすっかり空っぽになっていた土蔵の一つを仮の住居と定めて移り住んでいた。既に屋敷の周囲に廻らされていた高塀も取り壊され、母屋も取り払われてただ広いばかりの屋敷に、親子3人の侘しい生活が続けられるようになった。ここまで、「みき」は、神のやしろとしておなりされてからは中山家の全財産を人々に施してしまわれた。自身は食うや食わずのどん底生活をお過ごしに成りながらも、一列の子供を助けたい一条の親心で通り切られた。一切を与え尽くして、一物もないどん底生活の中で「水を飲めば水の味がする」と、お喜びになりお勇みになったのであった。しかし、「みき」はこうして一切を与え尽くして、自分が人々に与えてきた真実がいささかも報いられることなく、却って人々の冷笑や悪罵をお受けになった。親族や親しい人々にさえ離反され、かっては「みき」の厚い情けに浴した人々までが、誰一人として中山家を訪れる者とてなかった。人間心で考えるならば何一つ報いられなかった。しかし、「みき」は十数年という長年月間、明日食う米もない赤貧の中を終始明るい喜びと希望に明け暮れされているのである。


【最後の田地3町余反を足達重助へ10年の年切りで質入れ】
 1855(安政2)年、従来人手に渡すことを急ぎつつも買い手のないままに売り残されていた田地3町余反を足達重助へ10年の年切りで質入れして、その資をも悉く貧しい人々に施して了(しま)われた。年切り質というのは極めて安い価額で売り渡しておいて、期間内に売手のほうから金の都合のつき次第に、買い戻すことのできる方法であるという。従来とても既に買手さえあれば田地も手放していたのであるが、思うに金の動きの少ない寒村のことで、売ろうと思っても買手のないまま今日に至って居ったものを、親神様のおせきこみの烈しいまま、遂にこの年、年切り質という非常手段によって、残る田地を余すところなく手放されたものと思われる。農家が田地を失うということは、生活の道を失うことで、ここに愈々中山家は愈々財産とては何一つない、全くのその日暮らしの境涯に身を置くこととなった。中山家の零落を通史で見た場合、この時点が「貧のどん底」時代かと拝察される。「谷底せりあげの道」としてどんな人でも気軽に寄り付ける様にとの親心から、一切の格式を破り、家財産を捨て切って「貧のどん底」に身を置いてそこから世界助けの道筋をつけようと、ひたすらその道をお急ぎ下されたみきの思し召し通りの生活へいよいよ達したということになる。
 巻向村史には当時の大豆越村に四町歩以上の百姓がなかったという統計が出ている。大豆越村の山中忠七の家は七荷の荷を以つて縁組をする家柄で、「足達金持ち、善兵衛さん地持ち」といわれた足達家の地所が、天保9年 (1838年)より23年前の文化12年(1815年)で四町四反八畝であった。

 「右、大正二年六月四日夜、管長様に聞く、梶本宗太郎誌」が次のように記している。
 中山家の田地は、沢山お売りに成りた後、三町丈けのこりたのである。初より三町と云ふ意にあらず、それ以上御持ちなされたりき、是を十年の年 きれで質に御入れになりた。後、明治初年に三町の土地帰る。(残った最後の三町歩余りの田地は悉く同村の安達重 助へ年切質に書き入れなされていたものである)

 「昭和29年7・29清水由松談」 (天理教教祖伝稿案第20稿、註P60.1955.天理教教会本部)が次のように記している。
 中山家の田地は元々約十五、六町歩あったと思われる。年貢は百石と言うたから、一段一石として約十町歩。その外に山もあり、綿も沢山作って居られた。昔は田地の1/3は綿を作ったものやから、合わせると十三、四町歩、その他 の畑も入れて、十五、六町歩になる。

【三者三様の貧のどん底時代の各人各様の堪能の仕方】
 「貧のどん底」時代、「みき」は、これを、人としての生活の「どん底からのせり上げ」の道として堪能し続けられた。神の自由自在力を実証するかの道のりであった。「稿本教祖伝」39頁は次のように記している。
 「六十の坂を越えられた教祖は、更に酷(きび)しさを加える難儀不自由の中を、お助けの暇々には、仕立物や糸紡ぎをして、徹夜(よどおし)なさる事も度々(たびたび)あった」。

 秀司は、中山家の復興を第一に考えて生活していた。この後の「お道」の発展に出会うや、これを商売利用しようとし始めることになる。他方、こかんはますます「みき」の説く信仰への理解を深めていった。つまり、「みき」に対し、秀司とこかんの「堪能」が二極化していたということになる。この違いが後々「お道」の発展と共に亀裂を増幅させていくことになる。

【本席の述懐】
 後の本席が、この頃の様子を次のように述懐している。
 御本席平素の御戒めとして、『一厘の銭でも粗末にしてくれるな。今日の日のあるのは、皆御教祖のお陰である。御教祖御存命中には、夜中に柴一本もない所を御通り下された。ある年の暮れのことであった。夜十二時過ぎに、寒いから一くべあたりたいと仰せられたから、立って柴箱の所へ言って見たれば何にもなかった。よう/\のことで松葉のこぼれたのをかき寄せて、片手に一ぱい持って来て、小さな瀬戸物の火鉢に焚いてあげた。松葉だから火は残らんので、お三方(教祖、秀司、こかん)で火鉢の縁をさすってお寝みになったこともあった云々』と。かように御本席は、何時になっても、御教祖御苦労の時のことを忘れずに御通り下されたのである。(「一厘の銭でも」、大正五年四月号みちのとも「御本席十年祭を迎へて」武谷兼信より)。

【女中のお暇(いとま)逸話】
 天理教伝道史UP112、「高野友治」が次のように記している。
 安政年間の終りごろかと思うが、教祖様の中山家に一人の女中がおった。百姓手伝の女であろうか、この女が家へ帰るとき、教祖様から御手織の木綿一反を頂いた。その木綿は白であったので、女中は「模様がついていたらなあ」と一人言をいった。それを御聞きになった教祖様は「そんなら模様をつけてあげるから、その木綿を井戸水に一晩つけておいて、お日様のお上りになるとき竿にかけて乾してごらん、あんたの好きな模様が出ますで」と仰せになった。女中がそのとおりにすると、紫地に赤の井桁模様の反物となった。この時、教祖様が仰せられるに、「これは大事にしまっておきなされ、後になったら宝物として、 あちこちから分けてもらいに行きますで」と。女中はそれをいたゞいて山城の木津の実家に帰った。そして、結婚し、いつのころからか、主人とともに江川の東村に住んだ。東村というところは、山城の青谷から郷ノ口をのぼって禅定寺峠を越えたところにある在所である。主人の名は外川嘉兵衛といった。外川氏は明治二十年七月廿日に大原の部属として斯道会第二十七号を開いたようである。(間もなく辻伊之助氏に変る)だが、信仰は前述のごとく早いのである。

【教祖のおたすけ開始】
 この「貧のどん底」に立て合うかのように、1856(安政3)年、庄屋敷村の足達重助の4歳の娘が足の病で悩んで居ったのをあざやかに助けられ、不治と云われる病気でさえも親神様のお働きの前には不治でないことを立証されている。「貧のどん底」に立ち至ったこの時期に「みき」の「珍しいお助け、不思議な助け」が次々と挙がり始めることになり、やがて近隣の人々に及んでいくこととなった。

【初めてのお返し】
 1857(安政4)年、「みき」60歳のとき、「珍しいお助け、不思議な助け」を頂いた最初期の信者が心ばかりの御礼の印として米4合を持って御礼参りにやってきたという事実が伝えられている。その方は、「これはこないだお借りしたお米です。四合しかありませんがお返しします」と、借りた分を返しに来たものだった。立教からこのかた二十年間、教祖はいろいろな人にほどこし尽くしていったが、それを返しに来られたというのはこのときが初めてとなる。

 梶本宗太郎氏が、これを「神の世帯の誕生」として次のように評している。
 「教祖様は、『わたしは世帯を二度した』と仰せになったと聞かせて頂いております。最初は中山家個人の世帯をなされたが、中山家は落ち切りなされて、個人の世界(世帯?)はするよしもなくなった処から、助けられた人々がたとえ一升の米でも親神様へ御供えする様になった時こそ、即ちこれが第二の世帯、即ち『神の世帯である』と聞かせて頂いて居ります」。(梶本宗太郎「神の世帯」、昭和十一年「第六回教義講習会講義録「一手一つ」)

 天理教教祖伝逸話篇7「真心の御供」
 中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮れに、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。すると、教祖は、いつになく、「ああ、そうかえ」と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。

 それから2、3日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、「直ぐに、親神様にお供えしておくれ」と、非常に御満足の体であらせられた。

 これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。教祖には、2人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。

 こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない」と、仰せられた。

 1857(安政4)年、梶本惣治郎の次男にして慎之亮の兄となる松治郎が誕生。1891(明治24)年、出直し(享年35歳)。

 1858(安政5)年、孫の音次郎誕生(父秀司、母おちゑ)。

【西田伊三郎入信逸話】
 天理教伝道史TのP12「高野友治」が次のように記している。
 櫟本村の西に櫟枝という村がある。そこに西田伊三郎という人がいた。伊三郎氏33才の時、妻が歯を病み千束村のお稲荷さんに拝んでもらおうとして家を出た。途中東から知人に「そんなんだったら庄屋敷村へ行って中山さんの老婆さんに拝んでもらいなされ」といわれ、庄屋敷村に行き、教祖様にお願いした。この時、教祖様は、「よう帰って来た。待っていたで、二三日前から知らせてやった」と申されたという。拝んでもらって、お話をきいている間に歯の痛みはすっかりなくたった。翌日お礼詣りに出かけようとしたが、丁度麦の秋のことで忙がしいので参拝できず、そのままにしていたところ、今度は眼が痛み出し、またお詣りしてお話をきいている間になおってしまった。このたびは教祖様は、「夫もつれておいで」といわれたので、西田伊三郎氏が参拝した。この時が伊三郎氏の33才の時といわれる。伊三節氏は明治27年、70才で出直していられるから33才というと安政5年ということになる。これはちよっと早過ぎる。また同家の話では「桝井伊三郎先生の入信は私の爺さんより三年遅れた」といわれているところからすると、桝井氏の入信が文久3年であるから西田氏の入信は萬延元年となる。安政五年と萬延元年とは二年違うだけである。なお西田氏の関係で入信した前栽村の村田幸右衛門氏の入信が氏の40才の年というから、還算してみると文久元年ということになる。天理教の従来の歴史書には文久三年における中田義三郎、辻忠作、飯田岩次郎の三氏の入信が一番早いようになっているが、 安政、萬延のころから信者ができはじめたというこの話は私ににどうも有り得べきことのように思う。そうなると、先に多少疑問を残しておいた中田儀三郎氏の入信も、妻かじの長男岸松出産後のわずらいとみるなら安政4年の入信であり、長女すえの出産後のわずらいとみるなら萬延元年となる。これは従来の歴史からみると異説であろうが、私にはあり得べ きことと思われる。

【身内外へのをびや許し始まる】
 1859(安政6)年、中山家の北隣にあった三島の百姓清水宗(惣)助の妻ゆきに「をびや許し」をお授けになっている。これが一般の人々に「をびや許し」を授けられた最初であると云われている。その逸話が次のように伝えられている。

 ゆきはかって安政元年、「みき」の3女おはるが「をびや許し」を受けて安産した翌日に中山家を訪れて、おはるがお産の直後にも拘らず、常と少しも変らぬ様子に驚き、しかもお産の時が昨日の恐ろしいあの大地震に立ち会って、産室の後手の壁が一坪余りも崩れかかったという事実等を聞くに及んで、愈々不審に堪えず、段々お話しを伺って「をびや許し」の不思議な働きを得心した。そして、私もお産の時にお許しを頂けば、これと同じ様なご守護が頂けますかと伺ったところ、「誰でも同じことである」という有難い言葉を頂いていた。そこで自分が長男新吉を妊娠した時、その当時のことを回想して早速お許しを頂いたのであった。そして極めて安らかにお産をさして頂いたのであるが、彼女の「みき」のお言葉に対する信頼は、おはるやおまさの様には行かなかった。安産を喜ぶと同時に、折角安らかなお産をしたのだから、産後の養生でしくじってはならぬという人間心の不安が湧いてきた。そしてもたれもの、毒忌み、原帯いらぬと仰せられた「みき」のお言葉を忘れ、当時の慣習に従って産後の養生を厳重に守った。ところが、これが却って禍となり、暫く日を経てからのぼせが起こり、30日目位には頭も上がらぬという状態になって了った。驚いてみきに伺うと、「疑いの心があったからや」とお諭しになり、母親が患っていては子供の世話もできないであろうと、生まれ子をお手元に引き取られ、母親には、米、麦、大豆、小豆、栗、粟、黍、胡麻の七種類の品を煎って粉とし、それで百粒の丸薬を作ってお与えになった。おはるのお産を通してあれほどあざやかな証拠を見ながらもなお、言葉だけでは信じきる心のできなかったゆき女に、信頼の心を呼び覚ますよすがとして、わざわざこうした具体的な薬種をもってその信をつないでいることが注目される。日ならずして全快の喜びを味わった彼女は、いまさらの如く不思議なみきのご守護に深く感銘することとなり、「みき」への信頼の思いを厚くした。

 こうして、「みき」のお諭しを頂いてあざやかに救われたゆきは、一度の失敗を通して強く親神の自由を知っただけに、その感銘もひとしお深かった。その後彼女は、悩める人や産後の患いに悩める人を見れば、誰彼なく自分の経験を物語り、「をびや許し」の有難さを伝えた模様である。安政6年、再び秀松を妊娠した時、今度は絶対疑いの心を起こしませぬとお誓いしてお許しを頂いた。今度はいとも安らかにお産をしたばかりでなく、産後の肥立ちも順調にご守護頂くことができた。もとより腹帯、毒忌、もたれもの等一切用いなかったことはいうまでもない。それでいて平常と少しも変らぬ身の健やかさを味わった彼女の喜びようはたとえようもなかった。
 「初代真柱手記」(カタカナ書)は次のように記している。
 「四十数年前、即チ安政5午年(教祖六十歳相当)、庄屋敷村清水惣助ノ長男新吉出産ノトキ、出産後、御指図ニ間違ヒシ事ナセシニヨリ母ナルゆき女ノボセテ三十日程(ほど)煩ヒ居レリ。ヨッテ教祖様、ソノ生子ヲ御引取ナサレテ、米、麦、大豆、小豆、粟、黍(きび)、胡麻、コノ七品ニテ百粒ノ丸子(がんじ)ヲ作り玉ヒ、子ニ添テ御返シナサレバ、直チニ全快セリ。コレ世界ニテ帯屋タメシノ始メナリ。コノ七種ノ外、南天、ヨモギ、しきび、茗荷(みょうが)、十薬(じゅうやく)、フキ、ノ七品モ前ノ七品ニ合セテ百粒ノ丸子ヲ御製造ナサレシヤニ政女ヨリ聞ケリ。この両方合セテ、二・七・十四、堅ウ仕合セヨキヨウ」(復元第33号36−39頁)。右の手記には、十二行*紙の欄外に張り紙付箋して「政ノ曰ク、米、麦、大豆、小豆、大白砂糖、*米」と輔弼されている。
 二代真柱は、辻忠作手記に基づいて次のように述べられている。
 「たとえ人間心のためとは云え、教祖様はそのまま、自業自得や、とお見捨てなさるような事はなく、直ぐと慈悲の手を差し伸べられました。生まれた子供を引き取ってお世話なされたばかりではなく、力づきの悪い母親にも、七種を混ぜての煎薬(せんやく)を丸薬(がんやく)としてお与えになりましたので、さすが悪性な産後の患いも、三十日程ですっかりと全快したのであります」(復元第7号8頁)。
 丸薬につき、次のお指図(明治20年2.25日(陰暦2.3日)午後7時お諭し)がある。
 「第一をびや助け、さぁ三日目三粒を三つ、三三九つを百層倍。これをかんろうだいへ供え、本づとめをして、元のぢばなる事を伝え、をびや許しを出す」。

 2.23日(陰暦2.1日)の教祖の御葬祭直後のものであるからすると、丸薬の位置づけがかなり重要されていることが分かる。

 (当時の国内社会事情)
 1855(安政2)年、1.16日、江川英龍、没。2.5日、講武所を設置。5.16日、村田清風、没。5月、桂川甫周、和蘭字彙完成。12月4日、父・八平死去。10.2日、安政大地震。水戸学の藤田東湖(1806‐1855)が圧死する。死者7000人以上。10.9日、堀田正睦、老中首座になる。12.10日、千葉周作、没。
 1856(安政3)年、9月、長州藩、吉田松陰に松下村塾の再興を許可する。坂本龍馬が江戸に戻り、千葉道場に再入門する。渋染一揆。吉田松蔭(1830‐1859)、『?孟余話』完成。
 1857(安政4)年、3.7日、越前藩、横井小楠を招く。6.17日、阿部正弘、没。9.16日、薩摩藩主・島津斉彬、湿板写真を撮る。10.16日、越前藩主・松平慶永など、徳川慶喜を将軍継嗣にと建言。この年、駿河地方大地震。中国でアロー事件発生。広州城占領される。
 1858(安政5)年、1.6日、薩摩藩主・島津斉彬、徳川慶喜を将軍継嗣にと勅命を奏請。3.8日、大原幽学割腹自殺。4月23日、井伊直弼が大老に就任。5.1日、将軍・徳川家定、紀州藩主・徳川慶福を継嗣とする内意を示す。6.25日、将軍・徳川家定、徳川慶福を継嗣と発表。7.6日、将軍・徳川家定、没。徳川家茂(慶福)、第十四代将軍に就任。7.15日、島津斉彬、没。8.8日、朝廷、条約締結を違勅とする勅諚を水戸藩に下賜する。9.2日、梁川星巌、没。龍馬「北辰一刀長刀兵法目」を授与される。9月3日、帰郷。9.7日、安政の大獄。梅田雲浜が捕縛される。安政の大獄起こる。10.23日、橋本左内、捕縛される。12.5日、吉田松陰、野山獄に入牢。この年、長崎にコレラ発生。全国流行。伊予吉田藩一揆。
 1859(安政6)年、龍馬、河田小龍に出会う。幕府が、長崎、箱館、神奈川を開港する。
 1859(安政6)年、安政の大獄。9.14日、梅田雲浜、断罪。吉田松陰など刑死させられる。9.24日、佐藤一斎、没。10.17日、頼三樹三郎、橋本左内、没。福沢諭吉、英学を始める。
 1860(安政7、万延元)年、1月、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎など、遣米使節一行が咸臨丸に乗りアメリカに向かう。1.15日、安藤信正、老中になる。1.18日、小栗忠順など、遣米使節として米艦で出航。勝海舟らが日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使護衛の命を受け、咸臨丸で渡米する。使節団は77名、正使は新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、副使に村垣範正(のりまさ)、目付けに小栗忠順(ただまさ)上野介が抜擢されていた。 勝海舟を艦長とする咸臨丸がアメリカに向け出帆。一行は3ヶ月ほど、アメリカに滞在し、喜望峰を廻り、東南アジアを経て帰国した。約9ヶ月に及ぶ世界一周旅行となった。
 1860(安政7、万延元)年3.3日、水戸の脱藩士17名と薩摩藩士1名が登城する時の大老井伊直弼を江戸城桜田門外にて待ち伏せして暗殺した(「桜田門外の変」)。これは、開国を進めようとする井伊に対して、それに反対する尊王攘夷派の志士が為したテロルであった。
 8.15日、徳川斉昭、没。11.1日、和宮内親王の徳川家茂への降嫁を発表。12.1日、孝明天皇、幕府の外交政策に怒り、和宮降嫁が延期となる。この年、坂本竜馬が武知瑞山と接触を深める。 
 (二宮尊徳履歴)
 1855(安政2)年、69歳の時、今市報徳役所に移転。函館奉行から北海道開拓のため門人の派遣依頼あり。1856(安政3)年、70歳の時、御普請役に昇進。日光領仕法中,下野国今市で病没。
 (大原幽学の履歴)
 1857(安政4)年、急激な性学運動の発展と農民が村を越えて労働と学習を共にしたことが幕府の怪しむところとなり、幽学は幕府の取り調べをうけた末、押込百日と改心楼の棄却、先祖株組合の解散を言い渡される。5年に及ぶ訴訟の疲労と性学を学んだはずの村の荒廃を嘆く。

 1858(安政5).正月、江戸でやっと刑期を終えた幽学が帰宅する。3.8日、村をみて失意のうちに切腹自殺し生涯をとじた(享年62歳)。遺書には自分の不手際で幕府の介入を招いた責任を取り、かつ運動の永続を願う内容が記載されていた。千葉県旭市には旧宅(国の史跡)が残っている。著作に「微味幽玄考」「性学趣意」「口まめ草」等がある。
 (田中正造履歴)
 1855(安政2)年、17歳の時、小中村六角家の名主に公選される。

 (宗教界の動き)

 1859(安政6)年、7.13日、備中の農民金光大神(川手文次郎、前名・赤沢文治)が金光教を開教した。天地金乃神(金神)を天地の祖神とし、その氏子である人間は、信仰によって神のおかげが受けられると説いた。


 (当時の対外事情)
 1855(安政2)年、下田、函館、長崎を開港。
 1855(安政2)年、3.22日、破損したロシア軍艦の代わりを日本人が完成させる。プチャーチンが乗船し帰国。5.14日、松前藩、北蝦夷地久春古丹のロシア人陣営を焼く。7.29日、長崎に海軍伝習所を開設する。12.4日、蝦夷地を上知とし、松前祟広に陸奥梁川などを替地として与える。12月23日、日蘭和親条約締結。蝦夷地を幕府直轄地にする。
 1856(安政3)年、7.12日、水戸藩、軍艦・朝日丸を完成する。
 1856(安政3)年、8.5日、下田に米国領使館を置き、ハリスがアメリカ駐日総領事として下田に着任。下田に領事館設置。10.17日、堀田正睦、外国事務取扱になる。
 1857(安政4)年、5.26日、日米下田協約を締結。長崎が開港。8.5日、咸臨丸、日本へ回航される。12.29日、将軍・徳川家定、諸侯に外国との通商を開始させる。
 1858(安政5)年、6月19日、日米修好通商条約調印。翌年、神奈川、長崎、新潟、兵庫が開港し貿易を開始する。
 1859(安政6)年、 6.4日、イギリス総領事・オールコック、江戸の東禅寺を領事館とする。7.6日、ドイツ医師・シーボルト、長崎に再度着任。9.27日、奥羽六藩に蝦夷地を分割し開拓させる。
 1859(安政6)年、福沢諭吉が蘭学を止め英学を始める。ペリー来航以降、蘭学が衰退し始め英学が代わり始めた。 
 1860年(安政7、万延元)年、2.11日、長州藩、長崎でケーベル銃千挺購入。7.26日、イギリス総領事・オールコック、富士山を登る。12.5日、アメリカ公使館通訳・ヒュースケン、薩摩藩士に殺害される。

 (当時の海外事情)
 1857(安政4)年、クリミア戦争始まる。インド、セポイの反乱起る。
 1858(安政5)年、ムガール帝国の滅亡。
 1859(安政6)年、ダ−ウィンが進化論を唱え、「種の起源」を著す。優れたものが劣っているものを喰い、滅ぼし、生き残り、優れたものが受け継がれ進化してきたという進化論を提唱した。この弱肉強食的進化論は、今西錦司の「棲み分け論」が生まれるまで学会の定説となった。





(私論.私見)