第35部 | 1855年〜
安政2年〜 |
1860年
安政7年・万延元 |
58歳〜63歳 | 貧のどん底、身内外へのをびや許し |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「貧のどん底、身内外へのをびや許し」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【貧のどん底】 |
嘉永6年に行われた「こかんの大坂布教」と、翌年の安政元年に出された「をびや許し」によって世界助けの道は力強く踏み出された。とはいえ、この間も中山家はますます厳しいどん底生活へと進んでいた。即ち、嘉永6年、夫の出直しと相前後して長年住み慣れた本家を売り払って以来、当時中味はすっかり空っぽになっていた土蔵の一つを仮の住居と定めて移り住んでいた。既に屋敷の周囲に廻らされていた高塀も取り壊され、母屋も取り払われてただ広いばかりの屋敷に、親子3人の侘しい生活が続けられるようになった。ここまで、「みき」は、神のやしろとしておなりされてからは中山家の全財産を人々に施してしまわれた。自身は食うや食わずのどん底生活をお過ごしに成りながらも、一列の子供を助けたい一条の親心で通り切られた。一切を与え尽くして、一物もないどん底生活の中で「水を飲めば水の味がする」と、お喜びになりお勇みになったのであった。しかし、「みき」はこうして一切を与え尽くして、自分が人々に与えてきた真実がいささかも報いられることなく、却って人々の冷笑や悪罵をお受けになった。親族や親しい人々にさえ離反され、かっては「みき」の厚い情けに浴した人々までが、誰一人として中山家を訪れる者とてなかった。人間心で考えるならば何一つ報いられなかった。しかし、「みき」は十数年という長年月間、明日食う米もない赤貧の中を終始明るい喜びと希望に明け暮れされているのである。 |
【最後の田地3町余反を足達重助へ10年の年切りで質入れ】 | ||
1855(安政2)年、従来人手に渡すことを急ぎつつも買い手のないままに売り残されていた田地3町余反を足達重助へ10年の年切りで質入れして、その資をも悉く貧しい人々に施して了(しま)われた。年切り質というのは極めて安い価額で売り渡しておいて、期間内に売手のほうから金の都合のつき次第に、買い戻すことのできる方法であるという。従来とても既に買手さえあれば田地も手放していたのであるが、思うに金の動きの少ない寒村のことで、売ろうと思っても買手のないまま今日に至って居ったものを、親神様のおせきこみの烈しいまま、遂にこの年、年切り質という非常手段によって、残る田地を余すところなく手放されたものと思われる。農家が田地を失うということは、生活の道を失うことで、ここに愈々中山家は愈々財産とては何一つない、全くのその日暮らしの境涯に身を置くこととなった。中山家の零落を通史で見た場合、この時点が「貧のどん底」時代かと拝察される。「谷底せりあげの道」としてどんな人でも気軽に寄り付ける様にとの親心から、一切の格式を破り、家財産を捨て切って「貧のどん底」に身を置いてそこから世界助けの道筋をつけようと、ひたすらその道をお急ぎ下されたみきの思し召し通りの生活へいよいよ達したということになる。 | ||
巻向村史には当時の大豆越村に四町歩以上の百姓がなかったという統計が出ている。大豆越村の山中忠七の家は七荷の荷を以つて縁組をする家柄で、「足達金持ち、善兵衛さん地持ち」といわれた足達家の地所が、天保9年
(1838年)より23年前の文化12年(1815年)で四町四反八畝であった。 「右、大正二年六月四日夜、管長様に聞く、梶本宗太郎誌」が次のように記している。
「昭和29年7・29清水由松談」 (天理教教祖伝稿案第20稿、註P60.1955.天理教教会本部)が次のように記している。
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【三者三様の貧のどん底時代の各人各様の堪能の仕方】 | |
「貧のどん底」時代、「みき」は、これを、人としての生活の「どん底からのせり上げ」の道として堪能し続けられた。神の自由自在力を実証するかの道のりであった。「稿本教祖伝」39頁は次のように記している。
秀司は、中山家の復興を第一に考えて生活していた。この後の「お道」の発展に出会うや、これを商売利用しようとし始めることになる。他方、こかんはますます「みき」の説く信仰への理解を深めていった。つまり、「みき」に対し、秀司とこかんの「堪能」が二極化していたということになる。この違いが後々「お道」の発展と共に亀裂を増幅させていくことになる。 |
【本席の述懐】 | |
後の本席が、この頃の様子を次のように述懐している。
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【女中のお暇(いとま)逸話】 | |
天理教伝道史UP112、「高野友治」が次のように記している。
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【教祖のおたすけ開始】 |
この「貧のどん底」に立て合うかのように、1856(安政3)年、庄屋敷村の足達重助の4歳の娘が足の病で悩んで居ったのをあざやかに助けられ、不治と云われる病気でさえも親神様のお働きの前には不治でないことを立証されている。「貧のどん底」に立ち至ったこの時期に「みき」の「珍しいお助け、不思議な助け」が次々と挙がり始めることになり、やがて近隣の人々に及んでいくこととなった。 |
【初めてのお返し】 | |
1857(安政4)年、「みき」60歳のとき、「珍しいお助け、不思議な助け」を頂いた最初期の信者が心ばかりの御礼の印として米4合を持って御礼参りにやってきたという事実が伝えられている。その方は、「これはこないだお借りしたお米です。四合しかありませんがお返しします」と、借りた分を返しに来たものだった。立教からこのかた二十年間、教祖はいろいろな人にほどこし尽くしていったが、それを返しに来られたというのはこのときが初めてとなる。 梶本宗太郎氏が、これを「神の世帯の誕生」として次のように評している。
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天理教教祖伝逸話篇7「真心の御供」
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1857(安政4)年、梶本惣治郎の次男にして慎之亮の兄となる松治郎が誕生。1891(明治24)年、出直し(享年35歳)。 |
1858(安政5)年、孫の音次郎誕生(父秀司、母おちゑ)。 |
【西田伊三郎入信逸話】 | |
天理教伝道史TのP12「高野友治」が次のように記している。
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【身内外へのをびや許し始まる】 | |
1859(安政6)年、中山家の北隣にあった三島の百姓清水宗(惣)助の妻ゆきに「をびや許し」をお授けになっている。これが一般の人々に「をびや許し」を授けられた最初であると云われている。その逸話が次のように伝えられている。 ゆきはかって安政元年、「みき」の3女おはるが「をびや許し」を受けて安産した翌日に中山家を訪れて、おはるがお産の直後にも拘らず、常と少しも変らぬ様子に驚き、しかもお産の時が昨日の恐ろしいあの大地震に立ち会って、産室の後手の壁が一坪余りも崩れかかったという事実等を聞くに及んで、愈々不審に堪えず、段々お話しを伺って「をびや許し」の不思議な働きを得心した。そして、私もお産の時にお許しを頂けば、これと同じ様なご守護が頂けますかと伺ったところ、「誰でも同じことである」という有難い言葉を頂いていた。そこで自分が長男新吉を妊娠した時、その当時のことを回想して早速お許しを頂いたのであった。そして極めて安らかにお産をさして頂いたのであるが、彼女の「みき」のお言葉に対する信頼は、おはるやおまさの様には行かなかった。安産を喜ぶと同時に、折角安らかなお産をしたのだから、産後の養生でしくじってはならぬという人間心の不安が湧いてきた。そしてもたれもの、毒忌み、原帯いらぬと仰せられた「みき」のお言葉を忘れ、当時の慣習に従って産後の養生を厳重に守った。ところが、これが却って禍となり、暫く日を経てからのぼせが起こり、30日目位には頭も上がらぬという状態になって了った。驚いてみきに伺うと、「疑いの心があったからや」とお諭しになり、母親が患っていては子供の世話もできないであろうと、生まれ子をお手元に引き取られ、母親には、米、麦、大豆、小豆、栗、粟、黍、胡麻の七種類の品を煎って粉とし、それで百粒の丸薬を作ってお与えになった。おはるのお産を通してあれほどあざやかな証拠を見ながらもなお、言葉だけでは信じきる心のできなかったゆき女に、信頼の心を呼び覚ますよすがとして、わざわざこうした具体的な薬種をもってその信をつないでいることが注目される。日ならずして全快の喜びを味わった彼女は、いまさらの如く不思議なみきのご守護に深く感銘することとなり、「みき」への信頼の思いを厚くした。 こうして、「みき」のお諭しを頂いてあざやかに救われたゆきは、一度の失敗を通して強く親神の自由を知っただけに、その感銘もひとしお深かった。その後彼女は、悩める人や産後の患いに悩める人を見れば、誰彼なく自分の経験を物語り、「をびや許し」の有難さを伝えた模様である。安政6年、再び秀松を妊娠した時、今度は絶対疑いの心を起こしませぬとお誓いしてお許しを頂いた。今度はいとも安らかにお産をしたばかりでなく、産後の肥立ちも順調にご守護頂くことができた。もとより腹帯、毒忌、もたれもの等一切用いなかったことはいうまでもない。それでいて平常と少しも変らぬ身の健やかさを味わった彼女の喜びようはたとえようもなかった。 |
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「初代真柱手記」(カタカナ書)は次のように記している。
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二代真柱は、辻忠作手記に基づいて次のように述べられている。
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丸薬につき、次のお指図(明治20年2.25日(陰暦2.3日)午後7時お諭し)がある。
2.23日(陰暦2.1日)の教祖の御葬祭直後のものであるからすると、丸薬の位置づけがかなり重要されていることが分かる。 |
(当時の国内社会事情) |
1855(安政2)年、1.16日、江川英龍、没。2.5日、講武所を設置。5.16日、村田清風、没。5月、桂川甫周、和蘭字彙完成。12月4日、父・八平死去。10.2日、安政大地震。水戸学の藤田東湖(1806‐1855)が圧死する。死者7000人以上。10.9日、堀田正睦、老中首座になる。12.10日、千葉周作、没。 |
1856(安政3)年、9月、長州藩、吉田松陰に松下村塾の再興を許可する。坂本龍馬が江戸に戻り、千葉道場に再入門する。渋染一揆。吉田松蔭(1830‐1859)、『?孟余話』完成。 |
1857(安政4)年、3.7日、越前藩、横井小楠を招く。6.17日、阿部正弘、没。9.16日、薩摩藩主・島津斉彬、湿板写真を撮る。10.16日、越前藩主・松平慶永など、徳川慶喜を将軍継嗣にと建言。この年、駿河地方大地震。中国でアロー事件発生。広州城占領される。 |
1858(安政5)年、1.6日、薩摩藩主・島津斉彬、徳川慶喜を将軍継嗣にと勅命を奏請。3.8日、大原幽学割腹自殺。4月23日、井伊直弼が大老に就任。5.1日、将軍・徳川家定、紀州藩主・徳川慶福を継嗣とする内意を示す。6.25日、将軍・徳川家定、徳川慶福を継嗣と発表。7.6日、将軍・徳川家定、没。徳川家茂(慶福)、第十四代将軍に就任。7.15日、島津斉彬、没。8.8日、朝廷、条約締結を違勅とする勅諚を水戸藩に下賜する。9.2日、梁川星巌、没。龍馬「北辰一刀長刀兵法目」を授与される。9月3日、帰郷。9.7日、安政の大獄。梅田雲浜が捕縛される。安政の大獄起こる。10.23日、橋本左内、捕縛される。12.5日、吉田松陰、野山獄に入牢。この年、長崎にコレラ発生。全国流行。伊予吉田藩一揆。 |
1859(安政6)年、龍馬、河田小龍に出会う。幕府が、長崎、箱館、神奈川を開港する。 |
1859(安政6)年、安政の大獄。9.14日、梅田雲浜、断罪。吉田松陰など刑死させられる。9.24日、佐藤一斎、没。10.17日、頼三樹三郎、橋本左内、没。福沢諭吉、英学を始める。 |
1860(安政7、万延元)年、1月、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎など、遣米使節一行が咸臨丸に乗りアメリカに向かう。1.15日、安藤信正、老中になる。1.18日、小栗忠順など、遣米使節として米艦で出航。勝海舟らが日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使護衛の命を受け、咸臨丸で渡米する。使節団は77名、正使は新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、副使に村垣範正(のりまさ)、目付けに小栗忠順(ただまさ)上野介が抜擢されていた。 勝海舟を艦長とする咸臨丸がアメリカに向け出帆。一行は3ヶ月ほど、アメリカに滞在し、喜望峰を廻り、東南アジアを経て帰国した。約9ヶ月に及ぶ世界一周旅行となった。 |
1860(安政7、万延元)年3.3日、水戸の脱藩士17名と薩摩藩士1名が登城する時の大老井伊直弼を江戸城桜田門外にて待ち伏せして暗殺した(「桜田門外の変」)。これは、開国を進めようとする井伊に対して、それに反対する尊王攘夷派の志士が為したテロルであった。 |
8.15日、徳川斉昭、没。11.1日、和宮内親王の徳川家茂への降嫁を発表。12.1日、孝明天皇、幕府の外交政策に怒り、和宮降嫁が延期となる。この年、坂本竜馬が武知瑞山と接触を深める。 |
(二宮尊徳履歴) |
1855(安政2)年、69歳の時、今市報徳役所に移転。函館奉行から北海道開拓のため門人の派遣依頼あり。1856(安政3)年、70歳の時、御普請役に昇進。日光領仕法中,下野国今市で病没。 |
(大原幽学の履歴) |
1857(安政4)年、急激な性学運動の発展と農民が村を越えて労働と学習を共にしたことが幕府の怪しむところとなり、幽学は幕府の取り調べをうけた末、押込百日と改心楼の棄却、先祖株組合の解散を言い渡される。5年に及ぶ訴訟の疲労と性学を学んだはずの村の荒廃を嘆く。 1858(安政5).正月、江戸でやっと刑期を終えた幽学が帰宅する。3.8日、村をみて失意のうちに切腹自殺し生涯をとじた(享年62歳)。遺書には自分の不手際で幕府の介入を招いた責任を取り、かつ運動の永続を願う内容が記載されていた。千葉県旭市には旧宅(国の史跡)が残っている。著作に「微味幽玄考」「性学趣意」「口まめ草」等がある。 |
(田中正造履歴) |
1855(安政2)年、17歳の時、小中村六角家の名主に公選される。 |
(宗教界の動き) |
1859(安政6)年、7.13日、備中の農民金光大神(川手文次郎、前名・赤沢文治)が金光教を開教した。天地金乃神(金神)を天地の祖神とし、その氏子である人間は、信仰によって神のおかげが受けられると説いた。 |
(当時の対外事情) |
1855(安政2)年、下田、函館、長崎を開港。 |
1855(安政2)年、3.22日、破損したロシア軍艦の代わりを日本人が完成させる。プチャーチンが乗船し帰国。5.14日、松前藩、北蝦夷地久春古丹のロシア人陣営を焼く。7.29日、長崎に海軍伝習所を開設する。12.4日、蝦夷地を上知とし、松前祟広に陸奥梁川などを替地として与える。12月23日、日蘭和親条約締結。蝦夷地を幕府直轄地にする。 |
1856(安政3)年、7.12日、水戸藩、軍艦・朝日丸を完成する。 |
1856(安政3)年、8.5日、下田に米国領使館を置き、ハリスがアメリカ駐日総領事として下田に着任。下田に領事館設置。10.17日、堀田正睦、外国事務取扱になる。 |
1857(安政4)年、5.26日、日米下田協約を締結。長崎が開港。8.5日、咸臨丸、日本へ回航される。12.29日、将軍・徳川家定、諸侯に外国との通商を開始させる。 |
1858(安政5)年、6月19日、日米修好通商条約調印。翌年、神奈川、長崎、新潟、兵庫が開港し貿易を開始する。 |
1859(安政6)年、 6.4日、イギリス総領事・オールコック、江戸の東禅寺を領事館とする。7.6日、ドイツ医師・シーボルト、長崎に再度着任。9.27日、奥羽六藩に蝦夷地を分割し開拓させる。 |
1859(安政6)年、福沢諭吉が蘭学を止め英学を始める。ペリー来航以降、蘭学が衰退し始め英学が代わり始めた。 |
1860年(安政7、万延元)年、2.11日、長州藩、長崎でケーベル銃千挺購入。7.26日、イギリス総領事・オールコック、富士山を登る。12.5日、アメリカ公使館通訳・ヒュースケン、薩摩藩士に殺害される。 |
(当時の海外事情) |
1857(安政4)年、クリミア戦争始まる。インド、セポイの反乱起る。 |
1858(安政5)年、ムガール帝国の滅亡。 |
1859(安政6)年、ダ−ウィンが進化論を唱え、「種の起源」を著す。優れたものが劣っているものを喰い、滅ぼし、生き残り、優れたものが受け継がれ進化してきたという進化論を提唱した。この弱肉強食的進化論は、今西錦司の「棲み分け論」が生まれるまで学会の定説となった。 |
(私論.私見)