第34部 1854年 57才 をびや許しの始め
安政元年

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「をびや許しの始め、貧のどん底」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【「をびや許し」のはじめ/世界助けの道開け】

 1853(嘉永6)年のこかんの大坂布教の翌年の1854(安政元)年、「みき」は、いちの本村の梶本惣次郎へ嫁いでいた三女おはるの出産に先立ち「をびや許し」を御授けになった。教理ではこれを次のように理解している。

 「こかんの大坂布教は広く浅く親神様の御名を流したものであったが、このをびや許しは、女の大役と云われたお産を通して、一人一人に深く親神様の自由の働きを知らせ、親にもたれつく信頼の心を呼び覚まされたものであった。前者は広く浅く、後者は狭く深くの違いはあるが、何れも積極的に世界助けの道をお開きくださろうとする思し召しの現れであった」。
 「そもそも『をびや許し』は、人間始めた元の親、又元のぢばの証拠に、この屋敷から許しを出すのやでとお聞かせあるように、人間をお始め下された元なる親神様が、みきをやしろとして、親神様の自由の働きを見せてお教え下さろうとの親心からお始め下されたものである」。
(私論.私見)
 これまでも、天保9.10.26日以来嘘の如く平癒していた秀司の足通がその後再発して身動きできないまでに苦しんだことがあり、「みき」がお手ずから息をおかけなされ、お紙をお張り下されたところ10日程の間に全快したという事実があった。この時以来、秀司は母の中にある不思議な力を信じるようになったと伝えられている。こうして「みき」は、種々な機会を通じて親神様の自由をお示し下されていたが、未だ本格的に且つ積極的にこの道をお進め下される旬が至らなかった。凡そ20年の「堪能の日々」を経ていよいよ「みき」の教理が世に現れる時に至った、と拝察し得る。それにしても、こうした心を涵養するに要する為の相応の期間の期間としてここに至るまでに20年という日々の階梯を要していることが着目されねばならないように思われる。

【をびや許しの我が身の試し】
 「をびや許し」は、
 「このたびは 助け一条に かかるのも 我が身の験し かかりたるうえ」

 とあるように、過ぐる日に「みき」自身が我が身での証しを経ての諭しであったようである。というのも、1841(天保12)年、丁度「内蔵こもり」から出た年、「みき」は、我が身を「をびやためし」にかけられていた。ちなみに「をびや」とはお産室の「帯屋」が転訛したものと考えられる。この年みきは妊娠中であったが、7カ月目の身重の或る日、「今日は何処へも行くのやないで」、という神の声があり、その神命のままに朝から外出をなさらず在宅していたがその夜床に入ってお休みのところ、親神様から「眠る間に出る々」とのご出産の予告をお受けになり、早速起きて用意をしておられると、まもなく胎児を流産された。その後暫く頭痛に悩まれたが、2時間余り経た頃夜が明けたので直ちに起き出て、自身で後始末をなされ、汚れもの等も人手を借りることもなく丁寧にすすぎ洗濯をなされ、干竿3、4本も干されたという。然るに、頭痛も忘れたように平癒され、産後の養生を要しなかった。流産とはいえ44才の「みき」の身にはこたえる筈であるところ、常と変わらぬ元気さでお過ごしになった。教理では、やがて世界の子供に「をびや許し」をお授けになる日に備えられていた、として受け取られている。

(私論.私見)
 「をびや許しの我が身の試し」をどう拝察すべきだろうか。「我が身の試し」と云う事は、この時まで夫婦の性交渉があったと云うことになる。本部教理で整合的に説明がつくのだろうか。

【をびや許しの内からの試し】

 この時の「をびや許し」の教理を見ておくことにする。おはるがお産をする為に実家に帰ってきたところ、「みき」は、「何でも彼(か)でも内から試ししてみせるで」と仰せになり、その腹部を撫で三度息をおかけになって、「親神様の守護の理、自由自在の働きの理」を淳々と次のようにお聞かせになられた。

 胎内へ 宿し込むのも 月日なり
 生まれ出るのも 月日世話取り
六号131
 またたすけ をびやぢうよふ いつなりと
 のばしなりとも 早めなりとも
八号32
 「産については人間思案は一切要らぬ。親神様に凭(もた)れ安心して産ませて頂くよう。疑いの心をなくして、神の教え通りにすれば速やかに安産さす。疑って案じたことなら『案じの理』がまわる。神の云う事疑ごうて、嘘と思えば嘘になる。真実に親に許して貰うたと思うて、神のいう通りにすることなら案じはいらない。常の心の善し悪しを云うのやない。常の悪しきは別に現れる」。
 「こうしてをびや許しを頂いた以上、疑いの心をなくして、親神様の教え通りにさえすれば、速やかに安産をさして頂ける。をびや一切は常の通りにして居ればよいので、世間一般の人間が案じ心からしている腹帯や毒忌み、もたれもの等更にその必要はなく、又75日の身の汚れもない。唯々親を信じ、親にもたれていさえすれば、親神の自由の守護によって安産ができる」。

 このお諭しの時代的意味は、この当時の習慣としてお産の後には絶対に必要とされていた「腹帯、毒忌、もたれもの」の習俗に対し、

 「腹帯、毒忌、もたれもの等は不要であり、75日間の身の汚れもない、親神様にもたれ切って居りさえすれば、何をしようと何処へ行こうと、常平生と少しも変らず振る舞って良い」

 と諭されていたことにあった。つまり、お産に当たっては、別段深い理をお聞かせになる訳でもなく、又おわび、さんげや精神定めを求められる訳でもない。人間の身上はもとより、人生百般の事は凡て親神様の自由のお働きによるもので、そのご守護を頂くならば如何なる中にもいささかの不安もない。親を信じ、親にもたれ切ることが肝要であるとお諭しされていた。  

 こうして、おはるは、みきの諭す「をびや許し」の理を堅く信じきってお産の日を待つ身となり、陣痛を迎えてはいとも安らかにお産をすまし、その日から常と変らぬ姿で起居した。たまたまその日安政元年11.5日は、近畿地方を襲った大地震と立ち会って、産室の後手の壁が一坪ばかり崩れ落ちるという様な椿事が起こった。初代真柱手記は次のように記している。

 「この時、大地震にて、産室の後手の壁一坪ばかり俄かに落ちかかりたるも、産婦に於いては安然として少しも意に掛けなさらざりし。これ親族には帯屋ためしの始めなり」。

 ちなみにこの時の地震は江戸から東海道、近畿、山陽道、四国、九州にかけて二日間連続の大規模なもので、11.4日には東海一円で倒壊流失8300戸、死者1万人余。11.5日には伊勢湾から九州東部にかけて倒壊1万戸、死者多数が記録されている。

 そんな中にも拘らずの安産であった。こうして無事に長男亀蔵が出産された。これが、「をびやほうそはよろづ道あけ」と仰せ下される「をびや許し」の始めとなった。この当時、お産にまつわる様々な病に苦しむ女達が大勢居り、「みき」の「をびや許し」が現に効能あるものであったとすれば、それは大いなる福音であったものと拝察させて頂く。

 続いてこの翌年、安政2年には長女おまさが長男鶴之助の出産に際して「をびや許し」を頂いて居る。この時も「みき」は腹部も三度撫で三度息をおかけになって、「をびや許しの諭し」を淳々としてお聞かせ下された。おまさは、昨年の妹おはるの不思議な「をびや許し」を目の当たりにしており、教えの通りにしたところ、仰せの通りいとも安らかなお産であった。おまさはこの時に頂いた親神様の自由の守護についての感銘が非常に強かったと見え、晩年になってからでもこの当時を回想し、この当時頂いた「みき」のお諭しと、自ら経験した安産の確信を筆に誌して、知人たちに示し与えている。

 こうして「よろず道明け」として教えられた「をびや許し」は、先ず「みき」自身と家族の者を台としてその自由の理をお示し下された。みきが神懸りをして神の社となったのが1838(天保9)年であるから既に16年もの歳月が経ていた。この「みき」の教えの理が広い世界に輝きわたるには、なお相当なる歳月を要することとなる。


【「をびや許し」考その一、お諭し】

 「をびや許し」にあたって、種々お諭しが為されていることはもっと着目されて良い。「みき」は、単に霊能力的威力でもって「病治し」しようとしたのではない。「親神様の守護の理、自由自在の働きの理」にもたれることによって安産が約束されていると説き、「案じの心」から「親神様の働きを信じる心」への「心の入れ替え」を促し、神の御心に叶う「生まれ直し」によって「神の御働きを引き出し」、「よろずの守護を頂く」と言う教理構造になっていることが判明する。

 この時のお諭しの内容が以上の外は伝わっていない。以下推測となるが重要な内容である。この時、教祖は、始めはかぼちゃのめしべと花粉を例に使って性事を理解させようとしていた。生物は皆な交配によって生命を生む。動物の場合には精子を女性の胎内に送り込む。こうして新しい生命が宿しこまれる。男種、女種が五分五分に結合してはじめて、男親とも女親とも異なる新たなる生命が生まれる。この生命は神のご守護により妊娠し育まれる。こうした生命のメカニズムを説き聞かせ、物の怪や迷信の類に脅かされる必要はない、何ら案ずるに及ばないことを福音していたようである。これは、当時の人々が様々な仏教的因縁教説によって「お産」を畏怖させられ、不安を増幅されていたことに対する批判的啓蒙でもあったと思われる。「祟(たた)りはない、前世の業、因縁などはない。怖れることはない」と説いたのではないのか。

【「をびや許し」考その二 みきの反迷信習俗、女性解放観】

 「みき」の、「おびや許し」の際に語られる「お諭し」は着目されるに値がある。「みき」は、お産に関わる当時の習慣を誤った迷信習俗であるとして退け、「をびや一切は常の通りにして居ればよいので、世間一般の人間が案じ心からしている腹帯や、毒忌み、もたれもの等更にその必要はなく、又75日の身の汚れも無い、親神様にもたれ切って居りさえすれば、何をしようと何処へ行こうと、常平生と少しも変らず振る舞って良い」ことを淳々と説いたようであり、むしろ今日的な合理観を指し示しているかに見受けられる。

 この当時、女性の月経は汚れであり、お産は大変な汚れものとして、産婦は、納屋や土間を産屋とし、ウブスナを撒いた上に藁を敷き、人眼にふれないようにして出産するものとされていた。その為、当時の産屋は不潔になりがちで、母子共に産褥熱などで死亡する者が多かった。又凭れ物に寄り掛かって分娩する方法により、産後も凭れ物から離れてはいけないとされた。

 又産婦は、例えば妊娠中に鶏を食えば三本指の子が生まれるとか、兎の肉を食えば唇に障害のある子が、タコを食べれば骨為しの子、エビやカニを食べればコセ(軽い皮膚病の一種)の子、ネギを食べればワキガの子、その他アレを食べればアレの子等々というように、毒忌みに支配され飲食に制限を受けていた。こうして産婦は栄養不足となり、産後の患いにかかる者が多かった。又安産を願う儀式として腹帯の着帯が為されていた。腹帯は、一般に妊娠5ケ月目の戌(イヌ)の日に帯を付ける慣しであった。犬のお産が軽くて、よく子を産むという俗信から風習化されたようである。

 又、産婦の汚れが完全に解消するのは、75日目とされ、この間針仕事や木綿織りもしてならず、神仏へのお参りも禁じられた。「それは穢れを忌むという名目で妊婦を仕事から解放し、母体を休める効用があったといわれる事もあるが、そうした点を認めたとしても、これらの慣習の根底には血穢が死穢に通じるということが明確に観念されており、それが女性を穢れた存在と見る社会的風潮を助長していたことは民俗学の教えるところである」(「中山みき−その生涯と解放」27P)。

 なお、この「みき」の、時代を飛び越えた合理性は、当時の女性が置かれていた習俗に伴う蔑視観からの解放を企図していたことが着目されるに値する。今日的な合理観として通用する男女平等思想に根ざす「お諭し」として精彩を放っているやに見受けられる。何はともあれ、こうして「みき」の「お助け」は、女性の封建的習俗からの解放として世に飛び出すこととなった。当時、不浄のもの、けがれたものとタブー視されていた女性の生理現象に関して、次のお話しが伝えられている。

 南瓜(カボチャ)や茄子(ナス)を見たかえ。大きい実がなっているが、あれは、花が咲くで実ができるのやで。花が咲かずに実のなるものは一つもありゃせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと世上で云うけれども、何も不浄なことはありゃせんで。男も女も寸分違わぬ神の子や。女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りが あるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実がのろうか。よう悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。無駄花というものは、何にでもあるけれどな。花なしに実ののるということはないで。よう思案してみいや。何も不浄やないで。

【「をびや許し」考その三 その後の「をびや許し」】
 「をびや許し」はその後、制度化されていった。現在では、「をびや許し」は安産の為の祈祷的なお供えで、妊娠6か月以上になった妊婦、その夫、どちらかの親御が願い出て、教祖殿で三包みのお供えを頂く儀式になっている。最初の一つは「身持ちなりのお供え」と呼ばれるもので、帰宅後すぐに頂く。次が「早めのお供え」と呼ばれるもので、産気づいたら頂く。最後の三包み目は「治め、清めのお供え」とと呼ばれるもので、出産後に頂く。包みの中身は元々ははったい粉であったが、明治11年頃より金平糖となり、さらに明治37年頃より洗米となって今日に至っている。そもそもは、教祖の次女のおはるが懐妊した時、教祖がその腹に息を三度掛け、三度撫でられたのが始まりである。その後おはるは安産し、教祖の不思議な守護の噂が広まり教勢が伸びて行くことになった。「をびや許しはよろづ道明け」と云われる所以である。

 (当時の国内社会事情)
 1854(安政元)年、6.11日、土佐藩、開国を主張した参政・吉田東洋を解任。伊賀上野地震。6月23日、帰郷。再び日根野道場に通う。紀伊農民一揆。下田地震・大津波。日章旗を日本国総船印と決定。大地震起る。佐久間象山(1811‐1864)、『省藻録』完成。11月より安政元年。
 (二宮尊徳の履歴)
 
 (大原幽学の履歴)

 (宗教界の動き)
 1854(安政元)年、

 (当時の対外事情)
 1854(安政元)年、1.16日、ペリー、軍艦7隻を率いて江戸湾に進出。2.10日、ペリー、幕府役人と神奈川で会談。3.3日、日米和親条約(神奈川条約)を締結。下田と函館が開港。3.24日、下田奉行を再設置。3.27日、吉田松陰、金子重輔、下田のペリー艦隊で密航を企てるが失敗。

 5.25日、日米和親条約附録(下田条約)締結。蘭、露とも締結。6.30日、函館奉行を再設置。8月23日、日英和親条約締結。12月21日、日露和親条約締結。

 (当時の海外事情)
 1854(安政元)年、。





(私論.私見)