第32部 1853年 56才 こかんの大阪匂いがけ
嘉永6年

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.10.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「こかんの大阪匂いがけ」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【こかんの大坂布教】
 稿本天理教教祖伝では、この頃の出来事として、末女こかんの「大阪布教」が伝えられている。「厳格な意味での史実性が乏しい」と指摘されている向きもあるが、それは「秀司の不名誉の件」があるので、それを消そうとする目論見によるものと思われる。いずれにせよ、教祖伝に記されていることでもあるので一応これを下敷きにする。

 1853(嘉永6)年、教祖56歳の時、「みき」は、夫善兵衛の出直し後急転直下母屋の取り壊しに掛かったが、この頃突如、末女こかんに大坂の地に天理王命の神名を流すよう命じられている。この時のこかんの齢まさに17才の花恥ずかしい娘盛りの身であった。こかんは、「みき」の仰せのままに浪華の街に向かって度立っている。

 この時の供の者について、初代真柱の「教祖様御伝」には「又吉ほか三名」となっている。お伴をした忍坂村の又吉が旅費が欲しいと言った時、「みき」は、どこへ行っても「凌ぎだけやで」とおっしゃったという話が残っている」(「凌ぎだけやで」、昭和54年10月発行「神の出現とその周辺」、高野友治著作集第六巻、道友社刊98p)。

 供の者について古老の人々の一致する意見は、この供の中に少なくとも一人は忍坂村の西田伝蔵の子供が加わっていた筈であるということである。西田伝蔵は、「みき」のすぐの妹に当るくわの夫である。くわは、「みき」と一番年齢が近かったせいか、兄弟衆の中でも特に気が合っていたということである。そんなことで、くわが忍坂村の西田伝蔵へ嫁入りしてからも、両人の間には屡々(しばしば)往来があり、「みき」が神一条となられてからも、時々西田家を訪れられることがあったと伝えられている。「みき」は、家族、親戚、近隣と先ず手近なところから親神の教え、神様の理を説き始め、周囲が気違い扱いしている時代に最も身近な血を分けた妹くわが姉「みき」の最初の最良の理解者であったということになるようである。「みき」のこうした伝導は「匂いがけ」と云われるが、その手始めは妹くわに始まったともいえる。西田家の方々は、相当早くから「みき」の親神様の教えに深い理解と関心を持っていたものの様で、中山家の家族を除けば、この西田一家が一番最初の信仰者であったと推測できる。

 ところで、西田家には、勇助(別名改三郎)、藤助、又三郎(別名又二郎、或いは又吉)、幸助、おたねという五人の子供があって、こかんのお供をしたのはこの五人の中の誰であろうかと云うことになるが、これには二説あって、五人兄弟の中の末の妹であるおたねの伝によれば、この人は、こかんの大坂布教当時9才であるが、(その後長じて宇陀の細川家に嫁し、なほと改名した。その後もしばしばおぢばに参拝して、昭和の初年頃まで長生きしている)、供をしたのは一番長兄の勇助と三男の又三郎であったと云う。「別鍋 伊賀名張/細川なほ子」は次のように記している。

 「文久の夏、私の一番の兄さん(勇助)と小寒さんと秀司さんと又次郎(勇助の弟)と四人が太鼓と鈴とをもつて大阪へ布教に参りました。それが私の十九の年で御座います」。

 ところが高井直吉はじめ古老の人々の中には、次男の藤助一人であった様にも聞いていると云う人もおり定かでない。「教祖様御伝」には「又吉外三名」となっており、いずれにせよ外二名が誰であったのかということが問題になるが、この場合は、途中から信者の人が加わったという説や中山家の元の使用人という説もある。


 かかる言い伝えが残っていることによって、当時既に数こそ僅少であったが、「みき」の教えを奉ずる人々があったのではなかろうかということや、又、中山家が貧のどん底の一歩手前まで落ちきっていた嘉永6年当時にも、なお昔日の恩顧を忘れないで、主家と運命を共にする覚悟で中山家に仕えていた使用人もあったのではないかと云うことも偲ばれる。とにかく、ここで踏まえておくべきことは、貧のどん底への一歩手前というところに立っていた当時、「落ちきったら吹き上がる」と仰せ下されたお言葉のままに、世界助けの親心を明らかに世間へお示し下される壮挙が行われたという事実である。

 こかん一行が大坂へ向かわれた日は正確には不明であるが、秋頃というのが定説である。この日、こかんは未明に起き出て、支度を整え、その身形はつむぎを染めた裾模様のある振袖を裾短に着け脚絆をつけた旅姿で、「みき」に見送られて、ぢばの朝霧をついて一路西へ歩みを進めた。丹波市、二階堂、平端、安堵、竜田、福貴、福貴畑を経て十三峠を越えた。これより北高安に下り一路大坂の街へと急いだ。めざす宿舎について旅姿を解いた頃は夕刻であったと思われる。泊まった宿は日本橋北詰にあった岸沢屋であったとの説も伝えられている。この宿は、恐らく中山家が綿屋と称されるほど耕作に勤しんでいた頃、綿の取引に大坂へ出張する際の常宿として利用していたのではないかと思われる。

 こかんは、神命のまにまに日本橋、堺筋、天満と、当時往来の頻繁であった街の辻辻に立ち、拍子木を叩きつつ南無天理王命、南無天理王命と声高らかに神名を流して歩いた。物見高さは今も昔も変わらぬ世の常である。突如現れたうら若い乙女が裾模様の振袖姿で、真剣な面持ちに拍子木を叩きながら、神名を連呼している姿が人目を曳かぬ訳はない。道行く人は足を留め好奇な目を注いだに違いない。あれは一体何者であろう、神名らしいもの唱えているようであるが一向に聞いたこともない、真剣な面持ちではあるが気でも狂っているのだろうか、見ればうら若い年頃の身であるが、田舎娘に似合わず何処(どこ)やら気品があるではないか、口さがない町人たちは口々に好き勝手な囁(ささやき)きしたことであろう。しかし、何れにしても「匂いがけ」がかくして為されたのである。そして翌日も又場所を変えて同じく神名を流して歩いた。こうしたことを幾日繰り返したか定かではないが凡そ3日位であっただろうと推測される。かくて無事大任を果たした一行が何れの帰途を取ったのか、これも確と判明しないが、「みき」はこの一行をいとも満足気に迎えられ、ご苦労やったなあと厚く、その労をねぎらわれた。こうしてはじめて、「みき」の教えが親神様の御名をもって世間の耳底に伝えられたることになり、世界に向けて初めての「匂いがけ」の道が開かれることとなった。

 「こかんの「大阪布教」の裏話として、中山秀司が大阪で博打に負け、妹小寒が救出に向かったとする説がある。


【モリジロウ氏の「十三峠越え」に意味はあるのか」考】
 2022.10.22日、モリジロウ「十三峠越え」に意味はあるのか」を転載しておく。
 十三峠は大阪府と奈良県の間にある峠の一つだ。車も電車もない頃、多くの人が歩いた峠である。明治時代に天理教の教祖中山みきのもとへ大阪からも、この峠を越えて多くの人が歩いたのだろう。また教祖中山みきの末娘の小寒さんが浪速布教ということで、この峠を越えて、初めて大阪の街に拍子木を叩いて、神名を流したという。

 これに倣って天理教では「十三峠越え」という行事の呼び名のようにもなっている。多くの若者が歩いたことと思う。天理教管内の学生、或いは学生会などでも歩いた人も多くいることだろう。筆者も学生の頃から何度も歩いたことがある。東大阪の近鉄瓢箪山駅から歩きだし、急な山道も登りながら、息が上がった頃に頂上へ着き、大阪の町を一望すると、すがすがしい気持ちになる。その後、下り坂の連続で、平群のあたりから平坦な道をひたすら東に向かって歩く。

 昔は「こかんさんの碑」という大きな石碑が十三峠に立てられていたが、それも撤去されて、代わりに鉄でできた看板のようなものが設置されているようである。石碑は大阪教務支庁に持っていかれたとか、いろいろ噂は聞くが、どうして撤去されたのかは謎である。詳細をご存じの方がいれば、お聞きしたい。

 小寒さんが浪速へ神名を流しに行ったのは嘉永6年(1853年)のこととなっているが、ちょうど黒船の来航などのあった頃である。教祖みきの夫が出直し、長女のおまささんが福井家に嫁いだ年でもある。まだ信者などもいなく、貧のどん底と言われる時代の話である。もちろん教団もなく、秀司さんが京都の吉田神祇官領に願い出たり、みかぐらうたもまだできていない頃の話である。神名もどう唱えていたのかも気になるところである。

 「十三峠越え」と恒例行事のようになった感もあるが、そもそも、これは作り話だとか、別の理由で大阪へ行ったとか、いろいろな説が流れているようだ。筆者も気になり、小寒さんに関する資料を色々集め、考えていた時期もあったのだが、嘉永6年ではなく、二年後の安政2年であるとする意見もあるようだ。しかし、小寒の浪速神名流しは善兵衛が出直した年(嘉永6年)であると伝えられていることや、初代真柱が残した古老の話をまとめた『カタ仮名書』によると、やはり嘉永6年であると考えられる。教祖の妹くわが忍坂村の西田家へ嫁ぎ、息子の藤助と又三郎が小寒について、大阪へ行ったということだが、その西田家に残る話からも嘉永6年であることは、間違いないようである。

 小寒さんに同行した人については『稿本天理教教祖伝』では忍坂村の又吉外二人をつれていったということだが、初代真柱の「教祖様御伝」には「又吉ほか三名」となっている。また「天理の霊能者」P96では「こかんの従兄弟の西田勇助と西田又治郎の兄弟が付き添った」となっている。名前も人数も違うようだが、れんだいこ氏の研究では、つぎのように二説あるようだ。
 ところで、西田家には、勇助(別名改三郎)、藤助、又三郎(別名又二郎、或いは又吉)、幸助、おたねという五人の子供があって、こかんのお供をしたのはこの五人の中の誰であろうかと云うことになるが、これには二説あって、五人兄弟の中の末の妹であるおたねの伝によれば、この人は、こかんの大坂布教当時9才であるが、(その後長じて宇陀の細川家に嫁し、なほと改名した。その後もしばしばおぢばに参拝して、昭和の初年頃まで長生きしている)、供をしたのは一番長兄の勇助と三男の又三郎であったと云う。ところが高井直吉はじめ古老の人々の中には、次男の藤助一人であった様にも聞いていると云う人もおり定かでない。「教祖様御伝」には「又吉外三名」となっており、いずれにせよ外二名が誰であったのかということが問題になるが、この場合は、途中から信者の人が加わったという説や中山家の元の使用人という説もある。
 (れんだいこ氏HP 「こかんの大坂布教」

 人数は定かではないが、2.3名の若者で出かけたことは、さぞや楽しかったとも思われる。芹沢光治良の『教祖様』にも小説としてP95-98に描かれている。ここで気になるのだが、「なむてんりおうのみこと」と本当に唱えていたのだろうか。以前、神名についても調べていたのだが、嘉永6年と言えば教祖56歳、秀司33歳、おまささんもおはるさんも嫁いでいる。まだ信者らしき人もいない時代で、信者がぼちぼちできて、大和神社事件(元治元年)が起こるのは、11年後のことである。大和神社事件では「なむ天理王命」と声高らかに 神名を唱え、太鼓や拍子木、鈴などを打ち鳴らしたとのことだから、それより10年以上前から「なむ天理王命」と唱えていたことになる。

 しかし、以前、天理教の神名について調べていた時、「天理王命」「天倫王命」「天理王神」「転輪王命」などいろいろ変遷があったことを知ったが、漢字表記ではなく、発音としてひらがなで「てんりおうのみこと」と唱えていたのか、「てんりんおうのみこと」と実際に唱えていたかは、明確にはなっていないようだ。まして「天理」と現在のようになったのは神道部属の教会になってからのことだから、神名流しでのぼりに「天理王命」と漢字で書いていたとは思えない。
 (『確かな教理理解のために』天理教道友社 P132)


 結局、更なる資料や確固たる証拠のようなものが出てこないと、はっきりしないことなのだろうが、拍子木を鳴らして神名を大阪の町で流したということはあったのだと個人的には思っている。乱暴な言い方になって恐縮だが、史実はどうであれ、「十三峠越え」は行事としてあってもいいのではないかとも思っている。実際に歩いてみて、思うことは昔の人たちは、やっぱりこのルートを歩いていたのは間違いないであろうし、今のように交通が発達していない頃に、教祖を慕い、助けられた人たちが、足しげく通っていたということは間違いないからである。

 昼に歩いたこともあるし、夜通し歩いたこともあるが、途中で休憩したり、景色を眺めていると、昔の人も同じように歩いて疲れも感じていただろうし、道中、いろいろなことを考えていたのだろうと感じられる。天理まであと数キロと思った時には足取りも軽くなったのだろうかとも思う。ハイキングとして歩いても面白いコースだし、昔の人はここを歩いていたんだと、便利な生活に慣れ切った自分を振り返るのもいいかと思う。今回のテーマである “「十三峠越え」に意味はあるのか”だが、私はやっぱり意味があると思うが、読者の方はいかがだろう。

【「においがけ」考】
 この時の、「秀司の不名誉の件」につき、「別鍋 伊賀名張/細川なほ子」は次のように記している。
 「その日の小遣いが当百六枚あれば良いのですが、それだけの小遣ひは秀司さんが賭博場へ行つて儲けて参りました。ところが七、八日経つて欲になつてその日の小遣は儲けたのにもう一儲けしようと思つて行つたところが、今度はスツカリやられて帰る時は腹を空かして帰りました。それを教祖様は内へお居でになつてチヤンと知つて居られました」。

【「においがけ」考】
 「お道」では、教理の取次ぎの第一次を「匂いがけ」と云う。その次に具体的な「お助け」となり、功をいただいた者は道人(信者)となり「ひのきしん」と「おつくし」(喜捨)へと向かうことになる。この間、道人は「おつとめ」に勤しみ、「たんのう」と「談じ合い」、「練りあい」を楽しみつつ、生かされている喜びで「(返し)お助け」に向かう。その道中は「成人」の過程であり、成人度に応じて「世直し、世界の立て替え」へと進んでいくことになる。この間味わうべきは「生活への勇み」であり、「陽気暮らし」を最良の生活の仕方と心得る。「匂いがけ」とは、この端緒の行為である。教祖の教えたこの道筋には普遍性があり、道人ならずとも通じる金言ではなかろうか。

(私論.私見) 「においがけ」の宗教史的意味考

 この「においがけ」が、ペリー率いる黒船艦隊の来航時に為されたことは意味深であると考える。その後の歴史で明らかになることは、黒船艦隊は単に日本を西欧化する端緒となったばかりではなく、西欧思想特に近現代史を操る国際金融資本帝国主義(略して「国際ユダ邪」又は「国際奥の院」と命名する)の宗教思想的イデオロギ―をも運んで来た。教祖は、この時、この動きに対抗的に立て合わせるかの如き「匂いがけ」を敢行していることになる。それはあたかもお道教理が濃厚に育む日本の土着的縄文的イデオロギ―(出雲王朝式神道思想)で立ち向かった感がある。政治史的には何の関連も認められまいが、精神界史的にはこのような深い意味を持つように思われる。

 2011.2.14日 れんだいこ拝

【教祖が忍坂村の西田家に出張る】
 嘉永6年頃、教祖は、教祖のすぐ下の妹のくわの嫁ぎ先である忍坂村の西田伝蔵家へ行かれ、西田家の奥の間で病人助け、神の道説法をしている。伝蔵・くわの間には改三郎、藤助、又三郎、幸助、たねの五人の子供があった。藤助は中山こかんと縁談のあった人とも云われていて、「増野鼓雪全集22」の「小寒子略伝」にも記されている。




(私論.私見)