第31部 1853年 56才 善兵衛の出直し、母屋壊し、堪能の日々
嘉永6年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「善兵衛の出直し、母屋壊し、堪能の日々」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【善兵衛の出直し】
 稿本教祖伝は、「教祖の56歳から凡そ十年の間は、まことに容易ならぬ道すがらであった」と記している。これを確認しておく。

 1853(嘉永6)年、教祖56歳の時、3.31日(陰暦2.22日)、夫善兵衛が出直した(享年66歳)。思えば、善兵衛は、本来であれば旦那として何不自由のない生活が待ち受けていた身であったが、天保9年に「みき」を「神のやしろ」として差し出して以来、夢想もしなかった出来事の連続で苦労の日々となった。晩年の数年は僅かに平穏の日々を送ったかに見えたが、血縁衆にも絶縁された状態の上、家運は傾くばかりで、未だ前途に希望も見出しえないまま後事を託しての出直しとなった。

 この間、時には耐え難い苦悶と焦燥に身悶えしてみきに迫ったこともあったが、愈々となれば親戚知己の反対を押し切っても、「みき」の仰せを受け入れ、最後まで「みき」と歩みを共にしてきた。結局のところ、「みき」との離縁の道を選ばず、最後まで「ひながたの同行者」となった。但し、子供たちの将来については、なおあきらめきれぬ心を残していったものと思案される。この頃、中山家の子供たちは、三女おはるこそ善兵衛出直し前年にめでたく結婚していたが、長男秀司は齢33才で未だ正式に嫁を迎えることもできないままであり、長女おまさは既に29才、末女こかんは17才で何れも未だ配偶者のない身であった。

 これを「みき」の側から見れば、天保9年以前の20数年にわたる夫婦関係において貞淑従順にして、家事の切り盛り、子育て、近隣付き合いに申し分ない「主婦の鑑」としての名声まで得ていた「みき」であったが、「神の社」となって以降は夫の心痛の種となった「貧のどん底」への道を急がれ、未だ前途に曙光を見出しえない渦中のままに夫を旅立たせていくことになった、ということになるであろう。

【母屋の取壊し】

 「みき」は、夫善兵衛の出直した今、世間並の感傷にひたっている余裕もないかの如くに、遂に長年住み慣れた本家母屋の取壊しを命ずることとなった。このことは着目されるに値することのように思われる。即ち、去る日、神言として「母屋の取壊し」が命ぜられていたにも拘らず、他のことは何とか認めてきた善兵衛もこればかりは許さず、頑強に抵抗し続け、神命が進捗していなかった。夫善兵衛の出直しはその重石が取れたことを意味しており、こうして「みき」は「母屋の取壊し」に向かうこととなった。

 しかし、今度は、善兵衛の跡継ぎたる一家の戸主として中山家の将来を担う立場になった長男秀司が善兵衛の役割を継ぎ、激しく反対するところとなった。父出直しの直後の未だ涙も渇かぬ折であり、且つ祖先代々の引継ぎとして住み慣れている我が家を取り壊すことについて善兵衛同様に中山家の沽券に関わるとして反対し抵抗した。世間的思案からすれば当然の反対でもあったであろう。

 これにつき、次のような俗説解釈も為されている。「秀司にしてみれば、嘉永元年に村の子供たちを集めて寺子屋を開いて以来、世間の悪評も次第に薄れてきており、家運は傾いていく一方ではあったが、寺子屋の師匠としていささかの体面が保たれていた。しかるに今本家を取り壊してしまったのでは、子供を集める場所もなくなり、自然寺子屋は開けなくなる」云々。

 しかし、不思議なことに、秀司が「みき」の命に従い兼ね躊躇していると、天保9年以来忘れたように治まっていた足の痛みが激しくなった。秀司は、耐え切れぬまま遂に神命受け入れに向うことになった。「みき」が「こぼちかけ」と仰せられ、一刻も早く家壊ちに取りかかる様お急き込みなされた。秀司は、買い手もないのに壊さなくても、買い手がついた時に壊せば良いと言う考えもあって、その旨申し上げると、「瓦三枚でもはずせば、こぼち初めや」と仰せになって、即時実行にとりかかることをお急き込みになられた。かくて、止むを得ずいよいよ家壊しに着手することとなった。すると秀司の足痛は嘘のように平癒した。こうした経緯を経て母屋が取り壊され、まもなく買い手もついて、京終の近く永井村という所に売られていったということである。こうして「みき」一家は更に「貧のどん底」への道へ更に歩を進めた。

 この時のことである。売られゆく本家の木材が奈良街道を通って曳かれて行くのを、当時いちの本に嫁いでいた三女おはるが、丁度街道筋にある我が家の門先に立って眺めていると、隣近所の人々が、あれは貴方の里方の本家が売られていくのですと物知り顔に囁いた。おはるは後年、あの時の悲しさは今も忘れることができないと語ったと伝えられている。当時、尚中山家に残っていた秀司、おまさ、こかんの兄妹は、どんな思いでこの荷車の出ていくのを見送ったことであろう。

 この時の家壊しの様子が次のように伝えられている。世間並にはかくも悲しく淋しい家壊ちも、世界助けを急がれる「みき」は、愈々世界助けの本普請にかかる時がきたとの思し召しから、まるで棟上げにでもかかるかのような陽気な勇み心でお始めになった。そしてこの日、家壊ちに来た人夫逹には、お祝いであるからとて酒肴をお出しになり、次のように仰せられたと伝えられている。

 「今日は家の壊ち初め、貧乏のはじまりや。こんなめでたいことはないで。お神酒をこしらえて、一杯祝うて、勇んでかかるのやで」。
 「これから世界の普請に掛る」。

 この当時の模様を、明治33年10月31日の刻限お指図では次のように仰せられている。

 「この道始め家の毀ち始めや、やれ目でたいと目でたいと言うて、酒肴を出して内に祝うた事を思うてみよ。変わりた話しや変わりた話しや。さあさあそういうところから、今日まで始め来た来た。世界では長者でも今日から不自由の日もある。何でもないところから大きい成る日がある。家の毀(こぼ)ち初(そ)めから今日の日に成ったる程(のところを)、聞き分けてくれにゃなろまい」。
(私論.私見) 母屋の取壊し考
 「これから世界のふしんに掛る。祝って下され」という教祖の言葉は決して奇矯でもなければ、戯れ事でもなかった。それは「貧のどん底」に向かう過程で避けては通れない道程であった、と拝察させて頂く。教理では、「世界の普請にかかる為の拵えであった。「みき」の遠大な思し召しは先の先まで見通して、今はまず中山家の母屋を取り毀ち、世界だすけの為の普請をする為のすっきりとした用地にしようとしておられたのである」、「建設の為の破壊、屋敷うちの掃除としてまず母屋のとり毀ちとして、母屋毀ちが為された」としている。

【長女おまさが豊田村福井治肋と結婚】

 この頃(嘉永6年)、長女のおまさが縁あって豊田村の福井治助に嫁いだ。この時の嫁入りは、何とか嫁入り支度を整えたおはるの時と違って、極めて質素なものであったと伝えられている。


【田畑も年切り質に入れる】
 この頃、田畑も年切り質に入れている。八島教学では、母屋売り払いとこの田畑年切り質入は秀司の借金返済の為であった、とされている。真偽は分からない。

 田畑の年切り質はこかんの生活を変化させている。それまでこかんは、秀司が足を悪くした為耕作ができなくなったので、そういう事情によってと思われるが、いとこにあたる忍坂村の西田藤助を婿に迎えて、「隠居」と呼ばれていた建物を住まいとし、共に農事に精出していた。しかし、このたびの田畑の質入で農事ができなくなり、藤助は忍坂村へ帰った。こかんはその後、教祖の身近で時に代役としてお助けの手伝いをするようになる。

【更なる堪能の日々】

 母屋を人手に渡した後の一家は、暫くの間は屋敷のすみに残っていた土蔵に住まれることになった。後、6畳と8畳の藁屋根のみすぼらしい建物を建てて移り住まれた。こうして、「みき」とその家族はどん底生活に相応しい、柱石もない伏せ込み柱で、隙間漏る風の防ぎ様もなく、じかに月影の差し込むあばら家にお住まいになることとなった。これ以降約10年に亘る長い年月、一家は「貧のどん底」生活を送ることになった。「みき」の温かい親心が周囲の人々のかたくなな心をほぐして、「みき」を月日のやしろと仰ぐ日の訪れる迄には未だ数年を要した。

 こうして中山家がどん底の生活を過ごした時代は、「みき」の御年56才から66才位、秀司は33才から43才、こかんは17才から27才位迄の10年間であったから、世間普通から申せば「みき」は既に老年期になられ、秀司は正に男盛り、こかんは娘盛りから花の盛りの過ぎ去る迄の年齢に相当する。

 ところで、「みき」は別格としてこの時の秀司、こかんの思いは如何ばかりであったであろうか。それぞれ年齢に応じてこの貧苦の味を、身にしみて味わったことであろう。着目すべきは、この当時既にこかんは、「みき」を母としてのみならず「神のやしろ」としての理において尊崇へと「堪能」されていったごとくである。事実、こかんは、家族の中で誰よりも熱心な「みき」崇拝者であり、「みき」の云う理の聞き分け者としての成長を遂げていくことになる。他方、同じ境涯で過ごしながらも秀司の場合は、中山家の家運再興を責務と期していた風があった。「みき」に対する両者の違いが、この後の「お道」の発展過程で綾をなすこととなる。今はまだそのことは知れない。


【この頃の逸話】
 こうなってみると、世間は現金なもので又冷たいものである。その昔、中山家が羽振りを利かしていた頃には、腰をかがめて出入りをした人々も又「みき」みきの施しによって多大な恩恵を頂いた人々も、もはや誰一人として訪ねる者なく、荒廃に帰した広いお屋敷には親子3人の淋しい生活が続けられていった。この頃の「みき」一家の生計の様子が次のように伝えられている。秀司は、一家の戸主として生計をたてる為に柴や青物の売り荷を担いで行商に歩いた。その際には常に紋付の着物を着ていたと云う。素より立派な紋付の衣装を誂える程の余裕もなかったから、金気の井戸の底を掘ってそこから出る泥を染料として、親子で染め上げた檳榔子色の粗末な紋付ではあったが、それを着て品位と衿持を失わず振る舞ったという。しかし、世間の目にはこのいでたちは奇異に映ったようで、忽ち近在の評判となって庄屋敷の「紋付さん」という仇名が名づけられ、「紋付さんが通る、紋付さんが通る」と子供たちに囃子されたと云う。御大家の若旦那として中年まで過ごした人のにわか商法のこと故、さだめし心労も多かったことであろうと思われるが、秀司の商いは評判が良かったようで、秀司が通るのを待って買われる人たちも随分といたようである。

 尤も、家の生計を支える為ではあったが、日頃みきに売値は安く、買われる人たちに喜んで頂くことを第一にと諭されていた通りの商売であったので、人気が出るのもあたりまえかも知れない。しかし、こうして得た売上で生活のあれこれに替えて持ち帰っても、丁度その折、門戸に物乞うひとでもあれば、何の惜しみなく施してしまわれるのであった。そして、「ご苦労やったなあ、さぞ疲れたやろう。けれども、お陰であの人に喜んでもらうことができた。結構やったなあ。どれどれ、それでは私もお仕事をさして頂こう」と仰せになって、いそいそと糸紡ぎの夜業をお初めになるのであった。

 「みき」も、こかんと共に糸紡ぎや、お針の賃仕事をする事によって暮らしを助けられた。時には秀司もこの糸紡ぎを手伝うこともあって、親子3人で一日に5百目程の糸を紡いだと伝えられている。普通、一人が一日に紡ぐ量は4、5十目で、夜業かけても百目内外とされていたから、人並みの倍にも及ぶ働きぶりであったことになる。しかし、糸紡ぎによって得られる賃金等は極めて零細なものであるから、一家の生活は益々苦しくなるばかりであった。素より粗末な掘立小屋は荒れ傷むに委せられ、寒い冬の日にも隙間漏る風の防ぎ様もなく、又暖を取る薪炭にも事欠くままあちらの枯れ枝を拾い集め、こちらの落ち葉をかき集めては辛うじて暖を取りつつ過ごされた。又、夏は夏とて吊る蚊帳もなく、竹薮と田圃に囲まれた村落のことであるから殊に猛烈な薮蚊の来襲に悩まされながらも夜を明かされた。
 この頃のこと、或る年の村の秋祭りの日のことである。秋祭りといえば信仰と慣習と娯楽が一つになって村全体の動く日である。既に穫り入れも終わって豊年を喜ぶ村人たちが、この日一日は一切の仕事の手を休めて氏神を中心に歓を尽くす日である。殊に年若い青年男女にとってはこんな楽しいことは又とない一日である。既に前夜から宵祭りの太鼓の音が夜空に響き、賑やかな人のさざめきが聞こえてくる。殊に当日は早朝から人々の歓楽の心をそそる様に鳴り響いてくる。往年には、この日は朝からご祝儀や振舞酒を頂くために、親類縁者や村人たちが足繁く中山家の門をくぐり又これらの人々をもてなす為に立ち働く大勢の男女の賑やかな動きが見られたのに、今では一切の賑わいは全く中山家の外にあって、この屋敷だけは、まるで真空地帯のように外界から切り離されて、誰一人訪ねる者とてない祭の始まる頃が近づくに従って賑わいは愈々喧騒となり、村の娘逹は今日を晴れと着飾って嬉々として過ぎていく。けれども同じ娘盛りの身でありながら、こかんには晴れ着はおろか着替えさえも持ち合わせがない。外出することもならず、崩れた土塀の陰から一人淋しく道いく渡御を眺めていた日もあったと伝えられている。この妹の姿を見て兄秀司は、往年の華やかな祭の日も幾度か経験して居るだけに、ひとしお懐旧の情も強く妹の心情を思いいたしてやりきれなかったことであろう。

【この頃のお仕込み】

 「みき」は、こうした明け暮れを過ごしながら、どこまでも貧一筋の道程を進んでいった。愈々谷底せり上げ、どん底助けの時がきたとの思し召しから、心益々お勇み通られた。この時の折々の諭しが次のように伝えられている。

 「世界あちら、こちら眺めてみよ。家倉御殿同様に建て並べ、その家に住む人もある。人として生まれ来て、あの家に住む人とこちらとにかくも違いがあるというのはどういうもの、私もあんな家にたとい二日なりと奉公にでも住み込んで暮らしてみたいのが人情。ところが、羨ましく思える家でも、その人の心を尋ねてみよ。とんと思う一つの自由ならんというて不足する者もある。不足のない者は一つもないで」。
 「大名暮らしの乞食もある。その日暮らしの大名もある」。

 こかんは日夜こうしたみきのお仕込みに力づけられ、幾重の中も切り抜けて通ったのであるが、当時の中山家の生活は、愈々その日その日の糧にも困るという切実な事態に直面する状態へと落ちていった。時には、炊事をしようにも食膳を整える何物もない日々が続く余り、こかんが愚痴ともつかず訴えともつかず、つい「お母さま、又今日も炊くお米が御座いません」と淋しそうに言うと、

 「こかんや、米はなくても水はあるやろう。世上世界にはなあ、枕元に食べ物を山ほどつんでも食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人があるのや。そのことを思えば、わし等は結構や。水を飲めば水の味がする。神様が結構にお与え下されてある。喜ばしてもらわにいかんで」。

 と優しくお諭しされたと云う。又、「みき」は常々子らに向かって

 「どれ位つまらんとても、つまらんというな。どれくらいつまらんとても乞食はささぬ」。
 「たとえ吊る蚊帳はなくても、食べるものがなくても、万人助けは止むに止まれん」

 とお諭しになられたと云う。こうして、食うや食わずの日々が4、5年続いた。この間、燈す油にも事欠く夜も屡々(しばしば)で、そんな時には、月明かりの夜を選び、これを頼りに夜のあけるまで糸車をおまわしになられたと云う。この「みき」の貧のどん底時代の様子は刻限お指図(明治29.3.31日)で次のように仰せられている。

 「話しを楽しませ楽しませ、長い道中連れて通りて、30年来寒ぶい晩にあたるものもなかった。あちらの枝を折りくべ、こちらの葉を取り寄せ、通り越してきた。神の話しに嘘はあろうまい、さあさああちらが出てくる、こちらが出てくる」。

【この頃の秀司の動き異聞】
 但し、この「貧のどん底」時代の教祖と秀司とこかんの三者関係は微妙にずれている面があったようである。稿本教祖伝では、このことが指摘されることがない。秀司については、 「秀司に二心あった」と伝えられている。お指図は次のように記している。
 「一人の主というのは、神の云うこと用いらず、今年も商いや、相場や、言い言い皆な亡くして了うた」(明治26.2.6日お指図)。

【秀司と内縁関係のおやその間に御子生れる】
 1853(嘉永6)年、秀司とおやその間にお秀が生まれている。

 (この頃の国内社会事情)
 1853(嘉永6)年、6.22日、将軍・徳川家慶、没。喪は伏せられる。7.1日、国書の内容について諸大名に意見を乞う。7.3日、国書の内容について旗本に意見を乞う。7.3日、幕府、水戸藩主・徳川斉昭を海防参与に登用。8.6日、冤罪で入牢中の高野秋帆、出獄する。10.23日、徳川家定、第十三代将軍に就任。この年より連年凶作が続く。陸奥一揆。中村敬宇22歳、「誓詞」書く。

 (宗教界の動き)
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 (この頃の対外事情)
 1853(嘉永6)年、6.3日、ペリーが軍艦4隻を伴い、浦賀に来航。国書受取を要求。黒船騒動起こる。6.9日、ペリー、久里浜に上陸し国書を幕府役人に渡す。6.12日、ペリー出航。7.18日、ロシア使節・プチャーチン、軍艦4隻を率いて長崎に入港。国書受取要求。9.15日、大船建造解禁。11.7日、幕府、ジョン万次郎を登用。

 (この頃の海外事情)
 1853(嘉永6)年、ロシア、クリミア戦争開始。





(私論.私見)