第30部 1848〜52年 51〜55才 お針子、寺子屋を開く
嘉永元〜5年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【お針子、寺子屋を開く】

 かかるころの1848(嘉永元)年、「みき」御年51才の時、「お針子をとれ」という親神様の啓示が為され、「みき」は裁縫の師匠をすることとなった。裁縫は当時の女性の必須の科目であった。かって「主婦の鑑」と云われていた時代の「みき」の名声に、さほどのものがあったのであろう、やがて一人二人と弟子が現れ、教えているうち次第に入門者の数も増えてきた。お針子は庄屋敷村の人々ばかりでなく、近村にまで及んでいったものの様である。これと相前後して、長男秀司は、村の子供たちを集めて、読み書きを教える寺子屋を開いたとも伝えられている。「みき」がお針子の師匠をされたのは、1848(嘉永元)年から1852(嘉永5)年までの短い期間であったが、天保9年以来の厳しい日々に較べれば、この数年間は春の様なのどかさが感ぜられることとなった。恐らく、「みき」の「ひながた50年」の道すがらを振り返るとき、多少とも平穏な生活があったとすれば、この数年間ではなかったかと思われる。

 こうして、一時は訪れるものもなくなった中山家に、若い娘逹や無邪気な子供たちの陽気な笑い声が聞かれるようになった。かっての大勢の奉公人を抱え、村人たちの信頼と羨望の的であった往年の生活には比べるべくもないが、又そうした賑わいとは質の違う貧しい中での新しい価値観に基づいての賑わいの始まりとなった。
 
 お針子の名前は、庄屋敷村の今西栄兵衛の娘テル、庄屋敷村乾源助の娘小雪、豊田村の辻忠作(先代)の姉こよ、豊田村西田某の娘とみ、岡崎村(安堵村の東隣) の辰見新次郎の妻ミツの5名が判明している。(高野友治「御存命の頃、上改修版」P97、1971)。テルは、みきから鶴亀の布細工を頂いている。小雪は、「扇のさづけ」を頂いている。こよは、いとこの梶本惣次郎とおはるの仲立ちをしている。いずれも、お道の幕開けに寄与している。
 
 「みき」がお針子逹に裁縫を教える合間に語った逸話が次のように伝えられている。

 「これから、世の中がころりと変わるで」。
 「今に結構な世に変わるで。頭を下げていた人が、頭をあげて通れる様な世の中になりますよ」。

 他にも多々為されているものと思われるが分からない。こうした逸話から察するのに、「みき」が世の中の移り変わりに並々ならぬ関心を持って過ごしていたこと、予言的能力を獲得していたことが拝察されるであろう。


 天理教伝道史TのP7「高野友治」(1954、道友社)は次のように記している。
 中山家の隣にかせ屋という家があった。その主人の話によると、教祖様は信者が誰もなかったころから御一人で神様の天啓のお言 葉を朗々と口にしておいでになったという。それはまことに朗らかな歌をうたうような調子だったという。それでいて「そのお言葉 はどんなお言葉でしようか」とその主人にきいても、一言も覚えていないという。また中山家の裏の百姓ソウ助は雨の降る日など、 煙草を吸いながら隣からきこえて来るお歌を「またやっておられるな」ときいていたというが、それとてもその内容は片言も記えてなかったという。もって村の人々が教祖様をどんな気持ちでみていたかよくわかると思う。

 かかる状態の中で教祖様を慕い寄って来た人たちがいた。それは誰であるかというと、教祖様から裁縫を習っていた針子たちである。教祖様は村人たちが憑きものがついたというので、そうでないことをお示しになるために針子をとって裁縫を御教えになったという。この針子たちは教祖様をお師匠様として慕い、後に嫁に行っても子供が出来ても、慕い寄って来たという。私の調査中に針子として名の出て来たのは庄屋敷村今西伊平娘テル、同村乾源助娘子雪、豊田村西田某娘とみ、同村辻忠作娘こよの四名で、岡崎村(安堵の東隣村)の辰見新次郎の妻ミツも針子であったとか、針友だちであったとかで、教祖様と心やすかったという話。そしてお針を御教えになった期間を考えてみると、針子の十五才ごろの時代を調べてみて、辻こよ(教祖伝に出て来る辻忠作氏の実姉)は弘化四(※1847)年ごろとなり、乾小言は嘉永年間(※1848〜1853)か、今西テル、西田とみの両人は安政年間(※1854〜1859)かと思われる。

 いずれにしても教祖様のもとへ誰も訪れる者のなかつたころで、しかも貧のどん底といわれるころで、史実のほとんど伝わつていない期間である。その期間にこれらの針子が出入していたことを想像すると、何かこちらがホッと救われたような気持ちになる。またこれらの針子たちの話がどれだけ教祖様のことを世間に伝えたであろうかと思うと、これはまた興味深い問題であり、伝道史には直接関係はないが、ここに附記しておいた。

【神懸かり後のみき行程(13)、お針子考】
 この時代に於ける、「みき」のお針師匠と秀司の寺子屋師匠としてのお働きは、思わぬ効果をもたらすこととなった。これまで、世間の常識を越えた「みき」の行動を狐狸の仕業と思い、狂気の沙汰と嘲笑って一向にその言葉に耳を傾けようとしなかった世間の疑いを晴らし、ありのままに温かく家族の情愛を育みつつあった中山家の新生活に世間の目を開かしたという副産物が生まれたのである。教理では、このお針子、寺子屋の啓示を次のように理解している。
 「それまでの親神様は、中山家の家財は言うに及ばず、富を表わす高塀をも取り壊させておられる。その思し召しを理解できない人々は、まだあらぬ誤解をしていた。そうした事情のところを、この度のお針子、寺子屋の開塾により、教祖への誤解を解き、かつ、お屋敷に人々を引き寄せる試しをされたのであった」云々。
 これはこれで良かろうと思う。

【三女おはるの結婚】
 この間に、三女きみ(おはると改名)の結婚という慶事があった。当時「みき」の許に通うお針子の中に、後年「みき」の教えの熱心な弟子となった豊田村の辻忠作の姉こよという人がいた。こよは、みきを中心とした中山家の一家の者と親しく接して、世間の噂に反した気品の高さと温かい心に親しみと敬慕の情を感じていた。殊に同じ年頃の娘同士として心の優しい人柄優れたおはるの気立てに心がひかれていた。こよにはいちの本村に鍛冶職人で当時26才になる梶本惣治郎という従兄弟があって、適当な嫁を求めていることを知っていたので、おはるを惣治郎に世話したらと思い詰め、橋渡しをすることとなった。

 辻忠作を仲人にして縁談を申し込んだところ、「みき」は、「惣治郎ならば、見合いも何もなくても、心の美しいのを見て、やる」と仰せられたと云う。惣治郎は、幼少のころから気立てが良く素直な為、村でも「仏の惣治郎」と綽名されるほどの好人物であった。「みき」が、人の見立てにおいて、心映えを重視していたことが窺えて興味深い。おはるは、こうした縁で梶本家へ嫁ぐこととなった。時に1852(嘉永5)年、おはる22才であった。当時中山家では既に家財も売りつくし、家運の傾きいく最中ではあったが、未だ田地は相当残っていたので、二差の荷物を持って嫁入りしたと伝えられている。それにつけても、親戚知己の離反や我身一つに集まる世間の悪評の中で、ここ数年は比較的平静な日々を過ごし、このたびは娘の慶事にあって、善兵衛は老いの心にどれ程か喜びを感じたことであろう。

 もっとも一見平静であったかと見えるこの年月の間にも、決して「みき」の施しの手は緩められていない。既に、家財道具を施し払われ、家柄にふさわしく門構えされていた中山家の家屋は、今では僅かに母屋を残すだけの形だけのものとなっており、そこへこの度は更に田地にも手をつけだされた。買い手があり次第に売却し、施しを続けており、殊におはるが嫁入りした前後からひとしお激しさを加えてきた模様が窺われる。かようにして村一番の田地持ちとうたわれた中山家は、この頃では既にその田地にもひびが入る様になっており、更に谷底へ落ちていった。

【秀司の結婚と破綻】
 この頃、秀司は医者になろうとして、井戸堂村出屋敷の医者・土屋宗仙の許へ通っていた形跡がある。この縁で、宗仙の娘が秀司に嫁入りし、中山家の人となった。ところが、毎夜のようにみきに天啓があり、人が寝静まった夜中に声が響くので怖くなり、嫁いで三日目に実家へ帰っている。宗仙の娘が、隣の村田の娘に「あんな恐ろしい家にはよう居れん」と話していたことが伝えられている。但し、中山家と土屋家はその後も出入りが続いており、土屋家の者が代々教祖を慕っていた様子が伝聞されている。(高野友冶「御存命の頃」の「二、そのころの秀司先生」の項参照)

【ハンセン病救済】

 「天理と刻限」の「資料・解説」の「ハンセン病と教祖」に概要次のように記されている。

 嘉永五年二月、みきは、夫・中山善兵衛と連名で、上州吾妻郡中居村黒岩長門守(生神・有道明神)の救らい活動に大金を納めたとの石碑の造立があった由が伝えられている。それによると、いかにも素人作りと思われるが、頑丈な作りの床の間に飾られた黒塗りの御厨子(縦・横39センチ)があり、これを開扉すると、二段の黒塗りの木台の上に石碑がある。石碑というには程遠い一見して河原にある菱形のような自然石(縦17センチ・ 横19センチ)であるが、線彫りで『生神・有道明神』と二行に彫ってあり、裏面は同じ線彫りで『嘉永五年二月 日 中山善兵衛・美き』と彫ってある。欄間には、丸に四方剣片ばみの紋、木台には梅鉢の紋が浮彫りで付けてある。『粗野ではあるが、何とも言われぬ神々しさに只固唾を飲んで、しばしの間、感慨に耽ったのである』。

 そして小林茂信先生のお許しを得て、石碑を取り出して、同行の小林宏道先生(会長)は両面の拓本を取り、私は持参のカメラで写真撮影を行った。その後、先生からのお話があり、正午に辞去したのであるが、先生のお話の中で、御厨子入りの石碑は二体だけであり、教祖は大金の施しをなされたのであろうと言われた。尚また、これからは再び奥深く秘蔵されるとのことであった。小林博士は、戦後から40余年、草津楽泉園に止まられて、らい治療のために尽くされていることは親神の感銘するところとなって、教祖の石碑をお預け下されたのであろうかと思う。

 これによると、「みき」はきこの頃、らい病の救済活動に乗り出していることになる。


 (当時の国内社会事情)
 1848(嘉永元)年、4.2日、逃亡中の高野長英、変名して伊予宇和島藩に行く。4.18日、葛飾北斎、没。陽明学者の佐久間象山、大砲を鋳造。滝沢馬琴(1767‐1848)死亡。

 1849(嘉永2)年、1月、逃亡中の高野長英、薩摩へ行く。9.21日、三宅董庵、広島で種痘を行う。10.2日、長州藩、種痘を行う。11月、佐賀藩医・伊藤玄朴、江戸で種痘を行う。鍋島藩がオランダの種痘法を施行。

 1850(嘉永3)年、10.30日、高野長英が江戸青山で包囲され自刃。佐藤信淵(1769‐1850)死去。

 1851(嘉永4)年、4.14日、水戸藩、種痘を行う。5月、佐久間象山、江戸に砲術塾を開く。飢饉で行き倒れが続出。

 1852(嘉永5)年、2.16日、水野忠邦、没。4.3日、幕府、ジョン万次郎を土佐へ送還する。5.22日、江戸城西の丸炎上。7.11日、ジョン万次郎、土佐へ帰着。11.10日、佐賀藩、精錬方を設置。この年、薩摩藩主・島津斉彬、反射炉を構築。近畿風水害。陸奥一揆。関東大震災。 
 (二宮尊徳の履歴)
 1850(嘉永3)年、64歳の時、福住正兄が箱根へ婿入りのため尊徳のもとを去る。1852(嘉永5)年、66歳の時、故郷栢山で墓参。弥太郎、“ふみ”がそれぞれ結婚。桑ノ川の第二次開発をする。4町歩(4ヘクタール)の耕地開発。1853(嘉永6)年、67歳の時、真岡代官を免ぜられ、日光奉行手附拝命、日光神領の復興を命ぜられる。6月赴任し、80有余村を巡回する。日光仕法開始する。“ふみ”没(享年30歳)。 
 (大原幽学の履歴)
 1848(嘉永元年).2月、長部村の領主清水氏が、大原幽学が指導する長部村の復興を賞賛し、領内の村々の模範とすべきことを触れている。大原幽学は、道徳と経済の調和を基本とした性学(せいがく)を説き、農民や医師、商家の経営を実践指導した。性学とは、欲に負けず人間の本性に従って生きる道を見つけ出そうとする学問のことを云う。性学の指導方法は性学仕法ともいわれる。 お互いに助け合い、生活を改善していくための村ぐるみの組織「先祖株組合」を結成させ、共同購買、耕地整理、住居の分散移などなど行った。また農業だけではなく日常生活の細部にいたるまで規律をつくりその心を指導した。こうして村は復興を果たした。世界最初の協同組合となった。

 1852(嘉永5)年、反感を持つ勢力が改心楼へ乱入したことをきっかけに村を越えた農民の行き来を怪しまれ勘定奉行に取り調べられる。幽学は江戸と現地を行き来する取調べを受けることになった。長きにわたる裁判と指導者の不在により村は再び荒れ果てていった・・・。性学の象徴「改心楼」が取り壊され、先祖株組合は解散させられた。

 (宗教界の動き)
 1849(嘉永2)年、富士講が禁じられる。
 1850(嘉永3)年、2.25日、黒住教の開祖・黒住宗忠が逝去。

 (当時の対外事情)
 1848(嘉永元)年、6月、オランダ、佐賀藩に種痘苗をもたらす。8月、越前藩、西洋式大砲を鋳造。この年、佐久間象山が西洋式大砲を鋳造する。

 1849(嘉永2)年、1月、逃亡中の高野長英、薩摩へ行く。 

 1849年、アメリカが正式の通商要求をする。幕府は拒否する。同年3月、ジェームズ・グリン中佐に率いられたアメリカ艦が長崎湾に入り、アメリカとの通商要請があったが幕府は拒否している。同時に、1年前に蝦夷地に上陸して長崎の牢に入れられていたアメリカ捕鯨船の船員の引渡しを要求した。引渡しを拒否すれば武力行使すると恫喝された幕府は船員たちを釈放する。グリン中佐は帰国後、アメリカ政府に、日本を開国させることは外交交渉によって可能であること、必要であれば「強さ」を見せるべきとの建議を提出している。

 閏4.8日、イギリス軍艦マリナー号が浦賀、下田に来航し測量を行う。伊豆代官・江川英龍が退去を命じる。閏4.17日、マリナー号退去。5月、江川英龍、韮山に反射炉を構築する。この年、松浦武四郎が、国後、択捉を探検する。

 1850(嘉永3)年、11月、佐賀藩、反射炉を構築。 

 1851(嘉永4)年、1.3日、土佐藩漂流民・中浜万次郎(ジョン万次郎)がアメリカ船で琉球に上陸。

 1852(嘉永5)年、8.17日、オランダ商館長・クルチウス、来年アメリカ艦隊が日本に来ることを通告。

 (当時の海外事情)
 1848(嘉永元)年、フランスで2月革命起る。
 1848年、ドイツのマルクス、エンゲルスが「共産主義者の宣言」発表する。
 1851(嘉永4)年、中国で太平天国の乱起こる。
 1852(嘉永5)年、太平天国の乱が本格化する。





(私論.私見)