第2部 1800年〜1806年 1才〜10才 おいたちと幼少期.娘時代の様子
寛政12年〜文化3年

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「おいたちと幼少期.娘時代の様子」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【みきのおいたちと幼少期】
 比較的裕福であった上層農民の結構な家系に産まれた「みき」は、玉のような愛らしく目もと涼やかな女の子として産声を挙げた。幼年時代のみきは、祖母、両親の仲睦まじい家庭にも幸いし、親のひいきめにも褒めたいほど素直に育っていった。前川家では先に長男杏助の誕生をみており、長子相続を基本としていた当時の家族制度からすれば、喜びひとしおを経て安定した円満な家庭環境にあったであろう。こうした和やかな雰囲気のもとで「みき」が身篭られたことになり、胎教というものに影響が認められるとすれば、「みき」は随分と情緒の安定した母の胎内において生育していったことと思われる。

 「みき」の幼少時分の数々の逸話から思案するのに、上層農民の娘子であるにも関わらず村人及びその子達と分け隔てなく交わり、難渋な者に憐れみを覚える質の子であったこと、なお、子供ながらの方法ではあるが喜捨、施しの心を天来の気質とでもいうべく備えており、既にして他人に物を与える喜悦を覚えられる御性情の方であったことが知られる。人は、幼少時代の「みき」にまつわる逸話の数々を通して、後年「教祖」(おやさま)と人々に慕われる御方となるに充分な萌芽をお示しなされている様に驚かされるであろう。
 
 この頃の「みき」の伝聞として次のように語られている。「みき」は乳飲子の頃よりいたって気分良く微笑みをよく為し、夜泣きやむずがりされることの滅多にない、手数のかからない御子であった。おむつの世話も早く上がり珍しく楽な子であったとのことである。

 2、3才の頃には、雇いの近所の娘子にお守をされながら過ごされたようであるが、4才ともなると、裁縫、機織りに精を出す祖母や母親の仕事の傍らで簡単な手伝いをしたり、自ら手慰みするなりしておとなしく過ごすことを好んだ。

 7才の頃の事、近所の子供が泣いて駄々をこねているのをみて、自分が親から貰ったばかりのお菓子を分かち与え、その泣き止むのを見て喜ばれる性質の方であったと云う。一般に子供の時分は自分の事に精一杯で他の子について思いやるなどできかねるのが普通であることを考えると、「みき」には天来の気質として「施し」の心が備わっていたのであろうか。ともあれ実に優しく、思いやり深く、聞き分けの良い、「
人並みすぐれた珍しいお子や」の評判となったことが見てとれる。

 やや長ずるに及び8、9才の頃の事、農繁期ともなると猫の手も借りたい程忙しく、足手纒いになる子供を一カ所に寄せて臨時の託児所のごとくにしてお守りするのが常であったが、駄々をこねて手数のかかる子供も多く大人たちの悩みの種であったところ、「みき」は、この時期そうした子供たちを上手に遊ばせ、子を持つ親逹への手助け至極で有難がられた。村内に位置していた立場からすれば、「みき」は良家の子女として我が身がちやほやされることはあっても、他の者を構う必要のないお方であり、そうしたお方の振る舞いとして了解する時、「みき」のこの手助けは、珍しい心根の為す振る舞いであったことであろう。又、「みき」の子供たちのあやし方が実に巧みで大人たちを関心させることしきりであったとも伝えており、この逸話は、「みき」が幼少時代より娘子に成長していく過程で、「上下身分貧富の隔てのない心」で村人と共に暮らしていた様と、実に子供ながら大人達に信望厚く、又人助けを好んで為す御子であったことを窺わさせる点で注目しえるであろう。

 又、5才の頃からであろうと思われるが、母の膝下で習い覚えされたのであろういつの間にか針の持ち方を見覚え、網巾着(金銭を入れる携帯用の袋)や糖袋を縫って近所の子供に与えたりするようになった。編物や押絵なども堪能で、飛ぶ鳥を見てはその姿を切り抜いて飾りつけにしてみたり、珍しい縫物、細工物を見ては、これを上手に真似て自前で拵え、自身の慰み物にしたり、一部は分かち与えて他の子供たちを喜ばす趣があった。

【みきの宗教的精神史足跡行程(1)、発心】
 「みき」の幼年時代における傑出なことは、「みき」が、信心深い家風の中に育つうちに、幼少より祖母や両親に見習って朝夕の念仏読経を為す御子であったこと、その様はいつしか浄土和賛を暗らんじるほどまでになっていたと伝えられていることである。いつしか培われた信仰の芽生えであった。

 浄土宗の信者の多いこの地方の土地柄として、信者の自主組織としての念仏講の集いが持ち回りで催されていたが、こうした集いとか、さらに菩提寺である勾田村(まがたむら)の善福寺へのお参りにも、母に連れ添って欠かさなかったほどであった。大人たちの会話あるいは法会での法話の一時にも熱心に耳を傾け、煩わすことがなかったと云う。一般に子供は手のかかるものであり、朝夕の念仏読経なぞは最も嫌がられる時間であることが普通であるところ、「みき」は、どうしたことか乳飲子の頃は母の膝の上で、長じてよりはこの一時を待ち受けるかのようにして自ら念仏読経を為したと云う。「みき」の幼いながらの信仰ぶりは、「仏さまいじりの好きな子」としての評判が自然と親戚や近所の人々の間に広まるほどであったと云う。

 昔から、うまし国大和とか、国のもなかと云われるこの地方は、多くの有名な古寺神社に囲まれており、信仰が土地の人々の心の中に息付き易い土地柄ではあった。父母共々信仰心に厚く、子供たちを横に侍らせ、仏間に座り、朝に夕に「帰命朝来弥陀如来」と浄土和讃を熱心に唱えていたこと、菩提寺の参詣に、母おきぬが必ずと云ってよい程「みき」を連れ添っていたこと等々の影響によるのだろうか、こうして、「みき」の信仰心は幼少にして自ずと芽生えることとなった。


 このようにして芽生えた信仰は、傍目で見られるよりも深く鋭く成長を遂げていくことになる。その次第は順次これより見て行くとして、ここでは、早くも「みき」の生涯の全行程を貫くことになる宗教的精神が、幼少の時分より発芽したことを確認しておこうと思う。私は、この「発心の早熟さ」を「みき」の宗教的な精神史の第1行程として注目する。

 本部教理では、「みき」のこの「発心の早さ」を、「みき」に備わる「魂の因縁」として首肯くことになるのであろうけれども、とりあえずは事実の問題として受け留めておけば良かろう。実際「みき」の宗教的精神はどのようにして宿されたのかについては判然としない。信仰心の厚かった家系的な父母の影響とでもいえばそれまでのことであるが、その人に備わった「みき」自身の資質とでも云えるようなものがあるのかも知れない。とりあえず、早くもこうして宿された「みき」の宗教的精神を認め、今後の行程を注意深く見守って行こうと思う。

 なお、先の項でみきの両親の家系が「みき」に与えた影響として、特にみきの母方の実家長尾家の霊統について触れたが、この観点からみきの「発心」の早さを見て取ることが可能であるように思われる。「みき」の発心の早熟さと同時にその発心が浄土宗により取り持たれることなったことをも併せて見ておく必要がある。かくて、「浄土宗は、みきの宗教史的行程の最初に刻印された教え」となる機縁を取り持つこととなった。恐らく、こうした刻印は、母斑としてその後の「みき」の信仰礼拝形式に何らかの影響を与えずには済まなかったであろう。ここではこの二点に注意を喚起しておきたい。


 (当時の国内社会事情)
 1800(寛政12)年、伊能忠敬が蝦夷測量に出発する。
 1801(享和元)年、国学者の本居宣長没。
 1802(享和2).2.5日、享和に改元。
 3月、幕府、伊能忠敬に伊豆等の沿岸測量を命ずる。
 5月、幕府、関東の博徒を逮捕する。
 この年、江戸で大火が起る。
 1802(亨和2)年、柳本藩領で百姓一揆が起る。柳本藩領の百姓が重税に反対して陣屋に押し駆け、鉄砲を打たれて死傷者をだしている。三昧田の西方の法貴寺でも百姓一揆が起こり、京都領所に属する山辺郡百姓2万人が強訴している。
 1803(亨和3)年、三原山が噴火する。
 (フェイスブック関袈裟夫の2018年1月15日) 
 "格物致知"の道を〜 「桂林荘雑詠示」 (廣瀬淡窓) 
 広瀬淡窓(たんそう1782年〜1856年)は江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人。豊後国日田の人。淡窓は号。死後、弟子たちにより文玄先生と諡名された。
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 「桂林荘雑詠示書生(塾生)」  (廣瀬淡窓)
休道他郷多苦辛 道(い)うを休めよ他郷苦辛多しと
同袍有友自相親 同袍友有り 自ら相親しむ
柴扉暁出霜如雪 柴扉 暁に出づれば霜雪の如し
君汲川流我拾薪 君は川流を汲め我は薪を拾わん
 大意
 故郷を離れて苦労が多いなんて、そんなこと言うな。ここには志を同じくする仲間がいる。助け合いの楽しみも自然と生まれてくる。夜明けに柴の戸を押して外に出ると、霜が雪のように積もっている。君は川の水を汲んできてくれ。僕は薪を拾ってくるから。
 〇「桂林荘」(後の「咸宜園」)について
 1805年、「桂林荘」開塾、江戸末期に今の大分県の日田市に「広瀬淡窓」が開いた江戸末期最大級の私塾。後の「咸宜園」へと発展。『詩経』から取られた咸宜園は"ことごとくよろし"の意で、塾生の意志や個性を尊重する理念が込められている。咸宜園は淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘等以降10代の塾主によって明治30年まで存続、運営された。塾生は日本各地から集まり、入門者は延べ4,000人を超える日本最大級の全寮制私塾。幕末・維新・学問他に活躍した人材(大村益次郎、高野長英他)を多く輩出。  平成27年「咸宜園」(桂林荘)は、水戸藩校「弘道館」(前掲)、「偕楽園」(水戸)、「足利学校」(足利藩校)、他教育遺産と一緒に国指定「日本教育文化遺産」に認定された。
 〇補記@江戸後期の日本人識字実態
 江戸時代(近代教育制度導入前)から、日本では支配者層である武士のみならず、多くの庶民も読み書き・算術ができ礼儀正しさを身につけるなど高い教育水準・識字率実態が知られる。これを担ったのは、江戸幕府・昌平黌、各地藩校、私塾、寺子屋、医者・僧侶他である。明治3年に記された外国人著書によれば「日本における読み書きの普及率がかなり高く当時の一部のヨーロッパ諸国と較べてもひけをとらず、各年齢層の男子の40〜50%、女子の15%が日本語の読み書き算数をこなしていた」との記述あり。
 1805(文化2)年、華岡青洲が麻酔手術に成功する。
 1806(文化3)年、米大凶作、江戸で丙寅の大火が起る。
 1806(文化3)年、西蝦夷地を幕府の直轄とする。

 (この頃の宗教界の動き)
 1802(亨和2)年、一尊如来きの、如来教を開く。

 (当時の対外事情)
 1803(享和3)年、アメリカ船が長崎に来航、通商を要求する。
 1804(文化1)年、ロシア使節レザノフが長崎に来て通商を求める。この時レザノフは、日本人の漂流民を護送してきた。
 1805(文化2).3.7日、目付遠山景普、長崎でロシア使節レザノフと会しその要請を却下する。4.26日、レザノフ長崎を退去。

 (当時の海外事情)
 1801(享保1)年、フランス革命起る。
 1804(文化1)年、ナポレオンが皇帝に即位する。
 1805(文化2)年、トラファルガルの海戦。 


1807年〜1810年 10才〜 13才 みきの娘時代のご様子
文化4年〜文化7年

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.16日

【みきの娘時代のご様子】

 娘時分のみきは、「みき」自身が後年、「私は若い時分は陰気な性格やったでえ、人に混じって踊れるようになったのは随分年とってからや」と述懐した様に、どちらかと云えばはにかみやで、子供同士で外遊びするよりは、祖母や母の傍で過ごしたり、静かに思いを廻らすことを好む娘であった。なお、何かの用を云い付けられれば、嫌な顔一つなさらずいとも気軽にお果たしになるのが常であったと伝えられている。

 
折に触れ見せる「みき」の優しい心根、賢さは、いたく両親を関心させる非凡なものであり、自ずと為さることが他の子と異なっており、「珍しいお子や」と近所の評判となり、話にのぼるほどであったと云う。その容姿は、色白のすらりとした蒲柳の質の体形、可愛いい美形の容貌をしていたものと思われる。その性状は、やや内気な、良家の子女らしい品を備えて、聡明で、聞き分けの良い、感受性の豊かな娘子として成長していったと思われる。

 
なお、兄弟仲の良さは終生にわたってであり、兄杏助、妹くわ、きく、弟半兵衛等との温和にして仲睦まじい兄弟愛関係が終生にわたって続いていくことになる。後に教祖として立ち表れるに至る「みき」の不遇の時にも、多くの信者で門前市(いち)を為す隆盛の時も、「みき」没後の後継においても、前川家の面々が良き理解者として連れ添う様を見ていくことになるであろう。

 「みき」のこの頃を語る逸話として次のような話が伝えられている。当時の大和地方では、綿作が盛んで、これが良質であった為、大和木綿(白木綿、縞木綿、絣織りを総称して云う)と云われて市場値もよく、次第に綿作に励む農民が多数を占めるようになっていた。これに応じて綿の加工を生業にすることも広く行われており、こうして、この時分の大和地方の農家の子女は、年頃ともなると木綿織りの業を修得することとなっていた。「みき」も6才の頃よりは母の木綿織りの手伝いを為し始め、8、9才の頃からは自ら機に上がって稽古をするようになり、12、3才の頃には既に機の組立を覚え、それもいわゆる白機ではなく縞物の機をも見事に織りあげたという。裁縫の手並みも一人前以上になり、いつの頃からか、大巾木綿を器用に裁って、思うままに着物の仕立てをも為すようになったと云う。当時のこの地方の女性の教養としては、機織りと裁縫が主なものであったことからすれば、「みき」は、長ずるに連れ早熟というか大人が驚くほど器用の質で、観察眼が鋭く、記憶力に富み、工夫に冴えた資質を持つ、手際の鮮やかな娘子であった、ということになる。

 
ところで、当時は女の身には読み書き不要とされていた時代であるが、父半七はこうした「みき」の人並み優れた才能を惜しんだか、「みき」7才の頃より暇々に読み書きの手解きを為し、その驚くほどの飲み込みの良さに関心させられたものか、「みき」9才になるに及び11才までの間、近所の長柄村の寺小屋に通わせたという。当時寺子屋は、江戸時代における庶民の初等教育期間の役割を果たしており、いろはと習字その他簡単な算術及び読み書きを内容としただけの、程度としてはそう高いものではなかったにしても、このことは、読み書きができぬまま生涯を閉じる人が随分と多かった当時にあって、農家に育った女性の身としては珍しいことであった。「みき」はこうして勉学の機会にも触れることとなったが、後になってこのことが天理教の原典ともなる「お筆先」の執筆という点で大きな役割を持つことになるのは、今は誰も知る由はない。



 (当時の国内社会事情)
 1809(文化6)年、間宮林蔵が樺太(サハリン)が島である事を確認し、その海峡を間宮海峡と命名されることになる。

 (この頃の宗教界の動き)
 1809(文化6)年、12月、伊勢大神宮正遷宮。

 (当時の対外事情)
 1807(文化4)年、西蝦夷地を幕府の直轄とする。
 1808(文化5).1月、幕府は、北の領土の守りをかためる為に、若年寄を蝦夷地防衛総督に任命派遣した。4.13日、間宮林蔵たちは樺太探検に出かけた。幕府は、カラフトが日本の領土であることをロシアに知らせるため地名を北蝦夷とあらためた。そして、間宮林蔵は北蝦夷を発ってひそかに北ダッタンに入り込み、その地を探索して無事に日本へ帰りついた。
 1808(文化5).8.15日、イギリスの軍艦フェートン号が長崎に入港して来て、薪水を強要強奪する。出島のオランダ人を二人つかまえて人質にして、オランダ商館を引き渡せと、強引に幕府へ迫った。8.17日、フェートン号出帆し、長崎奉行松平康英、自決する。長崎の警護を命じられた佐賀藩主は、幕府から蟄居を云い渡された。世に云うフェートン号である。

 (当時の海外事情)

 1807(文化4)年、ハドソン河にフルトン蒸気船が走る(フルトン蒸気船の実験成功)。

 1808(文化5)年、米英で、奴隷貿易禁止令。





(私論.私見)