第28部 | 1842年〜 | 45才〜 | 堪能の日々 |
天保13年〜 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「堪能の日々」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【堪能の日々その行程】 |
この「堪能の日々」こそというべきか「お道」の貴重な財産であろう。「みき」は、すぐる日の天保9年10月26日以来、神様の御命のままに、夫を初め凡ての人々の思いに背いて、棘の途を通ってきた。以来十年という相当の年月を経過しつつあった。しかしまだ道程は長く続く気配であった。かっての大勢の奉公人を抱え、村人たちの信頼と羨望の的であった往年の生活には比べる由もなく、細々と暮らし続けていくこととなった。が、「みき」はこの道中を勇んで通られておる。まことに尊いひながたと云うべきではなかろうか。この時「みき」の同行者は、善兵衛、秀司、おまさ、おはる、こかんの親子6名であった。 |
【堪能考】 |
この経過は「堪能の日々」として次のように理解し得る。「みき」は、親神の世界一列助けの心にあって、高山も谷底もない、即ち貧富貴賎の差別を越えて、「世界一列可愛いい我が子」という親心にお立ち下されての助け一条でお歩み下された。その意味するところは、「谷底せりあげの道」であり、この道は、谷底の人々でも気やすく慕い寄ることのできるよう、先ず自ら貧のどん底に落ちきり、家柄、身分、格式、伝統、家、財産、階級等凡ての人間の差別を造り隔てとなるような一切のものをかなぐり捨て、赤裸々に神の思いに立ち戻り、神にもたれ、そこから神の自由自在の力によって浮揚して行くことによって、道をつけようとの思し召しであった。 「みき」の凄さは次のことに認められると思われる。一方で厳しき神命、他方で夫と恐らく家族の苦悩に接しつつ、「みき」は家族の心を練りあうかの如くの堪能の日々を静謐に過ごし得ていたという事実である。神命と世間の情は相容れない二つの矛盾対立であったにも関わらず、「みき」は、少なくとも親子関係においては、この二つながらを御し得たのである。神命は遅遅化したが、そういう状況に合わせた対応をしつつ、他方で家族の間に新たに生まれつつあった助け合いの情愛を育み、家族全員でこれを悦び楽しむという、まさに堪能の日々を創出していく道を堪能した。この堪能の期間、「みき」とこかんはますます親子の情愛を超えて教祖とその第一取次人の関係へと昇華していった。しかし、秀司についてはこの後追々に見ていくが、この関係づくりに失敗しているともみなされる。このことが、今後の「お道」の歩みに浮き彫りにされてくることになる。 |
【この頃の教祖のご様子逸話】 | |
この頃の「みき」のご様子逸話と思われる「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の岩井尊人「入信の跡(その@) 」の「祖父の夜話」を転載しておく。(みちのとも大正5年10月号90〜91pより)
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(当時の国内社会事情) |
1842(天保13)年、6.22日、七代目市川団十郎が奢侈で江戸から追放される。7.1日、水戸藩、偕楽園を構築。7.24日、薪水給与令。諸候の物産専売禁止。近江の農民検地騒動。倹約令。幕府が、アヘン戦争をみて天保薪水令を布告。外国船打払令停止。佐久間象山「防海八策」上書。倹約令により不景気。近江三上山一揆。 1843(天保14)年、4月、長州藩藩士・村田清風が藩政改革を開始。7月、水戸藩が、神仏分離を行い神道を重んじる政策を展開。7月、摂津で上知反対一揆。8.13日、上知令。江戸、大阪周辺が上知になる。8.20日、医師・佐藤泰淳が、佐倉に順天堂を設置する。閏9.8日、老中・堀田正睦を解任する。閏9.11日、阿部正弘、老中に任命される。 閏9.13日、老中・水野忠邦を解任。天保の改革が挫折する。 この年、印旛沼開発令。人返し令(帰農)。国学者平田篤胤(1776‐1843、亨年68歳)死去。江戸・大阪の10里四方の私領を収公。 1844(弘化元)年、5.6日、水戸藩主・徳川斉昭に謹慎を命じる。5.10日、江戸城炎上。6.21日、水野忠邦、筆頭老中に復帰。9月、水戸藩士が、江戸の紀州、尾張両藩邸に主君の免罪を求める。10月、水戸藩、限田制を行う。11.26日、水戸藩主・徳川斉昭の謹慎が解かれる。農村救荒令。 1845(弘化2)年、2.22日、筆頭老中、水野忠邦を解任する。3.27日、江戸で大火(青山火事)。入牢中の高野長英、逃亡。 1846(弘化3)年、1.26日、仁孝天皇崩御。2.13日、孝明天皇即位。 1847(弘化4)年、3.24日、信濃、越後方面で大地震。死者一万6千人以上。9.1日、徳川慶喜、一橋家を継承。12月、薩摩藩重臣・調所広郷、給地高改正を断行。この年、天草農民一揆。町人に倹約令。 |
(二宮尊徳履歴) |
1842(天保13)年、56歳の時、金治郎は幕府から「ご普請役格」に任命され、20俵二人扶持の幕臣に取り立てられる。 1843(天保14)年、57歳の時、7月、真岡及び陸奥小名浜の代官に属し、真岡陣屋の駐在となる。老中水野越前守から出頭命令。幕府御普請役格で登用される。利根川分水路検分他命令あり。 1844(弘化元)年、58歳の時、日光神領復興仕法目論見提出の命あり。古河藩家老鷹見泉石と面会、泉石宅で世界地図を見る。日光仕法雛形作成を受命する。1845(弘化2)年、59歳の時、相馬藩の復興を開始する。「二宮翁夜話」著者福住正兄入門。江戸大火、類焼で書類焼失多数。中村藩(相馬家)仕法開始。1846(弘化3)年、60歳の時、小田原藩仕法中止。日光仕法雛形完成する。1847(弘化4)年、61歳の時、 真岡代官山内薫正の手付となる。5月、真岡東郷陣屋に移る。金治郎、桑ノ川の第一次開発をする。常陸国 棹ヶ島 花田村の仕法に着手する。1848(嘉永元)年、62歳の時、真岡の東郷陣屋に移転する(桜町在住26年)。 |
(大原幽学の履歴) |
大原幽学は各地を遊歴研鑽性学(性理学)を唱導し、天保初年房総に来り、特に北総の間に多数の信奉者を得た。1842(天保13).9月、長部村(現大字長部)八石に居を定め、次いで講堂の改心楼が営まれた。その説くところは生活諸般の改善にも及び、特に先祖株組合の創設、土地の交換分合は農村の維持に寄与するところが多かった。 |
(宗教界の動き) |
(当時の対外事情) |
1842(天保13)年、7.23日、異国船打ち払いの方針を、薪水を与えて立ち去らせるように指示。8.3日、川越、忍、今治三藩に江戸湾岸の警備を指示。10.2日、高島秋帆、外国人との交友の罪で入牢する(冤罪)。11.2日、佐久間象山が、老中・真田幸貫に海防八策を上書。12.24日、羽田、下田に奉行所を設置。12月、水戸藩が、大砲鋳造により梵鐘を徴発。オランダ国王が開国を勧告。仏船、琉球に来航、通商要求。諸外国の船舶が来航し、通商を要求。 西洋技術の優秀性に驚いた幕府の天文方渋川春海は、天保12.8月付けの上申書に、イギリス軍は清国に勝った勢いを駆って日本に上陸、神国日本を夷狄の植民地にするかも知れないという意見を書いている。これににた意見書は、高島四郎太夫秋帆からも既に提出されて、幕府への警鐘となっていた。 こうして、国防策が急遽真剣に進められていく一方では、国々所々では攘夷の動きが活発となりつつあり、しかし幕府は攘夷はかえって日本を傾ける危険があると判断して、先年(文政八年二月)に発した異国船打払令を倉皇として廃止、結局天保十三年(1842年)七月には、異国船の要求に応じて「異国船薪水給与令」を命じることに成った。これは阿片戦争の影響を深刻に憂えての結果であるが、このころになって幕府は、国際政治のうえに日本がおかれた状勢を見極める態度に返信していた。とはいえ、これはそれまでの鎖国政策を根底から覆す意味ではなく、緊急に薪水などを求める異国船の要求をみたすだけの当座しのぎの消極的な政策に他ならなかった。 1843(天保14)年、6.17日、新潟奉行所を設置。10.10日、イギリス船サマラン号、八重山に上陸し測量を強行。 1844(弘化元)年、2.8日、下関奉行所を廃止。3月、フランス船アルクメール号、那覇に入港し通商を求める。5.15日、佐賀藩、火術方を設置。5.24日、羽田奉行所を廃止。9.19日、佐賀藩主・鍋島直正、長崎でオランダ軍艦内部を見学。 1845(弘化2)年、2月、伊予宇和島藩、火薬製造を開始。3.12日、アメリカ船マンハッタン号、漂流民を乗せ浦賀に入港し通商を求める。7.4日、イギリス船サマラン号、長崎に入港。7.5日、海防掛を設置し老中・阿部正弘が兼任する。この年、松浦武四郎が東蝦夷地を探検する。 1846(弘化3)年、2月、伊豆代官・江川英龍、海防意見書を作成。3.22日、江川英龍に伊豆諸島巡見を指示。諸外国の船舶が来航し新たに通商を要求した。閏5.27日、アメリカ船・東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に入港し通商を求める。6.7日、ビッドル出航。7.13日、水戸藩主・徳川斉昭、内外情勢の意見書を提出。この年、海防の勅諭が幕府に下る。 1847(弘化4)年、8.20日、薩摩藩、砲術館を設置。9.28日、薩摩藩、西洋式軍備の演習を行う。12.14日、水戸藩主・徳川斉昭、外国人追放に対する意見書を提出。 |
(当時の海外事情) |
1842年、清が南京条約結ぶ。アヘン戦争で清国が降伏終結。 1846(弘化3)年、アメリカ−メキシコ戦争始まる。 1847年、米軍がメキシコシティーを占領する。 |
(私論.私見)