第27部 1842年 45才 みきの苦悶-宮池事変
天保13年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「みきの苦悶-宮池事変」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【みきの苦悶-宮池事変】

 天保9.10.26日以来、「みき」は、神様の御命のままに、夫.家族.親族の思いに背いて、棘の途を通ってきた。しかもそれは相当長い年月であった。その間、常に夫の苦悶の様を見つづけて来られた。痛々しいまでに心痛する様に接しつつ、「みき」は、次から次へと厳しい神命を伝えてきた。こうして、厳しき神命を遂行しようとすれば世間の情に背き、世間の情に従い夫をはじめ家族の心中を察すれば神命に背くという、和解しようのない矛盾対立を生じさせ、これ以上親神の思いを貫き通すことのできない断崖絶壁に直面したことも一度二度ではなかった。この道中、厳しい神命が尚も強く前進を命じられており、「みき」は、前進か後退かの二股の道の選択を迫り続けていた。しかも、「みき」の目指す道程は未だ緒についたばかりであった。こうした折に、これ以上自己の思いを貫き通すことのできない絶壁に直面したとして何の不思議があろう。

 今や、親族、知己からは見離され、家運は傾くばかりであり、世間の人の罵詈雑言も次第に露骨になり、甚だしきに至っては、これまで中山家に厚い恩顧を頂いていた人々の間でさえ、世間の調子にあわせて嘲笑を浴びせる有り様であった。当時、「みき」御年45、6才の頃と推定され、夫善兵衛は55、6才、長男秀司は22、3才、長女おまさは18、9才、三女おはるは12、3才、末女こかんは6、7才であったことになる。

 
この頃のこととして、「みき」が、屋敷の東方にある三島神社宮池の鏡が池に身を投げようとした逸話が語り継がれている。或る夜の深夜、「みき」は何を思し召されたか、屋敷の東方にある鎮守の森の北側に、水をたたえている鏡池(天理教教会本部神殿東側に位置している。今は埋められている)の堤にお立ちになった。何事かを念じつつ身を躍らして飛び込もうとされた。ところが、いよいよとなると、足がしゃくばって体が硬直して自由に任されず、突如耳元に「短気を出すのやない」という声を聞かされて、どうしても果たせなかった。ハッとして後に退こうとすると足は軽く、前に進もうとするとどうしても動かなかった。こうした経験は、あるときは井戸に、あるときは鏡池に総じて6回にも及んだと伝えられている。これを仮に「宮池事変」と命名する。

 稿本天理教教祖伝31Pは次のように記している。

 「或る時は宮池に、或る時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。しかし、いよいよとなると、足はしゃくばって、一歩も前に進まず、『短気を出すやない~~』と、親神の御声、内に聞こえて、どうしても果せなかった」。

 諸井氏の「正文遺韻抄」は次のように記している。

 「実に恐れ多い事ながら、御教祖様のけなげなる丈夫の御心でありてすら遂に三度までも、井戸ばたへ御たちなされたのであります。三度溜池へはまろうとなされたのであります。ここまで御決心を被遊(遊ばされ)、六度までも身を殺してと思召し立ちたまふその御心中の御せつなさ、いかがでござりませう」(38P)。
 「かゝる力だめしを受けし人々は、あまた(数多く)ある中に、梅谷四郎兵衛様、御前に伺い、この力だめしにあい給う時、詳しきお話あり。『この道の最初、かかりにはな、神様の仰せに逆らへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰有る通りにしようと思へば、夫をはじめ人々に責められて苦しみ、どうも仕様がないのでな、いっそ死ぬ方がましやと思ふた日もあったで。夜中にそっと寝床をはひ出して井戸へはまらうとした事は三度まであったがな。井戸側へすくっと立ちて、今や飛び込もうとすれば、足もきかず、手もきかず、身体はしゃくばった様になって、一寸も動くことができぬ。すると、何処からとも知れず、声がきこえる。何と云うかと思へばな、『短気を出すやないほどにゝ、年の寄るのを待ちかねるゝ、帰れ帰れ』と仰有(おっしや)る。これは、神様の仰せだと思うて、戻ろうとすれば戻られる。是非なく、そっと寝床へ入って、知らぬ顔して寝てしまったが、三度ながら同じ事やったで。それから、もう井戸はあかんと思うて、今度は溜池へいたで(行ったで)。したが今度は身がすくんでしまって、どうも仕様がなかった。すると、やっぱり何処ともなしに、姿も何も見えんのに、『短気を出すやないほどに/\、年の寄るのを、待ちかねる/\。帰れ/\』と仰るから、是非なく、戻って寝てしまう。これも三度まで行ってみたが、遂に思う様に死ぬことはできなんだ」(139-140P)。

【増野鼓雪の捉え方考】
 増野鼓雪は、野鼓雪全集所収の「教祖の苦難」の中で次のように記している。
 (「天理教ORTHODOX・ARCHIVES」の「ひながた」より)

 「その間に立って御教祖はどんなに御苦しみなされたでありませうか。人間の上から申せば、その家の先祖伝来の財産を、他から嫁入りして来た者が、たとひ慈悲善根の為とは云え、なくしてしまふと云うことは、何と云うつらいことでありましたろう。御教祖は夫様の心中を御察しになり、又一方にお子達が苦労せられるのを見ては、立っても居てもいられぬ思いを遊ばしたに相違ありません。けれども神様の命令は厳として動きませぬ。あくまでも身上を以って、その実行をお促しになったのであります。これ全く神意と人情との板挟みでありました。そこで御教祖は死んで凡てを解決なさらうと御考えになったのであります。即ち自分と云うものがあるから、神様のこの命令があるので、自分がなかったら、この命令はなくなるのである。又自分が生きているから夫や子供に苦労をさせるので、自分がいなかったら皆なが苦労をせずに通られるとおぼしめして死ぬる決心をなされました。

 或る年の真夜中に、家を脱け出られた御教祖は、やがて池の堤に行って、今や水中に飛び込まうとなされたが、その瞬間に、御教祖は身動きもできぬ様になられて、何処ともなしに『短気を出すのやない/\』と云う声が聞こえます。これは神様の御心に適はぬ、済まぬことであったと思い返されて、家の方へ足を向けられると、思う様に歩けたのであります。それで又今の声は、自分の心の迷いであったかしら、自分が死なねば皆なが助からぬのだと、心を定めて再び飛び込もうとなさると、又身動きができなくなり、そして『短気を出すのやない』と云う声が聞こえます。そこで御教祖はこの神様の御守護に、深く感激なされたと同時に、神様の思召を、飽くまで行うて行かねばならぬと御決心遊ばされたのであります。それから御教祖は更に勇んで、この苦しい中を御通りなされたのであります。それが家庭に於ける御教祖の、最も御苦しみなされた道すがらの一端であります。

 一体に世の中には苦しい事が沢山ありますが、一つ屋敷の内に住まねばならぬ者の、心が打ち解けずに結ばれていると云ふみとは何よりも苦しいことであります。千軍を指揮する将軍も、この家庭の治まらぬ為には悶へ苦しむのでありあます。唯信仰の勇者だけが、この境を通過するのであります。御教祖はこの茨ぐろうや崖道を御通りになったのでありますから、道を慕うて行く者は、やはりこの道を通らねばなりませぬ。妻が承知しませんから子が承知しませんからと云うので通るべき道を通らぬのは、即ち御教祖の雛形の道を逆行してゐるのであります。御教祖の道を聞きながら、その道を通らうと覚悟しながら、一家の小事に心を煩わしている様では、未だ末代の理が心に納まっていないのであります。末代の理を心に納めずしては御教祖の精神は会得ができませぬ。又、末代の理が見えねば目隠しをして歩くのも同じです。どうか目隠しを取って末代の理が見える様に、この御教祖の雛形の道を踏んで貰いたいのであります」。

(私論.私見)
 増野鼓雪のこの教理は、至極真っ当な受け止めようではなかろうか。これに比して、本部教理の如く「みきは敢えて、人間としての苦しみ悩みの姿を纏って宮池に身を投じようとされ、ひながたを見せられた」などと理解するのは如何なものであろうか。信仰者の信仰的過ぎる理解は時に曲解を生む典型ではなかろうか。

 2007.12.23日 れんだいこ拝

【鏡が池身投げ未遂事変記述その他】
 初代真柱の教祖伝は二典ある。ひとつは原本の表書きに「明治三十一年七月三日」と記されたカタカナ文の教祖伝である。二代真柱はこれに「稿本教祖御伝」(こうほんおやさまぎょでん)と名づけた。もうひとつは、それに輔弼訂正して、ひらがな文で清書された教祖伝である。執筆年代は明治40年頃と推定されている。二代真柱はこれに「教祖御伝」(おやさまぎょでん)と名づけた。これが「稿本天理教教祖伝」の底本となっている。「稿本教祖御伝」は、「みきの苦悶-宮池事変」につき次のように記している。
 「『以下ハ政女に聞ク』。夫善兵衛君、刀ヲ抜テ教祖ノ枕辺ニ立テ独り泣テ仰セラルルニハ、『世間ノ人ニ笑ハレ親族トハ不付合ニナリ、何トシテ宜シカロ。憑物ナレバ退ヒテクレ』ト潜々ト泣テゴザルト、教祖様、目ヲ御醒(さま)シ成サレ、『アナタ、何シテゴザルカ』ト御尋ネアリタレバ、『ドウモ恐ロシテナヌ』と仰セラレタリ。マタ或時、御夫婦、白衣ヲ着テ仏前ニ御対座ナサレ、『憑物ナラバ早ク退クベシ』ト段々責メ問ハレルルニヨリ、コノ身サエナクバカヨウナ事ハナキモノト思召シ、井戸、或ハ溜池エ身ヲ投ゲント御越シナサレテモ、御足ガシャクバリテ行クニ行カレズ、跡ニ帰ル御心ニナリ玉エバ帰り得ラルルニヨリ、ヤムヲ得ズ御帰り遊バサレタリ」(復元第33号31-32頁)。
 宇田川文海(うだがわ ぶんかい)は、「みきの苦悶-宮池事変」につき次のように記している。
 「教祖も霊(みたま)は神と同化したまへど、肉はなお人にておはせば、良人(おっと)たる人がその身の為に、かくまで心を悩ませたまふを見るに忍びず、この身さえなきものにせば、良人にかかる悩みもさせず、吾(われ)もかかる苦しみはせまじと思ひ定められて、井戸或いは溜池(ためいけ)へ身を投げんとしたまひしことも、一、二度にらざりしが、例(いつ)もその度毎(たびごと)に、今や飛び込まんとせらるれば、両足痙攣(こわば)りて自由を失ひ、それと同時に耳許(もと)に人の囁(ささや)く如き声して、堅くその死を止むる者あるにぞ。例も思ひを遂げること能(あた)はず、無事に立ち帰りたまひしが、行く時は移し難(がた)き程(ほど)足重く、帰る時はそりにひきかへて、宙など歩くように足の軽きを覚えたまふが常なりしと」(復元第35号35-36頁)。

 ※宇田川文海(うだがわ ぶんかい)は1848.3.28(嘉永元年2月24日)-1930.1.6(昭和5年。小説家・新聞記者。別名に鳥山棄三・鳥山捨三(「とりやま すてぞう」)。鳥山は母の旧姓。号は金蘭(きんらん)・除々庵(じょじょあん)。江戸本郷の道具屋伊勢屋市兵衛の三男。
  中西牛尾(なかにしうしお)も同じ観点の下で次のように記している。
 「教祖熟々思い玉ひけるには、我既に済度(さいど)宣布(せんぷ)の天職を奉じ、この心この身を以て神に捧げ奉るとはいへど、人間としては猶(なほ)これ中山善兵衛の妻なり。吾(わが)夫たるその人がかくまでも心を苦しむるは我れ故なり。我れなけれは苦しみはせまじものと、御屋敷の背後なる池の中に御身を投せんとし玉ひけること数度なりし。然るに毎に教祖が御身を跳らして飛び込まんとし玉ひける一刹那に御両足俄かに痙攣して自由ならざるのみならず、且つ御耳許に囁くものふりて御死を止むるものの如し。これが為に毎度御死を遂げさせられずして帰り玉いぬ」(復元第36号60頁)。

 ※中西牛尾(なかにしうしお)は1859(安政6)-1930(昭和5).10.18日。明治〜昭和期の宗教思想家、扶桑教大教正。

【鏡が池身投げ未遂事変考】
 この「宮池事変」をどのように拝察すべきであろうか。興味深いところである。教理が分かれており、これを確認しておく。これを仮に「鏡が池事変考」と命名する。教理的に見て重要な示唆がメッセージされていると思い始めたからである。「鏡が池事変」は二部に分かれる。その一は、1842-43年(天保13-14年)年頃の「鏡が池身投げ未遂事変」であり、その二は1999(平成11)年の天理教本部による「鏡が池埋め立て事変」である。その一は、天理教教理の理解の仕方に関わり、その二は、天理教本部の由々しき失態に関わる。

 その一の「鏡が池身投げ未遂事変」を確認する。天保9年の神懸りの時点で、「みき」を「月日のやしろ」として親神の思召しのままにあられる存在と観る本部教理によれば親神様の思召しのままに突き進んでこられた「みき」である筈であり、そこでは人間思案とは無縁の存在であったに拘わらず、なぜこうした振舞に及ばれたのであろうか、解せないということになる。苦悩を深めるこの「みき」の姿はあまりにも人間味臭い行動であり、既に「みき」を神と観る立場からは理解が追いつかないことになる。そういう事情からいろんな風に解釈されてきた。その一つは、本部教理で、「あえて拵えたひながた論」の立場に立っている。もうひとつは、「教祖成人途上論」である。諸井氏の「正文遺韻抄」、増野鼓雪氏の「教祖の苦難」は後者の見地に立っている。こっちの方が少数派である。私は、「教祖成人途上論」の方につく。 

 付言しておけば、この宮池事変に対して百人百様の教理が為されている。れんだいこが読むのに、そのそれぞれが本部教理に即しており、難渋な説明で濁している。これは悪解の典型であり、難渋に説いたからと云って真実が分かるものではない。逐一解析しないが不明を恥じるべきだろう。問題は、本部教理の牽強付会解釈が混乱を招いていることにある。「天啓問答以来、教祖は神の社となった」とするまではまだしも、「以来、神そのものになった」とするキリスト教式絶対神的受け取りようのひながた論に発している。「二代真柱式ひながた論の非弁証法的教理」が導き出す曲解として見据え改めねばなるまい。

 本部教理の「あえて拵えたひながた論」は如何にも宗教的な教説めいており、次のような答えが用意されている。

 概要「月日のやしろとして定まって以降のみきには、既にして一点の人間心はない。あるのはその中に入り込まれた親神の思いのみである。しかしながら、みきが、平素いかに親神様にもたれることの道筋を説き聞かされても、それを受ける人間側の理解と行いは、有為転変激しい世の中にあっては、複雑な事情と身上のもとにある。こうした中で、みきは敢えて人間としての苦しみ悩みの姿を纏って宮池に身を投じようとされた。けれども、親にもたれて親神に連れて通らせて頂いている限り、親神の自由自在の働きによって無事にお導き頂いた。こうして如何なる苦悩に直面しようとも、親神様の導きの働きにより道が開かれ、ご守護を頂けることを、ひながたとしてお示し頂いたのである」。
 「人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された」(稿本天理教教祖伝30P)

 しかし、この捉え方は如何にも奇説ではなかろうか。神懸り以来ここまで、「みき」は神一条の暮らしにあって親神の思し召しのままに突き進んでこられた。「貧に落ちきれ」、「母屋毀ち」等々上層家格を維持したままの上からの施しを否定し、自ら貧に落ちきって行かれた。すべては世界助けに向かう行程として行われてきたものであった。けれども、こうした思いは、「みき」の周囲の者誰一人として理解を得ることのできない茨の道であった。ここまで、「みき」は、親神の導きと威光を借りて、又自身の身上に迫りながら辿りついた道程であった。されど、この行程は更に長く深く続く道程であった。「みき」の志向する先は、家族がやっと食いつないでいけるギリギリの貧のどん底の生活であった。欲も支配も差別も生まれるべくもない赤裸々の最低辺の暮らしに、我が身と家族を追い込んでみて、そうした暮らしの中から自ずと生まれてくる素直な助け合いの心を育み、ここに神様の自由の働きを体得しつつ浮上するという、かなり長期間の堪能を要する生活であった。「みき」には、こうして立て替えた暮らしぶりの中にこそ「後は昇るばかり」の生活の糧が、人助け、世界助けに向かう道筋が見えていた。この道筋に立脚しない限り真の「人助け、世界助け」が為しえないことも見えていた。

 けれども、こうした親神の思し召しを更に押し進めるには、はるかに長い道程が待ち受けていた。しかるに、端緒についたこの時点でさえ、既に夫善兵衛、子供逹、親族衆、世間の諸人との間に、とてつもない亀裂を走らせていた。まさに、ここまで辛うじて辿りついたという感がなきにしもであった。峠はまだまだ先の遠いところにあった。こうしたことを考えたとき、「みき」自身に人間心的な弱気な気持を起こさせたとしてもあり得べきことではなかろうか。いっそ「みき」自身が居なければとの自暴自棄の気持ちを湧かせたとしても不思議ではなかろう。実に「みき」の貧に向かう道程は、こうした複雑な胸中との談じ談じの一歩ずつであったものと拝察させて頂く。

 究極のところ、「みき」は、みきの進もうとしている先の光明を信じきることにより踵を戻したのである。「みき」の意思であり、又一つ「真実が親神の思し召しに叶う時、生死の境において、自由自在の守護が現われ」、「みき」に働く親神の導きでもあったであろう。まさに真剣白刃の通り道であった、と拝察させて頂く。まことに尊い「ひながた」ではなかろうか。

 2010.12.26日再編集 れんだいこ拝

【鏡が池埋め立て事変考】
 その二の「鏡が池埋め立て事変」をどう解するべきか。れんだいこは、本部が教理解釈に困って、「いっそのこと埋めてしまえ」の暴論に追従した結果とみなしている。これについて「天理教と三島神社」その他が考察しているので参照する。

 1888(昭和63)年、天理教祖百年祭後、天理教教会本部は、本部神殿東前にあった三島神社を地元住民と氏子の猛反対を押し切って、金力と権力と策略とを駆使して三島町のはずれ(天理よろづ相談所病院や南海大教会信者詰所の北西部)に移転させた。三島神社は、天啓前の中山みきが、文政11年、31歳の時、母親の乳不足で預かっていた幼子の足立照之丞が黒疱瘡にかかり、その子の命乞いで百日の裸足参り祈願し全快を得た教祖伝史に絡んでいる信仰上の重要な史実を遺している神社である。この経緯につき、天理教真柱を取り巻く極く一部の本部員が極く秘密裏に練り上げ、膨大な予算をかけて準備をし事を遂行したと云われている。

 1999(平成11)年3―4月頃、三島神社移転の11年後の天理教祖百年祭後、天理教教会本部が、教祖が親神と人間との板挟みになって苦悩の揚げ句、何度も身を投げようとされた重要なひながた遺跡である三島神社宮池の「鏡が池」を埋め立ててしまった。

 これにつき、天理教市港分教会会長/中澤忠喜氏の平成11.4.9日付け「天理教は宗教ではなくなった」は次のように義憤している。
 「しかし、これは大変な間違いである。鏡が池を埋め立てて潰してしまうなどとは、親神天理王命をも恐れぬ無法者のすることであって、教祖、中山みきを信じ、教祖の教えを遵守し、教祖の生き様を人間の雛形として守り、受け継いで行こうとする真面目な信仰者にとっては、考えられない暴挙である」。
 「教祖から出された神の言葉、並びに教祖の生き様及びそれにまつわる重要な遺跡は、例え毛一筋たりとも改竄したり、消滅してはならないのである。今の天理教本部のやりかたは、天理教教祖の教えを真剣に勉強しようとする後世の求道者達に、教祖のひながたの真実を隠蔽してしまい、消し去ってしまうのであるから、『ひながた通らねばひながた要らん』とまでおっしゃった教祖のひながたに対する思いに対しての大反逆行為になることだけは間違いない。これは、いかなる理由があろうとも、してはならないことだと私は思っている」。

 天理教教会本部が、鏡が池を埋めた理由は何なのだろうか。推測するのに、「鏡が池身投げ未遂事変」の史実が本部教理と齟齬していることから、鏡が池の存在自体を天理教教祖の神格化を妨げるマイナス材料と捉え、三島神社の移転に続き、宮池の鏡が池までお屋敷内から葬り去ったと云うことではなかろうか。しかし、それは「ひながた通らねばひながた要らん」とされている教祖のひながた、その史跡に対する本部側からの蹂躙であり許されることではない。これに関与した者の責任が厳しく問われるべきであると思う。鏡が池は復元されねばなるまい。真に反省すべきは、「鏡が池身投げ未遂事変」に対する変調教理であろう。ここから直さなければ、こういう事例が次から次へと起こるであろう。

 2010.10.11日、2013.9.23日再編集 れんだいこ拝

【みきの生母/前川きぬが出直し】
 1844(天保15、弘化元)年、5.26日、みきの生母/前川きぬが出直し(73歳)。半七同様、みきの異能を信じつつ実家の責任を感じつつの出直しであったであろう。  

 (当時の国内社会事情)
 1842(天保13)年、6.22日、七代目市川団十郎が奢侈で江戸から追放される。7.1日、水戸藩、偕楽園を構築。7.24日、薪水給与令。諸候の物産専売禁止。近江の農民検地騒動。倹約令。幕府が、アヘン戦争をみて天保薪水令を布告。外国船打払令停止。佐久間象山「防海八策」上書。倹約令により不景気。近江三上山一揆。
 (二宮尊徳履歴)
 1842(天保13)年、56歳の時、金治郎は幕府から「ご普請役格」に任命され、20俵二人扶持の幕臣に取り立てられる。
 (大原幽学の履歴)
 大原幽学は各地を遊歴研鑽性学(性理学)を唱導し、天保初年房総に来り、特に北総の間に多数の信奉者を得た。1842(天保13).9月、長部村(現大字長部)八石に居を定め、次いで講堂の改心楼が営まれた。その説くところは生活諸般の改善にも及び、特に先祖株組合の創設、土地の交換分合は農村の維持に寄与するところが多かった。

 (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 1842(天保13)年、7.23日、異国船打ち払いの方針を、薪水を与えて立ち去らせるように指示。8.3日、川越、忍、今治三藩に江戸湾岸の警備を指示。10.2日、高島秋帆、外国人との交友の罪で入牢する(冤罪)。11.2日、佐久間象山が、老中・真田幸貫に海防八策を上書。12.24日、羽田、下田に奉行所を設置。12月、水戸藩が、大砲鋳造により梵鐘を徴発。オランダ国王が開国を勧告。仏船、琉球に来航、通商要求。諸外国の船舶が来航し、通商を要求。

 西洋技術の優秀性に驚いた幕府の天文方渋川春海は、天保12.8月付けの上申書に、イギリス軍は清国に勝った勢いを駆って日本に上陸、神国日本を夷狄の植民地にするかも知れないという意見を書いている。これににた意見書は、高島四郎太夫秋帆からも既に提出されて、幕府への警鐘となっていた。

 こうして、国防策が急遽真剣に進められていく一方では、国々所々では攘夷の動きが活発となりつつあり、しかし幕府は攘夷はかえって日本を傾ける危険があると判断して、先年(文政八年二月)に発した異国船打払令を倉皇として廃止、結局天保十三年(1842年)七月には、異国船の要求に応じて「異国船薪水給与令」を命じることに成った。これは阿片戦争の影響を深刻に憂えての結果であるが、このころになって幕府は、国際政治のうえに日本がおかれた状勢を見極める態度に返信していた。とはいえ、これはそれまでの鎖国政策を根底から覆す意味ではなく、緊急に薪水などを求める異国船の要求をみたすだけの当座しのぎの消極的な政策に他ならなかった。 

 (当時の海外事情)
 1842年、清が南京条約結ぶ。アヘン戦争で清国が降伏終結。





(私論.私見)