第27部 | 1842年 | 45才 | みきの苦悶-宮池事変 |
天保13年 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「みきの苦悶-宮池事変」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【みきの苦悶-宮池事変】 | |||
天保9.10.26日以来、「みき」は、神様の御命のままに、夫.家族.親族の思いに背いて、棘の途を通ってきた。しかもそれは相当長い年月であった。その間、常に夫の苦悶の様を見つづけて来られた。痛々しいまでに心痛する様に接しつつ、「みき」は、次から次へと厳しい神命を伝えてきた。こうして、厳しき神命を遂行しようとすれば世間の情に背き、世間の情に従い夫をはじめ家族の心中を察すれば神命に背くという、和解しようのない矛盾対立を生じさせ、これ以上親神の思いを貫き通すことのできない断崖絶壁に直面したことも一度二度ではなかった。この道中、厳しい神命が尚も強く前進を命じられており、「みき」は、前進か後退かの二股の道の選択を迫り続けていた。しかも、「みき」の目指す道程は未だ緒についたばかりであった。こうした折に、これ以上自己の思いを貫き通すことのできない絶壁に直面したとして何の不思議があろう。
諸井氏の「正文遺韻抄」は次のように記している。
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【増野鼓雪の捉え方考】 | |||
増野鼓雪は、野鼓雪全集所収の「教祖の苦難」の中で次のように記している。 (「天理教ORTHODOX・ARCHIVES」の「ひながた」より)
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【鏡が池身投げ未遂事変記述その他】 | |
初代真柱の教祖伝は二典ある。ひとつは原本の表書きに「明治三十一年七月三日」と記されたカタカナ文の教祖伝である。二代真柱はこれに「稿本教祖御伝」(こうほんおやさまぎょでん)と名づけた。もうひとつは、それに輔弼訂正して、ひらがな文で清書された教祖伝である。執筆年代は明治40年頃と推定されている。二代真柱はこれに「教祖御伝」(おやさまぎょでん)と名づけた。これが「稿本天理教教祖伝」の底本となっている。「稿本教祖御伝」は、「みきの苦悶-宮池事変」につき次のように記している。
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宇田川文海(うだがわ ぶんかい)は、「みきの苦悶-宮池事変」につき次のように記している。
※宇田川文海(うだがわ ぶんかい)は1848.3.28(嘉永元年2月24日)-1930.1.6(昭和5年。小説家・新聞記者。別名に鳥山棄三・鳥山捨三(「とりやま すてぞう」)。鳥山は母の旧姓。号は金蘭(きんらん)・除々庵(じょじょあん)。江戸本郷の道具屋伊勢屋市兵衛の三男。 |
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中西牛尾(なかにしうしお)も同じ観点の下で次のように記している。
※中西牛尾(なかにしうしお)は1859(安政6)-1930(昭和5).10.18日。明治〜昭和期の宗教思想家、扶桑教大教正。 |
【鏡が池身投げ未遂事変考】 | ||
この「宮池事変」をどのように拝察すべきであろうか。興味深いところである。教理が分かれており、これを確認しておく。これを仮に「鏡が池事変考」と命名する。教理的に見て重要な示唆がメッセージされていると思い始めたからである。「鏡が池事変」は二部に分かれる。その一は、1842-43年(天保13-14年)年頃の「鏡が池身投げ未遂事変」であり、その二は1999(平成11)年の天理教本部による「鏡が池埋め立て事変」である。その一は、天理教教理の理解の仕方に関わり、その二は、天理教本部の由々しき失態に関わる。 その一の「鏡が池身投げ未遂事変」を確認する。天保9年の神懸りの時点で、「みき」を「月日のやしろ」として親神の思召しのままにあられる存在と観る本部教理によれば親神様の思召しのままに突き進んでこられた「みき」である筈であり、そこでは人間思案とは無縁の存在であったに拘わらず、なぜこうした振舞に及ばれたのであろうか、解せないということになる。苦悩を深めるこの「みき」の姿はあまりにも人間味臭い行動であり、既に「みき」を神と観る立場からは理解が追いつかないことになる。そういう事情からいろんな風に解釈されてきた。その一つは、本部教理で、「あえて拵えたひながた論」の立場に立っている。もうひとつは、「教祖成人途上論」である。諸井氏の「正文遺韻抄」、増野鼓雪氏の「教祖の苦難」は後者の見地に立っている。こっちの方が少数派である。私は、「教祖成人途上論」の方につく。 付言しておけば、この宮池事変に対して百人百様の教理が為されている。れんだいこが読むのに、そのそれぞれが本部教理に即しており、難渋な説明で濁している。これは悪解の典型であり、難渋に説いたからと云って真実が分かるものではない。逐一解析しないが不明を恥じるべきだろう。問題は、本部教理の牽強付会解釈が混乱を招いていることにある。「天啓問答以来、教祖は神の社となった」とするまではまだしも、「以来、神そのものになった」とするキリスト教式絶対神的受け取りようのひながた論に発している。「二代真柱式ひながた論の非弁証法的教理」が導き出す曲解として見据え改めねばなるまい。 本部教理の「あえて拵えたひながた論」は如何にも宗教的な教説めいており、次のような答えが用意されている。
しかし、この捉え方は如何にも奇説ではなかろうか。神懸り以来ここまで、「みき」は神一条の暮らしにあって親神の思し召しのままに突き進んでこられた。「貧に落ちきれ」、「母屋毀ち」等々上層家格を維持したままの上からの施しを否定し、自ら貧に落ちきって行かれた。すべては世界助けに向かう行程として行われてきたものであった。けれども、こうした思いは、「みき」の周囲の者誰一人として理解を得ることのできない茨の道であった。ここまで、「みき」は、親神の導きと威光を借りて、又自身の身上に迫りながら辿りついた道程であった。されど、この行程は更に長く深く続く道程であった。「みき」の志向する先は、家族がやっと食いつないでいけるギリギリの貧のどん底の生活であった。欲も支配も差別も生まれるべくもない赤裸々の最低辺の暮らしに、我が身と家族を追い込んでみて、そうした暮らしの中から自ずと生まれてくる素直な助け合いの心を育み、ここに神様の自由の働きを体得しつつ浮上するという、かなり長期間の堪能を要する生活であった。「みき」には、こうして立て替えた暮らしぶりの中にこそ「後は昇るばかり」の生活の糧が、人助け、世界助けに向かう道筋が見えていた。この道筋に立脚しない限り真の「人助け、世界助け」が為しえないことも見えていた。 |
【鏡が池埋め立て事変考】 | ||
その二の「鏡が池埋め立て事変」をどう解するべきか。れんだいこは、本部が教理解釈に困って、「いっそのこと埋めてしまえ」の暴論に追従した結果とみなしている。これについて「天理教と三島神社」その他が考察しているので参照する。 1888(昭和63)年、天理教祖百年祭後、天理教教会本部は、本部神殿東前にあった三島神社を地元住民と氏子の猛反対を押し切って、金力と権力と策略とを駆使して三島町のはずれ(天理よろづ相談所病院や南海大教会信者詰所の北西部)に移転させた。三島神社は、天啓前の中山みきが、文政11年、31歳の時、母親の乳不足で預かっていた幼子の足立照之丞が黒疱瘡にかかり、その子の命乞いで百日の裸足参り祈願し全快を得た教祖伝史に絡んでいる信仰上の重要な史実を遺している神社である。この経緯につき、天理教真柱を取り巻く極く一部の本部員が極く秘密裏に練り上げ、膨大な予算をかけて準備をし事を遂行したと云われている。 1999(平成11)年3―4月頃、三島神社移転の11年後の天理教祖百年祭後、天理教教会本部が、教祖が親神と人間との板挟みになって苦悩の揚げ句、何度も身を投げようとされた重要なひながた遺跡である三島神社宮池の「鏡が池」を埋め立ててしまった。 これにつき、天理教市港分教会会長/中澤忠喜氏の平成11.4.9日付け「天理教は宗教ではなくなった」は次のように義憤している。
天理教教会本部が、鏡が池を埋めた理由は何なのだろうか。推測するのに、「鏡が池身投げ未遂事変」の史実が本部教理と齟齬していることから、鏡が池の存在自体を天理教教祖の神格化を妨げるマイナス材料と捉え、三島神社の移転に続き、宮池の鏡が池までお屋敷内から葬り去ったと云うことではなかろうか。しかし、それは「ひながた通らねばひながた要らん」とされている教祖のひながた、その史跡に対する本部側からの蹂躙であり許されることではない。これに関与した者の責任が厳しく問われるべきであると思う。鏡が池は復元されねばなるまい。真に反省すべきは、「鏡が池身投げ未遂事変」に対する変調教理であろう。ここから直さなければ、こういう事例が次から次へと起こるであろう。 2010.10.11日、2013.9.23日再編集 れんだいこ拝 |
【みきの生母/前川きぬが出直し】 |
1844(天保15、弘化元)年、5.26日、みきの生母/前川きぬが出直し(73歳)。半七同様、みきの異能を信じつつ実家の責任を感じつつの出直しであったであろう。 |
(当時の国内社会事情) |
1842(天保13)年、6.22日、七代目市川団十郎が奢侈で江戸から追放される。7.1日、水戸藩、偕楽園を構築。7.24日、薪水給与令。諸候の物産専売禁止。近江の農民検地騒動。倹約令。幕府が、アヘン戦争をみて天保薪水令を布告。外国船打払令停止。佐久間象山「防海八策」上書。倹約令により不景気。近江三上山一揆。 |
(二宮尊徳履歴) |
1842(天保13)年、56歳の時、金治郎は幕府から「ご普請役格」に任命され、20俵二人扶持の幕臣に取り立てられる。 |
(大原幽学の履歴) |
大原幽学は各地を遊歴研鑽性学(性理学)を唱導し、天保初年房総に来り、特に北総の間に多数の信奉者を得た。1842(天保13).9月、長部村(現大字長部)八石に居を定め、次いで講堂の改心楼が営まれた。その説くところは生活諸般の改善にも及び、特に先祖株組合の創設、土地の交換分合は農村の維持に寄与するところが多かった。 |
(宗教界の動き) |
(当時の対外事情) |
1842(天保13)年、7.23日、異国船打ち払いの方針を、薪水を与えて立ち去らせるように指示。8.3日、川越、忍、今治三藩に江戸湾岸の警備を指示。10.2日、高島秋帆、外国人との交友の罪で入牢する(冤罪)。11.2日、佐久間象山が、老中・真田幸貫に海防八策を上書。12.24日、羽田、下田に奉行所を設置。12月、水戸藩が、大砲鋳造により梵鐘を徴発。オランダ国王が開国を勧告。仏船、琉球に来航、通商要求。諸外国の船舶が来航し、通商を要求。 西洋技術の優秀性に驚いた幕府の天文方渋川春海は、天保12.8月付けの上申書に、イギリス軍は清国に勝った勢いを駆って日本に上陸、神国日本を夷狄の植民地にするかも知れないという意見を書いている。これににた意見書は、高島四郎太夫秋帆からも既に提出されて、幕府への警鐘となっていた。 こうして、国防策が急遽真剣に進められていく一方では、国々所々では攘夷の動きが活発となりつつあり、しかし幕府は攘夷はかえって日本を傾ける危険があると判断して、先年(文政八年二月)に発した異国船打払令を倉皇として廃止、結局天保十三年(1842年)七月には、異国船の要求に応じて「異国船薪水給与令」を命じることに成った。これは阿片戦争の影響を深刻に憂えての結果であるが、このころになって幕府は、国際政治のうえに日本がおかれた状勢を見極める態度に返信していた。とはいえ、これはそれまでの鎖国政策を根底から覆す意味ではなく、緊急に薪水などを求める異国船の要求をみたすだけの当座しのぎの消極的な政策に他ならなかった。 |
(当時の海外事情) |
1842年、清が南京条約結ぶ。アヘン戦争で清国が降伏終結。 |
(私論.私見)