第26部 1841年 44才 みきの身上と親族相議.みきの苦悶−宮池事変
天保12年

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.18日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「みきの身上と親族相議.みきの苦悶−宮池事変」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【みきの身上と親族相議】

 こうして、二度目の神言は善兵衛の頑強な抵抗にあって進捗しない事態となった。そうこうしているうち、「みき」の身上が激しくなり、床に臥して食事も喉を通らずの非常な事態となった。これまでにも、「みき」の仰せに従わない時に身の障りとなり、余儀なく従えば身の障りがたちどころに解消した経験があったので、この場合も、仰せを受けさえすれば身上の悩みは良くなるものとわかりながらも、事があまりにも重大であるので、この度は善兵衛もおいそれとは行かず承諾しかねて居る中に、「みき」の身は重態のまま20日余りも経過してしまった。こんな具合に躊躇逡巡に日を過ごしておれば命に関わることは自明であった。さりとて一存にては決しかねる重大な問題なので、親族一同との相談の上事を決しようと親族会議を開くこととした。その結果、今一度神様にお伺い申し上げてみてはということに落ち着くこととなった。早速「みき」に伺うと、一同の一縷の望みに反して、

 「今日より、巽(東南)の角より瓦をおろしかけよ」

 との厳かなお言葉であった。かくては、ともあれ仰せのままにするより外に仕方がないということになり、「みき」の弟である前川半三郎が下男宇平を従えて、仰せのままに辰己の角の瓦を形ばかり降ろしにかかると、「みき」の身上は即座に治まった。「みき」の身上が治まってみれば、家を壊すこともあるまいと瓦降ろしをついそのままにやり過ごすことにしたところ、それから15、6日経つと、またもや「みき」の身上が急迫して、耳は少しも聞こえず、眼は見えず、声もでないという状態になった。驚いて再度親族を集めて熟議を凝らした。今となっては、愈々本格的に家を壊さないかぎり、「みき」の身上がすっきりしないことが明らかとなってはみたものの、さりとてそれを決行しようという決断はつかない。又々協議は結論を見ぬままに、「みき」に伺うと、

 「丑寅(北東)の角より瓦降ろせ」

 との仰せであった。しかし、この期に及んでも、何とかして逃れられるものなら逃れたいというのが周りの者の偽らざる気持であった。「家を壊してどうなるのだ」、「物笑いの種だ」、「神様がそんなに難儀をさすことはない筈だ」、「これは貧乏神だ」、「貧乏神なら早く退いてもらおう」との世間の声も聞こえてきており、いくら会議を凝らそうともみきの仰せに従う結論にはならなかった。すると、「みき」の身上愈々激しく一刻の猶予も ならぬ差し迫った事態となった。この有り様を前にして、一同はしぶしぶ仰せの通りに瓦を降ろしにかかると、みきの身上は嘘のように平静に復した。こうして瓦降ろしが終わると、今度は、

 「明日は家の高塀を取り払え」

 との仰せになった。
 高塀は別名「うだつ」とも云われ、大和を中心として河内、伊勢地方の一部に見られる「大和棟」特有の屋根の型のことを云う。高塀づくりは母屋の屋根を急勾配の藁葺きとして、その両端に一段高く瓦葺きの走り屋根をつけ、その下の両妻は白壁とする。大屋根の一方の妻に緩勾配の屋根がつく。この下は通常厨房であって、屋根に煙出しを抜き、その上に小屋根をつける。こうした高塀づくりは、大和地方で富裕な家の表徴であり、俗に「高塀一つに倉三つ」といわれるほどこの高塀造りは多額の建築費用を要したから、これを建てるにはそれにふさわしい実力がなければ拵えることができなかった。このことから、この地方の格言で、生活力が向上しないことを「うだつが上がらぬ」と言い回しされるほどで、家格を象徴するものであった。

 かくて又々親族会議が取り持たれることとなった。こうなると、親族の非難はむしろ善兵衛に向けられることとなった。「善兵衛殿も善兵衛殿じゃ」、「もっと男らしくきっぱりと決断して断れば良いものを」、「いまさら相談も何もあるものか」、「はっきり断ってしまえば良いのだ」、こうして、度々次から次へと無理難題を仕掛ける「みき」の態度に業を沸かして、そんな仰せは受ける必要なしとの強硬な反対意見で一決することとなった。「みき」は再び身上に障られた。ここに善兵衛の苦悶は頂点に達した。親族も世間も「みき」の神命を退けようとする者ばかりである。一方、「みき」は一歩も退かない。

 皆の者の言うところは、中山家の先先を憂いてくれるからこそであり、その親切は身にしみて有難い。さりとてそういう世間並の思案を受け入れてくれる神様ではないことを、善兵衛ならでは身にしみて承知していた。皆の忠告に従えば、「みき」の身上は増すばかり、さりとて、「みき」の仰せに従えば、皆なの親切好意を無にすることとなる。善兵衛の額に苦悩が滲み、果てしない苦悶に陥ることとなった。初代真柱の「教祖伝」が次のように記している。

 「親族や友人の親切なる情けに随(したが)えば忽ち教祖御身上の悩みは増すばかり、神様の仰せに随えば親族や友人の親切に背かねばならず、さりとて教祖の悩みを見るに忍びず、終に意を決して神様の仰せに随いなされたり」。

 「だいたい貴殿がはっきりせぬからこんな事になってしまったのだ」、「女房の言いなりになって家財産をなくしていくのを黙って見送る不甲斐なさよ」、「世間の物笑い、陰口が耳に入らぬのか」と既に何度も聞いた皆の視線が痛いほど差し込んでいた。しかし、長年連れ添った「みき」をどうしても見殺しにできない、これが、善兵衛の最後の結論であった。会議の最後に、善兵衛がこう心情を吐露したところ、一同のものは、唯ポカンとして、狐につままれた様な面持であった。「再三にわたって我々に相談しながら、我々の意見をかように用いないのであれば、勝手にすればよろしかろう」、「今後は、おつき合いも止めましょう」、「今日かぎりと思し召しくだされ」と不満の捨て台詞を残して、参集した人々は帰っていった。こうして、悄然とした善兵衛が、最後の気力を絞って高塀を取壊しにかかると、「みき」の身上は忽ち平癒して、恰も何事もなかったかの様であった。

 こうして、中山家は家族ばかりのひっそりした日々の生活を続けることとなった。かかる中にも、「みき」は少しも変わらぬ態度で、哀れな人を見れば施しの生活をお続けになっていた。他方、富裕と権力の座を失った中山家に対して、その面でのつきあいをしていた人々は、今度こそきっぱりと交際を絶ってしまった。世間一般の交わりとは、そうしたものである。物質や財宝があってこその交わりで、それがなくなれば基準が変わってくる。迷惑のかかるのを恐れ、そんな家との交わりを不名誉とさえ考える。中山家の恩顧を受け、善兵衛との交友、教祖の慈愛に浴した人々さえも、立場が逆になれば、恩顧や義理を忘れて却って嘲笑し、罵倒し、寄りつかなくなる。「みき」は、こうした万象の移り気を知らない訳ではなかった。否、全てを承知の上で構わずひたすらに根源的な生活者としての在り方の徹底した追及へと眼を向けて動じなかった。

(私論.私見)  「神命遂行に関わる前川家と中山家の違い」について
 ここで着目しておきたいことがある。これまでのところどなたからも指摘されていないが、「みき」の最初の神命「今日より、巽(東南)の角より瓦をおろしかけよ」に善兵衛が苦悶しつつもやむなく了承した際に、実際に神命を遂行したのは、「みき」の弟である前川半三郎であったということである。今後の動きから見ても判明するのであるが、「みき」のこうした神事に対し、これを理解し何とか歩調を合わせてきたのは、「みき」の実家前川家の面々であったということである。これに対し、中山家の面々とその知己が激しく拒否する動きを見せているように拝察させて頂くことができる。この流れが底流として続いていくことを見ておきたい。 

 この頃、内蔵篭りをやめる。


【みきの「自律」足跡行程(10)、「みきの身上」】

 「みき」は、かの日の神の貰い受け以来、自律の頂点迄達したことを既に見てきた。この自律により内蔵隠りの身となった。ところが、内蔵隠りを終えた「みき」の自律は、夫善兵衛の思わぬ方向へ展開することとなった。「貧へ落ちきれ」に始まる数々の神命は、当時の家意識あるいは家族制度に対する明らさまな挑戦へと進展してきた。こうして、善兵衛は、好むと好まざるに関わらず、戸主の立場から、再び三度「みき」との確執に向かわざるを得ず、「みき」は「みき」で、そうした家意識あるいは家族制度こそ通り越さねばならない最初の関所となった。このとき「みき」の身上が発生していることを解析してみようと思う。思案するに、身上とは、この関門に臨んで、「みき」の抗う唯一の手段であり、「みき」の御性状のなさしめた生体反応ではなかったであろうか。「みき」の身上とは、こうした背景によって考察されるべきものと拝察させて頂く。これを「みき」の自律足跡第10行程とする。


 (当時の国内社会事情)
 1841(天保12)年、3.23日、堀田正睦が老中に任命される。11代将軍徳川家斉死去。鳴物・普請が一時停止される.5.15日、水野忠邦の天保の改革始まる(〜43)。7.12日、庄内藩などの三方領地替を中止する。
 1841(天保12)年、8.1日、水戸藩が弘道館を藩校として創設する。朱子学の大義名分論を基礎とし、古代の天皇政治を理想とする水戸学が興隆する。水戸学の形成が明確になったのは、天保期に、藤田東湖(1806-1855)と会沢安(1781-1863)ら革新派が、藩主徳川斉昭(1800-1860)を補佐し藩政改革を行ってからのことである。その後、尊王攘夷運動の指導理念になった。
 10.7日、江戸で大火。10.11日、渡辺華山が三河田原で自刃する(享年49歳)。この年、横井小楠、実学塔を結成する。伊藤博文(1841‐1909)出生。
 会沢安が『新論』を書き、激烈に尊王論を主張し、幕末の内政・外交に至大な影響を与えていたのは、1825年、すなわち、中山みき28歳の時であった。藤田東湖は中山みきが58歳、会沢安はみき66歳のときに死んでいる。
 (二宮尊徳履歴)
 (田中正造履歴)
 11.3日、下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市)に生まれる。名主富蔵の長男。

 (宗教界の動き)
 小谷三志(1765‐1841)が富士講教理を整備する。

 (当時の対外事情)
 3月、高島秋帆が西洋式軍備の教授に任命される。5.9日、高島秋帆、江戸西郊の徳丸原で西洋式軍備の実演を行う。11月、伊豆代官・江川英龍、韮山で西洋式鉄砲を鋳造する12.28日、江川英龍に江戸湾岸の巡見を命じる。この年、薩摩藩家老・島津久風が西洋式軍備の演習を行う。

 西洋技術の優秀性に驚いた幕府の天文方渋川春海は、天保12.8月付けの上申書に、イギリス軍は清国に勝った勢いを駆って日本に上陸、神国日本を夷狄の植民地にするかも知れないという意見を書いている。これににた意見書は、高島四郎太夫秋帆からも既に提出されて、幕府への警鐘となっていたこうして、国防策が急遽真剣に進められていく一方では、国々所々では攘夷の動きが活発となりつつあり、しかし幕府は攘夷はかえって日本を傾ける危険があると判断して、先年(文政八年二月)に発した異国船打払令を倉皇として廃止、結局1842(天保13).7月には、異国船の要求に応じて「異国船薪水給与令」を命じることに成った。これは阿片戦争の影響を深刻に憂えての結果であるが、このころになって幕府は、国際政治のうえに日本がおかれた状勢を見極める態度に返信していた。とはいえ、これはそれまでの鎖国政策を根底から覆す意味ではなく、緊急に薪水などを求める異国船の要求をみたすだけの当座しのぎの消極的な政策に他ならなかった。

 (当時の海外事情)
 





(私論.私見)