第25部 「屋形毀ち」発せられる

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.18日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「屋形毀ち発せられる」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【神言その2、「屋形毀ち」発せられる】

 以来5、6年の歳月が流れ、頑強に反対、妨害を続けてきた人々の精根も尽き果てようとするこの頃ともなると、既に米倉、綿倉等は空となり、金目の道具がつまっていた道具倉にも手がつけられており、しまいには大事の家財、道具も含めて安市を開いて二束三文の安値で売り払われ、こうして得たお金もことごとく貧しい人々に施してしまわれた。この時の様子は、次のように伝えられている。

 「それを、みんな買手のつける丈の値に何ぼ安うても、そんな事には御とんちゃくなく、どんどん御払ひになりまして、御施しになります。それから、もうこれといふものも、ないやうになりましてから、神様は安市をして払ふてしまへと仰せられましたから、そこで安市をして、さもないものまで払ふて、あらひざらひ掃除して、倉はからっぽになってしまひました」(諸井政一「正文遺韻」)。

 かくして過ぎ行く頃、或る日、「みき」の口から

 この屋形取り払え

 と、厳かに言葉が発せられた。神言の第二弾であった。こうしてまたしても神命を告げるみきと常識を持っていさめようとする者との争いが始まることとなった。

 当時の人々の生活規範として「家柄、家格」を維持することは尤も重視されていた要素であったであろう。その象徴であった屋形は誉れであり羨望の対象であった。それを取り崩すなど周囲の誰一人にも理解され得べくもないお言葉であった。「施し」を廻ってさえ家内中が大騒ぎの事態であったことを考えれば、この先一体どこまで突き進もうとするのであろうか。「みき」の神意は奈辺にあるのであろうか。

 ここまで善兵衛は、最後には妥協して、結局は「みき」の為すがままにさせてきた。親戚、知己の中にはこうした善兵衛の態度を不甲斐なしとして難ずる者もあった。それをしも甘受した善兵衛には、この時点では、すぐる日の天保9年に「この屋敷親子諸共神のやしろとして差し上げる」旨の緊迫した取り交わしも生々しく、証文の如くに立ちはだかる誓約でもあったであろう。又これまでに尽くしてきた「みき」の並はずれた働きと中山家での貢献の深さを考えれば、まだまだお釣りが来る勘定だという思いもあったであろう。善兵衛には、「みき」の底なしの慈愛深い心根は十二分に知るところであり、万全の信頼の絆で結ばれていた夫婦であったが、この度の「みき」の神命はその限度を越すものだった。善兵衛の「みき」をいとおしく思う気持ちは強く、早く夢から醒めることを願うばかりであったであろう。そうであればこそ、こうしてここまで見守ってきたのであるし我慢してきた。しかし、

 
善兵衛には最早忍耐の限界であった。今では、村一番の大家であった中山家には、めぼしいものほとんどなく、日々の生活にさえ事欠く有り様であった。こうした状態であるのに加えて、この度の「屋形取り払え」とは、あまりに理不尽なお言葉であった。家は祖先から受け継いだものであって、善兵衛はその跡継ぎとして中山家の興亡を担う戸主としての責任があり、その面子に真っ向から挑戦するかの「みき」のお言葉であった。夫婦であればこそ許せたことも、「家」のことともなると別であろう。ここまで「みき」の仰せに理解を能くした善兵衛も、こればかりは受けることができなかった。


(私論.私見) 神懸かり後のみき「屋形毀ち」考

 先に「貧への落ちきり」で、中山家の家財道具一式を放擲してしまったみきは、更に進んでこの稿では中山家の「家格」の取壊しを急ぐこととなった。この度の仰せによって「豪壮な感じを与える表門、格式張った玄関造り、高塀構え」が告げられた。この思し召しは如何なるものであったのだろうか。思うに、「豪壮な感じを与える表門、格式張った玄関造り、高塀構え」が、世界の助けを望む親神様の御意に添わなかったということになる。更に云えば、人助けをするため「貧に落ちきる」ことを急きこまれた親神様にとって、家格は無用の長物むしろ敵対物であったとさえ云えるのであろう。しかし、こうした思し召しは、夫善兵衛が苦悩した様に、家の格式は代々の誉れであって、善兵衛夫婦の談じあいでどうこうできるものではなかった。時の家父長的家族制度の仕組みそのものに対する正面からの且つ徹底した挑戦であった。それをしも押し進めていった「みき」の揺るぎない態度に瞠目せねばならないであろう。





(私論.私見)