第24部 1840年 43才頃 善兵衛の苦悶.世評と狐憑騒動
天保11年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【善兵衛の苦悶】
 この頃、中山家の面々は、いかばかりの不安に心を悩めていたであろうか。殊に主人たる善兵衛の思いたるや殊のほか陰鬱であったであろう。去る日、「みき」の身を気遣う一念から「神の社としての貰い受け」を承諾して以来、神命のままに親族知己の反対を押し切って高塀の取り払いまで手をつけることになり、この先もまだまだ神命の続くような気持ちがしており、中山家の跡取りとしての責任と、既に年頃になり始めた子供たちの淋しそうな様子を見るにつけ、心は千千に砕け暗然たる心持ちに沈んでいたであろう。善兵衛には余りにも苛酷な現実の進行であった。あれこれ憂慮するにつけ眠れぬ夜が続く日々となった。

 
この当時のエピソードが次のように伝えられている。
 「或る日のこと、白刀を抜いてみきの枕頭に立った。妻に憑いているのが真の神様であるなら、こんなにまで人を苦しめる筈がない。妻は貧乏神に憑かれているに違いない。或いは余りに信心に熱したあまり気でも狂ったのだろうか。もしも狐狸の業ならば、この刀の威力によって退散せよ、と切に願った。みきは善兵衛の苦しい胸中を知ってか知らずでか、何の思い煩いもなく安らかな眠りを続けている。むしろ神々しいまでにたおやかな寝顔であった。みきの寝顔を見つめているうち、二十数年の苦楽をともにしてきた思いが胸に迫り来て善兵衛の目頭が次第に熱くなった。振り上げた白刀は遣り場をなくし、善兵衛は又しても気弱にうなだれた。枕辺の物音にフト目を覚ましたみきは、白刀を手に立っている夫の姿を目に留めて、『あなた何をしておいでで御座いますか』と尋ねれば、善兵衛は、『どうも恐ろしうてならぬ』と答えることしかできなかった。この時、みきは、世界助けに向かう道筋と先にある楽しみを説いて聞かせ、親神の思惑を伝えたと云う。狐狸か狂人かと疑いたくなる様な振る舞いをする妻ではあるが、こうして面と向かってその姿に接すれば常に変わらぬ優しく頼もしい妻であった。その澄み渡る心が自然にその面ざしにまで表われており、神々しいまでに涼しく、目もとに微笑みをたたえていた。かようにみきの温容に接すると深い愛情と信頼を呼び覚まされる善兵衛であったが、自分の不明により中山家を零落させてしまっては御先祖様に申し訳ないとして、中山家の先行きへの不安にもどかしい気持ちに襲われる善兵衛でもあった。

 又或る日のこと。こうした苦悶の極まるところ、善兵衛は自身白衣を着て、みきにも白衣を着せて、生家の兄弟衆も立会いの上、祖先の位牌の前に対座し、先ず念仏を唱えた後、諄諄と心中に積もる苦悩の次第を話し、その果ては、真に憑物ならば即刻退けと段々と責め問うたこともあったと云う」。

【みきの癩者労(いたわ)り】

 この頃、「みき」の癩(らい)者を労(いたわ)る次のような逸話が残っている。

 「弘化2年12月( 1845年)みき48才の時、癩者がみきを訪ねて来たことがあった。みきはその肉のくずれた癩病患者を勝手口に招き入れ、温かいかゆをつくって御馳走した。癩者は身の上話をはじめて、18の時からこんな風になりました。いろいろ養生しましたが重くなるばかりです。もう信心するより他ないと人様の力にすがって西国四十八カ所の巡礼をするために云々と話すのを、みきは涙をためて、『それは良い志です。人助けの神様はここへもおいでになるから、なおるまで滞在したがよいでしょう。十日といわず二十日でも遠慮はいりません』と云い、救いの道を談じた後、癩者を泊める部屋のことなどを心配して手配に向かったところ、再び勝手に戻った時にはその巡礼はいなかった。みきは台所にもどり、ありあわせの米を二、三升風呂敷に包んで、衣紋掛けにかけてあったはんてんを袖だたみにして、巡礼のあとを追って河原城の方へかけていった。そのみきの後姿を見て、村の子供たちが『気違いがいくよ、狐つきがいくよ』と囃子(はやし)たと云う」。

【世評と狐憑騒動】

 「みき」の施しの様の異常が、近隣の目に触れ、耳に入るようになってくると、次のような各人各様の、取り止めのない噂が飛び交うこととなった。

 「近頃中山家のご新造は内倉に隠りきりで、野良仕事は素より、世帯一切お構いなしなそうな。あの働きもののご新造が、どうしたことだろう」。
 「前々から施しされる慈悲の深いお方ではあったけれど、近頃の施し様はなんじゃいな、既に大方米倉や綿倉の中は空っぽとかいう話しぞな。いかに大家の中山家としても、たまったものじゃなかろう」。
 「狸か狐でもついての仕業じゃなかろうか。それにしても善兵衛さんは何をしておいでやろ」。

 
「みき」の果てしない施しが常識を越えたものであっただけに、中山家の異変がまたたくまに人の口の葉にのぼっていくこととなった。初めのうちは、それまでの「みき」の御性行と中山家を憚って、密やかにささやかれていたものが、遂には聞こえよがしに善兵衛の耳に届けられることとなった。この頃、親戚知人の入れ替わり立ち替わりの忠告、止めだてが為されるようにもなった。しかし、「みき」にいくら忠告しても一向に効き目がなく、こうした世間のうわさも耳に入らぬとばかりに、「みき」の施しの手は緩む様子もなかった。こうして、「みき」の施しの手は如何なる妨げもものとせず続けられていくことになり、「みき」の言動は、世間の物笑いの種になっていく一方、近在の貧しい人々が「みき」の慈悲にすがろうとお屋敷に寄って来る日々を重ねることとなった。

 こうした事態にあって、或る人曰く、狐つきであれば、稲荷の勧請をすれば良ろしかろうとの教えに、稲荷の祠を造って、九条村の九平という者を雇って祈祷をしたり、いろいろな試しを為して狐の退散を策した。もとより狐は一匹も出ることなく、九平の方が退散することとなったと云う。又は、憑物は、刀の威力に恐れを覚えて退散するというので、みきの面前で、二本刀をブンブンと振り回しては見たが徒労であった。あるいは、伏床の下にこれを敷いてみたり、伏見稲荷のお札をみきのふし所の下に敷いてみたりと、考えられる限りの試みをしてみたものの、一向に事態が変わらなかった。

 この頃のことで、そうした様子を伝える次のような逸話が残っている。

 「そうこうしているうち、いよいよ中山家の不幸を見兼ねて、役友達であった別所村の萩村、庄屋敷村の足達、丹波市村の上田等々の面面が寄り合って、『中山家では、近頃あの働き手であった新造さんが気でも狂ったか、家の将来も、子供の行く末も考えず、度を越した施しに夢中になり、何時云っても子供たちが気抜けしてしまったように淋しくしており、どうも気の毒で見ていられぬ。善兵衛殿もいろいろ手を尽くしては居るらしいが、どうにもならぬ塩梅らしい。ここは一つ我々が力を合わせてもし憑物ならばどうでも退散さしてやろうではないか』と、示しあわせて中山家へやって来るところとなった。当時の迷信俗信として、人の異常な振舞は、狐狸の類が人間に乗り移って為せることと理解されていた。従ってその狐狸がついているとされた者を、松葉でいぶしたり、つるし上げたり皆でよってたかって打(ちゅう)ちゃくしたりなどして肉体を痛めることにより、狐狸の類が苦しくなり退散するものと考えられていた。こんな場合、責め苛まれている人が苦しめば、その身についている狐狸が苦しがっているのだと考えて、余計に責め苦をし続けることとなった。あげくその人が失神するような事があっても、それは却って狐狸が退散した為に力が抜けた姿であると解釈された。こうして、みきは、中山家を案ずる同役の者逹によって激しく責め苛められることとなった。けれども如何せん、『我は退く神ではない』と、厳然と言い放たれる有様にて狐狸の類が現れ出るためしなく、この目論見もあえなく費えることとなった」。


 稿本教祖伝23−24頁は次のように記している。
 「教祖の言われる事なさね事が、全く世の常の人異なって来たので、善兵衛初め家族親族の者達は、気でも違ったのではあるまいか、又、何かの憑きものではあるまいか、と心配して、松葉を燻(くす)べたり、線香を焚(た)き、護摩を焚きなどして、気の間違いならば正気になれ、憑きものならば退散せよ、とあらん限りの力を尽した。善兵衛の役友達である別所村の萩村、庄屋敷の足達、丹波市村の上田などの人々は、寄り集まって、中山の家は何時行っても子供ばかり寂しそうにしていて、本当に気の毒や。何とかならんものかしら。憑きものならば、我々の力で何としてでも追いのけよう。と、相談の上、連れ立ってやって来て、教祖に向い、私達が今日から神さんを連れて戻って信心しますから、どうかお昇(あ)がりください。と、繰り返し繰り返し責め立てたが、何の効き目もなかった」。
 池田士郎氏の「庄屋善兵衛とその妻」が次のように記している。
 「その頃の常識からすれば、一家の主婦が口寄せなどの巫・カンナギに頻繁にかかわることはタブー視されていた。有名な貝原益軒の『女大学』にも、『巫(みこ)、カンナギなどのことに迷いて、神仏を汚し近づき、猥(みだ)りに祈るべからず』と説かれているように、巫女のもとへ伺いに行く時でさえ密かに通っている」。
 「当時の社会通念としても、『我が身に応じたる神を祭るべし。身に応ぜざるは祭るべからず。天神地祇人鬼ともに、人の位によりて、我が身にあづかりて祭るべき神あり。身にあづからずして祭るまじき神あり。我が祭るべき神にあらざれば祭らず。これを祭るは諂(へつら)いなり。非礼なり』と云われるように(以下略)」。

【みきの実父/前川半七正信出直し】
 かかる年の天保11.2.18日、「みき」の実父/前川半七正信が出直した。享年76才であった。推測するに、半七は最後までみきの異能を理解しつつ、同時に世間の常識的な倫理基準でもある嫁ぎ先での娘の粗相に対する実家の実父としての責任を感じつつの苦悩の中での出直しではなかったであろうか。付言すれば、「みき」の半七に対する愛情は深く、後年何度も述懐している様を伺うことができる。

【山名大教会の創立者となる初代会長・諸井國三郎誕生】

 1840(天保11)年、山名大教会の創立者である初代会長・諸井國三郎(もろいくにさぶろう)が、遠江国山名郡広岡村下貫名(現在の静岡県袋井市)において組頭(名主を助けて村の事務を取り扱う役)諸井十郎兵衛の三男に生まれた。幼名/龍蔵。



 (当時の国内社会事情)
 1840(天保11).3.2日、幕府が、勘定奉行・遠山景元(金四郎)を町奉行に任命する。3.5日、七代目市川団十郎が河原崎座で勧進帳を初演する。7.7日、長州藩が、藩士・村田清風の藩政改革を取り上げる。7.20日、水戸藩が、領内の総検地を断行する。11.8日、阿部正弘が、寺社奉行となる。11.23日、三方領地替反対一揆。庄内藩など三藩に領地替えを命じ、庄内の領民が一揆を起こす。12月、鳥居忠耀が、秋帆の意見書に反対の意見書を幕府に提出する。

 (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 1840(天保11)年、5.27日、幕府が、長崎奉行へオランダ風説書に原書を添えるように指示する。6.27日、代官・羽倉外記に房総の海岸警備を指示する。9月、高島秋帆が、洋式砲術の採用を長崎奉行に建議する。11.3日、長州藩が、下関の越荷方を増強する。

 (当時の海外事情)
 1840(天保11)年、アヘン戦争起る。この戦争を確認しておく。イギリスは、清へ輸出できる物品として植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出し膨大な利益を挙げた。1796(嘉慶元)年、アヘンの輸入を禁止したが、アヘンの密輸入はやまず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり風紀も退廃していった。清朝の官僚、政治家にして憂国の士/林則徐が立ち上がった。林則徐は、1785年、福建省福州生まれ。25歳で進士となり、江蘇巡撫、湖広総督を歴任。清廉な政治で民衆の人望を集めた。アヘン問題が持ち上がると徹底した厳禁論を主張、その上奏文が時の道光帝の目に止まり、欽差大臣として広州に派遣された。林則徐は、阿片を扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しい阿片取り締まりを行った。1839(道光19)年、外国人居留地を実力で封鎖し、アヘン商人たちに「今後一切アヘンを持ち込まない」と言う誓約書を出す事を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収し、これをまとめて焼却処分した。この時のアヘンの総量は1400tを越えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。イギリスの監察官のチャールス・エリオットはイギリス商船達を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を出せば貿易を許す」と返した。実際にアメリカ商人は誓約書をすぐに出してライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。イギリスの阿片の密貿易に対して断固として闘った。1839年、11.3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にはイギリス本国の議会でも、野党であった後の首相ウィリアム・グラッドストンを中心に『こんな恥さらしな戦争はない』などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、イギリス東洋艦隊が清に向けて進発した。約2年間続き、戦争に敗退した中国は1842年、南京条約で英国に香港島を割譲し、広州など五港を開港するようになる。清の商人がアヘン戦争を報じ来る。幕府にとって、アヘン戦争は、「唇亡びて歯寒し」の思いをさせる衝撃となった。





(私論.私見)