第23部 | 1839年 | 42才 | 「貧に落ちきれ」 |
天保10年 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「貧に落ちきれ」を伺っておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【神懸かり後のみき2、貧に落ちきれ】 | |||||
「内倉隠り」の一年有余後、「みき」が神言を発せられた。最初の神言は「貧に落ちきれ」というお言葉であった。次のように宣べられている。
この神言と共に果てしない「施し」が為されることとなった。
と応え、施しの手は止めなかった。初めのうちは、自分が嫁入りの際に持参した荷物の中から手辺り次第に施ししていた。「神様が安市をして払うてしまえと云われた」ことによると伝聞されている。それも尽きるとなると、今度は子供たちのものから善兵衛の物まで施すようになった。善兵衛がいくら意見しても、
と厳かに神命を伝えるばかりで、聞き入れようとしなかった。そして、尚も施しの手をゆるめず、身の周りのものがなくなればその後は米倉、綿倉の中につまってある米麦や綿の類、果ては自分が日頃丹精込めて織り溜めていた木綿の反物等まで、手辺り次第に施していかれた。噂を聞きつけ、中山家の施しを得たさに、まずは乞食や非人たちが足繁くお屋敷を訪れることになった。「みき」は、寄り集い始めたそうした人々を嬉々として迎えられて、
と仰せられ、群がり来る貧民を厭いもせず、家族の反対を余所に親神様の思し召しのままにますます施されていった。「神のやしろ」となられるまでは凡そ夫の言葉に何一つ逆らったことのない従順な「みき」であったが、この度は一変して夫の云いつけに従おうとしなかった。こうして、「みき」の施しと、善兵衛の諌めが、綱引きの如くに続けられていったが、その度に、
と「みき」の口からは凛とした神命が繰り返されるばかりであった。 |
【みきの施しの様子】 | |
「みきの施し」について次のように解説されている。
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【神言その1、貧への落ちきれ考その1、教祖ひながたとしての財物喜捨】 |
ここまで、何とか「みき」の宗教的精神史の行程を辿ってきたが、本章で始めて登場する神言を「みき」が発するようになって以降においては、「みき」の変遷を「みき」が昇華して行く過程として追跡して行くことがやや困難となる。既に「みき」は「神のやしろ」としての入魂神となっており、「みき」自身がそのようにも振る舞う訳であるから、「みき」の内的変化を弁証的に追うよりも、「みき」の神言の経過を順次に見ていく方が相応しいように思われる。という訳で、「みき」により神言が発せられて以後については、その1、その2、その3として次第を見ていくこととする。従って、ここでは、「神言その1、貧への落ちきり」を考究して行くこととする。 「みき」は、如何なる思し召しで「神言その1、貧への落ちきり」を急いだのであろうか。世界の常識は、蓄財をもって暮らしの安定を図ることを良しとしており、わざわざ「貧に落ちきる」とは考え及ばぬことであろう。その常識を押しのけて、徹底した施しをしていくことになったことについて深く思案させて頂かなければならない。私は、先の「みき」の「内倉こもり」は世界助けに向かう方途を探るいわば理論練成期間として用意されたものであり、一年有余の熟成を経て、このたびはいよいよその実践に向かわれることになった、と拝察させて頂く。「貧に落ちきれ」は、その最初の神言であり、それまでの慈善行為の枠を飛び越えた中山家の財産、富の放擲を啓示することとなった。これが、「みき」が世界助けの道を進もうとした時に最初に為さねばならなかった関門であった。つまり、「貧に落ちきれ」が、世界助けに向かう前提として、自らが実践して検証して行く道筋の序章となった。世界の宗教史の中で、かような「貧への落ちきり」に向かった教祖実例が他にあるのだろうか、そういう点も興味深い。 |
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ところで、後に「お道」が爆発的な発展期を迎えていくことになる。その時、「みき」のこの時の「貧に落ちきれひながた」が「財物の教会喜捨」へと理論化されていくことになる。そしてその功罪が世に問われることになる。その是非は未だ詳らかではない。 |
【神言その1、貧への落ちきれ考その2、余計なもの無一物思想】 | ||
「貧に落ちきれ」とは世界の常識とは大いに隔絶している。「貧に落ちきれ」の意味について、稿本天理教教祖伝では次のように説明している。
本部教理で、次のように云われていることも着目に値する。
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この理解によれば、世界の常識を押しのけて、「みき」が徹底した施しを為していくことになったのは、「人が物に執着することによりもたらされる害禍」について、「みき」が格別鋭い認識を持ち、その実践として財物喜捨をされた、ということになろう。それは正しい。しかし、私には、「貧に落ちきる」ことの意味を、「富への執着から離れることにより、こだわりのない精神を得る」ところにのみ意義を見出す理解は半面の真理でしかないと思われる。このことを、もっと深く思案させて頂かなければならないのではなかろうか。 「みき」の場合、「貧に落ちきる」ことの意味は、これを徹底して推し進めることにより、更に余計なものを捨てた「無一物無所有」の立場まで志向していたというのが正確ではなかろうか。「みき」は、人間生活の、社会の、根本からの改革「立替え、世直し」を企図しており、その為には、まずは我が身と家庭が率先して「無一物無所有」の、支配−被支配、差別のない「谷底生活境涯」へ一旦落ちきり、そこから這いあがる術と道筋を得、これを「ひながた」とせんとして自ら検証しようとしていた。これが真実だったのではなかろうか、と拝させて頂く。。 「みき」は、口舌の徒であることを嫌った。故に、何事もまず我が身において験し、実証したものを他者に聞き分けさせるというのが一貫した作法であった。この度の「貧に落ちきれ」は、この作法に基づく、世界助けに向かう前提としての「内からの打ち壊し」という徹底した自己解体の道筋をつけようとしており、「貧に落ちきれ」はその序章となったのではなかろうか。 通俗的には、こうした道程は非常識のそれであったであろう。富と権勢を掌中にしていた中山家を無一物へと向かわせようとする「貧に落ちきれ」は「狂」的でさえあろう。とはいえ、「みき」がこの道へ向かおうとしたことには又別の半面の真理ないし根拠が横たわっているのではなかろうか。「みき」は、富と権勢を誇る中山家へ嫁いで以来、主婦の鏡と称せられるほどに身を粉して働いてきた。この間に経験し見聞した様々な出来事を通じて、富があるゆえの執着と争い事とそうした争いに必然的に陥っていかざるをえない生き方の歪みの根本規定要因として、私有財産的所有の副作用を見ており、その在り方の是非を問い続けた結果、遂にその疑義にまで認識を深めていっていった、のではなかろうか。 こうして「みき」は、上から施していたそれまでの流儀を否定し、自身とその家族一家ともども一介の貧農の生活すなわち社会の底辺に位置させていく為の非常識的な道程を実践的に験していくことになった。それは、欲も支配も差別も生まれるべくもない、赤裸々の最低辺の暮らしであり、やっと食いつないでいけるギリギリの「貧のどん底生活」へ我が身と家族を追い込んでいく道であった。その背景には、一度は人間としての生活存在のギリギリにまで自らを落しめていくことにより、ここを足場として、人と人との繋がりも含めて人が生きていく上に必要なものとそれ以外のものとをふるいにかけて、そうした根底的なところから存在し直し関係し直していこう、そこから「世直し、世界の立て替え」を展望しよう、その運動主体にならんとすることを企図していたのではなかろうか。 「貧のどん底暮らし」には、そういう力強い意図がこめられていたのではなかろうか。「貧のどん底暮らし」の内から自ずと生まれてくる素直な助け合いの心を育み、ここに神様の「自由」の働きを得、各人銘々が生活の仕方の根本的な立て替えをする。こうした暮らしの中から後は次第に「後は、昇るばかり」の生活を生み出し、個々の生活単位としてのこの道の結集を通じてこそ「人助け、世界助けに向かう道、世直しの道」が開けるのだ、とする観点に支えられていたのではなかったか。このことは次章以下次第にそうした様子がはっきり していくこととなることで了解されるであろう。まさに、「難渋助け、この世をろっく(平等)に踏み固める道をつける」という「我が身をもっての実践ひながた」であった。 もう一度整理すると次のように云えようか。「みき」が決意した解答は、まずは一度は自らが社会の最底辺に生活を敷くことにより民衆一般の視点を獲得し、民衆の常態である「無一物無所有」の立場から、真実に人間生活に必要なものの識別を企てようとしたのではなかろうか。そうした上で、当時の社会の枠組みにとらわれない、生活者としての本来的な有り様そのものを、我が身での実践を通じて検証しつつ、生活者共同体を再構築しようという意図を衝動したのではなかろうか。つまり、「谷底せり上げのひながた」を創ろうと企図されていたのではなかったか。こう考えた時、「みき」がこのたび徹底的に貧に落ちきろうとした意味合いの真価が理解されてくるように思われる。それは人類史上に輝く「生活思想大革命的実験」であった、と拝察させて頂く。この「実験」がどこまで首尾よく成功するのか否頓挫するのか、これが「お道」の歩みとなる。かかる観点から興味深く追跡していこうと思う。 「みき」の教えが、私有財産的な所有の在り方にまで疑念を及ぼしていたそれであったとは驚きの向きもあるかも知れないが、こう理解した方が何やら整然とするとすれば一考に値することと思われる。丁度この頃、西欧では無政府主義又はマルクス主義が類似した共同体主義発想の理論を構築しつつあったことも興味深い。従って、「貧に落ちきれは、現下の天理教団が説くような、表面的な「心構え的理解」を許さざる、もっと奥深い思慮に基づいたものであったことを拝察しておく必要があるように思われる。 |
【みきの宗教的資質3、知行合一思想】 |
内倉こもりを終えた「みき」の初指令は「貧に落ちきれ」であった。これを解くのに、あまたの宗教家に比しても異色な知行合一思想であるように思われる。これを「みき」の宗教的資質第3とする。 |
【みきの「自律」足跡行程9、「貧に落ちきれ」】 |
この時点で、「みき」は既に「神の社」となることにより、ほぼ充足的な自律的自由を得ていた。先の「内倉隠り」と家業全般の放棄はその例証である。このたびの神言「貧に落ちきれ」による際限のない施しは、更にそれを例証する行為であろう。但し、この時点から、この自律的自由に対して、「みき」と善兵衛との確執が如実に現われることになる。しかし、この確執は、常に「みき」の方から能動的に仕掛けていくことにより発生した確執であった。「みき」は、歩みを一歩進めて、夫善兵衛の咎めに逆らってまで、逆に夫善兵衛に命令を下すところまで自律的自由を促進させたことが着目されるであろう。これを「みき」の自律足跡第9行程とする。 |
(当時の国内社会事情) |
1839年(天保10)年、1月、渡辺崋山が慎機論を執筆。 3.14日、老中・水野忠邦が一万石加増される。 5.14日、蛮社の獄起る。渡辺崋山がモリソン号事件で捕えられる。 5.18日、高野長英が自首する。これにより尚歯会員が弾圧される。 12.1日、江戸で大火。 12.6日、水野忠邦が筆頭老中になる。 12.18日、渡辺崋山、高野長英ら尚歯会員が密貿易の嫌疑で弾圧を受け、渡辺崋山が蟄居、高野長英が永牢の処分を受ける。渡辺は故郷に軟禁されるが後に自殺する。 |
(二宮尊徳履歴) |
1839年(天保10)年、53歳の時、青木村仕法完了。諸藩諸村の復興指導で多忙な日々を送る。相馬藩士富田高慶が入門する。烏山藩仕法中止。後に二宮門四大人と呼ばれる富田高慶,斎藤高行、福住正兄,岡田良一郎はいずれもこの間に教えを受けた門弟である。子の弥太郎尊行も尊徳をたすけ、娘文子は富田高慶に嫁した。 |
(宗教界の動き) |
九州、中国からの伊勢参宮にぎわう。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
この頃の世界事情として、1839年(天保10).9月、イギリスと清国が交戦し、幕府もいよいよ外国列強に神経質なほどに警戒の眼を光らせていたこの戦争は、清がイギリスから輸入していた阿片を禁輸したことから勃発したものであるが、イギリス軍が清軍を圧倒したこの戦争は終始西洋の卓越した武器と砲術の優秀性を世界列国に知らしめることと成った。 |
(私論.私見)