第1部 | 1798年 | 1才 | みきの誕生とその家系.両親の様子 |
寛政10年 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「みきの誕生とその家系.両親の様子」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【みきの誕生と家系と両親の人となり】 |
1798(寛政10)年6.2日(陰暦4.18日)(戸籍では4.4日)、明治維新(1868年)の70年ほど前の江戸幕末期、徳川11代将軍家斉(いえなり)、いわゆる「寛政の治」の御世、若葉萌え出る初夏の、夜のとばりのほのぼのと明け始める早朝頃、後に天理教教祖となる「中山みき」(以下、「みき」と記す)が、現在の奈良県天理市三島村の三昧田村(大和郡山辺郡朝和村大字西三昧田村)と呼ばれる農村の百姓家で産声を挙げた。 前川半七正信(当時34才)を父、8才年下のおきぬ(当時26才)を母に、その長女として誕生した。当時の前川家には、この両親を筆頭に長男杏助(きょうすけ、当時5才、享年79歳)と祖母ヲヒサ(当時61才)がいた。後に6つ違いの妹/二女くわ(宇陀郡忍坂村に嫁し、逝去年66歳)、三女きく(山辺郡竹ノ内村に嫁し、逝去年31歳)、次男半兵衛(後の半三郎、享年84歳)と生まれることになる。前川家は、杏助に久しく子がなかった為に半兵衛が杏助の準養子となって前川家の家督を継ぐ。後に半三郎と改名する。 前川家がいつの頃よりこの三昧田村の地に住みついたのかは判然としないが、大和神社の鎮守の森の北方の辺りに、他の二十数戸と共に居を構えていた。三昧田村は、その地名が奥ゆかしい。即ちその昔、神に捧げる散米をつくる田の意味だと記録されており、してみればかなり古い。当時、この当り一帯の農業生産力は高く、菜種や綿作が盛んで商業的農業の先進地域になっていた。井原西鶴の「日本永代蔵」に登場する「大和に隠れもない綿商人」として登場する川ばたの九介は、隣村の佐保の庄の出の者であった。この当時の三昧田村は、丁度みきの生家前川家の東側道路で西三昧田村(遠く伊勢の国「津」の32万石の領主藤堂氏の所領地)と、東三昧田村(織田信長の弟・織田有楽斎を祖に持つ近くの「柳本」の一万石の領主織田氏の所領地)に分かれており、前川家は西三昧田村に位置していた。 前川家は、神道的にはすぐ近くの大和(おおやまと、ルビはおやまと)神社(天理市新泉町306)の信徒総代をして来た家柄であった。仏教的には代々篤実な浄土宗の檀家であり主要な檀家として寺から重んじられいた。五重相伝の伝授者が多く、朝夕には仏前で回向頂礼が行われていた。 他にも郷士的な庄屋を勤めたり、後に所領する藤堂藩和泉守から無足人の待遇を受けるなど上層農民に属する家柄でもあった。(父半七は1827(文政10)年10月、「役儀精勤ニツキ一代限無足人」を許されている) 無足人とは、当時の厳格な身分制社会にあっては随分に名誉な身分で、封禄は支給されないものの藩士に対して対等の礼法が許され、名字帯刀が許され、具足一領、槍一筋を常備し、人足役が軽減免除される等武家に準じた士分待遇という名誉の職であった。在地の有力農民の中から選抜される慣わしであった。藤堂藩の場合、1608(慶長13)年、四国より伊賀へ移封した初代藩主藤堂高虎が、各郷在村の有力農民にして人望のある者を選んだのが始まりと云う。藤堂藩の無足人としては百地三太夫とか荒木又右衛門とかが有名であるが、いずれも代々その土地の有力者を登用しており、こうしてみると無足人という役は、領主と領民の間の束ね役として役割と能力が期待された要職であり、農民層への顔ききとして信望厚くなくては勤まらない重要な世話役であったことになる。 なお、持ち回りとはいえ前川家は代々近郷数ヶ村の目付役の命をも受けていたとも伝えられている。この目付役というのは、藩からの触れを村役人に伝えることをはじめ、年貢の取り立て、水利とか土地の簡単な訴訟の吟味と解決、農事の指導及び紛争処理、普請場所の見分け、キリシタンの宗門改め等々現在の市町村長兼警察署長のような役を務める要職であった。こうしたことからすると、前川家は在所ではなかなかの名家であったということになる。事のついでに前川家の家紋、母の生家の長尾家の家紋を知りたいが、これに触れた一文に出くわしたことがないので分からない。 当時の前川家の家屋がそのままに今日残されており、これを見るに、格式を備えた旧家風の百姓家としての家屋敷である。但し、質実にして華美ではない。「みき」の少女時代について語られる様子から推察すると、その生活程度は中自作農的立場を家風としていたようである。この当時の農村といえば、階層分化が一層進行しつつあり、自営農民の没落の一方で富農が出現し始めるという風に二極化しつつあった頃である。在村における前川家の立場からすれば、商品作物を積極的に手掛ける等して富農化していくことも容易に為しえた筈であろうが、そうした動きは伝えられていない。むしろ頑なまでに中自作的な立場を維持し続けた様でもあり、前川家の人となりが伝わるようで味わい深い。みきの家系の原風景としてこういう事情も踏まえておく必要があることと思われる。 「みき」誕生の朝、前川家の屋上に五彩の美しい雲がたなびいていたという。これはいわゆる修辞であろう。なお、「みき」という名については前川家の記録には一切見当らず、三昧田では「るい」と呼ばれていたらしい、ということが前川家や古い方々の証言に出てくるとのことである。こうしたことからも判るように、この頃の「みき伝」は自ずと伝聞によることは避けられないことを了解しておく必要がある。 |
ちなみに、大和神社で毎年4月1日に催される「ちゃんちゃん祭」は、大和一帯で行われる祭の先駆けを為している。このことから知れるように、大和神社は大和国総鎮守神社の格を持つ枢要な立場を担う由緒の深い神社である。大和神社の御由緒書には氏子の中に天理教教祖の中山みきがいると書いてあるという(米山俊直)。この後の「みき」の成長を通史で見た場合、この大和神社と「みき」との間には浅からぬ交流があったとみなされる。これについては大和神社の縁起を含め後に考究することとする。同じく近くの三輪には大神(おおみわ)神社、布留には石上(いそのかみ)神宮がある。両神社については別稿で考察しようと思う。これらを見れば、三昧田村のみならずこの地域一帯が、相当な歴史と伝統を持つ村落であることとなる。当然ながら、みきも又こうした地勢的影響を受けながら成長して行ったと思われる。なお、氏宮神社は、前川家の西北にある春日神社であったと思われる。 |
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前川家の宗旨は浄土宗の檀家で、信仰心の厚い家庭であったが、前川家の仏信仰の篤信ぶりは語られるものの、一方で前川家が大和神社の有力な氏子でもあったことが見過ごされがちである。事実は、前川家と大和神社との間には緊密な繋がりがあり、それは大神神社とも然りであったと推理できる。後の天理教教祖みきの霊能ぶりを知る上で、大和神社、大神神社との浅からぬご縁が着目されるべきであるが、この方面からの研究が進んでおらず、今後の課題であると思われる。 |
【藤堂藩考】 | ||
2023.11.3、0日江宮 隆、「徳川家康が最も信頼した晩年の腹心 7度主君を変えた男・藤堂高虎の波乱万丈の人生」を転載しておく。
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(当時の国内社会事情) |
1798(寛政10)年4月、後の天理教教祖中山みきが大和国山辺郡西三昧田村で誕生する。天明の大飢饉(1782〜87年)を経て、1795(寛政7)年7月に11代将軍家斉が老中松平定信を登用して「寛政の大改革」と云われる幕政改革に乗り出した頃にあたる。 |
百姓の強訴を禁ずる。 |
6.13日、本居宣長(1730-1801)が「古事記伝」全巻完成。 |
大槻玄沢の「重訂解体新書」の訳稿成る。 |
本多利明(1744-1821)の「経世秘策」完成。 |
1799(寛政11)年。この頃、大和地方の各地で百姓一揆、強訴が記録されている。岩室村(現天理市)では代官所が打ち壊されている。 |
東蝦夷地を幕府の直轄とする。 |
(二宮尊徳の履歴) |
1787(天明7)年7.23日(9.4日)、二宮尊徳(金次郎)が、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に百姓利右衛門、よし夫婦の長男として生まれる。当時の栢山村は小田原藩領であった。1790(寛政2)、弟・友吉誕生(常五郎、のち三郎左衛門)。1791(寛政3).8.5日、5歳の時、南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、二宮家の住む東栢山一帯が濁流に押し流され、田畑はが礫と化す悲運に遭遇する。1792(寛政5)年、7歳の時、利右衛門が負債して、田を質として開墾に従事する。1796(寛政8).正月、利右衛門が伊勢参宮する。同年正月、大久保忠真公が小田原藩主となる。1798(寛政10)年、12歳の時、利右衛門が重病に陥る。金次郎は父に代わって御用に出始める。 1800(寛政12)年、14歳の時、父利右衛門が死去する(享年48歳)。1802(亨和2)年、父逝去の2年後、母よしも亡くなる(享年36歳)。金次郎は幼い弟達と三人だけになり一家離散の憂き目を味わう。伯父二宮万兵衛の家に預けられた金次郎は農業に励むかたわら、勉学に勤しむ。1803(亨和3)年、17歳の頃、菜種を収穫して灯火の下、本を読んだと云われる逸話を遺している。やがて没落した生家の荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図る。1806(文化3)年、20歳の時、独立し生家の再興に着手する。 |
(大原幽学の履歴) |
1797(寛政9)年4.13(旧暦3.17)日、大原幽学(おおはら ゆうがく)誕生。尾張藩の重臣大道寺直方(玄蕃)の次男として生まれたと云われる。はじめ武芸を学んだが,1814(文化11)年、生家を勘当され放浪の旅に出る。関西各地を遊学しながら神道、仏教、儒教、易学のエッセンスを学ぶ。且つこの間、農業経営や農業技術の知識を吸収する。その後、性学(儒学の一派の性理学)を治め、社会教化を志し、各地で人生道を説きながら救世済民に生涯をささげようと決意することになる。 |
(この頃の宗教界の動き) |
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(当時の対外事情) |
この頃、イギリスは、海図をつくる為に蝦夷地に来ると、翌年までかかって日本の沿岸を測量した。ロシア人はエトロフ島に上陸した。幕府も又負けてはならじと9.7日、エトロフ島に大日本恵土呂府の標柱を建てた。翌年3.17日、幕府が近藤重蔵を蝦夷地に派遣する。淡路島出身の船頭高田屋嘉兵衛がエトロフ航路を開き、翌1800(寛政12)年、伊能忠孝が幕府に請うて蝦夷地を測量した。 |
(当時の海外事情) |
1798(寛政10)年、フランスでは、ナポレオンによりエジプト遠征が為されている。イギリスのエドワード・ジェンナーが種痘法法を発明した。イギリスのマルサスが人口論を発表している。 |
1799(寛政11)年、ロゼッタストーンが発見される。 |
(参考文献) |
中山正善「続ひとことはなし」 |
八島英雄「中山みき研究ノ−ト」 |
(私論.私見)