第19部 ひながた論、三年千日の理、四十九年前よりの道考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ひながた、三年千日の理、諭し悟り考」教理を確認しておく。ひながた論についても案外と確定されていないと思わせていただく。

 2007.11.28日 れんだいこ拝


【ひながた論の構図考】
 ここで、「お道のひながた論」を確認しておく。案外と確定されていない。「みき」は、神懸かりの際に「神の社」となられて以来、「身体は人、心は神そのもの」になられた。これより以降、「みき」と「教祖」は同義となって合体し、「教祖みき」となる。その「教祖みき」の歩みを「ひながた」と云う。その足跡は、「世界一列万人助けのひながた50年」となっている。お道教義では、このような「教祖みき」の「ひながた」を目標(めどう)とするよう説き、「ひながた」通りに歩むことを格別に重視している。

 
ところが、「教祖ひながた」を実際に辿ろうとすると、常人のそれが及ぶべくもない壮絶なものとなっていることに気づかされる。教祖は、「貧に落ちきれ」から始まる一連の経過を、誤解と中傷と非難の嵐の中を正面から受止め、あらゆる迫害や弾圧にも屈せず、真正面から対決し、むしろ齢を重ねるごとにますます元気に活躍され、90歳で御姿を隠されるまで、世界助けに止むことのない「ひながた」を残されている。「最後のご苦労」となった際の官憲との尋問に於いても、「天皇も人間、我々百姓も同じ魂」と言いきられ、命を縮めても「つとめの理が神」のお立場を崩されていない。そのエネルギーたるや驚異的でまさに神がかりである。元の理の創造、その秘儀のつとめと手踊りの創造、70歳を過ぎてからのお筆先のご執筆、90才近い老齢の教祖を拘留するという世界に例のない苛酷な扱いを受けても示された不屈の意志とバイタリティー、それらをどのように形容しようとも筆が及ばない。

 「みき」は、それまでの教えを修理肥の信仰であるとして、真の救済の道筋を解明した。「だめの教え」と云われる所以である。その特質を見るのに、1・阿弥陀信仰、2・遁世主義の排斥、3・他力と自力の合力、4・ここはこの世の極楽という此岸信仰による反彼岸主義、5・真の救いはこの世の陽気づとめと、これによる陽気遊山暮らしなる思想、6・埃り論による心入れ替え、7・つとめによる日々の更生、8・お助け、9・世直し、世の立て替え思想等々を総合させ、最後に甘露台神楽信仰に結実させたところに教理の特質が認められる。

 ここには、この世と人間は、親神様のなみなみならぬ丹精によって創られ、長い年月にわたって、生成発展の守護を受けて成人してきた、かけがえのない大切な価値をもつものであることという教え、死後の恐怖話からの解放、たたり、憑き物信仰からの解放、主体的な人格者としての責任の重要性の強調、男女隔てなしの助け合いの理の称揚、陽気勇み思想等々みき教義には汲めども尽くせぬものがある。


 究極、人を動かすのは「抽象的真理」ではなく、その底に息づく信仰的真実である。「ひながたの親」では次のように解説されている。
 「教祖は、分かりやすい言葉、自らの行ないなどを通して、どんな境遇、状況の中にあっても、喜びを分かち合い、人を助けようというまごころを持ちさえすれば、その天理に通じる心の持ち方一つで陽気ぐらしができる、という手本(ひながた)を人々に伝えました。教祖が歩んだ50年の道は、世界の人々にとって尊いひながたであり、私たちの歩むべき手本となるものです」。

 
これをどう踏襲するのか、道人の各人の悟りに任されている。

 次のように説法されている。
 「通っただけが道です。通らぬ道は道とは言えないのです。信仰の道は聞いただけで分かるものではありません。見ただけで分かるものでもありません。聞いた、見た、そして行った。この行いがお道なのです。教祖のひながたを通らねば、ひながたはいらないのです。通るがためのひながたです。聞くもの、見るもののためのひながたではありません。聞いてなるほど、見てなるほど、これは他人の理です。行ってなるほど、これが自分のものです。信仰の道とは行動、実践、実行です。この実行に現れてこそ本当の道が分かるのです」。

【ひながた論の起点考】
 ところで、本部教理では、「ひながた」を制限的に解釈しようとして、「天保九年(1838年)に中山みきが神懸かりして以降の苦労の道中を云う」としている。この解釈は、二代真柱中山正善氏の「ひなが論」により定式化されたものである。二代真柱中山正善氏は、第16回教義講習会第一次講習抄録に於いて、その講義に当たって次のように明言した。 
 概要「天保9年10月26日を起点として教祖のひながたは始まる。それ以前はたすけ一条の道のひながたとは云えない」。

 二代真柱正善氏は、真柱という規範力の最高権威でもってこの観点を定着させた。これにより、天理教信者の目標として格別の意義を持つ「教祖ひながた」が「二代真柱中山正善氏のひながた論」によって仰ぎ見られることとなった。当時編成されつつあった教祖伝はこの方針を受け骨格を定めることとなった。

 復元を唱えた二代真柱にしてこの観点から抜け出せられなかった。これにより、翻っての神懸かり以前の「みき」は、そうした「魂の因縁」を持って世に出ることが予定されていた御方の御性状を偲ぶという脈絡での前半生として、叙述的に振り返られることしか意味をもたされないこととなった。稿本天理教教祖伝は、「教祖は年限至った暁の『じばの因縁』によりこの世に現れることとなった旨云々」と教祖を神秘的に奉る方向で教義形成し、この観点からの完結的な教祖像を描きだそうとしている。れんだいこは、これに異論を持つので持論を申し述べておく。

 上述のような本部教理「ひながた論」は、戦前に於いては近代的天皇制王権論の足下に組み込まれ、戦後に於いては戦後世界を基底的に支配するに至った国際金融資本系が信奉するユダヤ−キリスト教教義のメシア再臨論に親和させられていよう。そのどちらに於いても、そのようなものでは、「みき」自身の比類ない内的葛藤、信仰の精進と苦悶の昇華の過程を、生成発展的に理解できなくなる。これを生成発展的に理解する為には、「みき」の誕生から生没までの道すがら全体をひながたとする方が正解ではなかろうか。この場合、神懸かり以前を、「その心を見澄まして、神の社として貰い受けられる」こととなるまでの「見澄ましひながた」、神懸かり以降から25年余に及ぶ「たんのうの日々としての貧のどん底時代」の「伏せ込みひながた」、信者形成以降から生没されるまでの「教祖ひながた」として三区分して拝察すれば良いのではなかろうか。

 二代真柱中山正善氏のひながた論は、如何にも宗教論的な、神秘主義的宗教論としてはあり得る教理ではあろう。
確かに、「みき」自身の口から「元の理譚」を通して、年限至った暁の「ぢばの因縁」によりこの世に現れることとなった旨の教えが為されている訳であるから、信仰的には中山正善氏の云いは根拠あることとされねばならぬ。


 とはいえ、その云いによって捨てられようとする、ここへ至るまでの「みき」の信仰史との整合的理解がなお必要なことと思われる。というのも、天啓問答時の、「その心を見澄まして、神のやしろとして貰い受けられる」こととなったこととの因果関係を理解しようとする時、中山正善氏の云いによれば「その心を見澄ます理」が説明ができなくなるのではなかろうか、と思案するからである。「心を見澄まし」と「神と人との談じ合い」は、「元の理お諭し」にあって常に重要な地位を占めるお言葉であり、ひながたに貫かれる大事な精神ではなかろうか、と思わせて頂くが如何であろうか。


 この理論的識別をしないままの「本部教理ひながた論」であるが、その受け止め方に変遷がある。最も純粋系は教祖存命中のもので、「財物執着が最大の埃り論」に随い、教祖の辿った「貧に落ちきれ」に沿い、お道に財物を喜捨しおぢばに伏せこむという原始的共同生活から始めている。その後は、おぢばでの御用に勤しむ者、「単独布教」に出向く者、その土地土地で布教する者に分岐する。これを仮に「純粋系ひながた」と命名する。

 しかし、教祖没後のお道は、本席飯降伊蔵のお指図体制と真柱ら「応法の理」派の動きの鼎立時代となり、信者数が急速に増加して行った。この時代においては、この「純粋系ひながた」を実践していくことが困難な時代となる。世上でも、祈りの祝詞(のりと)の「悪しきを払うて助けたまえ天理王の命」を、「屋敷を払うて田売たまえ天貧乏の命」と揶揄する向きも生まれており、その揶揄が一定の根拠もあったことからこの「ひながた」を辿る道が途絶えることになった。その為、現在の「ひながた」とは、教祖の信仰上の理説きを聞き分ける「在家式学びのひながた」として穏和にされている。


 
御神楽歌、お筆先には次のように記されている。(略)

 教祖は次のようにお諭しなされている。(略)

 お指図には次のような御言葉がある。

 「さあ神といふことうそなら、四十九年前より今まで此道つゞきはせまい、今までにいふた事みえてある、これでしやんせよ」。(明治20・1.4日)
 「四十九年前よりの道の事、いかなる道もとほりたであらう、わかりたるであらう」。(明治20.1.10日)
 「四十九年以前より誠といふしあんがあらう、実といふ処があらう」。(明治20・1.13日)
 「学者がした道でなし。人間心でした道でなし。真実の神が天然自然の理で、五十年の間付けた道である」。(明治20.陰7月)。
 「難しい道は親が皆な通りたで。親の理思えば、通るに陽気遊びの理を思え」。(明治21.10.12日)
 「どんな者でも、ひながた通りの道を通りた事なら、皆なひながた同様の理に運ぶ」。(明治22.11.7)。
 「難しい事は云わん。難しい事をせいとも、紋形なき事をせいと云わん。皆な一つ一つのひながたの道がある。ひながたの道を通れんというようなことではどうもならん。ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。これをよう聞き分けて、何処から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや。(中略)なれど十年経ち、二十年経ち、口に言われん、筆に書き尽くせん道を通りて来た。なれど千年も二千年も通りたのやない。僅か五十年。五十年の間の道を、まあ五十年三十年通れと言えばいこまい。二十年も三十年も通れというのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。千日の道が難しのや。ひながたの道より道がないで」。(明治22.11.7日)。
 「十年後の道は、どんな事を説いても、いか程説いても、そんな事はない、何を云うやらと云うて居たのや。国々の者やない。そこからそこの者でも分からなんだ。なれど十年経ち、二十年経ち、口に云われん、筆に書き尽くせん道を通りて来た。なれど千年も二千年も通りたのやない。僅か五十年。五十年の間の道を、まぁ五十年三十年も通れと云えばいこまい。二十年も十年も通れと云うのやない。まぁ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと云うのや」(刻限お指図/明治22.11.7)。

 「さあさぁ一寸話仕掛けるで/\。まあ、あちらもこちらも取り混ぜ/\て、一つの理を諭そう。もうもぅ急がしい/\。日々が急がしい/\。何でも彼でも、一つ見れば一つの理がある。聞けば一つの理がある。二つの理の道理の理を、治めてくれねばならん。難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型なき事をせいと言わん。

 皆一つ/\のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。あちらへ廻り、日々の処、三十日と言えば、五十日向うの守護をして居る事を知らん。これ分からんような事ではどうもならん。ひながたの道通れんような事ではどうもならん。長い事を通れと言えば、出けんが一つの理。世界道というは、どんな道あるやら分からん」。(刻限お指図/明治22.11.7日)

 「難義不自由からやなけにゃ人の難義不自由はわからん」。(明治23.6.12日)

【「よふぼく三信条と三年千日の理」】
 「よふぼく三信条と三年千日の理」。「三信条」とは天理教信仰者の信仰箇条を云う。1967(昭和42)年、二代真柱が、よのもと会の再発足に当たり、教祖の道具衆としてはたらく「よふぼく」(ようぼく)の心構えを、「神一条の精神」、「ひのきしんの態度」、「一手一つの扶け合い」と定め、これをよのもと会の新しい信条とした。これに「三年千日の理」を加えて「よふぼく三信条と三年千日の理」と云う。

【「教祖の一家全員ひながた論」考】
 池田士郎氏は、教祖・中山みきだけではなく、教祖の夫・善兵衛や長男・秀司を含めて、教祖の一家全員を「ひながた」(信仰の模範)とみなす解釈を提出していると云う。本当だとすれば、呆れざるをえない。




(私論.私見)