第18部 1838年 41才 みき、「神の社」に貰われる
天保9年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「みき、神の社に貰われる」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【みきの神掛かり(三)みき、「神の社」に貰われる 】

 既に26日の朝を迎えていた。「みき」はと云えば、或る時には静かに座っておられるかと思えば、或る時には響き渡るような声で、厳かに元の神の思し召しを告げられ、手は激しく揺れ動き、垂れ紙は既に散々に破れてもいた。一同退って協議の間も、御幣を手にしたまま厳として端坐しておられ、些かもお弛み為さる気配がない。とはいえ考えてみれば、夜を日についだこの三日の間、「みき」は食事はおろか、一滴の水さえ召し上がっておらず、次第にその緊張と疲労が傍の見る眼にもその度を加えてきていた。善兵衛は、事ここに至って「みき」の一命を案じ始めた。但し、踏ん切りがつかず、あくまで神のお退きを願うか、「みき」の生命を失うかという岐路に立たされることとなった。

 何とかしてお昇り頂く手段はないものかと尚も相談を重ね、市兵衛にも諮ってみたが、事は既に市兵衛の力の及ぶ処ではなく、況んや皆の者にも名案はなかった。ここにきて、心配してくれる人々の気持は有難いが、もはやこれ以上「みき」を捨ててはおけぬと善兵衛の意が定まり、その旨申し出ると、当家の主がその気持ならこれ以上申し上げることはないと、不承不承同意する者もあり、もはや反対意見を述べる者もなかった。

 時に天保9年陰暦10.26日(陽暦12.12日)、朝五ツ刻(現在の午前8時)、みき41歳の時、善兵衛は、「みき」の御前に進みでて、「万事、仰せのままお引受け致します」(「仰せのままに「みき」を神の社に差し上げます」)と応えた。かくて、「みき」は「神の社」(やしろ)に貰われ、ここに、今日の天理教の起点が打ったてられることとなった。もとよりこの時点では、この度の延々と続いた談じ合いが後世これほどの意味を持つものであったことを知る人は誰もいない。

 夜九ツ刻(現在の午前零時子ノ刻)、親神様が「みき」の身の内に天降られて、これより明治20年陰暦正月26日午後2時頃にお身隠しに至るまでの50年間を、神一条にお過ごし下されることになった。これを「26日は夜に出て昼に治まりた理」と云う。

 善兵衛の承知の言葉を頂いた「みき」は、ここで初めて夢から醒めたかのように、それまでの激しい様子鎮まって、いとも満足気な様子で平素の「みき」に立ち返られることとなった。気がついてみれば、秀司の足痛も、「みき」や善兵衛の痛みも嘘のように癒えていた。


【みきの宗教的精神史足跡行程(11)、みき神の社となる】

【みきの宗教的精神史足跡行程(11)、みき神の社となる】

 こうして、「みき」は、「神の社」となった。「神の社」について、お筆先は次のように記している。

 いまなるの 月日のをもう 事なるわ
 口は人間 心月日や
十二号67
 しかときけ 口は月日が 皆な借りて
 心は月日 皆な貸している
十二号68

 本部教理では、この時より、「みき」に月日親神の心入り込んで、これより以降、「みき」は、それまでの農家の主婦、中山家の嫁妻を離れ「神の社」になられることとなった、としている。「みき」を貰い受けした神は後に「月日」と言い表されることになるので、「月日の社」に貰い受けされたと言い換えることもできる。教理では、これより世界助けの「だめの教え」が開教されて行くことになったとしている。

 但し、れんだいこ教理によれば、この後の軌跡を見ていけば分かるが、この時点で開教とは云えない。確認すべきは、「みき」が「元の神、実の神」に貰い受けされ「神の社」となったことは事実としても、その意味するところは在家のままの信仰一条(これを仮に「神一条」と記す)の生活に入ったということであって、開教は更に更に先のことである。踏まえるべきは、この時を境にみきの生活は一変し、「神の社」に貰い受けされた「みき」が、以降その身を隠すことになるまでの50年間の自らの身の道すがらを神一条とし、その「ひながた」を通して、又は口で「お諭し」を、筆でお筆先を通して教えを説き明かしたことであろう。これにより、今日天理教と称される信仰の教義体系が宣べ伝えられることとなったということである。「みき」は、今ここにその端初に立つこととなった。これを、「みき」の宗教的精神史の第11行程として確認しておこうと思う。

 後年、「みき」はお筆先の執筆に向かい、その冒頭で、自身の立場を次のように宣べることになる。それまでの中山家の一員としての立場から解き放たれた「みき」は後年、その思いを「三千世界の一列の救済」に向け、「よろずよ八首」を謡う。その中で次のように説き明かしている。

 「よろづ世の 世界一列 見はらせど 胸のわかりた ものはない(1首)。その筈や 説いて聞かした ことハない 知らぬが無理でハ ないわいな(2首)。このたびは 神が表へ 現われて 何か委細(一切)を 説ききかす(3首)。この所 大和の地場の 神がた(館)と 云うていれども 元知らぬ(4首)。この元を 詳しく聞いた ことならバ いかなものでも 恋しなる(5首)。聞きたくバ 訪ねくるなら 云うて聞かす よろづ委細(一切)の 元なるを(6首)。神が出て 何か委細(一切)を 説くならバ 世界一列 勇むなり(7首)。一列に 早く助けを 急ぐから 世界の心も 勇さめかけ(8首)」。

【みき神がかり異聞】
 「私の父、北田貞治が、よく言うて聞かしてくれましたが、天保九年の教祖さんにはじめて神がかりの時、心やすい間柄から祖父が中山さんへ行っていたそうです。教祖さんは、もう死んだみたいに息をひきとって御座って、皆な寄って葬式の準備をしかけていました。それに教祖さんは、ふと眼をひらかれて、『神が、よろづ救けの台にするのや』とおっしゃったそうです。側にいた人達は、皆な嘘みたいに思うてびっくりしたそうです。教祖さんの神がかり以前のことを、私の祖母お信(のぶ)が、よくいっておりました。昔、中山さんの綿畠が、今の上之郷詰所の所辺りにあって、教祖さんは、夕方迄綿摘みをしておられて、北田と畠が隣同士だもんで、よく話をしたそうです。祖母は、大変美しい優しい方じゃったと、いっておりました」(「天保九年の話」、「復元」第十六号「古老話」上村福太郎より。北田竹松翁の話。昭和二十三年十月五日の聞書き。※上之郷詰所の位置は聞書き当時の位置とする)。

【みきの「自律」足跡行程(7)、「みきの『神の社』貰い受け 】
 「みきの自律足跡行程(6)、矛盾の飽和点」に続く。
 してみれば、「みき貰い受け問答」は、先に見た如くの状況にあった「みき」が、主婦に治まるか、神一条に向かうかの絶対矛盾を廻る、神と夫善兵衛他との談判であった。つまり、「みき」が主婦の座を放棄し、解き放たれた自由な精神によって、今後自身を処世していくことが許されるのか、その是非を廻っての「三日三夜の神と人との談じ合い」であった。夫善兵衛が、「みき」を「神の社」として差しだした瞬間より、「みき」は今後一切の行動を、「みき」自身の判断によって対処しえる自由を得ることととなった。それは、「みき」にとって初めて夫との妥協の余地のない確執であったであろう。結果的に、「みき」は、「みき」の身を案じる善兵衛の優しさ、「みき」への信頼の絆によって、「みき」の神一条の思いが達せられることとなった。こうして、「みき」は自律の頂点を獲得することとなった。

 ところで、「みき」が「神懸かり天啓」という手段によって自律を得たことにつき着目を要すると思われる。即ち、「みき」は、祈祷による降神現象の力で「神懸かり天啓」を得ることによって、つまり神という絶対権威の力を借りることによってのみ善兵衛を説き伏せ、信仰専業の身へ達した得た訳で、これが「神懸かり天啓」の背景にある事情だったのではなかろうか。これを「みき」の自律足跡第7行程とする。

 付言すれば、このたびの自律が「神懸かり天啓」を通して達成されたということは、この後の「みき」の神一条生活の性格を特徴づけており、引き続き「神懸かり」することによってのみ、その思いを遂げ得る制限を担うことともなった、と云えるのではなかろうか。だがしかし、当時の時代の枠組みを考慮すれば、これが、「みき」をして神一条にさせる唯一可能な方法であったであろう。そして又、こたびの「神懸かり天啓」は、現世での救済を志向して止まない、「みき」の宗教的な精神の精進の足跡が、遂に時代の渦と邂逅したことによってもたらされたものであったものと拝察できるのではなかろうか。だがしかし、「みき」の衆生救済の方途は、思いもかけぬ道筋が待ち受けており、夫善兵衛との、家族制度としての戸主善兵衛との、果てしない抗争を通じてしか達成し得ない苦難の道程となった。その次第を順次見ていくことになる。

 ちなみに、金光教の立教は、「立教とは、教祖様が神様から農業をやめて専心結界取次をするように頼まれた時を云う」として、次のように解析されている。
 「天地の親神様は、実意丁寧神信心をされる教祖様を見出され、様々な難儀の差し向け、そして修行を通して信用を深められ、神を世に顕して難儀な氏子を取り次ぎ助けることを頼まれました。しかしそれは、世間一般の考えや制度、規則からすると、非常におかしなこと、また許され難いことでもあった。農家として前途洋々であった教祖様が、農業を止めて人のために神様を拝むことに専念するというのは、家族や親族にとって考えられないことでした。周囲の反対については、すでに見てきた通りです。また、一間農民が祈念することや、『日柄方位を見るに及ばず』と人々に説いたことから、明治時代には、記紀神話に出てくる神しか信仰対象にしてはいけない、また布教資格のない者は拝んではいけないという政策の中で、ご神前を撤去せざるを得ない状況もありまた。しかし、常に人間社会での常識や世間体よりも神様に心を向けての行動を優先されたのが、教祖様であられた」(金光教岡東教会「洗心」454号参照)。
 安政6年10.21日。
 「金子大名神、この幣切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、人が願い出、呼びに来、戻り。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来。農業する間もなし。来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業やめてくれんか。その方42歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたしろ、神仏願い、おかげで全快いたし。その時、死んだと思うて欲を放して、天地金の神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし。もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。

 このように実意丁寧信心いたしおる氏子が世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き 安政6年10.21日」。




(私論.私見)