第17部 | 1838年 | 41才 | みき、神がかり、天啓問答 |
天保9年 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.5.5日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「みき、神がかり、天啓問答」を確認しておく。いよいよ「みき」が神がかりの時を迎える。その様子の実際については杳として分からない。本部教学ではまさに教祖誕生の瞬間としてドラマティックに仕上げている。これに対し、八島教学では諄々と説き聞かせる「みき」と中山家との「談じ合い」であったとみなしているようである。この方面の資料が入り次第書き直していく予定であるが、ここでは、本部教学の稿本天理教教祖伝に従って観ていくことにする。 2012.01.30日 れんだいこ拝 |
【みきの神掛かり(1)、みき神ががり】 | |
かくて過ぎゆくうち、「みき」御年41才、天保9年10月23日、それまで小康を得ていた秀司の足痛が又々起こって、その痛み殊の外に激しく、如何したことかと心配していると、その夜の四ツ時(午後10時)亥の刻頃になって、「みき」まで激しい腰痛を覚え、同時に善兵衛も激しい眼痛を訴えるという風で、この度は一家を挙げて不思議な激痛に見舞われることとなった。
善兵衛の懸命の言葉に我にかえったのか、市兵衛も言葉を添えて何とかして神様にお上がり頂かんものと、法力の限りを尽くして「お昇り下さいませ」とお願い申し上げた。けれども、威儀厳然たる「みき」の態度はいささかも変わらぬばかりか、尚も威は辺りを圧して、「ならぬ、ならぬ」と、どうしてもお聞き届けくださる様子が見えず、いよいよ厳しく凛として神命の遂行を迫り続けた。 |
【みき神ががり異聞】 | ||
「天理教学の検証 天理王命を中山みきとしない埃の掃除」参照。 「復元」39号(天理教教義及史料集成部編)に、「教祖御履歴不燦然探知記載簿」という、初代真柱中山真之亮筆による資料が写真版で紹介されている。「ひとことはなし」(二代真柱・中山正善著)にその一部が紹介され次のように記されている。 https://blogs.yahoo.co.jp/kunitokoomotari2tu1tugatennori/28111633.html (復元39号17~18ページより)(復元39号18~20ページより)
「稿本教祖様御伝」には次のように記されている。
「これは前川の隠居から聞いた話である」との割注がある。「前川の隠居」とは教祖の弟の半兵衛(のち半三郎正安と改名)を指す。 |
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これによると、中山みきに神がかりした神は「大神宮なり」と名乗ったことになる。「天の将軍」と名乗ったとも註書きされているが、中山みきの精神象としては「天の将軍」は不似合いで「大神宮なり」の方がピタッと来る。実際の発言が「大神宮なり」であったとすれば、「天の将軍」と下手(へた)に書き換えすべきではなかろうということになる。 |
【みき神ががりの背景】 |
ここで暫く、「みき」の神懸りの背景としてあった、「みき」の精神状況を照射させて見ようと思う。 |
【みきの神掛かり(2)、天啓問答】 |
寄加持は自ずと停まり、ここに事態はあらたまった。降神に暫時の猶予を願った一同は、その場を下がり額を寄せて協議する一方、善兵衛は、この一家の浮沈に関する重大問題を前にして、自己の一存によっては決しかねるとして直ちに親戚縁者のこれと思う処へ使者を遣わした。 |
松永好松の「天理教々祖履歴」は次のように記している。これを確認する。
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(当時の国内社会事情) |
この頃の社会事情として、天保九年は相当な世情不安な年であったことが伺える。佐渡、三河、駿河、甲斐、越後等に百姓一揆が続出して、時の 為政者を狼狽させていた。 1838(天保9)年、3.10日、江戸城西の丸炎上。4.17日、江戸で大火。5.10日、五代目・松本幸四郎、没。6.24日、天保大判金を増鋳。7.13日、三代目・中村歌右衛門、没。10.21日、高野長英が戊辰夢物語脱稿。10.26日、中山みきが神懸りする。 |
(二宮尊徳の履歴) |
1838(天保9)年、52歳の時、川崎屋仕法開始。小田原領、下館領の復興を開始する。下館藩主みずからの手紙によるたのみとあって、金治郎は下館藩の仕法を始め、その後30年間続くことになる。これによって借金8875両を返すことができた。谷田部・茂木藩仕法中断。 |
(大原幽学の履歴) |
1838年(天保9)年、幽学は、道徳と経済の調和を基本とした性学(せいがく)の教説活動を始め、これによって人間精神を覚醒させ、現実の経済生活を確立させ、さらに研修施設や教導所を作って会合や講義を行った。具体的に農民や医師、商家の経営を実践指導した。弟子として入門する者が次第に増えていき、門人達は道友と呼ばれ、農民が協力しあって自活できるように各種の実践仕法で成果をあげていった。 9月、長部村に定住して3年後、この地に14ヶ条からなる誓約に基づく先祖株組合(せんぞかぶくみあい)を創設した。組合は、単なる経済更生運動ではなく、性学教説に基づく相互扶助の精神を尚武させた同志的道友組合であった。協同出資による先祖株として5両の地株代を出し合い、共同管理のもとに11人の道友で発足させた。のちに道友28人、地株3町歩、地株代249両となり、これにより再興された道友も9人を数えた。先祖株組合は近隣にも及び、いずれも強固な団結によって農村改革が行われた。その土地改革は農地の交換分合と耕地整理、土地の集団化と家屋の耕地への分散移転(隣保互助のため1組2戸あて)であり、さらに消費者組合をつくり、農機具・日用品の共同購入、共同作業、冠婚葬祭の改善、分相応の生活樹立の指導や正条植え、性学肥料、二毛作化の技術指導にまで及び、衣食住の生活文化についても率先指導した。画期的な協同の相互扶助組織、計画的農作業による合理的な農業生産方式をみてとることができる。この幽学の組合創設は世界史的に見てもイギリスの消費組合ロッチデール公正先駆者組合の1844年より6年早く、ドイツの信用組合ライフアイゼンのワイヤブッシ「パン組合」の1849年よりも24年早い。これよりすれば、幽学は世界最古の協同組合の創設者と云うことになる。 しかも、この運営にあたっては民主的な委員会制度をとりいれ、納得ずくで理想郷の実現に邁進した。集団討議を基本とし、具体的実践を媒介にして更に工夫を増す方式をとった。こうして認識と実践の弁証法的合一を目指した。 幽学は、先祖株組合の創設のほかに、農業技術の指導、耕地整理、質素倹約の奨励、博打の禁止、また子供の教育・しつけのために換え子制度の奨励など、農民生活のあらゆる面を指導した。「改心楼」という教導所も建設された。1858(安政5)年まで幕末の乱世に処し、救世済民の大道義を説き、近隣はもとより遠くは長野地方の信州上田から集まる門弟道友の数は3000に及んだといわれる。 大原幽学の教育論も注目される。子どもの才智の発達段階に応じての指導を重視し、さらに自然や社会環境のもつ教育的意味の重視し、その土地にあった養育を大切にしていた。子どもの教育は5歳から15歳までの間に他村の道友が互いに預かることまで企てていた。 |
(宗教界の動き) |
(当時の対外事情) |
1838(天保9)年、2.19日、幕府、諸国に巡見使を送る。2.30日、幕府が代官・羽倉外記に伊豆諸島の巡見を指示。この年、天保国絵図完成。 |
1838(天保9)年、中山みきが神がかり体験をしていたその年、渡辺崋山(1793-1841)はが「慎機論」で、前年のアメリカ船モリソン号を撃退した事件を批判している。モリソン号は、日本人漂流者を助けて連れてきたのに、むしろ幕府は、誤った判断で、大砲でそれを撃退したと、幕府の鎖国政策を批判した。1839年、渡辺崋山、高野長英ら尚歯会員は、密貿易の嫌疑で弾圧を受ける。渡辺は故郷に軟禁されるが、のちに自殺する。 |
(当時の海外事情) |
1838(天保9)年、汽船、初めて大西洋を渡る。ダゲール(フランス)写真術を発明。 |
(私論.私見)