第17部 1838年 41才 みき、神がかり、天啓問答
天保9年

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.5.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「みき、神がかり、天啓問答」を確認しておく。いよいよ「みき」が神がかりの時を迎える。その様子の実際については杳として分からない。本部教学ではまさに教祖誕生の瞬間としてドラマティックに仕上げている。これに対し、八島教学では諄々と説き聞かせる「みき」と中山家との「談じ合い」であったとみなしているようである。この方面の資料が入り次第書き直していく予定であるが、ここでは、本部教学の稿本天理教教祖伝に従って観ていくことにする。

 2012.01.30日 れんだいこ拝


【みきの神掛かり(1)、みき神ががり】

 かくて過ぎゆくうち、「みき」御年41才、天保9年10月23日、それまで小康を得ていた秀司の足痛が又々起こって、その痛み殊の外に激しく、如何したことかと心配していると、その夜の四ツ時(午後10時)亥の刻頃になって、「みき」まで激しい腰痛を覚え、同時に善兵衛も激しい眼痛を訴えるという風で、この度は一家を挙げて不思議な激痛に見舞われることとなった。

 この日は庄屋敷村の亥子祝い(無病息災、子孫繁栄のための祝儀)の夜で、昔から親類縁者を招いて御馳走する慣習があったことから、幸いなことに市兵衛は親族であった近くの乾源助方に招かれて来ていた。早速に人を遣わして市兵衛に相談をしたところ直ちに駆けつけて来て、一家の大黒柱の三人が打ち揃って苦しむ様子を見、これは余程深い神の祟りであろうから、すぐにでも寄加持するより外なかろう、とはいえ準備もあるので明朝から寄加持にかかる旨云々と言い残して、その夜は引き上げた。こうして俄かなことではあったが大急ぎで寄加持の準備万端を整えて、翌朝夜明けを待った。ところが、愈々寄加持を行う段になって、何時も加持台に使う勾田村のソヨを呼びに行かせていた使者が一人で帰ってきた。使者云うことに、ソヨは二、三日前から所用で留守にしており暫く帰りそうにないとのことであった。今さらどうなるものでもなく市兵衛が思案を廻らした結果、急遽「みき」に加持台を依頼することにした。「みき」にとって思いがけないことで、「修法も知らず、世間にまみれて体も心も汚れている身で役を勤まるわけがない」旨述べて辞退したところ、市兵衛曰く、「誰でもなれるわけではないが、奥様のように慈悲の心厚き方なら大丈夫勤まります」と念を押され、「加持台といっても御幣を持って心を澄まして頂いて居れば良いですから」とせきたてられた。火急の場合でもあり致し方なく、こうして「みき」は白い装束を着けて、両手に自ら幣を持って加持台に立つこととなった。

 かくして、「みき」を加持台にして市兵衛が丹精込めて加持に取りかかったところ、やがて祈祷が進むほどに驚くべきことが起こった。「みき」の様子が一変して厳然として神々しい面ざしとなるや、突然御幣を持った両手が前後左右に揺れ初め、「垂れの紙がパアッと逆立って」上に高く上がったかと思うと体がピョンと跳ねるかのように腰立つ等ただならぬ様子となった。いわゆる降神現象であった。こうなると加持どころではなくなった。これより、降神した「みき」との「三日三夜の問答」が続けられていくことになる。

 市兵衛は、さては神様の乗り移り給いしことと畏怖し、恭しく「どちらの神様が御下がりでございましょうか」と伺えば、「みき」は一声厳として、「我は天の将軍なり」と言い放たれた。聞き慣れない神様の名に、恐る恐る「天の星様でございますか」とお尋ね申せば、「元の神、実の神である」と返事がなされた。凛としたその言葉に打たれて重ねて尋ねる気迫もなくためらっていると、続いて、「この屋敷に因縁あり、みきの心見澄まして、世界一列を助ける為に天降った。この屋敷、みきを『神の社』に親子諸共貰い受けたい。返答せよ」との仰せが為された。厳然たる態度とリンとして響き渡る声に圧せられて、市兵衛、善兵衛始めその座に並び居る面々に寂として声なく、顔も上げえず、その場に平伏するばかりであった。

 「天の将軍」、「元の神、実の神」、「屋敷の因縁」、「神の社」、どの言葉も初めて承る言葉ばかりである。座に列なる者はもとより市兵衛にも何のことか判らない。市兵衛はこれまで数知れず降神の場を見てきていたが、この度は唯事ではない感じがひしひしと迫ってくる。善兵衛とて同じで、自らの妻が俄かに厳然とした面持になり、今まで聞いたこともない厳しい口調で「みき貰い受け」に対する返答を迫ってくることに、唯恐れ入るばかりであった。どれだけの時間が経ったのかはわからない程に重々しい緊迫した時が流れた。

 その凝固した時間を、善兵衛は、みきの口から突いてでた先程の言葉を懸命に反芻していた。「我は天の将軍なり」とは、絶対権限者が降臨したという意味であろう。「元の神、実の神である」とは、降臨された「天の将軍」は世上で聞く神様、仏様よりなお深い、究極の始原的原理による神であるという意味であろう。「この屋敷に因縁あり」とは、深い意味は分からぬがこの屋敷が只事ではないということであろう。「みきの心見澄まして、世界一列を助け為に天降った」とは、なるほど我が妻は常日頃人一倍優しく、慈悲深く、困窮の者には誰彼の隔てなく情けを施す等、まるで神様のようなお方やと評判されることもある程であり、そうした「みき」の優しき心がこの度余程神様にお気に入られることとなったと云うことであろう。「世界一列を助け為に天降った」とは、凡そ今の世の中の混濁と不安を見れば、神様が救済に現れ給うたと云うことであろう。何となく分かる。あり難きことと思われる。

 但し、「この屋敷親子諸共、『神の社』に貰い受けたい」とはどういう意味であろう。私共を「神の社」として貰い受けたいとは、今後「みき」が神様の御用一途に貰われるということであろうか。そうすれば、中山家の者は一体どうなるのだろう。子供も成長盛りで、時に秀司は18才、おまさは14才、おはるは8才、こかんは未だ2才の手のかかる折である。中山家は「みき」なくして一日たりとも暮らしていけない。してみれば、「みき」を「神の社」に差し出す余裕なぞとてもない。これはどうあってもお断り申し上げねばならんと意を固くし、善兵衛は、思案の末恐る恐る顔を上げて、必死の力で真情を訴えた。

 「折角の仰せでは御座いますが、子供は未だ手のかかる折であり、村の役なども勤めて忙しい家で御座います。みきは、そうした世帯盛りの身でありますから、到底差し上げることはできません。外様には立派なる家も沢山御座りますにより、どうかそうしたところへお越し下されとう御座ります」。

 善兵衛の懸命の言葉に我にかえったのか、市兵衛も言葉を添えて何とかして神様にお上がり頂かんものと、法力の限りを尽くして「お昇り下さいませ」とお願い申し上げた。けれども、威儀厳然たる「みき」の態度はいささかも変わらぬばかりか、尚も威は辺りを圧して、「ならぬ、ならぬ」と、どうしてもお聞き届けくださる様子が見えず、いよいよ厳しく凛として神命の遂行を迫り続けた。

 ここにきて、市兵衛は自らの法力の及ばぬことと悟り、驚きと困惑と恐怖に顔色も青ざめ震えを帯びて、これまで幾度も降神あったけれども、かくの如き神様がお下りなされたことはかってなく、既に私の力を持ってしては如何ともし難いと、途方に暮れた様を告白した。近郷近在にまでその名の通った市兵衛の法力をも上回る不思議な霊の降臨であったことになる。いよいよ善兵衛はこの家の戸主として如何に神命に応えるか、すべては自らの決断にかかってくることとなった。こうして、「神の社」として「みき」の貰い受けを迫る降神と、種々の事情によってお断り申し上げようとする善兵衛他との間に、文字通り火花をほとばせるような、まさに神と人間との真剣勝負の問答が続けられることとなった。


【みき神ががり異聞】
 「天理教学の検証 天理王命を中山みきとしない埃の掃除」参照。

 「復元」39号(天理教教義及史料集成部編)に、「教祖御履歴不燦然探知記載簿」という、初代真柱中山真之亮筆による資料が写真版で紹介されている。「ひとことはなし」(二代真柱・中山正善著)にその一部が紹介され次のように記されている。
https://blogs.yahoo.co.jp/kunitokoomotari2tu1tugatennori/28111633.html
(復元39号17~18ページより)(復元39号18~20ページより)
 「教祖四十才拾月二十六日ノ寄加持ニ始メテ幣ヲ持チ玉エバ、天ノ將軍ト曰フテ神降リ、足痛ノ指圖相成ル神降リ玉エバ 教祖様夢中トナリ玉ヒテ、換リテ神ガ下ル」。
 http://blog.livedoor.jp/rokkouoroshini/archives/1040881940.html
 「稿本教祖様御伝」には次のように記されている。
 「台ニ向ッテ『何方(どなた)ノ御下(おくだ)リナルヤ』ヲ問ヒシニ、『大神宮ナリ』ト御答エアリ。市兵衛曰ク『これまで幾度モ降神アルモ、如斯(かのごとき)神ノ御下リハ嘗(かっ)テナシ』ト大イニ怪訝(けげん)ノ想(おもい)ヲナセリト。且ツ仰セラルルニハ、『此屋敷親子諸共貰ヒ受ケタシ』(この屋敷、親子もろとも、もらい受けたし)ト仰(おお)セラレキ。尚(なお)仰セラルニハ、『聞キ入レクレタ事ナラバ三千世界ヲ助クベシ。若(も)シ不承知ナラバ、この家粉モナヒ様ニスル(粉も無いようにする)』ト」(復元第33号27頁)。

 「これは前川の隠居から聞いた話である」との割注がある。「前川の隠居」とは教祖の弟の半兵衛(のち半三郎正安と改名)を指す。
(私論.私見)
 これによると、中山みきに神がかりした神は「大神宮なり」と名乗ったことになる。「天の将軍」と名乗ったとも註書きされているが、中山みきの精神象としては「天の将軍」は不似合いで「大神宮なり」の方がピタッと来る。実際の発言が「大神宮なり」であったとすれば、「天の将軍」と下手(へた)に書き換えすべきではなかろうということになる。

【みき神ががりの背景】

 ここで暫く、「みき」の神懸りの背景としてあった、「みき」の精神状況を照射させて見ようと思う。
 既に見て来たように、この時点での「みき」は、神通力を味得しつつ一身を神仏の思惑に捧げる神一条決意を基に、世の中に対する関心をこれ以上育む為には主婦の座の務めを断ち切らざるを得ない絶対矛盾のお立場に立たされていた。言い替えれば、「天保の大飢饉」と呼ばれる農村の疲弊と幕末の騒然とした世情の只中で、世情救済に向けて培われてきた「みき」の思いを通していくには、その思いを昂じさせる程に、「主婦の鑑」としての働きがもはや檻、桎梏でしかない対立の関係となった。それは両立しうる術のない二俣の道であった。みきの御性情の赴くところは、一中山家の安穏に安住することを決定的に放棄してでも、今後は世事一切を放擲してでも神一条の生活を欲求しようとしていた。しかし、神一条の生活は、当時の封建家父長的な家族制度の枠の中では叶えられる術もなく、その意味で恐らく悶々と鬱屈する日々を経ていた。こうして、「みき」は当時の日本的な家族制度の軛の前で逡巡を余儀なくされていた。この絶対矛盾が、このたびの降神現象を通して俄かに表出することになった、と拝察させていただく。逆に云えば、この降神現象を通じてしか「みき」の神一条生活が叶えられる方法はなかったということでもあろう。


【みきの神掛かり(2)、天啓問答】

 寄加持は自ずと停まり、ここに事態はあらたまった。降神に暫時の猶予を願った一同は、その場を下がり額を寄せて協議する一方、善兵衛は、この一家の浮沈に関する重大問題を前にして、自己の一存によっては決しかねるとして直ちに親戚縁者のこれと思う処へ使者を遣わした。

 こうして、急使を受けた親戚の縁者が次々と駆けつけて来ることとなった。この時参集した人々の顔ぶれについての記録が残されていないが、恐らく前川家の一同父半七正信(74才)、母きぬ(66才)、兄杏助(46才)、弟半三郎(24才)、それに「みき」と終生の御交情厚かった妹のくわ(36才)及びその夫西田伝蔵(51才)も駆けつけたことであったであろう。それに中山家の親類衆逹が加わり、又、中山家は庄屋等も勤めた家柄であることから、日頃特に親しくしていた庄屋敷村の足達源右衛門、別所村の庄屋荻村伊兵衛、福住村の無足人勝田新右衛門等の村役仲間といった連中も座に列なったと思われる。こうして面々の顔ぶれの揃ったところで、善兵衛は、今朝以来の経過を話して如何したものかと判断を仰いだ。

 相談の結果、左様な仰せは受け入れ難いと衆議一決することとなり、善兵衛は、今度は親戚知己の支援を得た勢いで、再び「みき」の前に出て、一同の意見を申し上げお断り申し上げた。ところが、「みき」の態度は益々激しくなり、「誰が来ても神は退かぬ。今は種々と心配するは無理でないけれど、 二十年三十年経ったなれば、皆なの者成るほどと思う日が来る程に」と、厳しい声色でのお言葉であった。

 しかし、こうした先々の幸せを約束されたにせよ、現実的な問題と我が身のことしか考えられぬのが世間の普通であろう。「二十年三十年も人間の我々は待てません」、「只今より即刻お帰り下され」、「他様へ御移り願います」と、座に列なる者より口々に申し上げると、「みき」は一層厳しい声で「神の思惑通りするのや、神の言うこと承知せよ」と仰せになるや、動作がひとしお激しくなり、お持ちになっていた幣の紙は振り上がり、激しく揺れて散々に破れ、幣を持った手の甲の下側は畳に擦りつけ為されて、「流血淋漓(りんり)」にほとばしり流れるのをさえ弁えなく夢中になられた。(初代真柱手記が「お持ちなされたる幣は振り上げて紙は散々に破れ、身は畳に御擦りつけなされて遂に御手より流血の淋リたる」状態であったと記している)

 その激しさに、参集した親戚知己の皆々その場に平伏して打ち震えたという。当時、8才と14才になっていたおはるとおまさは後年になって、お母さまが如何されたのかとの案じ心と、その容姿の唯成らぬ様に怖くて、二人して頭から布団を被り、震えながら抱き合っていたと云う。こうして最後の頼みの綱であった親戚知己の練りあいも、何らの効もなく事態は益々重大化するばかりであった。善兵衛はここに至っていよいよ窮することとなり、次から次へと思案は廻るも一向に曙光は見えず悩みを深めることとなった。これほどまで「みき」が神様に強く望まれているとあれば、とうてい断れ切れまいことは次第に判ってきたものの、妻は今が世帯盛りで乳飲子さえ抱えている身である。加えて「みき」は今や中山家の芯の働き手であった。神様の社に「みき」が貰い受けされると中山家は一体どうなることやら、又しても思いがここに至ると、受け入れがたく、大きな苦悩が善兵衛の心を圧してくることとなった。息づまるような沈黙と苦悶の時刻がいたずらに過ぎていった。

 今一度、せっかく集まってくれた一同の者と図った上、最後の腹を決めよう。善兵衛は、こうして再び一同を集めて座を取り持つこととなった。こうして、緊迫した雰囲気の中で真剣な「練りあい」が再び始まった。善兵衛は、先程お断り申し上げた後の「みき」の激しい様子から考えて、お受けする以外にないかと思われるが、さて、そうすれば今後中山家はどうなることやらおぼつかず、困っている等々と悩みを打ち明けた。前川家の面々としては、「みき」の実家の側として、これまでは如何程の良き評判を得ていたにせよ、この度はいわばその嫁の不始末として発言しうる術もなく、胸中案じるばかりであったであろう。「そんな弱いことでどうするのだ」、「どうあってもお断りすべきだ」、「残された子供をどうする」、「村の役を勤める家の者が、世帯人をとられてどうするのだ」、「即刻退いてもらおう」、「お断りするのが分別じゃ」と、口々に発言される意見は何れも反対意見であり、語気も次第に荒くなってくる。

 いくら相談を重ねても、降神の思し召しに従う方が良い、と云う者はいない。善兵衛としても、降神の思し召しの激しさに一抹の不安は残るが、さりとて、家庭の現状を考えれば、どうしてもお受けしようという気にはなれない。結局、再度お断りしよう、それでお聞き届け頂けるなら、こんな有難いことはない、と一縷の望みを持って、遂に今一度お断り申し上げることとした。再び、善兵衛は、一同と共に前に進みでて、「この家は子供も多くございますし、又村の役など勤めて用事の多い家ですから、なんとしても差し上げることはできません。お上がり下さいませ」と言葉を尽くして懇願した。一同の者も口々に言葉を添えてお断り申し上げた。すると、威儀厳然たる「みき」の態度がひとしお改まったかと見るうちに、「元の神の思惑通りにするのや、神の云うこと承知せよ。聞き入れた事ならば、三千世界を助くべし、もし不承知ならば、この家粉もないようにする」と、無我の境にひたすら元の神の思し召しを伝えられた。その凛たるお言葉や眼差しの神々しき神威に打たれてか、一同思わずその場に平伏して顔を上げる者はいない。

 あれほど激しい反対意見を述べたものも、今は一言も発することができなかった。その静寂が大きな圧力として人々の心を圧してくる。どうして良いのか判らず、遂にはその場にいたたまれなくなった。もう一度この場を下がって相談してはと、漸く心に浮かんできたのは唯そのことだけであった。なんとかこの緊迫した空気を離れてホッと一息したいという気持にさえなってくるのが、一同の正直な気持であった。又も、善兵衛は、今一度皆と協議さして頂きたい旨を申し上げて、一同その場を引き下がることとなった。一同新たに座を設けて発するのは唯々困惑の溜息ばかりであった。善兵衛は、思案のつきるところ、「みき」のあの様子では神様はお引受けするまでは絶対にお許ししないであろうと観念して静かに沈黙を破り、「お引受けしない限り神様は絶対に退きますまい」と申すと、「左様な弱いことでどうする。今が大事な時ですぞ」と忽ち一座は騒然として口々に申し立てる。


 松永好松の「天理教々祖履歴」は次のように記している。これを確認する。
 「明治36年より67年前、天保9年戊戌年10月26日、教祖41才の御時、月日の神が天下り給いて、26日夜の12時子(ね)の刻に、はじめて天井にて荒々しき音聞こえ候。教祖夫婦とも何事なるかと考えられ候えども何の音とも悟りつかず折柄、教祖の身体(からだ)へ『くにとこたちのみことなりり』と尊名を告げられ、次に替わりて『をもたりのみことなり』と告げられ、続いて、あと六柱の神合わせて八社の神様共同音にて尊名を告げられ、後に『ぎ』『み』の神二神は音なくして�御名だけ知らされ、この十神を総称して天理王命ということを世界に現す、ということを告げてお引きたまい(になり)、これより夫婦とも眼をさまして不思議を感じられ(ました)。

 又三日後、(10月)28日夜12時頃に、くにさづちのみこと天下り�て、夫婦お休み遊ばし候ところへ自由(じゅうよう)現したまいしことは、その夫婦の中に小寒子を抱きてお休み給うに、小寒子いつの間にか蒲団の外に出でて、夫婦の身体一つに寄せられて、何ほど分かれよと思い動けども離別することあたわず。これを夫婦ともまことに不思議に思い(給う)。この時仰せらるるに、『くにさづちのみことというは自神(われ)なり。世界に夫婦、親子、兄弟、万事繋ぐこと一切に自神の守護、自神の守護中は人間始め万物離別すること能わず』と云うて、『神の自由自在の働き語らすために目にもの見せる』と仰せられ、『これで神の自由ということ合点できたなら後より代りてくる』と、除き給い、次に代りて、たいしょく天のみこと下り給いて、『自神は世界に於いて夫婦はじめ万事の縁切る守護なり』と仰せられ、『前の神はつなぐ神、自神は離してみせる』とて、夫婦の身体二つに分けられ、夫上蒲団のままに分かれ、婦は下蒲団と共に分かれ、両方共へ引き分けられ、この時元の通りに蒲団を直すとすれども、離れたままで元の通り集まること能わず。このたいしょく天の神様仰せらるるに『切ることは自神の自由』と仰せられ、世界の万事切ることはこの通りであると、目にもの見せられて除き給えば、常の如く、我が身体に初めて覚えたということ。教祖80歳の年、小生に自らお語りにてお聞かしくだされましたことありました」。

 (当時の国内社会事情)

 この頃の社会事情として、天保九年は相当な世情不安な年であったことが伺える。佐渡、三河、駿河、甲斐、越後等に百姓一揆が続出して、時の 為政者を狼狽させていた。

 1838(天保9)年、3.10日、江戸城西の丸炎上。4.17日、江戸で大火。5.10日、五代目・松本幸四郎、没。6.24日、天保大判金を増鋳。7.13日、三代目・中村歌右衛門、没。10.21日、高野長英が戊辰夢物語脱稿。10.26日、中山みきが神懸りする。

 この年、緒方洪庵が大坂に適々斎塾を開く。渡辺崋山(1793‐1841)が慎機論を著す。尚歯会弾圧事件が起こる(蛮社の獄)。

 (二宮尊徳の履歴)
 1838(天保9)年、52歳の時、川崎屋仕法開始。小田原領、下館領の復興を開始する。下館藩主みずからの手紙によるたのみとあって、金治郎は下館藩の仕法を始め、その後30年間続くことになる。これによって借金8875両を返すことができた。谷田部・茂木藩仕法中断。
 (大原幽学の履歴)
 1838年(天保9)年、幽学は、道徳と経済の調和を基本とした性学(せいがく)の教説活動を始め、これによって人間精神を覚醒させ、現実の経済生活を確立させ、さらに研修施設や教導所を作って会合や講義を行った。具体的に農民や医師、商家の経営を実践指導した。弟子として入門する者が次第に増えていき、門人達は道友と呼ばれ、農民が協力しあって自活できるように各種の実践仕法で成果をあげていった。

 9月、長部村に定住して3年後、この地に14ヶ条からなる誓約に基づく先祖株組合(せんぞかぶくみあい)を創設した。組合は、単なる経済更生運動ではなく、性学教説に基づく相互扶助の精神を尚武させた同志的道友組合であった。協同出資による先祖株として5両の地株代を出し合い、共同管理のもとに11人の道友で発足させた。のちに道友28人、地株3町歩、地株代249両となり、これにより再興された道友も9人を数えた。先祖株組合は近隣にも及び、いずれも強固な団結によって農村改革が行われた。その土地改革は農地の交換分合と耕地整理、土地の集団化と家屋の耕地への分散移転(隣保互助のため1組2戸あて)であり、さらに消費者組合をつくり、農機具・日用品の共同購入、共同作業、冠婚葬祭の改善、分相応の生活樹立の指導や正条植え、性学肥料、二毛作化の技術指導にまで及び、衣食住の生活文化についても率先指導した。画期的な協同の相互扶助組織、計画的農作業による合理的な農業生産方式をみてとることができる。この幽学の組合創設は世界史的に見てもイギリスの消費組合ロッチデール公正先駆者組合の1844年より6年早く、ドイツの信用組合ライフアイゼンのワイヤブッシ「パン組合」の1849年よりも24年早い。これよりすれば、幽学は世界最古の協同組合の創設者と云うことになる。

 しかも、この運営にあたっては民主的な委員会制度をとりいれ、納得ずくで理想郷の実現に邁進した。集団討議を基本とし、具体的実践を媒介にして更に工夫を増す方式をとった。こうして認識と実践の弁証法的合一を目指した。

 幽学は、先祖株組合の創設のほかに、農業技術の指導、耕地整理、質素倹約の奨励、博打の禁止、また子供の教育・しつけのために換え子制度の奨励など、農民生活のあらゆる面を指導した。「改心楼」という教導所も建設された。1858(安政5)年まで幕末の乱世に処し、救世済民の大道義を説き、近隣はもとより遠くは長野地方の信州上田から集まる門弟道友の数は3000に及んだといわれる。

 大原幽学の教育論も注目される。子どもの才智の発達段階に応じての指導を重視し、さらに自然や社会環境のもつ教育的意味の重視し、その土地にあった養育を大切にしていた。子どもの教育は5歳から15歳までの間に他村の道友が互いに預かることまで企てていた。

 (宗教界の動き)
 

 (当時の対外事情)
 1838(天保9)年、2.19日、幕府、諸国に巡見使を送る。2.30日、幕府が代官・羽倉外記に伊豆諸島の巡見を指示。この年、天保国絵図完成。
 1838(天保9)年、中山みきが神がかり体験をしていたその年、渡辺崋山(1793-1841)はが「慎機論」で、前年のアメリカ船モリソン号を撃退した事件を批判している。モリソン号は、日本人漂流者を助けて連れてきたのに、むしろ幕府は、誤った判断で、大砲でそれを撃退したと、幕府の鎖国政策を批判した。1839年、渡辺崋山、高野長英ら尚歯会員は、密貿易の嫌疑で弾圧を受ける。渡辺は故郷に軟禁されるが、のちに自殺する。

 (当時の海外事情)
 1838(天保9)年、汽船、初めて大西洋を渡る。ダゲール(フランス)写真術を発明。





(私論.私見)