第16部 | 1837年~ | 40才~ | 秀司の足痛と加持祈祷 |
天保8年~ |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「秀司の足痛と加持祈祷」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【秀司の足痛】 | |
かくて過ぎゆく時、1837(天保8)年を迎え、いよいよ「みき」が神懸かりを迎えることとなる。この経過は、本稿のクライマックスでもあるので子細に追って見ようと思う。 この年は前年の凶作等の影響からか百姓一揆が多く、関東、東北地方では餓死者続出との悲惨な様や、あちこちでの一村全滅の様子が伝えられ、大坂では大塩平八郎の乱が起こる等、のどかな大和路にも不穏な空気が漲っていた。 こうした折柄の1837(天保8)年、10.26日、当年17才になる秀司が麦蒔きをしている最中に突如左足に激痛を感じ、駒ざらえという農具を杖に辛うじて我が家へ辿り着くことになった。早速、村の医師乾源助を呼び寄せて診察を乞うこととなった。しかし、容態は判明せず、はっ荷薬などを用いて手当ての限りを尽くしてみたが、一向に効き目なく痛みは増すばかりであった。父善兵衛は、我が子の苦しみもさることながら大事な跡取り息子のことゆえ、その心痛一方ならず、長滝村に使者を出して、先に述べた修験者中野市兵衛に祈祷を乞うこととなった。 その経過は次のように推移する。この当日は市兵衛は仁興村に行って不在であった。仕方なく使者は空しく帰ってきた。そこで翌28日、再度使者を遣わした。幸い在宅していた市兵衛は、事の由を聞いた上、早速、求めに応じて祈祷をしてくれた。そして申すには、その足の痛みは、石上大明神が洗場の石の上に居給いし折、秀司があやまってその上を踏んだ故の祟りであろうとのお告げであった。為にそのお詫びをすればなおるであろうとて、百燈明を献じてお詫びをしてくれた。使者は、帰宅早々その状況を告げ、容態と照合してみると、丁度祈祷をして貰った時刻から秀司の痛みが止まっていた。しかし、翌29日になると又元のように痛みだした。善兵衛は我が子の苦しむ様を見兼ねて再度使者を遣わし祈祷を請うた。使者の報告によると、この時は天満宮が降ったという。この時も不思議に祈祷をして貰った時刻から痛みが止まっていた。しかし翌日になると又元の様に痛んでくる。二度の好験に信を深めたことにより又も使者を遣わして祈祷を請うた。こうして三度に亘る祈祷の効か秀司の足痛は小康を得て一時治まったように見えた。 なお、伝承によれば、秀司の足が激しく痛み出した際に、「(みきが)その足に息を吹きかけ紙を貼って置かれたところ、十日程で平癒した」とも云われている。これは「みき」の霊能力を示唆している点で興味深い逸話である。これを確認しておく。「復元」に掲載された初代真柱さまの手記「稿本天理教教祖伝逸話編3、内蔵」が次のように記している。
「これは立教直後に相当する、陰暦十月二十七日 (1838.12.13) から十二月末 (1839.02.03) までの間のふしぎな出来事でした」とある。(「松谷 武一 (H15.05.22)/元の理と世界たすけ」参照) |
【加持祈祷】 |
ところが、20日程経って又元のごとく痛みだし、その苦痛は以前にも増して激しく施す術もなかった。困りきった善兵衛は今度は自ら二里の山路を越えて市兵衛を訪れ、種々容態を話して如何にすれば良かろうかと折入って相談した。この時、市兵衛の申すには、そういう事ならば、いっそのこと護摩寄加持をすれば宜しかろうということになった。大変な心痛事であった故、市兵衛の勧めのままに寄加持をして貰うことになった。 寄加持とは、今までのように市兵衛宅に於いて行者一人に行ってもらう祈祷ではなく、わざわざ中山家に出向いて貰って、加持台を置いて、衆目の中で煩悩罪障を焼きつくすという護摩を焚くもので、いわゆる真言秘密の法として、広く俗間にその効験を信ぜられていた加持と祈祷の合修である。但し、これを修するに当っては、付近の人々の参集を求めて座に列なってもらった後で御馳走振舞をする等、頗る大掛かりなものであった。これに要する財政的な負担は相当なものであり容易には行えるものではなかった。それをしも敢えて依頼することに決した点からしても、中山家としての心痛の程が察せられる。 こうして寄加持が始まった。加持台に雇われたものは、田村の九兵衛なる人の娘ソヨと言う者で、これに銭二百を遣わし、幣二本を持たしめて台とし、近所の誰彼にも集まって貰い盛大に執り行った。この大掛かりな加持祈祷の効験か、秀司の足痛は治まることとなった。ところが、それから6カ月程経て後、即ち天保9年5月20日前後と思われる頃、秀司の足痛は又々激しく起こった。そこで早速以前と同じように寄加持をして貰った。すると時は小康を得たが、暫くすれば又しても元の如くに痛みが激しくなってくる。 寄加持をして貰えば一時は治まるという具合で、ほかに手立てもないままに、都合一年間に9回執り行ったと伝えられている。つまり天保9年の5月以降は殆ど毎月の如く寄加持を依頼していることになる。一度の寄加持に要する費用は銀4百目であったと伝えられている。当時、金貨、銀貨、銭貨、各藩発行の藩札が流通していて、金一両は銀60目、銭4貫だったので凡そ六、七両を費やしていたことになる。その上参集する人々には一々酒飯を振る舞まった上、功徳の為にとて家格に応じて施米等も行うことになっていたから、手間も含めれば相当な出費だったと思われる。それをも大事な伜を助けたいとの親心から少しもその費えを厭わなかった。にも関らず、市兵衛の祈祷も僅かに小康を見せてくれるだけで、暫くすれば以前にも増して苦痛が襲ってくるという状態であった。かくして秀司の足痛は全治せぬままに丸一カ年の歳月が流れていった。 |
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通説は以上のような経過から寄加持が為されたと伝えられているが、私は、寄加持が「付近の人々の参集を求めて座に列なってもらった後で御馳走振舞をする等、頗る大掛かりなものであった」ことに注目する。この「天保の大飢饉」時代における、「みき」の施しの一種として寄加持が為された面もあるのではなかろうかと拝察したい。 |
【五女こかん誕生】 |
1837(天保8)年、12.15日、そんな風にごたごたしていた天保8年の暮れ、五女こかんが出生している。 |
【みきの「自律」足跡行程(6)、矛盾の飽和点】 |
ここで、みきの神懸りの背景としてあった、「みき」の精神状況を照射しておく。ここに至るまでの「みき」をもう一度辿って見ておく。とはいえ、この頃の「みき」の具体的な記録、言い伝えを是非に知りたいところであるが不詳である。 ここに至るまでにおいて、「みき」は、見てきた通り「主婦の鑑」として、親に孝、夫に貞、家事に勤、子育て等の責任を十全にこなしながらの日々であった。「婦唱夫随とでも云える夫婦の私的な関係の仕方において順調に掌中の自律的自由を発展させてきていた。但し、「みき」の思いは他方で、自らの結構な立場あるいは中山家の隆盛していく利益を離れてまで、時代のうねりの真っ只中に自らを置いてみようとする衝動を昂じさせて行き、悲惨な当時の世情救済をおもんばかるという御性行をますます発展させつつあった。 神懸リ直前当時の「みき」は、黒疱瘡子であった照之丞を救命する道中で昧得した神通力を証すかの如く、その後も精進を続け、天保の頃には転輪王の現世救済の教えに影響を受けながら、自らを神一条の生活へ導こうとする思いを醸成しつつあった。神一条の生活とは、具体的には主婦の立場を放棄し、信仰一途に余生を費やそうとする暮らし方を意味していた。この頃の「みき」は、転輪王信仰を極める為に、世事雑多の繁忙から離れて、思案を凝らすための「専任の時」を必要としていた。当時の主婦に課せられていた重労働は今日想像するよりはるかに険しく、主婦業の傍らでの信仰研鑚はたかが知れていた。こうして、主婦専業の身を身を放棄してまでの神一条の信仰専業生活に憧れていた。 但しそれは到底叶わぬことであった。いくらもの分かりの良い温厚な資質の善兵衛であったとしても、「みき」の家業の合間における自律的自由の領域辺りまでは認めていたものの、それを家業よりも優先させる程には望まなかったであろう。これに抗しようとすれば戸長の権限が威力として立ちはだかる。即ち当時の家族制度の枠組からして許さざるところであった。こうして、「みき」の神一条生活なぞ許されるべくもなかった。今や「みき」の行く手には、家庭の主婦として納まり続けるか、これを放棄してまで転倫王の思し召しの下での神一条に身を委ねるかの、両立しうる術のない二俣の道しかなかった。「みき」りの心の中で、衆生救済の思いと主婦の狭間を行き来しつつあった。神懸りの前の「みき」の精神状況は、この二つの動きを廻っての内的葛藤がほぼ飽和点に達していた。「みき」は家業と子育てに忙しい主婦の身のまま、衆生救済の思いを亢進させつつも、進むも退くもままならぬまま悶々と鬱屈する日々を経ることとなった。社会事情と家庭事情の立て合いの中、「身も心も揺れ動くような状態」が続いていた、と伝えられている。 |
(当時の国内社会事情) |
1837(天保8)年、2.19日、大塩平八郎の乱。元大阪町奉行所与力の大塩平八郎が乱を起こす。3.27日、大塩平八郎自害する(享年45歳)。 |
3.27日、老中・水野忠邦を勝手掛に任命。 |
4.2日、11代将軍・徳川家斉、隠居(1786-1837)。 |
6.1日、国学者生田万の乱。生田万が越後柏崎の代官所(陣屋)を襲撃するも敗死する(享年37歳)。 |
9.2日、徳川家慶が第12代将軍に就任する。11代将軍家斉の在位は1786-1837年となる。 |
この年、長州藩の村田清風が財政改革に乗り出す。 |
(二宮尊徳の履歴) |
1837(天保8)年、51歳の時、藩主忠真の命により小田原藩領の貧民を救済。小田原藩藩主の大久保忠真没(享年57歳)。下館地方が大飢饉に襲われる。桜町仕法が一応終了する。烏山藩仕法開始する。下館藩主は桜町陣屋に使いをだし、金治郎に仕法を頼むが、金治郎はすでに茂木、烏山、茨城県青木村、谷田部村及び小田原藩の仕法を進めていたのでことわる。 |
(宗教界の動き) |
1837(天保8)年、大本教教祖出口ナオ(1837-1918)が出生する。 |
(当時の対外事情) |
1837(天保8)年、6.28日、モリソン号事件。アメリカ船モリソン号が浦賀港に侵入。浦賀奉行が砲撃する。 |
7.10日、モリソン号が薩摩山川沖に出没。薩摩藩家老・島津久風が退去させる。 |
渡辺崋山(1793-1841)が「慎機論」を著し、アメリカ船モリソン号撃退事件を批判している。同書で、概要「モリソン号は、日本人漂流者を助けて連れてきたのに、むしろ幕府は、誤った判断で、大砲でそれを撃退した」として幕府の鎖国政策を批判した。 |
(当時の海外事情) |
1837年、イギリスのビクトリア女王が即位する。 |
(私論.私見)