第13部 もう一つの幕末維新としての教派神道の発祥、経世済民の動き

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.1.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「もう一つの幕末維新としての教派神道の発祥、経世済民の動き」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【「民衆宗教」(教派神道)の発祥】

 この頃の「みき」に影響を与えたベクトルその3として、「民衆宗教の誕生」を確認しておく。この頃、時代の空気を反映して既に各地に世直しの先駆けともいえる「明神様信仰」や新宗教が生み出されていた。「みき」は、天保の大飢饉と呼ばれるこの時代に、飢餓、貧困からの救済を己に課せられた宗教的命題として直視したが、既に同じような感性を持って文化年間に黒住宗忠(1780~1850)が黒住教を、井上正鐡(まさかね、1790~1849)が吐菩加美(とほかみ)神道を、梅辻飛騨守規清(うめつじひだのかみのりきよ、1798~1861)が烏伝(うでん)神道を、安政年間には川手文治郎(1814~1883)が金光教を立教するというように、後に「教派神道」と呼ばれる新興宗教を次々と生み出しつつあった。黒住教の場合には、1814(文化11)年、両親を相次いで失った悲しみから労咳に罹っていた宗忠が、日拝する中で太陽(伊勢信仰に於ける天照大神)と同魂同体となる体験をし、そのことで病気が全快したことが開教に繋がっている。金光教の場合には、1855(安政2)年、金神の祟りと捉えられた42歳の大患を癒された赤沢文治が、以後新たに意味づけられた金神(金乃神)への信心を深めていったことが開教の機縁となっている。天理教の場合には、長男秀司の足痛を祈祷する寄加持の際にみき自身が巫女になり執り行うさ中に天の将軍が降臨したことが開教の機縁になっている。

 いずれも現実の政治的経済的諸変革に先立って、まず精神界において「世直し」を求める気運が漲り、こうした気運に呼応して、新たに宗教的現世救済の方途が探られつつあったものとみなすことができよう。
ちなみに、1835(天保6)年の時点で、黒住教の黒住宗忠は56才、吐菩加美神道(明治になってその一派が「禊教」になる)の井上正鐡が46才、天理教の中山みきは38才、烏伝神道の梅辻規清も38才、金光教の金光大神は22才だった。


 
この時点で、既に黒住と井上が神と出会って宗教活動を開始していた。彼らは、いずれも同時代人として徳川三百年の終末に絡む世の中の変動を膚で感じ取ったか、この時代の民衆の感情を宗教的に具現せんとしていた。金光教も立教寸前の頃であった。みきも又同時代を生きる身として、このうねりの真っ只中に自らを置いて、「衆生救済」を為したい衝動に駆られつつあった。転輪王の現世救済の教えに影響を受けながら、自らを「神一条」の生活へ導こうとする思いを醸成しつつあった、と拝察させて頂く。

 彼らが共通して向かったのが日本神道であった。いわゆる新価値観が胎動しつつあったことになるが、その背景として、ハレー彗星接近に象徴される天変地異の露出した時代でもあった点も注目されている。

 
さほど注目されていないが、これらの民衆宗教(教派神道)は縄文神道的古神道的な特徴を持っている。これは、当時隆盛を見ていた山伏修験道による加治祈祷的救済にも飽き足らず、更にその奥の法力を求めて分け入ろうとしていたことを示しているのではあるまいか。少なくともそういう気分が醸成されていたということであろう。つまり、この時代、既成の宗教が信を失い山伏修験道が隆盛する、その山伏修験道を乗り越える神道的新興宗教が一気に開花しつつあったことになる。新しい神仏観に基づく新鮮な宗教、現世利益の教えが待望されつつあったということでもあろう。こうした当時の時代状況に合わせた宗教的大衆救済の新方途が時代のテーマとして浮上しつつあり、全国各地であたかも競うが如くに民間新宗教が勃興しつつあった。このような時代の流れが「みき」に与えた影響について触れれられることはないが、無視できないものがあったものと拝察される。天保の大飢饉と呼ばれるこの時代に、飢餓、貧困からの脱却を己に課せられた宗教的命題として、みきも又直視していたことは疑いないであろう。

 2008.4.15ヒ再編集 れんだいこ拝


【「教派神道の発祥」考】

 ここで、この当時の各宗派の動きを概括しておくこととする。

 
幕末から維新期にかけて民衆宗教とでも呼べる各宗派が相次いで生まれた。それは黒住教から始まった。それらは日本産ではあるものの世界宗教的レベルの教義を確立していたことが注目される。その中にあって、天理教が人類創世記神話教理を確立し、その教義でもって世界最大最高とされているユダヤ教-キリスト教世界の創世記と対置し得るものを獲得していた。私が天理教に注目する所以のところである。

 幕末とは、価値観が変わり行こうとして揺れ動く時代であった。社会規範が急速に衰えていき、人々の心は不安にさいなまれていた。社会学で言う「アキュート.アノミー(無規範状態)」が発生していたと思われる。こういう時に、民衆宗教が生まれた。衆生救済、世直し、全人類救済が込められていた。この運動の意義を如何に認めるのか認めないのか、ここで識者が見解を異にする。

 れんだいこは、最大限称揚する側に位置しており、幕末民衆宗教の動きに殊のほか注目している。これはれっきとした「下からの回天運動」であり、その意味で「もう一つの幕末維新」であったのではないか、と考えている。「上からの回天運動」は世上に知られすぎているが、「下からの回天運動」が顧慮されることが少ない。これは歴史家の怠慢であり西洋事大主義の影響である。そのように考えている。この観点に与する朋輩ありやなしや。幕末民衆宗教の意義、豊潤な可能性と限界、それが近代天皇制に馴化されていった過程を検証することは「もう一つの近代史」になるはずだ。しかし、この方面の研究が見るも哀れに萎えている。これを思えば、歴史家なぞ厚顔無恥の輩ではないか、とさえ思えてくる。そういう訳で、覚束ないながらもれんだいこがこれに挑戦してみようと思う。

 2003.8.10日 れんだいこ拝


【みきの宗教的精神史足跡行程(10)、神一条生活への憧憬】
 後に教派神道と呼ばれる新宗教の発生は、当時の「みき」をも感化させたのではなかったか。ここまで見てきたように、みきは山伏修験道にまで接近し、神通力を味得しつつあった。この時点で、みきは、あちこちの新宗教誕生の影響を受けみき自身も神一条の生活への誘惑を抑え切れなくなりつつあったのではないかと拝する。これを「みき」の宗教的精神史代10行程とする。


【霊地・霊山信仰】
 「大峰修験信仰その他当時の民間宗教の隆盛」、「日本神道の歴史1、発生史及び教理について」に記す。

【如来教】
 まず教派神道に先立つ民間宗教として如来教について注目しておきたい。既に寛政時代において生まれていた如来教は一尊如来きの(1756~1826年)が創始したものである。同女は江戸時代中期の1756(宝暦6)年、2.2日、尾張国愛知郡旗屋の里(現、名古屋市熱田区旗屋町)の農民長四郎の第二子として生まれ、兄と弟がいた。長四郎は周囲の信望を集めていた農民で、珍しいほど信仰心が厚く、禰宜、社家、修験(山伏)とも交流を為し、日頃「長四郎」様と呼ばれて周囲から尊敬されていた。生家は古い家柄で、念仏が宗旨であったが、先祖には神職がいたとも云う。同女は8才で相次いで父母と死別し、近在の叔父のもとで育てられた。兄弟の消息は不明で、幼少から孤児同然の身の上であったようである。叔父の家は貧しく、13歳の頃の1768(明和5)年より奉公に出向くこととなった。1778(安永7)年頃、23才で嫁いだ。この結婚は夫の身持ちの悪さからうまくいかなかったようで、子もできぬまま離縁し、再び奉公の身となった。1795(寛政7)年、40才の頃、奉公先の当主が亡くなったのを機に旗屋の郷里に戻った。こうして同女は細々とした農民生活に入った。この頃は天明の大飢饉から寛政の改革の治世の頃である。

 1802(亨和2)年、8.11日、47才の時、同女は突然神懸かりに陥った。天地を創造し主宰する神「如来」が、金比羅大権現を使者として地上に遣わし、自分の体に金比羅大権現が天降ったとする「如来」の教えを説き始めた。神懸かり前のきのの様子についてはほとんど伝えられていないが、既に自宅に神を祀り、祈祷を頼みに人が訪れるようになっていたらしい。きのの神懸かりの事情については不明な点が多い。19世紀初頭に、神懸かりして如来教を開教したきのは、こののち四半世紀にわたって、如来の慈悲による、あらゆる人間の来世での救済を説き続けることとなった。

 きのが、自宅を「御本元」として、ひたすら如来に仕える生活に入ると、病気直しをはじめ様々な現世利益をもとめて、「御本元」に足を運ぶ人々がにわかに増えた。信者が集まると、束帯を身につけたきのは、金比羅の言葉を、時には秋葉大権現、入海大明神、熊野大権現等の神々や日蓮、親鸞ら祖師の言葉を、神懸かりして延々と説くようになった。きのの説教は、開教翌翌年の1804(文化元)年頃から次第に形式が定まったらしく、没年の1826(文政9)年に至る22年余の間、毎月、時には月に数回もの説教が行われた。説教は、「御本元」のほかに、有力信者の舎やどり(居宅)でも行われた。1812(文化9)年頃からは「一尊」とよばれるようになり、翌1813(文化10)年閏11月には、神命として「りゅうぜん」と改名した。「一尊」の名は、その教えが唯一至高のものとされたことからきている。きのの晩年には、信者の間では、如来ときのを一体とみる傾向が強まり、教祖を「一尊如来」、「りゅうぜん如来」と尊称するようになった。

 きのの教えは、後々までキツネつき、タヌキつき、飯綱いづな使いの類として、その教えを嘲笑し、悪罵する者が絶えなかった。一方で、時とともに、その教えに心服し、きのを生き神として仰ぐ信者が、尾張一円はもとより、かなり遠方からも次々に現われるようになった。信者の多くは、地元の農民、職人、商人で、それぞれ講をつくっていたが、尾張藩士の中にも熱心な信者ができて士(さむらい)講中が生まれた。きのの説教は次第に遠国にも伝わり、尾張に加えて美濃、伊勢、三河、信州馬籠、武蔵国上尾、江戸等の各地で講がつくられた。教義の展開と体系化には、法華信者の覚善院日行(1749~1826)が常に側近にあって貢献した。この間、教勢の発展とともに、1820(文政3)年4月、きのは尾張藩から呼び出されて取調べを受けた。この事件の前後、文政初年には、金木市之正は、きのの宗教が尾張藩から公認されるように、神道家元の吉田家、白川家へ願い出る計画を進めていた。きのの説教が多数の聴聞者を集めるようになると、信者の間から堂宇の建立や土地の寄進の申し出がなされたが、きのは、教団を形成したり、本格的な堂宇を建立する意志はなかったようである。きのは、信者から、はじめ「慈尊」と尊称されていた。慈尊は中国では弥勒をさすが、きのの場合は、如来の慈悲を体現している人の意味であろう。1826(文政9)年、5.2日、きのは、隠居所で波瀾にみちた70年の生涯を閉じた。

 その教義は次のようであった。きのが説いた教義は、末法観に立つ他力の来世主義であり、徹底した原罪説を特徴としている。最高神として如来を崇め、その如来は天にある全知全能の慈悲(愛)の神であり、世界を創造し、全てを神業として支配している。如来に次ぐ神は釈迦であり、日天子(太陽神)であり、これまで法華経を始めとする教えを説いてきた神とされる。次に上行菩薩は、月天子(月神)であり、法華経を広めた日蓮を神格化した神である。この両神は日月であり、如来の両目にたとえられている。金比羅は、仏法の守護神として大功のあった神で、天子の神々の中でも、ひときわ位が高い。如来はあまりに卓絶した神である為、自ら地上へ降ることはないが、末法の人間を救うために、特に金比羅を使者として地上に遣わし、きのの体にかからせたとする。さらに、天照皇太神(伊勢の神)、八幡、春日、熊野、熱田、秋葉、貴船、入海、一の宮、二の宮、金神、荒神等の神々をはじめ、聖徳太子、各宗の祖師等が登場する。きのの説教の中心命題は、如来による来世での人間の救済である。きのによれば、これまで釈迦によって説かれてきた教えは、全真理の六分に過ぎず、残りの四分が説かれていなかったが、末法の世になり、このたび、金比羅がきのに天降って、はじめて四分の教えが解き明かされ、あらゆる人間が救済されると云う。

 更に、独自の創造神話があり、それによると、その始めの世界は泥の海で、神が人間を75人だけ創造したが、これらの人間は、神仏とともに天に上り、その後へ伊勢神宮の屋守(留守居)である魔道がきて、元になる人間5人を創造し、女性の胎から人間が産まれるようになったと云う。これは、地上に住むあらゆる人間は、例外なく悪の種であるとする原罪説である。愛の神である如来は、末法の世の救われない人間を憐れに思って、後世(来世)での救済を願い続けており、ひたすら如来にすがる者は、如来の救いにあずかって、来世は天に上り、如来の膝元である「能所」よいところに行くことができるという。人間は罪を負って生まれている為、現世での苦難は避けられないが、死後に地獄に堕ちる苦しみに比べれば、現世の苦はわずかであり、来世での救済が定まっていれば、既に現世において救われていることになる。きのは、魔道が支配するこの世を、如来がつくっておいた仏道修業の場であるとし、「心悩」をとり如来の懷に抱かれる為の修業「座禅」を教えた。人間は、すべて如来の子として平等であり、他人をそしらず、他人を愛しいたわって、如来の心を心を心として「善心」を保ち、如来にすがり、如来に感謝することによつて、現世で利益を受け、来世では救われて幸せになるというのである。

 次のようにも解説されている。
 「如来教の一尊如来きのによって語られた救済史神話では、如来による人間創造の後、人間は天上へ上がってしまう。そして伊勢大神宮(その家来)と魔道との交渉の結果、改めて悪を本性として持った人間の創造が行われる。その後釈迦、金毘羅、上行菩薩らが救済活動を行い、諸宗派の祖師という形をとったりもするのだが、それは充分なものではなく、きのの登場によって初めて究極の教えが開示される」。

 きのが息を引き取る間際の言葉は次の通り。
 「ああじゅつない(ああ苦しい)。ころい(し)ておくれの(いっそのこと殺して欲しい)。どうせるでやよ(どうすればいいというのか)。---みんなの苦しみをおれ一人して引き請けるのでや。さうでやさうでや。---我が身一分(いちぶん)なら(自分一人なら)、こんな苦しみはないが、みんなの苦をおれ一人で苦しむのでや。そうでやそうでや。---娘(人のこと)が多ふござりますで、罪が多ふござります。こちらにも居ります居ります。お越し下されましょ(以下繰り返し)数知れず」(御金言)

 小滝透「おやさま」は次のように記している。
 「壮絶な代受苦である。代受苦とは、悩める本人になり代わりその苦悩を引き受けることを指して言うが、きのはまさにその代受苦を一身に引き受ける生き神だったのである」。

【吐菩加美(とほかみ)神道】
 吐菩加美神道は次の通りである。創始者井上正鉦(まさかね)は、1790(寛政2)年の江戸の生まれだが、その出自は上州である。即ち上州館林藩の勘定役安藤真鐡(まかね)の二男として江戸藩邸で生まれている。真鐡は、死に臨み、体得した法を我が子正鉦に次のように遺言した。
 「もしこの志を失うならば我が子ではない。例え高位高官に上って、錦を着るとも不幸の罪は大である。もし我が子教えに従い、世を安んずる道を通るならば、身は路傍に死するとも我が子である」。

 正鉦は、父の絶大な感化を受け、求道者の世界へ足を踏み入れていく。神儒仏の奥義を求めて19才の時から諸国を遍歴し、実に30年の長きにわたり、様々な思想家や宗教家を訪ねていった。1833(天保4)年、厄明けの44才春の時、神夢を感視して神道に目覚め、禊教を開教した。あくる1834(天保5)年、神祇伯白川王家に入門し、1840(天保11)年、51才の時、武蔵国足立郡梅田村の梅田神明宮の祠官になっている。長年の求道に培われた井上の教えは深く、下は一介の民衆から上は城主に至るまで、帰依する者が続出していった。3年後の1843(天保14)年、54歳の時、井上は、幕府から「新義異説」の嫌疑を受けて三宅島に遠島の島流しされた。島流しの折、日蓮崎を過ぎる折詠んだ歌が「古もかかるためしのあるなれば、天照します神のまにまに」。1849(嘉永2)年、2月、60才で神上がることとなった。

 わずか3年間とはいえ、吐菩加美神道の布教の拠点となった梅田は、その地理的な位置を北関東から江戸への入口にあたっていた。いうなれば、彼はその出自も、宗教上の拠点も、東北.関東の飢餓地帯と重なっていたのである。なお、井上と一緒に逮捕投獄され、56才で獄死した同い年の高弟三浦隼人は、越前柏崎の出身だが、生田万が乱を起こした天保8年に井上に入門している。

 彼が創唱した吐菩加美神道とは、皇家神道である伯家神道を大衆化させたものであった。その教義の究極には祭祀の中心に天皇を置くという「皇の道」があったが、その一方で彼の行間には「世直し」の願望が躍動していたのである。その三種祓詞「とほかみ、えみため」の神呪は、神前で大きな声で一音一音唱えていく行法は、庶民の世直しの願望を駆り立てるものであった。こうして、井上はその時代の民衆の要請を、おのれの宗教的課題として受け入れることとなった。例えば、井上は、たび重なる飢饉の中で同時代の人々が餓死し、生まれたばかりの子供たちが間引きされていく現状をみて、それを何とかして救いたいとの気持ちから、「我れ一飯を残して人の飢えを救わん」との発願をしている。彼は又このことを人々にも呼び掛け、実際におのれの「一飯」を飢えた人々に献じたのである。この系譜が後年禊教に向かうことになる。

【黒住教】

 きのの如来教に四半世紀遅れて生まれたのが黒住教である。その概要は次の通りである。
 創始者黒住宗忠(1780~1850)は、1780(安永9)年、11.26日、備前国御野郡上中野村(現、岡山市上中野)に黒住宗繁の三男として生まれた。生家は神職で、代々隣村の今村にある今村宮の禰宜を勤め徒士格であった。父母とも温厚な人柄であったと伝えられている。宗忠は、幼少より孝心が厚く、青年期を迎えて一層深まり、ただ親のいいつけに従うことのみにとどまらず、天下に名を揚げて人から仰がれるような人間になることがより大きな孝行である、と思うようになった。この頃までの宗忠は「中野の孝子」として数々のエピソードが伝えられている。

 1803(亨和3)年、最初の伊勢参宮を行つている。この後も1824(文政7)年、1831(天保2年)、1833(天保4)年、1835(天保6)年、1845年(弘化2)年と、生涯で6回の伊勢参宮をしている。

 1804(文化元)年、25才の時、黒住家の跡継ぎとなる。1812(文化9)年、この地方で流行した痢疾で相次いで両親を亡くし、その衝撃から自らも労咳にかかり、1814(文化11)年正月、危篤状態に陥った。同月19日、今生の別れに日拝を行い、その際真の孝行は自分自身を苦しめることである筈はなく、陽気になる為に心を養うことこそ孝行の真の道であると翻然と悟り、これを境に病状は快方に向かい、3.19日、宗忠は入浴して二度目の日拝をすると、さしもの大病も一時に全快したと云う。

 1814(文化11)年、11.11日の冬至の日の出に、宗忠は一陽来復の太陽を三度拝したところ、自己の全生命と太陽(天照大神)とが合一するという神秘体験を得て、神人不二の妙理を悟ったという。この時のことは、日の光が宗忠に迫り来て、照り付け全身に染み渡った。遂に彼の身体に飛び込み、日の玉は暖かい陽気をもって丸ごと治まった。その瞬間、宗忠の全感覚は得もいえぬ快感に襲われ、「何という歓喜、何という喜び!笛を吹き糸をしらべ金をたたき鼓を鳴らして歌い舞うとも及びがたい」(宗忠大明神御伝記)と記されている。黒住教では、生き神としての自己の使命を自覚したこの体験を「天命直授」と呼び、同日をもって立教の日としている。宗忠は、「天てらす神の御心人心 一つになれば生き通しなり」(歌集4)と歌っている。御神詠に「天照らす神の御徳は天つちに みちてかけなき恵みなるかな」とある。

 こうして大患を克服し、「天命直授」した宗忠は、その日を境に不思議な霊力が備わっていることに気がついていく。「天照らす神の御徳を世の人に 残らず早く知らせ度タキもの」(歌集9)、「天地の中に照り行く御宝を今ぞ取得し心楽しき」(歌集13) との使命感と歓びに燃え、「月は入日の今いつる曙に 我こそ道の始め成けれ」(歌集134) という大きな自負をもって教えを説き始める身となった。こうして布教活動が展開された。腹痛で苦しむ同家の婢ミキに陽気を吹きかけてその病気を治す等自らの霊力に自信を深めて、周囲の家族、知人等に天照大神の道を説き、祈念禁厭でひろく教えを伝えていくこととなった。信者の自宅を使用して「会日」と呼ばれる集いを開き、説教と神霊治療を施していった。その治療は手を通じてのものであったが、時には息を吹きかけ、さらには遠隔治療さえ試みている。

 この頃の宗忠の歌には次のようなものがある。

天照す神の御はらに住む人は 寝ても覚めても面白きかな 歌集10
あら嬉し かかる嬉しき浮世ぞと知らで今まで過ぎし惜しさよ 歌集28
有り難きまた面白きとみきを供うぞ誠成けれ 歌集35
迷いほど世に面白きことぞなし 迷いなければ楽しみもなし 歌集124
病のことは少しも苦になるものに御座無く、何事も天にお任せなされ候わば、万事楽しみの外は御座無く、一切教えは天よりおこるなり。その教えを受けて日々楽しみ暮らすこそ信心なり 書簡14
我もその如く、病気の治るをいろはとして、某所より自然と誠の道に入るなり。さすれば却って病気なる所が有り難き根元なり。 至誠講義 第2扁
今日参りがけ、お日の入りを拝み奉りしに、まことに有難うて有難うてなりませなんだ。あまり有難うて何も浮みませんので、今夕はこれでお断り申します。ああ有り難い、有り難い。ああ有り難し、有り難し。 講話

 1824(文政7)年、45才の時、今村宮の禰宜職となった。二度目の伊勢参宮を行つている。1824(文政7)年の参宮は「文政のおかげまいり」の前後の時期に当たっており、民衆の信仰の爆発的な高揚を実見して、強い感銘を受けたものと思われる。

 開教11年後の文政8年から11年(1825~1828)に至る千日参籠の時期に、「家内心得の事5ケ条」から「家内心得の事7ケ条」にまとめられ、黒住教の実践教説の根本とされるとともに、信者の規範となった。その文面は次の通りで、「このような事があってはならない」戒めで書かれている。

神国の人に生まれ、常に信心無き事
腹を立て、物を苦にする事
己が慢心にて人を見下す事
人の悪を見て己に悪心を増す事
無病の時家業怠りの事
誠の道に入りながら心に誠無き事
日々有り難き事を取り外す事

 宗忠の教えの教線は、近隣の地主層から岡山藩士の間へと伸びていった。布教の発展と共に、岡山藩を始め、既成の宗教勢力からの圧迫も次第に強まった。宗忠は、周囲の圧迫妨害が激化したのを機に、従来の修業の在り方を反省し、1825(文政8)年から千日参籠、五社参り等の激しい修業を重ねた。宗忠の晩年、弘化.嘉永年間(1844~54)には門人も急増し、その教線は備前から備中、美作に及び、信者はめざましく増加して、武士層から地主、自作農、商工民へと拡大した。1841(天保12)年、宗忠は隠居し、跡目を宗信に譲った。この頃から岡山藩士、地主、自作農民、有力商工民へと教線の広がりをみることとなった。

 1846(弘化3)年、1月26日、仁孝(じんこう)天皇崩御。孝明天皇が皇位を継承する。「3月18日、備前岡山玉井宮に於いて、惑乱せむとする天下の人心を鎮定し、天照る大御神の御神慮を安(やすん)じ奉(たてまつ)らむとの御講釈あり」。4月、門弟行司の名で、教団規則とも云える「御定書」がつくられた。

 1847(弘化4)年には、門人時尾克太郎等によって「門人名所記」がつくられた。こうして、弘化年間(1844~47)に教団組織が確立した。1850(嘉永3)年2月25日の日の出とともに70年の生涯を閉じた。辞世の句は、「目を開けて空仰ぎ見よ見よ天照る神の道は一筋(伝歌集61) 。宗忠が没した後は、武士と農民の有力門人たちが教団を主導した。7名の高弟が、御神裁(おみくじ)によって選ばれた地に向かって布教の旅に出た。

 中でも、宗忠に眼疾を治されて入信した赤木忠春(1816~65)は、京都へ赴き、教義を広めた。1852(嘉永5)年、関白の九條尚忠邸に招かれ、令嬢にして孝明天皇の后のあさ子姫に「祈り、説き、取次ぎ」を施す。これが機縁となり、孝明天皇の御前講演の栄誉に浴する。この時、「玉鉾の道の御国あらわれて日月と並ぶ宗忠の神」の御製を賜る。この年、睦仁(むつひと)親王が誕生。1853(嘉永6)年、ペリー艦隊来航。1856(安政3)年、3月8日、赤木らの運動が実を結び、宗忠に対して朝廷から大明神号が受けられた。朝廷が仏教の高僧に贈るのが大師、国師、禅師。神道の高能者に贈るのが大明神、明神、霊社、霊神で、大明神は最高位のものである。1862(文久2)年、京都の神楽岡に、吉田神道の本拠吉田神社に隣接して宗忠神社が創造建築された。この年の3月2日、三条実美公が「神文書」を差し出している。「神文の事。かたじけなくも天地同体の一心動かすべからず。よって謹んで神文奉るものなの。奉 宗忠大明神」。1863(文久3)年、8月18日、八・一八政変で、三条公ら若き公卿七名が京都を追われ長州に向かっている。これを「七卿落」と云う。1864(元治元)年、7月19日、蛤御門の禁門の変。1865(慶応元)年、4月16日、赤木忠春没す。4月18日、孝明天皇が宗忠神社に勅願所の旨を仰せ出される。1866(慶応2)年、宗忠神社が勅願所となった。12月25日(新暦1月30日)、孝明天皇崩御。

 黒住教の教義は、天照大神を万物の根源とし、人間はその分心であり、神人不二とする。その神観は、天照大神を宇宙の最高神としており、神道が歴史的に背負っている民族的宗教的性格を脱して、普遍的価値を掲げる世界宗教を志向している。人間は、万物の親神である天照大神の神慮に沿い、全てを神配慮に任せることによって、家内、一門、国家の平安繁栄が得られるとした。その為には毎日を陽気に暮らすことが肝要であり、「活死イキシニも福トミも貧苦も心なり ここを智シるこそ誠こと成ナルらん」(歌集71)、「何事も望み無ければ世の中に 足らぬことこそなかりけるかな」 (文集83) と宗忠が詠んでいるように、現実の一切の矛盾や苦悩は、心の持ち方を変えることで克服し解消できるとした。「離我任天」(「誠を取り外すな、活物を捕らえよ、我を離れよ、天に任せよ、陽気になれよ」)が肝要とされた。祈念禁厭による病気治し等の現世利益を、もっぱら天照大神の神徳によるものとし、「人の人たる道」として、まこと、勤勉、無我、正直等の徳目を説いた。こうした既成秩序を重んじる徳目は心学にも通じており、通俗平易な処世訓を伝えることとなった。

 宗忠は、明るい純な心で、天照大神をはじめ八百万神に一家、一門、一国の平安和楽を求めれば、その加護と利益が得られるとし、封建秩序に抵触しないように慎重に配慮しながら布教活動をすすめた。その言動においても、既成秩序の枠から外れそうな傾向が問題化すると、天照大神の道の開運のみを願っているに過ぎないと表明して、圧迫を招かないように配慮することを怠らなかった。封建支配秩序の枠内で、従来の封建宗教の多くが形骸化して民衆に寄生し、沈滞と無気力に陥って退廃を深めていったなかにあって、黒住教は、天照大神を最高神的な卓ぜつ絶した救済神とし、その宗教的権威による民衆救済と現世利益を強調する習合神道系の独自の教義を形成した。特に、全ての人間を天照大神の分心とみる人間観は、人間の平等と尊厳を宗教的に基礎付けたものであり、封建秩序を肯定する限界内での、ぎりぎりの民衆的性格を内包していたといえよう。 黒住教では、信者の居宅を会場に、しばしば会席(明治維新後は講席)を開き、神拝、説教、祈念禁厭を行ったが、会席では四民平等で、先着順に身分にかかわりなく着席し、武士は玄関で刀をはずした。

(私論.私見)

 黒住教の教義は、記紀神話によって皇室の護り神とされていた天照大神を、本来の日本神道の最高神としての天照大神信仰へと解き放ったところに意義が認められるのではなかろうか。れんだいこ史観「原日本新日本論」を援用すれば、天照大神は原日本の最高神である。大和王朝以来、天照大神は大和王朝を権威づける為に利用されてきた。これに対し、大和王朝以前からの日本神道の最高神としての本来の位置に於いて捉え、その霊能を引き出そうとしたところに史的意味があるように思われる。

 2014.1.17日 れんだいこ拝

【金光教】
 川手文治郎(後の金光大神)が幕末に開教した民間宗教で、民衆合理性を確立しているところに特徴が認められる。
 1814(文化11)年、備中国浅口郡大谷村(現・岡山県)で香取十平(母しも)の5男3女の次男として誕生。幼名源七。父信仰心厚く、母も慈悲深い人であった。12歳のとき親戚筋であった川手家へ養子に入る。この時、彼の養父母に出した願いが「休みの日には神仏詣でに行かせてくれ」。幼少より篤心者であったことが分かる。入籍後の名前は川手文治郎。17歳のとき伊勢参り。33歳のとき四国遍路の旅に出る。この間家業に精出し、家族的不幸にも何度も遭遇。本人も喉気を患い九死に一生を得る。

 宗教精神分析として、「ある人物が日常的な意識のもとではとうてい切り出せないような願いを持つとき、それは神に仮託される形で語られることがある」との見立てがあるが、川手もこれを経由したことになる。
 1858(安政5)年、神のお告げによって「金乃神下葉の氏子(かねのかみしたば)」、次いで「金神の一の弟子」と呼ばれるようになる。この頃、次のように述べている。
 「いかなる知者、徳者も、生まれる日と死ぬる日とは無茶苦茶である。途中で計(ばか)り、日柄とか、何とか彼とか云う。いかなる所、いかなる時、いかなる方も、人間に宜きは吉所、吉日、吉方なり。日柄方位等は神が氏子を苦しめる事ではない」(金光大神理解)。
 「人間は勝手なものじゃ。生まれる時には、日柄も何も云わずに出てきておりながら、まんなかの時だけ、何の、かのと云うて、死ぬる時には、日柄も何も云わずに駆けつていのうが」(金光大神理解)。

 この時代、迷信や俗信に人々は惑わされて生きていた。彼の中に内在した金の神のカリスマが伝統的習俗、迷信をなぎ倒したことになる。
 1859(安政6).10.21日、天地金乃神からお告げが為された。
 「どうだろうか。家業をやめてくれまいか。もともとお前は42の時、医者からも見放されたところを神仏に祈願して全快したことがあろう。だから、『その時死んだ』と思って欲を捨て、天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思ってくれ。(本物の)後家よりはましな筈だ。物も言えるし相談もできるのだから。それゆえ、子供を連れてぼつぼつと農業をしていって欲しい。お前のように実意丁寧神信心をしている氏子は滅多に無く、しかもこの世で難儀している氏子たちも大勢いるから、(その者達のためにも)どうか取次ぎをしてやってくれ。そうすれば、神も助かり、氏子も立ち行く。氏子あっての神、神あっての氏子。末永く繁盛し、親にかかり、子にかかり、『あいよ、かけよ』で立ち行こう」。

 川手は、周囲の猛烈な反対と圧力にも関わらず、ひるまなかった。以後神一筋の道に専念し、この世で苦しみもがいている無慮無数の氏子達を救済する役割を負っていくことになる。立教。神一条の暮らしに入る。
 彼は、広前と呼ばれる金光教の神殿に座り続け、難儀する氏子がやってくるのを静かに待った。訪ねてきた彼らの悩みを神に取り次ぎ、その神意を彼らに伝えた。この取次ぎ生活は「教組25年端座奉仕・取次救済の遺風」とされ、その後の後継者に受け継がれていく。この間信仰に更に磨きがかかってゆき、明治元年生神金光大神。金神も天の二柱の神(日神と月神)と地上の八百八金神に君臨する「天地金乃神」となった。生神金光大神と「天地金乃神」という理論教義を確立した。

 赤沢文治は、幕末維新期の動乱のなかで、金神という伝統的厄神を全人類の解放の神として描きだし、その神の口を借りて自らの理想を次のように述べている。

 「一つ、日天四の下に住み、人間は神の氏子、身上に、いたが病気あっては家業できがたなし。身上安全願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身上のこと、なんなりとも実意をもって願い。一つ、月天四のひれい、子供子、育てかたのこと、親の心、月の延びたの流すこと、末の難あり。心、実意をもって神を願い、難なく安心のこと。一つ、日天四・月天四・鬼門金乃神、取次金光大権現のひれいをもって、神の助かり」(1867(慶応3)年)

 現代語訳では次のようになる。「太陽の神様の下に住む人間は、皆平等に太陽の神様の恵みのなかで生活しています。病気があっては、農作業に支障が生じます。健康な体で農業に従事し、五穀が成就し、牛馬まで健康であるように、神様を信心しなさい。必ず願いはかなえます。月の神様は、子育てや安産を守護しています。神信心するならば、必ず丈夫な子育てを約束します。太陽の神・月の神・大地の神である金神は、川手文治郎のおかげで、やっと神様の真の働きを示すことができるようになりました」。

 ここには、「健康・労働・五穀成就・安産・子育て」という素朴にして人間として最も根源的なことの成就を願う民衆の心が表明されている。
 次のような御言葉が遺されている。
 「(お陰を受けたことに対しては)何もお礼を出すことはない。吾受けたお陰を手本にして、世の中の人を救うてやれ。お礼になるわい」。
 「『金神の神は祟り神、障り神』と人は云おうがのう。金神の神は、幸の神、福の神じゃ」。
 「氏子から神へ暇を出すが、神から氏子へ暇は出さぬぞ」。
 「神は人が助かることにより、自己もまた助かる」。
 「(神と人との関係は)あいよ、かけよで立ち行く」。
 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おってお陰を知らず、神仏の宮寺社、氏子の家宅、みな金神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受け。氏子、信心いたしてお陰受け。今般、天地乃神より生神金光大神差し向け、願う氏子にお陰を授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下(かみしも)立つようにいたし候」。つまり、「天地金乃神は、天地の道理から外れ、難儀している世と人々を救済するために、生神金光大神を差し向け、神と人があいよかけよで立ち行く世界を実現したいとの神願を、明確に示した」(明治6年の神伝)(「天地は語る-金光教教典抄」)。
 「この方の道は祈念祈祷で助かるのではなく、話を聴いて助かる道である」。
 【信心乃心得】
 「吾心で我身を助けよ」。
 「祈りて霊験あるも無きも我心なり」。
 「天地金光大神 天地金乃神、一心に願え お陰はわが心にあり 今月今日(こんげつこんにち)でたのめい」。
 「垢離を取るというが、身体の垢離をとるよりは、心のこりをとって信心せよ」。
 「この方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ」。
 「女は神に近い。信心は女からじゃ」。
 「『人を殺す』というが、心で人を殺すのが重大な罪じゃ。鉄砲で打ったり刀で斬ったりせねば『私は人を殺しはせぬ』というが、それらは眼に見える。眼に見えぬ心で人を殺すのが多い。それが神様の御祈願に叶わぬ。眼に見えて殺すことは、お上があって、それぞれのお制裁(しおき)に合うから、それで片付くが、心で殺すのは、神様からお咎めになる---」(金光大神理解)。

 金光大神は、心の持つもち方を重視内面の信仰を重視した。祟りの神「金神」との内的葛藤を経て、稀に見る合理性を獲得し、内面の独立という地平へ信仰を磨き上げた。
 【他宗攻撃の戒め】
 「我が信ずる神ばかり尊みて他の神を侮る事なかれ」。
、「天地金乃神は、宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭うもってはならぬ。心を広う持っておれ。世界は我が心にあるぞ」。
 【救済】
 「お上もかみ、神様もかみじゃから、お上の規則に外れた事をしたら、神様のお陰(霊験)はないぜ」。
 「拍手して神前に向こうてからは、たとえ槍先で突かれても、後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬぞ」
 「いざなぎ、いざなみの命(みこと)も人間、天照大神も人間なら、その続きの天子様も人間じゃろうがの。(中略)そうしてみれば、天地金乃神は1段上の神、神たる中の神じゃろうが」。
 金光教は個人救済で、世の立て替え思想はない、時の権力との対決は徹底回避。
(私論.私見)
 金光教は、黒住教の天照大神に対し天地金乃神を打ち出している。その意味は、れんだいこ史観「原日本新日本論」を援用すれば、いずれも原日本神の霊能を引き出そうとしているところにある。

 2014.1.17日 れんだいこ拝

【賀茂規清(かもののりきよ)の「経済要録」】
 「巡環する自然観~エコロジーの先駆者・梅辻規清と烏伝神道~①」参照。
 賀茂/梅辻規清(
1798(寛政10)年5.18日ー1798(文久元)年7.21日、享年64歳)。神習教教祖 ・ 上賀茂神社社人 ・ 国学者。江戸時代後期の神道家。政情不安と飢饉の中で時代が胎動を始めていた幕末期、大本や天理といった新宗教に先駆けて活躍した。
 1798(寛政10)年、5.18日、5月の葵祭りで有名な、京都の上賀茂社、下鴨社の祭主、賀茂家の本来正流に連なる。(賀茂別雷神社)の社家・梅辻家の社人佐渡守賀茂報清の長男として生まれた。曽祖父の岡本清茂は「賀茂神道有識一流之師」と称された人物で、規清はその血脈に生まれたことを誇りにする。七歳で祖父清蔭、十一歳で父報清を亡くし経済的困窮から生活は大変厳しかったが、自らの出自の血脈を誇りに思う自負心に加え、家庭的・経済的な厳しい体験が、後の思想形成や数多くの著述に大きな影響を及ぼしている。

 1813(文化10)年、15歳の時、従五位下。飛騨守。1817(文化14)年、19歳の時、従五位上。
 

 規清は神儒仏の三道を研究し、文学を研究し、深く神道、皇学、国学、天文学、暦数などを学び、さらにその奥儀を極めるべく、12年間諸国を巡り33ヶ国を遍歴する。
 「東国三十三ヶ國に行かさる国なく、八宗九宗の蘊奥を探る遍歴十二年」。

 その間深山幽谷にわけ入り、宿徳博識の家を巡りあらゆる理を窮めることで、身の修行、道の研究とし、自らの考究成果と長年の遍歴から得た実体験や知識を熟成させ、烏伝(うでん)神道を創唱する。自分の独創ではなく、自らの血脈の賀茂県主の遠祖である御祭神、八咫烏こと賀茂建角身命より相伝された神道との意を示し「烏伝」(うでん)と冠した。その説くところは、人間をはじめ森羅万象すべてに生命が存在し、人間が呼吸しているように天地すべてが呼吸し、活動して相互に作用しあい、作用しあうところから生命が誕生する。それを御生(みあれ)と言う。とあるように、生命の誕生・生々発展について宣揚されていた。この背景事情に、修行に訪れた東北で天保の大飢饉の惨状と人々の苦しみの直接体験があった。これが契機となって、元々上・下賀茂神社の社家のみを対象としていた賀茂神道の教えや行法を、大衆に向けた実践宗教に発展させたものを、賀茂家の始祖・守護神とも言われる三つ足の八咫烏から伝えられた教えとして、烏伝神道(うでんしんとう・からすづたえしんとう)を展開するところとなった。

 著書は次の通り。『烏伝神道大意』 、『陰陽外伝磐戸開』。日本書紀を解釈して『根国史内編』9冊。更に、『神道初学修行伝』及び『白銅鏡奥伝』の2書を著わす。他に『日本書紀常世長鳴鳥』、『古事記鰐廼鈴形』、『旧事紀日矛廼伝』。数多い著述の内容は学際的で神道論は勿論、天文や暦法、都市工学にまで及び、時代背景を反映した経世論があることも規清の神道思想の特色である。「神と云は、天道の活用」であり天道とは「天地萬物、凡ての行ひの自からなる道」とする烏伝神道の特徴は、「神の活用」を基礎とした人間平等の世界観、呪術性の否定と合理性、民衆救済の志向、の三つである。

 1834(天保5)年、江戸に出る。1846(弘化3)年、江戸下谷池の端仲町に居を構え瑞鳥園と号す。烏伝神道を創唱し神習教教祖となる。そこを神道教法の本社とし、他2箇所に支社を置き、庶民を教導し始める。天保・弘化年間に江戸で神道講釈を行い、民衆に爆発的な人気を得る。その徒増大し、数千人に至る。烏伝神道をもって民衆教化にあたり、防火建築や江戸の都市改造構想などを提唱し幕府に建策したが、その活動が幕府の忌憚に触れ、幕府から挙動を怪しまれる。(「梅辻規清における都市改造思想—その特徴と思想形成の背景についての一考察—」参照)
 「五十万人を超える町方人口の大半を占めるその日稼ぎの者が住む裏長屋が路地奥に密集し、多い所で五、六年に一度火事が起き、寺院では墓地が狭小なため無縁の墓碑などは取払われ墓石は再利用・転用されるなど、江戸市街地が抱える問題点の解決のため、次のような都市改造構想を著述の中で提唱する。横木組立蔵造の提案、住民出資の教育機関「彦の社」、「姫の社」と積立金共済制度の創設、各町ごと五人の取締役による扶助制度の創設と忠孝山の築造、屯倉を兼ねた教導所の設置と市街不燃化のための連続長屋建設、神葬地香山の築造と大掌官再興。

 規清の都市改造思想の特徴の第一は、都市改造を核とするハードウエア的構想と、それらを効果的に機能させる仕組みのソフトウエア的構想が、多角的視点から統合され副次的効果をも目論んだ「総合的都市政策論」であることである。ハードウエア的構想のみではその効果の発現は不充分で、ソフトウエア的構想をセットにして相乗効果を生み、より高い成果を上げようと意図する。第二は、ソフトウエア的構想の核となる庶民救済の方策が、相互扶助の精神と親密な人間関係を基盤に形成される、地域共同体を単位に組み立てられていることである。個人単位の施策では波及効果や永続性など救済効果に限界があることを念頭に、投入する救済のちからを増幅させ効率的・永続的な救済を可能にして、持続可能な市民社会の実現を目指している。

 横木組立蔵造の考案には、文庫建築の火災対策と三手文庫の存在が関連していると考えられる。曽祖父・清茂が建設に携わり後世に伝えた三手文庫で多くを学び、文庫の恩恵を身をもって体験した規清にとって、これを後世に長く伝えることの重要性を痛感していたに違いない。文庫建築のみならず、家々の記録類の焼失を憂いて防火対策に心を砕き、市街不燃化の提案に至るのである。「彦の社」、「姫の社」と積立金共済制度では、既存の町十カ町で形成する地域共同体を設立基盤としている。救済プランを実効性あるものにするには、支配機構に組み込まれた既存の町の組織ではなく、より自治的で豊かな共同性を持つことが必要との認識から、京の町組を下敷きに合目的に修正して、既存の町に重層化した、もうひとつの地域共同体を提唱したと考えられる。

 石田梅岩の教えと行動を源流に窮民救済が心学講舎に後世に永く受け継がれたが、こうした救恤行動に注目し、規清は子女教育と救済活動の統合という、自らの構想に活かしたと考えられる。また、江戸町会所が持つ窮民救済と社倉的機能を尊重し、民衆の現実面での生活を確実に保障しうる仕組みを目指し、公儀が関与しない自主運営を柱とする、「住民の、住民による、住民のための」積立金共済制度という、斬新な構想を組み立てたと考えられる。「忠孝山」の築造手法は天保山を範としているが、富士塚と対比してみると、築山頂上に御宮を祀り山腹には祭祀・顕彰に関わる石祠などがあり、風光明媚な遊山の場として老若男女の差別なく誰でも参詣できるなど、多くの共通点がある。このように装置としての構造や形態、信仰や教化を誘導支援する演出と仕組みなど、富士塚や富士講から大きな影響を受けたと考えられる。宇宙という広がりの中にある自然の活動と人間が調和し、ともに生きることを重視し、物心両面の豊かさと共同性豊かな社会の実現を理念とする規清の思想は、封建制社会を脱して民衆が主役となる新しい世界の幕を開けるさきがけであったといえる」。

 1848(嘉永元)年、4月、神道教法を布教、終に陽明学および禅学をも交えて烏伝神道を大成した。直後、捕えられて糾問され、八丈島に流される。配所にて日々信心修行と著述に専念し、終に教書100冊を著したという。傍ら、没するまでの14年間、島民を教育し、その地で生涯を閉じた。彼は「異端の神道家」とされたが、その思想の研究が決定的に立ち遅れている。
 神道烏伝祓除抄は次のように記している。
 「二千九百十二品の郡類の霊味凝て人間となり、その霊味の最上の分この体を養ひ、その余の一滴水子宮へ入りて、また人間となる。かくの如く相続きて万年の限り知るべからず。次にその絞粕、人々の前尻より出でて元の畑に帰りて食物と変じて又人の口にいり、又前尻より出でて田畑に帰りて始めの如く姿の如く年々歳々循環すること、これ又量るべからざるなり。しかれば銘々今日食する所のもの、多くは人の前尻より出たる物也。それを食してこの身は養ひ、その余り子となる。又我前尻より出たる物を人に食させて人の体を養ひ、その余り人の子となる。されば神代の昔より尻と口と続き続きて生まれ出たる今日の我々、実に臀呫(ふとなめ)の御譬(おんたとえ)の如くなり。ここをもって考ふれば人と我と別なる物にあらず、よくこの旨を自得有るべし」。
 意訳すると、山川草木や鳥、獣、魚や虫に至るまでの生物の「霊味」なるものが凝り固まって人間を形作っている。神代の昔から世々限りなく、人は己や他人の尻から出た糞尿によって肥えた大地、そこから養われた食物を口に入れて我が身を養い、またその霊味を含んだ糞尿を再び大地に返して、人の身や生き物を互いに養っている訳で、人と我とを違うものと考えるのがそもそもナンセンスなのだ云々。実に自然界の循環システムとその関係性の真理を端的に語っている。その視点の鋭さ、非常に日常的な食とその結果の排便から自他の区別の矮小さを語る地に足のついた理論展開には小気味よさすら感じる。「霊味」という言葉表現も味わい深い。実に含蓄のある、意味深い言葉である。梅辻規清はこの霊味こそが人間を初めとした万物に宿り、身体や魂を形作っていると語っている。それは、食事、排泄をはじめとして万物を巡り巡っているとも言っている。
 飢饉や洪水などの災害は、人々の贅沢志向や生活の驕りからくる「衣食住の競い」を根本原因とした、自然破壊やその二次災害としての「人災」であると看破し、ご利益目的の祈祷やまじないを否定した。当時、主に江戸を中心とした庶民にまで流行していた贅沢志向からの絹織物ブームに便乗する、手軽な換金産業として各藩で奨励されていた養蚕業をその最たる悪因として取り上げた。養蚕の為に広範な桑畑が必要であり、それが山の木々を伐採、開墾して行われていた。その為生態系が破壊され、保水能力をなくした山が鉄砲水や土砂崩れを引き起こしたり、生活環境を奪われた動物達が人里に降りてきて田畑を荒らす悪循環が歴史的な天明・天保の大飢饉の大きな要因の一つだった。そうした悪循環を断ち切る為の実際的責任と方法を、梅辻規清はまた為政者である天皇や幕府に真っ向から求め、非難したことから「危険思想」として八丈島に流罪にされ、そこで一生を終えることになった。

 エコロジカルな視点にたって、自然や神々と人間との関係を論じたのが彼だった。大地や自然を汚して霊味の無いものを食べていると、見かけは立派で綺麗だけれども、本来の味も風味も殆どないスカスカの野菜や人間ができてしまうよと言っていることになる。そうした視点に立って、梅辻規清は「噛む事」や「火(カ)と水(ミ)」を預かる台所や食事、主婦の役割の重さについても、非常に重きを置いて自身の書物、「烏伝神道大意」で取り上げている。昔の日本には「肥溜め」があった。人間が口にする野菜も魚も、生き物に溢れた大地や海の栄養をたっぷり吸収し、太陽や月の光をしっかり浴びていた。添加物や薬等の自然界にとって毒物ともいえるものが殆ど入っていない糞尿を、人間は大地や海に返していた。残飯や生ゴミは家畜の餌であった。日本は特に世界・アジアの中でも恵まれた気候風土の恩恵の下、衣食住の全てを「木と竹と草と土」で賄い、生活用品の大半を、必ず燃えるか腐るかして大地や海に返していた。

【不受不施派の動き】

 大塩事件から半年後、日蓮宗の流れを汲む不受不施派が大坂の高津で台頭している。不受不施派は、宗旨の違う者から一切布施はいただかないと同時に宗旨の違う者の為に拝まないという特異な宗派である。かって、1595(文禄4)年、豊臣秀吉が、京都東山の方広寺の落成に当って千僧法会を挙行した際、不受不施派の僧の日奥が法要に行かないと宣告し、その晩に妙覚寺を明け渡し地下に潜った。以来、徳川幕府の世になっても警戒されており、五人組帳や宗門改帳と云う江戸時代の記録をみるとキリシタンと不受不施派の取締りの為の改めとなっている。


 この頃、二宮尊徳、大原幽学らは、自ら農民の中に入り、農民生活の改善によって経世済民を図ろうとしていた。


【佐藤信淵の「経済要録」】

 出羽の佐藤不昧軒も又経世済民に乗り出し、諸国の産業の実態調査に乗り出していたが、秋田阿仁の銅山で没した。その子の玄明は父の志を継いで天下を遊歴し、講究40年、日光足尾銅山の旅館で没した。この時、玄明は、当時16歳の子の信淵(のぶひろ)を枕頭に呼んで、「我死するとも汝は家に帰るべからず。願わくは、これより江戸に至りて勉強し、世を救う道を究め、父祖二代にわたる宿志を全うすべし、これ我が願いである」と云って死んだ。佐藤信淵の「経済要録」の序文にその意が記されている。こうして、親子三代にわたって救国済世の志を貫いた。





(私論.私見)