第13部 | もう一つの幕末維新としての教派神道の発祥、経世済民の動き |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.1.1日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「もう一つの幕末維新としての教派神道の発祥、経世済民の動き」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【「民衆宗教」(教派神道)の発祥】 |
この頃の「みき」に影響を与えたベクトルその3として、「民衆宗教の誕生」を確認しておく。この頃、時代の空気を反映して既に各地に世直しの先駆けともいえる「明神様信仰」や新宗教が生み出されていた。「みき」は、天保の大飢饉と呼ばれるこの時代に、飢餓、貧困からの救済を己に課せられた宗教的命題として直視したが、既に同じような感性を持って文化年間に黒住宗忠(1780~1850)が黒住教を、井上正鐡(まさかね、1790~1849)が吐菩加美(とほかみ)神道を、梅辻飛騨守規清(うめつじひだのかみのりきよ、1798~1861)が烏伝(うでん)神道を、安政年間には川手文治郎(1814~1883)が金光教を立教するというように、後に「教派神道」と呼ばれる新興宗教を次々と生み出しつつあった。黒住教の場合には、1814(文化11)年、両親を相次いで失った悲しみから労咳に罹っていた宗忠が、日拝する中で太陽(伊勢信仰に於ける天照大神)と同魂同体となる体験をし、そのことで病気が全快したことが開教に繋がっている。金光教の場合には、1855(安政2)年、金神の祟りと捉えられた42歳の大患を癒された赤沢文治が、以後新たに意味づけられた金神(金乃神)への信心を深めていったことが開教の機縁となっている。天理教の場合には、長男秀司の足痛を祈祷する寄加持の際にみき自身が巫女になり執り行うさ中に天の将軍が降臨したことが開教の機縁になっている。 |
【「教派神道の発祥」考】 |
ここで、この当時の各宗派の動きを概括しておくこととする。 幕末とは、価値観が変わり行こうとして揺れ動く時代であった。社会規範が急速に衰えていき、人々の心は不安にさいなまれていた。社会学で言う「アキュート.アノミー(無規範状態)」が発生していたと思われる。こういう時に、民衆宗教が生まれた。衆生救済、世直し、全人類救済が込められていた。この運動の意義を如何に認めるのか認めないのか、ここで識者が見解を異にする。 れんだいこは、最大限称揚する側に位置しており、幕末民衆宗教の動きに殊のほか注目している。これはれっきとした「下からの回天運動」であり、その意味で「もう一つの幕末維新」であったのではないか、と考えている。「上からの回天運動」は世上に知られすぎているが、「下からの回天運動」が顧慮されることが少ない。これは歴史家の怠慢であり西洋事大主義の影響である。そのように考えている。この観点に与する朋輩ありやなしや。幕末民衆宗教の意義、豊潤な可能性と限界、それが近代天皇制に馴化されていった過程を検証することは「もう一つの近代史」になるはずだ。しかし、この方面の研究が見るも哀れに萎えている。これを思えば、歴史家なぞ厚顔無恥の輩ではないか、とさえ思えてくる。そういう訳で、覚束ないながらもれんだいこがこれに挑戦してみようと思う。 |
【みきの宗教的精神史足跡行程(10)、神一条生活への憧憬】 |
後に教派神道と呼ばれる新宗教の発生は、当時の「みき」をも感化させたのではなかったか。ここまで見てきたように、みきは山伏修験道にまで接近し、神通力を味得しつつあった。この時点で、みきは、あちこちの新宗教誕生の影響を受けみき自身も神一条の生活への誘惑を抑え切れなくなりつつあったのではないかと拝する。これを「みき」の宗教的精神史代10行程とする。 |
【霊地・霊山信仰】 |
「大峰修験信仰その他当時の民間宗教の隆盛」、「日本神道の歴史1、発生史及び教理について」に記す。 |
【如来教】 | |||
まず教派神道に先立つ民間宗教として如来教について注目しておきたい。既に寛政時代において生まれていた如来教は一尊如来きの(1756~1826年)が創始したものである。同女は江戸時代中期の1756(宝暦6)年、2.2日、尾張国愛知郡旗屋の里(現、名古屋市熱田区旗屋町)の農民長四郎の第二子として生まれ、兄と弟がいた。長四郎は周囲の信望を集めていた農民で、珍しいほど信仰心が厚く、禰宜、社家、修験(山伏)とも交流を為し、日頃「長四郎」様と呼ばれて周囲から尊敬されていた。生家は古い家柄で、念仏が宗旨であったが、先祖には神職がいたとも云う。同女は8才で相次いで父母と死別し、近在の叔父のもとで育てられた。兄弟の消息は不明で、幼少から孤児同然の身の上であったようである。叔父の家は貧しく、13歳の頃の1768(明和5)年より奉公に出向くこととなった。1778(安永7)年頃、23才で嫁いだ。この結婚は夫の身持ちの悪さからうまくいかなかったようで、子もできぬまま離縁し、再び奉公の身となった。1795(寛政7)年、40才の頃、奉公先の当主が亡くなったのを機に旗屋の郷里に戻った。こうして同女は細々とした農民生活に入った。この頃は天明の大飢饉から寛政の改革の治世の頃である。 1802(亨和2)年、8.11日、47才の時、同女は突然神懸かりに陥った。天地を創造し主宰する神「如来」が、金比羅大権現を使者として地上に遣わし、自分の体に金比羅大権現が天降ったとする「如来」の教えを説き始めた。神懸かり前のきのの様子についてはほとんど伝えられていないが、既に自宅に神を祀り、祈祷を頼みに人が訪れるようになっていたらしい。きのの神懸かりの事情については不明な点が多い。19世紀初頭に、神懸かりして如来教を開教したきのは、こののち四半世紀にわたって、如来の慈悲による、あらゆる人間の来世での救済を説き続けることとなった。 きのが、自宅を「御本元」として、ひたすら如来に仕える生活に入ると、病気直しをはじめ様々な現世利益をもとめて、「御本元」に足を運ぶ人々がにわかに増えた。信者が集まると、束帯を身につけたきのは、金比羅の言葉を、時には秋葉大権現、入海大明神、熊野大権現等の神々や日蓮、親鸞ら祖師の言葉を、神懸かりして延々と説くようになった。きのの説教は、開教翌翌年の1804(文化元)年頃から次第に形式が定まったらしく、没年の1826(文政9)年に至る22年余の間、毎月、時には月に数回もの説教が行われた。説教は、「御本元」のほかに、有力信者の舎やどり(居宅)でも行われた。1812(文化9)年頃からは「一尊」とよばれるようになり、翌1813(文化10)年閏11月には、神命として「りゅうぜん」と改名した。「一尊」の名は、その教えが唯一至高のものとされたことからきている。きのの晩年には、信者の間では、如来ときのを一体とみる傾向が強まり、教祖を「一尊如来」、「りゅうぜん如来」と尊称するようになった。 きのの教えは、後々までキツネつき、タヌキつき、飯綱いづな使いの類として、その教えを嘲笑し、悪罵する者が絶えなかった。一方で、時とともに、その教えに心服し、きのを生き神として仰ぐ信者が、尾張一円はもとより、かなり遠方からも次々に現われるようになった。信者の多くは、地元の農民、職人、商人で、それぞれ講をつくっていたが、尾張藩士の中にも熱心な信者ができて士(さむらい)講中が生まれた。きのの説教は次第に遠国にも伝わり、尾張に加えて美濃、伊勢、三河、信州馬籠、武蔵国上尾、江戸等の各地で講がつくられた。教義の展開と体系化には、法華信者の覚善院日行(1749~1826)が常に側近にあって貢献した。この間、教勢の発展とともに、1820(文政3)年4月、きのは尾張藩から呼び出されて取調べを受けた。この事件の前後、文政初年には、金木市之正は、きのの宗教が尾張藩から公認されるように、神道家元の吉田家、白川家へ願い出る計画を進めていた。きのの説教が多数の聴聞者を集めるようになると、信者の間から堂宇の建立や土地の寄進の申し出がなされたが、きのは、教団を形成したり、本格的な堂宇を建立する意志はなかったようである。きのは、信者から、はじめ「慈尊」と尊称されていた。慈尊は中国では弥勒をさすが、きのの場合は、如来の慈悲を体現している人の意味であろう。1826(文政9)年、5.2日、きのは、隠居所で波瀾にみちた70年の生涯を閉じた。 その教義は次のようであった。きのが説いた教義は、末法観に立つ他力の来世主義であり、徹底した原罪説を特徴としている。最高神として如来を崇め、その如来は天にある全知全能の慈悲(愛)の神であり、世界を創造し、全てを神業として支配している。如来に次ぐ神は釈迦であり、日天子(太陽神)であり、これまで法華経を始めとする教えを説いてきた神とされる。次に上行菩薩は、月天子(月神)であり、法華経を広めた日蓮を神格化した神である。この両神は日月であり、如来の両目にたとえられている。金比羅は、仏法の守護神として大功のあった神で、天子の神々の中でも、ひときわ位が高い。如来はあまりに卓絶した神である為、自ら地上へ降ることはないが、末法の人間を救うために、特に金比羅を使者として地上に遣わし、きのの体にかからせたとする。さらに、天照皇太神(伊勢の神)、八幡、春日、熊野、熱田、秋葉、貴船、入海、一の宮、二の宮、金神、荒神等の神々をはじめ、聖徳太子、各宗の祖師等が登場する。きのの説教の中心命題は、如来による来世での人間の救済である。きのによれば、これまで釈迦によって説かれてきた教えは、全真理の六分に過ぎず、残りの四分が説かれていなかったが、末法の世になり、このたび、金比羅がきのに天降って、はじめて四分の教えが解き明かされ、あらゆる人間が救済されると云う。 更に、独自の創造神話があり、それによると、その始めの世界は泥の海で、神が人間を75人だけ創造したが、これらの人間は、神仏とともに天に上り、その後へ伊勢神宮の屋守(留守居)である魔道がきて、元になる人間5人を創造し、女性の胎から人間が産まれるようになったと云う。これは、地上に住むあらゆる人間は、例外なく悪の種であるとする原罪説である。愛の神である如来は、末法の世の救われない人間を憐れに思って、後世(来世)での救済を願い続けており、ひたすら如来にすがる者は、如来の救いにあずかって、来世は天に上り、如来の膝元である「能所」よいところに行くことができるという。人間は罪を負って生まれている為、現世での苦難は避けられないが、死後に地獄に堕ちる苦しみに比べれば、現世の苦はわずかであり、来世での救済が定まっていれば、既に現世において救われていることになる。きのは、魔道が支配するこの世を、如来がつくっておいた仏道修業の場であるとし、「心悩」をとり如来の懷に抱かれる為の修業「座禅」を教えた。人間は、すべて如来の子として平等であり、他人をそしらず、他人を愛しいたわって、如来の心を心を心として「善心」を保ち、如来にすがり、如来に感謝することによつて、現世で利益を受け、来世では救われて幸せになるというのである。 次のようにも解説されている。
きのが息を引き取る間際の言葉は次の通り。
小滝透「おやさま」は次のように記している。
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【吐菩加美(とほかみ)神道】 | |
吐菩加美神道は次の通りである。創始者井上正鉦(まさかね)は、1790(寛政2)年の江戸の生まれだが、その出自は上州である。即ち上州館林藩の勘定役安藤真鐡(まかね)の二男として江戸藩邸で生まれている。真鐡は、死に臨み、体得した法を我が子正鉦に次のように遺言した。
正鉦は、父の絶大な感化を受け、求道者の世界へ足を踏み入れていく。神儒仏の奥義を求めて19才の時から諸国を遍歴し、実に30年の長きにわたり、様々な思想家や宗教家を訪ねていった。1833(天保4)年、厄明けの44才春の時、神夢を感視して神道に目覚め、禊教を開教した。あくる1834(天保5)年、神祇伯白川王家に入門し、1840(天保11)年、51才の時、武蔵国足立郡梅田村の梅田神明宮の祠官になっている。長年の求道に培われた井上の教えは深く、下は一介の民衆から上は城主に至るまで、帰依する者が続出していった。3年後の1843(天保14)年、54歳の時、井上は、幕府から「新義異説」の嫌疑を受けて三宅島に遠島の島流しされた。島流しの折、日蓮崎を過ぎる折詠んだ歌が「古もかかるためしのあるなれば、天照します神のまにまに」。1849(嘉永2)年、2月、60才で神上がることとなった。 わずか3年間とはいえ、吐菩加美神道の布教の拠点となった梅田は、その地理的な位置を北関東から江戸への入口にあたっていた。いうなれば、彼はその出自も、宗教上の拠点も、東北.関東の飢餓地帯と重なっていたのである。なお、井上と一緒に逮捕投獄され、56才で獄死した同い年の高弟三浦隼人は、越前柏崎の出身だが、生田万が乱を起こした天保8年に井上に入門している。 彼が創唱した吐菩加美神道とは、皇家神道である伯家神道を大衆化させたものであった。その教義の究極には祭祀の中心に天皇を置くという「皇の道」があったが、その一方で彼の行間には「世直し」の願望が躍動していたのである。その三種祓詞「とほかみ、えみため」の神呪は、神前で大きな声で一音一音唱えていく行法は、庶民の世直しの願望を駆り立てるものであった。こうして、井上はその時代の民衆の要請を、おのれの宗教的課題として受け入れることとなった。例えば、井上は、たび重なる飢饉の中で同時代の人々が餓死し、生まれたばかりの子供たちが間引きされていく現状をみて、それを何とかして救いたいとの気持ちから、「我れ一飯を残して人の飢えを救わん」との発願をしている。彼は又このことを人々にも呼び掛け、実際におのれの「一飯」を飢えた人々に献じたのである。この系譜が後年禊教に向かうことになる。 |
【黒住教】 | ||||||||||||||||||||||||||||
きのの如来教に四半世紀遅れて生まれたのが黒住教である。その概要は次の通りである。
1824(文政7)年、45才の時、今村宮の禰宜職となった。二度目の伊勢参宮を行つている。1824(文政7)年の参宮は「文政のおかげまいり」の前後の時期に当たっており、民衆の信仰の爆発的な高揚を実見して、強い感銘を受けたものと思われる。
宗忠の教えの教線は、近隣の地主層から岡山藩士の間へと伸びていった。布教の発展と共に、岡山藩を始め、既成の宗教勢力からの圧迫も次第に強まった。宗忠は、周囲の圧迫妨害が激化したのを機に、従来の修業の在り方を反省し、1825(文政8)年から千日参籠、五社参り等の激しい修業を重ねた。宗忠の晩年、弘化.嘉永年間(1844~54)には門人も急増し、その教線は備前から備中、美作に及び、信者はめざましく増加して、武士層から地主、自作農、商工民へと拡大した。1841(天保12)年、宗忠は隠居し、跡目を宗信に譲った。この頃から岡山藩士、地主、自作農民、有力商工民へと教線の広がりをみることとなった。 |
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黒住教の教義は、記紀神話によって皇室の護り神とされていた天照大神を、本来の日本神道の最高神としての天照大神信仰へと解き放ったところに意義が認められるのではなかろうか。れんだいこ史観「原日本新日本論」を援用すれば、天照大神は原日本の最高神である。大和王朝以来、天照大神は大和王朝を権威づける為に利用されてきた。これに対し、大和王朝以前からの日本神道の最高神としての本来の位置に於いて捉え、その霊能を引き出そうとしたところに史的意味があるように思われる。 2014.1.17日 れんだいこ拝 |
【金光教】 | |||||||||||||||||||||||
川手文治郎(後の金光大神)が幕末に開教した民間宗教で、民衆合理性を確立しているところに特徴が認められる。 | |||||||||||||||||||||||
1814(文化11)年、備中国浅口郡大谷村(現・岡山県)で香取十平(母しも)の5男3女の次男として誕生。幼名源七。父信仰心厚く、母も慈悲深い人であった。12歳のとき親戚筋であった川手家へ養子に入る。この時、彼の養父母に出した願いが「休みの日には神仏詣でに行かせてくれ」。幼少より篤心者であったことが分かる。入籍後の名前は川手文治郎。17歳のとき伊勢参り。33歳のとき四国遍路の旅に出る。この間家業に精出し、家族的不幸にも何度も遭遇。本人も喉気を患い九死に一生を得る。 宗教精神分析として、「ある人物が日常的な意識のもとではとうてい切り出せないような願いを持つとき、それは神に仮託される形で語られることがある」との見立てがあるが、川手もこれを経由したことになる。 |
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1858(安政5)年、神のお告げによって「金乃神下葉の氏子(かねのかみしたば)」、次いで「金神の一の弟子」と呼ばれるようになる。この頃、次のように述べている。
この時代、迷信や俗信に人々は惑わされて生きていた。彼の中に内在した金の神のカリスマが伝統的習俗、迷信をなぎ倒したことになる。 |
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1859(安政6).10.21日、天地金乃神からお告げが為された。
川手は、周囲の猛烈な反対と圧力にも関わらず、ひるまなかった。以後神一筋の道に専念し、この世で苦しみもがいている無慮無数の氏子達を救済する役割を負っていくことになる。立教。神一条の暮らしに入る。 |
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彼は、広前と呼ばれる金光教の神殿に座り続け、難儀する氏子がやってくるのを静かに待った。訪ねてきた彼らの悩みを神に取り次ぎ、その神意を彼らに伝えた。この取次ぎ生活は「教組25年端座奉仕・取次救済の遺風」とされ、その後の後継者に受け継がれていく。この間信仰に更に磨きがかかってゆき、明治元年生神金光大神。金神も天の二柱の神(日神と月神)と地上の八百八金神に君臨する「天地金乃神」となった。生神金光大神と「天地金乃神」という理論教義を確立した。 | |||||||||||||||||||||||
赤沢文治は、幕末維新期の動乱のなかで、金神という伝統的厄神を全人類の解放の神として描きだし、その神の口を借りて自らの理想を次のように述べている。
現代語訳では次のようになる。「太陽の神様の下に住む人間は、皆平等に太陽の神様の恵みのなかで生活しています。病気があっては、農作業に支障が生じます。健康な体で農業に従事し、五穀が成就し、牛馬まで健康であるように、神様を信心しなさい。必ず願いはかなえます。月の神様は、子育てや安産を守護しています。神信心するならば、必ず丈夫な子育てを約束します。太陽の神・月の神・大地の神である金神は、川手文治郎のおかげで、やっと神様の真の働きを示すことができるようになりました」。 ここには、「健康・労働・五穀成就・安産・子育て」という素朴にして人間として最も根源的なことの成就を願う民衆の心が表明されている。 |
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次のような御言葉が遺されている。
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金光教は、黒住教の天照大神に対し天地金乃神を打ち出している。その意味は、れんだいこ史観「原日本新日本論」を援用すれば、いずれも原日本神の霊能を引き出そうとしているところにある。 2014.1.17日 れんだいこ拝 |
【賀茂規清(かもののりきよ)の「経済要録」】 | |||||||
「巡環する自然観~エコロジーの先駆者・梅辻規清と烏伝神道~①」参照。
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【不受不施派の動き】 |
大塩事件から半年後、日蓮宗の流れを汲む不受不施派が大坂の高津で台頭している。不受不施派は、宗旨の違う者から一切布施はいただかないと同時に宗旨の違う者の為に拝まないという特異な宗派である。かって、1595(文禄4)年、豊臣秀吉が、京都東山の方広寺の落成に当って千僧法会を挙行した際、不受不施派の僧の日奥が法要に行かないと宣告し、その晩に妙覚寺を明け渡し地下に潜った。以来、徳川幕府の世になっても警戒されており、五人組帳や宗門改帳と云う江戸時代の記録をみるとキリシタンと不受不施派の取締りの為の改めとなっている。 |
この頃、二宮尊徳、大原幽学らは、自ら農民の中に入り、農民生活の改善によって経世済民を図ろうとしていた。
【佐藤信淵の「経済要録」】 |
出羽の佐藤不昧軒も又経世済民に乗り出し、諸国の産業の実態調査に乗り出していたが、秋田阿仁の銅山で没した。その子の玄明は父の志を継いで天下を遊歴し、講究40年、日光足尾銅山の旅館で没した。この時、玄明は、当時16歳の子の信淵(のぶひろ)を枕頭に呼んで、「我死するとも汝は家に帰るべからず。願わくは、これより江戸に至りて勉強し、世を救う道を究め、父祖二代にわたる宿志を全うすべし、これ我が願いである」と云って死んだ。佐藤信淵の「経済要録」の序文にその意が記されている。こうして、親子三代にわたって救国済世の志を貫いた。 |
(私論.私見)