第12部 1830年~ 33才~ 大峰修験信仰その他当時の民間宗教の隆盛
天保の頃

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.1.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、この当時の「大峰修験信仰その他当時の民間宗教の隆盛」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【隆盛する民間信仰】
 この頃の「みき」に影響を与えたベクトルその2として、「大峰修験信仰その他当時の民間宗教の隆盛」を確認しておく。「ほうそう事変」後、「みき」は、神仏信仰に見極めを得んとして各地の寺社廻りをし始めた。この頃は、天変地異、世相不安、悪疫流行と続く頃でもあり、こうした社会の全般的危機を反映して人心不安もあわただしく、人々はただ霊験あらたかだと噂のある七福神、八幡様、稲荷様、地蔵様、天狗幽霊まで拝む巡礼をしたり千社詣りをしていた。習俗信仰の華盛りであった。要するに、民衆レベルにおいて、現世利益を願う宗教が多種多様に活況することとなった。江戸時代においては一般の庶民が現在のように自由に旅することは許されていなかったが“お参り”を目的にしている場合には許可されたことにより、お伊勢、善光寺、成田不動尊、高野山、金毘羅大権現、伯耆大山など有名寺社仏閣詣り、西国三十三カ所の観音巡礼、四国八十八カ所の大師霊場巡礼等々が流行した。その為の講が組織される程で「団体での参詣旅行ブーム」が定番化していた。講とは寺院や神社、あるいは霊山、霊場に参拝して奉加(ほうがや寄進を行う集団組織のことで、講中とも言う。信徒側から自然発生的に講が結成される場合もあったが、大半は寺社側のアプローチで結成された。まさしく布教活動の成果だった。

【成田講の隆盛】
 PRESIDENT Online安藤優一郎歴史家信仰心が篤いからではない 江戸時代の男たちが熱心に寺社参詣した"意外な理由" 夜の楽しみ「精進落し」をご存じか」その他参照。

 成田山新勝寺(現千葉県成田市)の信徒が組織する成田講(本尊の不動明王を篤く信仰していることから不動講ともいう)は関東で人気随一であった。他にも成田山と川崎大師平間寺(へいげんじ、現神奈川県川崎市)の大師講、高尾山薬王院(現東京都八王子市)の高尾講、雨降山(あぶりさん)大山寺(おおやまでら、現神奈川県伊勢原市)の大山講等が有名であった。神社の講としては伊勢神宮(現三重県伊勢市)の伊勢講、富士山の浅間(せんげん)神社(現山梨県富士吉田市)の富士講、秋葉神社(現静岡県浜松市)の秋葉講などが挙げられる。寺社は講による参詣を歓迎し至れり尽くせりの「おもてなし」を展開した。

 貴重な史料が成田山に残されておりこれを確認する(「成田山新勝寺史料集第六巻」)。1814(文化11)年に作成された「江戸講中在所記」という江戸の成田講の会員名簿によれば、講の数は五百十五講にものぼった。大半の講は二十~四十人ぐらいのメンバーで構成され、総人数は一万七百三十二人を数えた。その家族を含めれば数万人の規模となっただろう。講中は入退会自由、他の講と兼ねることも問題ない敷居が低く入退会しやすい組織になっていた。人々はご利益があれば、またその評判を聞き付ければ、どの宗派の寺社でも神社でも参詣できた。講は町や村という共同体単位で結成されるのが普通だが、商人や職人仲間単位で組織された講もあった。商人仲間で組織された講としては魚屋、酒屋のほか両替屋、札差(ふださし、禄米の仲介業者)、米屋、材木屋などがあった。町火消講もあり、成田山の山内には江戸町火消が奉納した石碑が数多く残されている。そうした由緒を踏まえ、今も「江戸消防記念会」が成田山に毎年赴き、木遣(きやり)歌を奉納している。講は次のようなシステムで運営されていた。講員が各々金銭を出し合い積み立て、積もり積もったところで参詣し、その際の旅費となり奉納金とする。講のメンバー全員が揃って参詣したのではない。順番で参詣する「代参講」のスタイルが取られた。数人から数十人ずつ連れ立って参詣した。江戸から成田までの行程は片道一泊二日だった。陸路の場合は江戸から東に向かい、隅田川に架かる千住大橋を渡って新宿(にいじゅく)に入り、小岩、市川関所を経て江戸川の先へ進んだ。八幡宿を経由した後、船橋宿で宿泊した。翌日、船橋を出発し、佐倉城下を通過して成田に到着する。このルートは、もともと佐倉街道と呼ばれ、後に成田街道と呼ばれるようになる。水路も使って参詣する場合は二つのコースがあった。一つは、深川の高橋(たかばし)から小名木(おなぎ)川を経由して下総国の行徳河岸まで船で進み、上陸後は市川を経由して船橋宿で宿泊する。翌日は陸路の場合と同じく大和田宿、佐倉、酒々井(しすい)を経由して成田へと向かった。もう一つは行徳河岸で上陸せずに、そのまま江戸川を遡って利根川との分岐点である関宿(せきやど)に向かうコースである。その後、今度は利根川を下って安食(あじき)、河岸、木下(きおろし)河岸から上陸し成田に向かった。参詣裏道とも呼ばれた。陸路にせよ水路にせよ併用にせよ、成田に到着すると門前の旅籠(はたご)屋に宿泊した。泊まる宿屋は講で決まっていた。各講が成田山門前の旅籠屋とそれぞれ契約し定宿としていた。


 翌日の早朝、成田講の面々は入山し、未明からはじまっている本堂での朝護摩(あさごま)に参加して護摩札を頂戴する。護摩終了後に本坊では精進料理やお御神酒(おみき)が振る舞われる。これを「坊入り」と呼ぶ。成田山では精進料理にたいへん気を遣った。精進料理は奉納金額でかなりの違いがありメニューは奉納金によってランク付けされていた。1826(文政9)年に参詣した講中に出された献立の記録には煮染め、吸い物、硯蓋(すずりぶた、口取り)、大鉢、大平、丼、大鉢、吸い物、大鉢などと書かれている。最初の吸い物の具は、千本しめじ、白玉、かゐわり(貝割菜)、うど。二度目の吸い物の具は、水前寺のり(熊本の名産品)とまつたけ。最後の大鉢には葡萄(ぶどう)と梨が盛られていた。吸い物以外の料理では、どんな食材が使われていたのか。1815(文化12)年の献立記録によれば、きのこ類ではしめじ、きくらげ、まつたけ、しいたけ。野菜ではゴボウ、しょうが、長イモ、れんこん、うど、竹の子、ワラビ。海藻類ではもずく、水前寺のりなどが用いられた。この時のメニューは、煮染めと赤飯、吸い物、硯蓋、大平、鉢積、丼、肴(さかな)で、その後、本膳、二の膳、三の膳が続く豪華な料理だった。煮染めにはゴボウ、しいたけ、かんぴょう、焼き豆腐、やまといもが食材として使われた。仏教の殺生戒を遵守(じゅんしゅ)した植物性の食材の数々である。実に多彩だった。

 朝護摩に参加し、坊入りで心尽くしの接待を受けた講の面々は、同じ道を取って江戸に戻った。その日は船橋宿で再び宿泊し、翌日に江戸へ到着するという往復三泊四日のスケジュールが多かった。但し、成田から香取・鹿島神宮に向かう道もあり足を伸ばして両神宮に参詣する者も多かった。寺社参詣の際、直帰せずに近隣の寺社や行楽地も訪れていた。成田詣での一行が往路・復路の宿泊地とすることが多かった船橋は宿場町として成田街道、東金(とうがね)
街道、房州街道、銚子街道の分岐点であるだけでなく漁港として栄えた町でもあった。水陸交通の要衝として賑わい、遊女を置いていた「飯盛(めしもり)旅籠」もあった。成田詣ででは成田街道船橋宿、相模国大山寺への大山詣りでは東海道藤沢宿での精進落としが定番だった。精進落としには飲食はもちろん、遊女屋での遊興も含まれていた。参詣後の精進落としが男たちの密かな楽しみとなっていた。幕府は吉原など特別に認めた場所以外での遊女商売を禁じていたが、旅人に給仕する女性を飯盛女という名目で置くことは容認していた。幕府は旅籠屋一軒につき飯盛女は二名が上限と定めていたものの上限を超えた旅籠屋は珍しくなかった。飯盛女を置かない旅籠屋(平(ひら)旅籠という)もあったが、多くは飯盛女を抱えることで大いに繁昌した。宿場全体の運営は、その主役たる旅籠屋や茶屋から徴収する「約銭」(やくせん)で支えられた。いわば営業税のようなもので、飯盛女を抱える旅籠屋が納める役銭は多額だった。宿場で遊女商売を営んだのは旅籠屋だけではなかった。茶屋も給仕する女性を遊女として密かに働かせていた。飯盛女とともに宿場を陰で支える存在だった。船橋宿の飯盛旅籠では飯盛女(遊女)が盛んに旅人の袖を引いたが、その遊女は「八兵衛」と呼ばれたという。旅籠屋のうち飯盛旅籠が半数以上を占めた藤沢宿でも同じような光景が繰り広げられていた。

【富士講の隆盛】
 富士山は864(貞観6)年に噴火し、1083(永保3)年に噴火活動がおさまっている。富士山を霊山として信仰的に登山する歴史は長く、その頂上に浅間神社が建てられている。古来より修験者が山中に足を踏み入れており、江戸時代になるや次第に大衆化が始まった。「富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝する」という分かりやすい教えが広まり、仲間と連れ立っての「信心半分、物見遊山半分の一生の思い出作り」の富士登山が隆盛し始めた。これにより陸では街道や宿駅、海では港や航路などの交通機関が整えられる福利も生まれた。当時の富士講ブームで、江戸市内にはミニチュア版の富士塚がたくさん作られ、世界的にも有名な葛飾北斎の「冨嶽三十六景」が描かれるきっかけにもなった。

 霊峰富士の信仰は古来より続いていたが、みき在世中のこの時期、それまでの素朴な山岳信仰とはいささか趣の異なる富士講が誕生していた。開祖は長谷川角行(1541-1646)で、奥州での山岳修行者の一人であったが、「汝は天下兵乱を治め、万民を助け、衆生を済度するため、この世に出生した」、「それは汝の父母の熱烈な願いでもあったのだ」、「志は誠に見事。だが、その志を果たすには天地開闢・世界の御柱たる駿河の富士に赴いて、その人穴にて大行を果たさねばならない。さすれば、角行よ。汝に神力あること疑いなし」との霊示に従い、富士篭りの身となる。難行の満願の日に神(仙元大菩薩)が現れ、啓示を告げる。この教えを文字と図形に著したのが「御身抜」(おみぬき)で、護符「おふせぎ」と共で富士講の誕生となる。

 富士講は、富士山に7度以上登った行者でグループの代表格である先達、財務面を管理する講元、そして連絡係や集金などの雑務を行う世話人などで構成された。富士登山には高額な費用が必要だったので、メンバーから月々集金して毎年メンバーの5分の1を登山させるというシステムをとっていた。その富士講は、地域のコミュニティ的な要素も担っていた。毎月定期的に行っていた夜の集会では、登山について話し合うだけでなく、日常生活の相談事などもしばしば行っていた。先達もメンバーも宗教を職業とする人でなく、それぞれが生業を持っていた。人々は白衣を着て鈴を振り、般若心経(はんにゃしんぎょう)などを唱えながら富士山に登った。その教義は、「欲心の捨象、人の救済、妬みの否定、悪口の抑制、疑心の放棄」の五道の実践により、絶対原理に身をゆだね、「現世の利益」と「来世へのより良い生まれ変わり」を願うことにあった。この富士講が注目される所以は、修験の中に明確な民衆救済を持ち込んだ近世初の宗教ではなかったか、というところにある。

  富士講の指導者として食行身禄(じきぎょうみろく)(1671(寛文11).1.17日-1733(享保18).7.13日)が特筆される。本名は伊藤伊兵衛で伊勢国一志郡美杉村川上(現三重県津市)出身。食行身禄は行名(富士講修行者としての名前)。「身禄」という名前は、釈迦が亡くなって56億7千万年後に出現して世直しをするという弥勒菩薩から取っている。川上の生家には身禄の産湯があり子孫により石碑が建てられている。

 1688(元禄元)年、江戸で富士行者の月行劊忡に弟子入りし、油売りを営みながら修行を積んでいる。身禄は、呪術による加持祈祷を否定し、正直と慈悲をもって勤労に励むことを信仰の原点とした。また、米を真の菩薩と称し、最も大切にすべきものと説いた。陰陽思想から来る男女の和合や、身分差別を認めたうえでの四民(士農工商)の協調と和合、更には「世のおふりかわり」という世直しにつながる考えなど、封建社会を生きるうえでの独自の倫理観を持っていた。次のように解説されている。

 「富士講の食行身禄(じきぎょうみろく)によつて作られた救済史神話では、『元の父母(ちちはは)』(仙元大菩薩)による人間と万物の創造の後に、一万二千年のの�天照大神の支配の時代が来る。この時代は、根源の神と人間との間に疎隔が生じており、人間が自らの手で作り出した神仏への『影願』(かげねがい)がはびこる時代だという。これに対して元禄元年六月十五日の『ふりかわり』以後は『みろくの時代』となり、理想世界の実現が間近にになっている」。

 身禄の教えはその後の富士講の流行を生み、庶民が徒党を組むことを嫌った江戸幕府からたびたび禁止令を受けたが、その教えは江戸庶民の間に根強く広がった。同時代の富士講指導者である村上光清が私財をなげうって荒廃していた北口本宮冨士浅間神社を復興させる大事業を行うなどして「大名光清」と呼ばれたのに対して、食行身禄は貧しい庶民に教線を広げ「乞食身禄」と呼ばれた。享保年間、米価高騰で庶民生活を苦しめる幕政を激しく非難し、1733(享保18)年、富士山の七合五勺目(現在は吉田口8合目)にある烏帽子(えぼし)岩で断食行(だんじきぎょう)の末、35日後に入定(にゅうじょう)している。いわば抗議自殺であった。東京都文京区の海蔵寺に墓所があり、区の指定文化財に指定されている。

 食行身禄は開祖角行とともに富士講信者の崇敬を集めることになる。これを機に富士講信者は激増、富士登山はブームの様相を呈する。上垣外憲一(かみがいと・けんいち)著「富士山」(中公新書)によれば、幕府は再三禁令を出したが効果はなかった。当時の記録によると身禄派の富士講は数十万人に及び、「江戸八百八町に八百八講 講中八万人」と云われたほど隆盛した。この富士講が代々受け継がれ、みきの時代にますます隆盛しつつあった。

 その後、身禄の三女伊藤一行(お花)の系統を受け継いだ、武蔵国足立郡鳩ヶ谷(現埼玉県川口市)の小谷三志の不二道があり、教派神道の実行教となって今日に至っている。他にも教派神道の扶桑教や丸山講などが生まれ出ている。2013.6月、日本一の高さと秀麗な御姿を誇る富士山が世界文化遺産に登録された。


【みきの宗教的精神史足跡行程9の1、真言密教への接近】
 この経過で興味をひくのは、「みき」が諸仏諸神詣でするうちに次第に、真言宗系の参り場所へと足を向け始めた様に伺えることである。この当時の「みき」の心境は、「世の立替え、世直し」に役立つ真実の教義を求めて彷徨しており、各地処の寺社廻りの末に次第に真言宗の教説へと傾きを見せ、遂に真言蜜教系教義へと辿りつくことになった、と拝察させて頂く。これを、「みき」の宗教的精神史足跡第9-1行程とする。

 仏教各派の信仰にあって、真言宗こそ「即身成仏」を基調として現世救済を志向する色の濃い宗派である。開祖空海が、829(天長5)年、12.15日(1.23日)、日本で最初の庶民の学校であった綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開設したり、潅漑用の満濃池を修築したり等の事蹟で明らかなように、もともと民衆福祉を目的とした社会活動に積極的な姿勢を持つ教えであり、その原理は、現実を離れて理想を求めず、現実の社会に生きる一切衆生に対して限りない慈悲心を持ち、その物心両面にわたる救済を行として内在化せしめた密教思想を特徴としていた。

【みきの宗教的精神史足跡行程9の2、山伏修験道の修行】
 この後の「みき」の宗教的足跡として、「みき」の真言蜜教系の教義探訪は更に進んで、時代の影響を受けてか、凡そ三十代半ばのこの頃より、修験祈祷の世界に足を踏みいれた形跡を伺うことができる。この当時、幕末期の混乱した世相の中、山伏修験道が霊験あらたかということで流行し、山伏修験者による加持祈祷が活況であった。その理由は、既成宗教寺院勢力が檀家制度により体制内化され、その分生命力を失っていたのに比べて、山伏修験者は治療、授福、開運、無病息災、世直しの現世ご利益を期待する民衆の願いに応えて東奔西走の日々となっていた。それは、従来の神仏信仰にものたりない人々の思いを背景として、新たな救済を志向する者たちの鬱憤の表現であったかも知れない。

 こうして古来からの縄文古神道的山岳信仰、特に富士山と木曽御嶽山、大峰山詣り信仰があり難がられることとなった。白衣を着て、金剛杖をついて、鈴を鳴らして、六根清浄と唱えながら登山するというのが修験道であった。古来、日本の民人たちは山を神聖な場所として崇めていた。そこは、神々が鎮座する場所であり、同時に死者が祀られている場所でもあった。山は生と死が過去から連綿と引き継がれて交錯する場所であった。修験者は、そうした山奥に分け入っていくことにより、ここで修行をかさねることにより、生の根源的な息吹を得る。山峰自体がご神体であり、山々の霊気(宇宙的エネルギー)を体一杯に浴び、里人の前に帰ってくる。そして、その体内に充満する霊気を吐き出して病直しをした。修験者とはその強力な人たちで霊能者として崇められていた。当然病気治癒にもその霊験が期待されていた。勤行、和讃、念仏、真言、座禅、護摩、回峰行等等、皆なこのセンテンスで捉えることができる。これを、みきの宗教的精神史足跡第9-2行程とする。(別章【山伏修験道考】)

【みきの宗教的精神史足跡行程9の3、転輪王信仰と修験者市兵衛】
 この頃、「みき」は、そうした当世宗教事情の中で、山伏修験者にして祈祷師・市兵衛と頻繁に折衝するようになっていたようである。稿本天理教教祖伝においては、突如として長男秀司の足痛の治癒祈祷師として長滝村(現在の天理市東方)の修験者/市兵衛なる人が登場するが、史実は、「みきがこの市兵衛と極めて昵懇となり、同方に49日の御こもりをするなど相当頻繁に通いつめた様子」(復元三十号、17頁)が明らかにされている。

 市兵衛は、1792(寛政4)年生まれの石上神宮の神宮寺である内山永久寺の配下の山伏であり、且つ西の日光と云われる大峯山を行場とする修験者の一人であり、権僧都阿闍梨理性院聖誉明賢法師の法号を持ち、当時46才の壮年であった。真言宗当山派の大峯山十二先達の一人として名声高く、殊に加持祈祷の法力においては大和、伊賀十里四方にこの人と肩を並べる者のないという評判の者であった。1870(明治3)年没(享年79歳)。

 教祖の市兵衛を語る逸話「みちのだい叢書より(その九)② 」を確認しておく。
 「教祖様は”三島は宿屋まち”と仰せになったそうで、祖母もいまの詰所の前身とも言うべき宿屋を開業されましたが、それも重吉祖父は専ら好んで百姓をされましたので、祖母は当時まだ十六才になったばかりの慶太郎舅(ちち)をこよなく頼りにされ、家事一切の相談をなされたそうでございます。余談になりますが、舅は生れた時、特別小さく、教祖様は『長滝村の市兵衛さんがかえったのやで』と仰ってよく懐に入れて外出されたそうでございます。祖母はこの長男である舅を特別頼りにし、尊重して育てられたのだそうでございます。それでは常々きかして頂いた祖母の話を断片的に書かせて頂きます」。

 「みき」は、この法力との交流により霊能力を磨きに磨いたと拝察せられる。只、「みき」が修験祈祷に接近した背景は少し異相であった、と拝察させて頂く。これを世間並みの利益信心として縋ろうとしたのではなく、修験祈祷のいわば思想的核を為す転倫王信仰に興味を覚えていたのではなかったか、と拝察させて頂く。

 転倫王信仰とは、「三千世界の人々一人をも余さずに助けたいという一筋心」の転倫王教義のことを云う。「みき」が真言密教の奥義に傾倒していった背景には、この転倫王信仰が彼女の意を捉えていたのではなかったか。転輪王の「三千世界の人々一人をも余さずに助けたいという一筋心を持った、有難い仏王」としての御姿がみきの心を捉えて離さなかった。こうした転輪王のお働きの理こそ「衆生救済、世の立替、世直し」を渇望するみきの胸中に最も相応しかった。これこそ渇望するみきの探し求めていたものであった。こうして、「みき」の心に占める転輪王のお姿は次第に力強いものへと成長を遂げていくこととなった、のではないかと拝察させて頂く。これを、「みき」の宗教的精神史足跡第9-3行程とする。

【大峯修験道について】
 大峯修験道を確認しておく。当時は、種々雑多な民間信仰が相当な影響力を持って盛んに行われていたが、中でも大峯山を行場とする山伏、修験者はおびただしい数に上がり、彼らが行う加持祈祷の効験は、民衆の信仰心を集める上にも大きな力を持っていた。大峯山とは、現在の奈良県天川村洞川(どろがわ)の山上ヶ岳(1719m)を中心とした山々の集まりで、吉野山、金峰山を抱え奈良県吉野町南部一帯の連峰の聖地として信仰の聖域となっていた。中でも金峰山は「金の御嶽」と呼ばれ、弥勒信仰の広がりとともにその浄土の地ともされていた。金峰神社がその象徴であった。山上ヶ岳山頂には大峯山寺があり、「鐘掛岩」(かねかけいわ)、「西の覗(のぞ)き」などの行場が点在する。7世紀末に役行者(えんのぎょうじゃ)によって拓かれたと伝えられているが、古来の山岳信仰と仏教が結びついた日本独自の修験道の根本道場の地位にある。今に続く女人禁制の霊場でもある。

 修験者とは、「兜巾をかぶり、篠懸及び結袈裟を着け、笈を負い、金剛杖をつき、法螺を鳴らし、山野をめぐり歩いて修業する者」(広辞苑、岩波書店)を云う。大峯山には「大峰奥駈道(おおみねおくがけみち)」と呼ばれる霊場があり、「吉野・大峰」と「熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)」を南北に結ぶ修行道となっている。標高千数百メートルの険しく起伏に富んだ山岳地帯の道で、随所に行場がある。

 当時の民衆は、病気を金神(陰陽動で祭祀される方位の神のことで、嫁、養子とりの縁談、旅立ちなどの伺いに、少なからぬ影響を持っていた当時の民間信仰の神であった)、荒神、生霊、死霊などの祟りか障りと考え、こうして山伏の仕事は、病気が何のしわざかを明らかにして、これに有効な祈祷を通してその退散を願うことにあった。特に幕末のこの頃は、社会不安を背景に隆盛を見ており社会的にも信頼され重宝がられていた。

(私論.私見)

 この修験道は、1872(明治5)年に政府により禁止された為、苦難の道を余儀なくされ今日へ至っている。その代わりに対のような形でキリスト教が解禁されている。明治政府が何故に修験道を禁止し、入れ替わる形でキリスト教を解禁したのか、これは興趣の湧く課題である。

 2015.10.28日 れんだいこ拝

【「真言密教」について】

 「真言密教」の「仏」とは、宇宙そのものであり、「宇宙仏」であった。その化身が大日如来であらわされていた。これを、歴史的な実存者として覚者となり80歳にしてクシナガラに入寂した釈尊が説いたものかどうか分からない。悟りの内容を伝える文言は、釈尊から「かくの如く聞いた」という意味ではなく、「神の体を体現している」大日如来から「かくの如く聞いた(如是我聞)」ものであった。悟りの客体は大自然宇宙であり、その媒体が「真の言葉」としての「真言」であり、その聞き分け方法として「真言密教」が誕生した。それ故、「真言密教」とは、そうした根源的生命体たる宇宙そのものが仏となり、真言を発しながら人々に語りかけ、救済してゆく教えを言う。自己の精神と肉体を極限にまで磨き上げ、その宇宙的エネルギー、宇宙的言葉(真言)に反応できるようにすれば良い。即身成仏はその極致であり、空海はそれを実践した。絶対者との合一が目指された。

 このセンテンスで「胎蔵界曼荼羅思想」が生み出されているように思われる。中心に菩薩大日如来がいて、協力する4人の如来(仏)、それに協力する4人の菩薩というものが構成する菩薩世界。「悉有仏性」(どんな者でもいずれ成仏できる)。しかし、悟り方の深まり具合による精神の階梯論が前提とされていた。


【転輪王信仰について】
 本来の転輪王とは仏教用語であり、西欧的な超自然的存在としての唯一絶対支配神ではない。「転輪聖王修業経」(転輪王経)によれば、転輪王は元々仏教のふるさとのインドの伝説に由来する王の名であり、次のように語られている。
 「転輪王は、自分の息子に向かって次のように言った。王の位は世襲ではない。王の財産は子供だからといって遺産として譲るわけにはいかない。全ての王の持っている富は生産者たる民のものである。王は民から冨を借りて、住みよい世界を作るのが王の役目である。王が民から冨を借りているのである。住みよい世界を作るためにだけそれを使うべきである。そして住みよい世界を作っている途中でも、富のない民にあったら冨を与えるのではなく、返すという気持ちで、その民に冨を持たせなさい」。

 その法を行えば自然、王位が備わる。王の徳が備わる。それが転輪王である。このように転輪王経五巻が説いている。804年に、最澄が唐の都長安へ行き、経文をたくさん持って帰った。その最初の目録が転輪王経五巻であった。転輪王は、「難渋を助ける為に私は民から富を借りて、王として難渋たすけをしているのだ、富は王の財産ではない」と言ったと伝えられている。私の持っている財産はすべて人助けの為に民から借りているという借物思想を唱えていた。みきは、この人助けの為の借り物思想を後に「借り物の理」として教義化していくことになる。参考として「公」の字義解釈をしておくと、「ム」という字は私.私有財産を表している。「八」は開くで、私の私有財産を解き放つという意味を表している。これが「公」という意味である。この転輪王の名称は仏教の十王信仰に由来しており、天輪王、天龍王とも記される。阿弥陀仏を本地とし、須弥(しゅみ)四洲(全世界)を統治する聖王とされ、天から輪宝を得ていることから、この名が付けられている。「転輪王」は、輪宝と呼ばれる車輪に剣を植え込んだような形をした武器を所持しており、この道具を縦横に駆使して邪悪なるものを断ちきるという荒ぶる王として教説化されている。

 転輪王の働きにはもう一つの役目があり、「難渋を助け、世界をろっくの地にする」王であるとされている。「職業は土方の如く、この世を平らにし、誰も難儀不自由する者のいない世界を目指し、世界一人も余さずに助けずにはおかれない」という伝説上の理想的な王である。「全ての力、全ての物を使って難渋をたすけ、皆の喜ぶ世界にした。争っている時には人間の平均寿命は10才にまで縮んでしまったけれども、助け合って理想的に暮らすようになったら寿命が延びて8万才にまでなった」とその働きについて説かれている。当時の仏教界の約束事として、この転輪王を表わすのには、最高の仏である大日如来の姿をお借りし、又は釈迦如来の姿をお借りするのが通例であった。より詳しい働きを述べれば、転輪王は、仏国土にあっては阿弥陀仏でなり、この地上の俗界にお下り下された姿が転輪王であると理解されており、いわば精神界の救世主が仏陀であり、世俗界の支配主が転輪王であるといえる。 一般的な曼荼羅図の構図では、中尊の大日如来を中心として四仏四菩薩を大きく画いて、大日如来の職務分担を皆でやっている。その周囲で小さく画かれた釈迦院に位置して釈迦如来の姿でこれを表わされているのが転輪王である。転輪王を表すのに、大日如来か釈迦如来で表すという仏教界の約束事が作られている。

 仏教の教理によれば、人が死ぬと、7日目ごとにいろいろな王に裁かれるのであるが、有名なところとして57日目に裁かれるのが閻魔大王であり、3回忌に御裁き下されるのが転輪王であり、救ってくれるが阿弥陀様であった。共に、「三千世界一人も余さず助けたい」という一筋の心を持った有り難い神仏とされた。こうして転輪王は、当時流行の十王信仰や十三仏信仰にあっても、最も有名な神名であった。当時の仏教界の約束事として、「転輪王」を表すのは、最高の仏である大日如来の姿を借りて表した。又釈迦如来の姿を借りて表した者も合って、当時の仏教界では、どの宗派でも良く知られていた。真言密教においても、転輪王のお姿を表わす一字金輪曼陀羅を掲げて、これに祈祷するのが最高の儀礼であり、もっとも霊験あらたかとされていた。モンゴル学の権威者である東京外語大の蓮見教授は、モンゴルにおいては転輪王の地位はそんなに高くない、チベットでも同じと指摘している。となると、日本仏教における特別地位高く中心に据えられた転輪王の意味が考察されねばならないことになる。





(私論.私見)