第11部 | 1830〜36年 | 33〜39才 | 「婦唱夫随の主婦の鏡」時代とその世相 |
天保元年〜天保7年 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.16日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「婦唱夫随の主婦の鏡時代とその世相」を確認しておく。「みき」の主婦時代を零落化農民として受け取り、後々の天理教開教の伏線とみなす説があるが、れんだいこは違うと思う。「みき」が主婦勤めする中山家は、天保大飢饉の時代にも零落することなくむしろ富農化しつつあった。これが実際ではなかったか。みきのみきらしさは、みきの嫁ぎ先中山家の一人富裕化に求めるのではなく、同時代に呻吟する民百姓の社会的救済にあった。こう理解しないと、その後の動きがみえてこないのではないかと思う。零落化農民説は俗説だと思う。 2007.11.28日 れんだいこ拝 |
【主婦の鏡時代】 | |
「ほうそう事件」以後の10年間は、「みき」が神がかりする前のいわば「人間みき」として過ごした最後の期間となる。ところが、この10年間における史実として伝え残されているところが余りに少ない。「みき」はこの頃三十代半ばの世帯盛りを迎えている。
と喩すことになるが、日々「みき」自身が身をもって実践済みの、わが身の経験に裏打ちされたお言葉であったと思われる。 |
【天保の大飢饉と世相】 |
「みき」の誕生から中山家の主婦の立場で存命したこの時代は、既に見てきた様に、凡そ参百年続かんとする徳川幕藩体制の末期に当っており、様々の面で徳川治政にひづみが目立ち始めた頃であった。幕府、藩の経済政策の失敗が、米価を主とする諸物価の高騰を招き、全国各地で、農村での百姓一揆、都市部での打ち壊しを頻出し始めており、特にみき30才から40才に至るこの頃の農村の窮状は、史上に残る天災飢饉として、1732(亨保17)年の「亨保大飢饉」、1782〜87(天明2〜7)年の「天明の大飢饉」にも増して、史上「天保の大飢饉」と呼ばれる時代を迎えていた。しかも、このたびの飢饉は1833〜39(天保4〜10)年間、かなりの長期間にわたって続いた。 ちなみに、この天保年間は、18世紀のイギリスの天文学者エドマンドハレーが後に彼の名を冠して呼ばれるようになった、彗星の地球大接近76年周期説に基づけば、1835(天保6)年が丁度その回帰年にあたっており、予言された如くに世界的規模で天候異変が引き起こされたようであった。天保年間を通じ、3年は凶作、翌4年は全国的な飢饉となり、特に東北地方で酷く、餓死者と病死者が続出した。5年は大豊作、6年から7年にかけては大旱魃(かんばつ)に災いされ、凶作となり、諸物価騰貴し民衆の生活を逼迫させた。「みき」の住む大和における農民の窮状も他国と大差なく、みきを取り巻く四囲の事情は次の如くであった。 1836(天保7)年には、大和地方でも夏に大雨が続いて「霜を夏に見、禾穀登らず、米価高騰し、一升銭四百文、民大いに飢え、糟糠木の実を食し、ついに草根を食うに至り、餓ひよう路に満つ」(山辺郡誌)と記されているごとく、農民たちは僅かに露命をつなぐ有様の世相を呈していた。この頃のこと、丹波市の青石橋や布留の大橋が流出するほどの洪水があったかと思うと、翌年は日照りが続く等かなりな天候異変に悩まされていたこと、寛政年代から天保にかけて彗星がほうき星の如く現れる等天変地異の前兆として人々を驚かせたこと等が記録されている。こうして「天保の大飢饉」は、天候不順、ひでり、飢饉、台風、治水の氾濫、地震等の自然災害を伴って、出口の見えない全国的な規模による連続的な凶作となり、農民は犬猫から垣根の縄まで食い尽すという飢餓の有様で農村を直撃することとなった。 こうした事情を背景に、幕府では、老中水野忠邦(1793〜1851年)の指揮により鳴物入りで「天保の改革」に乗り出すこととなった。この改革は、台頭する商人資本の勢力を幕府の直接支配下に封じ込め、崩れゆく封建農村を立て直しすることを意図して、「亨保、寛政の御政治向に相復し候様」との思惑から厳しい「倹約令」を発し、華美、奢恣の風潮を取り締まるとともに、その他、「人返しの法」で農民の出稼ぎ、離村を禁じ、「棄捐令」で困窮する大名、旗本を救済したり、物価騰貴を押え、江戸への商品流入の円滑化を狙って、障壁であった問屋組合とも云うべき「株仲間の解散」を命じる等封建秩序の立て直しに躍起に取り組むこととなった。しかしこの幕政の改革は僅か2年余で失敗に終わり、結果は幕府権力を急速に弱体させていくことに帰した。 徳川幕藩体制の治政の乱れ、改革の失敗は、究極的には農民への打撃として帰趨した。元々農村は、自給自足の生活をたてまえとする本百姓を中心として成立した村落社会であったが、この頃の貨幣経済の急速な農村への浸透により、土地所有の形態に変化を引き起こし、そのことが富農層と貧農の二極化を顕著とさせつつあった。一方で、過酷な年貢米の取り立てと、度重なる自然災害による疲弊で本百姓層の分解を招き、小作人を初め経済基盤の弱い階層の間では離散、赤子の間引き、捨て子、餓死、人妻や娘の人身売買等が横行しつつあった。この時代は、加えて海外列強諸国より鎖国政策に固執する幕閣の扉が開かれようとしている折柄というように、多難な対外事情にも直面しつつあった。 こうした「みき」の胸中に影響を与えたこととして、次のような事情が考えられるであろう。幕末もこの頃になると内憂外患でもって権力機構が麻痺し始めており、そうした時代の空気を反映して、世の中は騒然と「世直し」を唱える動きが激化することとなった。百姓一揆、打ち壊しも、従来の愁訴型から幕藩体制に対する抵抗闘争の様相を帯び出しており、大衆運動としての「ええじゃないか」踊りも、次第に倒幕運動に連動する動きを見せ始めていた。農工商民のこうした動きに加え、支配層であった武士階級内にあっても危機意識が強まり始めており、幕府諸藩内部での権力闘争や下層武士層を主体とした身分秩序の再編、脱藩の動きが強まり始めていた。 その他鎖国制度を廻っての洋学派の批判、国学の台頭により支配体制の根幹が問い糺される等イデオロギー的にも左右からの揺さぶりを受ける始末であった。当然に政争も一段とかまびすしくなり始め、佐幕派、勤皇派、公武合体派、攘夷派、開国派等の論議の沸点が高まる一方となった。こうして幕府権力が弱体化するとともに、「天保の改革」の失敗以降、薩摩、長州、土佐等雄藩が幕閣に力を増すこととなった。徳川幕藩体制はいわゆる政権末期の様相を濃くしつつあった。 |
【みきの「自律」足跡行程(5)、主婦の鏡−「婦唱夫随」時代】 | |
「みき」の自律の発展行程を見ていく場合、この辺りで当時における「みき」と善兵衛との関係について見ておくことが意味のあることと思われる。稿本天理教教祖伝では、夫善兵衛の気質性行について、次のように誌している。
この記述は、善兵衛が優しい性格気の良い性分であったことを伝えているが、事実善兵衛は若旦那的な気分を濃厚に持つ気立ての良い性分の方であったことは疑いないであろう。着目せねばならないことは、この間「みき」と善兵衛は夫婦になって以来二十余年の月日を経過しており、この頃になって、両者はそれぞれの気質の長所を溶け合わせた相応しい関係を造りあげていたことと思われる。夫婦のこうした関係は、次第に落ち着くべきところに落ち着くというのが自然の理であり、恐らく夫善兵衛は、共に暮らす長年月のうちに、「みき」の慈愛深い御性情に相当程度の感化を受けるに至ったと思われる。 |
【みきの宗教的精神史足跡行程(8)、諸仏諸神詣で、衆生救済に向 かうみき】 |
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こうして「主婦の鑑」として評判を得る時代に到達するわけであるが、この頃の「みき」の宗教的足跡について案外に考証されていない。「みき」に対する突如とした神懸り教説を唱える側からは見えてこないことではあるが、この頃の「みき」の動静、いわば神懸り直前の「みき」の心理状態を解析することは、極めて意義のあることと思われる。世は、「天保の大飢饉」と呼ばれる時代のただ中であった。「みき」40才前後の頃のこととなるが、いよいよ「みき」の神懸かり直前へと接近する。 丁度この時期は、天変地異の異変と、世情の騒然さが重なりあい、のどかな村落であった大和のこの地方にも波及を見せた時代でもあったが、中山家は多くの田畑を持つ大百姓として、藩の意向を下達する村役を勤める立場でもあった。村役としてはみきの実家も又同じであるが、前川家父半七の働きが無足人としての村の役を公平無私に勤めていくという公務感覚に沿った生活を基調にして、必然的に瓦解していく農村に胸を痛める趣きがあったのに比して、中山家のそれは、綿屋と称されるように商品作物の耕作にいち早く取り組むとか、田畑を質に取り込む等、むしろ積極的に家産を増やし富農の途へと進んでいっており、そこには自ずと家風の違いとでも云えるものがあったように思われる。 「みき」は、この間、家作に勤しみながら、こうした中山家の隆盛に寄与し続けており、その働き振りは「主婦の鏡」との称賛を頂くに十二分なものであった。中山家は村役として年貢米を徴収する役まわりの家柄であり、貧農との間にたって、いかばかりの苦悩を身に背負ったことであろうか。その慈悲厚き心におい心境は如何ばかりであっただろうか。「みき」のこの後の変遷から察するに、この時期「みき」は、小作人の人々の悲惨な生活実態に触れ、田畑を持たない人たちの、どんなに働いても好転しない仕組みとか、働いても働いても、先行き何の望みもなく、儲けているのは、商人や地主、立回りのうまい役人たちだけであるという世の中の仕組みに対して、何らかの感慨を得たのではなかろうか。 みきの求めていた幸福とは、他の零細な農民の苦境をよそに中山家の経営を潤すことでは決してなかった。みきの生涯を貫く赤い縦の糸筋として、その一身の幸せを自身のうちに留めおけず、こうした悲惨な時代の成り行きとの関りに背を向ける生き方はできず、深く土塀の外を思いやり、社会の人々の不幸が、あたかも自らの責任とでも思い我が身の苦悩として引き受ける御方であった。「みき」の御性情は、傍目には何不自由のない結構な暮らしをしていた中山家だけの繁栄、一身一族的な富貴栄達への安逸を許さなかった。こうして「みき」は、疲弊していく農村と貧しい農民の苦境をおもんばかる気持ちを更に募らせ、思案苦吟を余儀なくされる日々を自ら引き受け、世相に胸を痛める日々となった、と拝察させて頂く。この時期「みき」は、この頃の農村の窮状に耐えかねるかの如く、ここに至るまでにおいても「みき」が困窮する人たちに施しを繰返し、いたわりの手を休めず、凶作のため餓死者の続出を見ていた当時、躊躇なく施しを為している。 稿本天理教教祖伝はその様を次のように記している。
「みき」は、疲弊していく農民の生活に胸を痛め、貧農の救済に懸命の身となり、「その噂を知って駆けつける者少なくなかった」と伝えられている。つまり、「みき」は、周囲の悲惨な状況に対して、許される限りの手段を講じて施しを為す身となった。だが、こうした努力も崩壊する堤に対して徒手で臨むような焼け石の水の如くで、事態の根本的な解決には遠いものであったであろう、それを知らない「みき」ではなかったであろう。それ故その胸中は、衆生救済を焦慮の念として自問自答しながら苦慮を重ねる日々を経ていた、と拝察させて頂く。 |
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当時の「みき」の胸中を推し量ることは困難ではあるが、こうして、先に浄土門と決別した「みき」の宗教的精神の軌跡は「ほうそう事件」を通して更に磨かれ、衆生救済に役立つ神仏の御加護の実証を求めて各地の寺院神社を詣でることとなったのではなかろうか。今や「みき」の胸中は、当時の社会状況にあって、現実の中から衆生救済の具体的方法を模索して懸命であり、衆生救済を叶えることに力ある神仏の見極めをせんと、当然ながら「みき」の問いかけは鋭く、失望を繰り返しながら更なる旅路へ進んでいったことであろう。果然みきは、「衆生救済」を焦慮の念として各地の神仏の扉を訪ねることとなった。「ほうそう事変」後、願立ての通り、先の三社に月に一度のお参りを続けることとなり、爾来みきは、その信仰史上従来の信仰形態であった浄土門を離れて、最高に研ぎ澄まして緊張した精神状況において宗派を問わず寺社廻りを志し、諸仏諸神詣でし始めることとなったようである。「みき」は、ここにおいて初めて他宗の門を積極的に訪ねることとなった。こうして「ほうそう事件」は、のっぴきならぬ願掛けとなったことにより、「みき」の信仰精神を一挙に加速させ、「みき」を新たな軌道へ乗せていく触媒のような働きを為したことと思われる。これを、「みき」の宗教的精神史の第8行程として確認しておこうと思う。 |
【この時代のみきの詣り所考】 |
この行程で、「みき」みきが学び得た精神史を渉猟することは随分意味のあることと思われが、伝えられるものがない。大和は、かっての王都が永年繁栄を築いた土地柄として歴史は古く、寺院神社の宝庫とも云える。宗派だけでも華厳宗、律宗、真言律宗、法相宗等を始め、やや歴史が下って浄土宗、禅宗、浄土真宗、融通念仏宗の寺院も数多く見られる。その他山岳信仰の面影を濃厚にした修験者派の本山として金峰山寺があり、これらに加えて神道、あるいは民間信仰として氏神神社、地蔵等列挙に暇ないほどである。この時期、「みき」は、こうした世上に名高いこれという寺院神社に足繁く通い、飽くことのない探求精神を出没させたであろうことと拝察させて頂く。こうした折の「みき」の胸中を推し量ることは困難ではあるが、恐らく「みき」は、味得した神仏の御加護の実証を求めて、あるいは衆生救済を叶えることに力ある神仏の見極めをせんと、各地の寺院神社を渉漁していたのではなかろうか。当然ながら、「みき」の問いかけは鋭く、失望を繰り返しながら更なる旅路へ進んでいったことであろう。 |
1833(天保4)年、11.7日、四女おつね出生。但し、1835(天保6)年、四女おつねが出直し(享年3歳)。
(当時の国内社会事情) |
1833(天保4)年、この年天保の大飢饉始まる。百姓一揆が激化する。播磨加古川流域の一揆。 |
12.27日、三河田原藩の渡辺崋山が格高制を推進して藩政改革を開始する。 |
1834(天保5)年、水野忠邦が老中となる。 |
福沢諭吉(1834-1901)出生。 |
1835(天保6)年、坂本竜馬(1835-1867)が土佐藩高知城下で生まれている。 |
シーボルト「日本植物誌」刊行。 |
1836(天保7)年、全国で凶作、天保の大飢饉。米価高騰。郡内騒動で三万余人が暴動。大阪で打ちこわし。三河加茂一揆。 |
(二宮尊徳の履歴) |
1831(天保2)年、45歳の時、桜町仕法について忠真に報告。「以徳報徳」の讃辞を受ける。桜町仕法第1期事業完了する。青木村仕法開始。 1832(天保3)年、46歳の時、この年から天保7年まで飢饉が続き、全国でも餓死する者が多数でた。金治郎は飢餓に備えて、普段から一人あたりヒエ5俵をたくわえさせておいたため、領地内からは一人も餓死する者がなかった。この頃、悟道に関する歌を多く作る。 1833(天保4)年、47歳の時、旗本川副氏の領地常陸国青木村(現・茨城県大和村)、細川氏の谷田部・茂木藩、宇津氏の一族である大久保氏の烏山藩,石川氏の下館藩,真岡・東郷両代官所支配の幕領,日光神領など、現在の茨城・栃木県下の北関東各地の仕法を手がける。茄子を食べ凶作を予知し、備えを固める。 1834(天保5)年、48歳の時、徒士格に昇進。「三才報徳金毛録」を著作する。鳩ヶ谷三志桜町陣屋を訪れる。 1835(天保6)年、49歳の時、谷田部・茂木(もてぎ)藩(細川家)の復興を開始する。豊田正作改心し桜町に再赴任する。 1836(天保7)年、50歳の時、大凶作。飢饉のため各地で騒動。金治郎 桜町仕法を完成する。この年、烏山の人々870人を飢えから救う。このとき桜町から送られた米は、1243俵、ヒエ234俵、種モミ171俵といわれる。烏山藩(大久保家)救援開始。その他の関係藩や村に食料救援する。大磯宿川崎屋孫衛門打ち壊しに合う。 |
(大原幽学の履歴) |
1831(天保2)年、大原幽学が房総を訪れ、「性学」という儒学を基礎とする独自の実践道徳を講ずるようになり、門人を各地に増やしていった。 1834(天保5)年、漂白生活から21年を経たこの頃、名主遠藤伊兵衛で、北総の地の長部村(現在の千葉県香取郡干潟町)に招かれ農村再興に努力することになる。当時の長部村はまったく荒廃し、道義は地に落ち亡村に等しかった。そこで名主遠藤伊兵衛およびその子良左衛門を中心として再興と理想郷の建設にのりだした。 |
(宗教界の動き) |
1833(天保4)年春、井上正鉄(鉄安)が禊教を始めている。 |
(当時の対外事情) |
1833(天保4)年、稲村三伯(1758-1811)によって蘭和辞典が刊行される。 |
1834(天保5)年、11.3日、水戸藩主・徳川斉昭が、海防を目的とした蝦夷地開拓、大船建造を建言する。 |
1835(天保6)年、幕府が、諸大名に国絵図の作成を指示する。 |
1836(天保7)年、2.14日、幕府が水戸藩に大砲鋳造を指示。 |
(当時の海外事情) |
1833(天保4)年、ドイツの文豪ゲーテ没。 |
1834(天保5)年、イギリスで奴隷を解放。 |
1835(天保6)年、アメリカのテキサスで独立戦争始まる。 |
(私論.私見)