明治新政府の修験道禁制、キリスト教解禁 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.19日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「明治新政府の修験道禁制、キリスト教解禁」を確認しておく。 2018.7.6日 れんだいこ拝 |
【明治新政府の動き/キリスト教解禁】 |
明治新政府にとってキリスト教問題は、近代国家として最初に直面した、国内政治上、外交上の最重要課題の一つであった。1873(明治6)年、2月、「切支丹邪宗禁制高札」」が撤去された。これにより300年にわたるキリスト教禁制が解かれた。修験道、拝み祈祷(梓巫女(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑(より)、祈祷(きとう)、狐下ヶ(きつねさげ)等)の日本の伝統的古神道的宗教に対する禁制の他方でのキリスト教解禁と位置づけねばならない。 これにより、横浜公会を母体とした日本基督公会が発足し、日本キリスト教の公式開教が始まった。この時、政府の一部には、これを機会に西洋諸国と同様に日本もキリスト教を国教にすべきだとの意見もあったが、神道派が猛反対し阻止した。 |
【キリスト教側から見た解禁の意義】 | ||
「民族のルーツをさがす旅」の「部族完成摂理期間」が次のように記している。
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【キリスト教解禁に対する賛否両論考】 | ||
大久保健晴「明治初期知識人における宗教論の諸相一西周と中村敬宇を中心に」ほか参照。 明六社同人として西洋学術の先駆的導入を通じて明治初期の思想界をリードした二人の代表的知識人、西周(1829-97)と中村敬宇(1832-91)の宗教論。 文久2(1862)年、西周がオランダに留学。「宋儒の迷巷」を批判して「上帝あるを信し之を推尊奉戴す」と説いた西周の「教門論」(明治7(1874)年)の一節。
慶応2(1866)年からの英国留学。「上帝につかへて慶敬を致す」と説く中村敬宇の「請質所聞」(明治2(1869)年)の一節は次の通り。
朱子学の「天即理」観批判。 キリスト教解禁を後押ししたのが明六社の知識人達である。「津田真道と森有礼の論争」が興味深い。明六雑誌第3号で、津田真道は「今や宇内人民一般の開化を賛くる者基教に如く者なし」(M3:8裏)として、日本の文明化のためにキリスト教による「教導」が必要であると説いた。これに対して、森有礼は、そこまでは唱えていないと云う違いはあるが、同時期の神道国教化による祭政一致体制創出を企図する政府内部の動きを牽制している点で共通性を持つ。 明治6(1873)年、聖書の「妄誕不経」を論じた儒者・安井息軒の『弁妄』。「それ耶蘇教は上天を拝するを以てその道となす。天は即ち理のみ。子の親を拝し、臣の君を拝するは、これ即ち理なり。(中略)今、臣子にして天を拝し、君父をあることなきに置きて、以て福を求めんと欲するは、これ天を謳ふるなり」という島津久光による序文が付けられている。「天即理」の観点から、忠孝に基づく政治的秩序を乱す危険思想として、或いは非合理的な来世論等によって人心を惑わす妖術としてキリスト教を批判している。 幕末明治初期における儒教とキリスト教をめぐる論争。後期水戸学は、會澤正志斎の『新論』に見られるように、儒教における国家祭祀論を再構成し、古代日本の神道と中国における天子の祭天儀礼や祖先崇拝を重ね合わせた神儒一致論に基づく天皇を中心とした祭祀体系を構想することよって「忠孝」に基づく国家統合を企図し、邪教キリスト教への対抗を図った。 |
【キリスト教解禁の裏での日本修験道禁制】 |
明治新政府のキリスト教解禁は、その裏で逆に日本の修験道禁制をセットにしていた。その様は、別章「山伏修験道考」の「修験道の歩み」で確認する。 |
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明治維新以降の1867年の「王政復古の大号令」、「祭政一致の布告」。1868(明治元)年の「神仏分離令」、その後の「廃仏毀釈運動」。1870(明治3)の「神祇鎮祭ノ詔」、「大教宣布の詔」。1871(明治4)の「天孫降臨神話に基づく大嘗祭の復活」、「神社社格制度の制定」、「氏子調べ制度の新設」。1872(明治5)年の太政官布達第273号「山伏修験道廃止令」。1873(明治6)、「切支丹邪宗禁制高札撤去によるキリスト教解禁」、「梓巫女(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑(より)、祈祷(きとう)、狐下ヶ(きつねさげ)等の所業禁止」を個別にみても姿形が分からない。流れを見ることにより、日本古来の伝統的宗教の硬派系が禁止され、逆にキリスト教、ユダヤ教が公認される過程だったことが判明しよう。こう捉えない宗教史評論は資料を死料にするものでしかない。 |
(私論.私見)