第66部 1879年 明治12年 82才 教祖、「月日」から「をや(親)」へと記す

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.6.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖、『月日』から『をや(親)」へ』と記す」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【教祖が、ナライトを貰い受けされる】
 明治 12 年陰暦 2 月、教祖は、「ナライトの身の内、神の方へ貰い受け、その上は、あつけんみよの社として人をたすける」と仰せられ、ナライトを忍足社に貰い受けになられる。

 ※あつけんみよ(あつけん明王)とは、胎内の縁を切る【たいしよくてん】、子供を引き出す【をふとのべ】、産んだ後の始末のつなぎ【くにさづち】の三神を総称してもの。「おふでさき10号83」に、「この心どふしていさむ事ならば月日にんそくつれてゞるぞや」とあり、「註釈」に「にんそくは、たすけ一条の上に親神様の手足となって、世界一列を救けてまわる者達の意」とある。

【お筆先十四号ご執筆】
 1879(明治12).6月頃から、教祖は、お筆先十四号をご執筆なされている。この頃、コレラが流行している。教祖は次のように記されている。
 身のうちに どのような事を したとても
 病ではない 月日手入れや
十四号21
 世界には コレラと云うて 居るけれど
 月日残念 知らすことなり
十四号22

【従来の「神」、「月日」に代えて「をや」(親)と記す】
 お筆先十四号29の時点より、教祖は、従来の「神」、「月日」に代えて「をや」(親)と記すようになり、新たな境涯へと向かわれることとなった。
 今までは 月日と云うて 説いたけど
 もう今日からは 名前替えるで
十四号29
 今日までは 大社高山 はびこりて
 ままにしていた ことであれども
十四号30
 これからは 親が替わりて ままにする
 これ背いたら すぐにかやすで
十四号31

【この頃の村内での天理教評判】
 この頃、村人はなお反対が強く、天理のお陰で親族や友人のもてなしやら、雨が降ったら傘も貸さねばならず、店が出たら子供が銭を使うし、随分迷惑がかかるので、天理さんを止めて貰いたい、さもなくば年々「ようない」を出して貰いたい云々の苦情が記録されている。又、夜参拝する人々には、頭から砂を掛ける、時にはわざと突き当たって川へはめるというようなこともあった、と伝えられている。

【山澤父子の道一条】
 6月、山澤良助が突然重い身上で水も飲めなくなった。良助は、為造の付き添いでおぢばに帰った。四日目、秀司が山澤父子に次のように語っている。
 「真に困った事やなぁ。良助さんすまん事やけれども、すつまでも水も通らないとすれば気の毒ではあるけれども、この上は居って貰いとうてもそう永らく居ってもらう事できんなあ。御宅の方へ帰ってもらはにゃならぬというのは、この通り空風呂炊いて宿屋営業の鑑札を受けて居るよって、警察署から調べに来られたら、さもなくとも始終探偵も来るし、もし来られて水も通じない病人を止宿させて居る事が分かれば、鑑札取り上げられて罰金まで取られにやならぬ事になる。左様な事になれば多人数の方々もこの屋敷へ帰ってもらい、参拝してもらう事できない事になって、第一神様へ申し訳なく、のみならず、御母上にも迷惑かける事になるから誠にお気の毒であるけれども、帰ってもらわにゃならんなあ。しかれども、医師にかかって居ってここで空風呂も入って養生して居るという事にすれば説明もできるし、申し訳が立つから宜しいけれども、水一口も通じない病人が、医師にも掛からずして、ただ止宿して居るというだけでは本当に困る事になるから、他の方であれば水も通じないというてすれば一日も居ってもらう訳には行かぬけれども、良助さんは外の方々とは違うから三日の間居ってもらつたが、いつまでもそうそう永らくという事は規則上行かぬ事になる故、この辺よくご承知くだされたい」(山澤為造「山澤為造略履歴」、復元第22号49-50頁)。

 山澤父子は、その日の夕方に帰宅した。翌朝、辻忠作が山澤宅に来訪し、家内揃って談じ合った結果、為造は堺師範学校を退学してお道の勉強に励み、父の良助は道一条の御用を勤める心定めをしておさづけを取り次いでいただき、鮮やかに御守護頂いた。良助は早速、毎日手弁当でお屋敷へ勤め始めた(山澤為造「山澤為造略履歴」52-53頁)。

【増井りんが教祖のお守役に登用される】
 天理教教祖伝逸話篇「65、用に使うとて」は次の通り。
 「明治12年6月頃のこと。教祖(おやさま)が、毎晩のお話の中で、『守りが要る、守りが要る』と仰せになるので、取次の仲田儀三郎、辻忠作、山本利八等が相談の上、秀司に願うたところ、おりんさんが宜かろうということになった。そこで、早速、翌日の午前10時頃、秀司、仲田の後に、増井りんがついて教祖のところへお伺いに行った。秀司から事の由を申し上げると、教祖は直ぐに、『直ぐ、直ぐ、直ぐ、直ぐ。用に使うとて引き寄せた。直ぐ、直ぐ、直ぐ。早く、早く。遅れた、遅れた。さあさぁち楽しめ、楽しめ。どんな事するのも何するも、皆な神様の御用と思うてするのやで。する事、なす事、皆な一粒万倍に受け取るのやで。さあさぁ早く、早く、早く。直ぐ、直ぐ、直ぐ』と、お言葉を下された。かくて、りんは、その夜から、明治20年、教祖が御身をかくされるまで、お側近くお守役を勤めさせて頂いたのである」。
 「おつとめの前後ー増井りん(その一)」を参照する。
 昭和5年10月、天理教婦人会から発行された”みちのだい(第1号)”の2-4頁に、「仲田佐右衛門先生について」のお守り役に関する御話について、「”おつとめの前後 増井りん”」が次のように述べている。 「古いことを何か書くようにとのお言葉でござりました。それで、若い時、書きつけておきました覚え書を繰(く)って見て、明治12年の6月頃のことを書かして頂きました。自分についてのことが多いので、どうかと思ったのですが、当時のことが例え少しでもおわかり頂けたらと思いましたので、ありのまゝを書かして頂きました。

 五十年余り前の6月の頃、御教祖様は『お説き流し』の中で、毎ばん『もりが要る/\』と云うことを仰せになりました。『お説き流し』と申すのは、夜中、天の神様が御教祖様にお天下りになって、色々お言葉やお指図をなさることで、大抵は節をおつけになって歌をうたう様に仰せになったことを申すのでござります。その『お説き流し』の中で、この『もり』の要ることを毎夜お繰り返し遊ばされたのでござります。それでお取次ぎの仲田佐右衛門さん、辻忠作さん、山本利八さんなどの先生方が御相談になって、この由を秀司先生にお願い申上げて、お決めを頂こうと云うことになりました。それでその翌(あく)る日、三人の先生は打ち揃って秀司先生にお願いになりました。三人も打ち揃うてお出でになったのは、その当時お上の圧迫は殆んど秀司先生に集中せられて細大漏らさず見張りの眼をみはっていましたので、先生は非常な御自重で容易になにごともお許しにならなかったからです。先生方からお願いの結果は案の條、お許しが出ませんでした。お上がこんなに厳しいのはあんた達も知っているだろう。おばん(御教祖)にそんなものつけたら、又何(ど)んな難題をつけて来るか知れんやないか、との仰せで容易にお取り上げになる模様はありませんでした。

 三人の先生は途方にくれられました。神様と秀司先生の間に立って思案にくれられました。秀司先生のお立場に立って考えて見れば御尤(ごもっと)もな仰せの様である。さりとて神様からの御督促もほっておけぬので、三人の先生方は入り替り立ち替り、根気よく秀司先生の御部屋に日参なされました。併し、先生の御意志とお言葉は前と少しも変りませんでした。くどいなあとも仰せになりました。それで先生方は仕方なく、仰せの趣きにつきましては秀司先生に申上げてお願いいたしていますが、一向お取り上げ下さりません。吾々三人の者はまことに/\どうしてよいやら皆々心配いたしていまする、と直接神様に申上げられました。すると神様は『さようかえ、そんならにんはうちにまかせおこう』との仰せでござりました。それで先生方は再び右の神様のお言葉を具して秀司先生にお願いをせられました」。
 宇野晴義「仲田佐衛門先生に就いて 増井りん記録(四)」(史料掛報第119号835-836頁)は次のように記している。
 「神様は毎晩/\お説き流しのお話の中にて、守が要る/\/\と仰せられまするので、取次人からその由を毎晩/\お願いに来られます。なれどそんなことを致しますると、またお上がやかましいので、なんぼ言うて来ましても取り上げずにおりました。ところが神様は改めて『人は内へ任せおく』と仰せられるので、その由また毎晩しぶとく願って来ます。それで只今内で決めてお伺い申し上げるので御座りまするが、この『守』と申するのは、夫のある人や幼い子供のある者ではいきませんので、只今河内から来ているおりんさんで御座いまするが、あの人は独身でありますし、教理もよく治まり大人しいのでござりまするから、この人を御守と決めていただきますれば宜しいと存じましてお伺い申し上げるので御座りまする」。

 秀司がりんに次の通り述べている。
 「おりんさん、あのような神様のお指図やから、すぐに早く勤めるのやで。何するのも皆な神の御用やと思う👇どんなこともするのやで。それを神様がまんご末代の理にお受け取り下さいまするのやから、結構やで/\」。

 松谷武一「先人の面影」44頁は次のように記している。
 「山澤良助が生涯道一条の心を定めたときと、桝井りんが教祖のお守り役に決まったときが、同じ明治12年6月であったというのも、まことに不思議なことであった」。

 (道人の教勢、動勢)
 12.9日(陰暦10.26日)、秋季大祭のこの日、松田音次郎、山田長造、松永好松、日下岩蔵の4人の名前が止宿人(ししゅくにん)控えに記帳されている。
 「1879(明治12)年の信者たち」は次の通りである。この年、河内の高井猶吉、大阪の井筒梅治郎、阿波の土佐卯之助らが信仰を始める。
 井筒梅次郎(42歳)
 7月、大阪摂津国西成郡九条村本田(現・大阪市西区本田)の綿卸商/井筒梅次郎(42歳)が長女たねの百いぼ病を種市(前田藤助)のおたすけでご守護頂く。隣家の主・中川文吉の突然の失明を種市の依頼で祈願、ご守護頂く。これを手引きに入信。(稿本天理教教祖伝逸話篇71「あの雨の中を」、76「牡丹の花盛り」)

 1896(明治29).12.31日、出直し(享年59歳)。入信の翌年初参拝。明治20.6月、神水(こうずい)のさづけ。芦津分教会(現大教会)初代会長。たね(3代会長)。たねの養子・松村五三郎(2代会長)。

 「道のさきがけ 教祖伝にみる人物評伝」 の「井筒梅治郎夫婦の入信」は次の通り。
 「梅治郎夫婦は、子供が授かっても育たなかった。五人目に生まれた長女たねも、生後3ヶ月頃から下半身にイボのような腫れ物(はれもの)ができ、花が咲いたように赤く腫れ上がって、どうしても治らなかった。大阪の商人(あきんど)・萬(よろづ)綿商『播清』(はりせい)の主(あるじ)梅治郎は、金に糸目をつけず、娘を救けようと医者、薬と手を施したが、一向に効き目がない。当時、大阪商人の旦那方(だんながた)の間では、大峰山(おおみねさん)の行者(ぎょうじゃ)として、行場(ぎょうじょう)を回りながら修行を積む人がいた。梅治郎も修行者の先達(せんだつ)として大峰山の熱心な信心家であったので、家で護摩(ごま)を焚(た)き、祈祷して長女たねの平癒(へいゆ)を祈ったが、やはり効き目はなく、途方に暮れてしまった。隣家の紺屋(染物屋)に出入りしていた花の種売り、通称『種市』(たねいち)こと前田藤助(まえだとうすけ)から、『大和(やまと)に生き神様がいる』と聞き、藁(わら)にも縋(すが)る思いで『たすけ』を求めた。種市は水垢離(みずごり)をとって、梅治郎夫婦とともに東方に向かって神名を唱え、真剣に祈った。あれほどまで赤く腫れ上がっていたたねの身体から、赤みが引いていく……。時に明治12年(1879)7月30日のことである。

   元来、神仏への信仰心のあつい梅治郎は、救けられた喜びを、どうしてご恩返しすればよいものかと思案の末、病気で苦しむ人を救けることだと悟った。早速折しも、突然眼病を患い失明した隣家の紺屋の主、中川文吉(後に真明組の講脇になった人)の「おたすけ」にかかった。お灯明(とうみょう)を点け、水垢離をとって、三日のお願いを済ませた時、『ああ、お灯明の明かりが見える……』と文吉。ご守護を戴いたのである。

   明けて春4月。娘たねと、文吉を救けて頂いたお礼を教祖に申し上げたい一念から、1歳になったたねを連れて、梅治郎夫婦は初めておぢば帰りをした。家を出る時は大雨で難儀したが、途中、河内の国分村(現大阪府柏原市国分)で一泊し、翌4月14日、晴天の中、おぢばに到着した。教祖は、『あの雨の中を、よう来なさった』、『……子供の身上は案じることはない』と、癒え残ったたねの腫れ物にお紙を貼られ、梅治郎に、『珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下されるのや』とお言葉を戴いた。おぢばに居ながら総てを見抜き見通しの教祖。これぞ真実の神であると悟った梅治郎は、『大木の根を下ろす』との教祖のお言葉を、全身全霊で噛み締めていた。

   梅治郎は、五尺九寸(約179cm)、二十貫(約75㎏)の、恰幅(かっぷく)のある大阪の商人であった。街では相撲も取り、どんな揉め事でも、梅治郎が顔を出すと治まるという、頼もしい顔役でもあった。『大阪の地に、たすけ一条の大木を下ろす』と仰せられた神様の思いを受けた梅治郎は、おたすけに奔走した。文吉をはじめ、不思議な守護を目の当たりにした人々は、たすけを請(こ)うてきた。その数は夥(おびただ)しく、戸板で担ぎ込まれる人、人力車で駆けつける人、家の中はたすけを求め、話を聞きに来る人が増えたので、明治十三年から十四年にかけて、向かいの二階を開放し、人々の集まる集会所とした。これを『本田寄所』(ほんでんよりしょ)と呼んだ。やがて講名拝戴の機運が持ち上がり、そのお許しを戴くため、梅治郎は信者と共におぢばに帰った。明治十四年五月十四日、教祖から真明組(しんめいぐみ)の講名を拝戴。入信して二年目であった。梅治郎は、救けて頂いたご恩、日々生かされているご恩は、人を救けることによって報いることができると自らも信じ、それを人々に説いた。それで、この道を聞き分けた人々は皆、人だすけに励んだ」(「道のさきがけ」116-119頁)。
 土佐卯之助(23歳)
 秋、周防国佐波郡向島(現・山口県防府市向島)、阿波の回船業/の土佐卯之助(23歳)が、生家・白井家より土佐家の養女まさの婿養子となる。その後、心臓脚気を煩い、博多藤次郎のお助けでご守護頂き入信。(稿本天理教教祖伝逸話篇88「危ないところを」、99「大阪で婚礼が」、152「倍の力」、175「十七人の子供」)

 1928(昭和3).8.6日、出直し(享年74歳)。入信の翌年初参拝。おさづけ(明治21年)。撫養支教会(現大教会)初代会長。
 高井猶吉(19歳)
 河内の桶屋奉公/高井猶吉(19歳)が本人の悪性感冒を手引きに入信。
 「高井猶吉」(「清水由松傳稿本」119-120p)。
 「河内國老原村の人、もとは桶屋で明治十二年十九才悪性風邪を助けて頂いての入信である。明治十五六年頃からおやしきに入込まれたと聞いている。素直正直無口な人であった為、人から頭が高いように見られ、「頭高井さん」などとあだ名されたが、少しもえらばる所もなく実直によくつとめられ皆から「猶やん猶やん」と愛称された。その夫人は仲田左右衛門(さよみ)さんの長女である。先生は無学ではあったが、お息のおさづけを頂かれた。とても記憶の良い人で、お話は真面目な古紀話が多く少しも変らなかった。四国の組合長をされ、その方面の受持であったほか、各地の支庁長をつとめ、晩年は山沢(為造)、松村(吉太郎)、板倉(槌三郎)三先生と共に本部の元老として重きを為しておられたが、昭和十六年十一月二十一日、八十一才で出直された。先生は家庭的には恵まれず、夫人つねさんは早く出直して子なく、中田寅蔵さんを養嗣子に迎えて孫一男一女ができたが若くして出直し、そのあとへ中川義一を入婿にされた。ところが今度は嫁が出直し、更に入婿に嫁を迎えさすという風で不幸がたえなかった。それかあらぬか因縁の理についての御教理を深く説かれた」。
 宮森与三郎()
 「69、弟さんは、尚もほしい」。
 「明治十二、三年頃の話。宮森与三郎が、お屋敷へお引き寄せ頂いた頃、教祖は、『心の澄んだ余計人(よけびと)が入用』とお言葉を下された。余計人と仰せられたのは、与三郎は九人兄弟の三男で、家に居ても居なくても、別段差し支えのない、家にとっては余計な人という意味であり、心の澄んだというのは、生来、素直で正直で、別段欲もなく、殊にたんのうがよかったと言われているから、そういう点を仰せになったものと思われる。又、明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せてもらっていたら、『為造さん、あんたは弟さんですな。神様はなあ、弟さんは尚もほしいと仰っしゃりますねで』と、お聞かせ下された」。
 「70、私も手伝いましょう」。
 「明治十二、三年頃の初夏時分、カンカン照りの陽射しの下で、高井猶吉や宮森与三郎らが汗ばみながら麦の穂を唐棹(からさお)で打って実を落す麦かち(麦打ち)をしていると、当時82、3歳になられた教祖も出て来られて、『私も手伝いましょう』と仰せになり、手ぬぐいを姉さん冠(かぶ)りにして、皆と一緒に重い唐棹を持って手伝われた。それは、どう見ても八十を越えた御方とは思えぬ元気さであった」。

【この頃の逸話】
 前川喜三郎の妻たけ
 天理教教祖伝逸話篇「66、安産」。
 「前川喜三郎の妻たけが、長女きみを妊娠した時、をびや許しを頂きに、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、教祖は、『よう帰って来た』と仰せられ、更に、『出産の時は、人の世話になること要らぬ』と、お言葉を下された。たけは、産気づいた時、家には誰も居なかったので、教祖の仰せ通り、自分で湯を沸かし、盥も用意し、自分で臍の緒を切り、後産の始末もし、赤児には産湯をつかわせ、着物も着せ、全く人の世話にならずに、親神様の自由自在の御守護によって、安産させて頂いた」。

 註 前川きみの出生は、明治13年1.25日である。よってをびや許しを頂いたのは、その前年明治12年と推定される。
 抽冬鶴松
 天理教教祖伝逸話篇「67、かわいそうに」。
 「大阪府大鳥郡上神谷(にわだに)村字富蔵の抽冬(ぬくとう)鶴松は、幼少から身体が弱く、持病の胃病が昂じて、明治12年、16才の時に、危篤状態となり、医者も匙を投げてしまった。この時、遠縁にあたる東尾の伝手で、浅野喜市が、にをいをかけてくれた。そのすすめで入信を決意した鶴松は、両親に付き添われ、戸板に乗せてもらって、12里の山坂を越えて、初めておぢば帰りをさせて頂き、一泊の上、中山重吉の取次ぎで、特に戸板のお許しを頂いて、翌朝、教祖にお目通りさせて頂いた。すると、教祖は、『かわいそうに』、と仰せになって、御自身召しておられた赤の肌襦袢を脱いで、鶴松の頭からお着せ下された。この時、教祖の御肌着の温みを身に感じると同時に、鶴松は夜の明けたような心地がして、さしもの難病も、それ以来薄紙をはぐように快方に向かい、一週間の滞在で、ふしぎなたすけを頂き、やがて全快させて頂いた。鶴松は、その時のことを思い出しては、今も尚、その温みが忘れられない、と一生口癖のように言っていた、という」。
 平野辰次郎
 「68、先は永いで」。
 「泉州(せんしゅう)堺の平野辰次郎は、明治7年、19才の頃から病弱となり、6年間、麩を常食として暮らしていた。ところが、明治12年、24才の時、山本多三郎からにをいがかかり、神様のお話を聞かして頂いたその日から、麩の常食をやめて、一時に鰯を三十匹も食べられる、という不思議な御守護を頂いた。その喜びにおぢばへ帰り、蒸風呂にも入れて頂き、取次からお話を聞かせて頂き、家にかえってからは、早速、神様を祀らせて頂いて、熱心ににをいがけ・おたすけに励むようになった。こうして、度々おぢばへ帰らせて頂いているうちに、ある日、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖が、『堺の平野辰次郎というのは、おまえかえ』、と仰せになって、自分の手を差し出して、『私の手を握ってみなされ』、と仰せになるので、恐る恐る御手を握ると、『それだけの力かえ。もっと力を入れてみなされ』、と仰せになった。それで、力一杯握ったが、教祖が、それ以上の力で握り返されるので、全く恐れ入って、教祖の偉大さをしみじみと感銘した。その時、教祖は、『年はいくつか。ようついて来たなあ。先は永いで。どんな事があっても、愛想つかさず信心しなされ。先は結構やで』、とお言葉を下された」。

 (当時の国内社会事情)
 1879(明治12)年、1.30日、鹿児島の私学校生徒、新政府の陸海軍施設を襲撃し、武器弾薬を奪う。2.15日、西南戦争勃発。西郷隆盛、一万五千の兵を率いて北上。2.22日、西郷軍、熊本鎮台を包囲。3.3日、田原坂の戦い。西郷軍と新政府軍、熊本の田原坂で激闘。4.14日、新政府軍別働隊、熊本城に入城。5.3日、佐野常民ら、西南戦争の戦傷者救護のため、博愛社(日本赤十字社)を設立。9.24日、鹿児島県城山陥落。西郷隆盛、桐野利秋ら自刃。西南戦争終結。
 この年、東京府会開会。憲法制定論議高まる。
 この年、コレラが全国に蔓延する。6.27日、コレラ予防法定める。明治政府は予防体制の整備を急ぎ、同年「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」を、1880(明治13)年には「伝染病予防規則」を定め、統一的かつ恒常的な感染症予防対策が初めて行われることとなった。これらの対策により、コレラの流行は明治中期以降、落ち着きを見せた。
 この年、政府が沖縄県設置を布告する。

 (宗教界の動き)
 新約聖書の翻訳完成。
 平山省斎、神道大成教を開く。
 佐野経彦、神理教を開く。
 東京招魂社を靖国神社に改称し、内務省・陸軍省・海軍省の管理とした。

 (当時の対外事情)
 琉球藩が廃止され、沖縄県が置かれる。

 (当時の海外事情)
 1879年、エジソンが電球を発明する。





(私論.私見)