「梅治郎夫婦は、子供が授かっても育たなかった。五人目に生まれた長女たねも、生後3ヶ月頃から下半身にイボのような腫れ物(はれもの)ができ、花が咲いたように赤く腫れ上がって、どうしても治らなかった。大阪の商人(あきんど)・萬(よろづ)綿商『播清』(はりせい)の主(あるじ)梅治郎は、金に糸目をつけず、娘を救けようと医者、薬と手を施したが、一向に効き目がない。当時、大阪商人の旦那方(だんながた)の間では、大峰山(おおみねさん)の行者(ぎょうじゃ)として、行場(ぎょうじょう)を回りながら修行を積む人がいた。梅治郎も修行者の先達(せんだつ)として大峰山の熱心な信心家であったので、家で護摩(ごま)を焚(た)き、祈祷して長女たねの平癒(へいゆ)を祈ったが、やはり効き目はなく、途方に暮れてしまった。隣家の紺屋(染物屋)に出入りしていた花の種売り、通称『種市』(たねいち)こと前田藤助(まえだとうすけ)から、『大和(やまと)に生き神様がいる』と聞き、藁(わら)にも縋(すが)る思いで『たすけ』を求めた。種市は水垢離(みずごり)をとって、梅治郎夫婦とともに東方に向かって神名を唱え、真剣に祈った。あれほどまで赤く腫れ上がっていたたねの身体から、赤みが引いていく……。時に明治12年(1879)7月30日のことである。
元来、神仏への信仰心のあつい梅治郎は、救けられた喜びを、どうしてご恩返しすればよいものかと思案の末、病気で苦しむ人を救けることだと悟った。早速折しも、突然眼病を患い失明した隣家の紺屋の主、中川文吉(後に真明組の講脇になった人)の「おたすけ」にかかった。お灯明(とうみょう)を点け、水垢離をとって、三日のお願いを済ませた時、『ああ、お灯明の明かりが見える……』と文吉。ご守護を戴いたのである。
明けて春4月。娘たねと、文吉を救けて頂いたお礼を教祖に申し上げたい一念から、1歳になったたねを連れて、梅治郎夫婦は初めておぢば帰りをした。家を出る時は大雨で難儀したが、途中、河内の国分村(現大阪府柏原市国分)で一泊し、翌4月14日、晴天の中、おぢばに到着した。教祖は、『あの雨の中を、よう来なさった』、『……子供の身上は案じることはない』と、癒え残ったたねの腫れ物にお紙を貼られ、梅治郎に、『珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下されるのや』とお言葉を戴いた。おぢばに居ながら総てを見抜き見通しの教祖。これぞ真実の神であると悟った梅治郎は、『大木の根を下ろす』との教祖のお言葉を、全身全霊で噛み締めていた。
梅治郎は、五尺九寸(約179cm)、二十貫(約75㎏)の、恰幅(かっぷく)のある大阪の商人であった。街では相撲も取り、どんな揉め事でも、梅治郎が顔を出すと治まるという、頼もしい顔役でもあった。『大阪の地に、たすけ一条の大木を下ろす』と仰せられた神様の思いを受けた梅治郎は、おたすけに奔走した。文吉をはじめ、不思議な守護を目の当たりにした人々は、たすけを請(こ)うてきた。その数は夥(おびただ)しく、戸板で担ぎ込まれる人、人力車で駆けつける人、家の中はたすけを求め、話を聞きに来る人が増えたので、明治十三年から十四年にかけて、向かいの二階を開放し、人々の集まる集会所とした。これを『本田寄所』(ほんでんよりしょ)と呼んだ。やがて講名拝戴の機運が持ち上がり、そのお許しを戴くため、梅治郎は信者と共におぢばに帰った。明治十四年五月十四日、教祖から真明組(しんめいぐみ)の講名を拝戴。入信して二年目であった。梅治郎は、救けて頂いたご恩、日々生かされているご恩は、人を救けることによって報いることができると自らも信じ、それを人々に説いた。それで、この道を聞き分けた人々は皆、人だすけに励んだ」(「道のさきがけ」116-119頁)。