【この頃の逸話】 |
この頃、山中忠七の次女こいそ(当時18歳)が嫁ぎ先から戻り、教祖のお膝元で仕える身になった。逸話篇59「まつり」。「まつりの理のお諭し」。
「明治11年正月、山中こいそ(註、後の山田いゑ)は、28才で教祖の御許にお引き寄せ頂き、お側にお仕えすることになったが、教祖は26日の理について、『まつりというのは、待つ理であるから、26日は、朝から他の用は何もするのやないで。この日は、結構や、結構やと、”をや様”の御恩を喜ばして頂いておればよいのやで』と、お聞かせ下されていた。こいそは、赤衣を縫う事と、教祖のお髪を上げる事とを日課としていたが、赤衣は、教祖が必ず自らお裁ちになり、それをこいそにお渡し下さる事になっていた。教祖の御許にお仕えして間もない明治11年4月28日、陰暦3月26日の朝、お掃除もすませ、まだ時間も早かったので、こいそは教祖に向かって、『教祖、朝早くから何もせずにいるのは余りに勿体のう存じますから、赤衣を縫わして頂きとうございます』とお願いした。すると教祖は、しばらくお考えなされてから、『さようかな』と仰せられ、すうすうと赤衣をお裁ちになって、こいそにお渡し下された。こいそは御用ができたので喜んで早速縫いにかかったが、一針二針縫うたかと思うと、俄かにあたりが真暗になって、白昼の事であるのに、黒白も分からぬ真の闇になってしまった。愕然としてこいそは、教祖、と叫びながら、『勿体ないと思うたのは却って理に添わなかったのです。赤衣を縫わして頂くのは明日の事にさして頂きます』と心に定めると、忽ち元の白昼に還って何の異状もなくなった。後で、この旨を教祖に申し上げると、教祖は、『こいそさんが、朝から何もせずにいるのは、あまり勿体ない、と言いなはるから裁ちましたが、やはり二十六日の日は、掃き掃除と拭き掃除だけすれば、おつとめの他は何もする事要らんのやで。してはならんのやで』と仰せ下さった」。 |
山中忠七の次女こいそは嘉永4年生まれ。明治11年から教祖の側でお仕えする。明治14年、倉橋村(桜井市)の山田伊八郎と結婚。結婚した年の暮れまでに、村の半数を導き、心勇講(敷島の前身)を結ぶ。昭和3年、出直し(享年78歳)。夫・伊八郎は敷島の二代会長をつとめ、本部員に登用された。 |
「逸話篇60.金平糖の意味」。
「教祖は、御供(ごく)を渡されるとき、次のようにお諭しされていた。『ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供(ごく)を渡すのやで。一ぷくは、一寸(ちょっと)の理。中に三粒あるのは、ちょっと身につく理。二(ふた)ふくは、六(ろっ)くに守る理。三ふくは、身について苦がなくなる理。五ふくは、理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七ふくは、何にも言うことない理。三、七、二十一となるから、たつぷり何にも言うことない理』」。 |
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「61.廊下の下を」。
「明治11年、上田民蔵18才の時、母いそと共に、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。教祖が、『民蔵さん、わたしとおまはんと、どちらが力強いか、力比べしよう』と仰せになり、教祖は、来たの上段にお上がりになり、民蔵は、その下から、一、二、三のかけ声で、お手を握って、引っ張り合いをした。力一杯引っ張ったが、教祖はビクともなさらない。民蔵は、そのお力の強いのに、全く驚嘆した。又、ある時、民蔵がお側へ伺うと、教祖が、『民蔵さん、あんた、今は大西から帰って来るが、先になったら、おなかはんも一しょに、この屋敷へ来ることになるのやで』と、お言葉を下された。民蔵は、『わしは百姓をしているし、子供もあるし、そんな事出来そうにもない』と思うたが、その後子供の身上から、家族揃うてお屋敷へお引き寄せ頂いた。又、ある時、母いそと共にお屋敷へ帰らせて頂いた時、教祖は、『民蔵はん、この屋敷は、先になったらなあ、廊下の下を人が往き来するようになるのやで』と仰せられた。後年、お言葉が次々と実現して来るのに、民蔵は、心から感じ入った、と言う」。 |
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「62. これより東」。
「明治11年12月、大和国上之郷村(かみのごうむら)笠の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から庄屋敷には、病たすけの神様がござると聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、『よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで』と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。明治十三年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。
又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、『笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで』と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。『これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ』と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった」。 |
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「63. 目に見えん徳」。
「或る時、教祖が山中こいそに、『目に見える徳欲しいか、目に見えん徳欲しいか、どちらやな』とお尋ねになられた。こいそは、『形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます』とお答えした。」。 |
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「64. この道は、身体を苦しめて通るのやないし」。
「或る日、大阪の泉田藤吉(通称・熊吉)が、おぢばが恋しくなってお屋敷へ還らせていただいたところ、教祖は膝の上で皺紙を伸ばしておられ、次のようにお諭しされた。『こんな皺紙でも、やんわり伸ばしたせ、綺麗になって、又使えるのや。何一つ要らんというものはない』」。 |
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「64. この道は、身体を苦しめて通るのやないし」。
「泉田藤吉は大阪で熱心にお助けに廻っていたが容易には道がつかなかった。心が倒れかけると、厳寒の深夜、淀川に行って一つ刻(約2時間)ほども水に浸かり、堤に上がっても手ぬぐいを使っては効能がないと、体が乾くまで風に吹かれていた。水から出て、寒い北風に吹かれて体を乾かすのは身を切られるように痛かったが、我慢して三十日ほど続けた。また、何でも苦しまねばならぬと、天神橋の橋杭(はしぐい)につかまって、一晩川の水に浸かってから、お助けに廻らせて頂いていた。その頃、お屋敷に帰った藤吉は、教祖にお目通りした際、次のお言葉を頂いた。『熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで』」。 |
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