第65部 1878年 明治11年 81才 講の結成

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


 この頃、教祖の行為は村にとって迷惑だから、「天理さんを止めてもらいたい」と中山家に申し入れが為されている。


 この頃よりハッタイ粉の代わりに金米糖を御供として渡す。

 この年、教祖が上田ナライトを「一身暮らし」として貰いうけている。明治40年より大正7年までおさづけのお運びをつとめる。


【隠れ御手振り稽古その一】
 「一下り目七ッの手振りについて」( 昭和六年四月第十九回総会「天理教婦人会の栞」「所感」村田すま 50~51p)。
 「(前略)明治11年の夏の事で御座りますが、その当時は警察の干渉が厳しくて、とてもお地場の方では御神楽の稽古などをさして貰うことができませなんだので、御神楽勤を教えて貰いたい者ばかり私の方(前栽の家)へ集って、かくれて御神楽の稽古をさして貰うて居りましたのです。その時の先生は仲田佐右衛門さんで、稽古人は松尾重兵衛(市兵衛?)さん、山本利三郎さん、(村田)長平の兄さん、おかじさんと夫の幸助と私との、なんでも六人であったと思います。この人等と共に毎日稽古さして貰って居りましたが、或日の事、一下り目の七ッの手を振り上げようと佐右衛門さんがなされたら、俄かに佐右衛門さんがエライ腹痛をおこさはったので、すぐ稽古をやめて庄屋敷へ神様に伺いに帰られたら、神様は『一下り目の七ッ』と仰せになって、御教祖様御自ら今の手をお振り遊ばしたので御座ります。それ迄は一下り目の四ッの手と七ッの手と、同じふりあげの手であったのであります。この時に七ッの手のふりかたを御改め遊ばしたので御座ります。それから後の事でありましたが、甘露台さんの前の御願い勤めに出さして頂いた時などは『今日は手がちごうたら神はしりぞく』と宣(のたま)わせられたことが御座ります。で御座りますから、皆な出さして頂く者は一生懸命で御座りましたので、御神楽のお手などは、少しも間違わなかったので御座ります。(後略)」。

【山澤為造引き出し】
 10.26日、御命日(今日の本部秋季大祭)の日、山澤為造が改めてお屋敷へ参拝し、伯父山中忠七の案内で教祖の御前へ連れて行かれた。忠七は教祖に、「神様、新泉の良助のせがれ引き出しになりました」と申し上げたところ、教祖はこの時、為造に、身上は神様よりの貸しもの、自分に於いては借り物であることを一通りお聞かせ下された後、お息をかけてくだされている。為造はお菓子も頂戴して御前を退き、つとめ場所で、辻忠作から朝夕のおつとめの地歌とその唱え方、手振りの仕方を教わり、自宅の神様に燈明をあげて、お願いしてお勤めをするようにと諭された、という。

 (道人の教勢、動勢)
 「1878(明治11)年の信者たち」は次の通りである。
 真明講
 1878年(明治11)年、4月頃、秀司を講元として真明講が結ばれる。世話人は仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衛、中尾休治郎ら。この頃から金米糖を御供えとして渡す。
 矢追楢蔵
  「天理教教祖は強い父の夢を見たか?ー日本の宗教界と宗教学の共犯関係ー」を参照する。(「稿本天理教教祖伝逸話篇」98-100pの「逸話五七 男の子は、父親付きで」)
 「明治10年夏、大和国伊豆七条村の矢追楢蔵(当時9才)は、近所の子ども二、三名と村の西側を流れる佐保川に川遊びに行ったところ一の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが二、三日経つと大層腫れてきた。別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに両親も心配して、医者にもかかり加持祈祷もするなど種々と手をつくしたが一向に効しは見えなかった。その頃、同村の喜多次郎吉の伯母矢追こうと桝井伊三郎の母キクは既に熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに信心をすすめてくれた。ことは元来信心家であったので直ぐその気になったが、楢蔵の父惣五郎は百姓一点張りで、むしろ信心するものを笑っていたくらいであった。そこで、ことが、『わたしの還暦祝いをやめるか信心するか、どちらかにしてもらいたい』とまでいったので、惣五郎はやっとその気になった。11年1月(陰暦前年12月)のことである。

 そこで、祖母のことが楢蔵を連れておぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところをご覧いただくと、教祖は、「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで」とお言葉を下された。それからというものは、祖母のことと母のならが三日目毎に交替で、一里半の道を楢蔵を連れてお詣りしたが、はかばかしくご守護をいただけない。

 明治11年3月中旬(陰暦2月中旬)、ことが楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、『‘’男の子は父親付きで‘’とお聞かせくださる。一度、惣五郎さんが連れて参りなされ』と言ってくれた。それで、家に戻ってから、ことは、このことを惣五郎に話して、『ぜひお詣りしておくれ』と言った。それで、惣五郎が、3月25日(陰暦2月22日)、楢蔵を連れておぢばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は、最初の病みはじめのように腫れ上がったが、28日(陰暦2月25日)の朝にはすっかり全快のご守護を頂いた。家族一同の喜びは譬えるにものもなかった。当時10才の楢蔵も心に沁みて親神様のご守護に感激し、これが一生変わらぬ堅い信仰のもととなった」。

 松尾市兵衛が出直し(亨年49歳)
 1878年(明治11)年、1.17日、松尾市兵衛が出直し(亨年49歳)。二男與蔵(譽蔵)が「お道」の後を継ぎ、平安分教会(現大教会)三代会長を勤めることになる。
 岡本重治郎出直し(亨年60歳)
 1878年(明治11)年、7.18日、岡本重治郎が出直し(亨年60歳)。長男・善六は旭日支教会(現大教会)初代会長。
 この年、福井治助(文政13年(1816)生まれ。教祖の長女まさと結婚。のちに離縁)が出直し(享年63歳)。

【この頃の逸話】
 この頃、山中忠七の次女こいそ(当時18歳)が嫁ぎ先から戻り、教祖のお膝元で仕える身になった。逸話篇59「まつり」。「まつりの理のお諭し」。
 「明治11年正月、山中こいそ(註、後の山田いゑ)は、28才で教祖の御許にお引き寄せ頂き、お側にお仕えすることになったが、教祖は26日の理について、『まつりというのは、待つ理であるから、26日は、朝から他の用は何もするのやないで。この日は、結構や、結構やと、”をや様”の御恩を喜ばして頂いておればよいのやで』と、お聞かせ下されていた。こいそは、赤衣を縫う事と、教祖のお髪を上げる事とを日課としていたが、赤衣は、教祖が必ず自らお裁ちになり、それをこいそにお渡し下さる事になっていた。教祖の御許にお仕えして間もない明治11年4月28日、陰暦3月26日の朝、お掃除もすませ、まだ時間も早かったので、こいそは教祖に向かって、『教祖、朝早くから何もせずにいるのは余りに勿体のう存じますから、赤衣を縫わして頂きとうございます』とお願いした。すると教祖は、しばらくお考えなされてから、『さようかな』と仰せられ、すうすうと赤衣をお裁ちになって、こいそにお渡し下された。こいそは御用ができたので喜んで早速縫いにかかったが、一針二針縫うたかと思うと、俄かにあたりが真暗になって、白昼の事であるのに、黒白も分からぬ真の闇になってしまった。愕然としてこいそは、教祖、と叫びながら、『勿体ないと思うたのは却って理に添わなかったのです。赤衣を縫わして頂くのは明日の事にさして頂きます』と心に定めると、忽ち元の白昼に還って何の異状もなくなった。後で、この旨を教祖に申し上げると、教祖は、『こいそさんが、朝から何もせずにいるのは、あまり勿体ない、と言いなはるから裁ちましたが、やはり二十六日の日は、掃き掃除と拭き掃除だけすれば、おつとめの他は何もする事要らんのやで。してはならんのやで』と仰せ下さった」。

 山中忠七の次女こいそは嘉永4年生まれ。明治11年から教祖の側でお仕えする。明治14年、倉橋村(桜井市)の山田伊八郎と結婚。結婚した年の暮れまでに、村の半数を導き、心勇講(敷島の前身)を結ぶ。昭和3年、出直し(享年78歳)。夫・伊八郎は敷島の二代会長をつとめ、本部員に登用された。
 「逸話篇60.金平糖の意味」。
 「教祖は、御供(ごく)を渡されるとき、次のようにお諭しされていた。『ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供(ごく)を渡すのやで。一ぷくは、一寸(ちょっと)の理。中に三粒あるのは、ちょっと身につく理。二(ふた)ふくは、六(ろっ)くに守る理。三ふくは、身について苦がなくなる理。五ふくは、理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七ふくは、何にも言うことない理。三、七、二十一となるから、たつぷり何にも言うことない理』」。
 「61.廊下の下を」。
 「明治11年、上田民蔵18才の時、母いそと共に、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。教祖が、『民蔵さん、わたしとおまはんと、どちらが力強いか、力比べしよう』と仰せになり、教祖は、来たの上段にお上がりになり、民蔵は、その下から、一、二、三のかけ声で、お手を握って、引っ張り合いをした。力一杯引っ張ったが、教祖はビクともなさらない。民蔵は、そのお力の強いのに、全く驚嘆した。又、ある時、民蔵がお側へ伺うと、教祖が、『民蔵さん、あんた、今は大西から帰って来るが、先になったら、おなかはんも一しょに、この屋敷へ来ることになるのやで』と、お言葉を下された。民蔵は、『わしは百姓をしているし、子供もあるし、そんな事出来そうにもない』と思うたが、その後子供の身上から、家族揃うてお屋敷へお引き寄せ頂いた。又、ある時、母いそと共にお屋敷へ帰らせて頂いた時、教祖は、『民蔵はん、この屋敷は、先になったらなあ、廊下の下を人が往き来するようになるのやで』と仰せられた。後年、お言葉が次々と実現して来るのに、民蔵は、心から感じ入った、と言う」。
 「62. これより東」。
 「明治11年12月、大和国上之郷村(かみのごうむら)笠の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から庄屋敷には、病たすけの神様がござると聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、『よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで』と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。明治十三年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。

 又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、『笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで』と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。『これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ』と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった」。
 「63. 目に見えん徳」。
 「或る時、教祖が山中こいそに、『目に見える徳欲しいか、目に見えん徳欲しいか、どちらやな』とお尋ねになられた。こいそは、『形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます』とお答えした。」。
 「64. この道は、身体を苦しめて通るのやないし」。
 「或る日、大阪の泉田藤吉(通称・熊吉)が、おぢばが恋しくなってお屋敷へ還らせていただいたところ、教祖は膝の上で皺紙を伸ばしておられ、次のようにお諭しされた。『こんな皺紙でも、やんわり伸ばしたせ、綺麗になって、又使えるのや。何一つ要らんというものはない』」。
 「64. この道は、身体を苦しめて通るのやないし」。
 「泉田藤吉は大阪で熱心にお助けに廻っていたが容易には道がつかなかった。心が倒れかけると、厳寒の深夜、淀川に行って一つ刻(約2時間)ほども水に浸かり、堤に上がっても手ぬぐいを使っては効能がないと、体が乾くまで風に吹かれていた。水から出て、寒い北風に吹かれて体を乾かすのは身を切られるように痛かったが、我慢して三十日ほど続けた。また、何でも苦しまねばならぬと、天神橋の橋杭(はしぐい)につかまって、一晩川の水に浸かってから、お助けに廻らせて頂いていた。その頃、お屋敷に帰った藤吉は、教祖にお目通りした際、次のお言葉を頂いた。『熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで』」。

 (当時の国内社会事情)
 1878(明治11)年、この年、医者以外の散薬販売が禁止される。
 5.14日、大久保利通が東京の紀尾井坂で6人の刺客に襲われ、暗殺された。
 自由民権論起こる。
 (田中正造履歴)
 1878(明治11)年、38歳の時、栃木県第4大区3小区区会議員に選ばれる。政治に一身を捧げることを誓う。

 (宗教界の動き)
 柴田花守、実行教を開く。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)
 エジソン、電球を発明。





(私論.私見)