(道人の教勢、動勢) |
文久4年は元治と年号が改められた。この年に入って道の様相は一段と活況を呈してきた。いわば初期天理教信者の芯を為す銘々が続々と寄り集い、教祖のもとに通い信心する人が引きもきらなくなった。その範囲は、芝村、大豆越村、横田村、小路村、大西村、新泉村、竜田村安堵村、並松村、いちの本村、古市村、七条村、豊田村など近郷近在から殆ど大和国中平野一円に及んでいる。新泉には山沢、安堵に飯田岩次郎、いちの本に梶本惣治郎、七条に桝井伊三郎、豊田に仲田儀三郎、辻忠作らがいて、これらの人々は後にいわゆる取次人として、教祖の側近に仕え、親神の教えを伝えて、天理教勢の発展の上に大きな貢献をすることになる。こうして初期天理教信者の形成が始まることとなった。これに合わせるかのように、教祖は文久、元治の頃より「講を結べ」と促している。 |
この頃より助けられた人々の中にも、唯一時の喜びや感激に終わらず、熱心に信仰の道に進む人々もできてきた。その面々を確認しておく。 |
山中忠七(38歳) |
1864(元治元)年、1月、大豆越村(桜井市)の農業/山中忠七(38歳)が妻おそのの痔疾をお助け頂き入信。(稿本天理教教祖伝逸話篇「11、神が引き寄せた」)。
入信経過は次の通りである。山中家は大豆越(まめごし)村の在所の名士であったが文久2年頃から不幸が相次いでいた。1年の間に3回も葬式を出した挙句今度は妻そのが重度の痔をわずらった。文久4年正月、芝村(桜井市芝)の清蔵(清兵衛)から「庄屋敷の生き神さん」を聞き、最後の頼みの綱として参ることにした。お屋敷に来て見ると、不安になるほどのみすぼらしいたたずまいであった。中に通されると、教祖は次のようにのべられた。
「お前は、神に深き因縁あるを以って、神が引き寄せたのである。病気は案じる事は要らん。直ぐ助けてやる程に。その代わり、お前は、神の御用を聞かんならんで」。 |
このことが、「逸話篇11、神が引き寄せた」に次のように記されている。
「それは文久四年半ば頃、山中忠七 三十八才の時であった。忠七の妻そのは、二年越しの痔(ぢ)の病が悪化して危篤の状態となり、すでに数日間、流動物さえ喉を通らず、医者が二人まで「見込みなし」と匙(さじ)を投げてしまった。このとき芝村の清兵衛からにをいがかかった。そこで忠七は早速お屋敷へ帰らせて頂いて、教祖にお目通りさせて頂いたところお言葉があった。
『おまえは神に深きいんねんあるをもって、神が引き寄せたのであるほどに。病気は案じることは要らん、すぐ救けてやるほどに。そのかわり、おまえは神の御用を聞かんならんで』 と
」)。 |
この時、散薬を頂いている。「毎日欠かさずおいで」と云われ二里の道を毎日通ったものの霊験はなかった。4日目、迷いの心で揺れる中約束どおりの事を運んだ忠七に対し、「神がその心を見定めようと、いろいろ手入れしたのや。それにも飽きず、今日はよう来た。助けてやろ、案じることはいらん。すっきりと云えばすっきりと助けてやろう」とのお言葉が為されたと伝えられている。妻そのはご守護頂き、1ヶ月後夫婦でお参りした。この時、「神が待ってた、待ってた」とお言葉を頂いている。以降熱心な道人となった。山中忠七は2月頃より熱心にお詣りを続け、元治元年2.26日、扇の授けを頂いている。
(芝村の清兵衛(清蔵)は、後の城法初代会長の前川喜三郎の弟である。木下家へ養子に行き、行商などをしながら布教に励んだ) |
「山中忠七伝」(天理教大和真分教会、大正12年7.26日発行、昭和40年10.8日発行(改修版))。
「文久二年は、忠七翁が36才の時でありました。この年は、山中家にとっては大節中の大節でありました。息子の彦七(鹿蔵)は、正月頃から悪性の麻疹(はしか)におかされ、高熱のために久しく床についており、三女の房江(ふさえ)は驚風(きょうふう/てんかんの激しいもの。あるいはジフテリアとも考えられる)という病気にかかって死亡する。また続いて翁の父親の彦七も、8.8日に79才で死亡され、またまた長女の奈良繁(ならしげ)も9.26日、16才で死亡し、さらにまた妻のおそのが痔(ぢ)の病で、秋から冬にかけて段々悪くなってきたというような事で、一ヶ年の内に三人の死人を出し、二人の病人ができたという有様で、看護人を雇い入れるやら何やら彼やらで、翁の心は非常に忙しく、また心配に満ちていたのでありました。この時は、さすがの信心凝りの翁も殆(ほとほと)困り果て、神仏の霊験を疑わざるを得なかった事でありましょう。なれども毎朝毎晩、新しい位牌の立て並べられた仏壇の前に跪(ひざまづ)き、村のお宮や、またあちこちと願掛けせずには、心が済まなかったのでありました。後々まで伝わっている話によりますと、亥年生まれで剛気な翁も、この頃は暇さえあると俯(うつむ)いて涙ぐんでいたということであります。このように不幸続きで文久2年は暮れまして、文久3年の正月を、妻のおそのは弱いながらも迎える事ができ、春が近づくとともに追々、元の身体に回復していったのでありましたが、またもや梅雨の湿っぽい空気が身に障ったものか、またまた痔病の気がさしてきて、夏も過ぎ、秋風の立つ頃には病勢は段々と募っていきました。その上この秋頃から血降り(貧血?出血?)がして、その年の暮れには、すっかり重態に陥(おちい)ってしまったのであります。もとより翁は、此所彼所(ここかしこ)の医者にも診てもらい、医薬の限りを尽くしたのでありましたが効能は見えず、また平生(普段から)篤(あつ)く信仰している初瀬の観音、奈良の二月堂、釜之口の大師などへ裸足参りの祈願もしたのでありますが、これも何らのご利益も頂けないというわけで果ては、どこそこの稲荷さん、不動さんがよく効いて下さると聞けば、遠近を問わず直ぐにお詣りをする、藁にもすがりたい思いで手段を尽したのでありますが、これも同じく何らの効験はあらわれないのみか、かえって病勢は日々に危篤に迫っていくばかりでした。斯(か)くするうち文久3年も暮れ、元治元年(文久4年2.20日をもって改元)の正月を迎えたのでありますが、一家は只々心配と看護の疲れから茫然自失の有様で、病人の死を待つより致し方なかったのであります。
この時、芝村の清兵衛という人が訪ねて参りまして、『あなたの女将さんは長々の病気でお困りだそうですが、丹波市から少し東の方に庄屋敷という所があります。そこに天輪王命様という不思議な神様が天降りなされまして結構なおたすけを下さいますのやで。この神様に願うたならば、どんな病気でも救けて下されますで。実は私も、もう8、9年も前から梅毒で難儀していたのでありましたが、この神様へお詣り致しましてから、こんなに結構な身体にして頂きましたので、あなたも一度、天倫様へお詣りなされて救けて頂かれてはどうかと思うて参りました』と、さも自分が病んでいた時の苦しみを思い浮かべる如く、熱心に勧めて下さったのであります。このとき翁は、あらゆる神様仏様の信心にも見放され、手を拱(こまね)いている時でありましたので、この天倫様のことを聞くにつけ『まだ聞いたこともない神様であったが、疲れ切った身体のなかにも、何となく明るい心が湧いてきて、天倫様に引きつけられているように感じられた』ということであります。このお話を聞かせて頂いたのは正月の半ば頃でありますが、もう病人(妻おその)は芝村藩の御殿医甲谷氏、柳本藩の御殿医佐久間氏二人ともに匙を投げられ、この時はすっかり絶望状態で流動物さえも喉を越さず、ただ口中を潤す水を吸い込む気力さえ薄らいでおりました。このため正月早々から、新泉の実母、山澤おべんさん、弟の良助さん、芝村へ嫁いでいるおなをさんと、大西の上田家へ嫁いでいるおいそさんの二人の妹などをはじめとし、翁の兄弟姉妹も皆々詰めかけている時であったのであります。そのような状態の中から翁は、早速とるものもとりあえず、庄屋敷の神様に参詣させて頂き、初めて教祖にお目通りを許されたのであります。そのとき教祖から直々に『おまえは神に深きいんねんあるをもって、神が引き寄せたのであるほどに。病気は案じることは要らん、すぐ救けてやるほどに。そのかわり、おまえは神の御用を聞かんならんで』
と、ありがたいお言葉を賜(たまわ)ったのでありました。(後略)」。
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その後、山中忠七の親戚に当る新泉村の山沢良治郎(良助)、大西村の上田平治、永原村の岡本重治郎等が次々と信仰に入って来ることになる。 |
山沢良治郎(良助)(34歳) |
1864(元治元)年、忠七の妻の弟であった大和国山辺郡新泉村(現・奈良県天理市新泉町)の山沢良治郎(良助より改名)(34歳、天保2年(1831)2月22日、)が、姉その(山中忠七の妻)の痔の病の不思議なご守護を見て入信している。この後関係してくる大和一国の神職取締り守屋筑前守とはいとこ関係。追って山澤為造も入信する。叔母きみは守屋筑前守広治の妻。
良治郎は、翌年の慶応元年10月、筑前守の代理として針ヶ別所へ出向き助造事件に立会っている。その後、慶応3年、秀司と共に秀司名義の裁許状を取りに京都へ同行している。明治14年、秀司出直し後は年若い真之亮の後見役となった。明治16年、良治郎が亡くなると、筑前守の娘の夫である鴻田忠三郎が真之亮成人までの3年間、良治郎に代わって後見役となっている。時代は下がって大正3年、天理教管長になっていた真之亮が出直すと、11歳だった正善氏の管長職務摂行者に良治郎の息子の山沢為造が大正14年まで就任した。守屋筑前守系譜と天理教の関わりは思いのほか深く且つ重いことが分かる。
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桝井キクの息子伊三郎(15歳) |
1864(元治1)年夏、桝井伊三郎(15歳)が母キクの身上を手引きに入信。桝井伊三郎の母キクが病み、危篤状態に陥った。伊三郎は五十町の道のりを歩いて教祖に助けを願い出たが、「伊三郎さん、せっかくやけれども、身上助からんで」と云われた。止むなく家路についたが苦しむ母の姿を見かねて、再びお屋敷に向かった。この時も教祖は「気の毒やけれども、助からん」とお言葉があった。あきらめて帰ったものの、いたたまれず、夜道を三度目のお屋敷詣でした。教祖はお寝みされていたが、取り次いで貰うとお言葉があり、「助からんものを、何でもというて、子供が、親の為に運ぶ心、これ信実やがな。信実なら神が受け取る」と云われた。キクはご守護いただいた(後88才まで長命する)。伊三郎はこうした体験からますます熱心な信仰者となった。 |
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岡本重治郎(46歳) |
1864(元治1)年、忠七の姉を妻にしていた岡本重治郎(46歳)が妻の弟の嫁(山中その)の不思議なご守護を見て入信している。1819(文政2)年11.25日、大和国山辺郡木堂村(現・奈良県天理市杣之内町木堂)生まれ。中西家より永原村(現・天理市永原町)岡本家の養子となる。妻るいは山中忠七の姉。黒骨の扇を授かる。
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上田平治()、妻いそ() |
同年、農業/上田平治(不詳)が義姉山中そのの霊救を手引きに入信。山沢良治郎と平治の妻いそが兄妹であった関係で匂いがかかった。妻いそも熱心な道人となり息子民蔵を連れてお屋敷に参った。教祖の側に仕えた。 |
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松尾市兵衛() |
1864(元治1)年、松尾市兵衛()が、妻はるの産後の患いから入信。1835(天保6)年、大和国平群郡白石畑村(現・奈良県生駒郡平群町白石畑)生まれ。1857(安政4)年、野口家より若井村(平群町若井)の松尾家長女はるの婿養子となる。煮たものぢきもつのさづけを戴いている。松尾は将来を嘱望されていた高弟であったが前年夏頃より病に伏していた。
稿本天理教教祖伝逸話篇25「七十五日の断食」、26「麻と絹と木綿の話」、27「目出度い日」。 |
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