1843年~ 天保14年~ 46才~ 堪能の日々

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【堪能の日々その行程】
 この「堪能の日々」こそというべきか「お道」の貴重な財産であろう。「みき」は、すぐる日の天保9年10月26日以来、神様の御命のままに、夫を初め凡ての人々の思いに背いて、棘の途を通ってきた。以来十年という相当の年月を経過しつつあった。しかしまだ道程は長く続く気配であった。かっての大勢の奉公人を抱え、村人たちの信頼と羨望の的であった往年の生活には比べる由もなく、細々と暮らし続けていくこととなった。が、「みき」はこの道中を勇んで通られておる。まことに尊いひながたと云うべきではなかろうか。この時「みき」の同行者は、善兵衛、秀司、おまさ、おはる、こかんの親子6名であった。

 ところで、稿本天理教教祖伝他も含めて見過ごされているが、あるいは意図的に見ようとしていないが、この「堪能の日々」とは、「みき」の神命が善兵衛の抵抗に合い進捗しなかった時期でもあった。そういう意味でも「堪能」と云う。善兵衛は、「貧に落ちきれ」以来の施しについては不承不承ながら承知してきたものの、家格を象徴する家屋敷のこぼちばかりは許さず、頑強な抵抗を通し続けた。それは善兵衛にとっては戸主としての責務でもあったであろう。家父長制の為せる権限として断じて受け入れざるものがあった。「みき」は、この事態に応じてある種従順に、ある種眼窩を高く保持しつつ、総じて神様の思し召しのままに通られた。更なる教理の深化、一層の家族との談じ合い練りあいに向かった、と拝察させて頂く。「お道」で云う旬が至らなかったということでもあろうが、後に触れるが、この事業は夫善兵衛の出直し直後俄かに進捗していくことになる。

【堪能考】
 この経過は「堪能の日々」として次のように理解し得る。「みき」は、親神の世界一列助けの心にあって、高山も谷底もない、即ち貧富貴賎の差別を越えて、「世界一列可愛いい我が子」という親心にお立ち下されての助け一条でお歩み下された。その意味するところは、「谷底せりあげの道」であり、この道は、谷底の人々でも気やすく慕い寄ることのできるよう、先ず自ら貧のどん底に落ちきり、家柄、身分、格式、伝統、家、財産、階級等凡ての人間の差別を造り隔てとなるような一切のものをかなぐり捨て、赤裸々に神の思いに立ち戻り、神にもたれ、そこから神の自由自在の力によって浮揚して行くことによって、道をつけようとの思し召しであった。

 この思し召し実現の為に、これまであらゆる反対誹謗の中に激しい施しをお続け、堪能の日々の生活をお続け下された。それは、この時代の社会関係.人間関係の行き詰まりに対する根本的立て替えを志向してまず我が身を谷底に貶め、そこから這いあがる過程を通じての「我が身試し」から始められた。この堪能の日々は、こうした心を涵養するに要する為の相応の練りあいの期間とも云えた。実際、この期間は二十年という歳月の階梯を要することになる。

 「みき」の凄さは次のことに認められると思われる。一方で厳しき神命、他方で夫と恐らく家族の苦悩に接しつつ、「みき」は家族の心を練りあうかの如くの堪能の日々を静謐に過ごし得ていたという事実である。神命と世間の情は相容れない二つの矛盾対立であったにも関わらず、「みき」は、少なくとも親子関係においては、この二つながらを御し得たのである。神命は遅遅化したが、そういう状況に合わせた対応をしつつ、他方で家族の間に新たに生まれつつあった助け合いの情愛を育み、家族全員でこれを悦び楽しむという、まさに堪能の日々を創出していく道を堪能した。この堪能の期間、「みき」とこかんはますます親子の情愛を超えて教祖とその第一取次人の関係へと昇華していった。しかし、秀司についてはこの後追々に見ていくが、この関係づくりに失敗しているともみなされる。このことが、今後の「お道」の歩みに浮き彫りにされてくることになる。

 留意すべきは、二十年を越すこの堪能の期間とは「みき」神懸かりの後のことであるということであろう。史上に数多くの宗教家の輩出あれど、神懸り後にこれほどの長期間を堪能された教祖が居られるであろうか。しかも、女身として一通りの人生経験を為されて居られるというのも珍しい。そして、このたびは貧のどん底へ分け入ってのことである。これも又他宗派の教祖開祖にかような御方が居られるであろうか、と云う問いを生む。これらの全てのことが、生活の有益な教えとして「みき」教理の実践能力を高からしめているであろう、と拝察させていただく。


【この頃の教祖のご様子逸話】
 この頃の「みき」のご様子逸話と思われる「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の岩井尊人「入信の跡(その①) 」の「祖父の夜話」を転載しておく。(みちのとも大正5年10月号90~91pより)
 「私はお地場の隣の丹波市の町の子でございます。先祖代々土着の鎧師(甲冑の工人)でした。大和武士では伝記にしても語り栄えもしませんが天誅組のときは中々やったそうでございます。従っておやさまの御生地三昧田とは畷(なわて、あぜ)一つへだてゝの隣村でもありますし、前川家は庄屋様でもあり、又私の家は郷士で威張っていたというようなこともあり、旁々(かたがた)かなり近しくゆきゝしておったそうでございます。このことは日露戦争ごろ八十二で死にました祖父と先年なくなりました父と、生きのこっている母とから色々きゝ及んだ話でございます。

 直接御教祖とおつきあいをした祖父の源作美模(よしのり)が色々夕涼みなどしながら御教祖のお話をして聞かせてくれました。尤も私は十二、三の少年のことでもありましたし、深い哲学味や宗教味の解るわけもありませんが、よく話のことなどは記憶しております。勿論祖父は御教祖よりずっと年弱でございますが、御教祖様がよく三昧田へお帰りの途(みち)や、庄屋敷へお戻りの途にはお寄りになり、丹波市へおこしになると一寸寄って店の端に半ば腰かけてお話になったとの事でございます。よく祖父が申しました。『中山のお美伎(みき)さんは、えらい方じゃった。俺(わし)の店の端先へ一寸こしを下して、すゝめた渋茶を啜(すす)っては色々の世間話をさっしゃったが、その話が、皆な例え話しで身に引かされる。それで女どもゝ、まあこっちへと案内してすゝめても一寸もあがろうとはなさらぬ。“”私はこれで結構で御座ります。足がよごれておりますよって“”などゝいうては、又続きの話をさっしゃる。俺は武士気質(かたぎ)の一徹じゃで短気が先きに立って気がせいてならんときでも、つい腰を落ちつけて聞いたものじゃ。やっぱりあの時分から違うていた。懸(掛け)があつまらんので、むしゃくしゃしているときでも、よう話をきいて、もっともじゃと感心したことがあったがのう。何んの狐つきじゃ、こっくりさんじゃとの村の奴等は悪口いうたものじゃが、あの様なひとに狐なんか憑きよれるもんか。村の阿保漢(あほだら)共にそんなことが分るもんか。禁裡(きんり)様より代官様(奈良奉行のことか五條代官のことか)の方がえらいと思うている手合の下馬評じゃ。阿呆な奴の話をきくんじゃないぞ』。こうした言葉をきっかけに祖父は色々の話をしてきかせました。いづれこれは稿を改めて追憶を認めたいと思っています。~(後略)(つづく)」。

 (当時の国内社会事情)
 1843(天保14)年、4月、長州藩藩士・村田清風が藩政改革を開始。7月、水戸藩が、神仏分離を行い神道を重んじる政策を展開。7月、摂津で上知反対一揆。8.13日、上知令。江戸、大阪周辺が上知になる。8.20日、医師・佐藤泰淳が、佐倉に順天堂を設置する。閏9.8日、老中・堀田正睦を解任する。閏9.11日、阿部正弘、老中に任命される。

 閏9.13日、老中・水野忠邦を解任。天保の改革が挫折する。

 この年、印旛沼開発令。人返し令(帰農)。国学者平田篤胤(1776‐1843、亨年68歳)死去。江戸・大阪の10里四方の私領を収公。

 1844(弘化元)年、5.6日、水戸藩主・徳川斉昭に謹慎を命じる。5.10日、江戸城炎上。6.21日、水野忠邦、筆頭老中に復帰。9月、水戸藩士が、江戸の紀州、尾張両藩邸に主君の免罪を求める。10月、水戸藩、限田制を行う。11.26日、水戸藩主・徳川斉昭の謹慎が解かれる。農村救荒令。 

 1845(弘化2)年、2.22日、筆頭老中、水野忠邦を解任する。3.27日、江戸で大火(青山火事)。入牢中の高野長英、逃亡。

 1846(弘化3)年、1.26日、仁孝天皇崩御。2.13日、孝明天皇即位。

 1847(弘化4)年、3.24日、信濃、越後方面で大地震。死者一万6千人以上。9.1日、徳川慶喜、一橋家を継承。12月、薩摩藩重臣・調所広郷、給地高改正を断行。この年、天草農民一揆。町人に倹約令。
 (二宮尊徳履歴)
 1843(天保14)年、57歳の時、7月、真岡及び陸奥小名浜の代官に属し、真岡陣屋の駐在となる。老中水野越前守から出頭命令。幕府御普請役格で登用される。利根川分水路検分他命令あり。

 1844(弘化元)年、58歳の時、日光神領復興仕法目論見提出の命あり。古河藩家老鷹見泉石と面会、泉石宅で世界地図を見る。日光仕法雛形作成を受命する。1845(弘化2)年、59歳の時、相馬藩の復興を開始する。「二宮翁夜話」著者福住正兄入門。江戸大火、類焼で書類焼失多数。中村藩(相馬家)仕法開始。1846(弘化3)年、60歳の時、小田原藩仕法中止。日光仕法雛形完成する。1847(弘化4)年、61歳の時、 真岡代官山内薫正の手付となる。5月、真岡東郷陣屋に移る。金治郎、桑ノ川の第一次開発をする。常陸国 棹ヶ島 花田村の仕法に着手する。1848(嘉永元)年、62歳の時、真岡の東郷陣屋に移転する(桜町在住26年)。
 (大原幽学の履歴)

 (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 1843(天保14)年、6.17日、新潟奉行所を設置。10.10日、イギリス船サマラン号、八重山に上陸し測量を強行。

 1844(弘化元)年、2.8日、下関奉行所を廃止。3月、フランス船アルクメール号、那覇に入港し通商を求める。5.15日、佐賀藩、火術方を設置。5.24日、羽田奉行所を廃止。9.19日、佐賀藩主・鍋島直正、長崎でオランダ軍艦内部を見学。

 1845(弘化2)年、2月、伊予宇和島藩、火薬製造を開始。3.12日、アメリカ船マンハッタン号、漂流民を乗せ浦賀に入港し通商を求める。7.4日、イギリス船サマラン号、長崎に入港。7.5日、海防掛を設置し老中・阿部正弘が兼任する。この年、松浦武四郎が東蝦夷地を探検する。

 1846(弘化3)年、2月、伊豆代官・江川英龍、海防意見書を作成。3.22日、江川英龍に伊豆諸島巡見を指示。諸外国の船舶が来航し新たに通商を要求した。閏5.27日、アメリカ船・東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に入港し通商を求める。6.7日、ビッドル出航。7.13日、水戸藩主・徳川斉昭、内外情勢の意見書を提出。この年、海防の勅諭が幕府に下る。

 1847(弘化4)年、8.20日、薩摩藩、砲術館を設置。9.28日、薩摩藩、西洋式軍備の演習を行う。12.14日、水戸藩主・徳川斉昭、外国人追放に対する意見書を提出。

 (当時の海外事情)
 1846(弘化3)年、アメリカ-メキシコ戦争始まる。

 1847年、米軍がメキシコシティーを占領する。





(私論.私見)