干渉(一) |
明治5年4月より教部省は「三条の御趣意」すなわち三条教則(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴朝旨遵守)という基本綱領を月に数度説教させ、天皇国家制度を民衆へ注入しており大和神社はその請負機関であったため、神主らは古代からある本来の由来の説明ができなかった。京都の吉田家の許可も、明治維新の政変と共に、その効果を失ったのみか、明治5年には教部省が設置されて、同年7月には禁厭祈祷に対する、厳重なる布達が発せられた。然るに同年10月、仲田、松尾の二氏が、大和神社の由来を聞くため同社に参り、神主に面会したところ、神主が感情を害し、是が節となって政府の壓迫が、次第に始まって来た。中山家は石上神宮の氏子なので、大和神社の神主より、その処置を依頼して来た。石上神宮からは神職五名が中山家に来たり、教祖に弁難せしも説破せられたので、帰途丹波市分署に訴へ出た。教部省より布達のあった際とて、分署より警察官数名直ちに出張し、御簾、御鏡、御幣、金灯籠等の神具一切を没収して、村の総代に預けて引きあげた。
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干渉(二) |
この顛末が県庁に上申せられたと見え、同年11月、丹波市市役所より、教祖に山村御殿へ出頭するべき旨達さられた。これは教祖が憑物か否か、その正体を調べんために社寺係が採った手段である。何故なら山村御殿皇族の尼宮が座主とならるる名刹であるから、狐狸の類ならば、直ちにその正体を現すべしと考へたからである。教祖は五名の門弟と共に出頭せられ、持仏堂に於いて稲尾某の取り調べを受けられたが、一言半句の滞りなく答えたまい、訊問終わってから神楽勤めをせよとの注文であったから、辻氏の歌で仲田氏に勤めさられた。同年1月17日、奈良の中教院より取り調べの件有之即刻出頭せよとの呼び出しがあったから、仲田、辻、松尾の三氏が出頭せられたところ、天理王命はない神ぢや、信心の世話をするなら中教院の世話せよ、頻りに改宗を勧められたので、呆然として帰られた。
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干渉(三) |
蒸風呂が甘露台の真横で営業された
明治8年8月下旬、奈良県庁よりの命により、秀司殿同道出頭すべしと警官がやって来た。秀司殿風邪中につき、辻氏代理として教祖に従い出かけ、参拝を禁ずるのみか、撲滅せんとの方針を採ったのである。これでは信徒が困難をするので、秀司殿は宿屋兼蒸風呂業の鑑札を受け、自由に信徒の参拝が出来る様に取計らわれた。
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干渉(四) |
高野山真言宗に属し役行者を祀る金剛山地福寺 教祖は親が子供に認可を許される権道に依る方法を認めなかった。
明治13年頃には地場に帰来する信者益々多く、宿屋や蒸風呂では、十分人々が集まられぬ所から、乙木村の山本氏の勧めに従い、金剛山地福寺の出張となし、住職日宥真を所長に、秀司殿が副所長になり、天輪王如来という仏名を掲げ、説教を始められた。
然し教祖はこうした権道に依るを好まれなかった。ところが明治14年4月10日、教祖と苦労を共にせられた秀司殿が逝去さられたので、そのままに打ち捨てられてしまった。同年10月7日、教祖を始め五名の方が、多数の人を集め之を惑わすを理由として、拘留の上科料に処せられたもうた。また明治15年2月、教祖外6名の方が、同理由の下に奈良警察署に召喚され、同じく科料に処せられた。 |
干渉(五) |
同15年10月2日、丹波市分署より出張して、甘露台の石や教祖の衣類を没収した。又9月18日、神命により神楽勤めを行いたるを違警罪に問われ、教祖の外5名の者が十日間奈良監獄処に拘留さられた。同年30日、秀司殿婦人松枝様が、この困難の中で逝去せられた。明治16年4月26日、御縁日に参詣人あれば、取締を丹波市分署に届出でられた。その日は無事に済んだが夕方に至って五名の警官再び来たり、自作の一銭銅貨の包を出して、賽銭をとるとて責め、神饌などするから人が集まるとて餅を投げ出し、御社を焼かしめるのみか、謝意を籠めたる手続書を取りて引き上げた。 |
干渉(六) |
氏神に集合してそれぞれの役割の神楽面を着け、背中には教祖より授けられし月日の紋を付け、いざなみの命といざなぎの命を中心に囲んで三島の四方で雨乞い勤めを行った
明治16年7月13日、大阪一円は旱魃にて、村民の困るとぉとから雨乞を中山家に懇願して来た。前館長は一応拒絶されたが、強いての願望に教祖の許しを得て、その乞いを容られた。詰合の人々、三島領の四角の於いて、雨乞勤めを行われたところ、俄に盆を覆すが如き大雨が降ったので、村民は狂喜したが、お勤めに加わった12名の者は、水利妨害の理由によって、丹波市分署に連行せられ、神楽勤の道具一切を没収さられ、各自科料に処せられた。夕刻に至り警官1名、更めて教祖を拘引に来たり、丹波市分署に於いて科料を申しつけた。その拘留の際、政子様の手が警官に触れたのを、警官を殴打せりとて、これ亦科料に処さられた。明治17年3月の或る夜、突然警官が中山家に来たり、教祖の側に御供あるを見つけ、抜刀して鴻田氏を詰責す。翌日、教祖や鴻田氏を拘引し奈良監獄処へ教祖は12日、鴻田氏は10日間拘留せらる。また8月、一人拘引せられ、同じく奈良監獄で12日間拘留せられまたもう。
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干渉(七) |
教祖の履いておられた赤い下駄。教祖は拘留中、下駄を枕に極寒の夜を過ごし神命を貫徹された
明治19年正月15日、心勇講の一団参拝し、甘露台にてお勤めを願い出しも、教祖に迷惑かけてはとの心配、前館長は断然断られた。心勇講の人々は、止むなく豆腐屋にて神楽勤めを行った。ところが櫟本分署より数名の警官出張し、御勤めを差止め、教祖、前館長外2名を拘引して帰った。
二、三の取調べを口実として日を延ばし、三日を経て教祖に12日間の拘留を申し渡した。桝井、仲田の2氏は十日間の拘留となった。是れ教祖の最後の御苦労にして、この時山澤ひさ子が付添いとして行かれたのであるから、89歳の老齢をもって、極寒にしかも寒風にさらされ、夜は下駄を枕にしてお寝み下さった事績は、本教徒の忘るべからざる事である。
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