増野鼓雪教理/教祖略伝その1

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖略伝その1」をものしておく。「増野鼓雪と天啓」その他参照。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【増野鼓雪教理/教祖
 教祖(一)
 教祖は名をみきと申し、寛政10年1月18日、いざなみの命の霊を宿して産まれたまうた。その因縁によりて御年12歳で人世の無常を観じ、尼法師たらんと願いたもうた。13歳の時、因縁の地たる中山家に入家し、16歳で主婦となり、19歳にして五重相伝を受けたまい、31歳の時一男二女のあるにかかわらず、隣家の独り子を預かり補養したもうた。しかるにその子黒疱瘡に冒され命旦夕に迫ったので、教祖は神明に祈願したもうた。その願意は我が二女をもって一子に代へ、なほ不足ならば満願の上我が身も神に捧げんとの誓いであった。病児は日ならずして病癒えたが、教祖の二女は神に召されて逝去せられた。教祖は我が身も遠からず神に召さるべきものなるを覚悟したもうた。
 教祖(二)
 教祖41歳の時、夫善兵衞眼疾に罹り、長男秀治足痛を病み、教祖亦腰痛を覚えたもうたので、修験者を招きて祈祷を乞い、教祖自ら加持台となりたもう。祈祷の進むや教祖の容姿たちまち変じ、厳然として、我は天の将軍なりと宣せられ、教祖の身体、中山家の財産、一家の人々を神にもらい受けんとの宣託であった。三日三夜押し問答の上一族真意を奉せられたので、以来教祖は神の社となりたもうた。

 神は教祖に世界一列を助ける為、貧の谷底に落ち切れと仰せらる、教祖神命に従えば家族の苦労を見なければならず、主婦として一家を思えば神命の背かねばならず、その間に立って教祖は苦悶の結果、幾度か死を思い立ちたもうた。されど神の養護と訓戒とによりて、艱難辛苦の道を通り、56歳の時、夫の死去さられし後は、全く貧のどん底に落ち切りたもうた。

 落ち切ったら上るより道はないとの神命の如く、火の中淵の中を通り抜けらた教祖は終に細道を見出し、一歩一歩向上の道を進みたもうた。而来教の零化を受くる者日に多く、元治元年頃には教祖を神と慕いて参ずる者所々に現れ、勤場所の建設となった。
 教祖(三)
 教祖の道が八方に通じ、地場に帰来する者多きを加うると共に、教祖に対する誹謗の声は高くなった。村人の反対、僧侶の脅迫、神官の壓迫に次いで官憲の干渉となり、教祖は老齢の身を以て縲絏の辱めを受けたまうこと十数回に及んだ。しかも神命を奉じたまう教祖の御心は磐石のごとく、世界助けの基礎は年と共に鞏固となった。

 明治20年正月26日、世界の子供を早く表へ出したいという深き思召より、25年の壽命を縮めて出直しになった。その時扉を開いて世界をろくじに踏みならすと予言されたごとく、以来教祖の神霊は夜となく随時随所に現れて霊救を垂れたまい、天理王命を信奉する者年と共に増加しつつある。

【増野鼓雪教理/教祖略伝 主婦
 主婦(一)
 毎年9月15日は石上神宮の祭礼である。或る年、教祖は父親に伴われ庄屋敷村の中山家へ、その祭礼の招かれて訪れられた。中山家と前川家は姻戚の間で、中山家も同村の庄屋年寄役等を勤められた名家であり、且つ田地持ちと謳われた豪家であった。同家の長男善兵衞殿は、既に20歳を越え、良縁をと求められておったので、この日両家の親と親との間に、教祖と善兵衞殿の婚約が取結ばれた。後日両親より中山家へ入嫁の件を申し渡された時、教祖は遁世の志願を述べて一度は辞退されたが、両親の切なる勧めに従い、入嫁後は朝夕仏に対する勤行に許可を条件として、結婚を承認せられた。中山家も浄土宗の檀家であったから、この条件を喜ばされ、愈々婚約が成立したので、文化7年9月15日、教祖13歳の時、娘分として中山家に足入れせれた。この時善兵衞殿は23歳にして、正式の結婚はその翌年に行われた。
 主婦(二)
 入嫁後は夫に対して貞操に、親には孝順の道を立て、下女下男に憐れみ、隣家の人々に親切を尽くし、家事を手伝われるの外、自ら労働をも為したもうた。両親はこれを見ていたく満足せられ、教祖16歳のとき、世帯一切を委せて隠居さられた。以来教祖は一家の主婦として、家事万端を処理せられる身となられた。

 御年19歳の時、浄土欣求の信仰次第に深く、勾田村の善福寺で五重相伝の伝授を受けられた。五重相伝は浄土宗の重要なる信仰的儀式にして、特別なる七日間の修法を経て、授戒されれるもので、多くは老年者が受けるのであるが、教祖の強烈なる信仰は直ちにその本願を遂行せられた。

 文政3年6月12日、教祖23歳の時、舅前善右衞門殿歿せられ、同年9月頃より教祖は懐胎せられた。その翌年臨月の身をもって、病める姑を背負い、屋敷内を歩き、又は知人の家の伴い、姑の望みを果して、自分の喜びとせられた。かくて文政4年7月24日、長男秀司殿を生ませられ、母としての一歩を踏みたもうた。
 主婦(三)
 教祖は母となりて育児の任を加へたもうたが、家事の整理は素より、如何なる仕事も厭いなく、田畑に出ては男に優る耕作をなし、機にかかりては一日に二日分を織りたまい、荒田起こしと溝掘りの外は、如何なる家業にも従い、夜は更ける迄縫物に励み、姑の手足を摩りなどして慰められた。殊に天性ともいうべき慈悲心は、年を重ねていよいよ、深く、下女下男は更なり、隣家に人々に対しても、時に当り事に触れて迸るが如く現れた。同村の貧困なる一人の者が、中山家の米倉をより米を盗まんとするを、教祖が許して改悔せしめられたるが如き、女乞食に食と衣を与え、その子に乳を呑ませられたるが如き、下男藤助の怠情を改ためせられたる如き、下女かのが夫善兵衞殿と通じ、教祖を毒害せんとせしも、教祖は嫉妬心の溺れず、かのを妹の如く愛して悔悟せしめらえたる如き、何れも教祖の異常なる慈悲心の発露にして女性の範とすべきである。
 主婦(四)
 文政8年28歳にして、長女政子様を産み、30歳の時、次女安子様を産みたまいしが、政子様は後に豊田村の福井家に嫁し、安子様は天保元年、4歳にて逝去せられた。その当時中山家に隣家の子供が、乳不足の為衰弱して、両親は殊に困難しておられた。教祖は一男二女あるに拘わらず、時々乳を与えておられたが、後には我が家へ引取り、育児を世話までなされたので、その丹精により預り子も元気付き、教祖も喜んでおられた。然るに日ならずして俄に発熱し、疱瘡に罹りたるのみならず、11日目から黒疱瘡にいう重篤に変じた。その両親の悲嘆を見るに忍びず、且つ同家に相続者の絶えるを案じ、殊には世話中の出来事なれば、如何にもして助けんと、安子様を人に預けて、日夜看護に従事せられた。
 主婦(五)
 中山家の東側に位置し、石上神の奥の宮といわれている八つ岩がある東の山を拝める様に布留御魂神をお祀りしていた氏神春日神社。

 医者、薬、禁厭と、手を変え品を代えて看護の限りを尽くされたが、その効が少しも見えないので、この上は神仏の加護によるの外なしと、奈良の二月堂、春日神社、稗田の大師、武蔵野の不動明王等に跣足詣の願をかけ、氏神へは殊に丹精を擢んで我が娘二人の壽命に代えて、預かり子の難病を救われたく、尚不足ならば、満願の後は我が身を召させたまへと、一心に祈願をなされた。誠は天に通じ至誠は鬼神を泣かすというが、瀕死の預かり子も教祖の至誠により、翌日から熱は引き疱瘡は落痂て全快するに至った。その両親は喜びのあまり咽び泣いた。

 隣家の喜び引き代え、その後中山家には不幸が続出した。天保元年教祖33歳の時、二女安子様が逝去さられ、翌年9月、三女春子様を、天保4年、四女常子様を産まれたが、天保6年常子様は三歳に夭死された。

【増野鼓雪教理/教祖略伝 神懸り】
 神懸(一)
 天保8年10月26日、長男秀司殿が田に出て麦蒔きに従事中、突然足痛を感じて帰宅さられた。医者を呼んだり、膏薬を貼ったり手を尽くしても効験がないので、長瀧村の市兵衞という修験者を招き、祈祷を依頼せられたところ、不思議にも全快せられた。然し暫く時日を経過すると、又足痛が起こるので、起これば修験者を頼み、頼めば癒るという工合で、甚だ不思議な病気であったが、8、9回もこれを繰返す間に一ヶ年は暮れて行った。この年の12月15日、五女小寒子様が出生された。天保9年10月23日、秀司殿の足痛又また起こり、教祖も腰痛を病み、夫善兵衞殿も眼疾に罹られた。幸いその日は亥の子にて隣家に来れる市兵衞を招き祈祷を乞われたのである。
 神懸(二)
 然るに毎度加持台となる、勾田村のそよという女が不在のため、やむなく教祖自ら加持台となりて、翌24日の早朝より、市兵衞は丹精を擢んで祈祷を凝らした。祈祷の進むに従い、教祖の容姿が俄に変じ、威儀厳然として、何神様なりやとの問いに、我は天の将軍なりと答えたもうた。天の将軍とは何神様なりやとの尋ねに、元の神、実の神で世界一列助ける為に天降ったとの答えであった。並居る人々も唯ならぬ光景に、茫然自失して驚くのみであったが、教祖は壮重なる威厳に充ちた声で、みきの身体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けるとの宣託であった。
 神懸(三)
 10月26日夜、約束の年限に至り十柱の神々が教祖に次々と神懸り、くにとこたちの命からいざなみの命までその守護と働きを宣託しながら天降られ、遂に人類の表に出現した。

 夫善兵衞殿もこれはと驚かれたが、妻は四人の母で乳呑子もあること故、御辞退を願うと、神の要求を拒絶せられたところ、神の命に背けば一家断絶させるが承知か、との厳かなる神命であった。この不思議な事件の報知に接し、親戚の人々より知己の人々まで集まり、神命を如何にすべきやと評議せられたが、重ねて退散を乞うにしかずとて、善兵衞殿より再び、卑しき百姓家より他に結構な家が沢山あれば、他家へ御降りを願うと乞われた。然るに教祖は、屋敷の因縁、身の因縁、旬刻限を見て天降った。決して退散する神に非ずとの仰せであった。

 24日より26日まで、三日の間神と人とが押問答を続けられたが、その間教祖は一滴の水も一粒の飯も召されず、昼夜厳然と端座して、神命遂行の任につかれていた。その有様を見るに堪へ兼ね、26日の朝五ッ時に、夫善兵衞殿より神様の仰せ通り従うべき旨を答へられた。 時に教祖は夢に醒めた如く、平常の教祖に復したまい、秀司殿の足痛も、夫善兵衞の眼疾も、嘘の如く平癒したので、何れも不思議の感に打たれたのである。


 その夜、教祖の寝室の天井で、突然大きな物音がした。不図教祖が目を醒まされると、身が何かに圧せられるが如く、重く感ぜられると、我は国常立命であると仰せられ、又次の神が懸られるという様に、十柱の神々が順次天降られた。この天保9年10月26日は、本教立教の第一日であるが故に、毎年秋季の大祭は、この日を以て執行せられるのである。

【増野鼓雪教理/教祖略伝 苦悶
 苦悶(一)
 神命によりて41歳を一期として、教祖は神の社となりたもうた。神は教祖に三千世界を助けるために、貧のどん底に落ちきれと仰せられる。教祖の御苦悶は、この神命遂行の一事にある。神意に従い教祖は先ず、自分の身に付けた物を人々に施したまい、次に子供達の物や夫の物を施したまうた。夫善兵衞殿も慈悲心のある方なれば、教祖が施物さられるを、嫌い惜しまれるが如きことはないが、不相応なる施しは、家財を傾かせる基なれば、時々これを諭し戒められた。教祖も夫の意志をよく了解して居られたが、神意を実現する使命の前には、如何なる障害をも琲せられる極めて強き信仰を持たせられたのである。夫の意に従いたまわぬこともあった。
 苦悶(二)
 中山家の親戚や友人や知人の人々が、教祖の行為が非常識なのを危み、屡々夫に忠告さられるので、善兵衞殿も教祖の行為を無理に止めんと試みられることもあったが、教祖の身上重患になり、時には三十日間も絶食せられるので、又も神命に従うの止むなきに至ることが度々であった。かくして更に米麦等、在庫の品々を売却して、谷底に道へと進みたもうたので、村人を始め隣村の人々まで、教祖を指さして狐付き狸付き気違い等と、悪罵を浴びせくるに至った。これを聞いた親戚の人々や、友人、知己の人々も、今は中山家将来の為に捨て置き難しとなし、善兵衞殿い苦諌せられると共に、貧乏神は退散せしめねばならぬというので、教祖を責め苛まれたことさえあった。
 苦悶(三)
 然るに神は更に神命の遂行を急ぎたまうので、教祖は田地を売払わんことを乞われた。忍耐強き夫善兵衞殿も、一家の将来、子の将来、この前途を想うては、唯々と従う訳には行かぬ。教祖に白無垢を着せ、仏壇の前に座らせ、心中の苦悶を告げて、教祖を詰責さられた。又真夜中に、家伝の実刀を取り出し、教祖の枕頭に立ちてこれを抜き、刀の威力によって憑物ならば退散せ、気違いなら鎮静せよと、涙を流しさめざめと泣かれたこともあった。この夫の苦悶を見て、教祖は神一条の理を説き、神命の如何に重きかを説き明かされたが、家運は次第に傾き、親戚や村人からは笑われ、その間に立ちて夫の苦心せられるを見ては、人間としての教祖は、最早耐えることが出来なかた。
 苦悶(四)
 もし自分さへなかったら、神命も下らず、夫も苦労せず、子供達も難儀せず、親族の干渉もなく、村人の笑いもあらず、かくの如く思い詰められた教祖は、断然身を捨てて、人々の難儀を救わんと、強き覚悟を決められた。時に屋敷内の井戸に身を投げんと飛び込まんとせられたのも、冬の一夜氏神の池に近づきて、将に身を躍らして飛び込まんとせられたのも、亦この決心の為である。然し井戸や池に近づきたまへば、忽ち身体の自由を失い、何処ともなく短気を出すのやないと聞えるので、教祖は忽然醒めたる如く、神命の尊さを自覚して、思い直して後へ戻られると、身は自由に動くのであった。
 苦悶(五)
 かくの如き道筋を通りて、やがて田地の一部を売り払われたが、更に教祖は本宅を売り払うことを乞われた。夫善兵衞氏もあまりの事と、神様の思召でもそうはお請け出来ぬと、断然と断られた。しかるにその夜突然発熱して、教祖は大病人となり、俄に痩せ衰へられた。夫もこの様子を見ては、打ち捨て置かれずと、直ちに神命に従う旨を答へられると、三日目には全快せられて常の情態に復せられた。本宅を売却する為、建物を取毀ちにかかられた日、教祖はこれから世界の普請に掛かる、こんな目出度いことはない、皆様祝うて下されと、手伝人に酒肴を出された。

 嘉永六年春二月、中山家が斯く一歩一歩谷底へ落ちて行く真盛りに、四十四年の間連れ添われた善兵衞殿は、六十六歳を限りとして、黄泉の客となられたのである。教祖は恩愛の情を移して、神意の遂行を以て、その供養に代へんと勤しみたもうた。

【増野鼓雪教理/教祖略伝 谷底】
 谷底(一)
 本宅は売払われ、夫善兵衞殿は死去せられ、残るは田地三町歩と屋敷のみとなった。教祖は田地を十年間の年切質に入れ、屋敷内の伏込柱で八畳二間の家を建て、土蔵よりここに移られた。その当時既に長女政子様は、豊田村の福井家に嫁し、三女春子様は櫟本の梶本家に嫁いで、中山家には長男の秀司殿と、末女の小寒子様と、教祖の三人が淋しうその日を暮らして居られた。夫在世中は未だしも、逝去の後は、親族は次第に不付合となり、知己の人々も誰も訪ねる者もなく、村人は嘲笑と猜疑の眼を以て眺め、かつては教祖の慈悲に浴したる者も、誰一人立ち寄る者さえなくなった。
 谷底(二)
 一家孤独の淋しい中にあって、秀司殿と小寒子様とはよく教祖に事え、その御心を慰めて居られた。が限りなき慈悲の充ちた教祖は、貧困の間にあっても人に恵むを忘れず、在るに任せて施したまうので、最早落ちるに道なきどん底の生活に進み入られた。秀司様が黒紋付を着て、青物を近村に売り歩き、家計を助けられたもの、教祖が灯すべき油もつき、軒より指す月の光の下で、糸紡ぎをなされたもの、この当時の事である。小寒子様も教祖の手伝いをして家計を助けられた。教祖が晩年その当時を回想して、鼠一疋も出て来なかったと仰せられたが、この一言に徴しても、如何に窮迫して日々地を送られたかを、察知するに難くない。月光の冴夜、荒れ果てたる屋敷跡を眺められた時、教祖を始め秀司殿小寒子様が、如何に無量の感慨に咽ばれたことであろう。昨日は豪家に人となり、今日はどん底に生活を送る、神命の厳なる、末代のその光は輝かねばならぬ。

【増野鼓雪教理/教会略史 迫害】
 迫害(一)
 大和神社鳥居内。棟上げの日の翌日は丁度、江戸幕府が神社を統制するための法令・諸社禰宜神主法度(ショシャネギカンヌシハット)に基づき全国の神社に対し、社領の売買禁止などのほか、吉田神道を正統としてその統制に服することを義務づけており、それに基づき日本諸国神祇道取締方を拝命していた守屋筑前守が特別な祈祷を一週間していた最中であった。

 元治元年10月26日、勤め場所の棟上げ日、大豆越の山中家よりの招待に応じ、一同同家に行かんと教祖に伺った。教祖は神の前通るなら勤めをして行けと仰せになった。門弟の方々は途中、大和神社の前を通るので、勤めをしようと太鼓を打ち鳴らし、南無天理王命と声高く、鳥居内で勤めを始めた。その物音に神主出て来り、社前を穢すの故を以て、三昼夜神社前の家に留置し、太鼓は没収し、各自の庄屋を呼び出して叱り付けた。
 迫害(二)
 小泉村不動院。表に現れた元の神、実の神の真実の教えを前にしては威嚇するしかなすすべはなかった。

 又同年、並松村の医者吉川という者と、奈良の金剛院やまぶしが反対に来た。然し何れも教祖に説破せられて帰った。

 その後教祖の道が栄えると共に、迫害は四方から起こった。慶応元年6月、田村の法林寺の住職、田井庄の光蓮寺の番僧等来たりて弁難攻撃す、この時、小寒子が相手をせられ。女性と見て侮り、刃を畳に突き刺して威嚇す。小寒子は少しも怖れず、論破せれるので理に詰まり、遂には太鼓を破り提灯を落とし畳を切るなどの乱暴を極めて引き取った。

 また同年大和全国の神官取締である、守屋神社の社司守屋筑前が、本教の正体を見極めんと、威儀を正して訪れた。その時、教祖は自ら接したもうた。守屋筑前は種々の質問を試みたところ、教祖の答弁が水の流るる如く、口を突いて出るので大いに感服し、遂に公認を得て布教をせられよといい残して引き取った。

 慶応2年秋の頃、小泉村不動院の祈祷者覚仁坊という者、若侍一人を連れて来る。秀司殿出て食い止めんとせられしも聞かず、神前に進んで騒がしかば、教祖出て座に就き覚仁坊と対せらる。覚仁坊は教祖の答の淀みなきを見るや、問答無益と立ち上り、懐中より細引を取り出せしかば、左右にありし秀司殿と中山氏がその手を取りて引き留めるや、教祖は静かに身を隠したもうた。若侍はこの時大刀を引き抜き、太鼓を打ち破ったり、小幟を切り倒したり乱暴を極め、覚仁坊は三本の御幣を没収して引きあぐると共に、古市陣屋の訴へ出た。翌日秀司殿が召喚され、以後神を祀るべからずと申し渡さる。

【増野鼓雪教理/教会略史 布教の認可】
 布教の認可

 京都吉田神社太元宮:江戸幕府の庇護のもと吉田家がほぼ全国の神社を支配下に治めた吉田神道は、日本古来の素朴な神信心の実態を無視し、神社に対して三部書「先代旧事本紀」、「日本書紀」、「古事記」の神々以外の神を認めない方針を取っていた。また神道裁許状を授与されるためには、上京して吉田神道の特訓を受けなければならず、現在の金額になおすと諸費用も含め総額2百万円から3百万円かかったといわれている。

 信仰の結晶たる勤場所の建築は、大和の一寒村たる当時の庄屋敷に於ける、驚異なる出来事であった。風説を生み、八方に匂掛けせらるると共に、霊救に浴する者はその数を増し、信者はその信仰を熱化して、助け一条のために奔走したのである。巨木が大風に衝る如く、急激なる本教の布教は、他の反感を招くに至った。中傷に迫害に讒謗に、その発展を阻害せんと、神官や僧侶や医者が、種々なる手段を講じた。慶応元年法林寺や光連寺の住職が来たのもその一つである。同年大和一国の神職取締である守屋筑前が来たのものその一つであり、小泉の不動院が白刃を提げて脅喝したのも亦その一つである。何れも明快な教祖の答弁に困じて立ちさったが、布教に対する迫害は、漸次激しくなった。その間にあっても守屋筑前は本教の真価を認めたので、その悪意を翻すと共に、官許を得て布教すべしと勧告し、自ら古市村の代官、深谷氏に添書を書いた。教祖の長男秀司氏は、これに領主の副申を得て、慶応3年7月、山澤氏随行、京都の神祇管領たる吉田家に出願した所、日ならずして許可書が下附せられた。かくして本教の布教は公認せられるるに至った。


【増野鼓雪教理/教祖略伝 干渉】
 干渉(一)
 明治5年4月より教部省は「三条の御趣意」すなわち三条教則(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴朝旨遵守)という基本綱領を月に数度説教させ、天皇国家制度を民衆へ注入しており大和神社はその請負機関であったため、神主らは古代からある本来の由来の説明ができなかった。京都の吉田家の許可も、明治維新の政変と共に、その効果を失ったのみか、明治5年には教部省が設置されて、同年7月には禁厭祈祷に対する、厳重なる布達が発せられた。然るに同年10月、仲田、松尾の二氏が、大和神社の由来を聞くため同社に参り、神主に面会したところ、神主が感情を害し、是が節となって政府の壓迫が、次第に始まって来た。中山家は石上神宮の氏子なので、大和神社の神主より、その処置を依頼して来た。石上神宮からは神職五名が中山家に来たり、教祖に弁難せしも説破せられたので、帰途丹波市分署に訴へ出た。教部省より布達のあった際とて、分署より警察官数名直ちに出張し、御簾、御鏡、御幣、金灯籠等の神具一切を没収して、村の総代に預けて引きあげた。 
 干渉(二)
 この顛末が県庁に上申せられたと見え、同年11月、丹波市市役所より、教祖に山村御殿へ出頭するべき旨達さられた。これは教祖が憑物か否か、その正体を調べんために社寺係が採った手段である。何故なら山村御殿皇族の尼宮が座主とならるる名刹であるから、狐狸の類ならば、直ちにその正体を現すべしと考へたからである。教祖は五名の門弟と共に出頭せられ、持仏堂に於いて稲尾某の取り調べを受けられたが、一言半句の滞りなく答えたまい、訊問終わってから神楽勤めをせよとの注文であったから、辻氏の歌で仲田氏に勤めさられた。同年1月17日、奈良の中教院より取り調べの件有之即刻出頭せよとの呼び出しがあったから、仲田、辻、松尾の三氏が出頭せられたところ、天理王命はない神ぢや、信心の世話をするなら中教院の世話せよ、頻りに改宗を勧められたので、呆然として帰られた。
 干渉(三)
 蒸風呂が甘露台の真横で営業された

 明治8年8月下旬、奈良県庁よりの命により、秀司殿同道出頭すべしと警官がやって来た。秀司殿風邪中につき、辻氏代理として教祖に従い出かけ、参拝を禁ずるのみか、撲滅せんとの方針を採ったのである。これでは信徒が困難をするので、秀司殿は宿屋兼蒸風呂業の鑑札を受け、自由に信徒の参拝が出来る様に取計らわれた。
 干渉(四)
 高野山真言宗に属し役行者を祀る金剛山地福寺 教祖は親が子供に認可を許される権道に依る方法を認めなかった。

 明治13年頃には地場に帰来する信者益々多く、宿屋や蒸風呂では、十分人々が集まられぬ所から、乙木村の山本氏の勧めに従い、金剛山地福寺の出張となし、住職日宥真を所長に、秀司殿が副所長になり、天輪王如来という仏名を掲げ、説教を始められた。 然し教祖はこうした権道に依るを好まれなかった。ところが明治14年4月10日、教祖と苦労を共にせられた秀司殿が逝去さられたので、そのままに打ち捨てられてしまった。同年10月7日、教祖を始め五名の方が、多数の人を集め之を惑わすを理由として、拘留の上科料に処せられたもうた。また明治15年2月、教祖外6名の方が、同理由の下に奈良警察署に召喚され、同じく科料に処せられた。
 干渉(五)
 同15年10月2日、丹波市分署より出張して、甘露台の石や教祖の衣類を没収した。又9月18日、神命により神楽勤めを行いたるを違警罪に問われ、教祖の外5名の者が十日間奈良監獄処に拘留さられた。同年30日、秀司殿婦人松枝様が、この困難の中で逝去せられた。明治16年4月26日、御縁日に参詣人あれば、取締を丹波市分署に届出でられた。その日は無事に済んだが夕方に至って五名の警官再び来たり、自作の一銭銅貨の包を出して、賽銭をとるとて責め、神饌などするから人が集まるとて餅を投げ出し、御社を焼かしめるのみか、謝意を籠めたる手続書を取りて引き上げた。
 干渉(六)
 氏神に集合してそれぞれの役割の神楽面を着け、背中には教祖より授けられし月日の紋を付け、いざなみの命といざなぎの命を中心に囲んで三島の四方で雨乞い勤めを行った

 明治16年7月13日、大阪一円は旱魃にて、村民の困るとぉとから雨乞を中山家に懇願して来た。前館長は一応拒絶されたが、強いての願望に教祖の許しを得て、その乞いを容られた。詰合の人々、三島領の四角の於いて、雨乞勤めを行われたところ、俄に盆を覆すが如き大雨が降ったので、村民は狂喜したが、お勤めに加わった12名の者は、水利妨害の理由によって、丹波市分署に連行せられ、神楽勤の道具一切を没収さられ、各自科料に処せられた。夕刻に至り警官1名、更めて教祖を拘引に来たり、丹波市分署に於いて科料を申しつけた。その拘留の際、政子様の手が警官に触れたのを、警官を殴打せりとて、これ亦科料に処さられた。明治17年3月の或る夜、突然警官が中山家に来たり、教祖の側に御供あるを見つけ、抜刀して鴻田氏を詰責す。翌日、教祖や鴻田氏を拘引し奈良監獄処へ教祖は12日、鴻田氏は10日間拘留せらる。また8月、一人拘引せられ、同じく奈良監獄で12日間拘留せられまたもう。
 干渉(七)
 教祖の履いておられた赤い下駄。教祖は拘留中、下駄を枕に極寒の夜を過ごし神命を貫徹された

 明治19年正月15日、心勇講の一団参拝し、甘露台にてお勤めを願い出しも、教祖に迷惑かけてはとの心配、前館長は断然断られた。心勇講の人々は、止むなく豆腐屋にて神楽勤めを行った。ところが櫟本分署より数名の警官出張し、御勤めを差止め、教祖、前館長外2名を拘引して帰った。 二、三の取調べを口実として日を延ばし、三日を経て教祖に12日間の拘留を申し渡した。桝井、仲田の2氏は十日間の拘留となった。是れ教祖の最後の御苦労にして、この時山澤ひさ子が付添いとして行かれたのであるから、89歳の老齢をもって、極寒にしかも寒風にさらされ、夜は下駄を枕にしてお寝み下さった事績は、本教徒の忘るべからざる事である。

【増野鼓雪教理/教会略史 官憲の取締】
 官憲の取締
 明治初期より石上神宮の神宮寺である内山永久寺は廃仏毀釈運動で壊滅され、僧侶はほぼ全員が神官や官憲になり還俗することを強制され、新政府側に就き教祖を弾圧した 。神祇管領たる吉田家より得たる布教の許可は、明治維新の変動によりその効力を失うと共に、新政府の取締実施せられた。

 明治5年の3月、教部省が設置せられ、五ヶ条の件出願を布達せられて、明治7年6月には、府県知事及び神道各館長に禁厭祈祷の対して厳重なる布達があった。本教に対する官憲の壓迫はこの頃より次第に厳しくなって来た。

 明治7年10月、石上神宮の神職が突然出張して取調べ、同日警官数名が臨検して、弊、簾、鏡等を没収した。翌11月には県庁の社寺係が、山村御殿に出張して、教祖を呼び出して取調べを行った。

 明治8年9月、県庁の呼出しにより、教祖は辻氏随へ出頭せられしところ、布達に抵触する故を以て留置を申し渡された。又信徒には本教の信仰を絶対に捨てるべく誓約せしめ、一方中山家に周囲には見張りの警官を配置して、参拝者を追い返さしめた。

 明治10年4月、医師の讒訴により、秀司氏は30余日、奈良監獄所に拘留せられた事もあった。 かく厳重なる取締に加へて、累を教祖に及ぼすを恐れられ、中山家の門前に、参拝人断りの貼紙がせられた。然し熱心なる信徒は日増しに数を加へて勤場所へ集った。淫祠邪教と目されたものに教会の設置を認可する筈なく、自然の放任が、教祖に累を及ばさねばならぬ。この間に立って秀司氏は蒸風呂兼宿屋業を思い立たれ、県庁の許可を得て営業を始められた。

【増野鼓雪教理/教会略史 教会公認の計画】
 教会公認の計画
 蒸風呂兼宿屋業も、信仰に対する官憲の干渉を全く避ける訳に行かぬので、明治13年9月、金剛山地福寺に配下に属して、仏式の教会を設くるに至った。然るに明治15年9月に至り、神楽の立勤めを行はれたのを機とし、神仏混淆の上、多数の衆庶を参拝せしめたのを理由として、詰合うた人々の弁解も聞かず、18日の払暁、教祖を奈良へ拘引して行った。教祖が奈良の監獄で、十日間の拘留に処せられたもうた共に、その高弟五名も同じく十日間の拘留を命ぜられた。当時険悪なる雲が、全く地場を蔽うていたのである。然るに一方神一条の道は、漸次各地に弘通して、講社の結成をなすもの次第に多く、大和、河内、摂津等に於いて、明治14、5年頃には、二十有余の講社が続出したのである。

 教組に御苦労を懸けぬよう、信徒の参拝ができるよう、布教が自由に出来る為には、教会設置の認可を得るより他に方法のなきを見出し、当時詰合の人々が、百万心を尽くされたのである。その一つが明治14年、大阪に於いて行われた天理王社で、これは心学道話の研究を表看板として、その公認を得んとしたのであるが、司令すべき限りではないと却下された。他の一つは明治17年9月の天輪教会本部で、これ又大阪に於いて始められたのであるが、神意に叶わぬところがあったので中止らるゝに至った。その他各地の形式の下に、教会設置の計画をせられたが、何れもその成功を見ず、却って警官の圧迫の激しくなるばかりであった。

【増野鼓雪教理/教祖略伝 帰幽】
 帰幽(一)
 大三輪神を祀る大神教会。教会設置の設置に対しては、唯教祖が不快であらせらるるというのみであり、教祖がお隠れになるという重大な結末に至ることは、その時高弟子の誰も考え及ばなかった。

 
信徒が増加するに従って、教会設置の急は信者の胸に迫って来たので、画策するがあったが、何れも成功せなかった。それで明治18年5月、神道本局の教師となり六等教会たるを許された。同年6月、神道本局の添書を得て、教会設置を大阪府へ願い出たが、聞届難しとの指令があったので、7月、再願の手続きをしたが、是れ亦聞き届け難しとのことであった。然るに明治19年に、神道本局より内海、古川の両氏が地場に立寄り、本教の価値を認め、教会公認を得る迄、大神教会の管理を受くべしと注意された。かく教会公認の要求が、信徒の間に漲って来たのに反して、同年11月16日、浴室から教祖が出でたまう時、思わずよろめきたもうた。是が動機となって、御身体に軽微なる異常を拝したが、その後は別に変わったこともなく、唯教祖が不快であらせらるるというのみであった。然し門弟は何かの神意であろうと種々協議の中に、明治19年も遂に暮れた。
 帰幽(二)  
 真柱の中山眞之亮飯降伊蔵を通して、人間は法律に逆らうことできない、三ヵ条についてのお尋ねがあれば何と返答すればいいのかを伺うと「さあさあ月日ありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」と月日がすべてに優先し、神の話を心に治め、それにかなう真実の心を定めることが元の神、実の神信仰の順序の理であるとの天啓が下った。

 明ければ明治20年、教祖90歳を迎へられた。正月19日の夜に至って、教祖の身上勝れたまわぬので、御伺いすると、勤めをせよとのことであった。然し勤めをすれば警官が喧しいので、暫く猶予を御願い申した。正月26日、又々教祖の身上が悪いので、飯降氏に依って神意を伺われると、さあろくぢに踏出す、さあ扉を開いて地をならそうか、扉を閉めて地をならそうかとの御尋ねであったので、扉を開いて御守護願度と御答へしたとぉろ、一列扉開く開くころりと変るでとの仰せであった。 同日、教祖が神楽勤めを急込みたまうこと、甚だ急であったので、前館長始め門弟等は、警察に拘留せれるる覚悟を定めて、常になく鉦太鼓の音高く、甘露台を中心に神楽勤めを行われた。
 帰幽(三)
 御休息所内 奥の長四畳の間で教祖は九十年に及ぶ人間の母親であるいざなみの命としての神命を全うされ、自ら世界一列が救かる雛形の道を残したまい静かに御帰幽された。

 教祖は四、五の門弟と休息所に於て、この勇ましき神楽勤めの声を聞き、いと満足の様子であったが、北枕に西向いて静かに眠りに落ちたもうた。付添の門弟が能く能く注意をしてみると、教祖は既に社の扉を開いて、昇天遊ばされて居った。それを知った人々が驚いて、甘露台に駆け付けた時、神楽勤めが終って柏手の音が高く聞えていた。三千世界を助ける大使命を帯びて、我が人界に現れたもうた教祖は、九十年の苦難に堪え、使命を全うして御帰幽になったのである。

【増野鼓雪教理/教会略史 本部の設置】
 本部の設置(一)
 人間の親たる神の道を、子たる者の許しを受くべきは道にあらずと、教祖はあまで独歩の道を進まれたが、神教の宣布を念とする信者は、教会設置の公認を急務とし、種々計画するところがあったが、総てごうへいに帰したので、明治18年5月、神道本局所属の教師となり、六等教会たることを許された。当時本教は三十有余の講社と、数万の信徒を有していたので、その統括上の理由を以て、同年6月18日、神道本局管長の添書を得て、神道天理教会設置願を、大阪府知事宛に出願した。然るに設置願之件聞届難しとの指令でもあったので、7月17日に再び出願したが、これ亦聞届難しとの却下せられた。明治19年に神道本局より、内海、古川の両氏が、視察の為地場に立寄り、親しく教祖に面接して、本教の価値を認めると共に、教会の公認せらるゝ迄、大神教会の管理を受けるべく注意した。かかる事情立合の間に、教祖は明治20年旧1月26日、一列扉開いて世界をろくぢに踏みならすとの天啓の如く、神の社を開いて、その姿をお隠しなった。信者は愕然として、一時為す所を知らなかったが、神は飯降氏に入り込んで、神意を説きたもうたので、一道の光明を見出した。 歳月は流るゝ如き、夢のようにして一年は過ぎ去った。明治21年旧1月26日、教祖の一年祭を執行中、亀田某の讒訴により、警官数名出張して、祭典を中止し、参集の信徒を追い払い、不当の干渉を恣にした。
 本部の設置(二)
 教会公認を要望する心は、再び信徒の胸に燃えて来た。真意を伺うと一寸ふいたる芽は今度は折れるとの仰せである。重なる信徒が安堵の飯田、櫟本の梶本家で相談の上、東京府で出願の決心をなし、神意を伺いたる所、同じ理やつれて通ろうとあったので、諸井、清水の両氏先発し、前館長は松井、平野両氏と3月27日、地場を出発して、神戸より横浜に上陸し、4月1日着京さられたのである。上京後直ちに準備を整へ、神道本局の添書を得、4月6日東京府へ出願した。越えて十日、知事より「書面願之趣聞届沿候事」という指令があった。これ天理教会が公認せられた日で、その時教会は下谷区来た稲荷町に置かれたのである。教会認可の狂喜に蘇った信徒は、4月24日、開筵式を盛大に行った。前館長は諸井、平野両氏に従事し、同所の家屋敷を、中臺氏の厚志によりて買い求め、教勢次第に栄えて来た。然るに地場へ本部を移転するのは、認可早々であり手段に過ぎる嫌いがあるので、一時分教会設置を計画し、神意を伺うたところ、十分の許しがないので、翌7月、本部を地場に移転を願うた。神意は地場一つの理あればこそ世界治まるとの思召しであったから、同月23日、本部移転の手続きを済まし、東京の方は改めて出張所とした。多年苦心を重ねられた結果、愈々地場に神道直轄天理教会本部の名を掲ぐるに至った。10月26日、改めて盛大なる開筵式が行われたが、高弟の胸中千万無量の感がったに相違ない。

【増野鼓雪教理/教会略史 伝道より教会へ】
 伝道より教会へ
 本部設置の公認と、受訓の授与とは、本を教信徒熱狂しせめたと共に、布教は燎原に火を放った如く、八方に拡がって、盲者は眼を開き、躄者は立って歩むなど、奇跡が随所に現れた。天啓の教えは今や妖雲を払って、旭日の如く人類の上に照らされた。 その伝道の経路を辿れば、高弟の苦心と努力が窺はれる。それを略述すれば、高井氏は地場付近を、桝井、喜多二氏は大和西北部を、宮森氏は山城の一角及び大和の東北部を、板倉、松村、増井、山本、松田の諸氏は、河内一円より近国に亘り、上村、山田に二氏は、大和の南部より紀伊の西北部を、筒井氏より大阪市内及び山陽道訪問を、梅谷氏が大阪市内を、諸井氏は遠江より奥州を、上原氏は東京、埼玉、栃木地方を、清水、増野、富田の諸氏は神戸氏より 播但地方を、島村氏は土佐を、山田、畑林の二氏は紀州の南部を、深谷氏は、京都府より滋賀、北陸を、鴻田氏は北越を、平野氏は大和、伊賀、山陰道方面を、布教伝道せられた。 教会本部設置と共に、天理教会規約が制定さられたので、部族教会が認めらるゝに至ったから、伝道に従事した人々は、何れも教会設置を願い出、各地に教会を設置し、伝道の根拠を定めるに至った。明治22年度には、郡山、兵神、山名、船場、河原町、東の六分教会、同23年度には、敷島、高安の二分教会、同24年には、高知、芦津、梅谷、北、網島の五分教会、25年度には、中河分教会が設置さられた。支教会に於いては、22年度には撫養支教会、23年度は田原支教会、24年度には南海支教会、25年度に、平安、中津、御津、西、堺、奈良、泉の8支教会。26年度に、大江、上町、八木、春道の四支教会。27年度に、櫻井支教会が設置せられた。かく教勢が次第に発展すると共に、本部に於いても種々な施設が行われた。それを概括すれば、明治23年1月に別席の制度が定められ、24年には、本部が六等教会より一等教会に昇格し、25年には、教祖の墓地が完成して改葬が行われ、布教事務取扱所規定が発布され、雑誌道乃友が発刊せられた。かく教会公認以来、急速なる歩調で発展したのである。その結果は26年には朝鮮布教が開始せられ、28年には支那、琉球に伝道され、29年には台湾布教が創められるなど、本教は教祖の谷底の道より細道へ、さらに大還道へと進んで行った。  

【増野鼓雪教理/教会略史 大節】
 大 節
 明治27年の日清戦争は、日本の大きな節であったが、本教も亦その影響を受けて、人夫志願の募集や、軍資金の献納の忙殺さられていたが、戦後の不況は、やがて教勢の上にも現れた。然し教祖の十年祭が匂掛けされるゝや、一段の活気を呈して、その準備の為信徒詰所が続々建築さられ、三十戸に足らなかった一寒村が、忽ち都会化しはじめて、その発展は驚くばかりであった。

 教祖十年祭は、明治29年旧1月25日に執行せられ、翌日は春季大祭、その又翌日は、日清戦役従軍死亡者の大弔魂祭が行われ、全国より帰来せる信徒は十万を越え、内外の耳目を驚かした。善悪が相図立合として、現れる如く、教祖十年祭の盛大を喜べる一面に、本教を撲滅せんとする、魔の如き手が差し延べられてあった。そこに大きい節が現れて来た。それは新しき信仰の形式と、不思議な助けと、熱烈なる布教より、社会の誤解を招いた結果、政府に於いても捨て置けずと認め、明治29年4月6日付け以て、各府県に内務省より秘密訓令を発したのである。

 この当時各地の新聞は、本教を淫祠邪教となし、筆を揃えて悪罵するのみならず、甚だしきは数ヶ月に亘って、事実無根の虚説を捏造して連載し、読者の喝采を求めたのである。事情右の如くであるから、本教の取締は厳格の上にも厳格になった。なおその上に、
神道本局を通じて、本教の教義及び儀式に高圧的な強制をなし、もし聞かずば解散を命ずべしと威嚇した。 本部に於いても死活問題であるから、神意を窺うた所が、いかんと云へばはい、ならんと云へばはいと云へとあったので、その神意に基き、同年5月合議の結果、八ヶ条の件を改めた。

 その内容は、
 一、本部は従来の神楽勤めを改めて、御面を机上に備へ、男子のみにてお勤をなし、一寸波夏はなし、甘露台の勤めとする事。
 一、朝夕の勤めは一寸はなし、甘露台のみとする事。
 一、医師の手を経ざる以上、妄りにお助けをなさざる事。
 一、教会新築工事は、華美に渉らざる様注意する事。附教会設置は猥りに許さざる事。
 一、神符に対する件あ、神鏡を以て信仰の目標とし、本部より下附すべきものに限る事。
 一、教理の説き方を一定する事。
 一、天理王命を天理大神と称し奉る事。
 一、楽器は三味線、胡弓を用いざる事

 の八ヶ条で、何れも一件宛神意を伺ったところ、子供可愛い理から許すと仰せられた。外部から押しよせてきた節は、右の決議によりて防ぐことができたが、立合の理が現れて、この事件が済んだと思う頃、又ここに教内から一つの節が現れて来たのであった。


 明治31年に起こった安堵事件というのであって、安堵村の平安支教会長たる飯田氏が、自身に神懸りありと流布するのみならず、庄屋敷は火の屋敷、安堵は水屋敷と称し、純真な信徒を昏惑し始めたのである。本部は直ちに飯田氏の本部員たる現職を免じ、松村、平野、板倉の三氏に命じ、神霊取戻の為出張せしめられた。先方では之を渡さじと、恰も百姓一揆の如き騒ぎをしたが、神すぐ遷る程に、どんな事があっても、必ず手向いするなとの神意があったので、群がる中を相手にせず、神霊を無事龍田に奉遷しこの件は落着したのである。  

【増野鼓雪教理/教会略史 独立】
 独立(一)
  節を通りぬけたら新芽が吹くが如く、大きい節を通った本教は、一派独立の新芽を吹き始めた。明治32年5月、神道本局の新任管長へ挨拶の為、前館長の上京せられし際、本局の負債償還及び本局新築の寄付を感謝し、合わせて本教独立の勧誘をせられた。帰本後独立に関する神意を伺はれると、ぼつ/\と始めかけとあったので、部下教会長を招集し、協議の結果、重ねて神意を仰ぎ、独立の準備に着手さられたのである。同年6月、松村、清水の両氏が、本局との交渉委員を命ぜられ、神様の御許しを得て上京し、種々交渉の結果、円満なる契約を結んで帰本された。越えて翌7月、前館長自ら随員と共に上京し、本局の添書を得て、天理教会独立請願書を、8月9日に内務省へ提出せられた。同時に添付書類と参考書類が添えてあった。右の出願を済すや直ちに帰本し、天理教校の設立請願書を提出したところ、奈良県知事から、9月26日付で認可せられたので、翌34年4月1日から開校し、本教教師の養成機関とした。 明治33年7月、松村、増野両氏が上京し、宗教局へ出頭したところ、課長は独立など思いもよらぬ、帰国して改善の道を講ずるが得策であろうとの事で、殆ど相手にもせらねなかった。それで同年10月22日に、遺憾ながら書類の不備を理由として、願書を取下ぐる事になった。第2回の請願書は、34年6月に提出されたもので、その時は七種の添付書類と五種の参考書類とで、前願書に比べて大きい相違は、教会所取締規定の制定で、全国を十教区に分割し、本部長直属の下に、教区内の教会及び教師の取締を目的とせられていた。 然るにこの請願書も、教義が未だ明確にされていなかったので、明治36年1月、再び願書取下げの止むなきに至った。
 独立(二)
 第3回の願書は、37年8月であるが、第2回の願書が教義の不明にあったから、直ちに天理教典の編纂を終へ宗教局へ提出して意見を求めたところ、同意を得たので帰本し、教典を普及する為、教師講習会規定を制定し、本部を始め部下教会に於いて、講習会を開催するに至った。同時に教師としての資格なき者を、三項目に亘って調査し、教師を改善する為、千四百名の教師を淘汰した。

 然るに36年5月、天理教禁止解散の請願を中西某が一代議士の紹介で衆議院へ提出し、大袈裟な反対運動を始めた。しかしついに握り潰しとなったが、これらのため第3回の請願の遅れたのである。

 その時の添付書類は五種で、参考書類は七種であったが、之を受理した宗教局では、書類はこれで完備したが、書面通り実行せられなければ、何の価値もないから、実行の上更に願い出よとの内意であったので、同月三度願書を取下げた。ところがその年の2月に、日露戦争が始まったので、本部でも奉公の誠を致す為に、国債募集に応ずると共に、傷病兵の慰問遺族弔問など多忙を極めた。又戦時に於ける帝国臣民の心得書を発行し、戦死者子弟の学費補助会を起し、徴収した金員を各府県知事に送り、その処分方を依頼した。この多忙な時期に、教典の普及を図るために、巡廻宣教規定を定め、部下一般に通達し、本部より9名部下より58名を講師に任命し、各地に講習会を開いたのである。その結果末派の信徒に至る迄、教典の趣旨が普及したので、37年12月、第4回の願書を提出した。その時は、四種の添付書類と十二種の参考書が添へてあった。38年6月に至って、宗教局から松村氏を呼び出し、願書に対する取調があった。松村氏は三橋、神崎氏を同伴、詳細に説明さられたが、なほ陳述を明瞭ならしむ為、道願を差出し、それに独立請願の理由書と本教の経過事績冤及び現在実況を精説添附せられた。

 この取調の結果、宗教局では認可差支なしとのことになったが、その12月初旬、青森県で婦人布教師が、金平糖の件で勾留せられ、折角の努力も水泡に帰したので、願書はその儘、松村師は帰国さられた。

 明治39年2月、気楽「神の曲」を完成したので、宗教局へ出頭せられたところ、請願書は宗教の局調印の上、合議の必要上、警保局に廻された由を聞き、内心悦んで帰本せられた。この年教祖の二十年祭に相当するので、本部に於いては二十間四方の仮式場を建て、盛大になる祭典を行われた。越えて4月、日露戦争病死の弔魂祭が行われた。この二大祭典の時は三島全村人を以て埋められた。一方請願書は、警保局に廻附されたが、局長の古賀氏が、強硬なる反対を試みたので、折角順調に進んでいた請願書を、復復取下ぐるの止むなきに至り、同年12月内務省より下げ戻された。 第五回の請願書を提出する迄、松村氏は古賀氏の諒解を得るために、百方手を尽された。種々なる交渉の末、同氏の諒解をも得たので、明治41年3月、第5回の独立請願を提出した。その時は添付書類が五種と、参考書が十八種の多きに達した。 然るにその年の7月、西園寺内閣が瓦解した為、十年の苦心も空しくなった。次の桂内閣が成立するや、松村氏は多田氏を通じて、平田内務大臣に、本教の経過並に内容を説明し、遂に明治41年11月27日、天理教別派独立の許可を与えられたのである。

【増野鼓雪教理/教会略史 神殿建築  
 神殿建築
 独立認可の一年前、明治40年旧5月5日、飯降本席が、病中十年の指図を百日にして、本部神殿建築の決心を定めさせ、三年たてば木の音石の音もすると予言して帰幽さられた。次いで独立が認可せられたので、本教の教勢は頓に熱を加へ、各教会の改称についで、盛大な独立報告祭が42年2月に行はれた。

 43年1月には養徳院の章程ができ、同月天理教婦人会が創設さられた。8月には教会組合規定が廃されて、教務支庁規定が設けられ、11月には海外布教規定が発布されてるなど、新施設が続々現れた。本席の予言の如く、この年五月に仮神殿を斧始式が挙行せられた。然るに前管長がその四月より病気に罹られたので、松村氏が事務を処理せられ、翌44年仮神殿へ、大神の遷座式が行はれた。

 この年6月、朝鮮布教管理所が設置せられ、9月には天理教校の校舎が鑵子山に新築せられた。前館長の病気が快癒したので、同月、本復奉謝祭を行はれ、翌月仮神殿建築起工式を挙げられた。明治45年に入って、神殿巨材の地場に到着するのものが多かった。然るにこの年明治天皇崩御遊ばされ、大正と改元せられたが、その11月28日、神殿の上棟式が執行せられた。

 大正2年8月、教祖殿の上棟式が行はれ、9月、満州布教管理所規定が発布せられ、11月、満洲布教管理所が新設さられた。この年の12月25日、仮神殿は総檜造りの、雄大荘厳なる大建築で、大和平野の一角に毅然として、聳え、渡り廊下に依って、教祖殿、祖霊殿に連なっている。大正3年春4月、遷座式を行い落成報告の一大祝祭を行う準備中、不幸国家再度の諒闇で、止むなく厳粛に仮遷座のみを行はれ、翌年4月、その報告祭を執行さられた。   

【増野鼓雪教理/教会略史・最終章 最近の事実
 教会略史・最終章 最近の事実
 大正3年12月、最終の日、前館長が暗雲閉ざして天日晦きに、忽然として神に召されて帰幽せられた。しかし嗣子正善殿が父君の後を継がれ、山澤氏が管長職務摂行者となられて翌大正4年4月、神殿建築報告祭が、各方面の人々を招待して盛大に執行せられたのである。然るに6月26日、松村氏が独立の件に関しては嫌疑を受け、奈良監獄の未決監に収容せられたのである。然るに公判の結果嫌疑ははれて、大正5年8月22日、奈良地方裁判所に於いて無罪の判決あり、更に大阪控訴院に於いて又々無罪の判決があったので、同月25日、一切の元職に復された。

 翌大正7年10月、青年会が創立せられ、翌年1月、その発会式が行はれてより、活気が本教に漲り始めた。加ふる同年4月、婦人会総会に、天理女学校創設の議が発表されるゝや新機運の動かんとするのが認めらるゝに至った。殊に8月に行はれた青年会の講習は更にこの感を深くせしめ、9月より行はれた民力涵養の講習会は本教の対外運動として効果があった。


 大正10年1月に至っては、本教々学の改善を図り、学校長の交迭を行うと共に、教庁内に教学部を設置し、教学の経済的基礎を確率し、教学の統一を図り、3月には天理教財団法人の認可を得て、本教の経済的基礎を確立し、4月より天理女学校を開校するに至った。

 大正10年1月、春季大祭を期して、教祖四十年祭の提唱せらるゝや、教内一般に異常な感激を生じ、活気溌溂たる信仰の更生するとともに、教学の勃興を来し、大正11年春3月、本教未曾有の、教会長講習会を開催せらるゝや、倍加運動の声は一段高く、今や全教を挙げて四十年祭の為に懸命の活動をなしつゝある。


教祖略伝 教基
 教基(一)
 慶応2年以前のお勤めといへば、唯天理王命と神名を幾度となく唱えるに過ぎなかった。然るにこの年始めて「悪しき払い助けたまへ天理王命」と、祈祷の意とその手振りの形式を教へられ、朝夕の勤めに之を行うことになった。翌慶応3年1月より、御神楽歌の制作に従事さられ、同年8月に至って脱稿し、その冬より神楽の手振りや、鳴物の稽古などを始められ、明治の初年に至りて、神楽勤めを完成せられた。尚この年、守屋筑前の厚意により、古市代官深谷氏の添書を得しかば、秀司殿は領主の副申を乞い、7月、山澤氏を随行として京都に出て、神祇管領たる吉田家へ布教認可を出願せられたところ、日ならず許可されたので布教の自由を得るに至った。明治2年、教祖の思召しにより、平等寺村の小東政吉の二女松枝を秀司殿の室に迎へられる。この時秀司殿は48歳にして松枝は19歳であった。
 教基(二)
 明治2年正月より、お筆先を起草しまたう。而来明治14年第17号を完成される迄、12年間、夜な夜な行灯の下にて書き給うた。時には暗中にあって書きたまう事もあったが、その字体は少しも変わらなかった。明治5年、教祖は神命により、75日間の断食をされた。この断食は慶応元年の8、9月頃にも30日間行われたが、何れも御神酒と神水と少量の果物を召し上がるばかりで、穀気は少しも召されなかった。然し身体は少しの御衰弱もなく、力試しさへして、神の自由を示された。尚この前後に教祖は別火別鍋と仰せられた。これは御飯と副食物を別に火を起して炊く意味で、要するに食事を全然他人と異にするというのである。
 教基(三)
 「わしが赤い着物を着ていりゃこそ世界明るいのや。わしが赤い着物を着なければ世界暗闇やで」と語り、明治政府が強制した国家神道政策による元の神・実の神信仰に対する弾圧に対して、徹底抗戦を教祖自ら全身に赤衣を纏い表明された。明治6年、教祖は、飯降氏に命じて甘露台の模型を木製にて造らしめたもうた。尤も模型なれば小さいものにても、御教祖の御居間に置かれてあったという。明治7年、山村御殿より帰宅さられて、始めて赤衣を召された。神懸り以後この時まで、三ッ菊の黒紋付の衣類を召されて居ったが、黒衣では身体が堪へられぬとて、赤衣に変へられたので、これは深い意義があるのである。後に神符はこの赤衣にて造られるるに至った。
 教基(四)
 かつての物部氏の拠点集落であった布留遺跡の祭場跡と丁度重なっており、神々が人間を創造した場所に今後の信仰の中心拠点となる地場を定め、その証に甘露台が設置された。明治8年の春、神の啓示により、地場の芯を定められた。この日中山家の屋敷内を、人々に歩かせられたところ、一点に来ると不思議にも足が動かなくなる。そこへ教祖は模型の甘露台を据えたもうた。この甘露台は地場定めは、本教の信仰に点睛されたもの同然で、而来人々の信仰は、この甘露台を対象として次第に向上して来た。同年、表門の建築に着手せられる。門の向かって右側には窓なしの倉あり、左側は後に中南と称し、教祖の住居とせられた。
 教基(五)
 八つの龍が降臨したとの伝説があり、石上神宮の奥の宮といわれている日の谷八つ岩等のイワクラが現存しピラミッド形状となってる、別名ニギハヤヒ山(国見山)と呼ばれていた滝本の山中で、教祖は自らが出向いて甘露台となる聖石を選ばれた。明治14年の末に至り、飯降氏の制作せられた甘露台の模型を、石造にて積みあげられる事となった。その時の石工は横田七次郎といい、瀧本の山中より信徒が大勢集まりて、荒石を地場に運び、漸く二段まで積まれた。然るに石工の過失で、製作中の石をかき、遂に逃走したのでそのままに打ち捨てられた。翌年5月に、丹波市分署より警官が来て、その石を没収して持ち帰ったので、而来は再び木製のを用い、現在はその二段迄の模型が残されてある。明治16年、教祖は86歳の時、勤め場所の北側に三間四方の平屋を建築された。休息所と称するのはこれで、晩年教祖はその上段の間にあって信徒を教化さられたのである。




(私論.私見)