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(つづき)それから彼は何年で御座いましたか、旱魃の時で御座んしたが、村方より雨乞ひに頼みに来ましたが管長様は断った。村からは苦情があれば後は引き受けるからやってくれと云ふ。神様は雨乞ひせいとお急き込みになる。管長はいかんと云ふ。それでも結局、村の者の頼み通りに雨乞いすることになり、村の東の方の氏神様(春日神社)で雨乞いをして、二回目に辰巳の牛剥ぎ場でやりました。宮様へ来た時は暑くて困ったが、それから牛剥ぎ場に行きました時は東の山に雲がありました。それが段々大きくなって郡山の詰所へ近くに行った時は、それが頭の上一杯に拡がって来て、幸田様と云ふ神社の前に来た時は偉い雨で、頭の上が痛い様に雨が降って来ました。その時、よそでは雷様が落ちて柱がさけたと云ふことでした。それから豊田の方へ行き御墓地の下でお勤めをした時は雨が上って居りました。それから再び宮様へ帰りました時は、前には埃が立って居たのが、このたびは水が溜って居りました。
その頃は甘露台は外にありましたが、そこで御礼勤めをしてゐた時、警察で三人計り来まして皆んな引っ張って行かれました。教祖様も引っ張って行かれました。その時、村の者は水掛け行って側から行った人だけ残って居りましたから、攫(註・つか)まへられて始めの者が三十銭の罰金、二度目の者が五十銭の罰金でしたが、何んでも前に一遍引かれた事のあるものは罪が重かった様です。その時は教祖様も罰金ですみました。
その時、差渡し三寸の十二の菊の紋を戴いたものは神の人衆を仰りましたが、それを今の夫人様から貰ひ、神の人衆と云ふことになり、お勤めに出さして戴く様になりました。私もその赤い菊の紋を戴いてお勤めに出さして戴いたが、中には御紋を戴いても返しに来た人もありました。その時の年限は忘れましたが、何んでも黒い着物の上にその紋をつけてお勤めに行きましたら、雨に降られシックリ濡れて了ったから、警察へ行って着換へたら、紋まで取られて了ひました。
その頃、お神楽は男の神様は男、女の神様は女が勤めることになってゐましたが、男でも女の神様になる時には女の帯を締めて女の形をするのです。私はその時、大食天命になり、女の帯を借りて女子の面を冠って勤めて居ると、巡査が来て、「この奴は男の癖に女の姿(なり)をしてやがる。太い奴だ」と云って数珠継ぎに継いで引っ張って行かれ、お面だの御神楽道具だのを取られて了ひました。それが櫟本へ行かっしゃる前でした。その時、サユミさん、忠作さん、豆腐屋のおかゆさん、嘉市の権十郎さんも行きました。(つづく)
※1‥宮森先生のお話は、史実の順番がゴッチャになっている部分があり、本来ならばその辺りの考証もしなければならないのですが、1月中旬より私生活の急激な変化により、その時間がなかなか持てずにおります。詳しくは教祖伝を参照願います。
「雨乞いつとめの史実」第九章御苦労258〜265ページ
「菊の紋の史実」‥第七章157ページ
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私がお道につかして戴きました頃は東の方の今の手水鉢のある辺りに門がありました。それが表門で御座いました。門を入ると西側に窓がありますが、彼処(あそこ)の窓際にお居でなされた。今はその窓は形が変ってゐますが、その頃は突き上げで御座いました。その窓際に幅三尺丈け七尺位の台の上に上ってお居でになりました。台の高さは私の腰の辺まで御座いました。最初は下の方にお居でになったが、下の方は身体が苦しくてならんと云ふので、台を拵へて、その上にお居でになりました。その下は十畳の間で、一寸床の間がついて居りましたが、先生だとか御家内だとかは、そこへお居でになりました。
御本席の時分には刻限と云ふて願はんでも御指図になる事もありましたけれども、大抵こっちの方から願ってお指図を戴くのですが、その頃は教会も何もありゃせんので事情願もありゃせんですし、又こっちの方のついて居るものも幼稚なものですから、聞かして貰ふだけで大抵お尋ねするといふ事はありませんでした。その次は「説き流し」と云ふて歌見た様にヅーとお云ひなされます。本席のとコロッと違ゐます。戦争の起ること等も折々説き流しでお云ひなさったこともあります。
お話は一体夜分に多う御座いました。夏なぞにはサアお話しと云ふと裸体の儘(まま)で飛んで出ると云ふ風でした。その時分に御筆先だとか色々なものをお書きになりましたが、御筆先も一遍に彼れ丈けのものができたのでありません。何遍も出ました。私共が行くと、こんなものを書きましたと出されることもありました。教祖様に筆もて/\と神様が云はれる。教祖様が筆もつと一人手に書かれて行きます。墨すってそこへ置くと一人手に書かれて行きます。それを纏(まと)めたものが御筆先です。門の所へお居でになりました時も筆先を仰山にお書きになりました。
私共は百姓を引き受けて居りましたから、夜分等教祖の所へ遊びに行きますと楽しみな話をお聞かせ下されました。道の働きについても『人の事と思へば皆んな人の事になる。我が事と思へば皆んな我が事になるのやで』と度々お聞かせになりました。その頃は百姓の間にお助けにも出さして戴いてゐたが、忙しい時などは百姓の方も放って置けず、又来てくれと云ふ所に行かん訳にならんから困り、教祖様に伺ふと『百姓の方計(ばか)りしてゐるのではない。来てくれと云ふ所があったら行ってやれ』と云はれる様になり、百姓専務と云ふことはできず自然、道一筋に働かにゃならんと云ふ様になりました。
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その頃の百姓と云っても勤めもチョコ/\とあるし、そう百姓一方と云ふことはできませんでした。それに教祖は『一日朝から晩までノベツ(間を置かないで続くさま)に働くのではない。半日働いたら半日陽気遊びをする様になるから』と仰せられました。今日は日の寄進をする人は沢山ありますが、その時分は私と中山重吉さんと二人で百姓一方にやってゐました。彼の人はお助けに行かれませんでしたが、夏の忙しい時になると愚図々々してゐられませんでした。米等も夏の忙しい時は昼間ついてゐられませんから、夜の明ける頃二臼もついたこともあります。教祖様は『そう朝から晩迄働くでないから招待のある所へ行ってやれ』と仰せになるので百姓の方は自然できなくなりました。
明治十六年に遠州(ここでは静岡県袋井市のこと)へ来てくれと云ふので行きましたが、その日、私と高井さんと門屋で米つきをしてゐました(門を入った所へ席嚢(かます。前後の意味から叺≠フ事と思われる。わらむしろを二つに折り、両端を縄で綴(つづ)った袋。穀物、肥料、石炭などを入れる)が遠州へ行って来うか?と云ふことになり、行かうと云ふことになり早速相談が極った。そうなるとそれをつき終る迄辛抱し切れないで、その儘にしてお地場を立って河内の榛原に寄り、夜通しで大阪迄行きました。大阪では井筒さんが綿屋をしたり真明組の講元をしたりしてゐるから、そこへ寄って誘って行く心算であったが、未だ夜が明けませんから川の側で蜆(しじみ)を捕ってる所で夜を明かし、それから本田の井筒さんを叩き起こしました。その前に井筒さんに十二下りの手をつけて心易くなって居るから遠州へ行かうと云ふと行くと云ふ。それから最(も)う一人橘善吉と云って魚屋をしてる周旋方を誘って四人連れで莞莚蓑(かんえんみの。蓑(みの)の一種)に管笠で東海道を草津に廻り六七日目に遠州へ行きました。その頃、諸井さんは、広岡村と云ふ所に居られました。袋井より二十町程入った時宿屋へ泊り、井筒様が十二下りの手が皆んなついてないから稽古をしてゐましたら、宿のお客様さんが賽銭を上げてくれたことがあります。諸井さんの内には一月程居りましたが、その間に講社が九千何戸ってできました。帰りに汽車がありませんから伊勢の四日市から伊賀の上野へ出て上野から島ヶ原を通って帰りました。これも六日程かゝった様に思ひます。(つづく)
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教祖お崩れの頃はこっちの方へ居りましたが、『勤めをせい』と云ふことを頻りに云はれる。その頃、お勤をせいと言はれると警察が出て来ることが定って居りました。内の先生方はそんなことをすれば喧しいからと云って止めてあるし、しなければ助からんのでお勤めに出ました。その時、高井さんも居りました。古い人が居りました。お勤めをすれば拘留せられにゃならんと云ふので、足袋を二枚位はいて何時引かれても構はんと云ってお勤めをしてしまふと、教祖様の息をお引き取りになるのが一手でした。その前に御伺ひしましたら(その頃は扇をもってゐて御伺ひしなされたが、始めのうちは扇が渦巻いて居るが終ひにピタリと膝についた時お願するのである) 『扉を開いて世界を直路に踏み平らさうか? 扉を閉ぢて世界を直路に踏み平らさうか?』(※1)と云ふお言葉があった。その頃は余り門を閉ぢたりなんぞすることが多いから「扉を開いて世界を直路に踏み平らせて戴きたい」と願ひましたが、後で考へて見ると教祖のお崩れを願って居たのでした。その時、御本席のもってゐた扇がピューッと開きました。
それから医者にかゝって居ませんし、どうも仕様がないから苣原の勝治さんといふ藪医者を頼みに参りました。この勝治って医者は薬三服呑んで利かぬ時は天輪さんを頼めと云はれた位信心して居ましたが、私が頼みに行きましたら寒い時ですが来てくれました。その時は本部の西側の煮売屋迄勝治と云ふ医者を連れて来り、そこで一服させっはって帰りましたが、診断書等は彼の人が書いてくれました。
教祖お崩れより葬式迄は四五日も間がありました。葬式の時は私と山澤さんと倉掛りをして居りましたからよう見送りませんでしたが、何んでも偉いことでした。沿道は両側田まで道の様にして了ひました。(その頃は信徒が大和地方から河内近辺にヅーとありました) 教祖お崩れになった時分は皆なガッカリしてゐました。世界でも天理教はお終ひの様に思って居りましたが、それからヅーと道が拡まりました。
※1‥この間のくだりは、教祖伝第十章「扉ひらいて」を参照のこと。
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教祖一年祭の時なぞも中々の人でしたが警察からスッカリ差し止められて、参拝人はあっちへ追はれこっちへ追はれたりして参拝することができないで帰りましたが、装束を着けてゐたものは帳面につけられました。
教祖御存命中は何うしても教会の御許しがなかったのです。それは真柱の年が行かん故かも知れませんが、教祖お崩れになって一年祭がすんでから、世界の子供が可哀相だから許す。許す限りは往還道で怪我をすな。細道には怪我はないと云ってお許しになった。その頃はこっちの方で願はうと思っても喧しいから東京でお願ひして認可を得、今の東大教会のある所へ教会を設置してそれからこっちの方へ引いて来ました。
これより先、お地場で空風呂が出来なくなってから一時金剛山の慈福寺(※地福寺の誤り)を出張所として願ったことがあります。その頃は護摩をたいたり、天輪如来の掛地をかけたりして内の先生(今の夫人様の親)が上から矢ヶ間しいと云ふので参拝しても差支へない様にお願したが、神様が出て『そんな所へ頼みに行ったら神が退く』と立腹なされたことがあります。それから開講式に護摩をたくのが護摩札は吉野で書くので、先生が頼みに行くのに誰も随いて行く者がない。私は頼みに行くのではないから、マサカ神様が退きなさる様なこともあるまいと思って、私お伴をさせて戴きますと云って吉野へ行きました。先生は足が悪いから道の悪い所は車に乗り、好い所は歩かれるのですがサテ越峠(※1)を越える時は矢立も何も私が持ちました。芋越から吉野の川上へ出て渡しを渡って吉野の宿へ行き護摩札を頼み、そこで一晩泊り、翌くる日、金剛山の慈福寺に行って護摩をたく日を極めて大豆越まで帰りました。先生は足が悪いからそこで泊り、私は帰って来て内で寝ました。その定めた日には坊主が来て護摩札をたいて説教する。その時は大分賑かでした。それを暫時やって居りましたが、その後に警察が来まして神仏混合してはいかんと云って取り払って了った。その時、神様が出なはりまして、『神は願ふのやないと云ふても聞かないから警察怨むやない。神が取り払ひに出したのや』と云はれた。その頃、掛図はかけて居ったがお願ひする時は二十一遍のお勤めをして居りました。
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その前に太神楽の鑑札を受けたこともありました。教祖様はお願しても御許しがないし、世界からは非難せられるし何んとかして表向きにして参拝させたいと思って色々のことをしました。教祖の食事は別になさってゐました。側にゐて御飯を食べてゐると、『食べなさるか?』と云って箸につけて出される。『汚な御座んすか?』、「イエ結講で御座います」と云って戴いたこともあります。年老っても中々達者なもので御座んした。カラサホ(※唐棹、からさお)で麦等かってゐますとやって来られて『私も少し手伝ませうか?』と云って手伝すなされたこともあります。
力競べをしますと大概負けます。お互ひに手頸(※手首)と手頸と握って力の入れ競べをしますと、教祖様が力を入れて来るとこっちの方の手が離れて了ひます。又よく小指と人指し指とで手の甲の皮を上げなされた。又後で合掌に組んでお見せになったこともあります。教祖の右の親指が少し歪んでゐましたが、それは奈良の監獄へ行きました時、親指二本括(くく)って釣り上げられたクックと云って曲ったと云ってゐられたが、そんな目に逢はれたこともありました。教祖は至って謙遜の方で空風呂に入る時、自分がお入りになり、人の前を通る時も御免なさい/\と云って手を下げてお通りになりました。
子守唄に庄屋敷小在所西から見れば足達金持ち、善右衛門さん地持ちと云ってる通り、この村でも田地田畑は一番余計持って御座った。それを神様の御命令で『埋せ込み場所迄立てゝ入れ』と云はれた迄落ち切られた。埋せ込みになったと云ふことを聞いて居りますが、実際埋せ込み場所に入られたか何うか訳りませんが、兎に角これ以上に落ち切ることはできないと云ふ所迄落ち切った時、神様が、『内は立派なもので寄りつき憎い。これで充分だから、この屋敷を一夜の中にも元の通りにして返す』と云はれたが、それから十年の後に元の通り返りました。(了)
大正五年一月発行「雑誌 新宗教」(新宗教社編)86〜97ページより
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