【飯降伊蔵(いぶり いぞう)履歴】 |
1834(天保4)年12.28日、大和国山辺郡向渕村(現・奈良県宇陀郡室生(むろう)村大字向渕)で、飯降文右衛門、れいの5人兄弟姉妹の5番目の四男亀松として生まれる。
1907(明治40)年6.9日、出直し(享年75歳)。 |
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1834(天保4)年12.28日、大和国山辺郡向渕村(現・奈良県宇陀郡室生(むろう)村大字向渕)で、飯降文右衛門、れいの5人兄弟姉妹の5番目の四男亀松として生まれる。 |
8歳の頃から寺子屋に通い、14歳の時、車大工のもとで修業を始めた。 |
1855(安政2)年、22歳の頃、櫟本(いちのもと)村(天理市)に出て、従姉の夫のもとで大工修業を続けた。 |
結婚をしたが死別。まもなく再婚したが離縁。
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1861(文久元)年、29歳の時、小夫村の馬場武右衛門の長女さと(28歳)と結婚し、轢本字高品に移った。 |
1864(元治元)年5月、二度目の流産をしたさとが床に就いた。椿尾村の大工・喜三郎(異説あり)から「庄屋敷に産に妙のある神様が現れた」と教えられ、大急ぎでおぢばに参詣、散薬を頂いて帰る。翌日は朝と夕に参詣。3日目には自分で食事をするまでになった(稿本天理教教祖伝49-51頁参照)。 |
1864(元治(げんじ)元)年5.25日、時に伊蔵32歳、教祖(おやさま)は「待っていた/\。思惑の大工が来た。八方の神が手を打って待っている」と仰せられている。妻の病気をきっかけに天理教に入信する。 |
同年6.25日、伊蔵夫婦は揃ってお礼参りをした。翌7.26日、おぢばに参拝してお杜の献納を申し上げた。ここに「つとめ場所」の普請が始まる(稿本天理教教祖伝53-55頁参照)。この日、伊蔵夫婦は、ともに扇と御幣のさづけを頂いた。教祖は「大工は伏せ込んだ」と仰せられたという。
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つとめ場所は、伊蔵の手で10.26日に上棟。お祝いをしたが酒が足りず、さとは酒屋に走った。しかし貸してもらえず、代金の代わりに帯を置いてようやく1升の酒を持って帰っている。 |
翌27日、大和神社の事件となり、伊蔵も3日間留め置かれた。できかけていた講社もバタリと止まった(稿本天理教教祖伝56-58頁参照)。しかし、伊蔵は独りで普請を引き受けた。 |
同年末の12.26日、一旦櫟本へ帰り、翌27日、また戻って材木屋と瓦屋に支払いを断りに行っている(稿本天理教教阻伝60-61頁参照)。つとめ場所は年が明けてできあがった。 |
伊蔵夫婦は、普請の時からおやしきに詰め切り、元治元年から慶応2年(1866)頃まで約3年間住み込んだ(「翁より聞きし咄」)。「おさしづ」には「どちらこちら草生え……その時貰い受け、荷物持ってやしきへ伏せ込んだ一つの理」(さ31・8・26)とある。ときには、秀司、主を友と夜更けまで、「神様はこう言やはるけれど、先は案じるで。お前はどう思うで」(さ31・8・26)と語り合うこともあった。ある年の暮、夜12時過ぎに、寒いから暖まりたいと柴を探したが何もなく、松葉を焚いて差し上げたこともあるという(さ29・3・31参照) |
慶応元年6月の夕方、僧侶が乱入し、こかんが応対した。伊蔵は隣の6畳で身構えていた(さ31・12・31参照)。
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同年10月の助造事件の時は、針ケ別所村まで教祖のお伴をした。 |
慶応2年8月、長女よしゑが生まれた。教祖は名前を付け、「親子諸共伏せ込んだ」と言われたという(さ31・8・2参照)。 |
この頃、伊蔵は轢本へ戻った。昼は大工仕事をしたが、おやしきへは毎日通った。元治元年から明治5年(1872)まで丸9年間、大晦日におやしきへ帰るのは伊蔵一人だけであった(さ34・5・25参照)。掃除をし、神祭りをし、夕食も済ませて家に帰った。 |
慶応4年冬、長男政治部誕生。 |
明治4年4月、二女まさゑ誕生。同年、政治郎は出直した。ある日、教祖はさとに「政治郎を返してやるで。今度できたら男やで」と仰せになり、政甚と名付けられた(さ33・3・29参照)。
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この頃、教祖は筆を取り4首の歌を書いて渡された。後年の「おさしづ」には、「最初先になれば、どうなるという話から楽しまして、一筆書いて、理を頼りに連れて来た道である」(さ31・12・31)とある。 |
同じ頃、教祖から「朝起き、正直、働き」、「一粒万倍」についての言葉も聞かせて頂いている。明治5年頃までの約10年間、手伝いに来るのはほとんど伊蔵だけであった。後年の「おさしづ」には「三十年以来親子諸共という、これ杖柱という理」(さ30・8・14)とある。 |
明治6年、伊蔵は教祖の仰せにより、かんろだいの雛型をつくった。 |
明治7年、二男政甚が生れた。教祖は「先に名前を付けてあるで」と喜ばれた。 |
明治8年9月、こかん出直し。 |
伊蔵は中南の門屋の普請に掛かっていた。さとは子供の小遣いにでもと小店をだしたが、貸し倒れなどで間もなく廃業。 |
この頃、伊蔵はよく夜中に起き上がり、「国々所々名称の旗や提灯立てに来るで」などと言ったが、自分では覚えていなかった。この前後に、伊蔵は「言上の許し」を頂いた。 |
明治12年、小二階。明治14年、内蔵を建てた。
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4月、秀司が出直した。 |
教祖は「一日も早く屋敷へ帰るよう」と繰り返し言われていた。その度に決心をしてみるものの、延び延びになっていた。 |
明治14年、櫟本で普請中、踏み台にしていた樽がこけて投げ出され、戸板でおぢばに運ばれた。教祖は「神が落としたと仰っしゃるで」と仰せられたという。しばらく仕事を休んだが、まさゑは眼病、政甚も口が聞けなくなった。さとがお願いにあがると「政治郎のことを覚えているかえ」などと仰せられ、さとは、帰らせて頂くと誓った。伊蔵に相談すると、今まで通りの信心を続けるのがよい、と言う。板挟みになった。 |
9月、さとは、まさゑ11歳、政甚8歳の二人を連れてお屋敷に住み込んだ(稿本天理教教祖伝逸話篇148頁参照)。 |
1882(明治15)年3月、 伊蔵も、翌15年3月、よしゑ17歳とともにお屋敷に住み(「伏せ込み」)内蔵の中2階6畳に住んだ。(稿本天理教教祖伝逸話篇164頁参照)。伊蔵49歳、呈上48歳であった。 |
翌4月、中山家の宿屋と空風呂は、さと名義に切り替えた。 |
同年10月、教祖は奈良へ御苦労になったが、伊蔵は教祖と行き違いに奈良監獄署へ送られた。 |
11月、まつゑが出直し、宿屋と空風呂は廃業された。 |
同11月、御休息所の普請に掛かり、翌16年秋には内造りもでき、伊蔵の仕事納めとなった。この頃、伊蔵は内職にお杜を拵え、子供の養育費にあてていた。教祖は「お前も辛かろうなあ。しかし、先になれば難儀するにも難儀でけん」と慰められたという。伊蔵は慣れぬ鍬を手に百姓仕事もしていた。山仕事にも行った。食事はいつもカマドをお膳の代わりにしていた。さとは、ご飯炊きや下働きをしていた。後年の「おさしづ」には、「百姓から肥はきまでして来た者」(さ32・8・26)とある。
復元第三号の飯降尹之助「永尾芳枝祖母口述記」129Pは次の通り。
「お屋敷にいる人の中にも、飯降の家族は多人数で、殊に子供の食いつぶしが多いとか、毎日遊んでばかりいるとか口喧しく言う人もある。父様は『人を不足にしては教祖様に申訳がない、神様に不幸や』と言ふて、体の悪い時でも休まんと仕事をしやはった。そやけど色々言い散らした人は教祖様の御在世中に出直さはった」。 |
「色々言い散らした人」は「教祖の御在世中に出直さはった」からすれば「まつゑ」が考えられる。この時分、本席と定まる前の伊蔵が窮しており、もし伊蔵が出直し、お屋敷を追い出されたら行くところがない、大阪へでも出ようかと思案苦慮していたと、娘の芳枝がその悲壮な胸の内を回顧している。 |
明治15年頃からは「仕事場」と呼ばれて神意を伝えることが多くなる。教祖に伺うと「伊蔵さんに聞いて来い」と仰せられることも度々であった。 |
明治15年10月頃、御休息所普請にともない小二階と呼ばれる建物の下に移り、竣工後は、中南の門犀に移った。 |
明治20年2.18日(陰暦正月26日)、教祖は現身を隠された。教祖がお隠れ後の明治20年2月頃の話として、復元第三号飯降尹之助「永尾芳枝祖母口述記」133頁が次のように記している。
「教祖様の御昇天になった後のお屋敷というものは人間心ばっかりで、永の年月教祖様唯お一人を頼りとして、またお言葉を信じて連れて通らして貰ふたのに、その教祖様はこの世のお方ではなく、そんな時にこの有様やから、とてもとても苦しみは一通り二通りではなかったのや。口ではとても言ふことができん」。 |
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3.11日、伊蔵は身体がだるくなり床に就き、日に日に衰弱した。全身に汗が出て、飴のように糸を引いた時もある。その間も、「おさしづ」は毎日あった。3.17日「さあ/‾\これからは綾錦の仕事場。錦を仕立てるで」(さ20・3・17)、3.25日「さあ/\本席と承知が出けたか/\」(さ20・3・25)と指図している。真柱より、本席と承知、と答え、伊蔵は「本席」と定まり、指図を伝えることになった(55歳)。 |
翌3.26日夜、最初のおさづけを渡している。後年の「おさしづ」には、「十二下りの止めは大工、」(さ31・7・14)「大工に委せると言うたる」(さ34・5・25)、「ふでさきにも出してある。元々の話聞いて成程の理と思うだけの者貰い受けた」(さ27・3・4)とある。また、「三人五人十人同じ同席という。その内に、綾錦のその上へ絹を着せたようなものである」(さ20・3・25)、「同じ同格という。大いの間違い跨りある。……掛かりどうも難しいてならなんだ。その時杖柱にした」(さ31・8・2)とある。 |
明治20年4月、長女呈_ヒ冬は上田楢治郎と結婚、まもなく永尾家を立てた。 |
1887(明治20)年、教祖中山みき出直し後、本席となり神言をつたえ草創期の天理教を指導した。神言の筆録「おさしづ」は同教の原典とされる。
本席となって後は、各地の教会へ巡教もした。
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明治23年 |
大阪。 |
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明治24年 |
東京、静岡。 |
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明治25年 |
大阪、和歌山。 |
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明治26年 |
大阪。 |
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明治27年 |
兵庫、岡山、高知。 |
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明治28年 |
三重、東京。 |
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明治30年 |
東京。その他。 |
こうした折には、どんな人にも心安く話し掛けた。教祖の墓地へ参拝する時なども、帽子をとって、「皆さん、ご苦労さん、ご苦労さん」と挨拶した。帽子を取って挨拶するとき頭にはまだちょんまげがあった。
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明治22年5月、本席宅が新築され、一家はそこに移った。 |
明治26年3.18日、妻さとが出直した。同日夜の刻限には、「御席さん/\四五年の間、まことに悠るりとさして貰た」(さ26・3・18)と、互生の気持ちが語られている。 |
明治25年8月、改めて本席宅の普請を促され、翌26年12月、本席御用場竣工。同3日、引き移り。この時、よしゑ、まさゑがお伴できなかったので一時古家に戻る。従来の本席宅は永尾宅となった。本席の食事は永尾家で世話をした。 |
明治28年、政甚は宮川小梅と結婚。 |
明治32年10月、永尾楢治郎出直し。 |
明治32年11月、御用場の南に一軒新築された。
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明治40年3.13日、「百日のおさしづ」が始まる。本席となってからは、度々身上となっているが、この時も間もなく身上となった。まず、上田ナライト宅の普請を急き込まれ、4.2日、地所が決まった。4.8日から10日までは、3人の子供について心の置き所を仕込まれた。また、3.22日「今度教祖の普請に掛かる」、4.5日「三十年祭々々々々」(さ40・4・5)と、普請を指図された。数日間は気分もよく、建築用材を山へ兄にも行かれた。5.8日(陰暦3.26日)「二十六日夜定まったという声を」との指図に、真柱より「分かりまして御座ります」と答え、6.3日、普請の計画もほぼ決まった。 |
同月6日早朝、おさづけをナライトに運ばせることになった。この時「肩の荷が降りた」と言われ、この日から子供のように無邪気になった。 |
1907(明治40)年6.9日、出直し(享年75歳)。同月9日朝、一旦息が切れたが、息を吹き返し、昼食もとった。そして「おおきにご馳走さん」と礼を言ったが、両手を膝に置いたまま出直した。 |
葬儀は、7日間通夜をした後、15日に執行。「席と言えば皆下のように思うなれども、ひながたと思えばなか/\の理がある」(さ22・10・9)と言われる生涯であった。 |
稿本天理教教祖伝逸話篇29「三つの宝」、30「一粒万倍」、31「天の定規」、87「人が好くから」、98「万劫末代」、102「私が見舞いに」。
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〔参考文献〕
中山正善『ひとことはなし』『ひとことはなしその二』(天理教道友杜、昭和11年)。
奥谷文智『本席飯降伊蔵』(天理教道友社、昭和24年)。
植田英蔵『新版飯降伊蔵伝』(善本社、平成7年)。
天理教道友社編『天の定規一本席・飯降伊蔵の生涯』(平成9年)。
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