飯降伊蔵履歴1

 (最新見直し2015.10.26日)

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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【飯降伊蔵(いぶり いぞう)履歴】
 1834(天保4)年12.28日、大和国山辺郡向渕村(現・奈良県宇陀郡室生(むろう)村大字向渕)で、飯降文右衛門、れいの5人兄弟姉妹の5番目の四男亀松として生まれる。
 1907(明治40)年6.9日、出直し(享年75歳)。

 1834(天保4)年12.28日、大和国山辺郡向渕村(現・奈良県宇陀郡室生(むろう)村大字向渕)で、飯降文右衛門、れいの5人兄弟姉妹の5番目の四男亀松として生まれる。
 8歳の頃から寺子屋に通い、14歳の時、車大工のもとで修業を始めた。
 1855(安政2)年、22歳の頃、櫟本(いちのもと)村(天理市)に出て、従姉の夫のもとで大工修業を続けた。
 結婚をしたが死別。まもなく再婚したが離縁。
 1861(文久元)年、29歳の時、小夫村の馬場武右衛門の長女さと(28歳)と結婚し、轢本字高品に移った。
 1864(元治元)年5月、二度目の流産をしたさとが床に就いた。椿尾村の大工・喜三郎(異説あり)から「庄屋敷に産に妙のある神様が現れた」と教えられ、大急ぎでおぢばに参詣、散薬を頂いて帰る。翌日は朝と夕に参詣。3日目には自分で食事をするまでになった(稿本天理教教祖伝49-51頁参照)。
 1864(元治(げんじ)元)年5.25日、時に伊蔵32歳、教祖(おやさま)は「待っていた/\。思惑の大工が来た。八方の神が手を打って待っている」と仰せられている。妻の病気をきっかけに天理教に入信する。
 同年6.25日、伊蔵夫婦は揃ってお礼参りをした。翌7.26日、おぢばに参拝してお杜の献納を申し上げた。ここに「つとめ場所」の普請が始まる(稿本天理教教祖伝53-55頁参照)。この日、伊蔵夫婦は、ともに扇と御幣のさづけを頂いた。教祖は「大工は伏せ込んだ」と仰せられたという。
 つとめ場所は、伊蔵の手で10.26日に上棟。お祝いをしたが酒が足りず、さとは酒屋に走った。しかし貸してもらえず、代金の代わりに帯を置いてようやく1升の酒を持って帰っている。
 翌27日、大和神社の事件となり、伊蔵も3日間留め置かれた。できかけていた講社もバタリと止まった(稿本天理教教祖伝56-58頁参照)。しかし、伊蔵は独りで普請を引き受けた。
 同年末の12.26日、一旦櫟本へ帰り、翌27日、また戻って材木屋と瓦屋に支払いを断りに行っている(稿本天理教教阻伝60-61頁参照)。つとめ場所は年が明けてできあがった。
 伊蔵夫婦は、普請の時からおやしきに詰め切り、元治元年から慶応2年(1866)頃まで約3年間住み込んだ(「翁より聞きし咄」)。「おさしづ」には「どちらこちら草生え……その時貰い受け、荷物持ってやしきへ伏せ込んだ一つの理」(さ31・8・26)とある。ときには、秀司、主を友と夜更けまで、「神様はこう言やはるけれど、先は案じるで。お前はどう思うで」(さ31・8・26)と語り合うこともあった。ある年の暮、夜12時過ぎに、寒いから暖まりたいと柴を探したが何もなく、松葉を焚いて差し上げたこともあるという(さ29・3・31参照)
 慶応元年6月の夕方、僧侶が乱入し、こかんが応対した。伊蔵は隣の6畳で身構えていた(さ31・12・31参照)。
 同年10月の助造事件の時は、針ケ別所村まで教祖のお伴をした。
 慶応2年8月、長女よしゑが生まれた。教祖は名前を付け、「親子諸共伏せ込んだ」と言われたという(さ31・8・2参照)。
 この頃、伊蔵は轢本へ戻った。昼は大工仕事をしたが、おやしきへは毎日通った。元治元年から明治5年(1872)まで丸9年間、大晦日におやしきへ帰るのは伊蔵一人だけであった(さ34・5・25参照)。掃除をし、神祭りをし、夕食も済ませて家に帰った。
 慶応4年冬、長男政治部誕生。
 明治4年4月、二女まさゑ誕生。同年、政治郎は出直した。ある日、教祖はさとに「政治郎を返してやるで。今度できたら男やで」と仰せになり、政甚と名付けられた(さ33・3・29参照)。
 この頃、教祖は筆を取り4首の歌を書いて渡された。後年の「おさしづ」には、「最初先になれば、どうなるという話から楽しまして、一筆書いて、理を頼りに連れて来た道である」(さ31・12・31)とある。
 同じ頃、教祖から「朝起き、正直、働き」、「一粒万倍」についての言葉も聞かせて頂いている。明治5年頃までの約10年間、手伝いに来るのはほとんど伊蔵だけであった。後年の「おさしづ」には「三十年以来親子諸共という、これ杖柱という理」(さ30・8・14)とある。
 明治6年、伊蔵は教祖の仰せにより、かんろだいの雛型をつくった。
 明治7年、二男政甚が生れた。教祖は「先に名前を付けてあるで」と喜ばれた。
 明治8年9月、こかん出直し。
 伊蔵は中南の門屋の普請に掛かっていた。さとは子供の小遣いにでもと小店をだしたが、貸し倒れなどで間もなく廃業。
 この頃、伊蔵はよく夜中に起き上がり、「国々所々名称の旗や提灯立てに来るで」などと言ったが、自分では覚えていなかった。この前後に、伊蔵は「言上の許し」を頂いた。
 明治12年、小二階。明治14年、内蔵を建てた。
 4月、秀司が出直した。
 教祖は「一日も早く屋敷へ帰るよう」と繰り返し言われていた。その度に決心をしてみるものの、延び延びになっていた。
 明治14年、櫟本で普請中、踏み台にしていた樽がこけて投げ出され、戸板でおぢばに運ばれた。教祖は「神が落としたと仰っしゃるで」と仰せられたという。しばらく仕事を休んだが、まさゑは眼病、政甚も口が聞けなくなった。さとがお願いにあがると「政治郎のことを覚えているかえ」などと仰せられ、さとは、帰らせて頂くと誓った。伊蔵に相談すると、今まで通りの信心を続けるのがよい、と言う。板挟みになった。
 9月、さとは、まさゑ11歳、政甚8歳の二人を連れてお屋敷に住み込んだ(稿本天理教教祖伝逸話篇148頁参照)。
 1882(明治15)年3月、 伊蔵も、翌15年3月、よしゑ17歳とともにお屋敷に住み(「伏せ込み」)内蔵の中2階6畳に住んだ。(稿本天理教教祖伝逸話篇164頁参照)。伊蔵49歳、呈上48歳であった。
 翌4月、中山家の宿屋と空風呂は、さと名義に切り替えた。
 同年10月、教祖は奈良へ御苦労になったが、伊蔵は教祖と行き違いに奈良監獄署へ送られた。
 11月、まつゑが出直し、宿屋と空風呂は廃業された。
 同11月、御休息所の普請に掛かり、翌16年秋には内造りもでき、伊蔵の仕事納めとなった。この頃、伊蔵は内職にお杜を拵え、子供の養育費にあてていた。教祖は「お前も辛かろうなあ。しかし、先になれば難儀するにも難儀でけん」と慰められたという。伊蔵は慣れぬ鍬を手に百姓仕事もしていた。山仕事にも行った。食事はいつもカマドをお膳の代わりにしていた。さとは、ご飯炊きや下働きをしていた。後年の「おさしづ」には、「百姓から肥はきまでして来た者」(さ32・8・26)とある。

 復元第三号の飯降尹之助「永尾芳枝祖母口述記」129Pは次の通り。
 「お屋敷にいる人の中にも、飯降の家族は多人数で、殊に子供の食いつぶしが多いとか、毎日遊んでばかりいるとか口喧しく言う人もある。父様は『人を不足にしては教祖様に申訳がない、神様に不幸や』と言ふて、体の悪い時でも休まんと仕事をしやはった。そやけど色々言い散らした人は教祖様の御在世中に出直さはった」。

 「色々言い散らした人」は「教祖の御在世中に出直さはった」からすれば「まつゑ」が考えられる。この時分、本席と定まる前の伊蔵が窮しており、もし伊蔵が出直し、お屋敷を追い出されたら行くところがない、大阪へでも出ようかと思案苦慮していたと、娘の芳枝がその悲壮な胸の内を回顧している。
 明治15年頃からは「仕事場」と呼ばれて神意を伝えることが多くなる。教祖に伺うと「伊蔵さんに聞いて来い」と仰せられることも度々であった。  
 明治15年10月頃、御休息所普請にともない小二階と呼ばれる建物の下に移り、竣工後は、中南の門犀に移った。
 明治20年2.18日(陰暦正月26日)、教祖は現身を隠された。教祖がお隠れ後の明治20年2月頃の話として、復元第三号飯降尹之助「永尾芳枝祖母口述記」133頁が次のように記している。
 「教祖様の御昇天になった後のお屋敷というものは人間心ばっかりで、永の年月教祖様唯お一人を頼りとして、またお言葉を信じて連れて通らして貰ふたのに、その教祖様はこの世のお方ではなく、そんな時にこの有様やから、とてもとても苦しみは一通り二通りではなかったのや。口ではとても言ふことができん」。
 3.11日、伊蔵は身体がだるくなり床に就き、日に日に衰弱した。全身に汗が出て、飴のように糸を引いた時もある。その間も、「おさしづ」は毎日あった。3.17日「さあ/‾\これからは綾錦の仕事場。錦を仕立てるで」(さ20・3・17)、3.25日「さあ/\本席と承知が出けたか/\」(さ20・3・25)と指図している。真柱より、本席と承知、と答え、伊蔵は「本席」と定まり、指図を伝えることになった(55歳)。
 翌3.26日夜、最初のおさづけを渡している。後年の「おさしづ」には、「十二下りの止めは大工、」(さ31・7・14)「大工に委せると言うたる」(さ34・5・25)、「ふでさきにも出してある。元々の話聞いて成程の理と思うだけの者貰い受けた」(さ27・3・4)とある。また、「三人五人十人同じ同席という。その内に、綾錦のその上へ絹を着せたようなものである」(さ20・3・25)、「同じ同格という。大いの間違い跨りある。……掛かりどうも難しいてならなんだ。その時杖柱にした」(さ31・8・2)とある。
 明治20年4月、長女呈_ヒ冬は上田楢治郎と結婚、まもなく永尾家を立てた。
 1887(明治20)年、教祖中山みき出直し後、本席となり神言をつたえ草創期の天理教を指導した。神言の筆録「おさしづ」は同教の原典とされる。

 本席となって後は、各地の教会へ巡教もした。

明治23年 大阪
明治24年 東京、静岡。
明治25年 大阪、和歌山。
明治26年 大阪。
明治27年 兵庫、岡山、高知。
明治28年 三重、東京。
明治30年 東京。その他。

 こうした折には、どんな人にも心安く話し掛けた。教祖の墓地へ参拝する時なども、帽子をとって、「皆さん、ご苦労さん、ご苦労さん」と挨拶した。帽子を取って挨拶するとき頭にはまだちょんまげがあった。

 明治22年5月、本席宅が新築され、一家はそこに移った。
 明治26年3.18日、妻さとが出直した。同日夜の刻限には、「御席さん/\四五年の間、まことに悠るりとさして貰た」(さ26・3・18)と、互生の気持ちが語られている。
 明治25年8月、改めて本席宅の普請を促され、翌26年12月、本席御用場竣工。同3日、引き移り。この時、よしゑ、まさゑがお伴できなかったので一時古家に戻る。従来の本席宅は永尾宅となった。本席の食事は永尾家で世話をした。
 明治28年、政甚は宮川小梅と結婚。
 明治32年10月、永尾楢治郎出直し。
 明治32年11月、御用場の南に一軒新築された。
 明治40年3.13日、「百日のおさしづ」が始まる。本席となってからは、度々身上となっているが、この時も間もなく身上となった。まず、上田ナライト宅の普請を急き込まれ、4.2日、地所が決まった。4.8日から10日までは、3人の子供について心の置き所を仕込まれた。また、3.22日「今度教祖の普請に掛かる」、4.5日「三十年祭々々々々」(さ40・4・5)と、普請を指図された。数日間は気分もよく、建築用材を山へ兄にも行かれた。5.8日(陰暦3.26日)「二十六日夜定まったという声を」との指図に、真柱より「分かりまして御座ります」と答え、6.3日、普請の計画もほぼ決まった。
 同月6日早朝、おさづけをナライトに運ばせることになった。この時「肩の荷が降りた」と言われ、この日から子供のように無邪気になった。
  1907(明治40)年6.9日、出直し(享年75歳)。同月9日朝、一旦息が切れたが、息を吹き返し、昼食もとった。そして「おおきにご馳走さん」と礼を言ったが、両手を膝に置いたまま出直した。
 葬儀は、7日間通夜をした後、15日に執行。「席と言えば皆下のように思うなれども、ひながたと思えばなか/\の理がある」(さ22・10・9)と言われる生涯であった。
 稿本天理教教祖伝逸話篇29「三つの宝」、30「一粒万倍」、31「天の定規」、87「人が好くから」、98「万劫末代」、102「私が見舞いに」。
 〔参考文献〕
 中山正善『ひとことはなし』『ひとことはなしその二』(天理教道友杜、昭和11年)。
 奥谷文智『本席飯降伊蔵』(天理教道友社、昭和24年)。
 植田英蔵『新版飯降伊蔵伝』(善本社、平成7年)。
 天理教道友社編『天の定規一本席・飯降伊蔵の生涯』(平成9年)。

【飯降伊蔵逸話】
 「本席 飯降伊蔵さんのエピソード(その一)」。
 御本席が物を無駄に使わず、何でもよく始末(※1)をせられた事は有名な事ではあるが、この話などもその一つである。御本席は毎夜大神様(親神様)初め、御教祖殿へ御参拝になり、時としては詰所に立寄って、本部員さんを相手に四方山の御話がある。それでお宅をお出ましになる時、何時でも行灯の火をお消しになる。或る時ある本部員さんが、「火はお消しにならなくとも、直ぐお帰りの事ですから、そのままになされたら如何です」と申し上げると、御本席は、「私はこの世での徳を、来世まで持って行きたいから、こうして火を消しておくのや」と仰せられたそうである。

 大正五年三月号みちのとも「御本席の逸話 行燈の油」(増野)鼓雪より
 ※1‥この場合の「始末」は、”浪費しないこと””倹約すること”の意味。
 「本席 飯降伊蔵さんのエピソード(その二) 」。
 これは明治三十八年頃、教師検定試験が本部で行われた時である。東京から官吏が立ち合いに来て、前管長公に面会した時、天理教には本席という黒幕があるそうだから、ぜひ会わしてくれと申し込まれたので、管長も仕方なくその旨を御本席に通じになると、御本席は快諾せられて、今の政恵様のお宅で面会せられる事になった。その時官吏は本席とはどういう人間か、都合によったら理屈でも言うて困らしてやろうとでも思っていたのであろう。非常な勢いでやって来た。御本席は誰彼の隔てをなさる方でないから、「私は元大工で学問も何もありませんが、御教祖からお聞かせ頂いた『朝起き・正直・働き』の三つを守って、今日の日まで出世させていただいたのです」と静かにお話になると、前の勢いは無く、首を垂れて暫らくは返事もせずにいたが、やがて「教えは、もうそれに止まります」と云って帰ったそうである。これ全く、御本席の高い人格に打たれて、我知らず理に屈服させられるに至ったのである。

 大正五年四月号みちのとも「御本席の逸話 官吏の屈服」鼓雪より
 ※「官吏」‥役人。現在の国家公務員の旧称。
 「本席 飯降伊蔵さんのエピソード(その三) 」。
 ある時には、仕事先で夕食を頂く時、何分にも只今のような電気のない時代のことだから、薄暗い灯火の周囲で頂くのであるが、そのお粥の中に雨蛙(アマガエル)が入っていたことがあったが、伊蔵はこれを素知らぬ顔で出してしまい、平気で食事を済ました。これは多数の職人や自分の弟子たちの前であったから、蛙が入っているなどと声を立てると、皆の者が気持ちを悪くして食べないし、また雇い主の方にも恥ずかしい思いをさせねばならず、またそのお粥がムダになってしまうと思ったからである。この話しはのちに大工仲間に知られて語り伝えられ、のちに大和の職人たちは、「伊蔵さんが出世したのも、日頃こうした心掛けがあったからや」と噂して、その徳を讃えたものである。

 「新版 飯降伊蔵伝」植田英蔵著(善本社)42ページより
 「本席 飯降伊蔵さんのエピソード(その四) 」。
 (本席の)御存命の頃、教校の入学式や卒業式などに御出席になる。式場には、初代教長様の御席と御本席の御席とが並び設けられていたが、御本席が一度でこの定めの席に着かれた事はなかった。いつも、教校職員の末席にまず坐られる。皆が、抱えるようにして定席に坐って頂くのが例になっていた。露わにいえば、まことに手数がかかるのである。時間も潰れるのである。然し、之を不足にする者は誰もなかった。ただ説明のない、御本席の真実に打たれる者ばかりであったのである。--中略ーー

 ある時、御本席は初代教長様を訪ねて行かれた。座敷には、教長様と並んで、二つの席が設けられたが、御本席はやはり定めの席に着かれないで、下手に坐られたのである。「どうぞ、こちらにお坐り下さいませ。そこでは低う御座いますから、どうぞこちらへおいで下さいませ」。「そんなとこへ坐ったら、しんどうてどうもならん。こわい。低い処に居らして貰うほど、らくな楽しい事はない。堪忍してもらいたい」。御本席は、頭をお下げになって、本当にあやまるようにして言われた。そして、下座に坐って、嬉しそうに、楽しそうに、笑いながら昔話などに興じられるのであった。

 「新版 飯降伊蔵伝」植田英蔵著(善本社)140~141ページより
 「 本席 飯降伊蔵さんのエピソード(その五) 」。
 本席は、いかなる人に対しても同一の態度で接しられた。殊に貧しい人々に対しては慈悲の心深く、人に物を与えるのがお好きであったので、お出直しになった時には僅かの小遣銭しか残っていなかったということである。けれども、またいかなる物も一度神様にお供えせずして頂かれることは決してなかったという。

 「新版 飯降伊蔵伝」(道友社発行)植田英蔵著131ページより
 「 本席 飯降伊蔵さんのエピソード(その六) 」。
 本席は国々処々の教会へも出張されたが、その時にも、どんな人にも心安く話しかけられたので、初対面の人々はこのような気楽な人が神様の名代かと疑うほどであった。このように本席は決して高ぶる心がなく、ある年の大祭に本席が教祖のお墓地へ参詣された時なども、幾千の信者が地に平伏していると、その前をお通りになった本席は、被っている帽子をとって、一々丁寧に頭を下げて、「皆さん、ご苦労さんご苦労さん」と挨拶された。その時、この人ごみの中に混じっていた役人が、天理教の本席といわれる人はずいぶん威張っているに違いないと人垣の後ろから覗いていたが、この様子を眺めて、「なるほど、幾百万の信者の上に立つ神の名代といわれるだけあって違ったものである」と感心して、「平素人を三文とも思わぬわしも、あの時だけはまことに敬服した。ちょっと見たところ、山高帽を被っていて分からんけれど、帽子を取って挨拶するとき頭はまだ丁髷(ちょんまげ)があった。お伴の人のほうがよほど威張っていたくらいで、あの老人の徳の高いのには全く感心した」と言ったそうである。

 「新版 飯降伊蔵伝」(道友社発行)植田英蔵著133ページより
 「 本席 飯降伊蔵さんのエピソード(その七) 」。
 本席は明治になっても丁髷を取られず、お出直しになるまで結うておられた。そのわけは、ある時、教祖が、『伊蔵さん、髷は取ることいらん。取るのやないで』と仰せられた時に、「決して取りません」と約束された言葉を守り通されたからである。後年に、「わしが一人こうやって丁髷を結うていると人は可笑しく思うけれど、これは教祖に約束したから取らずにおくのや」と話されたように、この丁髷こそ、教祖に対する本席の堅い信仰を物語っている。

 「新版 飯降伊蔵伝」(道友社発行)植田英蔵著134ページ

【飯降伊蔵逸話】
 29「 三つの宝」。
 ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、「伊蔵さん、掌を拡げてごらん」と、仰せられた。伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、「これは朝起き、これは正直、これは働きやで」と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで」と、仰せられた。伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。
 30「一粒万倍」。
 教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、「人間は、これやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで」と、仰せられた。
 31「天の定規」。
 教祖は、ある日飯降伊蔵に、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され」と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され」と、仰せられ、更に続いて、「隙がありませんか」と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます」 とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と、お教え下された。
 87「人が好くから」。
 教祖は、かねてから飯降伊蔵に、早くお屋敷へ帰るよう仰せ下されていたが、当時子供が三人ある上、将来の事を思うと、いろいろ案じられるので、なかなか踏み切れずにいた。ところが、やがて二女のマサヱは眼病、一人息子の政甚は俄かに口がきけなくなるというお障りを頂いたので、母親のおさとが教祖にお目にかからせて頂き、「一日も早く帰らせて頂きたいのでございますが、何分櫟本の人達が親切にして下さいますので、それを振り切るわけにもいかず、お言葉を心にかけながらも、一日送りに日を過しているような始末でございます」と、申し上げると、教祖は、「人が好くから神も好くのやで。人が惜しがる間は神も惜しがる。人の好く間は神も楽しみや」と、仰せ下された。おさとは重ねて、「何分子供も小そうございますから、大きくなるまでお待ち下さいませ」と、申し上げると、教祖は、「子供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない。早よう帰って来いや」と、仰せ下されたので、おさとは、「きっと帰らせていただきます」とお誓いして帰宅すると、二人の子供は、鮮やかに御守護を頂いていた。かくて、おさとは、夫の伊蔵に先立ち、お救け頂いた二人の子供を連れて、明治十四年九月からお屋敷に住まわせて頂く事となった。
 98「万劫末代」。
 明治十五年三月二十六日(陰暦二月八日)、飯降伊蔵が、すっかり櫟本を引き払うて、教祖の御許へ帰らせて頂いた時、教祖は、「これから、一つの世帯、一つの家内と定めて、伏せ込んだ。万劫末代動いてはいかん、動かしてはならん」と、お言葉を下された。
 102「私が見舞いに」。
 明治十五年六月十八日(陰暦五月三日)教祖は、まつゑの姉にあたる河内国教興寺村の松村さくが、痛風症で悩んでいると聞かれて、「姉さんの障りなら、私が見舞いに行こう」と、仰せになり、飯降伊蔵外一名を連れ、赤衣を召し人力車に乗って、国分街道を出かけられた。そして、三日間、松村栄治郎宅に滞在なされたが、その間、さくをみずから手厚くお世話下された。ところが、教祖のおいでになっている事を伝え聞いた信者達が、大勢寄り集まって来たので、柏原警察分署から巡査が出張して来て、門の閉鎖を命じ、立番までする有様であった。それでも、多くの信者が寄って来て、門を閉めて置いても、入って来て投銭をした。教祖は、「出て来る者を、何んぼ止めても止まらぬ。ここは、詣り場所になる。打ち分け場所になるのやで」と、仰せられた。さくは、教祖にお教え頂いて、三日目におぢばへ帰り、半月余りで、すっきり全快の御守護を頂いた。

【飯降おさと(いぶり おさと)履歴】
 1834(天保5)年11月、大和国式上郡小夫村(現・奈良県桜井市小夫)に生まれる。
 1893(明治26)年3.18日、出直し(享年60歳)。
 1861(文久元年)、櫟本村(現・天理市櫟本町)の伊蔵と再婚。
 1864(元治元)年、流産後の患いを助けられて入信。
 1881(明治14)年、まさえと政甚を連れてお屋敷に伏せ込む。扇・御幣のさづけ。
 長女よしゑ(1866‐1936)明治20年1月26日のおつとめで三味線をつとめる。
 二女まさゑ(1872‐1927)。
 二男・政甚(1874‐1937)明治20年1月26日のおつとめでかぐらをつとめる。
 稿本天理教教祖伝逸話篇

【飯降よしゑ(いぶり よしえ)】
 1886(慶応2)-1936(昭和11)年。
 享年71歳出直し。
 飯降伊蔵の長女。教祖から最初に女鳴物の三味線を教えられる。
 1887(明治20)年1.26日のおつとめで三味線をつとめる。
 同年、上田楢治郎と結婚。永尾家創設。
 1936(昭和11)年、出直し(享年71歳)。

【飯降まさゑ(いぶり まさえ)】
 1872‐1927)。
 飯降伊蔵の二女。

【飯降政甚(いぶり まさじん)】
 1874(明治7)年、現天理市櫟本町に生まれる。飯降伊蔵とおさとの二男。
 1937(昭和12)年、出直し(享年64歳)。
 明治14年、母・おさと、姉・まさえと共にお屋敷へ入り込む。書や歌に才を発揮する。明治20年1月26日のおつとめでかぐらをつとめる。明治41年、本部員に登用される。
 稿本天理教教祖伝逸話篇




(私論.私見)