邪馬台国女王卑弥呼との接点考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.11.2日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「邪馬台国女王卑弥呼との接点」について記す。 2012.03.13日 れんだいこ拝 |
【お道教理の真髄としての「天理教教祖みき/卑弥呼化身論」について】 | |
中山みき/天理教論に最も相応しいテーマは、「お道教理の真髄としての『天理教教祖みき/卑弥呼化身論』」と心得る。しかして、このように受け止め、解する立論はない。あるいは誰かが同様立論しているやも知れぬが、以下、れんだいこが説くように、これを日本の古来よりの国體、即ち仮に「縄文出雲系国體論」と密接不可分なものとして捉えてはいないだろう。しかしながら、中山みき教理を、「縄文出雲系国體論の再興」として捉えない限り一知半解なものになってしまう、と私は解している。本部教理に対する不満は、この視点をほぼ完全に意図的故意に欠落させているところにある。 今、「れんだいこの中山みき論」を世に送り出そうとしている。いつ頃からだろうか、筆者58歳の頃、みきのこれまでに書かれていない側面が見えるようになった。これは日本古代史の更に古代の邪馬台国研究、あるいは更に古代の出雲王朝研究、古史古伝研究等々の際に感応したことによる。但し、これを言葉にするのが困難でずっと脳内に温めていた。本書執筆を契機として、これを文章にしようと思う。本書の題名「天理教教祖みき/卑弥呼化身論」はこれに由来している。これが新たな視野であり、本書執筆の真の動機になっている。 ここで、「邪馬台国女王卑弥呼の再来的みき」の観点から日本古神道絡みの論考をしてみたいと思っている。教祖みきの御教えを日本古神道の見地から紐解くのは初見かどうかは分からないが、かなり有力な説と自負している。教祖みきの創世記「元の理譚」をこの絡みからも確認してみたいと思っている。この視座から万華鏡的に「みき」を解き明かすのが本書の狙いである。 |
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「行理山(ぎょうりやま)かいちょうさんの日記」の2013年02月21日付けブログ「教祖=卑弥呼説」を転載しておく。(れんだいこ文法に則り、より読み易いように編集替えしている)。
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【みきの生地の大和まほろば考】 |
ここで、「邪馬台国女王卑弥呼との接点」について確認しておきたい。女王卑弥呼に代表される邪馬台国とは如何なる国家なのか。この女王卑弥呼、邪馬台国にみきが如何なる形で関係するのか。これを問う前に、後に天理教教祖となる「中山みき」の家系と生誕地の大和まほろば性を確認しておきたい。 「中山みき」は、明治維新(1868年)の70年ほど前の江戸幕末期の1798(寛政10)年、現在の奈良県天理市三島村の当時三昧田村と呼ばれる農村の百姓家で産声を挙げた。徳川11代将軍家斉(いえなり)の治政で、老中松平定信登用によるいわゆる寛政の治の御世であった。この年に本居宣長が「古事記伝」全巻を完成している。当時の前川家の家屋がそのままに今日残されており、これを見るに、格式を備えた旧家風の百姓家としての家屋敷であり、その造りは質実にして華美ではない。みきの少女時代について語られる様子から推察すると生活は中自作農的立場を家風としていたようである。甚だ簡略ではあるが、以上を「中山みき」の家系論とする。 それでは生誕地の「大和まほろば」はどういう意味を持つのか。人は、成育した地域地方の影響(自然的諸条件の影響)を蒙ることは免れがたい。そういう角度からみきの誕生生育した三昧田村の土地柄について考察してみたい。 現在の奈良盆地東南部の天理市から桜井市にかけての当時の大和郡山辺郡一帯のこの大和地方は、古事記で「ヤマトは国のまほろば たたたなずく 青垣 山隠れるやまとし 麗(うるわ)し」と唄われているほどに四囲を山稜の青垣に囲まれており、「あおによし ならの都は咲く花の にほふがごとく いま盛りなり」とも詠われる「ヤマト国のもなか」であり、「敷島のヤマトの国」とも称されてもいた。古代におけるヤマト地方そのもの、「ヤマトの中のヤマト」という由緒ある聖域の土地柄でもあった。飛鳥、藤原、平城京など古代国家の王都が永年にわたって繁栄を築いたところだけに早くより交通路が開かれ、祭り、政治、産業、宗教、文化等に強い影響力を及ぼしていた。自然に国々から大勢の移住をみることになり、それは今も大和の地名として残る備前、土佐、上総などのような国名によって知れる。 みきが育った三昧田村はその大和盆地の只中にある四十戸内外の村落であった。南には大和三山と呼ばれる畝傍山、耳成山、天香具山が見え、その南には吉野の山々が重なり、西には、金剛山、葛城山、更に二上山や信貴、生駒の連山が続く。東には竜王山があり、その南の三輪山の麓に沿って日本最古の道とも云われ古代三官道の一つである古都奈良へと続く「山の辺の道」(やまのべのみち)があった。山の辺の道は、奈良盆地の東南にある現在の桜井市の三輪山のふもとから天理市を経由して東北部の若草山に並んでいる現在の奈良市の春日山のふもとまで、奈良盆地の平地と山地の間を縫うように南北に通る道である。その上ツ道は、奈良県桜井市の三輪山の南西、つばいち観音から山沿いに北へ約20キロメートル、奈良盆地の東の山麓に伸びており、古代大和から飛鳥、平城を結ぶ奈良県春日山まで続く古道である。但し、現在のルートが古来のルートと同じかどうかは不明である。いずれにせよ、この道はヤマト政権発祥の地を南北に縦断する古道であり昔より往来に利用されること頻りであった。とりわけてみき在世中も含まれる近世の頃にいたっては伊勢詣りへの参道となって爆発的な群衆が行き交うこととなった。俗に云う「おかげまいり」である。特に1600(慶安3)年、1705(宝永2)年、1771(明和8)年等々においてはこの街道筋が連日連夜の賑わい見せることとなった。 この地方の伝説として、布留川流域には大和王朝前の王朝を形成していた長髄彦(ながすねひこ)、二ギ速日命が住んでいたと伝えられている。事実、この地域には「まくむく遺跡」(紀元3、4世紀)、箸墓古墳(一説に、邪馬台国女王卑弥呼の墓と云われている)、景行天皇稜(日本武尊の父と云われている)、崇神天皇稜(大和政権初代大王と云われている)、黒塚古墳(33枚もの三角縁神獣鏡が見つかり話題となる)、行燈山古墳、天神山古墳、渋谷向山古墳、珠城山古墳等々の古代政権の成立上欠かすことのできない考古学的に貴重な遺跡、古墳群が連なっていることで知られている。 こうした事情を踏まえてみると、みきの生地である三昧田村は静かなたたずまいを見せる集落であったとはいえ、相当な歴史と伝統を持つ村落であり、古くよりの文化の程度も高く、又世情の動きがいち早く伝わる交通の地でもあった。村の北入口の辺りに「くたぶれて宿かるころや藤のはな」の俳聖松尾芭蕉の句碑がある。これは、「笈の小文」(吉野紀行ともいう)に書かれた句であり、この辺りの事情を見事に織りこんだ名句といえよう。この紀行文は、芭蕉が杜国(万菊丸)を伴い吉野の花見をしたときのものである。ちなみに句碑の設立をみたのは1814(文化11)年で、その年のみきは、17才を数え、既に庄屋敷村に嫁いでいた。当然ながら、みきも又こうした地勢的影響を受けながら成長して行ったと思われる。 この地域一帯には神社寺院が多く、特に生地のすぐ近くにある大和神社、三輪の大神(おおみわ)神社、布留の石上(いそのかみ)神宮は格上の神社であることで知られている。ツツジの景観で知られる長岳寺もこの地域にある。みきの精神史に大きな影響を与えたと思われる神社は、大和神社(おおやまとじんじゃ)、石上神宮(いそのかみじんぐう)、大神神社(おおみわじんじゃ)である。これについて簡単に確認しておく。 大神神社(おおみわじんじゃ)。奈良県桜井市にある神社。大和国一宮で二十二社の中七社のひとつで「日本最古の神社」と称されている。旧社格は官幣大社(現・別表神社)。三輪明神、三輪神社とも呼ばれる。大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり本殿をもたず拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪の神の原初の形とされる蛇は水神であり、雷神ともなり、農業神、五穀豊穣の神となり、やがては国の成立とともに、国家神的な神に至ったと考えることができる。 石上神宮(いそのかみじんぐう)は、みきの嫁ぎ先の近くにある。現在の住所地は奈良県天理市。旧社格は官幣大社(現在は神社本庁の別表神社)。中世には二十二社の中七社のひとつとされた。崇神天皇7年(紀元前91年)、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、石上大神として祀ったのが創建である。日本書紀に記された神宮は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。布都御魂大神を主祭神とし、布留御魂大神、布都斯魂大神、宇摩志麻治命、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、白河天皇、市川臣を配祀する。布都御魂大神は神体である布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊である。石上神社は大和朝廷の武器庫、物部氏ゆかりの日本最古の神社として知られている。物部氏は河内国の哮峰(現・大阪府交野市か)にニニギの尊(ミコト)よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒの命(ミコト)を祖先と伝えられる氏族である。元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。5世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。鳥居の前、向かって左に柿本人麻呂の次の歌碑がある。「未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者」(おとめらが そでふるやまの みずがきの ひさしきときゆ おもいきわれは)。 大和神社(おおやまとじんじゃ)は、みきの生家の目と鼻の先ほどの距離にある。現在の住所地は奈良県天理市。十六社・二十二社の一社であり旧社格は官幣大社。旧称朝和之宮(あさわのみや)。中殿に日本大国魂大神、左殿に八千戈大神、右殿に御年大神を祀る。延喜式神名帳には「大和国山辺郡大和坐大国魂神社三座」、「名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預る」と記載されている。 筆者がここで何を云おうとしているのか。それは、この大和の風土にかっての邪馬台国が存在し女王卑弥呼が存在し、その痕跡を確認しようとしている訳である。そして、教祖みきが偶然か必然か、邪馬台国が存在し女王卑弥呼が存在したこの地から生まれ出た奇しきな縁を探ろうとしている訳である。ほんの素描で推断して申し訳ないが、地理的風土的にも、教祖みきが邪馬台国女王卑弥呼に重なることが確認できれば本望である。 |
【記紀神話の日本古代史の詐欺記述考】 |
ここで「邪馬台国女王卑弥呼との接点考」について記す。みきのイエス、釈尊、マルクス、陽明学、幕末農政家との比較についてはかなり前から意識していたが、「邪馬台国女王卑弥呼との接点」については最新のみき論になる。みきの家系的な霊能力については感知していたが、それが邪馬台国女王卑弥呼と結び付くまでは思いつかなかった。そういう着想が浮かんだのは邪馬台国論の最新研究によってである。邪馬台国論につき以下のサイトで確認しておく。 「れんだいこの新邪馬台国論」 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/yamataikokuco/ya mataikokuco.htm) 筆者の辿り着いた仮説によれば、魏志倭人伝に記されている邪馬台国は現在の奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)山麓一帯に所在していたと見られる。いわゆる畿内説に立つことになるが、畿内説通説が邪馬台国を大和王朝の先駆王朝として直系的に位置づけているのに対し、筆者論では邪馬台国は大和王朝に滅ぼされたのであり連続しないと云うところに違いがある。筆者説によれば、滅ぼされた邪馬台王朝までの日本こそ原日本であり、大和王朝建国時に当たって徹底殲滅されるには及ばない抵抗力を保持し、故に大和王朝は和睦式に創建された。故に、原日本は辛うじて生き延び、その後の日本史はこの原日本と大和王朝後の新日本との並走で形成されたと見立てている。こういう歴史観の下、女王卑弥呼に代表される邪馬台国とは如何なる国家なのか。この女王卑弥呼、邪馬台国にみきが如何なる形で関係するのか。いよいよこれを問うことにする。筆者が、「みきと邪馬台国女王卑弥呼との接点」を求めるのは、みき教義全体に邪馬台王朝に収斂されていた原日本に対する深い滋愛を感じるからである。 その前に確認せねばならないことがある。筆者は、「邪馬台国滅亡、大和王朝創建史」は日本政治史上最大の政変であったと思っている。同様の意味で「出雲王朝の高天原王朝に対する国譲り」がある。この両者は、記紀記述によれば五百年以上も前後していることになる。これを確認すると、戦前の1940(昭和15)年2月11日、日本政府は、皇紀2600年祝祭行事を盛大に挙行した。これによれば、日本神話上の「かむやまといわれひこのみこと」(古事記では「神倭伊波礼琵古命」、日本書紀では「神日本磐余彦尊」と記す。神武天皇のこと)の橿原宮での初代天皇即位(践祚)は、西暦で計算すると紀元前6世紀のこととなる。しかし、これは、魏志倭人伝による紀元3世紀頃の邪馬台国の存在、筆者推定による邪馬台国滅亡を通じての大和王朝創建と重ね合わせると、その時間差は少なくとも五百年以上になり整合しない。しかも、「出雲王朝の国譲り」が神武天皇即位のはるか昔の政変だとすれば、その時間差はもっと広がることになる。 筆者は、これを疑う。筆者研究では、「出雲の国譲り」と邪馬台国の関係は実は近い。邪馬台国を紀元3世紀頃の日本史であると確定させると、「出雲の国譲り」はそれに先立つ直近の紀元二世紀頃の話しであり、国譲り後の出雲王朝の国体王権は邪馬台国に譲られ、邪馬台国は卑弥呼を女王として共立することにより部族連合国家として再建された。そして、この御代において、日本史上に燦然と輝く理想的な王朝国家を経営していたと推定している。記紀神話によるところの神武の初代天皇即位年の西暦紀元前660年2月11日なる記述は、この史実を意図的故意に詐術していると考えている。 日本書紀は何故に神武天皇即位年を詐欺記述したのか、これを問いたい。日本古代史の流れを検証すれば、「大和平定後の初代天皇の即位日」は必ずや邪馬台国後の即位でなければ辻褄が合わない。然るに、その邪馬台国が紀元3世紀に確かめられると云うのに何故に神武天皇即位を邪馬台国史よりはるかに数百年も遡(さかのぼ)る昔の紀元前6世紀に記述したのだろうか。ちなみに、古事記は、初代天皇の即位日を記していないようである。もし記しているのなら、日本書紀ではこう古事記ではこうとする併記が常用なところ日本書紀の記述する即位日しか知らされないからである。 この秘密を解くには、記紀の詐欺記述の意図を見抜かねばならない。古事記が語らず日本書紀が敢えて比定上「紀元前660年2月11日」と記した理由には、国譲り後の出雲王朝と邪馬台国の繫がりを遮断せねばならない相応の理由があった思われる。これを推理するのに、記紀には天孫族と記されるいるが、実際の神武天皇軍の実体は原日本とは何の縁もゆかりもない外来族であり、その外来族による日本襲来、その延長としての大和王朝建国の王権簒奪(さんだつ)史を隠蔽する為の詭計であった。こう窺う以外にはない。 記紀神話が、大和王朝の王権簒奪を堂々と正統化する手法もあるところ、これを為さなかったのは相応の理由があると考えられる。その要因として、外来族の日本征服が困難を極め、旧王朝である出雲王朝との抗争然り、その後の邪馬台国連合王朝との抗争然り、最終的に和睦と云う形での手打ちを余儀なくされた裡に理由が潜んでいる考えられる。即ち、外来族の王権簒奪は直接的な軍事戦争では首尾よく進展せず、いわば狗智的に「我こそが元々の日本の王権者」であるとの虚偽的な宣明により初めて各地の豪族の抵抗解除を成し遂げることができ、それはとりも直さず「元々の日本の王権者」との手打ちを余儀なくされた。外来族の王権簒奪は、こういう手法によりもたらされる以外に術がなく、これにより旧王権と新王権の併合的な形になったのではないかと思われる。このことは、とりもなおさず、それほどに在地の豪族の抵抗が強かったと窺うべきだろう。あるいは、この外来族は、王権簒奪を隠す懐柔策として手の込んだ歴史詐術に手を染めることを常套手段としているのかも知れない。この辺りは分からない。 日本史上の江戸期の国学、その後の皇国史観は、日本古代史のこの最大政変に対し余りにもお粗末な知見しか持ち合わせていない。歴史の真実を検証するのではなく、いわば記紀神話のトリックのままに日本古代史を記紀神話的に理解し、学問したものであり、ここに卑大なる限界が認められる。こうなると、皇国史観とは、記紀の詐欺記述を詐欺記述として受け取らぬままに理解した御用史学と云うことになる。これが確立されたのが明治維新後の近代天皇制下に於いてであり、江戸時代の国学の流れを汲んでいる。但し、当時の国学は記紀神話の本格的研究に手を付けたところに本来の意義があり、偏狭な皇国史観を確立することまでは予定していなかった程に元々は学的に豊饒なものであった。皇国史観に辿り着いたことにより、日本古代史の研究が却って阻害されることになった。これが為すべき皇国史観批判論である。 ところが、戦後史学は皇国史観を否定することにより日本古代史の皇統譜の研究そのものから逃げだしてしまった。邪馬台国論等々の個々の研究は盛んになったが、日本の天皇制史の研究は特段には進歩していない。筆者が思うに、こういう肝腎なところから逃げ出すことが学問的態度となるべきではない。むしろ、皇国史観の時代的限界性を見据えて、こたび筆者が読み解いた史観に基づき日本古代史を正確に読みとる学問的営為こそが望まれていると云うべきだろう。誰か、筆者のこの謂いを世の皇国史観論と対照させて弁じて見よ。 |
【原日本考】 |
ここからが本論になる。では、外来族の襲来に対する抵抗戦線を組織していた王権とは何者で、どのような政体であったのか。この問いに答える為に出雲王朝&邪馬台国王朝論が登場して来ることになる。これを仮に原王朝と命名すると、原王朝は日本在地の諸豪族との和睦連合の上に成り立つ、いわば部族連合政権であり、その政権は強い絆で結ばれるに足りる理想的な王朝政治を具現していた。記紀神話の語るところによれば、出雲王朝との国譲り戦争を経て神武東征軍のヤマト征伐に向かう。しかし、その行く手には幾重もの壁が立ち塞がっていた。記紀神話は、外来族を天孫族と書き換え、その日本侵略を聖戦とする観点から記述しているので抵抗勢力を悪役記述しているが、筆法的に読めば、在地の国津族の頑強な抵抗ぶりが透けて見えてくる。このことは、抵抗勢力からすれば護るに足りる国家であったと云うことになるのではなかろうか。 ところで、筆者は次のような仮説を抱いている。出雲王朝と邪馬台国はほぼ同一政権であり、国譲り後の出雲王朝は、邪馬台国女王連合王国を組織し、来航必至の来るべき外来族による日本襲来に備え準備万端整えていたとみなしている。この時の邪馬台国女王が卑弥呼であり、次に即位したのが豊与であることは衆知の通りである。卑弥呼及び豊与の君臨する邪馬台国女王連合王国の政体、社会、文化、精神がいか様なものであったのか。これは、「邪馬台国の研究、れんだいこの新邪馬台国論」の各サイトで確認できるが、要するに、この時点で、はるけき悠久の歴史を積んでいわゆる原日本が完璧なほどまでに形成されており、立ちあげられていたと読む。この社会の善政の様は、孔子の周公旦を開祖とする周王朝賛美に引けを取らない善政時代であった。ここでは、このことが確認できれば良い。 これを補足すれば、「ホツマ伝え」がこの頃の原日本の政体、行事、風俗、精神等々についてかなり詳しく記述している。「ホツマ伝え」は古史古伝の一書であるが、古史古伝を徒に偽書扱いして門前払いするのではなく、それぞれの記述の是非を記紀記述と比較対照させながら検証することこそ真の学問的営為であると呼び掛けたい。願わくば、「ホツマ伝え」が下敷にしたと思われる出雲王朝史原書が世に出れば、なお詳しく分かろう。これを「幻の出雲王朝史原書群」と命名する。「幻の出雲王朝史原書群」が散逸しているのか隠されているのか、それは分からない。いずれにせよ、邪馬台国女王連合王国に結実した原日本の政体、社会、文化、精神を明らかにすることが史学的に必要であろう。 別章【ホツマツタヱ考】 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/jyokodaico/hotumatutaeco/to p.html) 付言しておけば、日本の国歌としての君が代、国旗としての日の丸は、既にこの原日本時代において草案されていた可能性が高い。してみれば、皇国史観の象徴としての位置づけで為す「君が代、国旗批判」は未熟なものと断ずる以外にない。筆者的には、君が代、国旗のでき栄えは世界に冠たるものであり、むしろ下手に色づけせずにそのままに味わうべしと云うことになる。 |
【邪馬台国女王卑弥呼との接点としての実の神、元の神考】 | |||
ここで、「実の神、元の神考」について記す。いよいよ「みきと邪馬台国女王卑弥呼との接点」の解明に入る。これに「実の神、元の神」が関係する。 みきは、神がかりの際、「我は天の将軍である。実の神、元の神である」との神の啓示を聴いている。筆者には、この謂いが気になる。察するのに、「元の神、実の神」という概念自体が極めてユニークである。この概念は何処よりもたらされたものであろうか。これを宗教的に受け取ると、「我は天の将軍である。実の神、元の神である」の言は、より根本の真実の神と云う意味を宣明している訳で、実際には各宗派の開祖が同様の言を為すので、さほど意味がない。問題は、「我は天の将軍である」にあるのではなく後段の「実の神、元の神である」の言の方にある。宗教学的には誰も関心を湧かさないであろうが、心理学的には、神をして「実の神、元の神である」と云わしめた言い回しが気になる。「実の神、元の神」の論拠を精査せねばならないと考える。 教祖は次のようにお諭しなされている。
ここで云う「元の神、実の神」とは、如何なる思し召しで表現されているのであろうか。思案の要する興味の注がれる課題である。
これを、そのままに読んだのが皇国史観である。これにより、天孫降臨譚以降の天照大神軍による豊葦原の千五百秋の瑞穂の國侵略が正当化されることになる。
2012.8.25日 れんだいこ拝 |
【教祖みきの口上と邪馬台国女王卑弥呼の鬼道との接点考】 |
教祖みきの中に卑弥呼を見ると云うこの観点は次の事によっても補強される。魏志倭人伝には、卑弥呼の在り姿に就いて、「鬼道を事とし、衆を能く惑わす」に続いて次のように記している。「年已に長大なるも夫壻なし。男弟有り佐けて國を治む。王と為して以来、見た者少なし。婢千人を以って自ら侍らす。唯、男子一人有り、飲食を給し、出入りして辞を伝える。居る處の宮室は樓観であり、城柵を厳かに設け、常に人有り兵を持って守衛す」。 これを念頭に於いて教祖みきの在り姿を比較してみるに、「年已に長大なるも夫壻なし」は中山善兵衛の妻にして5人の子を設けたみきには当てはまらない。但し、神がかり後のみきの精神においては一人身的であり、この観点からすればあながち外れておらず、卑弥呼の「夫壻なし」と通じているのではないかと思われる。次の「男弟有り佐けて國を治む」は意味深く思われる。教祖みきも又「男弟」ではないが側用人を使い、世事雑多の表向きの用を側用人に処理させ、みき自身は精神界的な「親神の御言葉」を宣べ伝え続けていた。これを思えば、卑弥呼も又当時に於いて同じような「親神の御言葉」を宣べ伝え続けていたのではなかろうかと推測できる。加えて、教祖みきが「親神の御言葉」を宣べ伝える際の降神入魂口上は独特なものであるが、当時の卑弥呼の口上もこの如くなものだったのではなかろうかと推測できる。これを中国の使者は「鬼道を事とし、衆を能く惑わす」の如くに伝え魏志倭人伝にそのように記されることになった。宗教学的にはシャーマニズムそのものであり、まさしく日本式シャーマニズムなのではなかろうかと思われる。 みき没後、後継者として本席が定められ、この任に当たった飯降伊蔵が同様の作法でお指図を宣べ伝えている。その口上も、男と女の違いがあるとはいえ教祖みきの口上にして卑弥呼の口上の如くなものだったのではなかろうか。これを逆に云えば、卑弥呼の口上の如くな教祖みきの口上を孫引きしていたのではなかろうか。時の道人が教祖みき、本席・飯降伊蔵の口上に耳を傾け何らの違和感も持たず拝受したのは、はるけき日本古来の伝統的な神の口上らしきものだったからではなかろうか。かく拝することができるように思われる。このような意味で、検証すればするほど教祖みきの卑弥呼らしさはますます補強されることになる。 |
(私論.私見)
出店が分からなくなったが、「天理教の教祖中山みきが出雲大社で修行をしていたことは『古神道の秘術』はじめ多くの文献に書かれています。 しかし天理教の書籍にその記載がないのはなぜでしょう」とある。真偽を確定せねばならぬが興味深い指摘である。