夜明け前第二部上の3 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
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【島崎藤村/夜明け前第二部上の3、第三章】 | |
一 | |
東海、東山、北陸の三道よりする東征軍進発のことは早く東濃南信の地方にも知れ渡った。もっとも、京都にいて早くそのことを知った中津川の浅見景蔵が帰国を急いだころは、同じ東山道方面の庄屋本陣問屋仲間で徳川慶喜征討令が下るまでの事情に通じたものもまだ少なかった。今度の東山道先鋒は関東をめがけて進発するばかりでなく、同時に沿道諸国鎮撫の重大な使命を兼ねている。本来なら、この方面には岩倉公の出馬を見るべきところであるが、なにしろ公は新政府の元締めとも言うべき位置にあって、自身に京都を離れかねる事情にあるところから、岩倉少将(具定)、同八千丸(具経)の兄弟の公達が父の名代という格で、正副の総督として東山道方面に向かうこととなったのである。それには香川敬三、伊地知正治、板垣退助、赤松護之助らが、あるいは参謀として、あるいは監察として随行する。なお、この方面に総督を護って行く役目は薩州、長州、土州、因州の兵がうけたまわる。それらの藩から二名ずつを出して軍議にも立ち合うはずである。景蔵はその辺の事情を友人の蜂谷香蔵にも、青山半蔵にも伝え、互いに庄屋なり本陣なり問屋なりとして、東山道軍の一行をあの街道筋に迎えようとしていた。 幕府廃止以来、急激な世態の変化とともに、ほとんど一時は無統治、無警察の時代を現出した地方もある中で、景蔵らの住む東濃方面は尾州藩の行き届いた保護の下にあった。それでも人心の不安はまぬかれない。景蔵が帰国を急いだはこの地方の動揺の際だ。 青山半蔵は馬籠本陣の方にいて、中津川にある二人の友人と同じように、西から進んで来る東山道軍を待ち受けた。だれもが王政一新の声を聞き、復興した御代の光を仰ごうとして、競って地方から上京するものの多い中で、あの景蔵がわざわざ京都の方にあった仮寓を畳み、師の平田鉄胤にも別れを告げ、そこそこに美濃の郷里をさして帰って来たについては、深い理由がなくてはかなわない。半蔵は日ごろ敬愛するあの年上の友人の帰国から、いろいろなことを知った。伝え聞くところによると、東山道総督として初陣の途に上った岩倉少将はようやく青年期に達したばかりのような年ごろの公子である。兄の公子がその若さであるとすると、弟の公子の年ごろは推して知るべしである。いかに父の岩倉公が新政府の柱石とも言うべき公卿であり、現に新帝の信任を受けつつある人とは言いながら、その子息らはまだおさなかった。沿道諸藩の思惑もどうあろう。それに正副の総督を護って来る人たちがいずれ一騎当千の豪傑ぞろいであるとしても、おそらく中部地方の事情に暗い。これは捨て置くべき場合でないと考えたあの友人のあわただしい帰国が、その辺の消息を語っている。半蔵は割合に年齢の近い中津川の香蔵を通して、あの年上の友人の国をさして急いで来た心持ちを確かめた。 そればかりでない、帰国後の景蔵は香蔵と力をあわせ、東濃地方にある平田諸門人を語らい、来たるべき東山道軍のためによき嚮導者たることを期している。それを知った時は半蔵の胸もおどった。できることなら彼も二人の友人と行動を共にしたかった。でも、木曾福島の代官山村氏の支配の下にある馬籠の庄屋に、それほどの自由が許されるかどうかは、すこぶる疑問であった。 東山道総督執事の名で、この進軍のため沿道地方に働く人民を励まし、またその応援を求める意味の布告が発せられたのは、すでに正月のころからである。半蔵は幾たびか木曾福島の方から回って来るお触れ状を読んだ。それは木曾谷中を支配する地方御役所よりの通知で、尾張藩からの厳命に余儀なくこんな通知を送るとの苦い心持ちが言外に含まれていないでもない。名古屋方と木曾福島の山村氏が配下との反目はそんなお触れ状のはじにも隠れた鋒先をあらわしていた。ともあれ、半蔵はそれを読んで、多人数入り込みの場合を予想し、人夫の用意から道橋の修繕までを心がける必要があった。各宿とも旅客用の夜具蒲団、膳椀の類を取り調べ、至急その数を書き上ぐべきよしの回状をも手にした。皇軍通行のためには、多数の松明の用意もなくてはならない。木曾谷は特に森林地帯とあって、各村ともその割り付けに応ずべきよしの通知もやって来た。 半蔵は会所の方へ隣家の伊之助その他の宿役人を集めて相談する前に、まず自分の家へ通って来る清助と二人でその通知を読んで見た。各村とも三千把から三千五百把ずつの松明を用意せよとある。これは馬籠宿の囲いうちにのみかぎらない。上松、須原、野尻、三留野、妻籠の五宿も同様であって、中には三留野宿の囲いうちにある柿其村のように山深いところでは、一村で松明七千把の仕出し方を申し付けられたところもある。清助は言った。「半蔵さま、御覧なさい。檜木類の枝を伐採する場所と、元木の数をとりしらべて、至急書面で届け出ろとありますよ。つまり、木曾山は尾州の領分だから、松明の材料は藩から出るという意味なんですね。へえ、なかなかこまかいことまで言ってよこしましたぞ。元木の痛みにならないように、役人どもにおいてはせいぜい伐採を注意せよとありますよ。いずれ御材木方も出張して、お取り締まりもある、御陣屋最寄りの場所はそこへ松明を取り集めて置いて、入り用の節に渡すはずであるから、その辺のことを心得て不締まりのないようにいたせ、ともありますよ」。 どうして、これらの労苦の負担は木曾地方の人民にとって決して軽くない。その通知によれば、馬籠村三千把、山口村三千五百把、湯舟沢村三千五百把とあって、半蔵が世話すべき宿内に割り当てられた分だけでも、松明一万把の仕出し方を申し付けられたことになる。しかし彼はどんなにでもして、村民を励まし、奮ってこの割り付けに応じさせようとしていた。それほど半蔵は王師を迎える希望に燃えていた。どれほどの忍耐を重ねたあとで、彼も馬籠の宿場に働く人たちと共に、この新しい春にめぐりあうことができたろう。その心から、たとい中津川の友人らと行動を共にし得ないまでも、一庄屋としての彼は自分の力にできるだけのことをして、来たるべき東山道軍を助けようとしていた。かねて新時代の来るのを待ち切れないように、あの大和五条にも、生野にも、筑波山にも、あるいは長防二州にも、これまで各地に烽起しつつあった討幕運動は――実に、こんな熾仁親王を大総督にする東征軍の進発にまで大きく発展して来た。 地方の人民にあてて東山道総督執事が発した布告は、ひとりその応援を求める意味のものにとどまらない。どんな社会の変革でも人民の支持なしに成し就げられたためしのないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならない。万事草創の際で、新政府の信用もまだ一般に薄かった。東山道総督の執事はそのために、幾たびか布告を発して、民意の尊重を約束した。このたび勅命をこうむり進発する次第は先ごろ朝廷よりのお触れのとおりであるが、地方にあるものは安堵して各自の世渡りせよ。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来苛政に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくその旨を本陣に届けいでよ。総督の進発については、沿道にある八十歳以上の老年、および鰥寡、孤独、貧困の民どもは広く賑恤する。忠臣、孝子、義夫、および節婦らの聞こえあるものへは、それぞれ褒美をやる思し召しであるから、諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べ、書面をもって本陣へ申し出よ。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨であるぞ、と触れ出されたのもこの際である。 こんなふうに、新政府が地方人民を頼むことの深かったのも、一つは新政府に対する沿道諸藩が向背のほども測りがたかったからで。最初、伏見鳥羽の戦いが会津方の敗退に終わった時、東山道方面の諸藩ではその出来事を先年八月十八日の政変に結びつけて、あの政変が逆に行なわれたぐらいに考えるものが多かった。もとより沿道の諸藩にもいろいろある。それぞれ領地の事情を異にし、旧将軍家との関係をも異にしている。中には、大垣藩のように直接に伏見鳥羽の戦いに参加して、会津や桑名を助けようとしたようなところがなくもない。しかし、京都の形勢に対しては、各藩ともに多く観望の態度を執った。慶喜が将軍職の位置を捨てて京都二条城を退いたと聞いた時にも、各藩ともにそれほど全国的な波動が各自の城下にまで及んで来ると思うものもなかった。その慶喜が軍艦で江戸の方へ去ったと聞いた時にすら、各藩の家中衆はまだまだ心を許していた。 日本の国運循環して、昨日の将軍は実に今日の逆賊であると聞くようになって、それらの家中衆はいずれもにわかに強い衝動を受けた。その衝動は非常な藩論の分裂をよび起こした。これまで賊徒に従う譜代臣下の者たりとも、悔悟憤発して国家に尽くす志あるの輩は寛大の思し召しをもって御採用あらせらるべく、もしまた、この時節になっても大義をわきまえずに、賊徒と謀を通ずるような者は、朝敵同様の厳刑に処せられるであろう。この布告が東山道総督執事の名で発表せらるると同時に、それを読んだ藩士らは皆、到底現状の維持せられるべくもないことを知った。さすがに、ありし日の武家時代を忘れかねるものは多い。あるいは因循姑息のそしりをまぬかれないまでも、君侯のために一時の安さをぬすもうと謀るものがあり、あるいは両端を抱こうとするものがある。勤王か、佐幕か――今や東山道方面の諸藩は進んでその態度を明らかにすべき時に迫られて来ていた。 慶喜と言えば、彼が過ぐる冬十月の十二日に大小目付以下の諸有司を京都二条城の奥にあつめ、大政奉還の最後の決意を群臣に告げた時、あるいは政権返上の後は諸侯割拠の恐れがあろうとの説を出すものもあるが、今日すでに割拠の実があるではないかと言って、退位後の諸藩の末を案じながら将軍職を辞して行ったのもあの慶喜だ。いかにせば幕府の旧勢力を根からくつがえし、慶喜の問題を処分し、新国家建設の大業を成し就(と)ぐべきやとは、当時京都においても勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た問題である。よろしく衆議を尽くし、天下の公論によるべしとは、後年を待つまでもなく、早くすでに当時に萌(きざ)して来た有力な意見であった。この説は主として土佐藩の人たちによって唱えられたが、これには反対するものがあって、衆議は容易に決しなかった。剣あるのみ、とは薩摩の西郷吉之助のような人の口から言い出されたことだという。 もはや、論議の時は過ぎて、行動の時がそれに代わっていた。この形勢をみて取った有志の間には、進んで東征軍のために道をあけようとする気の速い連中もある。東山道先鋒兼鎮撫(ちんぶ)総督の先駆ととなえる百二十余人の同勢は本営に先立って、二門の大砲に、租税半減の旗を押し立て、旧暦の二月のはじめにはすでに京都方面から木曾街道を下って来た。 |
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二 | |
相良惣三事変 | 京坂地方では例の外国使臣らの上京参内を許すという未曾有(みぞう)の珍事で騒いでいる間に、西から進んで来た百二十余人の同勢は、堂上の滋野井(しげのい)、綾小路(あやのこうじ)二卿の家来という資格で、美濃の中津川、落合の両宿から信濃境(しなのざかい)の十曲峠にかかり、あれから木曾路にはいって、馬籠峠の上をも通り過ぎて行った。あるところでは、藩の用人や奉行などの出迎いを受け、あるところでは、本陣や問屋などの出迎いを受けて。「もう、先駆がやって来るようになった」。この街道筋に総督を待ち受けるほどのもので、それを思わないものはない。一行の大砲や武装したいでたちを見るものは来たるべき東山道軍のさかんな軍容を想像し、その租税半減の旗を望むものは信じがたいほどの一大改革であるとさえ考えた。やがて一行は木曾福島の関所を通り過ぎて下諏訪に到着し、そのうちの一部隊は和田峠を越え、千曲川(ちくまがわ)を渡って、追分(おいわけ)の宿にまで達した。 なんらの抵抗を受けることもなしに、この一行が近江と美濃と信濃の間の要所要所を通り過ぎたことは、それだけでも東山道軍のためによい瀬踏みであったと言わねばならぬ。なぜかなら、西は大津から東は追分までの街道筋に当たる諸藩の領地を見渡しただけでも、どこに譜代大名のだれを置き、どこに代官のだれを置くというような、その要所要所の手配りは実に旧幕府の用心深さを語っていたからで。彦根の井伊氏、大垣の戸田氏、岩村の松平氏、苗木(なえぎ)の遠山氏、木曾福島の山村氏、それに高島の諏訪氏――数えて来ると、それらの大名や代官が黙ってみていなかったら、なかなか二門の大砲と、百二十余人の同勢で、素通りのできる道ではなかったからで。 この一行はおもに相良惣三(さがらそうぞう)に率いられ、追分に達したその部下のものは同志金原忠蔵に率いられていた。過ぐる慶応三年に、西郷吉之助が関東方面に勤王の士を募った時、同志を率いてその募りに応じたのも、この相良惣三であったのだ。あの関西方がまだ討幕の口実を持たなかったおりに、進んで挑戦的の態度に出、あらゆる手段を用いて江戸市街の攪乱(こうらん)を試み、当時江戸警衛の任にあった庄内藩との衝突となったのも、三田にある薩摩屋敷の焼き打ちとなったのも皆その結果であって、西の方に起こって来た伏見鳥羽の戦いも実はそれを導火線とすると言われるほどの討幕の火ぶたを切ったのも、またこの相良惣三および同志のものであったのだ。 意外にも、この一行の行動を非難する回状が、東山道総督執事から沿道諸藩の重職にあてて送られた。それには、ちかごろ堂上の滋野井殿や綾小路殿が人数を召し連れ、東国御下向(ごげこう)のために京都を脱走せられたとのもっぱらな風評であるが、右は勅命をもってお差し向けになったものではない、全く無頼(ぶらい)の徒が幼稚の公達(きんだち)を欺いて誘い出した所業と察せられると言ってある。綾小路殿らはすでに途中から御帰京になった、その家来などと唱え、追い追い東下するものがあるように聞こえるが、右は決して東山道軍の先駆でないと言ってある。中には、通行の途次金穀をむさぼり、人馬賃銭不払いのものも少なからぬ趣であるが、右は名を官軍にかりるものの所業であって、いかようの狼藉(ろうぜき)があるやも測りがたいから、諸藩いずれもこの旨(むね)をとくと心得て、右等の徒に欺かれないようにと言ってある。今後、岩倉殿の家来などと偽り、右ようの所業に及ぶものがあるなら、いささかも用捨なくとらえ置いて、総督御下向の上で、その処置を伺うがいいと言ってある。万一、手向かいするなら、討ち取ってもくるしくないとまで言ってある。 こういう回状は、写し伝えられるたびに、いくらかゆがめられた形のものとなることを免れない。しかし大体に、東山道軍の本営でこの自称先駆の一行を認めないことは明らかになった。「偽(にせ)官軍だ。偽官軍だ」。さてこそ、その声は追分からそう遠くない小諸(こもろ)藩の方に起こった。その影響は意外なところへ及んで、多少なりとも彼らのために便宜を計ったものは、すべて偽官軍の徒党と言われるほどのばからしい流言の渦中に巻き込まれた。追分の宿はもとより、軽井沢、沓掛(くつかけ)から岩村田へかけて、軍用金を献じた地方の有志は皆、付近の藩からのきびしい詰問を受けるようになった。そればかりではない、惣三らの通り過ぎた木曾路から美濃地方にまでその意外な影響が及んで行った。馬籠本陣の半蔵が木曾福島へ呼び出されたのも、その際である。そこは木曾福島の地方(じかた)御役所だ。名高い関所のある街道筋から言えば、深い谷を流れる木曾川の上流に臨み、憂鬱なくらいに密集した原生林と迫った山とにとりかこまれた対岸の傾斜をなした位置に、その役所がある。そこは三棟(みむね)の高い鱗葺(こけら)きの屋根の見える山村氏の代官屋敷を中心にして、大小三、四十の武家屋敷より成る一区域のうちである。 役所のなかも広い。木曾谷一切の支配をつかさどるその役所には、すべて用事があって出頭するものの待ち合わすべき部屋がある。馬籠から呼び出されて行った半蔵はそこでかなり長く待たされた。これまで彼も木曾十一宿の本陣問屋の一人として、または木曾谷三十三か村の庄屋の一人として、何度福島の地を踏み、大手門をくぐり、大手橋を渡り、その役所へ出頭したかしれない。しかし、それは普通の場合である。意味ありげな差紙(さしがみ)なぞを受けないで済む場合である。今度はそうはいかなかった。やがて、足軽らしい人の物慣れた調子で、「馬籠の本陣も見えております」という声もする。間もなく半蔵は役人衆や下役などの前に呼び出された。その中に控えているのが、当時佐幕論で福島の家中を動かしている用人の一人だ。おもなる取り調べ役だ。 その日の要事は、とかくのうわさを諸藩の間に生みつつある偽(にせ)官軍のことに連関して、一層街道の取り締まりを厳重にせねばならないというにあったが、取り調べ役はただそれだけでは済まさなかった。右の手に持つ扇子(せんす)を膝の上に突き、半蔵の方を見て、相良惣三ら一行のことをいろいろに詰問した。「聞くところによると、小諸の牧野遠江守(とおとうみのかみ)の御人数が追分の方であの仲間を召し捕りの節に、馬士(まご)が三百両からの包み金(がね)を拾ったと申すことであるぞ。早速宿役人に届け出たから、一同立ち会いの上でそれを改めて見たところ、右の金子(きんす)は賊徒が逃げ去る時に取り落としたものとわかって、総督府の方へ訴え出たとも申すことであるぞ。相良惣三の部下のものが、どうして三百両という大金を所持していたろう。半蔵、その方はどう考えるか」。そんな問いも出た。 その席には、立ち会いの用人も控えていて、取り調べ役に相槌(あいづち)を打った。その時、半蔵は両手を畳の上について、惣三らの一行が馬籠宿通行のおりの状況をありのままに述べた。尾張領通行のみぎりはあの一行のすこぶる神妙であったこと、ただ彼としては惣三の同志伊達徹之助の求めにより金二十両を用立てたことをありのままに申し立てた。「偽役(にせやく)のかたとはさらに存ぜず、献金なぞいたしましたことは恐れ入ります」。そう半蔵は答えた。 |
「待て」と取り調べ役が言った。「その方もよく承れ。近ごろはいろいろな異説を立てるものがあらわれて来て、実に心外な御時世ではある。なんでも悪い事は皆徳川の方へ持って行く。そういう時になって来た。まあ、あの相良惣三一味のものが江戸の方でしたことを考えて見るがいい。天道にも目はあるぞ。おまけに、この街道筋まで来て、追分辺で働いた狼藉はどうだ。官軍をとなえさえすれば、何をしてもいいというものではあるまい」。「さようだ」と言い出すのは火鉢に手をかざしている立ち会いの用人だ。「貴殿はよく言った。実は、拙者もそれを言おうと思っていたところでござる」。「いや」とまた取り調べ役は言葉をつづけた。「御同役の前でござるが、あの御征討の制札にしてからが、自分には腑に落ちない。今になって、拙者はつくづくそう思う。もし先帝が御在世であらせられたら、慶喜公に対しても、会津や桑名に対しても、こんな御処置はあらせられまいに……」。 今一度改めて出頭せよ、翌朝を待ってなにぶんの沙汰があるであろう、その役人の声を聞いたあとで、半蔵は役所の門を出た。馬籠から供をして来た峠村の組頭、先代平助の跡継ぎにあたる平兵衛がそこに彼を待ち受けていた。「半蔵さま」。「おゝ、お前はそこに待っていてくれたかい」。「そうよなし。おれも気が気でないで、さっきからこの御門の外に立ち尽くした」。二人はこんな言葉をかわし、雪の道を踏んで、大手橋から旅籠屋(はたごや)のある町の方へ歩いた。 木曾福島も、もはや天保文久年度の木曾福島ではない。創立のはじめに渡辺方壺(ほうこ)を賓師に、後には武居用拙(ようせつ)を学頭に、菁莪館(せいがかん)の学問を誇ったころの平和な町ではない。剣術師範役遠藤五平太の武技を見ようとして、毎年馬市を機会に諸流の剣客の集まって来たころの町でもない。まして、木曾から出た国家老として、名君の聞こえの高い山村蘇門(良由)が十数年も尾張藩の政事にあずかったころの長閑(のどか)な城下町ではもとよりない。町々の警戒もにわかに厳重になった。怪しい者の宿泊は一夜たりとも許されなかった。旅籠屋をさして帰って行く半蔵らのそばには、昼夜の差別もないように街道を急いで来て、また雪を蹴って出て行く早駕籠もある。 |
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流言の取り締まりもやかましい。そのお達しは奉行所よりとして、この宿場らしい町中の旅籠屋にまで回って来ている。当今の時勢について、かれこれの品評を言い触らす輩(やから)があっては、諸藩の人気にもかかわるから、右ようのことのないようにとくと心得よ、酒興の上の議論はもちろん、たとい女子供に至るまで茶呑み噺(ばなし)にてもかれこれのうわさは一切いたすまいぞ、とのお触れだ。半蔵が泊まりつけの宿の門口をはいって、土地柄らしく掛けてある諸講中(こうじゅう)の下げ札なぞの目につくところから、土間づたいに広い囲炉裏ばたへ上がって見た時は、さかんに松薪(まつまき)の燃える香気(におい)が彼の鼻の先へ来た。 二人ばかりの泊まり客がそこに話し込んでいる。しばらく彼は炉の火にからだをあたため、宿のかみさんがくんで出してくれる熱いネブ茶を飲んで見ている間に、なかなか人の口に戸はたてられないことを知った。「おれは葵(あおい)の紋を見ても、涙がこぼれて来るよ」。「今はそんな時世じゃねえぞ」。二人の客の言い争う声だ。まっかになるほど炉の火に顔をあぶった男と、手製の竹の灰ならしで囲炉裏の灰をかきならしている男とが、やかましいお触れもおかまいなしにそんなことを言い合っている。「なあに、こんな新政府はいつひっくりかえるか知れたもんじゃないさ」。「そんなら君は、どっちの人間だい」。「うん――おれは勤王で、佐幕だ」。時代の悩みを語る声は、そんな一夜の客の多く集まる囲炉裏ばたの片すみにも隠れていた。 地方(じかた)御役所での役人たちが言葉のはじも気にかかって、翌朝の沙汰を聞くまでは半蔵も安心しなかった。その晩、半蔵は旅籠屋らしい行燈(あんどん)のかげに時を送っていた。供に連れて来た平兵衛は、どこに置いても邪魔にならないような男だ。馬籠あたりに比べると、ここは陽気もおくれている。昼間は騒がしくても、夜になるとさびしい河から来るらしい音が、半蔵の耳にはいった。彼はそれを木曾川の方から来るものと思い、石を越して流れる水瀬の音とばかり思ったが、よく聞いて見ると、町へ来る夜の雨の音のようでもある。その音は、まさに測りがたい運命に直面しているような木曾谷の支配者の方へ彼の心を誘った。 |
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もともとこの江戸と京都との中央にあたる位置に、要害無双の関門とも言うべき木曾福島の関所があるのは、あだかも大津伏見をへだてて京都を監視するような近江(おうみ)の湖水のほとりの位置に、三十五万石を領する井伊氏の居城のそびえ立つと同じ意味のもので、幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていたのだ。この関所を預かる山村氏は最初徳川直属の代官であった。それは山村氏の祖先が徳川台徳院を関ヶ原の戦場に導いて戦功を立てた慶長年代以来の古い歴史にもとづく。後に木曾地方は名古屋の管轄に移って、山村氏はさらに尾州の代官を承るようになったが、ここに住む福島の家中衆が徳川直属時代の誇りと長い間に養い来たった山嶽的(さんがくてき)な気風とは、事ごとに大領主の権威をもって臨んで来る尾州藩の役人たちと相いれないものがあった。この暗闘反目は決して一朝一夕に生まれて来たものではない。 そこへ東山道軍の進発だ。各藩ともに、否でも応でもその態度を明らかにせねばならない。尾張藩は、と見ると、これは一切の従来の行きがかりを捨て、勤王の士を重く用い、大義名分を明らかにすることによって、時代の暗礁(あんしょう)を乗り切ろうとしている。名古屋の方にある有力な御小納戸(おこなんど)、年寄、用人らの佐幕派として知られた人たちは皆退けられてしまった。その時になっても、山村氏の家中衆だけは長い武家時代の歴史を誇りとし、頑として昔を忘れないほどの高慢さである。ここには尾張藩の態度に対する非難の声が高まるばかりでなく、徳川氏の直属として独立を思う声さえ起こって来ている。徳川氏と存亡を共にする以外に、この際、情誼(じょうぎ)のあるべきはずがないと主張し、神祖の鴻恩(こうおん)も忘れるような不忠不義の輩はよろしく幽閉せしむべしとまで極言するものもある。 |
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「福島もどうなろう」。半蔵はそのことばかり考えつづけた。その晩は彼は平兵衛の蒲団(ふとん)を自分のそばに敷かせ、道中用の脇差(わきざし)を蒲団の下に敷いて、互いに枕を並べて寝た。翌朝になると、やがて役所へ出頭する時が来た。半蔵は供の平兵衛を門内に待たせて置いて、しばらく待合所に控えていた後、さらに別室の方へ呼び込まれた。上段に居並ぶ年寄、用人などの前で、きびしいおしかりを受けた。 その意味は、官軍先鋒の嚮導隊(きょうどうたい)などととなえ当国へ罷(まか)り越した相良惣三らのために周旋し、あまつさえその一味のもの伊達(だて)徹之助に金子二十両を用だてたのは不埓(ふらち)である。本来なら、もっと重い御詮議もあるべきところだが、特に手錠を免じ、きっと叱り置く。これは半蔵父子とも多年御奉公申し上げ、頼母子講お世話方も行き届き、その尽力の功績も没すべきものでないから、特別の憐憫(れんびん)を加えられたのであるとの申し渡しだ。「はッ」。半蔵はそこに平伏した。武家の奉公もこれまでと思う彼は、甘んじてそのおしかりを受けた。そして、屋敷から引き取った。 「青山さん」。うしろから追いかけて来て、半蔵に声をかけるものがある。ちょうど半蔵は供の平兵衛と連れだって、木曾福島を辞し、帰村の道につこうとしたばかりの時だ。街道に添うて旅人に道を教える御嶽(おんたけ)登山口、路傍に建てられてある高札場なぞを右に見て、福島の西の町はずれにあたる八沢というところまで歩いて行った時だ。「青山さん、馬籠の方へ今お帰り」ときく人は、木曾風俗の軽袗(かるさん)ばきで、猟師筒を肩にかけている。屋敷町でない方に住む福島の町家の人で、大脇自笑(じしょう)について学んだこともある野口秀作というものだ。半蔵は別にその人と深い交際はないが、彼の知る名古屋藩士で田中寅三郎、丹羽淳太郎なぞの少壮有為な人たちの名はその人の口から出ることもある。あうたびに先方から慣れ慣れしく声をかけるのもその人だ。 「どれ、わたしも御一緒にそこまで行こう」とまた秀作は歩き歩き半蔵に言った。「青山さん、あなたがお見えになったことも、お役所へ出頭したことも、きのうのうちに町じゅうへ知れています。えゝえゝ、そりゃもう早いものです。狭い谷ですからね。ここはあなた、うっかり咳(せき)ばらいもできないようなところですよ。福島はそういうところですよ。ほんとに――この谷も、こんなことじゃしかたがない。あなたの前ですが、この谷には、てんで平田の国学なぞははいらない。皆、漢籍一方で堅めきっていますからね。伊那から美濃地方のようなわけにはいかない。どうしても、世におくれる。でも青山さん、見ていてください。福島にも有志の者がなくはありませんよ」。 口にこそ出さなかったが、秀作は肩にする鉄砲に物を言わせ、雉(きじ)でも打ちに行くらしいその猟師筒に春待つ心を語らせて、来たるべき時代のために勤王の味方に立とうとするものはここにも一人いるという意味を通わせた。思いがけなく声をかけられた人にも別れて、やがて半蔵らはさくさく音のする雪の道を踏みながら、塩淵(しおぶち)というところまで歩いた。そこは山の尾をめぐる一つの谷の入り口で、西から来るものはその崖になった坂の道から、初めて木曾福島の町をかなたに望むことのできるような位置にある。半蔵は帰って行く人だが、その眺望のある位置に出た時は、思わず後方(うしろ)を振り返って見て、ホッと深いため息をついた。 |
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三 | |
木曾の寝覚(ねざめ)で昼、とはよく言われる。半蔵らのように福島から立って来たものでも、あるいは西の方面からやって来るものでも、昼食の時を寝覚に送ろうとして道を急ぐことは、木曾路を踏んで見るもののひとしく経験するところである。そこに名物の蕎麦(そば)がある。春とは言いながら石を載せた坂屋根に残った雪、街道のそばにつないである駄馬、壁をもれる煙――寝覚の蕎麦屋あたりもまだ冬ごもりの状態から完全に抜けきらないように見えていた。 半蔵らは福島の立ち方がおそかったから、そこへ着いて足を休めようと思うころには、そろそろ食事を終わって出発するような伊勢参宮の講中もある。黒の半合羽(がっぱ)を着たまま奥の方に腰掛け、膳を前にして、供の男を相手にしきりに箸を動かしている客もある。その人が中津川の景蔵だった。偶然にも、半蔵はそんな帰村の途中に、しかも寝覚の床(とこ)の入り口にある蕎麦屋の奥で、反対の方角からやって来た友人と一緒になることができた。景蔵は、これから木曾福島をさして出掛けるところだという。聞いて見ると、地方(じかた)御役所からの差紙(さしがみ)で。中津川本陣としてのこの友人も、やはり半蔵と同じような呼び出され方で。「半蔵さん、これはなんという事です」。景蔵はまずそれを言った。その時、二人は顔を見合わせて、互いに木曾福島の役人衆が意図を読んだ。 「見たまえ」とまた景蔵が言い出した。「東山道軍の執事からあの通知が行くまでは、だれだって偽(にせ)官軍だなんて言うものはなかった。福島の関所だって黙って通したじゃありませんか。奉行から用人まで迎えに出て置いて、今になってわれわれをとがめるとは何の事でしょう」。「ですから、驚きますよ」と半蔵はそれを承(う)けて、「これにはかなり複雑な心持ちが働いていましょう」。「わたしもそれは思う。なにしろ、あの相良惣三の仲間は江戸の方でかなりあばれていますからね。あいつが諏訪にも、小諸にも、木曾福島にも響いて来てると思うんです。そこへ東山道軍の執事からあの通知でしょう、こりゃ江戸の敵(かたき)を、飛んだところで打つようなことが起こって来た」。「世の中はまだ暗い」。半蔵はそれを友人に言って見せて、嘆息した。その意味から言っても、彼は早く東山道軍をこの街道に迎えたかった。 「まあ、景蔵さん、蕎麦でもやりながら話そうじゃありませんか」と半蔵は友人とさしむかいに腰掛けていて、さらに話しつづけた。「君はわたしたちにかまわないで、先に食べてください。そんなに話に身が入っては、せっかくの蕎麦も延びてしまう。でも、きょうは、よいところでお目にかかった」。「いや、わたしも君にあえてよかった」と景蔵の方でも言った。「おかげで、福島の方の様子もわかりました」。やがて景蔵が湯桶(ゆとう)の湯を猪口(ちょく)に移し、それを飲んで、口をふくころに、小女(こおんな)は店の入り口に近い台所の方から土間づたいに長い腰掛けの間を回って来て、「へえ、お待ちどおさまでございます」と言いながら、半蔵の注文したものをそこへ持ち運んで来た。本家なにがし屋とか、名物寿命そばありとかを看板にことわらなければ、客の方で承知しないような古い街道筋のことで、薬味箱、だし汁(じる)のいれもの、猪口、それに白木の割箸まで、見た目も山家のものらしい。竹簀(たけす)の上に盛った手打ち蕎麦は、大きな朱ぬりの器(うつわ)にいれたものを膳に積みかさねて出す。半蔵はそれを供の平兵衛に分け、自分でも箸を取りあげた。 その時、彼は友人の方を見て、思い出したように、「景蔵さん、東山道軍の執事から尾州藩の重職にあてた回状の写しさ、あれは君の方へも回って行きましたろう」。「来ました」。「あれを君はどう読みましたかい」。「さあ、ねえ」。「えらいことが書いてあったじゃありませんか。あれで見ると、本営の方じゃ、まるきり相良惣三の仲間を先駆とは認めないようですね」。「全くの無頼の徒扱いさ」。「いったい、あんな通知を出すくらいなら、最初から先駆なぞを許さなければよかった」。「そこですよ。あの相良惣三の仲間は、許されて出て来たものでもないらしい。わたしはあの回状を読んで、初めてそのことを知りました。綾小路(あやのこうじ)らの公達(きんだち)を奉じて出かけたものもあるが、勅命によってお差し向けになったものではないとまで断わってある。見たまえ、相良惣三の同志というものは、もともと西郷吉之助の募りに応じて集まったという勤王の人たちですから、薩摩藩に付属して進退するようにッて、総督府からもその注意があり、東山道軍の本営からもその注意はしたらしい。ところがです、先駆ととなえる連中が自由な行動を執って、ずんずん東下するもんですから、本営の方じゃこんなことで軍の規律は保てないと見たんでしょう」。 「あの仲間が旗じるしにして来た租税半減というのは」。「さあ、東山道軍から言えば、あれも問題でしょうね。実際新政府では租税半減を人民に約束するかと、沿道の諸藩から突っ込まれた場合に、軍の執事はなんと答えられますかさ。とにかく、綾小路らの公達が途中から分かれて引き返してしまうのはよくよくです。これにはわれわれの知らない事情もありましょうよ。おそらく、それや、これやで、東山道軍からはあの仲間も経済的な援助は仰げなくなったのでしょう」。「だいぶ、話が実際的になって来ましたね」。「まあ、百二十人あまりからの同勢で、おまけに皆、血気壮(さか)んな人たちと来ています。ずいぶん無理もあろうじゃありませんか」。「われわれの宿場を通ったころは、あの仲間もかなり神妙にしていましたがなあ」。「水戸浪士の時のことを考えて見たまえ。幹部の目を盗んで民家を掠奪(りゃくだつ)した土佐の浪人があると言うんで、三五沢で天誅(てんちゅう)さ。軍規のやかましい水戸浪士ですら、それですよ」。「それに、あの相良惣三の仲間が追分の方で十一軒も民家を焼いたのは、まずかった」。 「なにしろ、止めて止められるような人たちじゃありませんからね。風は蕭々(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し、ですか。あの仲間はあの仲間で、行くところまで行かなけりゃ承知はできないんでしょう。さかんではあるが、鋭過(するどす)ぎますさ」。「景蔵さん、君は何か考えることがあるんですか」。「どうして」。「どうしてということもありませんが、なんだかきょうはしかられてるような気がする」。この半蔵の言葉に、景蔵も笑い出した。「そう言えば半蔵さん、こないだもわたしは香蔵さんをつかまえて、どうもわれわれは目の前の事にばかり屈託して困る、これがわれわれの欠点だッて話しましたら、あの香蔵さんの言い草がいい。屈託するところが人間ですとさ。でも、周囲を見ると心細い。王政復古は来ているのに、今さら、勤王や佐幕でもないじゃありませんか。見たまえ、そよそよとした風はもう先の方から吹いて来ている。この一大変革の時に際会して、大局を見て進まないのはうそですね」。 「景蔵さん、君も気をつけて行って来たまえ。相良惣三に同情があると見た地方の有志は、全部呼び出して取り調べる――それがお役所の方針らしいから」。そう言いながら、半蔵は寝覚を立って行く友人と手を分かった。「どれ、福島の方へ行ってしかられて来るか」。景蔵はその言葉を残した。その時、半蔵は供の男をかえりみて、「さあ、平兵衛さん、わたしたちもぽつぽつ出かけようぜ」。そんなふうに、また半蔵らは馬籠をさして出かけた。 木曾谷は福島から須原までを中三宿(なかさんしゅく)とする。その日は野尻泊まりで、半蔵らは翌朝から下四宿(しもししゅく)にかかった。そこここの道の狭いところには、雪をかきのけ、木を伐(き)って並べ、藤づるでからめ、それで道幅を補ったところがあり、すでに橋の修繕まで終わったところもある。深い森林の方から伐り出した松明を路傍に山と積んだようなところもある。上松(あげまつ)御陣屋の監督はもとより、近く尾州の御材木方も出張して来ると聞く。すべて東山道軍を迎える日の近づきつつあったことを語らないものはない。時には、伊勢参宮の講中にまじる旅の婦人の風俗が、あだかも前後して行き過ぎる影のように、半蔵らの目に映る。きのうまで手形なしには関所も通られなかった女たちが、男の近親者と連れだち、長途の旅を試みようとして、深い窓から出て来たのだ。そんな人たちの旅姿にも、王政第一の春の感じが深い。そのいずれもが日焼けをいとうらしい白の手甲(てっこう)をはめ、男と同じような参拝者の風俗で、解き放たれて歓呼をあげて行くかにも見えていた。次第に半蔵らは淡い雪の溶け流れている街道を踏んで行くようになった。歩けば歩くほど、なんとなく谷の空も明るかった。西から木曾川を伝って来る早い春も、まだまだ霜に延びられないような浅い麦の間に躊躇(ちゅうちょ)しているほどの時だ。それでも三留野(みどの)の宿まで行くと、福島あたりで堅かった梅の蕾(つぼみ)がすでにほころびかけていた。 午後に、半蔵らは大火のあとを承(う)けてまだ間もない妻籠の宿にはいった。妻籠本陣の寿平次をはじめ、その妻のお里、めっきり年とったおばあさん、半蔵のところから養子にもらわれて来ている幼い正己(まさみ)――皆、無事。でも寿平次方ではわずかに類焼をまぬかれたばかりで、火は本陣の会所まで迫ったという。脇本陣の得右衛門方は、と見ると、これは大火のために会所の門を失った。半蔵が福島の方から引き返して、地方御役所でしかられて来たありのままを寿平次に告げに寄ったのは、この混雑の中であった。もっとも、半蔵は往(い)きにもこの妻籠を通って寿平次の家族を見に寄ったが、わずかの日数を間に置いただけでも、板囲いのなかったところにそれができ、足場のなかったところにそれがかかっていた。そこにもここにも仮小屋の工事が始まって、総督の到着するまでにはどうにか宿場らしくしたいというそのさかんな復興の気象は周囲に満ちあふれていた。 寿平次は言った。「半蔵さん、今度という今度はわたしも弱った。東山道軍が見えるにしたところで、君の方はまだいい。昼休みの通行で済むからいい。妻籠を見たまえ、この大火のあとで、しかも総督のお泊まりと来てましょう」。「ですから、当日の泊まり客は馬籠でも分けて引き受けますよ。いずれ御先触(おさきぶれ)れが来ましょう。そうしたら、おおよそ見当がつきましょう。得右衛門さんでも馬籠の方へ打ち合わせによこしてくださるさ」。「おまけに、妻籠へ割り当てられた松明も三千把(ば)だ。いや、村のものは、こぼす、こぼす」。「どうせ馬籠じゃ、そうも要(い)りますまい。松明も分けますよ」。こんなことであまり長くも半蔵は邪魔すまいと思った。寿平次のような養父を得て無事に成長するらしい正己にも声をかけて置いて、そこそこに彼は帰村を急ごうとした。「もうお帰りですか」と言いながら、仕事着らしい軽袗(かるさん)ばきで、寿平次は半蔵のあとを追いかけて来た。「あの大火のあとで、よくそれでもこれまでに工事が始められましたよ」と半蔵が言う。「みんな一生懸命になりましたからね。なにしろ、高札下(こうさつした)から火が出て、西側は西田まで焼ける。東側は山本屋で消し止めた。こんな大火はわたしが覚えてから初めてだ。でも、村の人たちの意気込みというものは、実にすさまじいものさ」。しばらく寿平次は黙って、半蔵と一緒に肩をならべながら、木を削るかんなの音の中を歩いた。やがて、別れぎわに、「半蔵さん、世の中もひどい変わり方ですね。何が見えて来るのか、さっぱり見当もつかない」。「まあ統一ができてからあとのことでしょうね」と半蔵の方で言って見せると、寿平次もうなずいた。そして別れた。 半蔵が供の平兵衛と共に馬籠の宿はずれまで帰って行ったころは、日暮れに近かった。そこまで行くと、下男の佐吉が宗太(半蔵の長男)を連れて、主人の帰りのおそいのを案じ顔に、陣場というところに彼を待ち受けていた。その辺には「せいた」というものを用いて、重い物を背負い慣れた勁(つよ)い肩と、山の中で働き慣れた勇健な腰骨とで、奥山の方から伐(き)り出して来た松明を定められた場所へと運ぶ村の人たちもある。半蔵と見ると、いずれも頬かぶりした手ぬぐいをとって、挨拶して行く。「みんな、御苦労だのい」。そう言って村の人たちに声をかける時の半蔵の調子は、父吉左衛門にそっくりであった。 半蔵は福島出張中のことを父に告げるため、馬籠本陣の裏二階にある梯子段(はしごだん)を上った。彼も妻子のところへ帰って来て、母屋の囲炉裏ばたの方で家のものと一緒に夕飯を済まし、食後に父をその隠居所に見に行った。「ただいま」。この半蔵の「ただいま」が、炬燵(こたつ)によりかかりながら彼を待ち受けていた吉左衛門をも、茶道具なぞをそこへ取り出す継母のおまんをもまずよろこばせた。「半蔵、福島の方はどうだったい」と吉左衛門が言いかけると、おまんも付け添えるように、「おとといはお前、中津川の景蔵さんまでお呼び出しで、ちょっと吾家(うち)へも寄って行ってくれたよ」。「そうでしたか。景蔵さんには寝覚で行きあいましたっけ。まあ、お役所の方も、お叱りということで済みました。つまらない疑いをかけられたようなものですけれど、今度のお呼び出しのことは、お父(とっ)さんにもおわかりでしょう」。「いや、わかるどころか、あんまりわかり過ぎて、おれは心配してやったよ。お前の帰りもおそいものだからね」。 こんな話がはじまっているところへ、母屋(もや)の方にいた清助も裏二階の梯子段を上って来た。無事に帰宅した半蔵を見て、清助も「まあ、よかった」という顔つきだ。「半蔵、お前の留守に、追分の名主(なぬし)のことが評判になって、これがまた心配の種さ」と吉左衛門が言って見せた。「それがです」と清助もその話を引き取って、「あの名主は親子とも入牢(にゅうろう)を仰せ付けられたとか、いずれ追放か島流しになるとか、いろいろなことを言いましょう。まさか、そんなばかばかしいことが。どうせ街道へ伝わって来るうわさだぐらいに、わたしどもは聞き流していましたけれど、村のうわさ好きな人たちと来たら、得ていろいろなことを言いたがる。今度は本陣の旦那も無事にお帰りになれまいなんて」。吉左衛門は笑い出した。そして、追分の名主のことについて、何がそんな評判を立てさせたか、名主ともあろうものが腰縄手錠で松代(まつしろ)の方へ送られたとはどうしたことか、そのいぶかしさを半蔵にたずねた。そういう吉左衛門はいまだに宿駅への関心を失わずにいる。 「お父さん、そのことでしたら」と半蔵は言う。「なんでも、小諸藩から捕手(とりて)が回った時に、相良惣三の部下のものは戦さでもする気になって、追分の民家を十一軒も焼いたとか聞きました。そのあとです、小諸藩から焼失人へ米を六十俵送ったところが、その米が追分の名主の手で行き渡らないと言うんです。偽官軍の落として行った三百両の金も、焼失人へは割り渡らないと言うんです。あの名主は貧民を救えと言われて、偽官軍から米を十六俵も受け取りながら、その米も貧民へは割り渡らないと言うんです。あの名主はそれで松代藩の方へ送られたというのが、まあ実際のところでしょう。しかしわたしの聞いたところでは、あの名主と不和なものがあって中傷したことらしい――飛んだ疑いをかけられたものですよ」。「そういうことが起こって来るわい」と吉左衛門は考えて、「そんなごたごたの中で、米や金が公平に割り渡せるもんじゃない。追分の名主も気の毒だが、米や金を渡そうとした方にも無理がある」。「そうです、わたしも大旦那に賛成です」と清助も言葉を添える。「いきなり貧民救助なぞに手をつけたのが、相良惣三の失敗のもとです。そういうことは、もっと大切に扱うべきで、なかなか通りすがりの嚮導隊(きょうどうたい)なぞにうまくやれるもんじゃありません」。 |
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「とにかく」と半蔵は答えた。「あの仲間は、東山道軍と行動を共にしませんでした。そこから偽官軍というような評判も立ったのですね。そこへつけ込む者も起こって来たんですね。でも、相良惣三らのこころざしはくんでやっていい。やはりその精神は先駆というところにあったと思います。ですから、地方の有志は進んで献金もしたわけです。そうはわたしも福島のお役所じゃ言えませんでした。まあ、お父さんやお母(っか)さんの前ですから話しますが、あのお役人たちもかなり強いことを言いましたよ。二度目に呼び出されて行った時にですね、お前たち親子は多年御奉公も申し上げたものだし、頼母子講のお世話方も行き届いて、その骨折りも認めないわけにいかないから、特別の憐憫(れんびん)をもってきっと叱り置く、特に手錠を免ずるなんて――それを言い渡された時は、御奉公もこれまでだと思って、わたしも我慢して来ました」。 | |
その時、にぎやかな子供らの声がして、半蔵が妻のお民の後ろから、お粂(くめ)、宗太も梯子段を上って来たので、半蔵はもうそんな話をしなかった。その裏二階に集まったものは、やがて馬籠の宿場に迎えようとする岩倉の二公子、さては東山道軍のうわさなどで持ち切った。「粂さま、お前さまは和宮様の御通行の時のことを覚えておいでか」と清助がきいた。「わたしはよく覚えていない」とお粂が羞(はじ)を含みがちに言う。「ゆめのようにですか」。「えゝ」。「そうでしょうね。あの時分のことは、はっきり覚えていなさるまい」。「清助さん、水戸浪士(ろうし)のことをきいてごらん」と横鎗を入れるのは宗太だ。「だれに」。「おれにさ。このおれにきいてごらん」。「おゝ、お前さまにか」。「清助さん、水戸浪士のことなら、おれだって知ってるよ」。「さあ、今度の御通行はどうありますかさ」とおまんは言って、やがて孫たちの方を見て、「今度はもうそんなに、こわい御通行じゃない。なんにも恐ろしいことはないよ。今に――錦の御旗(にしきのみはた)が来るんだよ」。 半蔵の子供らも大きくなった。その年、慶応四年の春を迎えて見ると、姉のお粂はもはや十三歳、弟の宗太は十一歳にもなる。お民は夫が往(い)きにも還(かえ)りにも大火後の妻籠の実家に寄って来たと聞いて、「あなた、正己も大きくなりましたろうね。あれもことしは八つになりますよ」。「いや、大きくなったにも、なんにも。もうすっかり妻籠の子になりすましたような顔つきさ。おれが呼んだら、男の子らしい軽袗(かるさん)などをはいて、お辞儀に出て来たよ。でも、きまりが悪いような顔つきをして、広い屋敷のなかをまごまごしていたっけ」。もらわれて行った孫のうわさに、吉左衛門もおまんも聞きほれていた。やがて、吉左衛門は思いついたように、「時に、半蔵、御通行はあと十二、三日ぐらいしかあるまい。人足は足りるかい」。「今度は旧天領のものが奮って助郷を勤めることになりました。これは天領にかぎらないからと言って、総督の執事は、村々の小前(こまえ)のものにまで人足の勤め方を奨励しています。おそらく、今度の御通行を一期(いちご)にして、助郷のことも以前とは変わりましょう」。「あなたは、それだからいけない」とおまんは吉左衛門の方を見て、その話をさえぎった。「人足のことなぞは半蔵に任せてお置きなさるがいい。おれはもう隠居だなんて言いながら、そうあなたのように気をもむからいけない」。「どうも、この節はおまんのやつにしかられてばかりいる」。そう言って吉左衛門は笑った。 |
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長話は老い衰えた父を疲らせる。その心から、半蔵は妻子や清助を誘って、間もなく裏二階を降りた。母屋の方へ引き返して行って見ると、上がり端(はな)に畳(たた)んだ提灯なぞを置き、風呂をもらいながら彼を見に来ている馬籠村の組頭庄助もいる。庄助も福島からの彼の帰りのおそいのを案じていた一人なのだ。その晩、彼は下男の佐吉が焚(た)きつけてくれた風呂桶の湯にからだを温(あたた)め、客の応接はお民に任せて置いて、店座敷の方へ行った。白木(しらき)の桐(きり)の机から、その上に掛けてある赤い毛氈(もうせん)、古い硯(すずり)までが待っているような、その自分の居間の畳の上に、彼は長々と足腰を延ばした。 子供らがのぞきに来た。いつも早寝の宗太も、その晩は眠らないで、姉と一緒にそこへ顔を出した。背丈(せたけ)は伸びても顔はまだ子供子供した宗太にくらべると、いつのまにかお粂の方は姉娘らしくなっている。素朴で、やや紅味(あかみ)を帯びた枝の素生(すば)えに堅くつけた梅の花のつぼみこそはこの少女のものだ。「あゝあゝ、きょうはお父さんもくたぶれたぞ。宗太、ここへ来て、足でも踏んでくれ」。半蔵がそれを言って、畳の上へ腹ばいになって見せると、宗太はよろこんだ。子供ながらに、宗太がからだの重みには、半蔵の足の裏から数日のはげしい疲労を追い出す力がある。それに、血を分けたものの親しみまでが、なんとなく温(あたた)かに伝わって来る。「どれ、わたしにも踏ませて」とお粂も言って、姉と弟とはかわるがわる半蔵の大きな足の裏を踏んだ。 |
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四 | |
「あなた」。「おれを呼んだのは、お前かい」。「あなたはどうなさるだろうッて、お母さんが心配していますよ」。「どうしてさ」。「だって、あなたのお友だちは岩倉様のお供をするそうじゃありませんか」。半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。 暖かい雨はすでに幾たびか馬籠峠の上へもやって来た。どうかすると夜中に大雨が来て、谷々の雪はあらかた溶けて行った。わずかに美濃境(ざかい)の恵那山の方に、その高い山間(やまあい)の谿谷(けいこく)に残った雪が矢の根の形に白く望まれるころである。そのころになると東山道軍の本営は美濃まで動いて来て、大垣を御本陣にあて、沿道諸藩との交渉を進めているやに聞こえて来た。兵馬の充実、資金の調達などのためから言っても、軍の本営ではいくらかの日数をそこに費やす必要があったのだ。 勤王の味方に立とうとする地方の有志の中には、進んで従軍を願い出るものも少なくない。「おれもこうしちゃいられないような気がする」。半蔵がそれを言って見せると、お民は夫の顔をながめながら、「ですから、お母さんが心配してるんですよ」。「お民、おれは出られそうもないぞ。そのことはお母さんに話してくれてもいい。おれがお供をするとしたら、どうしたって福島の山村様の方へ願って出なけりゃならない。中津川の友だちとおれとは違うからね。あの幕府びいきの御家中がおれのようなものを許すと思われない」。「……」。「ごらんな、景蔵さんや香蔵さんは、ただ岩倉様のお供をするんじゃないよ。軍の嚮導(きょうどう)という役目を命ぜられて行くんだよ。その下には十四、五人もついて御案内するという話だが、それがお前、みんな平田の御門人さ。何にしてもうらやましい」。夫婦の間にはこんな話も出た。 その時になって初めて本陣も重要なものになった。東山道総督執事からの布告にもあるように、徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来苛政(かせい)に苦しめられて来たものは遠慮なくその事情を届けいでよと指定された場所は、本陣である。諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べよと命ぜられた貧民に関する報告や願書の集まって来るのも、本陣である。のみならず、従来本陣と言えば、公用兼軍用の旅舎のごときもので、諸大名、公卿(くげ)、公役、または武士のみが宿泊し、休息する場所として役立つぐらいに過ぎなかった。今度の布告で見ると、諸藩の藩主または重職らが勤王を盟(ちか)い帰順の意を総督にいたすべき場所として指定された場所も、また本陣である。 半蔵の手もとには、東山道軍本営の執事よりとして、大垣より下諏訪までの、宿々問屋役人中へあてた布達がすでに届いていた。それによると、薩州勢四百七十二人、大垣勢千八百二十七人、この二藩の兵が先鋒(せんぽう)として出発し、因州勢八百人余は中軍より一宿先、八百八十六人の土州勢と三百人余の長州勢とは前後交番で中軍と同日に出発、それに御本陣二百人、彦根勢七百五十人余、高須勢百人とある。この人数が通行するから、休泊はもちろん、人馬継立(つぎた)て等、不都合のないように取り計らえとある。しかし、この兵数の報告はかなり不正確なもので、実際に大垣から進んで来る東山道軍はこれほどあるまいということが、半蔵を不安にした。当時の諸藩、および旗本の向背(こうはい)は、なかなか楽観を許さなかった。 そのうちに、美濃から飛騨へかけての大小諸藩で帰順の意を表するものが続々あらわれて来るようになった。昨日(きのう)は苗木(なえぎ)藩主の遠山友禄が大垣に行って総督にお目にかかり勤王を盟(ちか)ったとか、きょうは岩村藩の重臣羽瀬市左衛門が藩主に代わって書面を総督府にたてまつり慶喜に組した罪を陳謝したとか、加納藩、郡上(ぐじょう)藩、高富藩、また同様であるとか、そんなうわさが毎日のように半蔵の耳を打った。あの旧幕府の大老井伊直弼(なおすけ)の遺風を慕う彦根藩士までがこの東征軍に参加し、伏見鳥羽の戦いに会津方を助けた大垣藩ですら薩州方と一緒になって、先鋒としてこの街道を下って来るといううわさだ。 しかし、これには尾張のような中国の大藩の向背が非常に大きな影響をあたえたことを記憶しなければならない。いわゆる御三家の随一とも言われたほど勢力のある尾張藩が、率先してその領地を治め、近傍の諸藩を勧誘し、東征の進路を開かせようとしたことは、復古の大業を遂行する上にすくなからぬ便宜となったことを記憶しなければならない。尾州とても、藩論の分裂をまぬかれたわけでは決してない。過ぐる年の冬あたりから、尾張藩の勤王家で有力なものは大抵御隠居(徳川慶勝よしかつ)に従って上洛していたし、御隠居とても日夜京都に奔走して国を顧みるいとまもない。その隙(すき)を見て心を幕府に寄せる重臣らが幼主元千代を擁し、江戸に走り、幕軍に投じて事をあげようとするなどの風評がしきりに行なわれた。 もはや躊躇(ちゅうちょ)すべき時でないと見た御隠居は、成瀬正肥(なるせまさみつ)、田宮如雲らと協議し、岩倉公の意見をもきいた上で、名古屋城に帰って、その日に年寄渡辺新左衛門、城代格榊原勘解由(かげゆ)、大番頭(おおばんかしら)石川内蔵允(くらのすけ)の三人を二之丸向かい屋敷に呼び寄せ、朝命をもって死を賜うということを宣告した。なお、佐幕派として知られた安井長十郎以下十一人のものを斬罪(ざんざい)に処した。幼主元千代がそれらの首級をたずさえ、尾張藩の態度を朝野に明らかにするために上洛したのは、その年の正月もまだ早いころのことである。 尾州にはすでにこの藩論の一定がある。美濃から飛騨地方へかけての諸藩の向背も、幕府に心を寄せるものにはようやく有利でない。これらの周囲の形勢に迫られてか、大垣あたりの様子をさぐるために、奥筋の方から早駕籠を急がせて来る木曾福島の役人衆もあった。それらの人たちが往き還りに馬籠の宿を通り過ぎるだけでも、次第に総督の一行の近づいたことを思わせる。旧暦二月の二十二日を迎えるころには、岩倉公子のお迎えととなえ、一匹の献上の馬まで引きつれて、奥筋の方から馬籠に着いた一行がある。それが山村氏の御隠居だった。半蔵父子がこれまでのならわしによれば、あの名古屋城の藩主は「尾州の殿様」、これはその代官にあたるところから、「福島の旦那様」と呼び来たった主人公である。 半蔵は急いで父吉左衛門をさがした。山村氏の御隠居が彼の家の上段の間で昼食の時を送っていること、行く先は中津川で総督お迎えのために見えたこと、彼の家の門内には献上の馬まで引き入れてあることなどを告げて置いて、また彼は父のそばから離れて行った。例の裏二階で、吉左衛門はおまんを呼んだ。衣服なぞを取り出させ、そこそこに母屋の方へ行くしたくをはじめた。「肩衣(かたぎぬ)、肩衣」とも呼んだ。そういう吉左衛門はもはやめったに母屋の方へも行かず、村の衆にもあわず、先代の隠居半六が忌日のほかには墓参りの道も踏まない人である。めずらしくもこの吉左衛門が代を跡目相続の半蔵に譲る前の庄屋に帰って、青山家の定紋のついた麻 ![]() ![]() 吉左衛門がお馬を見ようとして出たところは、本陣の玄関の前に広い板敷きとなっている式台の片すみであった。表庭の早い椿(つばき)の蕾(つぼみ)もほころびかけているころで、そのあたりにつながれている立派な青毛の馬が見える。総督へ献上の駒(こま)とあって、伝吉、彦助と名乗る両名の厩仲間(うまやちゅうげん)のものがお口取りに選ばれ、福島からお供を仰せつけられて来たとのこと。試みに吉左衛門はその駒の年齢を尋ねたら、伝吉らは六歳と答えていた。「お父さん」と声をかけて、奥の方へ挨拶に出ることを勧めに来たのは半蔵だ。「いや、おれはここで失礼するよ」と吉左衛門は言って、その駒の雄々しい鬣(たてがみ)も、大きな目も、取りつく蝿(はえ)をうるさそうにする尻尾(しっぽ)までも、すべてこの世の見納めかとばかり、なおもよく見ようとしていた。 だれもがそのお馬をほめた。だれもがまた、中津川の方に山村氏の御隠居を待ち受けるものの何であるかを見定めることもできなかった。やがて奥から玄関先へ来て、供の衆を呼ぶ清助の大きな声もする。それは乗り物を玄関先につけよとの掛け声である。早、お立ちの合図である。その時、吉左衛門は式台の片すみのところに、その板敷きの上にかしこまっていて、父子代々奉仕して来た旧(ふるい)い主人公のつつがない顔を見ることができた。「旦那様。吉左衛門でございます。お馬拝見に出ましてございます」。「おゝ、その方も達者(たっしゃ)か」。御隠居が彼の方を顧みての挨拶だ。吉左衛門は目にいっぱい涙をためながら、長いことそこに立ち尽くした。御隠居を乗せた駕籠を見送り、門の外へ引き出されて行くお馬を見送り、中津川行きの供の衆を見送った。半蔵がその一行を家の外まで送りに出て、やがて引き返して来たころになっても、まだ父は式台の上がり段のところに腰掛けながら、街道の空をながめていた。「お父さん、本陣のつとめもつくづくつらいと思って来ましたよ」。「それを言うな。福島の御家中がどうあろうと、あの御隠居さまには御隠居さまのお考えがあって、わざわざお出かけになったと見えるわい」。 東山道軍御本陣の執事から出た順路の日取りによると、二月二十三日は美濃の鵜沼(うぬま)宿お休み、太田宿お泊まりとある。その日、先鋒はすでに中津川に到着するはずで、木曾福島から行った山村氏の御隠居が先鋒の重立った隊長らと会見せらるるのもその夜のことである。総督御本陣は、薩州兵と大垣兵とより成る先鋒隊からは三日ずつおくれて木曾街道を進んで来るはずであった。馬籠宿はすでに万般の手はずもととのった。というのは、全軍の通行に昼食の用意をすればそれでよかったからであった。よし隣宿妻籠の方に泊まりきれない兵士があるとしても、せいぜい一晩ぐらいの宿を引き受ければ、それで済みそうだった。半蔵はひとり一室に退いて、総督一行のために祈願をこめた。長歌などを作り試みて、それを年若な岩倉の公子にささげたいとも願った。 夕方が来た。半蔵は本陣の西側の廊下のところへ宗太を呼んで、美濃の国の空の方を子供にさして見せた。暮色につつまれて行く恵那山の大きな傾斜がその廊下の位置から望まれる。中津川の町は小山のかげになって見えないまでも、遠く薄暗い空に反射するほのかな町の明りは宗太の目にも映った。「御覧、中津川の方の空が明るく見えるよ。篝(かがり)でもたいているんだろうね」と半蔵が言って見せた。その晩、半蔵は店座敷にいておそくまで自分の机にむかった。古風な行燈(あんどん)の前で、その日に作った長歌の清書などをした。中津川の友人景蔵の家がその晩の先鋒隊の本陣であることを考え、先年江戸屋敷の方から上って来た長州侯がいわゆる中津川会議を開いて討幕の第一歩を踏み出したのもまたあの友人の家であるような縁故の不思議さを考えると、お民のそばで枕についてからも彼はよく眠られなかった。あたかも春先の雪が来てかえって草木の反発力を増させるように、木曾街道を騒がしたあの相良惣三の事件までが、彼にとっては一層東山道軍を待ち受ける心を深くさせたのである。 あの山村氏の家中衆あたりがやかましく言う徳川慶喜征討の御制札の文面がどうあろうと――慶喜が大政を返上して置いて、大坂城へ引き取ったのは詐謀(さぼう)であると言われるようなことが、そもそも京都方の誤解であろうと、なかろうと――あまつさえ帰国を仰せ付けられた会津を先鋒にして、闕下(けっか)を犯し奉ったのもその慶喜であると言われるのは、事実の曲解であろうと、なかろうと――伏見、鳥羽の戦さに、現に彼より兵端を開いたのは慶喜の反状が明白な証拠だと言われるのに、この街道を通って帰国した会津藩の負傷兵が自ら合戦の模様を語るところによれば、兵端を開いたのは薩摩方であったと言うような、そんな言葉の争いがどうあろうと――そんなことはもう彼にはどうでもよかった。先年七月の十七日、長州の大兵が京都を包囲した時、あの時の流れ丸(ながれだま)はしばしば飛んで宮中の内垣(うちがき)にまで達したという。当時、長州兵を敵として迎え撃ったものは、陛下の忠僕をもって任ずる会津武士であった。あの時の責めを一身に引き受けた長州侯ですら寛大な御処置をこうむりながら、慶喜公や会津桑名のみが大逆無道の汚名を負わせられるのは何の事かと言って、木曾福島の武士なぞはそれをくやしがっている。しかし、多くの庄屋、本陣、問屋、医者なぞと同じように、彼のごとく下から見上げるものにとっては、もっと大切なことがあった。 「王政復古は来ているのに、今さら、勤王や佐幕でもないじゃないか」。寝覚(ねざめ)の蕎麦屋であった時の友人の口から聞いて来た言葉が、枕の上で彼の胸に浮かんだ。彼は乱れ放題乱れた社会にまた統一の曙光(しょこう)の見えて来たのも、一つは日本の国柄であることを想像し、この古めかしく疲れ果てた街道にも生気のそそぎ入れられる日の来ることを想像した。彼はその想像を古代の方へも馳(は)せ、遠く神武の帝(みかど)の東征にまで持って行って見た。 まだ夜の明けきらないうちから半蔵は本陣の母屋を出て、薄暗い庭づたいに裏の井戸の方へ行った。水垢離(みずごり)を執り、からだを浄(きよ)め終わって、また母屋へ引き返そうとするころに、あちこちに起こる鶏の声を聞いた。いよいよ東征軍を迎える最初の日が来た。青く暗い朝の空は次第に底明るく光って来たが、まだ街道の活動ははじまらない。そのうちに、一番早く来て本陣の門をたたいたのは組頭の庄助だ。「半蔵さま、お早いなし」と庄助は言って、その日から向こう三日間、切畑(きりばた)、野火、鉄砲の禁止のお触れの出ていることを近在の百姓たちに告げるため、青の原から杁(いり)の方まで回りに行くところだという。この庄助がその日の村方の準備についていろいろと打ち合わせをした後、半蔵のそばから離れて行ったころには、日ごろ本陣へ出入りの百姓や手伝いの婆さんたちなどが集まって来た。そこの土竈(どがま)の前には古い大釜(おおがま)を取り出すものがある。ここの勝手口の外には枯れ松葉を運ぶものがある。玄関の左右には陣中のような二張りの幕も張り回された。半蔵はそこへ顔を出した清助をも見て、「清助さん、総督は八十歳以上の高齢者をお召しになるという話だが、この庭へ砂でも盛って、みんなをすわらせることにするか」。「そうなさるがいい」。「今から清助さんに頼んで置くが、わたしも中津川まで岩倉様のお迎えに行くつもりだ。その時は留守を願いますぜ」。そんな話も出た。 日は次第に高くなった。使いの者が美濃境の新茶屋の方から走って来て、先鋒の到着はもはや間もないことであろうという。駅長としての半蔵は、問屋九郎兵衛、年寄役伏見屋伊之助、同役桝田屋小左衛門、同じく梅屋五助などの宿役人を従え、先鋒の一行を馬籠の西の宿はずれまで出迎えた。石屋の坂から町田の辺へかけて、道の両側には人の黒山を築いた。 |
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宮さま、宮さま、お馬の前に ひらひらするのはなんじゃいな。 とことんやれ、とんやれな。 ありや、朝敵、征伐せよとの 錦の御旗(にしきのみはた)じゃ、知らなんか。 とことんやれ、とんやれな。 島津轡(ぐつわ)の旗を先頭にして、太鼓の音に歩調を合わせながら、西から街道を進んで来る人たちの声だ。こころみに、この新作の軍歌が薩摩隼人(はやと)の群れによって歌われることを想像して見るがいい。慨然として敵に向かうかのような馬のいななきにまじって、この人たちの揚げる蛮音が山国の空に響き渡ることを想像して見るがいい。先年の水戸浪士がおのおの抜き身の鎗(やり)を手にしながら、水を打ったように声まで潜め、ほとんど死に直面するような足取りで同じ街道を踏んで来たのに比べると、これはいちじるしい対照を見せる。これは京都でなく江戸をさして、あの過去三世紀にわたる文明と風俗と流行との中心とも言うべき大都会の空をめがけて、いずれも遠い西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑ぞろいかと見える。江戸ももはや中世的な封建制度の残骸(ざんがい)以外になんらの希望をつなぐべきものを見いだされないために、この人たちをして過去から反(そむ)き去るほどの堅き決意を抱かせたのであるか、復古の機運はこの人たちの燃えるような冒険心を刺激して新国家建設の大業に向かわせたのであるか、いずれとも半蔵には言って見ることができなかった。この勇ましく活気に満ちた人たちが肩にして来た銃は、舶来の新式で、当時の武器としては光ったものである。そのいでたちも実際の経験から来た身軽なものばかり。官軍の印(しるし)として袖(そで)に着けた錦の小帛(こぎれ)。肩から横に掛けた青や赤の粗(あら)い毛布(けっと)。それに筒袖(つつそで)。だんぶくろ。 |
(私論.私見)