夜明け前第一部下の1、第八章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
(れんだいこのショートメッセージ) |
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【島崎藤村/夜明け前第一部下の1、第八章】 | |
一 | |
「もう半蔵も王滝から帰りそうなものだぞ」。吉左衛門は隠居の身ながら、忰半蔵の留守を心配して、いつものように朝茶をすますとすぐ馬籠本陣の裏二階を降りた。彼の習慣として、ちょっとそこいらを見回りに行くにも質素な平袴(ひらばかま)ぐらいは着けた。それに下男の佐吉が手造りにした藁草履(わらぞうり)をはき、病後はとかく半身の回復もおそかったところから杖を手放せなかった。そういう吉左衛門も、代を跡目相続の半蔵に譲り、庄屋本陣問屋(といや)の三役を退いてから、半年の余になる。 前の年、文久二年の夏から秋へかけては、彼もまだ病床についていて、江戸から京都へ向けて木曾路を通過した長州侯をこの宿場に迎えることもできなかったころだ。おりからの悪病流行で、あの大名ですら途中の諏訪に三日も逗留(とうりゅう)を余儀なくせられたくらいのころだ。江戸表から、大坂(底本では「大阪」)、京都は言うに及ばず、日本国じゅうにあの悪性の痲疹(はしか)が流行して、全快しても種々な病に変わり、諸方に死人のできたこともおびただしい数に上った。世間一統、年を祭り替えるようなことは気休めと言えば、気休めだが、そんなことでもして悪病の神を送るよりほかに災難の除(よ)けようもないと聞いては、年寄役の伏見屋金兵衛なぞが第一黙っているはずもなく、この宿でも八月のさかりに門松を立て、一年のうちに二度も正月を迎えて、世直しということをやった。吉左衛門としては、あれが長い駅長生活の最後の時だった。同じ八月の二十九日には彼は金兵衛と共に退役を仰せ付けられる日を迎えた。それぎり、ずっと引きこもりがちに暮らして来た彼だ。こんなに宿場の様子が案じられ、人のうわさも気にかかって、忰の留守に問屋場(といやば)の方まで見回ろうという心を起こしたのは、彼としてもめずらしいことであった。 |
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当時、将軍家茂は京都の方へ行ったぎりいまだに還御(かんぎょ)のほども不明であると言い、十一隻からのイギリスの軍艦は横浜の港にがんばっていてなかなか退却する模様もないと言う。種々(さまざま)な流言も伝わって来るころだ。吉左衛門の足はまず孫たちのいる本陣の母屋の方へ向いた。「やあ、例幣使(れいへいし)さま」。母屋の囲炉裏ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って子供に戯れている。おまん(吉左衛門の妻)も裏二階の方から来て、お民(半蔵の妻)と一緒になっている。家族のあるものはすでに早い朝の食事をすまし、あるものはまだ膳に向かっている。そこへ吉左衛門がはいって行った。「いゝえ、正己(まさみ)は例幣使さまじゃありません」とおまんが三番目の孫に言って見せる。「おとなしくして御飯(おまんま)を食べるものは、例幣使さまじゃないで」とまた佐吉が言う。囲炉裏ばたのすみのところに片足を折り曲げ、食事をするにも草鞋ばきのままでやるのがこの下男の癖だった。「佐吉、おれは例幣使さまじゃないぞい」と総領の宗太が言い出したので、囲炉裏ばたに集まっているものは皆笑った。 吉左衛門の孫たちも大きくなった。お粂は八歳、宗太は六歳、三番目の正己が三歳にもなる。どうして例幣使のことがこんなに幼いものの口にまで上るかと言うに、この街道筋ではおよそやかましいものの通り名のようになっていたからで。道中で人足をゆすったり、いたるところの旅館で金を絞ったり、あらゆる方法で沿道の人民を苦しめるのも、京都から毎年きまりで下って来るその日光例幣使の一行であった。百姓らが二百十日の大嵐にもたとえて恐怖していたのも、またその勅使代理の一行であった。公卿、大僧正をはじめ、約五百人から成るそれらの一行が金の御幣を奉じてねり込んで来て、最近にこの馬籠の宿でも二十両からの祝儀金をねだって通り過ぎたのは、ちょうど半蔵が王滝の方へ行っている留守の時だった。吉左衛門は広い炉ばたから寛ぎの間(くつろぎのま)の方へ行って見た。そこは半蔵が清助を相手に庄屋本陣の事務を見る部屋にあててある。「万事は半蔵の量見一つでやるがいい――おれはもう一切、口を出すまいから」。 これは吉左衛門が退役の当時に半蔵に残した言葉で、隠居してからもその心に変わりはなかった。今さら、彼は家のことに口を出すつもりは毛頭なかった。ただ、半蔵の仕事部屋を見回るだけに満足した。店座敷の方へも行って見た。以前の大火に枯れた老樹の跡へは、枝ぶりのおもしろい松の樹が山から移し植えられ、白い大きな蕾(つぼみ)を持つ牡丹がまた焼け跡から新しい芽を吹き出している。半蔵の好きなものだ。「松が枝(まつがえ)」とは、その庭の植樹(うえき)から思いついて、半蔵が自分の歌稿の題としているくらいだ。しかしそれらの庭にあるものよりも、店座敷の床の間に積み重ねてある書物が吉左衛門の目についた。そこには本居派や平田派の古学に関したいろいろな本が置いてある。あの平田篤胤と同郷で、その影響を受けたとも言われる佐藤信淵(のぶひろ)が勧農に関する著述なぞも置いてある。吉左衛門はひとり言って見た。「これだ。相変わらず半蔵はこういう方に凝っていると見えるなあ」。まだ朝のうちのことで、毎日手伝いに通(かよ)って来る清助も顔を見せない。吉左衛門はその足で母屋の入り口から表庭を通って、門の外に出て見た。早く馬籠を立つ上り下りの旅人以外には、街道を通る人もまだそれほど多くない。宿場の活動は道路を清潔にすることから始められるような時であった。 |
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将軍の上洛以来、この街道を通行する諸大名諸公役なぞの警衛もにわかに厳重になった。その年の日光例幣使は高百五十石の公卿であるが、八挺(ちょう)の鉄砲を先に立て、二頭の騎馬に護られて、おりからの強雨の中を発って行ったといううわさを残した。公儀より一頭、水戸藩より一頭のお付き添いだなどと評判はとりどりであったが、あとになってそれが尾州藩よりの警衛とわかった。皇室と徳川霊廟とを結びつけるはずの使者が、公武合体の役には立たないで、あべこべにそれをぶち壊して歩くのもあの一行だった。さすがに憎まれ者の例幣使のことで、八挺の鉄砲と二頭の騎馬とで、その身を護ることを考えねばならなくなったのだ。 毎月上半期を半蔵の家の方で、下半期を九太夫(くだゆう)方で交替に開く問屋場は、ちょうどこちらの順番に当たっていた。吉左衛門の足はその方へ向いた。そこには書役(かきやく)という形で新たにはいった亀屋栄吉が早く出勤していて、小使いの男と二人でそこいらを片づけている。栄吉は吉左衛門が実家を相続しているもので、吉左衛門の甥(おい)にあたり、半蔵とは従兄弟(いとこ)同志の間柄にあたる。問屋としての半蔵の仕事を手伝わせるために、わざわざ吉左衛門が見立てたのもこの栄吉だ。「叔父(おじ)さん、早いじゃありませんか」。「あゝ。もう半蔵も帰りそうなものだと思って、ちょっとそこいらを見回りに来たよ。だいぶ荷もたまってるようだね」。「それですか。それは福島行きの荷です。けさはまだ峠の牛が降りて来ません」。 栄吉は問屋場の御改め所(おあたらめじょ)になっている小さい高台のところへ来て、その上に手を置き、吉左衛門はまたその前の羽目板(はめいた)に身を寄せ、蹴込(けこ)みのところに立ったままで、敷居の上と下とで言葉をかわしていた。吉左衛門のつもりでは、退職後の問屋の帳面にも一応は目を通し、半蔵の勤めぶりに安心の行くかどうかを確かめて、青山親子が職業に怠りのあるとは言われたくないためであった。でも、彼はすぐにそんなことを言い出しかねて、栄吉の方から言い出すいろいろな問屋場の近況に耳を傾けていた。 「大旦那、店座敷(ここは宿役人の詰め所をさす)の方でお茶を一つお上がり。まだ役人衆はどなたも見えていませんから」と小使いの男が言う。吉左衛門はそれをきッかけに、砂利(じゃり)で堅めた土間を通って、宿役人の詰め所の上がり端(はな)の方へ行って腰掛けた。そこは会所と呼んでいるところで、伏見屋、桝田屋、蓬莱屋、梅屋とこの四人の年寄役のほかに、今一軒の問屋九郎兵衛(くろべえ)なぞが事あるごとに相談に集まる場所だ。吉左衛門はその上がり端のところに杖を置いて、腰掛けたままで茶を飲んだ。それから甥の方へ声をかけた。「栄吉、問屋場の帳面をここへ見せてくれないか。ちょっとおれは調べたいことがある」。 その時、栄吉は助郷の人馬数を書き上げた日〆帳(ひじめちょう)なぞをそこへ取り出して来た。吉左衛門も隠居の身で、駅路のことに口を出そうでもない。ただ彼はその大切な帳簿を繰って見て、半蔵の認(したた)め方に目を通すというだけに満足した。「叔父(おじ)さん、街道の風儀も悪くなって来ましたね」と栄吉は言って見せる。「なんでもこの節は力ずくで行こうとする。こないだも九太夫さんの家の方へ来て、人足の出し方がおそいと言って、問屋場であばれた侍がありましたぜ。ひどいやつもあるものですね。その侍は土足のままで、問屋場の台の上へ飛びあがりましたぜ。そこに九郎兵衛さんがいました。あの人も見ていられませんから、いきなりその侍を台の上から突き落としたそうです。さあ、怒(おこ)るまいことか、先方(さき)は刀に手を掛けるから、九郎兵衛さんがあの大きなからだでそこへ飛びおりて、斬れるものなら斬って見るがいいと言ったそうですよ。 ちょうど表には大名の駕籠が待っていました。大名は騒ぎを聞きつけて、ようやくその侍を取りしずめたそうですがね。どうして、この節は油断ができません」。「そう言えば、十万石につき一人ずつとか、諸藩の武士が京都の方へ勤めるようになったと聞くが、真実(ほんとう)だろうか」。「その話はわたしも聞きました」。「参覲交代の御変革以来だよ。あの御変革は、どこまで及んで行くか見当がつかない」。 こんな話をしたあとで、吉左衛門は思わず時を送ったというふうに腰を持ちあげた。問屋場からの出がけにも、彼は出入り口の障子の開いたところから板廂(いたびさし)のかげを通して、心深げに旧暦四月の街道の空をながめた。そして栄吉の方を顧みて言った。「今まではお前、参覲交代の諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ参朝するようになって来たからね。世の中も変わった」。 吉左衛門の心配は、半蔵が親友の二人までも京都の方へ飛び出して行ったことであった。あの中津川本陣の景蔵や、新問屋和泉屋(いずみや)の香蔵のあとを追って、もし半蔵が家出をするような日を迎えたら。その懸念(けねん)から、年老いた吉左衛門は思い沈みながら、やがて自分の隠居所の方へ非常に静かに歩いて行った。彼がその裏二階に上るころには、おまんも母屋の方から夫を見に来た。「いや、朝のうちは問屋場も静かさ。栄吉が出勤しているだけで、まだ役人衆はだれも見えなかった」。 吉左衛門はおまんの見ているところで袴の紐を解いて、先代の隠居半六の時代からある古い襖(ふすま)の前を歩き回った。先年の馬籠(まごめ)の大火にもその隠居所は焼け残って、筆者不明の大書をはりつけた襖の文字も吉左衛門には慰みの一つとなっている。「もうそれでも半蔵も帰って来ていいころだぞ」と彼は妻に言った。「この節は街道がごたごたして来て、栄吉も心配している。町ではいろいろなことを言う人があるようだね」。「半蔵のことですか」とおまんも夫の顔をながめる。「あれは本陣の日記なぞを欠かさずつけているだろうか」。「さあ。わたしもそれで気がついたことがありますよ。あれの日記が机の上にありましたから、あけるつもりもなくあけて見ました。あなたがよく本陣の日記をつけたように、半蔵も家を引き受けた当座は、だれが福島から来て泊まったとか、お材木方を湯舟沢へ御案内したとか、そういうことが細かくつけてありましたよ。だんだんあとの方になると、お天気のことしか書いてない日があります。晴。曇。晴。曇。そんな日の七日も八日も続いたところがありましたっけ」。「それだ。無器用に生まれついて来たのは性分でしかたがないとしても、もうすこしあれには経済の才をくれたい」。 茶のみ友だちともいうべき夫婦は、古風な煙草盆を間に置いて、いろいろと子の前途を心配し出した。その時、おまんは長い羅宇(らお)の煙管(きせる)で一服吸いつけて、「こないだからわたしも言おう言おうと思っていましたが、半蔵のうわさを聞いて見ると残念でなりません。あの金兵衛さんなぞですら、馬籠の本陣や問屋が半蔵に勤まるかッて、そう思って見ているようですよ」。「そりゃ、お前、それくらいのことはおれだって考える。だから清助さんというものを入れ、栄吉にも来てもらって、清助さんには庄屋と本陣、栄吉には問屋の仕事を手伝わせるようにしたさ。あの二人がついてるもの、これが普通の時世なら、半蔵にだって勤まらんことはない」。「えゝ、そりゃそうです――土台ができているんですから」。「あのお友だちを見てもわかる。中津川の本陣の子息(むすこ)に、新問屋の和泉屋の子息――二人とも本陣や問屋の仕事をおッぽりだして行ってしまった」。「あれで半蔵も、よっぽど努めてはいるようです。わたしにはそれがよくわかる。なにしろ、あなた、お友だちが二人とも京都の方でしょう。半蔵もたまらなくなったら、いつ家を飛び出して行くかしれません」。 「そこだて。金兵衛さんなぞに言わせると、おれが半蔵に学問を勧めたのが大失策(おおしくじり)だ、学問は実に恐ろしいものだッて、そう言うんさ。でも、おれは自分で自分の学問の足りないことをよく知ってるからね。せめて半蔵には学ばせたい、青山の家から学問のある庄屋を一人出すのは悪くない、その考えでやらせて見た。いつのまにかあれは平田先生に心を寄せてしまった。そりゃ何も試みだ。あれが平田入門を言い出した時にも、おれは止めはしなかった。学問で身代をつぶそうと、その人その人の持って生まれて来るようなもので、こいつばかりはどうすることもできない。おれに言わせると、人間の仕事は一代限りのもので、親の経験を子にくれたいと言ったところで、だれもそれをもらったものがない。おれも街道のことには骨を折って見たが、半蔵は半蔵で、また新規まき直しだ。考えて見ると、あれも気の毒なほどむずかしい時に生まれ合わせて来たものさね」。 「まあ、そう心配してもきりがありません。清助さんでも呼んで、よく相談してごらんなすったら」。「そうしようか。京都の方へでも飛び出して行くことだけは、半蔵にも思いとどまってもらうんだね。今は家なぞを顧みているような、そんな時じゃないなんて、あれのお友だちは言うかもしれないがね」。 裏二階の下を通る人の足音がした。おまんはそれを聞きつけて障子の外に出て見た。「佐吉か。隠居所でお茶がはいりますから、清助さんにお話に来てくださるようにッて、そう言っておくれよ」。清助を待つ間、吉左衛門はすこし横になった。わずかの時を見つけても、からだを横にして休み休みするのが病後の彼の癖のようになっている。「枕」とおまんが気をきかして古風な昼寝用の箱枕を夫に勧める間もなく、清助は木曾風な軽袗(かるさん)をはいて梯子段を上って来た。 本陣大事と勤め顔な清助を見ると、吉左衛門はむっくり起き直って、また半蔵のうわさをはじめるほど元気づいた。「清助さん、今旦那と二人で半蔵のことを話していたところですよ。旦那も心配しておいでですからね」とおまんが言う。「その事ですか。大旦那の御用と言えば、将棋のお相手ときまってるのに、それにしては時刻が早過ぎるが、と思ってやって来ましたよ」。清助は快活に笑って、青々と剃(そ)っている毛深い腮(あご)の辺をなでた。 二間続いた隠居所の二階で、おまんが茶の用意なぞをする間に、吉左衛門はこう切り出した。「まあ、清助さん、その座蒲団でもお敷き」。「いや、はや、どうも理屈屋がそろっていて、どこの宿場も同じことでしょうが苦情が絶えませんよ。大旦那のように黙って見ていてくださるといいけれども、金兵衛さんなぞは世話を焼いてえらい」。「あれで、半蔵のやり方が間違ってるとでも言うのかな」。「大旦那の前ですが、お師匠さまの家としてだれも御本陣に指をさすものはありません。そりゃこの村で読み書きのできるものはみんな半蔵さまのおかげですからね。宿場の問題となると、それがやかましい。たとえばですね、問屋場へお出入りの牛でも以前はもっとかわいがってくだすった、初めて参った牛なぞより荷物も早く出してくだすったし、駄賃なぞも御贔屓(ごひいき)にあずかった、半蔵さまはもっとお出入りの牛をかわいがってくだすってもいい。そういうことを言うんです」。「そいつは初耳だ」。 「それから、宿(しゅく)の伝馬役(てんまやく)と在の助郷とはわけが違う、半蔵さまはもっと宿の伝馬役をいばらせてくだすってもいい。そういうことを言うんです。ああいう半蔵さまの気性をよく承知していながら、そのいばりたい連中が何を話しているかと思って聞いて見ると――いったい、伊那から出て来る人足なぞにあんなに目をかけてやったところで、あの手合いはありがたいともなんとも思っていやしない。そりゃ中には宿場へ働きに来て泊まる晩にも、※遣(わらづか)[「くさかんむり/稾」]いをするとか、読み書き算術を覚えるとか、そういう心がけのよいものがなくはない。しかし近ごろは助郷の風儀が一般に悪くなって、博打(ばくち)はうつ、問屋で払った駄賃も何も飲んでしまって、村へ帰るとお定まりの愁訴だ――やれ人を牛馬のようにこき使うの、駄賃もろくに渡さないの、なんのッて、大げさなことばかり。半蔵さまはすこしもそれを御存じないんだ。そういうことを言うんです。大旦那の時分はよかったなんて、寄るとさわるとそんなうわさばかり……」。 「待ってくれ。そう言われると、おれが宿場の世話をした時分には、なんだか依怙贔屓(えこひいき)でもしたように聞こえる」。「大旦那、まあ、聞いてください。半蔵さまはよく参覲交代なぞはもう時世おくれだなんて言うでしょう。町のものに聞いて見ると、宿場がさびれて来たら、みんなどうして食えるかなんて、そういうことも言うんです」。「そこだて。半蔵だって心配はしているんさ。この街道の盛衰にかかわることをだれだって、心配しないものがあるかよ。こう御公役の諸大名の往来が頻繁(ひんぱん)になって来ては、継立てに難渋するし、人馬も疲れるばかりだ。よいにも悪いにもこういう時世になって来た。だから、参覲交代のような儀式ばった御通行はそういつまで保存のできるものでもないというあれの意見なんだろう。妻籠(つまご)の寿平次もその説らしい。ちょっと考えると、どの街道も同じことで、往還の交通が頻繁にあれば、それだけ宿場に金が落ちるわけだから、大きな御通行なぞは多いほどよさそうなものだが、そこが東海道あたりとわれわれの地方とすこし違うところさ。木曾のように人馬を多く徴発されるところじゃ、問屋場がやりきれない。事情を知らないものはそうは思うまいが、木曾十一宿の庄屋仲間が相談して、なるべく大きな御通行は東海道を通るようにッて、奉行所へ嘆願した例もあるよ。おれは昔者(むかしもの)だから、参覲交代を保存したい方なんだが、しかし半蔵や寿平次の意見にも一理屈あるとは思うね」。 「そういうこともありましょう。しかし、わたしに言わせると、九太夫さんたちはどこまでも江戸を主にしていますし、半蔵さまはまた、京都を主にしています。九太夫さんたちと半蔵さまとは、てんで頭が違います。諸大名は京都の方へ朝参するのが本筋だ、そういうことは旧い宿場のものは考えないんです」。「だんだんお前の話を聞いて見ると、おれも思い当たることがある。つまり、おれの家じゃ問屋を商売とは考えていない。親代々の家柄で、町方のものも在の百姓もみんな自分の子のように思ってる。半蔵だって、本陣問屋を名誉職としか思っていまい。おれの家の歴史を考えて見てくれると、それがわかる。こういう山の上に発達した宿場というものは、百姓の気分と町人の気分とが混(まじ)り合っていて、なかなかどうして治めにくいところがあるよ」。 「だいぶお話に身が入るようですね」と言いながら、おまんは軽く笑って、次ぎの間から茶道具を運んで来た。隠居所で沸かした湯加減のよい茶を夫にも清助にもすすめ、自分でも飲んで、話の仲間に加わった。「なんでも、」とおまんは思い出したように、「神葬祭の一条で、半蔵が九太夫さんとやりやったことがあるそうじゃありませんか。あれから九太夫さんの家では、とかく半蔵の評判がよくないとか聞きましたよ」。「そんなことはありません」と清助は言った。「九太夫さんはどう思っているか知りませんが、九郎兵衛さんにかぎって決してそんなことはありません。そりゃだれがなんと言ったって、お父さんのためにお山へ参籠(さんろう)までして、御全快を祷りに行くようなことは、半蔵さまでなけりゃできないことです」。 「いえ、その点はおれも感心してるがね。なんと言うか、こう、まるで子供のようなところが半蔵にはあるよ。あれでもうすこし細かいところにも気がつくようだと、宿場の世話もよく届くかと思うんだが」。「そりゃ、大旦那、街道へ日があたって来たからと言って、すぐに傘(からかさ)をひろげて出す金兵衛さんのような細かさは、半蔵さまにはありません」。「金兵衛さんの言い草がいいじゃないか。半蔵に問屋場を預けて置くのは、米の値を知らない番人に米蔵を預けて置くようなものだとさ。あの人の言うことは鋭い」。「まあ、栄吉さんも来てくれたものですし、そう大旦那のように御心配なすったものでもありません。見ていてください。半蔵さまだってなかなかやりますよ」。 「清助さん、」とその時、吉左衛門は相手の言うことをさえぎった。「この話はこのくらいにして、おれが一つ将棋のたとえを出すよ。お互いに好きな道だからね。一歩(ひとあし)ずつ進む駒もある。一足飛びに飛ぶ駒もある。ある駒は飛ぶことはできても一歩ずつ進むことは知らない。ある駒はまた、一歩ずつ進むことはできても飛ぶことは知らない。この街道に生まれて来る人間だって、そのとおりさ。一気に飛ぶこともできれば、一歩ずつ進むこともできるような、そんな駒はめったに生まれて来るもんじゃないね」。「そうすると、大旦那、あの金兵衛さんなぞは、さしずめどういう駒でしょう」。「将棋で言えば、成った駒だね。人間もあそこまで行けば、まあ、成り金(なりきん)と言ってよかろうね」。「金兵衛さんだから、成り金ですか。大旦那の洒落(しゃれ)が出ましたね」。聞いているおまんも笑い出した。 そして二人の話を引き取って、「今ごろは半蔵も、どこかでくしゃみばかりしていましょうよ。将棋のことはわたしにはわかりませんが、半蔵にしても、お民にしても、あの夫婦はまだ若い。若い者のよいところは、先の見えないということだ、この節わたしはつくづくそう思って来ましたよ」。「それだけおまんも年を取った証拠だ」と吉左衛門が笑う。「そうかもしれませんね」と言ったあとで、おまんは調子を変えて、「あなた、一番肝心なことをあと回しにして、まだ清助さんに話さないじゃありませんか。ほら、あの半蔵のことだから、お友だちのあとを追って、京都の方へでも行きかねない。もしそんな様子が見えたら、清助さんにもよく気をつけていてもらうようにッて、さっきからそう言って心配しておいでじゃありませんか」。「それさ。」と吉左衛門も言った。「おれも今、それを言い出そうと思っていたところさ」。清助はうなずいた。 |
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二 | |
半蔵は勝重を連れて、留守中のことを案じながら王滝から急いで来た。御嶽山麓(おんたけさんろく)の禰宜の家から彼がもらい受けて来た里宮参籠(さんろう)記念のお札、それから神饌(しんせん)の白米なぞは父吉左衛門をよろこばせた。留守中に届いた友人香蔵からの手紙が、寛ぎの間(くつろぎのま)の机の上に半蔵を待っていた。それこそ彼が心にかかっていたもので、何よりもまず封を切って読もうとした京都便りだ。はたして彼が想像したように、洛中の風物の薄暗い空気に包まれていたことは、あの友だちが中津川から思って行ったようなものではないらしい。半蔵はいろいろなことを知った。友だちが世話になったと書いてよこした京都麩屋町(ふやまち)の染め物屋伊勢久とは、先輩暮田正香の口からも出た平田門人の一人で、義気のある商人のことだということを知った。 友だちが京都へはいると間もなく深い関係を結んだという神祇職(じんぎしょく)の白川資訓卿(すけくにきょう)とは、これまで多くの志士が縉紳(しんしん)への遊説(ゆうぜい)の縁故をなした人で、その関係から長州藩、肥後藩、島原藩なぞの少壮な志士たちとも友だちが往来を始めることを知った。そればかりではない、あの足利(あしかが)将軍らの木像の首を三条河原に晒したという示威事件に関係して縛に就いた先輩師岡正胤(もろおかまさたね)をはじめ、その他の平田同門の人たちはわずかに厳刑をまぬかれたというにとどまり、いずれも六年の幽囚を申し渡され、正香その人はすでに上田藩の方へお預けの身となっていることを知った。 ことにその捕縛の当時正胤の二条衣の棚(ころものたな)の家で、抵抗と格闘のあまりその場に斬殺(ざんさつ)せられた二人の犠牲者を平田門人の中から出したということが、実際に京都の土を踏んで見た友だちの香蔵に強い衝動を与えたことを知った。本陣の店座敷にはだれも人がいなかった。半蔵はその明るい障子のところへ香蔵からの京都便りを持って行って、そこで繰り返し読んで見た。 |
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「あなた、景蔵さんからお手紙ですよ」。お民が半蔵に手紙を渡しに来た。京都便りはあっちからもこっちからも半蔵のところへ届いた。「お民、この手紙はだれが持って来たい」。「中津川の万屋(よろずや)から届けて来たんですよ。安兵衛さんが京都の方へ商法(あきない)の用で行った時に、これを預かって来たそうですよ」。その時お民は、御嶽参籠後の半蔵がそれほど疲れたらしい様子もないのに驚いたというふうで、夫の顔をながめた。 「本陣鼻」と言われるほど大きく肉厚な鼻の先へしわを寄せて笑うところから、静かな口もとまで、だんだん父親の吉左衛門に似て来るような夫の容貌(ようぼう)をながめて置いて、何やらいそがしげにそのそばを離れて行くのも彼女だ。「お師匠さま、おくたぶれでしょう」と言って、勝重もそこへ半蔵の顔を見に来た。「わたしはそれほどでもない。君は」。「平気ですよ。往(ゆ)きを思うと、帰りは実に楽でした。わたしもこれから田楽(でんがく)を焼くお手伝いです。お師匠さまに食べさせたいッて、今囲炉裏ばたでみんなが大騒ぎしているところです」。「もう山椒(さんしょ)の芽が摘めるかねえ。王滝じゃまだ梅だったがねえ」。 勝重もそばを離れて行った。半蔵はお民の持って来た手紙を開いて見た。もはやしばらく京都の方に滞在して国事に奔走し平田派の宣伝に努めている友人の景蔵は、半蔵から見れば兄のような人だった。割合に年齢(とし)の近い香蔵に比べると、この人から受け取る手紙は文句からして落ち着いている。その便りには、香蔵を京都に迎えたよろこびが述べてあり、かねてうわさのあった石清水(いわしみず)行幸(ぎょうこう)の日のことがその中に報じてある。 景蔵の手紙はなかなかこまかい。それによると、今度の行幸については種々(さまざま)な風説が起こったとある。国事寄人(こくじよりうど)として活動していた侍従中山忠光は官位を朝廷に返上し、長州に脱走して毛利真斎と称し、志士を糾合(きゅうごう)して鳳輦(ほうれん)を途中に奪い奉る計画があるというような、そんな風説も伝わったとある。その流言に対して会津方からでも出たものか、八幡(はちまん)の行幸に不吉な事のあるやも測りがたいとは実に苦々(にがにが)しいことだが、万一それが事実であったら、武士はもちろん、町人百姓までこの行幸のために尽力守衛せよというような張り紙を三条大橋の擬宝珠(ぎぼし)に張りつけたものがあって、役所の門前で早速その張り紙は焼き捨てられたという。 石清水は京都の町中からおよそ三里ほどの遠さにある。帝にも当日は御気分が進まれなかったが、周囲にある公卿たちをはじめ、長州侯らの懇望に励まされ、かつはこの国の前途に深く心を悩まされるところから、御祈願のため洛外に鳳輦(ほうれん)を進められたという。将軍は病気、京都守護職の松平容保(かたもり)も忌服(きぶく)とあって、名代(みょうだい)の横山常徳が当日の供奉(ぐぶ)警衛に当たった。 景蔵に言わせると、当時、鱗形屋(うろこがたや)の定(じょう)飛脚から出たものとして諸方に伝わった聞書(ききがき)なるものは必ずしも当日の真相を伝えてはない。その聞書には、「四月十一日。石清水行幸の節、将軍家御病気。一橋様御名代のところ、攘夷の節刀を賜わる段にてお遁(に)げ」とある。この「お遁げ」はいささか誇張された報道らしい。景蔵はやはり、一橋公の急病か何かのためと解したいと言ってある。いずれにしても、当日は必ず何か起こる。その出来事を待ち受けるような不安が、関東方にあったばかりでなく、京都方にあったと景蔵は書いている。 この石清水行幸は帝としても京都の町を離れる最初の時で、それまで大山大川なぞも親しくは叡覧のなかったのに、初めて淀川の滔々(とうとう)と流るるのを御覧になって、さまざまのことを思(おぼ)し召され、外夷親征なぞの御艱難(ごかんなん)はいうまでもなく、国家のために軽々しく龍体(りゅうたい)を危うくされ給うまいと慮(おもんぱか)らせられたとか。帝には還幸の節、いろいろな御心づかいに疲れて、紫宸殿(ししんでん)の御車寄せのところで水を召し上がったという話までが、景蔵からの便りにはこまごまと認(したため)めてある。 聞き伝えにしてもこの年上の友だちが書いてよこすことはくわしかった。景蔵には飯田の在から京都に出ている松尾多勢子(たせこ)(平田鉄胤(かねたね)門人)のような近い親戚の人があって、この婦人は和歌の道をもって宮中に近づき、女官たちにも近づきがあったから、その辺から出た消息かと半蔵には想い当たる。いずれにしても、その手紙は半蔵にあてたありのままな事実の報告らしい。景蔵はまた今の京都の空気が実際にいかなるものであるかを半蔵に伝えたいと言って、石清水行幸後に三条の橋詰(はしづめ)めに張りつけられたという評判な張り紙の写しまでも書いてよこした。 「徳川家茂 右は、先ごろ上洛後、天朝より仰せ下されたる御趣意のほどもこれあり候ところ、表には勅命尊奉の姿にて、始終虚喝(きょかつ)を事とし、言を左右によせて万端因循にうち過ぎ、外夷拒絶談判の期限等にいたるまで叡聞(えいぶん)を欺きたてまつる。あまつさえ帰府の儀を願い出(い)づるさえあるに、石清水行幸の節はにわかに虚病(けびょう)を構え、一橋中納言においてもその場を出奔いたし、至尊をあなどり奉りたるごとき、その他、板倉周防守(すおうのかみ)、岡部駿河守らをはじめ奸吏(かんり)ども数多くこれありて、井伊掃部頭(いかもんのかみ)、安藤対馬守らの遺志をつぎ、賄賂をもって種々奸謀(かんぼう)を行ない、実(じつ)もって言語道断、不届きの至りなり。
この驚くべき張り紙――おそらく決死の覚悟をもって書かれたようなこの張り紙の発見されたことは、将軍家をして攘夷期限の公布を決意せしめるほどの力があったということを景蔵は書いてよこした。右は、天下こぞって誅戮(ちゅうりく)を加うべきはずに候えども、大樹(たいじゅ)(家茂)においてはいまだ若年(じゃくねん)の儀にて、諸事奸吏どもの腹中より出で候おもむき相聞こえ、格別寛大の沙汰をもって、しばらく宥恕(ゆうじょ)いたし候につき、速(すみやか)かに姦徒(かんと)の罪状を糺明し、厳刑を加うべし。もし遅緩に及び候わば旬日を出でずして、ことごとく天誅を加うべきものなり」。 亥(い)四月十七日 天下義士 イギリスとの戦争は避けられないかもしれないとある。自分はもとより対外硬の意見で、時局がここまで切迫して来ては攘夷の実行もやむを得まいと信ずる、攘夷はもはや理屈ではない、しかし今の京都には天下の義士とか、皇大国の忠士とか、自ら忠臣義士と称する人たちの多いにはうんざりする、ともある。景蔵はその手紙の末に、自分もしばらく京都に暮らして見て、かえって京都のことが言えなくなったとも書き添えてある。 日ごろ、へりくだった心の持ち主で、付和雷同なぞをいさぎよしとしない景蔵ですらこれだ。この京都便りを読んだ半蔵にはいろいろなことが想像された。同じ革新潮流の渦(うず)の中にあるとは言っても、そこには幾多の不純なもののあることが想像された。その不純を容(い)れながらも、尊王の旗を高くかかげて進んで行こうとしているらしい友だちの姿が半蔵の目に浮かぶ。「どうだ、青山君。今の時は、一人でも多く勤王の味方を求めている。君も家を離れて来る気はないか」。この友だちの声を半蔵は耳の底に聞きつける思いをした。 京都から出た定(じょう)飛脚の聞書(ききがき)として、来たる五月の十日を期する攘夷の布告がいよいよ家茂の名で公(おおやけ)にされたことが、この街道筋まで伝えられたのは、それから間もなくであった。 こういう中で、いろいろな用事が半蔵の身辺に集まって来た。参覲交代制度の変革に伴い定(じょう)助郷設置の嘆願に関する件がその一つであった。これは宿々(しゅくじゅく)二十五人、二十五疋(ひき)の常備御伝馬以外に、人馬を補充し、継立てを応援する定員の公役を設けることであって、この方法によると常備人馬でも応じきれない時に定助郷の応援を求め、定助郷が出てもまだ足りないような大通行の場合にかぎり加(か)助郷の応援を求めるのであるが、これまで木曾地方の街道筋にはその組織も充分にそなわっていなかった。 それには木曾十一宿のうち、上(かみ)四宿、中(なか)三宿、下(しも)四宿から都合四、五人の総代を立て、御変革以来の地方の事情を江戸にある道中奉行所につぶさに上申し、東海道方面の例にならって、これはどうしても助郷の組織を改良すべき時機であることを陳述し、それには定助郷を勤むるものに限り高掛り物(たかかかりもの)(金納、米納、その他労役をもってする一種の戸数割)の免除を願い、そして課役に応ずる百姓の立場をはっきりさせ、同時に街道の混乱を防ぎ止めねばならぬ、そのことに十一宿の意見が一致したのであった。 もしこの定助郷設置の嘆願が道中奉行に容(い)れられなかったら、お定めの二十五人、二十五疋以外には継立てに応じまい、その余は翌日を待って継ぎ立てることにしたいとの申し合わせもしてあった。馬籠の宿では年寄役蓬莱屋の新七がその総代の一人に選ばれた。吉左衛門、金兵衛はすでに隠居し、九太夫も退き、伏見屋では伊之助、問屋では九郎兵衛、その他の宿役人を数えて見ても年寄役の桝田屋小左衛門は父儀助に代わり、同役梅屋五助は父与次衛門に代わって、もはや古株(ふるかぶ)で現役に踏みとどまっているものは蓬莱屋新七一人しか残っていなかったのである。新七は江戸表をさして出発するばかりに、そのしたくをととのえて、それから半蔵のところへ庄屋としての調印を求めに来た。 |
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五月の七日を迎えるころには、馬籠の会所に集まる宿役人らはさしあたりこの定助郷の設けのない不自由さを互いに語り合った。なぜかなら、にわかな触(ふ)れ書(しょ)の到来で、江戸守備の任にある尾州藩の当主が京都をさして木曾路を通過することを知ったからで。「なんのための御上京か」と半蔵は考えて、来たる十三日のころにはこの宿場に迎えねばならない大きな通行の意味を切迫した時局に結びつけて見た。その月の八日はかねて幕府が問題の生麦事件でイギリス側に確答を約束したと言われる期日であり、十日は京都を初め列藩に前もって布告した攘夷の期日である。京都の友だちからも書いて来たように、イギリスとの衝突も避けがたいかに見えて来た。 「半蔵さん、村方へはどうしましょう」と従兄弟(いとこ)の栄吉が問屋場から半蔵を探しに来た。「尾張領分の村々からは、人足が二千人も出て、福島詰め野尻詰めで殿様を迎えに来ると言いますから、継立てにはそう困りますまいが」とまた栄吉が言い添える。「まあ、村じゅう総がかりでやるんだね」と半蔵は答えた。「御通行前に、田圃(たんぼ)の仕事を片づけろッて、百姓一同に言い渡しましょうか」。「そうしてください」。そこへ清助も来て一緒になった。清助はこの宿場に木曾の大領主を迎える日取りを数えて見て、「十三日と言えば、もうあと六日しかありませんぞ」。 村では、飼蚕(かいこ)の取り込みの中で菖蒲(しょうぶ)の節句を迎え、一年に一度の粽(ちまき)なぞを祝ったばかりのころであった。やがて組頭庄助をはじめ、五人組の重立ったものがそれぞれ手分けをして、来たる十三日のことを触れるために近い谷の方へも、山間(やまあい)に部落のある方へも飛んで行った。ちょうど田植えも始まっているころだ。大領主の通行と聞いては、男も女も田圃に出て、いずれも植え付けを急ごうとした。 木曾地方の人民が待ち受けている尾州藩の当主は名を茂徳(もちのり)という。六十一万九千五百石を領するこの大名は御隠居(慶勝よしかつ)の世嗣(よつぎ)にあたる。木曾福島の代官山村氏がこの人の配下にあるばかりでなく、木曾谷一帯の大森林もまたこの人の保護の下にある。当時、将軍は上洛中で、後見職一橋慶喜をはじめ、会津藩主松平容保(かたもり)なぞはいずれも西にあり、江戸の留守役を引き受けるものがなければならなかった。 例の約束の期日までに、もし満足な答えが得られないなら、艦隊の威力によっても目的を達するに必要な行動を取るであろうというような英国水師提督を横浜の方へ控えている時で、この留守役はかなり重い。尾州藩主は水戸慶篤(よしあつ)と共にその守備に当たっていたのだ。しかし、尾州藩の位置を知るには、ただそれだけでは足りない。当時の京都には越前も手を引き、薩摩も沈黙し、ただ長州の活動に任せてあったようであるが、その実、幾多の勢力の錯綜していたことを忘れてはならない。 その中にあって、京都の守護をもって任じ、帝の御親任も厚かった会津が、次第に長州と相対峙(あいたいじ)する形勢にあったことを忘れてはならない。たとい王室尊崇の念において両者共にかわりはなくとも、早く幕府に見切りをつけたものと、幕府から頼まるるものとでは、接近する堂上の公卿たちを異(こと)にし、支持する勢力を異にし、地方的な気質と見解とをも異にしていた。あらゆる点で両極端にあったようなこの東西両藩の間にはさまれていたものが尾州藩だ。もとより尾州に人がなくもない。成瀬正肥(まさみつ)のような重臣があって、将軍上洛以前から勅命を奉じて京都の方に滞在する御隠居を助けていた。伊勢、熱田の両神宮、ならびに摂津海岸の警衛を厳重にして、万一の防禦に備えたのも、尾州藩の奔走周旋による。尾州の御隠居は京都にあって中国の大藩を代表していたと見ていい。 不幸にも御隠居と藩主との意見の隔たりは、あだかも京都と江戸との隔たりであった。御隠居の重く用いる成瀬正肥が京都で年々米二千俵を賞せられたようなこと、また勤王家として知られた田宮如雲(じょうん)以下の人たちが多く賞賜せられたようなことは、藩主たる茂徳(もちのり)のあずかり知らないくらいであった。もともと御隠居は安政大獄の当時、井伊大老に反対して幽閉せられた閲歴を持つ人で、神祇宝典や類聚(るいじゅう)日本紀なぞを選んだ源敬公の遺志をつぎ、つとに尊王の志を抱いたのであった。徳川御三家の一つではありながら、必ずしも幕府の外交に追随する人ではなかった。 この御隠居側に対外硬を主張する人たちがあれば、藩主側には攘夷を非とする人たちがあった。尾州に名高い金鉄組とは、法外なイギリスの要求を拒絶せよと唱えた硬派の一団である。江戸の留守役をあずかり外交当局者の位置に立たせられた藩主側は、この意見に絶対に反対した。もし無謀の戦(いくさ)を開くにおいては、徳川家の盛衰浮沈にかかわるばかりでない、万一にもこの国の誇りを傷つけられたら世界万国に対して汚名を流さねばならない、天下万民の永世のことをも考えよと主張したのである。 外人殺傷の代償も大きかった。とうとう、尾州藩主は老中格の小笠原図書頭(ずしょのかみ)が意見をいれ、同じ留守役の水戸慶篤(よしあつ)とも謀(はか)って、財政困難な幕府としては血の出るような十万ポンドの償金をイギリス政府に払ってしまった。五月の三日には藩主はこの事を報告するために江戸を出発し、京都までの道中二十日の予定で、板橋方面から木曾街道に上った。一行が木曾路の東ざかい桜沢に達すると、そこはもう藩主の領地の入り口である。時節がら、厳重な警戒で、護衛の武士、足軽(あしがる)、仲間(ちゅうげん)から小道具なぞの供の衆まで入れると二千人からの同勢がその領地を通って、かねて触れ書の回してある十三日には馬籠の宿はずれに着いた。 おりよく雨のあがった日であった。駅長としての半蔵は、父の時代と同じように、伊之助、九郎兵衛、小左衛門、五助などの宿役人を従え、いずれも定紋(じょうもん)付きの麻 ![]() ![]() 東山道にある木曾十一宿の位置は、江戸と京都のおよそ中央のところにあたる。くわしく言えば、鳥居峠あたりをその実際の中央にして、それから十五里あまり西寄りのところに馬籠の宿があるが、大体に十一宿を引きくるめて中央の位置と見ていい。ただ関東平野の方角へ出るには、鳥居、塩尻、和田、碓氷(うすい)の四つの峠を越えねばならないのに引きかえ、美濃方面の平野は馬籠の西の宿はずれから目の下にひらけているの相違だ。言うまでもなく、江戸で聞くより数日も早い京都の便りが馬籠に届き、江戸の便りはまた京都にあるより数日も先に馬籠にいて知ることができる。一行の中の用人らがこの峠の上の位置まで来て、しきりに西の方の様子を聞きたがるのに不思議はなかった。 その日の藩主は中津川泊まりで、午後の八つ時ごろにはお小休みだけで馬籠を通過した。「下に。下に」。西へと動いて行く杖払(つえはら)いの声だ。その声は、石屋の坂あたりから荒町の方へと高く響けて行った。路傍(みちばた)に群れ集まる物見高い男や女はいずれも大領主を見送ろうとして、土の上にひざまずいていた。 半蔵も目の回るようないそがしい時を送った。西の宿はずれに藩主の一行を見送って置いて、群衆の間を通りぬけながら、また自分の家へと引き返して来た。その時、御跡改(おあとあらた)めの徒士目付(かちめつけ)の口からもれた言葉で、半蔵は尾州藩主が江戸から上って来た今度の旅の意味を知った。徒士目付は藩主がお小休みの礼を述べ、不時の人馬賃銭を払い、何も不都合の筋はなかったかなぞと尋ねた上で立ち去った。半蔵は跡片づけにごたごたする家のなかのさまをながめながら、しばらくそこに立ち尽くした。 藩主入洛(じゅらく)の報知(しらせ)が京都へ伝わる日のことを想って見た。藩主が名古屋まで到着する日にすら、強い反対派の議論が一藩の内に沸きあがりそうに思えた。まして熾(さか)んな敵愾心(てきがいしん)で燃えているような京都の空気の中へ、御隠居の同意を得ることすら危ぶまれるほどの京都へ、はたして藩主が飛び込んで行かれるか、どうかは、それすら実に疑問であった。 やかましい問題の償金はすでにイギリスへ払われたのだ。そのことを告げ知らせるために、半蔵はだれよりも先に父の吉左衛門を探(さが)した。こういう時のきまりで、出入りの百姓は男も女も手伝いとして本陣に集まって来ている。半蔵はその間を分けて、お民を見つけるときき、清助をつかまえるときいた。「お父さんは?」。 馬籠の本陣親子が尾州家との縁故も深い。ことに吉左衛門はその庄屋時代に、財政困難な尾州藩の仕法立てに多年尽力したかどで、三回にもわたって、一度は一代苗字(みょうじ)帯刀、一度は永代苗字帯刀、一度は藩主に謁見(えっけん)の資格を許すとの書付を贈られていたくらいだ。そんな縁故から、吉左衛門は隠居の身ながら麻 ![]() ![]() |
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三 | |
「あなた、羽織の襟(えり)が折れていませんよ。こんな日には、髪結いでも呼んで、さっぱりとなすったら」。「まあいい」。「さっき、三浦屋の使いが来て、江戸のじょうるり語りが家内六人連(づ)れで泊まっていますから、本陣の旦那にもお出かけくださいッて、そう言って行きましたよ。旅の芸人のようじゃない、まあきいてごらんなさればわかる、今夜は太平記(たいへいき)ですなんて、そんなことをしきりと言っていましたよ」。「まあ、おれはいい」。「きょうはどうなすったか」。「どうも心が動いてしかたがない。囲炉裏ばたへ来て、今すわって見たところだ」。半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。 尾州藩主を見送ってから九日も降り続いた雨がまだあがらなかった。藩主が通行前に植え付けの済んだ村の青田の方では蛙(かわず)の声を聞くころだ。天保二年の五月に生まれて、生みの母の覚えもない半蔵には、ことさら五月雨(さみだれ)のふるころの季節の感じが深い。「お民、おれのお母(っか)さんが亡くなってから、三十三年になるよ」と彼は妻に言って見せた。さびしい雨の音をきいていると、過去の青年時代を繞(めぐ)りに繞ったような名のつけようのない憂鬱(ゆううつ)がまた彼に帰って来る。お民はすこし青ざめている夫の顔をながめながら言った。「あなたはため息ばかりついてるじゃありませんか」。「どうしておれはこういう家に生まれて来たかと考えるからさ」。 お民が奥の部屋の方へ子供を見に行ったあとでも、半蔵は囲炉裏ばたを離れなかった。彼はひとり周囲を見回した。遠い先祖から伝えられた家業を手がけて見ると、父吉左衛門にしても、祖父半六にしても、よくこのわずらわしい仕事を処理して来たと彼には思わるるほどだ。本陣とは何をしなければならないところか。これは屋敷の構造が何よりもよくその本来の成り立ちを語っている。公用兼軍用の旅舎と言ってしまえばそれまでだが、ここには諸大名の乗り物をかつぎ入れる広い玄関がなければならない。長い鎗(やり)を掛けるところがなければならない。馬をつなぐ厩(うまや)がなければならない。消防用の水桶(みずおけ)、夜間警備の高張の用意がなければならない。いざと言えば裏口へ抜けられる厳重な後方の設備もなければならない。 本陣という言葉が示しているように、これは古い陣屋の意匠である。二百何十年の泰平の夢は、多くの武家を変え、その周囲を変えたけれども、しかしそれらの人たちを待つ設備と形式とは昔のままこうした屋敷に残っている。食器から寝道具までを携帯する大名の旅は、おそらく戦時を忘れまいとする往昔(むかし)の武人が行軍の習慣の保存されたもので、それらの一行がこの宿場に到着するごとに、本陣の玄関のところには必ず陣中のような幕が張り回される。大名以外には、公卿、公役、それに武士のみがここへ来て宿泊し、休息することを許されているのだ。こんな人たちのために屋敷を用意し、部屋部屋を貸し与えるのが本陣としての青山の家業で、それには相応な心づかいがいる。 前もって宿割(しゅくわり)の役人を迎え、御宿札(おやどふだ)というもののほかに関所を通過する送り荷の御鑑札を渡され、畳表を新しくするとか障子を張り替えるとか、時には壁を塗り替えるとかして、権威ある人々を待たねばならない。屏風何双(そう)、手燭(てしょく)何挺(ちょう)、燭台何挺、火鉢何個、煙草盆何個、草履何足、幕何張、それに供の衆何十人前の膳飯(ぜんぱん)の用意をも忘れてはならない。どうして、旅人を親切にもてなす心なしに、これが勤まる家業ではないのだ。 そんなら、問屋は何をしなければならないところか。半蔵の家に付属する問屋場なぞは、明らかに本陣と同じ意匠のもとにあるもので、主として武家に必要な米穀、食糧、武器、その他の輸送のために開始された場処であることがわかる。これはまた時代が変遷して来ても、街道を通過する公用の荷物、諸藩の送り荷などを継ぎ送るだけにも、かなりの注意を払わねばならない。諸大名諸公役が通行のおりの荷物の継立ては言うまでもなく、宿人馬、助郷人馬、何宿の戻り馬、在馬(ざいうま)の稼(かせ)ぎ馬などの数から、商人荷物の馬の数まで、日々の問屋場帳簿に記入しなければならない。のみならず、毎年あるいは二、三年ごとに、人馬徴発の総高を計算して、それを人馬立辻(じんばたてつじ)ととなえて、道中奉行の検閲を経なければならない。 諸街道にある他の問屋のことは知らず、同じ馬籠の九太夫の家もさておき、半蔵の家のように父祖伝来の勤めとしてこの仕事に携わるとなると、これがまた公共の心なしに勤まる家業でもないのだ。見て来ると、地方自治の一単位として村方の世話をする役を除いたら、それ以外の彼の勤めというものは、主として武家の奉公である。一庄屋としてこの政治に安んじられないものがあればこそ、民間の隠れたところにあっても、せめて勤王の味方に立とうと志している彼だ。周囲を見回すごとに、他の本陣問屋に伍して行くことすら彼には心苦しく思われて来た。 奥の部屋の方からは、漢籍でも読むらしい勝重の声が聞こえて来ていた。ときどき子供らの笑い声も起こった。「どうもよく降ります」。会所の小使いが雨傘(あまがさ)をつぼめてはいって来た。その声に半蔵は沈思を破られて、小使いの用事を聞きに立って行った。近く大坂御番衆の通行があるので、この宿場でも人馬の備えを心がけて置く必要があった。宿役人一同の寄り合いのことで小使いはその打ち合わせに来たのだ。 街道には、毛付け(木曾福島に立つ馬市)から帰って来る百姓、木曾駒をひき連れた博労(ばくろう)なぞが笠と合羽で、本陣の門前を通り過ぎつつある。半蔵はこの長雨にぬれて来た仙台の家中を最近に自分の家に泊めて見て、本陣としても問屋としても絶えず心を配っていなければならない京大坂と江戸の関係を考えて見ていた時だ。その月の十二日とかに江戸をたって来たという仙台の家中は、すこしばかりの茶と焼酎(しょうちゅう)を半蔵の家から差し出した旅の親しみよりか、雨中のつれづれに将軍留守中の江戸話を置いて行った。当時外交主任として知られた老中格の小笠原図書頭は近く千五、六百人の兵をひき連れ、大坂上陸の目的で横浜を出帆するとの風評がもっぱら江戸で行なわれていたという。これはいずれ生麦償金授与の事情を朝廷に弁疏(べんそ)するためであろうという。この仙台の家中の話で、半蔵は将軍還御(かんぎょ)の日ももはやそんなに遠くないことを感知した。近く彼が待ち受けている大坂御番衆の江戸行きとても、いずれこの時局に無関係な旅ではなかろうと想像された。同時に、京都引き揚げの関東方の混雑が、なんらかの形で、この街道にまであらわれて来ることをも想像せずにはいられなかった。 その時になって見ると、重大な任務を帯びて西へと上って行った尾州藩主のその後の消息は明らかでない。あの一行が中津川泊まりで馬籠を通過して行ってから、九日にもなる。予定の日取りにすれば、ちょうど京都にはいっていていいころである。藩主が名古屋に無事到着したまでのことはわかっていたが、それから先になると飛脚の持って来る話もごくあいまいで、今度の上京は見合わせになるかもしれないような消息しか伝わって来なかった。生麦償金はすでに払われたというにもかかわらず、宣戦の布告にもひとしいその月十日の攘夷期限が撤回されたわけでも延期されたわけでもない。こういう中で、将軍を京都から救い出すために一大示威運動を起こすらしい攘夷反対の小笠原図書頭のような人がある。漠然とした名古屋からの便りは半蔵をも、この街道で彼と共に働いている年寄役伊之助をも不安にした。 |
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四 | |
もはや、西の下の関の方では、攘夷を意味するアメリカ商船の砲撃が長州藩によって開始されたとのうわさも伝わって[「伝わって」は底本では「伝わつて」]来るようになった。 小倉藩より御届け口上覚(こうじょうおぼえ)え 「当月十日、異国船一艘、上筋(かみすじ)より乗り下し、豊前国(ぶぜんの国)田野浦部崎(へさき)の方に寄り沖合いへ碇泊いたし候。こなたより船差し出(いだ)し相尋ね候ところアメリカ船にて、江戸表より長崎へ通船のところ天気悪しきため、碇泊いたし、明朝出帆のつもりに候おもむき申し聞け候間、番船付け置き候。しかるところ、夜に入り四つ時ごろ、長州様軍艦乗り下り、右碇泊いたし候アメリカ船へ向け大砲二、三発、ならびにかなたの陸地よりも四、五発ほど打ち出し候様子のところ、異船よりも二、三発ほど発砲いたし、ほどなく出船、上筋へ向かい飄(ただよ)い行き候。もっとも夜中(やちゅう)の儀につき、しかと様子相わからず候段、在所表(おもて)より申し越し候間、この段御届け申し上げ候。以上」。 小笠原左京大夫内 関重郎兵衛 これは京都に届いたものとして、香蔵からわざわざその写しを半蔵のもとに送って来たのであった。別に、次ぎのような来状の写しも同封してある。 五月十一日付 下の関より来状の写し 「昨十日異国船一艘、ここもと田野浦沖へ碇泊。にわかに大騒動。市中荷物を片づけ、年寄り、子供、遊女ども、在郷へ逃げ行き、若者は御役申し付けられ、浪人武士数十人異船へ乗り込みいよいよ打ち払いの由に相成り候。同夜、子(ね)の刻ごろより、石火矢(いしびや)数百挺(ちょう)打ち放し候ところ、異船よりも数十挺打ち放し候えども地方(じかた)へは届き申さず。もっとも、右異船は下り船に御座候ところ、当瀬戸の通路つかまつり得ず、またまた跡へ戻り、登り船つかまつり候。当方武士数十人、鎧兜(よろいかぶと)、抜き身の鎗、陣羽織を着し、騎馬数百人も出、市中は残らず軒前(のきさき)に燈火(あかり)をともし、まことにまことに大騒動にこれあり候。しかるところ、長州様蒸気船二艘まいり、石火矢打ち掛け、逃げ行く異船を追いかけ二発の玉は当たり候由に御座候。その後、異船いずれへ逃げ行き候や行くえ相わかり申さず。ようやく今朝一同引き取りに相成り鎮(しず)まり申し候。しかし他の異国船五、六艘も登り候うわさもこれあり、今後瀬戸通路つかまつり候えば皆々打ち払いに相成る様子、委細は後便にて申し上ぐべく候。以上」とある。 |
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長州藩の異国船の砲撃 | 関東の方針も無視したような長州藩の大胆な行動は、攘夷を意味するばかりでなく、同時に討幕を意味する。下の関よりとした来状の写しにもあるように、この異国船の砲撃には浪人も加わっていた。半蔵はこの報知(しらせ)を自分で読み、隣家の伊之助のところへも持って行って読ませた。多くの人にとって、異国は未知数であった。時局は容易ならぬ形勢に推し移って行きそうに見えて来た。 そこへ大坂御番衆の通行だ。五月も末のことであったが、半蔵は朝飯をすますとすぐ庄屋らしい平袴(ひらばかま)を着けて、問屋場の方へ行って見た。前の晩から泊まりがけで働きに来ている百人ばかりの伊那の助郷が二組に分かれ、一組は問屋九郎兵衛の家の前に、一組は半蔵が家の門の外に詰めかけていた。「上清内路(かみせいないじ)村。下(しも)清内路村」と呼ぶ声が起こった。村の名を呼ばれた人足たちは問屋場の前に出て行った。そこには栄吉が助郷村々の人名簿をひろげて、それに照らし合わせては一人一人百姓の名を呼んでいた。 「お前は清内路か。ここには座光寺[ルビの「ざこうじ」は底本では「さこうじ」]のものはいないかい」と半蔵が尋ねると、「旦那、わたしは座光寺です」と、そこに集まる百姓の中に答えるものがあった。清内路とは半蔵が同門の先輩原信好(のぶよし)の住む地であり、座光寺とは平田大人(うし)の遺書『古史伝』三十二巻の上木(じょうぼく)に主となって尽力している先輩北原稲雄の住む村である。お触れ当てに応じてこの宿場まで役を勤めに来る百姓のあることを伊那の先輩たちが知らないはずもなかった。それだけでも半蔵はこの助郷人足たちにある親しみを覚えた。「みんな気の毒だが、きょうは須原まで通しで勤めてもらうぜ」。 半蔵の家の問屋場ではこの調子だ。いったいなら半蔵の家は月の下半期の非番に当たっていたが、特にこういう日には問屋場を開いて、九郎兵衛方を応援する必要があったからで。大坂御番衆の通行は三日も続いた。三日目あたりには、いかな宿場でも人馬の備えが尽きる。やむなく宿内から人別(にんべつ)によって狩り集め、女馬まで残らず狩り集めても、継立てに応じなければならない。各継ぎ場を合わせて助郷六百人を用意せよというような公儀御書院番の一行がそのあとに二日も続いた。助郷は出て来る日があり、来ない日がある。こうなると、人馬を雇い入れるためには夥(おびただしい)しい金子(きんす)も要(い)った。そのたびに半蔵は六月近い強雨の来る中でも隣家の伏見屋へ走って行って言った。「伊之助さん、君の方で二日ばかりの分を立て替えてください。四十五両ばかりの雇い賃を払わなけりゃならない」。 半蔵も、伊之助も熱い汗を流しつづけた。公儀御書院番を送ったあとには、大坂御番頭(ごばんがしら)の松平兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)と肥前平戸の藩主とを同日に迎えた。この宿場では、定助郷設置の嘆願のために蓬莱屋新七を江戸に送ったばかりで、参覲交代制度の変革以来に起こって来た街道の混雑を整理する暇(いとま)もなかったくらいである。十挺の鉄砲を行列の先に立て、四挺の剣付き鉄砲で前後を護られた大坂御番頭の一行が本陣の前で駕籠を休めて行くと聞いた時は、半蔵は大急ぎで会所から自分の部屋に帰った。 麻 ![]() ![]() 六月の十日が来て、京都引き揚げの関東方を迎えるころには、この街道は一層混雑した。将軍家茂はすでに、生麦償金授与の情実を聞き糺(ただ)して攘夷の功を奏すべきよしの御沙汰を拝し、お暇乞(いとまご)いの参内(さんだい)をも済まし、大坂から軍艦で江戸に向かったとうわさせらるるころだ。たださえ宿方(しゅくがた)では大根蒔(だいこんまき)きがおそくなると言って一同目を回しているところへ、十頭ばかりの将軍の御召馬(おめしうま)が役人の付き添いで馬籠に着いた。この御召馬には一頭につき三人ずつの口取り別当が付いて来た。「半蔵さん」と言って伊之助が半蔵の袖(そで)を引いたのは、ばらばら雨の来る暮れ合いのころであった。この宿でも一両二分の金をねだられた上で、御召馬の通行を見送ったあとであった。 「およそやかましいと言っても、こんなやかましい御通行にぶつかったのは初めてです」。そう半蔵が言って見せると、伊之助は声を潜めて、「半蔵さん、脇本陣の桝田屋へ来て休んで行った別当はなんと言ったと思います。御召馬とはなんだ。そういうことを言うんですよ。桝田屋の小左衛門さんもそれには震えてしまって、公方様(くぼうさま)の御召馬で悪ければ、そんならなんと申し上げればよいのですかと伺いを立てたそうです。その時の別当の言い草がいい――御召御馬(おめしおうま)と言え、それからこの御召御馬は焼酎を一升飲むから、そう心得ろですとさ」。 半蔵と伊之助とは互いに顔を見合わせた。「半蔵さん、それだけで済むならまだいい。どうしてあの別当は機嫌を悪くしていて、小左衛門さんの方で返事をぐずぐずしたら、いきなりその御召御馬を土足のまま桝田屋の床の間に引き揚げたそうですよ。えらい話じゃありませんか。実に、踏んだり蹴ったりです」。「京都の敵(かたき)をこの宿場へ来て打たれちゃ、たまりませんね」と言って半蔵は嘆息した。 京都から引き揚げる将軍家用の長持が五十棹(さお)も木曾街道を下って来るころは、この宿場では一層荷送りの困難におちいった。六月十日に着いた将軍の御召馬は、言わば西から続々殺到して来る関東方の先触れに過ぎなかった。半蔵は栄吉と相談し、年寄役とも相談の上で、おりから江戸屋敷へ帰東の途にある仙台の家老(片倉小十郎)が荷物なぞは一時留め置くことに願い、三棹の長持と五駄の馬荷とを宿方に預かった。 隠退後の吉左衛門が沈黙に引き換え、伊之助の養父金兵衛は上の伏見屋の隠宅にばかり引き込んでいなかった。持って生まれた世話好きな性分から、金兵衛はこの混雑を見ていられないというふうで、肩をゆすりながら上の伏見屋から出て来た。「どうも若い者は覚えが悪い」と金兵衛は会所の前まで杖をひいて来て、半蔵や伊之助をつかまえて言った。「福島のお役所というものもある。お役人衆の出張を願った例は、これまでにだっていくらもあることですよ。こういう時のお役所じゃありませんかね」。「金兵衛さん、その事なら笹屋の庄助さんが出かけましたよ。あの人は作食米(さくじきまい)の拝借の用を兼ねて、福島の方へ立って行きましたよ」。半蔵の挨拶だ。百姓総代ともいうべき組頭庄助と、年寄役伊之助とは、こういう時に半蔵が力と頼む人たちだったのだ。 やがてこの宿場では福島からの役人とその下役衆の出張を見た。野尻、三留野(みどの)の宿役人までが付き添いで、関東御通行中の人馬備えにということであった。なにしろおびただしい混み合いで、伊那の助郷もそうそうは応援に出て来ない。継立ての行き届かないことは馬籠ばかりではなかった。美濃の大井宿、中津川宿とても同様で、やむなく福島から出張して来た役人には一時の止宿を願うよりほかに半蔵としてはよい方法も見当たらなかったくらいだ。 ところが、この峠の上の小駅は家ごとに御用宿で、役人を休息させる場処もなかった。その一夜の泊まりは金兵衛の隠宅で引き受けた。「お師匠さま」と言って勝重が半蔵のところへ飛んで来たのは、将軍家用の長持を送ってから六日もの荷造りの困難が続いたあとだった。福島の役人衆もずっと逗留(とうりゅう)していて、在郷の村々へ手分けをしては催促に出かけたが、伊那の人足は容易に動かなかった。江戸行きの家中が荷物という荷物は付き添いの人たち共にこの宿場に逗留していた時だ。ようやくその中の三分の一だけ継立てができたと知って、半蔵も息をついていた時だ。 「勝重さんは復習でもしていますか。これじゃ本も読めないね。しばらくわたしも見てあげられなかった。こんな日も君、そう長くは続きますまい」。「いえ、そこどこじゃありません。なんにもわたしはお手伝いができずにいるんです。そう言えば、お師匠さま――わたしは今、問屋場の前でおもしろいものを見て来ましたよ。いくら荷物を出せと言われても、出せない荷物は出せません、そう言って栄吉さんが旅の御衆に断わったと思ってごらんなさい。その人が袖を出して、しきりに何か催促するじゃありませんか。栄吉さんもしかたなしに、天保銭を一枚その袂(たもと)の中に入れてやりましたよ」。 勝重はおとなの醜い世界をのぞいて見たというふうに、自分の方ですこし顔をあからめて、それからさらに言葉をついで見せた。「どうでしょう、その人は栄吉さんだけじゃ済ましませんよ。九郎兵衛さんのところへも押し掛けて行きました。あそこでもしかたがないから、また天保銭を一枚その袂の中へ入れてやりました。『よし、よし、これで勘弁してやる、』――そうあの旅の御衆が大威張りで言うじゃありませんか。これにはわたしも驚きましたよ」。 |
当時の街道に脅迫と強請の行なわれて来たことについては実にいろいろな話がある。「実懇(じっこん)」という言葉なぞもそこから生まれてきた。この実懇になろうとは、心やすくなろうとの意味であって、その言葉を武士の客からかけられた旅館の亭主は、必ず御肴代(おさかなだい)の青銅とか御祝儀の献上金とかをねだられるのが常であった。町人百姓はまだしも、街道の人足ですら駕籠をかついで行く途中で武士風の客から「実懇になろうか」とでも言葉をかけられた時は、必ず一分(ぶ)とか、一分二百とかの金をねだられることを覚悟せねばならなかった。貧しい武家衆や公卿衆の質(たち)の悪いものになると、江戸と京都の間を一往復して、すくなくも千両ぐらいの金を強請し、それによって二、三年は寝食いができると言われるような世の中になって来た。どうして問屋場のものを脅迫する武家衆が天保銭一枚ずつの話なぞは、この街道ではめずらしいことではなくなった。 この脅迫と強請とがある。一方に賄賂の公然と行なわれていたのにも不思議はなかった。従来問屋場を通過する荷物の貫目にもお定めがあって、本馬(ほんま)一駄二十貫目、軽尻(からじり)五貫目、駄荷(だに)四十貫目、人足一人持ち五貫目と規定され、ただし銭差(ぜにさし)、合羽、提灯、笠袋、下駄袋の類は本馬一駄乗りにかぎり貫目外の小付(こづけ)とすることを許されていた。 この貫目を盗む不正を取り締まるために、板橋、追分(おいわけ)、洗馬(せば)の三宿に設けられたのがいわゆる御貫目改め所であって、幕府の役人がそこに出張することもあり、問屋場のものの立ち合って改めたこともあった。そこは賄賂の力である程度までの出世もでき、御家人の株を譲り受けることもできたほどの時だ。規定の貫目を越えた諸藩の荷物でもずんずん御貫目改め所を通過して、この馬籠の問屋場にまで送られて来た。 将軍家御召替(おめしか)えの乗り物、輿(こし)、それに多数の鉄砲、長持を最後にして、連日の大混雑がようやく沈まったのは六月二十九日を迎えるころであった。京都引き揚げの葵(あおい)の紋のついた輿は四十人ずつの人足に護られて行った。毎日のように美濃筋から入り込んで来た武家衆の泊まり客、この村の万福寺にまであふれた与力、同心衆の同勢なぞもそれぞれ江戸方面へ向けて立って行った。将軍の還御を語る通行も終わりを告げた。その時になると、わずか十日ばかりの予定で入洛(じゅらく)した関東方が、いかに京都の空気の中でもまれにもまれて来たかがわかる。大津の宿から五十四里の余も離れ、天気のよい日には遠くかすかに近江の伊吹山の望まれる馬籠峠の上までやって来て、いかにあの関東方がホッと息をついて行ったかがわかる。嫡子(ちゃくし)を連れた仙台の家老はその日まで旅をためらっていて、宿方で荷物を預かった礼を述べ、京都の方の大長噺(おおながばなし)を半蔵や伊之助のところへ置いて行った。 七月にはいっても、まだ半蔵は連日の激しい疲労から抜け切ることができなかった。そろそろ茶摘みの始まる季節に二日ばかりも続いて来た夏らしい雨は、一層人を疲れさせた。彼が自分の家の囲炉裏ばたに行って見た時は、そこに集まる栄吉、清助、勝重から、下男の佐吉までがくたぶれたような顔をしている。近くに住む馬方の家の婆さんも来て話し込んでいる。この宿場で八つ当たりに当たり散らして行った将軍御召馬(おめしうま)のうわさはその時になってもまだ尽きなかった。「あの御召馬が焼酎を一升も飲むというにはおれもたまげた」。「御召馬なぞというと怒られるぞ。御召御馬だぞ」。「いずれ口取りの別当が自分に飲ませろということずらに」。「嫌味な話ばかりよなし。この節、街道にろくなことはない。わけのわからないお武家様と来たら、ほんとにしかたあらすか。すぐ刀に手を掛けて、威(おど)すで」。「あゝあゝ、今度という今度はおれもつくづくそう思った。いくら名君が上にあっても、御召馬を預かる役人や別当からしてあのやり方じゃ、下のものが服さないよ。お気の毒と言えばお気の毒だが、人民の信用を失うばかりじゃないか」。「徳川の代も末になりましたね」。 だれが語るともなく、だれが答えるともない話で、囲炉裏ばたには囲炉裏ばたらしい。中には雨に疲れて横になるものがある。足を投げ出すものがある。半蔵が男の子の宗太や正己(まさみ)はおもしろがって、その間を泳いで歩いた。「半蔵さん、すこしお話がある。一つ片づいて、やれうれしやと思ったら、また一つ宿場の問題が起こって来ました」と言って隣家から訪ねて来る伊之助を寛ぎの間に迎えて見ると、東山道通行は助郷人足不参のため、当分その整理がつくまで大坂御番頭の方に断わりを出そうということであった。「なんでも木曾十一宿の総代として、須原からだれか行くそうです。大坂まで出張するそうです」。「それじゃ、伊之助さん、馬籠からも人をやりましょう」。半蔵は栄吉や清助をそこへ呼んで、四人でその人選に額(ひたい)を鳩(あつ)めた。 参覲交代制度変革以来の助郷の整理は、いよいよこの宿場に働くものにとって急務のように見えて来た。過ぐる六月の十七日から二十八日にわたる荷送りを経験して見て、伊那方面の人足の不参が実際にその困難を証拠立てた。多年の江戸の屋敷住居(ずまい)から解放された諸大名が家族もすでに国に帰り、東照宮の覇業も内部から崩れかけて来たかに見えることは、ただそれだけの幕府の衰えというにとどまらなかった。その意味から言っても、半蔵は蓬莱屋新七が江戸出府の結果を待ち望んだ。「そうだ。諸大名が朝参するばかりじゃない、将軍家ですら朝参するような機運に向かって来たのだ。こんな時世に、武家中心の参覲交代のような儀式をいつまで保存できるものか知らないが、しかし街道の整理はそれとは別問題だ」と彼は考えた。 旧暦七月半ばの暑いさかりに、半蔵は伊奈助郷のことやら自分の村方の用事やらで、木曾福島の役所まで出張した。ちょうどその時福島から帰村の途中に、半蔵は西から来る飛脚のうわさを聞いた。屈辱の外交とまで言われて支払い済みとなった生麦償金十万ポンドのほかに、被害者の親戚および負傷者の慰藉料(いしゃりょう)としてイギリスから請求のあった二万五千ポンドはそのままに残っていて、あの問題はどうなったろうとは、かねて多くの人の心にかかっていた。はたして、イギリスは薩州侯と直接に交渉しようとするほどの強硬な態度に出て、薩摩方ではその請求を拒絶したという。西からの飛脚が持って来たうわさはその談判の破裂した結果であった。九隻からのイギリス艦隊は薩摩の港に迫ったという。海と陸とでの激しい戦いはすでに戦われたともいうことであった。 |
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五 | |
「青山君――その後の当地の様子は鱗形屋(うろこがたや)の聞書(ききがき)その他の飛脚便によっても御承知のことと思う。大和国へ行幸を仰せ出されたのは去る八月十三日のことであった。これは攘夷御祈願のため、神武帝御山陵ならびに春日社へ御参拝のためで、しばらく御逗留(ごとうりゅう)、御親征の軍議もあらせられた上で、さらに伊勢神宮へ行幸のことに承った。この大和行幸の洛中へ触れ出されたのを自分が知ったのは、柳馬場(やなぎのばば)丸太町下(さが)ル所よりの来状を手にした時であった。これは実にわずか七日前のことに当たる。 ――一昨日、十七日の夜の丑(うし)の刻のころ、自分は五、六発の砲声を枕の上で聞いた。寄せ太鼓の音をも聞いた。それが東の方から聞こえて来た。あわやと思って自分は起き出し、まず窓から見ると、会津家参内(さんだい)の様子である。そのうち自分は町の空に出て見て、火事装束(しょうぞく)の着込みに蓑笠(みのかさ)まで用意した一隊が自分の眼前を通り過ぐるのを目撃した。 ――しばらく、自分には何の事ともわからなかった。もっとも御祭礼の神燈を明けの七つごろから出した町の有志があって、それにつれて総町内のものが皆起き出し、神燈を家ごとにささげなどするうち、夜も明けた。昨日になって見ると、九門はすでに堅く閉ざされ、長州藩は境町御門の警固を止められ、議奏、伝奏、御親征掛(がか)り、国事掛りの公卿の参内もさし止められた。十七日の夜に参内を急いだのは、中川宮(青蓮院しょうれいいん)、近衛(このえ)殿、二条殿、および京都守護職松平容保(かたもり)のほかに、会津と薩州の重立った人たちとわかった。在京する諸大名、および水戸、肥後、加賀、仙台などの家老がいずれもお召に応じ、陣装束で参内した混雑は筆紙に尽くしがたい。九門の前通りは皆往来止めになったくらいだ。 ――京都の町々は今、会津薩州二藩の兵によってほとんど戒厳令の下にある。謹慎を命ぜられた三条、西三条、東久世(ひがしくぜ)、壬生(みぶ)、四条、錦小路(にしきこうじ)、沢の七卿はすでに難を方広寺に避け、明日は七百余人の長州兵と共に山口方面へ向けて退却するとのうわさがある」。こういう意味の手紙が京都にある香蔵から半蔵のところに届いた。 支配階級の争奪戦と大ざっぱに言ってしまえばそれまでだが、王室回復の志を抱く公卿たちとその勢力を支持する長州藩とがこんなに京都から退却を余儀なくされ、尊王攘夷を旗じるしとする真木和泉守(まきいずみのかみ)らの討幕運動にも一頓挫(とんざ)を来たしたについて、種々(さまざま)な事情がある。多くの公卿たちの中でも聡敏(そうびん)の資性をもって知られた伝奏姉小路少将(公知きんとも)が攘夷のにわかに行なわれがたいのを思って密奏したとの疑いから、攘夷派の人たちから変節者として目ざされ、朔平門(さくへいもん)の外で殺害された事変は、ことに幕府方を狼狽せしめた。 石清水(いわしみず)行幸のおりにすでにそのうわさのあった前侍従中山忠光を中心とする一派の志士が、今度の大和行幸を機会に鳳輦(ほうれん)を途中に擁し奉るというような風説さえ伝えられた。しかもこの風説は、大和地方における五条の代官鈴木源内らを攘夷の血祭りとした事実となってあらわれたのである。 かねて公武合体の成功を断念し、政事総裁の職まで辞した越前藩主はこの形勢を黙ってみてはいなかった。同じ公武合体の熱心な主唱者の一人で、しばらく沈黙を守っていた人に薩摩の島津久光もある。この人も本国の方でのイギリス艦隊との激戦に面目をほどこし、たとい敵の退却が風雨のためであるとしても勝敗はまず五分五分で、薩摩方でも船を沈められ砲台を破壊され海岸の町を焼かれるなどのことはあったにしても、すくなくもこの島国に住むものがそうたやすく征服される民族でないことをヨーロッパ人に感知せしめ、同時に他藩のなし得ないことをなしたという自信を得た矢先で、松平春嶽(しゅんがく)らと共に再起の時機をとらえた。 討幕派の勢力は京都から退いて、公武合体派がそれにかわった。大和行幸の議はくつがえされて、いまだ攘夷親征の機会でないとの勅諚(ちょくじょう)がそれにかわった。激しい焦躁はひとまず政事の舞台から退いて、協調と忍耐とが入れかわりに進んだのである。しかし、この京都の形勢を全く凪(なぎ)と見ることは早計であった。九月にはいって、西からの使者が木曾街道を急いで来た。「また早飛脚ですぞ」。清助も、栄吉もしかけた仕事を置いて、何事かと表に出て見た。早飛脚の荒い掛け声は宿場に住むものの耳についてしまった。 |
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天誅組騒動 | とうとう、新しい時代の来るのを待ち切れないような第一の烽火(のろし)が大和地方に揚がった。これは千余人から成る天誅組(てんちゅうぐみ)の一揆という形であらわれて来た。紀州、津、郡山、彦根の四藩の力でもこれをしずめるには半月以上もかかった。しかし闇の空を貫く光のように高くひらめいて、やがて消えて行ったこの出来事は、名状しがたい暗示を多くの人の心に残した。従来、討幕を意味する運動が種々行なわれないでもないが、それは多く示威の形であらわれたので、かくばかり公然と幕府に反旗を翻したものではなかったからである。 遠く離れた馬籠峠の上あたりへこのうわさが伝わるまでには、美濃苗木(なえぎ)藩の家中が大坂から早追(はやおい)で急いで来てそれを京都に伝え、商用で京都にあった中津川の万屋安兵衛はまたそれを聞書にして伏見屋の伊之助のところへ送ってよこした。 この一揆は「禁裏百姓」と号し、前侍従中山忠光を大将に仰ぎ、日輪に雲を配した赤地の旗を押し立て、別に一番から百番までの旗を用意して、初めは千余人の人数であったが、追い追いと同勢を増し、長州、肥後、有馬の加勢もあったということである。公儀の陣屋はつぶされ、大和河内は大騒動で、やがて紀州へ向かうような話もあり、大坂へ向かうやも知れないとまで一時はうわさされたほどである。ともかくも、この討幕運動は失敗に終わった。天(てん)の川というところでの大敗、藤本鉄石の戦死、それにつづいて天誅組の残党が四方への離散となった。 九月の二十七日には、木曾谷中宿村の役人が福島山村氏の屋敷へ呼び出された。その屋敷の御鎗下(おやりした)で、年寄と用達(ようたし)と用人(ようにん)との三役も立ち合いのところで、山村氏から書付を渡され、それを書記から読み聞かせられたというものを持って、伏見屋伊之助と問屋九郎兵衛の二人が福島から引き取って来た。 宿村へ仰せ渡され候書付
「方今の御時勢、追い追い伝聞いたしおり申すべく候(そうら)えども、上方辺(かみがたへん)の騒動容易ならざる事にこれあり、右残党諸所へ散乱いたし候につき、御関所においてもその取り締まり方、御老中より御話し相成りし次第に候。なおまた、中山大納言殿御嫡子(忠光)の由に申し立て、浪人数十人召し連れ、御陣屋向きに乱暴いたし候ものこれあり、御取り締まり方、国々へ仰せ出されよとのお触れもこれあり候。加うるに、薩州長州においては夷船(えびすぶね)打ち払い等これあり、公辺においてもいよいよ攘夷御決定との趣にも相聞こえ、内乱外寇何時(なんどき)相発し候儀も計りがたき時節に候。木曾の儀、辺土とは申しながら街道筋にこれあり候えば、もはや片時も油断相成りがたく、宿村役人においてもかかる容易ならざる御時勢をとくと弁別いたされ、申すにも及ばざる儀ながら木曾谷庄屋問屋年寄などは多く旧家筋の者にこれあり候につき、万一の節はひとかどの御奉公相勤め候心得にこれあるべく候。なお、右のほか、帯刀御免の者、ならびに旧家の者などへもよくよく申し諭(さと)し、随分武芸心がけさせ候よういたすべく候……」 半蔵はこの書付を伊之助から受け取って見て、公辺からの宿村の監視がいよいよ厳重になって行くことを知った。同時に、諸所へ散乱したという禁裏百姓の残党の中には、必ず平田門下の人もあるべきことをほとんど直覚的に感知した。 当時、平田篤胤没後の門人は諸国を通じて千人近くに達するほどの勢いで、その中には古学の研究と宣伝のみに満足せず、自ら進んで討幕運動の渦中に身を投ずるものも少なくなかった。さきには三条河原示威の事件で、昼夜兼行で京都から難をのがれて来た暮田正香(くれたまさか)のような例もある。 今また何かの姿に身をやつして、伊那の谷のことを聞き伝え、遠く大和地方から落ちて来る人のないとは半蔵にも言えなかった。「待てよ、いずれこの事件には平田門人の中で関係した人がある。やった事が間違っているか、どうか、それはわからないが、生命(いのち)をかけても勤王のお味方に立とうとして、ああして滅びて行ったことを思うと、あわれは深い」。そこまで考え続けて行くと、彼はこのことをだれにも隠そうとした。彼の周囲にいて本居(もとおり)平田の古学に理解ある人々にすら、この大和五条の乱は福島の旦那様のいわゆる「浪人の乱暴」としか見なされなかったからで。 木曾谷支配の山村氏が宿村に与えた注意は、単に時勢を弁別せよというにとどまらなかった。何方(いずかた)に一戦が始まるとしても近ごろは穀留(こくど)めになる憂いがある。中には一か年食い継ぐほどの貯(たくわ)えのある村もあろうが、上松(あげまつ)から上の宿々では飢餓しなければならない。それには各宿各村とも囲い米(かこいまい)の用意をして非常の時に備えよと触れ回った。十六歳から六十歳までの人別名前を認(したため)め、病人不具者はその旨を記入し、大工、杣(そま)、木挽(こびき)等の職業までも記入して至急福島へ差し出せと触れ回した。村々の鉄砲の数から、猟師筒(りょうしづつ)の玉の目方まで届け出よと言われるほど、取り締まりは実に細かく、やかましくなって来た。 |
六 | |
江戸の方の道中奉行所でも木曾十一宿から四、五人の総代まで送った定助郷設置の嘆願をそう軽くはみなかった。その証拠には、馬籠からもそのために出て行った蓬莱屋新七などを江戸にとどめて置いて、各宿人馬継立ての模様を調査する公役(道中奉行所の役人)が奥筋の方面から木曾路を巡回して来た。もはや秋雨が幾たびとなく通り過ぎるようになった。妻籠の庄屋寿平次、年寄役得右衛門の二人は江戸からの公役に付き添いで馬籠までやって来た。ちょうど伊之助は木曾福島出張中であったので、半蔵と九郎兵衛とがこの一行を迎えて、やがて妻籠の寿平次らと一緒に美濃の方面にあたる隣宿落合まで公役を見送った。 「半蔵さん」と声をかけながら、寿平次は落合から馬籠への街道を一緒に踏んだ。前には得右衛門と九郎兵衛、後ろには供の佐吉が続いた。公役見送りの帰りとあって、妻籠と馬籠の宿役人はいずれも袴に雪駄ばきの軽い姿になった。半蔵の脱いだ肩衣(かたぎぬ)は風呂敷包みにして佐吉の背中にあった。「そう言えば、半蔵さんのお友だちは二人ともまだ京都ですか」。「そうですよ」。「よくあれで留守が続くと思う」。「さあ、わたしもそれは心配しているんですよ」。「騒がしい世の中になって来た。こんな時世でももうける人はもうける」。寿平次が半蔵と並んで話し話し歩いて行くうちに、石屋の坂の下あたりで得右衛門たちに追いついた。「九郎兵衛さん、君はくわしい」と寿平次は連れの方を見て言った。「飛騨の商人がはいり込んで来て、うんと四文銭を買い占めて行ったというじゃありませんか」。 「その話ですか。今の銭相場は一両で六貫四百文するところを、一両について四貫四百文替えに相談がまとまったとか言いましてね、金兵衛さんのところなぞじゃ四文銭を六把(ぱ)も売ったと聞きました」。九太夫は大きなからだをゆすりゆすり答える。その時、得右衛門は妻籠からずっと同行して来た連れの肩をたたいて言った。「寿平次さん、四文銭を六把で、いくらだと思います。二十七両の余ですよ」。「いえ、今ね、こんな時世でももうける人はもうけるなんて、半蔵さんと話して来たところでさ」。「違う。こんな時世だからもうけられるんでさ」。みんな笑って、馬籠の下町の入り口にあたる石屋の坂を登った。 半蔵には、妻籠の客を二人とも自分の家に誘って、今後の街道や宿場のことについて語り合いたい心があり、馬籠ばかりでなく妻籠の方の人馬継立ての様子をも尋ねたい心があった。寿平次は寿平次で、この公役の見送りを機会に、かねて半蔵まで申し込んであった妹お民が三番目の男の子を妻籠の方へ連れて行って育てたいという腹で来た。いまだに子供を持たない寿平次が妻籠本陣での家庭をさみしがって、その話をかねて今度やって来たとは、半蔵は義理ある兄の顔を一目見たばかりの時にすでにそれと察していた。 「まあ、得右衛門さん、お上がりください」。お民は本陣の奥から上がり端(はな)のところへ飛んで出て来た。兄を見るばかりでなく、妻籠なじみの得右衛門を家に迎えることは、彼女としてもめずらしかった。「はてな。阿爺(おやじ)も久しぶりでお目にかかりたいでしょうから、隠居所の方へ来ていただきましょうか」。そう半蔵は言って、その足で裏二階の方へ妻籠の客を案内した。間もなく吉左衛門の隠居部屋では、「皆さん、袴でもお取り」という老夫婦の声を聞いた。「お父さん、いかがですか、その後御健康は」と寿平次が尋ねる。「いや、ありがとう。自分でも不思議なくらいにね、ますます快(よ)い方に向いて来たよ。こうして隠居しているのがもったいないくらいさ」と吉左衛門は言って見せた。 その時になって見ると、徳川政府が参覲交代のような重大な政策を投げ出したことは、諸藩分裂の勢いを助成するというにとどまらなかった。吉左衛門の言い草ではないが、その制度変革の影響はどこまで及んで行くとも見当がつかなかった。当時交通輸送の一大動脈とも言うべき木曾街道にまで、その影響は日に日に深刻に浸潤して来ていた。 江戸の公役が出張を見た各宿調査の模様は、やがて一同の話題に上った。そこには吉左衛門のようにすでに宿役を退いたもの、得右衛門のようにそろそろ若い者に代を譲る心じたくをしているもの、半蔵や寿平次のようにまだ経験も浅いものとが集まった。「以前からわたしはそう言ってるんですが、助郷のことは大問題ですて」と吉左衛門が言い出した。「まあ、わたしのような昔者から見ると、もともと宿場と助郷は金銭ずくの関係じゃありませんでしたよ。人足の請負なぞをするものはもとよりなかった。助郷はみんな役を勤めるつもりで出て来ていました。参覲交代なぞがなくって、諸大名の奥方でも、若様でも、御帰国は御勝手次第ということになりましたろう。こいつは下のものに響いて来ますね。御奉公という心がどうしても薄らいで来ると思いますね」。 退役以来、一切のことに口をつぐんでいるこの吉左衛門にも、陰ながら街道の運命を見まもる心はまだ衰えなかった。得右衛門はその話を引き取って、「吉左衛門さん、無論それもあります。しかし、御変革の結果で、江戸屋敷の御女中がたが御帰りになる時に、あの御通行にかぎって相対雇(あいたいやと)いのよい賃銭を許されたものですから、あれから人足の鼻息が荒くなって来ましたよ」。「そこが問題です」。寿平次が言う。「待っておくれよ。そりゃ助郷が問屋場に来て見て、いろいろ不平もありましょうがね。宿(しゅく)助成ということになると、どうしてもみんなに分担してもらわんけりゃならんよ。こりゃ、まあお互いのことなんだからね」とまた吉左衛門は言い添える。 「ところが、吉左衛門さん」と得右衛門は言った。「御通行、御通行で、物価は上がりましょう。伝馬役(てんまやく)は給金を増せと言い出して来る。どうしても問屋場に無理ができるんです。助郷から言いますと、宿の御伝馬が街道筋に暮らしていて、ともかくもああして妻子を養って行くのに、その応援に来る在の百姓ばかり食うや食わずにいる法はないという腹ができて来ます。それに、ある助郷村には疲弊のために休養を許して、ある村には許さないとなると、お触れ当ては不公平だという声も起こって来ます。旧助郷と新助郷だけでも、役を勤めに出て来る気持ちは違いますからね。一概に助郷の不参と言いますけれど掘って見ると村々によっていろいろなものが出て来ますね。そりゃ問屋だって、あなた、地方地方によってどれほど相違があるかしれないようなものですよ」。 その時、半蔵はそこにいる継母のおまんに頼んで母屋の方から清助を呼び寄せ、町方のものから申し出のあった書付を取り寄せた。それを一同の前に取り出して見せた。当時は諸色(しょしき)も高くなるばかりで、人馬の役を勤めるものも生活が容易でないとある。それには馬役、歩行役、ならびに七里役(飛脚を勤めるもの)の給金を増してほしいとある。伝馬一疋給金六両、定(じょう)歩行役一両二分、夏七里役一両二分、冬七里役一両三分と定めたいとある。「こういうことになるから困る」と得右衛門は言った。「宿の伝馬役が給金を増してくれと言い出すと、助郷だっても黙ってみちゃいますまい」。 「半蔵さん、君の意見はどうなんですか」と寿平次がたずねる。「そうですね」と半蔵は受けて、「定助郷はぜひ置いてみたい。現在のありさまより無論いいと思います。しかし、自分一個の希望としては、わたしは別に考えることもあるんです」。「そいつを話して見てください」。「夢が多いなんて、また笑われても困る」。「そんなことはありません」。「まあ、お話しして見れば、たとえば公儀の御茶壺だとか、日光例幣使だとかですね、御朱印付きの証書を渡されている特別な御通行に限って、宿の伝馬役が無給でそれを継ぎ立てるような制度は改めたい。ああいう義務を負わせるものですから、伝馬役がわがままを言うようになるんです。継ぎ立てたい荷物は継ぎ立てるが、そうでないものは助郷へ押しつけるというようなことが起こるんです。 つまり、わたしの夢は、宿の伝馬役と助郷の区別をなくしたい。みんな助郷であってほしい。だれでも、同じように助郷には勤めに出るというようにしたい」。「万民が助郷ですか。なるほど、そいつは遠い先の話だ」。「でも、寿平次さん、このままにうッちゃらかして置いてごらんなさい」。「そう言えば、そうですね。古いことは知りませんが、和宮様(かずのみや)の御通行の時がまず一期、参覲交代の廃止がまた一期で、助郷も次第に変わって来ましたね」。 |
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ともかくも江戸に出ている十一宿総代が嘆願の結果を待つことにして、得右衛門は寿平次より先に妻籠の方へ帰って行った。「きょうは吉左衛門さんにお目にかかれて、わたしもうれしい。妻籠でも収穫(とりいれ)が済んで、みんな、一息ついてるところですよ」との言葉をお民のところへ残して行った。半蔵は得右衛門を送り出して置いて、母屋の店座敷に席をつくった。そこに裏二階から降りて来る寿平次を待った。「寿平次さんも話し込んでいると見えるナ。お父さんにつかまったら、なかなか放さないよ」と半蔵がお民に言うころは、姉娘のお粂が弟の正己を連れて、裏の稲荷の方の栗拾いから戻って来た。正己はまだごく幼くて、妻籠本陣の方へ養子にもらわれて行くことも知らずにいる。「やい、やい。妻籠の子になるのかい」と宗太もそこへ飛んで来て弟に戯れた。「宗太、お前は兄さんのくせに、そんなことを言うんじゃないよ」とお民はたしなめるように言って見せた。「妻籠はお前お母さんの生まれたお家じゃありませんか」。 半蔵夫婦の見ている前では、兄弟の子供の取っ組み合いが始まった。兄の前髪を弟がつかんだ。正己はようやく人の言葉を覚える年ごろであるが、なかなかの利(き)かない気で、ちょっとした子供らしい戯れにも兄には負けていなかった。「今夜は、妻籠の兄さんのお相伴(しょうばん)に、正己にも新蕎麦(そば)のごちそうをしてやりましょう。それに、お母さんの言うには、何かこの子につけてあげなけりゃなりますまいッて」。「妻籠の方への御祝儀にかい。扇子に鰹節ぐらいでよかないか」。夫婦はこんな言葉をかわしながら、無心に笑い騒ぐ子供らをながめた。お民は妻籠からの話を拒もうとはしなかったが、さすがに幼いものを手放しかねるという様子をしていた。「お師匠さま、来てください」。 表玄関の方で、けたたましい呼び声が起こった。勝重は顔色を変えて、表玄関から店座敷へ飛んでやって来た。よくある街道でのけんかかと思って、半蔵は「袴、袴」と妻に言った。急いでその平(ひら)袴をはいて、紐も手ばしこく、堅く結んだ。「冗談じゃないぞ」。そう言いながら半蔵は本陣の表まで出て見た。問屋場の前の荷物の積み重ねてあるところは、何様かの家来らしい旅の客が栄吉をつかまえて、何か威(おど)し文句を並べている。半蔵はすぐにその意味を読んだ。彼はその方へ走って行って、木刀を手にした客の前に立った。客の吹く酒の臭気はぷんと彼の鼻をついた。客は栄吉の方を尻目にかけて、「やい。人足の出し方がおそいぞ」とにらんだ。その時、客はいまいましそうに、なおも手にした木刀で栄吉の方へ打ちかかろうとするので、半蔵は身をもって従兄弟(いとこ)をかばおうとした。「当宿問屋の主人(あるじ)は自分です。不都合なことがありましたら、わたしが打たれましょう」と半蔵はそこへ自分を投げ出すように言った。 この騒ぎを聞きつけた清助は本陣の裏の方から、九郎兵衛は石垣の上にある住居の方から坂になった道を走って来た。かつて問屋場の台の上から無法な侍を突き落としたほどの九郎兵衛がそこへ来て割り込むと、その力の人並みすぐれた大きな体格を見ただけでも、客はいつのまにか木刀を引き込ました。「半蔵さん、御本陣にはお客があるんでしょう。ここはわたしにお任せなさい。そうなさい」。この九郎兵衛の声を聞いて、半蔵は母屋の方へ引き返して行ったが、客から吹きかけられた酒の臭気の感じは容易に彼から離れなかった。しばらく彼は門内の庭の一隅にある椿(つばき)の若木のそばに立ちつくした。 その足で半蔵は店座敷の方へ引き返して行って見た。自分の机の上に置いた本なぞをあけて見ている寿平次をそこに見いだした。「半蔵さん、何かあったんですか」。「なに、なんでもないんですよ」。「だれか問屋場であばれでもしたんですか」。「いえ、人足の出し方がおそいと言うんでしょう。聞き分けのない武家衆と来たら、問屋泣かせです」。「この節はなんでも力ずくで行こうとする。力で勝とうとするような世の中になって来た」。「寿平次さん、吾家(うち)にいる勝重さんが何を言い出すかと思ったら、徳川の代も末になりましたね、ですとさ。それを聞いた時は、わたしもギョッとしましたね。ほんとに――あんな少年がですよ」。二人の話はそこへはいって行った子供らのために途切れた。 「どうだ、正己」と寿平次は子供をそばへ呼び寄せて、「叔父(おじ)さんと一緒に、妻籠へ行くかい」。「行く」。「行くはよかった」と半蔵が笑う。「どれ、叔父さんが一つ抱いて見てやろうか」と言って、寿平次が正己を抱き上げると、そばに見ていた宗太も同じように抱かれに行った。「叔父さん、わたしも」。お粂までもそれを言って、寿平次が弟の子供たちにしてやったと同じことを姉娘にもしてやるまではそばを離れなかった。「よ。これは重い」。寿平次はさも重そうに言って、あとから抱き上げた姉娘の小さなからだを畳の上におろした。「お粂はよい娘になりそうですね」と寿平次は末頼もしそうに半蔵に言って見せた。「祖母(おばあ)さんのお仕込みと見えて、どこか違う。君たち夫婦はこんな娘があるからいいさ。わたしは実に家庭には恵まれない」。その時、半蔵は子供らを見て言った。「みんな、祖母さんの方へ行ってごらん。台所で蕎麦打ってるから、見に行ってごらん」。 東南に向いた店座敷の障子には次第に日が影(かげ)って来た。半蔵の家では、おまんの計らいで、吉左衛門が老友の金兵衛をも招いて、妻籠へ行く子を送る前の晩のわざとのしるしばかりに、新蕎麦で一杯振る舞いたいという。夕飯にはまだすこし間があった。その静かさの中で、寿平次は半蔵と二人ぎりさしむかいにすわっていた。裏二階の方であった吉左衛門との話なぞがそこへ持ち出された。 「や、寿平次さんに見せるものがある」。半蔵は部屋の押し入れの中から四巻ばかりの本を取り出して来て、「これがわたしたちの仕事の一つです」と寿平次の前に置いた。『古史伝』の第二帙(ちつ)だ。江戸の方で、彫板、印刷、製本等の工程を終わって、新たにでき上がって来たものだ。「これはなかなか立派な本ができましたね」と寿平次は手に取って見て、「この上木(じょうぼく)の趣意書には、お歴々の名前も並んでいますね。前島正弼(しょうすけ)、片桐春一、北原信質(のぶただ)、岩崎長世(ながよ)、原信好(のぶよし)か。ホウ、中津川の宮川寛斎もやはり発起人の一人とありますね」。「どうです、平田先生の本は木板が鮮明で、読みいいでしょう」。「たしかに特色が出ていますね」。 「この第一帙(ちつ)の方は伊那の門人の出資で、今度できたのは甲州の門人の出資です。いずれ、わたしも阿爺(おやじ)と相談して、この上木の費用を助けるつもりです」。「半蔵さん、今じゃ平田先生の著述というものはひろく読まれるそうじゃありませんか。こういう君たちの仕事はいい。ただ、わたしの心配することは、半蔵さんがあまり人を信じ過ぎるからです。君はなんでも信じ過ぎる」。「寿平次さんの言うことはよくわかりますがね、信じてかかるというのが平田門人のよいところじゃありませんか」。「信を第一とす、ですか」。「その精神をヌキにしたら、本居や平田の古学というものはわかりませんよ。」。「そういうこともありましょうが、なんというか、こう、君は信じ過ぎるような気がする――師匠でも、友人でも」。「……」。「そいつは、気をつけないといけませんぜ」。「……」。 「そう言えば、半蔵さん、京都の方へ行ってる景蔵さんや香蔵さんもどうしていましょう。よくあんなに中津川の家を留守にして置かれると思うと、わたしは驚きます」。「それはわたしも思いますよ」。「半蔵さんも、京都の方へ行って見る気が起こるんですかね」。「さあ、この節わたしはよく京都の友だちの夢を見ます。あんな夢を見るところから思うと、わたしの心は半分京都の方へ行ってるのかもしれません」。「お父さんもそれで心配していますぜ。さっき、裏の二階でお父さんと二人ぎりになった時にも、いろいろそのお話が出ました。何もお父さんのようにそう黙っていることはない。半蔵さんとわたしの仲で、これくらいのことの言えないはずはない。そう思って、わたしはあの二階から降りて来ました」。「いや、あの阿爺(おやじ)がなかったら、とッくにわたしは家を飛び出していましょうよ……」。 下女が夕飯のしたくのできたことを知らせるころは、二人はもうこんな話をしなかった。半蔵が寿平次を寛ぎの間へ案内して行って見ると、吉左衛門は裏二階から、金兵衛は上の伏見屋の方からそこに集まって来ていた。「どうだ、寿平次、金兵衛さんはことし六十七におなりなさる。おれより二つ上だ。それにしてはずいぶん御達者さね」。「そう言えば、吉左衛門さん、あなたにお目にかかると、この節は食べる物の話ばかり出るじゃありませんか」。この人たちのにぎやかな笑い声を聞きながら、半蔵は寿平次の隣にいて膳に就いた。酒は隣家の伏見屋から取り寄せたもの。山家風な手打ち蕎麦の薬味には、葱(ねぎ)、唐がらし。皿の上に小鳥。それに蝋茸(ろうじ)のおろしあえ。漬け物。赤大根。おまんが自慢の梅酢漬(うめずづ)けの芋茎(ずいき)。 「半蔵さん、正己が養子縁組のことはどうしたものでしょう」と寿平次がたずねた。一晩馬籠に泊まった翌朝のことである。「そいつはあとでもいいじゃありませんか」と半蔵は答えた。「まあ、なんということなしに、連れて行ってごらんなさるさ」。そこへおまんとお民も来て一緒になった。おまんは寿平次を見て、「正己はあれで、もうなんでも食べますよ。酢茎(すぐき)のようなものまで食べたがって困るくらいですよ。妻籠のおばあさんはよく御承知だろうが、あんまり着せ過ぎてもいけない。なんでも子供は寒く饑(ひも)じく育てるものだって、昔からよくそう言いますよ」。「兄さん、正己も当分は慣れますまいから、おたけを付けてあげますよ。」とお民も言い添えた。おたけとは、正己が乳母(うば)のようにしてめんどうを見た女の名である。お粂でも、宗太でも、一人ずつ子供の世話をするものを付けて養育するのが、この家族の習慣のようになっていたからで。 すでに妻籠の方からも迎えの男がやって来た。馬籠本陣の囲炉裏ばたには幼いものの門出を祝う日が来た。お民は裏道づたいに峠の上まで見送ると言って、お粂や宗太を連れて行くしたくをした。こういう時に、清助は黙ってみていなかった。「さあ、正己さま、おいで」と言って、妻籠へ行く子を自分の背中に載せた。それほど清助は腰が低かった。吉左衛門、おまん、栄吉、勝重、それに佐吉から二人の下女までが半蔵と一緒に門の外に集まった。狭い土地のことで、ちいさな子供一人の出発も近所じゅうのうわさに上った。本陣の向こうの梅屋、一軒上の問屋、街道をへだてて問屋と対(むか)い合った伏見屋、それらの家々の前にもだれかしら人が出て妻籠行きのものを見送っていた。 半蔵は父や継母の前に立って言った。「寿平次さんの家で育ててもらえば、安心です。正己も仕合わせです」。やがて寿平次らは離れて行った。半蔵はそのまま自分の家にはいろうとしなかった。その足で坂になった町を下の方へと取り、石屋の坂の角(かど)を曲がり、幾層にもなっている傾斜の地勢について、荒町の方まで降りて行った。荒町には村社諏訪分社がある。その氏神への参詣を済ましても、まだ彼は家の方へ引き返す気にならなかった。この宿場で狸(たぬき)の膏薬(こうやく)なぞを売るのも、そこを出はずれたところだ。路傍には大きく黒ずんだ岩石がはい出して来ていて、広い美濃の盆地の眺望は谷の下の方にひらけている。もはや恵那山の連峰へも一度雪が来て、また溶けて行った。その大きな傾斜の望まれるところまで歩いて行って見ると、彼は胸いっぱいの声を揚げて叫びたい気になった。 寿平次が残して置いて行ったいろいろな言葉は、まだ彼の胸から離れなかった。大概の事をばかにしてひとり弓でもひいていられる寿平次に比べると、彼は日常生活の安逸をむさぼっていられなかったのだ。やがて近づいて来る庚申講(こうしんこう)の夜、これから五か月もの長さにわたって続いて行く山家の寒さ、石を載せた板屋根でも吹きめくる風と雪――人を眠らせにやって来るようなそれらの冬の感じが、破って出たくも容易に出られない一切の現状のやるせなさにまじって、彼の胸におおいかぶさって来ていた。しかし、歩けば歩くほど、彼は気の晴れる子供のようになって、さらに西の宿はずれの新茶屋の方へと街道の土を踏んで行った。そこには天保十四年のころに、あの金兵衛が亡父の供養にと言って、木曾路を通る旅人のために街道に近い位置を選んで建てた芭蕉の句碑もある。とうとう、彼は信濃と美濃の国境にあたる一里塚まで、そこにこんもりとした常磐木(ときわぎ)らしい全景を見せている静かな榎(え)の木の下まで歩いた。 |
(私論.私見)