夜明け前第二部上の2 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「島崎藤村/夜明け前第一部下の1」を確認する。「島崎藤村/夜明け前」を参照する。 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝 |
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【島崎藤村/夜明け前第二部上の2、第二章】 | |
一 | |
商船十数艘、軍艦数隻、それらの外国船舶が兵庫の港の方に集まって来たころである。横浜からも、長崎からも、函館からも、または上海方面からも。数隻の外国軍艦のうちには、英艦がその半ばを占め、仏艦がそれに次ぎ、米艦は割合にすくなかった。港にある船はもとより何百艘で、一本マスト、二本マストの帆前船、または五大力の大船から、達磨船、土船、猪牙船なぞの小さなものに至るまで、あるいは動き、あるいは碇泊していた。その活気を帯びた港の空をゆるがすばかりにして、遠く海上へも響き渡れとばかり、沖合いの外国軍艦からは二十一発の祝砲を放った。 慶応三年十二月七日のことで、陸上にはまだ兵庫開港の準備も充分には整わない。英米仏などの諸外国は兵庫開港が条約期日に違うのではないかと疑い、兵力を示してもその履行を促そうと協議し、開港準備の様子をうかがっていた際である。外人居留地はまだでき上がらないうちに、開港の期日が来てしまったのだ。しかし、神戸村の東の寂しく荒れはてた海浜に新しい運上所が建てられ、それが和洋折衷の建築であり、ガラス板でもって張った窓々が日をうけて反射するたびに輝きを放つ「びいどろの家」であるというだけでも、土地の人々をよろこばせた。三か所の波止場も設けられ、三棟ばかりの倉庫も落成した。内外の商人はまだ来て取り引きを始めるまでには至らなかったが、なんとなく人気は引き立った。各国領事がその仮住居に掲げた国旗までが新しい港の前途を祝福するかに見えたのである。 翌慶応四年の正月が来て見ると、長い鎖国から解かれる日のようやくやって来たころは、やがて新旧の激しい争いがさまざまな形をとって、洪水のようにこの国にあふれて来たころであった。江戸方面には薩摩方に呼応する相良惣三一派の浪士隊が入り込んで、放火に、掠奪に、あらゆる手段を用いて市街の攪乱を企てたとのうわさも伝わり、その挑戦的な態度が徳川方を激昂させて東西雄藩の正面衝突が京都よりほど遠からぬ淀川付近の地点に起こったとのうわさも伝わった。四日にわたる激戦の結果は会津方の敗退に終わったともいう。このことは早くも兵庫神戸に在留する外人の知るところとなった。ある外国船は急を告げるために兵庫から横浜へ向かい、ある外国船は函館へも長崎へも向かった。 海から見た陸はこんな時だ。伏見、鳥羽の戦いはすでに戦われた。うわさは実にとりどりであった。あるものは日本の御門と大君との間に戦争が起こったのであるとし、あるものは江戸の旧政府に対する京都新政府の戦争であるとし、あるものはまた、南軍と北軍とに分かれた強大な諸侯らの戦争であるとした。その時になると、一時さかんに始まりかけた内外商品の取り引きも絶えて、鉄砲弾薬等の売買のみが行なわれる。日本と外国との交際もこの先いかに成り行くやは測りがたかった。 フランス公使館付きの書記官メルメット・カションはこの容易ならぬ形勢を案じて、横浜からの飛脚船で兵庫の様子を探りに来た。兵庫には居留地の方に新館のできるまで家を借りて仮住居する同国の領事もいる。カションはその同国人のところへ、江戸方面に在留する外人のほとんど全部がすでに横浜へ引き揚げたという報告を持って来た。英仏米等の外国軍艦からは連合の護衛兵を出して構浜居留地の保護に当たっている、おそらく長崎方面でも同様であろうとの報告をも持って来た。 新開の兵庫神戸でもこの例にはもれなかった時だ。そこへ仏国領事を見に来たものがある。この地方にできた取締役なるものの一人だ。神戸村の庄屋生島四郎大夫と名のる人だ。上京する諸藩の兵士も数多くあって混雑する時であるから、ことに外国の事情に慣れないものが多くて自然行き違いを生ずる懸念もあるから、当分神戸辺の街道筋を出歩かないように。神戸村の庄屋はそのことを仏国領事に伝えに来た。「兵庫奉行はどうしたろう」。 そういう領事の言葉をカションは庄屋に取り次いだ。通詞を呼ぶまでもなく、カションは自由に日本語をあやつることができたからで。「お奉行さまですか」と庄屋は言った。「お奉行さまはもう兵庫にはいません」。その時、領事はカションを通して、いろいろなことを訴えた。これではまるで無統治、無警察も同じである。在留する外人に出歩くなと言われても、自分らには兵庫から十里以内に歩行の自由がある。兵庫、神戸の住民は、世態の前途に改善の希望を置いて、この新しい港を開いたのではないかと。さすがのカションにもそう細かいことまでは伝えられなかったが、領事の言おうとする意味はほぼ相手に通じた。神戸村の庄屋は言った。「とにかく、あなたがたの遠く出歩くことは危険ですぞ」。兵庫奉行はすでにのがれ、開港地警衛の兵士もまた去ってしまった。わずかに町々を回って歩くのは、町内のものが各自に組織した自警団と、外国軍艦から上陸させた居留民保護の一隊とがあるだけだった。西国諸藩の兵士で勤王のために上京するもの、京坂諸藩邸の使臣で情報を本国にもたらすもの、そんな人たちの通行が日夜に兵庫神戸辺の街道筋に続いていた。 |
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二 | |
神戸三宮事件 | 新時代の幕はこんなふうに切って落とされた。兵庫神戸の新しい港を中心にして、開国の光景がそこにひらけて来た。それにはまず当時の容易ならぬ外国関係を知らねばならない。アールコックはパアクスよりも前に英国公使として渡来した人であるが、このアールコックに言わせると、外国は戦争を好むものではない。土地をむさぼるものでもない、ただ戦端を開くように誘う場合が三つある。いやしくも条約を取り結びながらその信義を守らない場合、ゆえなく外人を殺傷する場合、みだりに外人を疑って交易を妨害する場合がそれであると。 不幸にも、先年東海道川崎駅に近い生麦村に起こったと同じような事件が、王政復古の日を迎えてまだ間もない神戸三宮に突発した。しかも、京都新政府においては徳川慶喜征討令を発し、征討府を建て、熾仁親王をその大総督に任じ、勤王の諸侯に兵を率いて上京することを命ずるような社会の不安と混乱との中で。 慶応四年正月十一日のことだ。兵庫に在留する英国人の一人は神戸三宮の付近で、おりから上京の途中にある備前藩の家中のものに殺され、なお一人は傷つけられ、その場をのがれた一人が海岸に走って碇泊中の軍艦に事の急を告げた。時に英仏米諸国の軍艦は前年十二月七日の開港以来ずっと湾内にある。この出来事を聞いた英国司令官は兵庫神戸付近が全くの無統治、無警察の状態におちいっているものと見なし、居留地保護の必要があるとして、にわかに仏米と交渉の上、陸戦隊を上陸させた。そのうちの英国兵の一隊は進んで生田に屯している備前藩の兵士に戦いをいどんだ。三小隊ばかりの英国兵が市中に木柵を構えて戦闘準備を整えたのは、その時であった。神戸から大坂に続いて行っている街道両口の柵門には、監視の英国兵が立ち、武士および佩刀者の通行は止められ、町々は厳重に警戒された。のみならず、港内に碇泊する諸藩が西洋形の運送船およそ十七艘はことごとく抑留され、神戸の埠頭は英国のために一時占領せられたかたちとなった。 英国陸戦隊の上陸とともに、兵庫神戸の住民の間には非常な混乱を引き起こした。英国兵が実戦準備の快速なことにもひどく驚かされた。土地の人たちは生田方面に起こる時ならぬ小銃の砲撃を聞いた。わずかの人数で英国兵の一隊に応戦すべくもない備前方があわてて摩耶山道に退却したとのうわさも伝わった。この不時の変時に、沿道住民の多くはその度を失ってしまった。 その日の夕方になると、殺害された英国人の死体は担架に載せられてすでに現場から引き取られたとの風評も伝わった。事の起こりは、備前藩の家中日置帯刀の従兵が上京の途すがらにあって、兵庫昼食で神戸三宮にさしかかったところ、おりから三名の英人がその行列を横ぎろうとしたのによる。こんな事件の起こらない前に、時節がら混雑する際であるから、なるべく街道筋を出歩かないようにとは、かねて神戸村の臨時取締役たる庄屋生島四郎太夫から外国領事を通じて居留の外国人へ注意を与えてあったのにその意味がよく徹底しなかったのであろう。英人らはこの横断がそれほど違法であるという東洋流の習慣を知らない。おまけに言語は通じないと来ている。前衛の備前兵がそれを制するつもりで、鎗をあげて威嚇を試みたところ、一人の英人はかくしの中に入れていたナイフを執ってそれに抵抗する態度を示したというからたまらない。備前兵は怒って一人を斃し、一人を傷つけたのだ。外国陸戦隊の上陸は、こんな殺傷の結果であった。 何にせよ相手は生麦事件以来、強硬な態度で聞こえたイギリスであり、それに兵庫にはこんな際の談判に当たるべき肝心な奉行もいない。兵庫奉行柴田剛中は幕府の役人であるところから、社会に変革が起こると同時に危難のその身に及ぶことを痛く恐怖して、疾くに姿を隠してしまった。この人がのがれる時には、宿駕籠に身を投げ、その外部を筵でおおい、あたかも商家の船荷のように擬装して、人をして海岸にかつぎ出させ、それから船に乗って去ったというくらいだ。こんな空気の中で、夕やみが迫って来た。多くの住民の中には家財諸道具を片づけるものがある。ひそかにそれを近村へ運ぶものがある。年寄りや子供を遠くの農家へ避難させるものもある。 たまたま、三百余人の長州藩の兵士を載せた船が大坂方面からその夜の中に兵庫の港に着いた。おそらく京坂地方もすでに鎮定したので、関税その他を新政府の手に収めることを先務として、兵庫開港場警衛の命を受けて来た人たちであったろう。英国兵はそれとは知らないから、備前藩の兵が大挙してやって来たのだと誤り認めて、まさに発砲するばかりになった。長州兵がそうでないと告げても、外人は信じない。長州兵の中には怒って外人の無礼を懲らそうと主張するものが出て来た。こうなると、町々は焼き払われるだろうと言って、兵火の禍いに罹ることを恐れる声が一層住民を狼狽させた。長州兵の隊長は本陣高崎弥五平方に陣取ったが、同藩の定紋を印した高張提灯一対を門前にさげさせて、長州藩の兵士たることを証し、なおその弥五平宅で英国士官と談判した。その時になって外人も備前藩の兵でないだけは諒解したが、しかしこの地の占領を解くことを断じて肯じない。長州兵はやむを得ないで奥平野村の禅昌寺に退いた。そこを宿衛の本拠として、その夜のうちに兵庫その他の警衛に従事した。そして非常を戒めた。 過ぐる半月あまり安い思いも知らなかった兵庫神戸の住民が全く枕を高くして眠ることのできるようになったのは、この長州兵を迎えてからであった。住民はかわるがわる来て、市中の取り締まりについた長州兵に、過ぐる日夜の恐ろしかったことを告げた。幕府廃止以来、世態の急激な変化は兵庫奉行の逃亡となり、代官手代、奉行付き別隊組兵士なぞは位置の不安と給料の不渡りから多く無頼の徒と化したことを告げた。それらの手合いは自称浪士の輩と共に市中を横行し、あだかも押し借り強盗にもひとしい所行に及び、ひどいのになると白昼人家の門を破って住民を脅迫するやら、掠奪をほしいままにするやら、ほとんど一時は無統治、無警察の時代を顕出したことを告げた。外国陸戦隊の上陸はこんな際で、住民各自に自衛の方法を講じつつ、いずれも新しい統治者を待ちわびているところであると告げた。 今や長州兵を迎えて、町々村々の人たちはようやくわずかに互いの笑顔を見ることができた。幕府の役人を忌むことが深いだけ、長州兵に信頼することも厚い。あるものは幕府の命によって居留地工事を負担した一役人が巨額の工事金を古井戸の中に埋めていると告げに来る。あるものは大坂奉行所から新設道路工事を請け負った一役人がその土木工事金を隠匿していると告げに来る。ある事、ない事が掘り出された。在来幕府時代からの諸役人に対して土地のものが抱いていた快くない感情までが一緒になって、一時にそこへ発して来た。だれが思いついて、だれがそれに調子を合わせるとも言えないような「えいじゃないか」のめずらしい声が、町々にはわくように起こって来た。 はやし立てる「ええじゃないか」の騒ぎは正月十四日になってもまだやまない。その群集の声は神戸の海浜にある新しい運上所(税関)にまで響き伝わっていた。そこはいわゆる「びいどろの家」である。ガラス板でもって張った窓のある家もまだ神戸界隈に見られないころに、開港の記念としてできた最初の和洋折衷の建築である。大坂の居館を去って兵庫の方に退いていた各国公使らは、それぞれ通訳に巧みな書記官をしたがえ、いずれも礼服着用で、その二階の広間に集まりつつあった。英国特派全権公使兼総領事パアクス、仏国全権公使ロセス、伊国特派全権公使トゥール、普国代理公使ブランド、オランダ公務代理総領事ブロック、それに米国弁理公使ファルケンボルグの人たちだ。その日、十四日は公使らが神戸運上所に集まって、京都新政府の使臣をそこに迎えるという日であった。 幾つかの窓を通して、外人居留地と定められた区域の光景もその二階から望まれる。日本側の使臣を待つ間、公使らは思い思いにそれらの窓に近く行った。神戸は岸深で、将来の繁華を予想させる位置にはあったが、いかに言っても開いたばかりの海浜だ。あるところは半農半漁の漁村に続くオランダ領事館の敷地であり、あるところは率先して工事に取りかかったばかりのようなイギリス領事館の敷地である。南の方に当たっては海も青く光っていて、港に碇泊する五隻の英艦と、三隻の仏艦と、一隻の米艦とを望むこともできた。だれの目にもまだ新しい港の感じが浮かばない。 そこへおもしろおかしい謡の囃子が聞こえる。三宮の方角に起こる群集の声は次第に近づいて来る。前年の冬、徳川十五代将軍が大政奉還のうわさの民間に知れ渡るころから、一か月半以上も京坂各地に続いた「えいじゃないか」の騒ぎが、またこの土地に盛り返したのだ。その時、群集は三宮神社の前あたりから運上所を中心にする新開地の一区域にまであふれるように入り込んで来た。踊り狂う行列のにぎやかさ。数日前までほとんど生きた色もなかったような地方の住民とも思われないほどの祭礼気分だ。公使らはいずれも声のする窓の方へ行って、熱狂する群集をながめた。手ぬぐいを首に巻きつけて行くもののあとには、火の用心の腰巾着をぶらさげたものが続く。あるいは鬱金や浅黄の襦袢一枚になり、あるいはちょん髷に向こう鉢巻という姿である。陽気なもの、勇みなもの、滑稽なものの行列だ。外国人同志の間にはうわさもとりどりで、あの「えいじゃないか」は何を謳歌する声だろうと言い出すものがあったが、だれもそれに答えうるものがない。中には二階からガラス窓の一つをあけて、「ブラボオ、ブラボオ」と群集の方へ向けて日本びいきらしい声を送るフランス書記官メルメット・カションのような人もある。この年若なフランス人は自国の方のカアナバルの祭りのころの仮装行列でも思い出したように、老幼の差別なくもみ合いながら通り過ぎる人々の声を潮のように聞いていた。 |
そのうちに、新政府の参与兼外国事務取調掛りなる東久世通禧をはじめ、随行員寺島陶蔵、伊藤俊介、同じく中島作太郎なぞの面々がその応接室にはいって来た。当日は、ちょうど新帝が御元服で、大赦の詔も下るという日を迎えていたので、新政府の使臣、およびその随行員として来た人たちは、いずれも改まった顔つきをしていた。初対面のこととて、まず各自の姓名職掌の紹介がある。六か国の代表者の目は一様にその日の正使にそそいだ。通禧は烏帽子に狩衣を着け、剣を帯び、紫の組掛緒という公卿の扮装であったが、そのそばには伊藤俊介が羽織袴でついていて、いろいろと公使らの間を周旋した。俊介は先年井上聞多と共に英国へ渡ったこともあるからで。武士らしい髷を捨てて早くもヨーロッパ風を採り入れているような散髪のものは、正使随行員の中でもこの人一人だけであった。そこにあるものは何もかもまだ新世帯の感じだ。建築物からして和洋折衷だ。万事手回りかねる際とて、椅子も粗末なものを並べて間に合わせてある。 やがて通禧は右手に国書をささげて、各国公使の前でそれを読み上げた。 「日本国天皇、告二諸外国帝王及其臣人一。嚮者将軍徳川慶喜、請レ帰二政権一也、制二允之一、内外政事親裁レ之。乃曰、従前条約、雖レ用二大君名称一、自レ今而後、当三換以二天皇称一、而諸国交際之儀、専命二有司等一。各国公使諒二知斯旨一」。
ともかくも、その日は日本の天皇が外国に対する御親政の始めであった。午後に、英国公使パアクスは東久世通禧と三宮英人殺傷事件の交渉談判を開いた。パアクスも当時の国情の殺気に満ちた情景は知りつくしていたから、あえてそう難題を持ち出そうとしなかった。即日にも穏やかに神戸の占領を解こうと言って、早速陸戦隊を引き揚げることを承諾した。それにはこの事件の本犯者を厳罰に処して将来の戒めとする事、日本政府はよろしく陳謝の意を表する事とを条件とした。やかましい三宮事件もこんなふうで、一気に解決を告げることになった。パアクスは双方の豊かな頬に縮れ髯をたくわえている男だが、その時いささか得意げにその頬髯をなでて、「自分は京都新政府に好意を表するため、かくも穏やかな取り計らいをした。これは御国に対し懇切な心から出た次第で、隔意のある事ではない。他の外国が交渉談判を開くとはわけ違いである。もしこれが他の外国人の殺傷の場合ででもあると、なかなかこんなわけにはまいるまい」。こういう意味のことを彼は通訳の書記官ミットフォードに言わせた。そして自分の言うことをわかってくれたかという顔つきで、堅い握手を求めるために、イギリス人らしい大きな手を東久世通禧の方に差し出した。慶応四年正月十日 御諱 パアクスは高い心の調子でいる時であった。この英国公使は前公使アールコックの方針を受け継いだ人で、かつては敵として戦った薩長両藩の人士と握手する位置に立ち、兵器弾薬の類まで援助を惜しまないについては、その意見にも相応な理由はあった。この人に言わせると、今日世界はすでに全く開けて、いずれの国も皆交際しないものはない。国と国とが交わる以上は、人情もあまねく交わらないわけにいかない。物貨とてもそのとおりであろう。交易の道は小さな損害のないとは言えないが、しかしその小さな損害を恐れてそれを妨げるなら、必ず大艱難を引き出すようになる。ヨーロッパ人はもう長いことそれを経験して来た。在来の東洋諸国を見るに、多く皆旧くからの習慣を固守するばかりだ。貿易を制限するところがあり、居留地を限るところがあり、交際の退歩するところがある。我は開くことを希望するし、彼は鎖すことを希望する。そんなふうに競い合って行って、彼も迫り我も迫って互いに一歩も譲らないとなると、勢い銃剣の力をかりないわけにいかなくなる。互いの事情を斟酌する必要がそこから起こって来る。それには「真知」をもってせねばならない。そもそも外国人は何のために日本へ来るのであるか。ほかでもない、政府と親しくし、日本人とも親しく交わりたいがためである。交易以来、そのために貧しくなった国はまだない。万一、一方の損になるばかりなら、その交易は必ずすたれる。双方に利があれば必ず行なわれもするし、必ず富みもする。交易をすれは物価が高くなる。物価が高くなれば輸出の減るということも起こって来る。輸入品が多くなれば交易のできなくなることもある。だから節制しないうちに自然と節制があるようなもので、交易は常に氾濫に至らない。国内の人民も物を欠くに至らない。約めて言えば、人類の交際は明白な直道で、いじけたものでもなく、曲がりくねったものでもないのに、何ゆえに日本はこんなに外国を嫉視するのであるか。外人の居住するものは同盟条約の中について日本のためにならないことがあるのであるか。日本治国の体裁に害あることがあるのであるか。条約の精神が行き渡るなら、今日すでに日本国じゅうのものが交易の利を受けて、おのおのその便利を喜ぶであろう。決して今日のように人心動揺して外人を讐敵のように見ることはあるまい。この排外は、全く今までの幕府政治の悪いのと、外交以来諸藩の費用のおびただしいとによっておこって来た。この形勢を打破するには、見識ある日本諸侯の力に待たねばならない。薩長両藩の有志者のごときは実に国を憂うるものと言うべきである。これがアールコック以来の方針を押し進め、徳川の旧勢力に見切りをつけたパアクスの言い分であった。今では彼は各国公使仲間の先頭に立って、いまだに江戸旧幕府に執着するフランスを冷笑するほどの鼻息の荒さである。 このパアクスだ。後は東久世通禧に約したように、兵庫神戸の警衛を全く長州兵の手に任せて、早速街道両口の木柵を取り払わせ、上陸中の外国兵をそれぞれ軍艦に引き揚げさせ、なお、港内に抑留してあった諸藩の運送船をも解放した。のみならず、彼は兵庫にある仮の居館に公使兼総領事として滞在して、地方一般の無政治無規則から日に日に新しい設備のできて行く状態をながめていた。十五日には兵庫事務局が諸問屋会所に仮に設けられ、十九日にはそれが旧幕府大坂奉行所の所属であった勤番所に移されるという時だ。この国の建て直しの日がやって来て見ると、百般の事務はことごとく新規まき直しで、ほとんど手の着けようがないかにも見えていた。しかし、同じ公使仲間でも、新政府に対するアメリカ公使ファルケンボルグの態度はすこし違う。早い話が、アメリカはこの国への先着者である。合衆国と条約を結んだのは、日本が外国と条約を結んだ初めての場合である。その先着者を出し抜いて、事ごとに先鞭を着けようとする英国公使の態度は、ハリス以来日本の親友をもって任ずるファルケンボルグにこころよいはずもない。 当時、討幕の官軍はいよいよ三道より出発するとのうわさが兵庫神戸まで伝わって来た。大総督有栖川宮は錦旗節刀を拝受して大坂に出で、軍国の形状もここに至って成ったとの風評はもっぱら行なわれるようになった。月の二十一日には、六か国の公使らは通禧からの書面を受けて、東征の師の興ったという報告に接した。武器を輸入して徳川慶喜およびその臣属を助くべからずとの意味を読んだ。その翌二十二日には兵庫に裁判所を兼ねた鎮台もできて、通禧がその総督に任ぜられたことも知った。この空気の中ではあるが、徳川慶喜はすでに前年十二月三日に外国公使らを大坂に集め、どんな変革がこの国に来ようとも、外交の事は依然責任を負うであろうと告げてある。公使らは、にわかに幕府を逆賊とは見なさない。この形勢をみて取ったファルケンボルグは率先して局外中立を唱え出した。そして、ひそかに新政府に武器を販売するイギリスと、旧幕府の手合いに軍用品を供給するフランスとに対して、アメリカの立場を明らかにした。 ファルケンボルグの出した布告は、だれも正面から争えないほど厳正なものであった。彼は日本の御門と大君との間に戦争の起こったことを布告し、かつ合衆国人民の局外中立を厳守すべきことを言い渡した。軍船あるいは運送船を売ることも貸すことも厳禁たるべきもの。兵士はもとより、武器、弾薬、兵粮、その他すべて軍事にかかわる品々をあるいは売りあるいは貸し渡すこともまた厳禁たるべきもの。もしこの規則にそむくなら、それは国際法から見て局外中立の法度を破るものであるから、敵視せらるるに至ることはもちろんである、万一、これを破るものは軍法によって捕虜とせられ、その積み荷は没収せられ、局外荷主の品たりとも連累の禍いを免るることはできないと心得よ。日本国と合衆国との条約面の権によって、たとい自分の国籍のものたりとも右の規則を破ったものはあえてこれを保護することはできないものである。この布告が合衆国公使ファルケンボルグの名で、日本兵庫神戸にある居留館において、として発表された。 アメリカ以外の条約国の公使らも、おもてむきこれには異議を唱えるものがなかった。彼らは皆、この局外中立の布告にならった。各国いずれも同じ文句で、ただ公使の名が異なるのみで。でも、生命がけの冒険家が集まって来る開港場のようなところには、そう明るい昼間ばかりはない。ユウゼニイと名づくる砲船は十万ドルで肥前へ売れたといい、ヒンダと名づくる船は十一万ドルで長州へ売れたともいう。その他、買い主と値段のよくわからないまでも、ひそかに内地へ売れたという外国船は幾艘かあった。アテリネと名づくる汽船は、これも売り物で、暗夜にまぎれてこっそり兵庫に来たことはすぐその道のものに知れた。 |
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三 | |
旧暦の二月にはいって、兵庫にある外国公使らは大坂の会合に赴くため、それぞれしたくをはじめることになった。これは島津修理太夫をはじめ、毛利長門守、細川越中守、浅野安芸守、松平大蔵大輔(春嶽)、それに山内容堂などの朝廷守護の藩主らが連署しての建議にもとづき、当時の急務は外国との交際を講明しないでは協わないとの趣意に出たものであった。各国がいよいよ新政府を承認するなら、前例のない京都参府を各国使臣に許されるであろうとの内々の達しまであった。 それにしても新政府の信用はまだ諸外国の間に薄い。多年、排外の中心地として知られた京都にできた新政府である。この一大改革の機運を迎えて、開国の方向を確定するのが第一だとする新政府の熱心は聞こえても、各国公使らはまだまちまちの説を執って疑念の晴れるところまで至っていない。三宮事件はこの新政府にとって誠意と実力とを示す一つの試金石とも見られた。二月の九日になると、各国公使あての詫書が京都から届いた。それは陸奥陽之助が使者として持参したというもので、パアクスらはその書面を寺島陶蔵から受け取った。見ると、朝廷新政のみぎり、この不行き届きのあるは申しわけがない。今後双方から信義を守って相交わるについては、こんな妄動の所為のないようきっと申し渡して置く。今後これらの事件はすべて朝廷で引き受ける。このたびの儀は、備前家来日置帯刀に謹慎を申し付け、下手人滝善三郎に割腹を申し付けたから、そのことを各国公使に告げるよう勅命をこうむった、と認めてある。宇和島少将(伊達宗城)の花押まである。 その日、兵庫の永福寺の方では本犯者の処刑があると聞いて、パアクスは二人の書記官を立ち会わせることにした。日本側からは、伊藤俊介、他一名のものが立ち会うという日であった。その時の公使の言葉に、「自分は切腹が日本武士の名誉であると聞く。これは名誉の死であってはならない。今後の戒めとなるような厳罰に処することであらねばならない」。パアクスも大きく出た。その時になると、外人殺害者の処刑について世間にはいろいろな取りざたがあった。世が世なら、善三郎は無礼な外夷を打ち懲らしたものとして、むしろお褒めにも預かるべき武士だと言うものがある。彼は風采も卑しくなく、死に臨んでもいささか悪びれた態度もなく、一首の辞世を残して行ったと言うものがある。一方にはまた、末期に及んでもなお助命の沙汰を期した彼であった、同僚の備前藩士から何事かを耳のほとりにささやかれた時はにわかにその顔色を変えて震えた。彼も死に切れない死を死んで行ったと言うものもある。 四日過ぎには、各国公使は書記官を伴って大坂へ向け出発するばかりになった。居留地の保護は長州兵の隊長に、諸般の事務を兵庫在留の領事らに、それぞれ依頼すべきことは依頼した。兵庫、西宮から大坂間の街道筋は、山陰、山陽、西海、東海諸道からの要路に当たって、宿駅人馬の継立ても繁雑をきわめると言われたころだ。街道付近の村々からは人足差配方の肝煎りが日々両三名ずつ問屋場へ詰め、お定めの人馬二十五人二十五匹以外の不足は全部雇い上げとし、賃銭はその月の十四日から六割増と聞こえているくらいだ。各国公使はこの陸よりする途中の混雑を避けて、大坂天保山の沖までは軍艦で行くことにしてあった。英国公使パアクスの提議で、護衛兵の一隊をも引率して行くことにした。この大坂行きは今までともちがい、各国公使がそれぞれの政府を代表しての晴れの舞台に臨むという時であった。 どうやら二月半ばの海も凪だ。いよいよ朝早く兵庫の地を離れて行くとなると、なんとなく油断のならない気がして来たと言い出すのはオランダ代理公使ブロックであった。先年、条約許容の勅書を携えて、幕府外国奉行山口駿河が老中松平伯耆を伴い、大坂から汽船を急がせて来たのもこの道だと言い出すのは仏国公使ロセスであった。たとい、前例のない京都参府が自分らに許されるとしても、大坂から先の旅はどうであろうかと気づかうのは米国公使ファルケンボルグであった。 大坂西本願寺には各国公使を待ち受ける人たちが集まった。醍醐大納言(忠順)は大坂の知事、ないしは裁判所総督として。宇和島少将(伊達宗城)はその副総督として。次第に外国事務掛りの顔もそろった。兵庫裁判所総督としての東久世通禧も伊藤俊介らを伴って来た。これらの人たちが諸藩からの列席者を持ち合わす間に、順に一人ずつ寺僧に案内されて、清げな白足袋で広間の畳を踏んで来る家老たちもある。その日、十四日は薩州藩から護衛兵を出して、小蒸汽船で安治川口に着く各国公使を出迎えるという手はずであった。その日の主人役はなんと言っても東久世通禧であったが、この人とても外交のことに明るいわけではない。いったい、兵庫から大坂へかけての最初の外国談判は、朝廷の新政治を外国公使に報告し、諸外国の承認を求めねばならない。それにはなるべくは公卿の中でその役を勤めるがよいということであった。ところが、公卿の中に、だれも外国公使に接したものがない。第一、西洋人というものにあったものもない。皆尻込みして、通禧を推した。通禧だけが西洋人の顔を見ているというわけで。彼なら西洋人の意気込みも知っているだろうからというわけで。 この通禧は過ぐる慶応三年の冬、筑前の方にいて、一つ開港場の様子を見て置いたらよかろうと人にも勧められ、自分からも思い立ったことがある。同時に、三条公にも長崎行きを勧めるものがあったが、同公は一方の大将であり、それに密行も気がかりであるからと言って、同行はされなかった。通禧だけが行った。大山格之助の周旋で、薩州人になって長崎へ行った。さらに五代才助の周旋で、三週間ばかりも長崎にいて、変名でオランダやイギリスの商人にもあい、米人フルベッキなどにも交わった。その時、外国の軍艦も見、西洋の話も聞いたことがある。人も知るごとく、通禧は文久三年の過去に、攘夷御親征大和行幸の事件で長州へ脱走した七卿の一人である。攘夷主唱の張本人とも言うべき人たちの中での錚々である。不思議な運命は、この閲歴を持った人を外国人歓迎の主人役の位置に立たせた。ヨーロッパは日本を去ることも遠く、蘭書以外の洋書のこの国の書庫中に載せらるるものとても少ない。通禧はじめ国際に関する知識もまだ浅かった。しかし、徳川慶喜ですら先年各国公使をこの大坂に集めて将軍自ら会見する先例を開いている。新政府を護り立てようとするものは、この際、何を忍んでも、外国事務局の設置を各国公使に認めさせ、いつまで排外を固執するものでないことを明らかにせねばならない。当時漢訳から来た言葉ではあるが、新熟語として士人の間に流行して来た標語に「万国公法」というがある。旧を捨て新に就こうとする人たちはそれを何よりの水先案内として、その万国公法の意気で異国人を迎えようとしていた。そのうちに、公使らの安治川着を知らせる使者が走って来た。軍旗をたてた薩州兵の一隊を先頭に、護衛の外国兵はいずれも剣付き鉄砲を肩にして、すでに外人居留地を出発したとの注進がある。駕籠に乗った異人の行列を見ようとする男や女の出たことも驚くばかり、大坂運上所の前あたりから、居留地、新大橋の辺へかけては人の黒山を築いているとの注進もある。 各国公使の一行は無事に西本願寺に着いた。公使らは各一名ずつの書記官を伴って来たから、一行十二人の外交団だ。しばらく休息の時を与えるため、接待役の僧が一室に案内し、黒い裙子を着けた子坊主は高坏で茶菓なぞを運んで行って一行をもてなした。寺の大広間は内外の使臣が会見室として、すでにその準備がととのえてある。やがて外人側は導かれて畳の上に並べた椅子に着いた。列藩の家老たちも来てそれぞれ着席する。まず東久世通禧の発話で各公使への挨拶があった。それは日本の政体の復古した事、帝自ら政権を執りたもう事、外国の交際も一切朝廷で引き受ける事は過日兵庫において布告したとおり相違のない旨を告げ、今回外国事務局を建てて交易通商一切の諸事件をことごとく取り扱うから、今日改めて朝廷守護の列藩と共に、各国公使に会同してこの盟約を定める旨を告げた。これには公使らも異議がない。帝はじめ列藩の諸侯が日本人民のために広く信睦を求め、互いに誠実をもって交わろうということは、各国においてもかねがね渇望したところである、今後は帝の朝廷を日本の主府と仰いで、万事その政令を奉ずるであろう。公使らはその意味のことを答えた。 通禧はまた、言葉を改めて言った。このたび万国と条約を改めた上は、帝自ら各国公使に対面して、盟いを立てようとの思し召しである。不日上京あるべき旨、各国公使に申し入れるよう、帝の命を奉じたのであると。公使らは恐れ入ったと言って、いずれ談合の上、明後日その御返事を申し上げると挨拶した。その時の英国公使の言葉に、徳川慶喜討伐の師がすでに京都を出発した上は、関東の形勢も安心なりがたい。もし早く帝に拝謁することがかなわないならすみやかに浪華の地を退きたい、そして横浜にある居留民の保護に当たりたい一同の希望であると。これを聞くと、米国公使はそばにいる伊国公使や普国公使を顧みて、自分ら三人は明十五日までに大坂を出発して横浜へ回航したい、と述べた。ファルケンボルグはしきりに手をもんだ。横浜居留地の方のことも心にかかるから、としきりに弁解した。通禧はその様子をみて取って言った。「では、こうなすったら、いかがでしょう。明日中には謁見の日取りを京都からも申してまいりましょう。それまで御滞坂になって、その上で進退せられたら。諸君も京都へ行って一度は天顔を拝するがいい」。 滞坂中の各国公使の間には、帝に謁見の日限を確定して、それをもって盟いの意味をはっきりさせたいと言うものと、ひどく上京を躊躇するものとがあった。このことが京都の方に聞こえると、外国人の参内は奥向きではなはだむつかしい、各国公使の御対面なぞはもってのほかであるということで、京都へ入れることはいけないという奥向きの模様が急使をもって通禧のところへ伝えられた。三条岩倉両公も困って、なんとかして奥向きを説諭してくれるようにとの伝言も添えてあった。これには通禧も驚かされた。早速京都への使者を立てて、今はなかなかそんな時でないことを奥向きへ申し上げた。肝心の京都からして信睦の実を示さないなら、諸外国の態度はどうひっくりかえるやも測りがたい時であると申し上げた。たとえば江戸に各諸藩の留守居を置くと同様なもので、外国と御交際になる以上はその留守居、すなわち各国公使にお会いにならぬという事はできない、これはお会いなさるがいい、西洋各国は互いに交際を親密にしている、日本のように別になっていない、諸藩の留守居と思し召すがいいと申し上げた。 もはや、周囲の事情はこの島国の孤立を許さない。その時になって見ると、かつては軟弱な外交として関東を攻撃した新政府方も、幕府当局者と同じ悩みを経験せねばならなかった。かつては幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとした岩瀬肥後なぞの心を苦しめた立場は、ちょうど新政府当局者の身に回って来た。たとい、相手があの米国のハリスの言い残したように、「交易による世界一統」というごとき目的を立てて、工業その他のまだおくれていた極東の事情も顧みずに進み来るようなものであっても――ともかくも、国の上下をあげて、この際大いに譲らねばならなかった。 東征軍が出発した後の大坂は、あたかも大きな潮の引いたあとのようになった。留守を預かる諸藩の人たちと、出征兵士のことを気づかう市民とだけがそのあとに残った。そして徳川慶喜はすでに幾度か尾州の御隠居や越前の松平春嶽を通して謝罪と和解の意をいたしたということや、慶喜その人は江戸東叡山の寛永寺にはいって謹慎の意を表しているといううわさなぞで持ち切った。 大坂西本願寺での各国公使との会見が行なわれた翌日のことである。中寺町にあるフランス公使館からは、各国公使と共に日本側の主な委員を晩食に招きたいと言って来た。江戸旧幕府の同情者として知られているフランス公使ロセスすら、前日の会見には満足して、この好意を寄せて来たのだ。やがて公使館からは迎えのものがやって来るようになった。日本側からの出席者は大坂の知事醍醐忠順、宇和島伊予守、それに通禧ときまった。そこで、三人は出かけた。その晩、通禧らは何よりの土産を持参した。来たる十八日を期して各国公使に上京参内せよと京都から通知のあったことが、それだ。この大きな土産は、通禧の使者が京都からもたらして帰って来たものだ。諸藩の留守居と思し召して各国公使に御対面あるがいいとの通禧の進言が奥向きにもいれられたのである。中寺町のフランス公使館には主人側のロセスをはじめ、客分の公使たちまで集まって通禧らを待ち受けていた。そこには、まるで日本人のように話す書記官メルメット・カションがいて、通訳には事を欠かない。このカションが、「さあ、これです」と、わざわざ日本語で言って見せて、通禧らの土産話をロセスにも取り次ぎ、他の公使仲間にも取り次いだ。「ボン」。ロセスがその時の答えは、そんなに短かかった。思わず彼の口をついて出たその短かい言葉は、万事好都合に運んだという意味を通わせた。英国のパアクス、米国のファルケンボルグ、伊国のトウール、普国のブランド、オランダのブロック――そこに招かれて来ている公使の面々はいずれも喜んで、十八日には朝延へ罷り出ようとの相談に花を咲かせた。中には、京都を見うる日のこんなに早く来ようとは思わなかったと言い出すものがある。自分らはもう長いこと、この日の来るのを待っていたと言うものもある。 晩食。食卓の用意もすでにできたと言って、カションは一同の着席をすすめに来た。その時、宇和島少将は通禧の袖を引いて、「東久世さん、わたしはこういうところで馳走になったことがない。万事、貴公によろしく頼みますよ」。「どうも、そう言われても、わたしも困る。まあ、皆のするとおりにすれば、それでよろしいのでしょう」。通禧の挨拶だ。配膳の代わりに一つの大きな卓を置いたような食堂の光景が、やがて通禧らの目に映った。そこの椅子には腰掛ける人によって高下の格のさだまりがあるでもなかったが、でもだれの席をどこに置くかというような心づかいの細かさはあらわれていた。カションの案内で、通禧らはその晩の正客の席として設けてあるらしいところに着いた。パアクスの隣には醍醐大納言、ファルケンボルグとさしむかいには宇和島少将というふうに。そこには鳥の嘴のように動かせる箸のかわりに、獣の爪のようなフォークが置いてある。吸い物に使う大きな匙と、きれいに磨いた幾本かのナイフも添えてある。食卓用の白い口拭きを折りんで、客の前に置いてあるのも異国の風俗だ。食わせる物の出し方も変わっている。吸い物の皿を出す前に持って来るパンは、この国のことで言って見るなら握飯の代わりだ。 カションはもてなし顔に言った。「さあ、どうぞおはじめください。フランスの料理はお口に合いますか、どうですか」。給仕人が料理を盛った大きな皿を運んで来て、客のうしろから好きな物を取れと勤めるたびに、通禧らは西洋人のするとおりにした。パアクスが鳥の肉を取れば、こちらでも鳥の肉を取った。ファルケンボルグが野菜を取れば、こちらでも野菜を取った。食事の間に、通禧はおりおり連れの方へ目をやったが、醍醐大納言も、宇和島少将も、共にすこし勝手が違うというふうで、主人の公使が馳走ぶりに勧める仏国産の白いチーズも、わずかにその香気をかいで見たばかり。古い葡萄酒ですら、そんな席でゆっくり味わわれるものとは見えなかった。しかし、この食卓の上は楽しかった。そのうちに日本側の客を置いて、一人立ち、二人立ち、公使らは皆席を立ってしまった。変なことではある。その考えがすぐに通禧に来た。醍醐大納言や宇和島少将は、と見ると、これもいぶかしそうな顔つきである。なんぞ変が起こったのであろうか、それまで話を持って行って、互いにあたりを見回したころは、日本側の三人の客だけしかその食堂のなかに残っていなかった。 泉州、堺港の旭茶屋に、暴動の起こったことが大坂へ知れたのは、異人屋敷ではこの馳走の最中であった。よほどの騒動ということで、仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員が土佐の家中のものに襲われたとの報知である。その乗組員はボートを出して堺の港内を遊び回っていたところ、にわかに土州兵のために岸から狙撃されたとのことであるが、旭茶屋方面から走って来るものの注進もまちまちで、出来事の真相は判然しない。ただ乗組員のうちの四人は即死し、七人は負傷し、別に七人は行くえ不明になったということは確かめられた。なお、行くえ不明の七人が難をのがれようとして水中に飛び込んだものだということもわかって来た。翌十六日の朝、とりあえず通禧は米国公使館を訪ねた。ファルケンボルグにあって、どうしたらよかろうと相談すると、仏国の軍艦はまさに横浜へ引き返そうとするところであるという。どうしてもこれは軍艦を引き留めねばならぬ。その考えから、通禧らは米国公使にしかるべく取りなしを依頼しようとした。 すると、フランス側からは早速抗議を提出して来た。それは御門政府外国事務掛り、東久世少将、伊達伊予守両閣下へとして、次ぎのような手詰めの談判を意味したものであった。 「……かくのごとき事件は世間まれに見聞いたし候事にて、禽獣の所行と申すべし。ついては仏国ミニストル、ひとまず軍艦ウエストの船中へ引き取りおり、なお右行くえ相知れざる人々死生にかかわらず残らず当方へ御差し返し下されたく、明朝第八時まで猶予いたし候間、この段大坂を領せらるる当時の政府へ申し進じ置き候。万一、右のとおり御処置これなきにおいてはいかようの御詫び御申し入れなされ候とも、かかる文明国の法則に違い、のみならずことにこのほど取りきめし条約書および条約の文に違背し、また当今御門政府の周囲にありて重役を勤めおる大名の家来にかくのごときの処置行なわれ候ては、これに対し相当と相心得候処置に及び候事にこれあるべく候間、この段申し進じ置き候。謹言」。
千八百六十八年二月、大坂において 日本在留 仏国全権レオン・ロセス ともかくも、五代、岩下らの働きから、十七日の朝八時とは言わないで、正午まで待ってもらうことにした。行くえ不明の七名をそれまでには見つけて返すから、軍艦の横浜へ引き返すことだけは見合わせてほしいと依頼した。さて、通禧らは当惑した。どこにいるやもわからないようなものを必ず見つけて返すと言ってのけたからで。 その日の昼過ぎには、通禧は五代、中井らの人たちと共に堺の旭茶屋に出張していた。済んだあとで何事もわからない。土佐の藩士らは知らん顔をして見ている。ぜひともその晩のうちに七人の死体を捜し出さねば、米国公使に取りなしを依頼した通禧らの立場もなくなるわけだ。一人探し出したものには金三十両ずつやると触れ出したところ、港の漁夫らが集まって来て、松明をつけるやら、綱をおろすやらして探した。七人の異人の死体が順に一人ずつその暗い海から陸へ上がって来た。いずれも着物なしだ。通禧らは人を呼んで、それぞれ毛布に包ませなぞして、七つの土左衛門のために間に合わせの新規な服を取り寄せる心配までした。中井弘蔵がその棺を持って大坂に帰り着いたころは、やがて一番鶏が鳴いた。 風雨の日がやって来た。ウエスト号という軍艦まで死骸を持って行くにも、通禧らにはかなりの時を要した。その日は小松帯刀も同行した。このあいにくな雨はどうだ、だれもそれを言わないものはない。しかしその雨を冒してまで届けに行くほどの心持ちを示さなかったら、フランス側でも穏やかに死骸を引き取るとは言わなかったであろう。時刻も約束にはおくれた。通禧らは時計の針を正午のところに引き直して行って、ようやく約束を果たし、横浜の方へ引き返すことだけはどうやら先方に思いとどまってもらった。浪も高かった。フランス側ではこの風に危ないと言って、小蒸汽船を卸して通禧らを送りかえしてくれた。ともかくも、死骸はフランス側の手に渡った。しかし、この容易ならぬ事件のあと始末は。それが心配になって、通禧らは帰りの船からもう一度ウエスト号の方を振り返って見た。例の黒船は気味の悪い沈黙を守りながら、雨の川口にかかっていた。 |
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しきりに起こる排外の沙汰。しかも今度の旭茶屋での件は諸外国との親睦を約した大坂西本願寺会見の日から見て、実に二日目の出来事だ。危うくもまた測りがたいのは当時の空をおおう雲行きであった。そこで新政府では外国交際の布告を急いだ。太政官代三職の名で発表したその布告には、幕府において定め置いた条約が日本政府としての誓約であることからはじめて、時の得失により条目は改められても、その大体に至ってはみだりに動かすべきものでないの意味を告げてある。今さら朝廷においてこれを変えられたら、かえって信義を海外万国に失い、実に容易ならぬ大事であると心得よ、皇国固有の国体と万国公法とを斟酌して御採用になったのも、これまたやむを得ない御事であると心得よと告げてある。ついては、越前宰相以下建白の趣旨に基づき、広く百官諸藩の公議により、古今の得失と万国交際のありさまとを折衷せられ、今般外国公使の入京参朝を仰せ付けられた次第である、と告げてある。もとより膺懲のことを忘れてはならない、たとい和親を講じても曲直は明らかにせねばならない、攻守の覚悟はもちろんの事であるが、先朝においてすでに開港を差し許され、皇国と各国との和親はその時に始まっている、このたび王政一新、万機朝廷より仰せいだされるについては、各国との交際も直ちに朝廷においてお取り扱いになるは元よりの御事である、今や御親政の初めにあたり、非常多難の時に際会し、深く恐懼と思慮とを加え、天下の公論をもつて奏聞に及び、今般の事件を御決定になった次第である、かつ、国内もまだ定まらない上に、海外万国交際の大事である、上下協力して共に王事に勤労せよ、現時の急務は活眼を開いて従前の弊習を脱するにあると心得よ、とも告げてある。 これは開国の宣言とも見るべきものであるが、大いに伸びようとするものは大いに屈しなければならないとの意志はこの英断にこもっていた。よろしく世界に進みいでよ、理のあるところには異国人にも頭を下げよ、彼の長を採り我の短を補い万世の大基礎を打ち建てよ、上下一致して縦横に踏み出せ、と言われたのはこの際である。 |
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二月の十九日に、仏国公使からは五か条の申し出があった。三日間にその決答を求めて来た。その時になると、旭茶屋事件の真相もはっきりして来た。仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員は艦長の指揮により、士官両人の付き添いで、堺港内の深浅を測量していたところ、土州兵のためにその挙動を疑われ、にわかに岸からの狙撃を受けたものであった。乗組員のうち、わずかに一人だけが水を泳ぎきって無事にその場をのがれたこともわかって来た。フランス側に言わせると、軍港でもないところの海底の深浅を測量したからとて、そのために外国人を斃すとは何事であるか、もしその行為が不当であるなら乗組員を諭して去らしめるがいい、それでも言うことをきかなかったら抑留して仏国領事に引き渡すがいい、日本に在留したヨーロッパ人、ないしアメリカ人の身に罪なくして命を失ったものはすでに三十人に及んでいるとの言い分である。 「申し上げます。明後二十三日には堺の妙国寺で、土佐の暴動人に切腹を言い付けるそうでございます。つきましては、フランス側の被害者は、即死四人、手負い七人、行くえ知れず七人でありましたから、土佐のものも二十人ぐらいでよろしかろうということで、関係者二十人に切腹を言い付けるそうでございます」。「気の毒なことだが、いたし方ない。暴動人の処刑は先方のきびしい請求だから」。東久世家の執事と通禧とは、こんな言葉をかわした。「では、五代才助と上野敬助の両人に、当日立ち会うようにと、そう言ってやってください」と通禧は言い添えた。 |
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妙国寺に土州兵らの処刑があったという日の夕方には、執事がまた通禧のところへ来て言った。「今日は土佐家から、客分の家老職に当たります深尾康臣も検使として立ち会ったと申してまいりました。鬮引きで、切腹に当たる者を呼び出したということですが、なかなか立派であったそうで――辞世なぞも詠みましたそうで。ところが、切腹を実行して十一人目になりますと、そこに出張していたフランスの士官から助命の申し出がありました。あまり気の毒だから、切腹はもうおやめなさいと申したそうでございます。いや、はや、慷慨家の寄り集まりで、仏人からそう申しても、ぜひ切ると言った調子で、聞き入れません。これには五代氏も止めるがいいと言い出しまして、切腹、罷りならぬ、そう厳命で止めさせたと承りました」。この「切腹、罷りならぬ」には通禧も笑っていいか、どうしていいか、わからなかった。 もはや、旧暦二月末の暖かい雨もやって来るようになった。それからの旭茶屋事件には、仏人からの命乞いがあり、九人の土州兵を流罪ということにして肥後と芸州とに預けるような相談も出た。山階の宮も英国の軍艦までおいでになって、仏国全権ロセスに面会せられ、五か条の中の一か条で御挨拶があった。この事を心配した土佐の山内容堂が病気を押して国もとから大坂に着いた日の後には、償金十五万両を三度に切って、フランス国に陳謝の意を表するほか、十一人の遺族、七人の負傷者のために土佐藩から贈るような日が続いた。 |
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四 | |
「先達て布告に相成り候各国の中、仏英蘭公使、いよいよ来たる二十七日大坂表出発、水陸通行、同夜伏見表に止宿、二十八日上京仰せいだされ候。右については、かねて御沙汰のとおり、すべて万国公法をもって御交際遊ばされ候儀につき、一同心得違いこれなきよう、藩々においても厳重取り締まりいたすべく仰せいだされ候事」。この布告が出るころには、米国、伊国、普国の公使らはもはや大坂にいなかった。亡きフランス軍人のために神戸外人墓地での葬儀が営まれるのを機会に、関東方面の形勢も案じられると言って、横浜居留地をさして大坂から退いて行った。後には、上京のしたくにいそがしい英国、仏国、オランダの三公使だけが残った。 外人禁制の都、京都へ。このことが英公使パアクスをよろこばせた上に、彼にはこの上京につけて心ひそかな誇りがあった。今や日本の中世的な封建制度はヨーロッパ人の東漸とともに消滅せざるを得ない時となって来ている、それを見抜いたのが前公使のアールコックであり、また、新社会構成のために西方諸藩の人たちを助けてこの革命を成就せしめようとしているものも、そういう自分であるとの強い自負心は絶えず彼の念頭を去らない。このパアクスは、年若な日本の政事家の多い新政府の人たちを自分の生徒とも見るような心構えでもって、例の赤備兵の一隊を引き連れ、書記官ミットフォードと共に二十七日にはすでに上京の途についた。 仏国公使ロセスと、オランダ代理公使ブロックとの出発は、それより一日おくれた。これは途中の危険を慮り、かつその混雑を防ごうとする日本委員の心づかいによる。神戸三宮事件に、堺旭茶屋事件に、御一新早々苦い経験をなめさせられたのも、そういう新政府の人たちだからであった。太政官では従来の秘密主義を捨てて、三国の使節が大坂出発の日取りまで発表し、かく上京参内を仰せ付けられたのも深き思し召しのあることだから、いささかも不作法な所業のないように、町役を勤めるものはもちろん、一家一家においても召使いの者までとくと申し聞けよ、もし心得違いのことがあって国難を引き出したら相済まない次第であるぞ、と触れ出した。 時はあだかも江戸開板の新聞紙が初めて印行されるというころに当たる。東征先鋒兼鎮撫総督らの進出する模様は、先年横浜に発行されたタイムス、またはヘラルドの英字新聞を通しても外人の間には報道されていた。大政官日誌以外に、京大坂にはまだ新聞紙の発行を見ない。それでも会津、松山、高松、大多喜等の諸大名は皆京都に敵対するものとして、その屋敷をも領地をも召し上げらるべきよしの報道なぞはしきりに伝わって来た。新政府が東征軍進発のために立てた予算は当局者以外にだれも知るよしもなかったが、大坂の町人で御用金の命に応じたり、あるいは奮って国恩のために上納金を願い出たりしたもののうわさは、金銭のことにくわしい市民の口に上らずにはいなかったころである。 公使ロセスは書記官カションを同伴して、安治川の川岸から艀に乗るところへ出た。仏国船将ピレックス、およびトワアルの両人もフランス兵をしたがえて京都まで同行するはずであった。そこへオランダ代理公使ブロックと同国書記官クラインケエスも落ち合って見ると、公使一行の主なものは都合六人となった。岸からすこし離れたところには二艘の小蒸汽船が待っていて、一艘には公使一行と、護衛のために同伴する日本人の官吏およびフランス兵を乗せ、他の一艘には薩州の護衛兵を乗せた。その日は伏見泊まりの予定で、水陸両道から淀川をさかのぼる手はずになっていた。陸を行く護衛の一隊なぞはすでに伏見街道をさして出発したという騒ぎだ。異国人の参内と聞いて、一行の旅装を見ようとする男や女はその川岸にも群がり集まって来ている。京都の方へは中井弘蔵が数日前に先発し、小松帯刀、伊藤俊介らは英国公使と同道で大坂を立って行った。ロセスらの一行が途中の無事を祈り顔な東久世通禧の名代もその艀まで見送りに来た。 小蒸汽船が動き出してからも、不慮の出来事を警戒するような監視者の目は一刻も毛色の変わった人たちから離れない。いたるところに青みがかった岸の柳も旅するものの目をよろこばすころで、一大三角州をなした淀川の川口にはもはや春がめぐって来ていた。でも、うっかりロセスなぞは肩に掛けていた双眼鏡を取り出せなかったくらいだ。「こんなにしてくれなくてもいい。どうして外国人はこんな監視を受けなければならないのか」。オランダの代理公使はひどくうるさがって、それを通訳の書記官に言わせると、付き添いの日本の官吏は首を振った。「諸君を保護するのであります」との答えだ。 旅の掟もやかましい。一行が京都へ着いた際の心得まで個条書になって細かく規定されている。その規定によると、滞在中は洛の中外を随意に徘徊することは許される、諸商い物を買い求めたり小屋物等を見物したりすることも許される、しかし茶屋酒楼等へひそかに越すことは許されない。夜分の外出は差し留められる事、宮方へ行き合う節は路傍に控えおるべき事、堂上あるいは諸侯へ行き合う節は双方道の半ばを譲って通行すべき事の類だ。それには但し書きまで付いていて、宮方へ行き合う節は御供頭へその旨を通じ、公使から相当の礼式があれば御会釈もあるはずだというようなことまで規定されている。 この個条書を正確に読みうるものは、一行のうちでカションのほかにない。カションはそれを公使ロセスにもオランダ代理公使ブロックにも訳して聞かせた。その船の船室には赤い毛氈を敷き、粗末な椅子を並べて、茶なぞのもてなしもあったが、カションはひとりながめを自由にするために、大坂を離れるころから船室を出て、舷に近い廊下の方へ行った。そこここには護衛顔なフランス兵も陣取っている。カションはその狭い廊下の一隅にいて煙草を取り出そうとすると、近づいて来て彼に挨拶し、いろいろと異国のことを質問する日本の官吏もあった。そういうカションはフランス人ながらに、俗にいう袂落しの煙草入れを洋服の内側のかくしに潜ませているほどの日本通だった。そばへ来た官吏は目さとくそれを見つけて、「ホ。君は日本の煙草をおやりですか」と不思議そうに尋ねる。カションはフランス人らしく肩をゆすった。さらに別のかくしから燧袋まで取り出した。彼はその船中で眼前に展開する河内平野の景色でもながめながら一服やることを楽しむばかりでなく、愛用する平たい鹿皮の煙草入れのにおいをかいで見たり、刀豆形の延べ銀の煙管を退屈な時の手なぐさみにしたりするだけにも、ある異国趣味の満足を覚えるというふうの男だ。やがて彼は煙管を口にくわえて、さもうまそうに刻みの葉をふかしていた。燧石を打つ手つきから、燃えついた火口を煙草に移すまで、その辺は彼も慣れたものだ。それを見ると官吏は目を円くして、こんな人も西洋人の中にあるかという顔つきで、「へえ、君はなかなかよく話す」。「どういたしまして」。「へたな日本人は、かないませんよ」。「それこそ御冗談でしょう」。「だれから君はそんな日本語をお習いでしたか」。「わたしですか。蝦夷の方にいた時分でした。函館奉行の組頭に、喜多村瑞見という人がありまして、あの人につきました。その時分、わたしは函館領事館に勤めていましたから。そうです、あの喜多村さんがわたしの教師です。なかなか話のおもしろい人でした。漢籍にもくわしいし、それに元は医者ですから、医学と薬草学の知識のある人でした。わたしはあの人にフランス語を教える、あの人はわたしに日本語を教えてくれました。あの時分は、喜多村さんも若かったし、わたしもまだ……」。「喜多村瑞見と言えば、聞いたことがある。幕府の使節でフランスの方へ行ってるあの喜多村じゃありませんか」。「そうです。その喜多村さんです」。それを聞くと、相手の官吏は急にきげんを悪くして、口をつぐんでしまった。その時、カションは局外中立である自分ら外国人が旧い教師のうわさをするのは一向差しつかえはあるまいというふうで、半分ひとりごとのように言った。「あの人も驚いていましょう。日本の国内に起こったことを聞いたら、驚いてパリから帰って来ましょう」。 よく耕された平野の光景は行く先にひらけた。そのよろこびが公使の一行をじっとさして置かなかった。いずれも平素はその時ほどの旅行の自由を持たなかったからで。そして、これを機会に、先着のヨーロッパ人が足跡をつけて行って見ようとしていたからで。極東をめがけて来たヨーロッパ人の中には、まれに許されて内地に深く進んだものもないではない。その中にはまた、日本の社会を観察して、かなり手きびしい意見を発表したものもないではない。ヨーロッパ文明と東洋文明とを比較して、その間の主なる区別は一つであるとなし、前者は虚偽を一般に排斥するも、後者は公然一般にこれを承認する。日本人やシナ人にあっては最も著しい虚言が発覚しても恥辱とせられない、かくまで信用の行なわるることの少ないこの社会に、いかにして人生における種々の関係が保たるるかは、解しがたいきわみであると言うものがある。日本人の道徳、および国民生活の基礎に関する思想は全くヨーロッパ人のそれと異なっている、その婦人身売りの汚辱から一朝にして純潔な結婚生活に帰るようなことは、日本には徳と不徳との間になんらの区画もないかと疑わせると言うものがある。自分らが旅行の初めには、土地の非常に豊かなのにも似ず、住民の貧乏な状態のはなはだしいのが目についた、村はもとより、大家屋の多く見える町でさえ活気や繁栄の見るべきものがない、かく人民の貧窮の状態にあるのはただ外形のみであってその実そうでないのか、あるいは実際耕作より得る収入も少ないのか、自分らはそれを満足に説明することができない、日本では政治上にも、統計上にも、また学問上にも、すべてに関してその知識を得ることが容易でない、これは各人がおのれ自身の生活とその職業とに関しない事項を全く承知しないためによると言うものもある。 しかし、日本に高い運命の潜んでいることを言わないヨーロッパ人はない。もし彼ら日本人にして応用科学の知識に欠くることなく、機械工業に進歩することもあらば、彼らはヨーロッパ諸国民と優に競争しうるものである、日本は文学上にも哲学上にも未知の国であるが、ここにある家屋は清潔に、衣服も実用に耐え、武器の精鋭は驚くばかりである、独創の美に富んだ美術工芸の類については人によって見方も分かれているが、とにもかくにも過ぐる三百年の間、ほとんど外国と交通することもなしに、これほど独自の文化を築き上げた民族は他にその比を見ない。そう言わないものもない。「今こそ日本内地の深さにはいって見る時が来た」。こうカションが公使のそばへ行って語って見せるたびに、ロセスはそれをたしなめるような語気で、「カション、いくら君が日本の言葉からはいろうとしても、その言葉の奥にあるものには手が届くまい。やはり、われわれヨーロッパのものは、なかなか東洋人の魂にははいれないのだ」。それがロセスの言い草だった。 公使の一行が進んで行ったところは、広い淀川の流域から畿内中部地方の高地へと向かったところにあるが、あいにくと曇った日で、遠い山地の方を望むことはかなわなかった。二艘の小蒸汽船は対岸に神社の杜や村落の見える淀川の中央からもっと先まで進んだ。そこまで行っても、遠い山々に隠れ潜んで容をあらわさない。天気が天気なら、初めて接するそれらの山嶽から、一行のものは激しい好奇心を癒し得たかもしれない。でも、そちらの方には深い高地があって、その遠い連山の間に山城から丹波にまたがるいくつかの高峰があるという日本人の説明を聞くだけにも満足するものが多かった。中でも、一番年若なカションは、一番熱心にその説明を聞いていた。どんな白い目で極東の視察に来るヨーロッパ人でも、この淀川に浮かんで来る春をながめたら、いかにこの島国が自然に恵まれていることの深いかを感じないものはあるまいとするのも、彼だ。 次第に淀の駅の船着場も近いと聞くころには、煙るような雨が川の上へ来た。公使一行の中には慣れない不自由な旅に疲れて、早く伏見へと願っているものがある。何が伏見や京都の方に自分ら外国人を待っているだろうと言って、そろそろ上陸後の心づかいを始めるものがある。舷の側の狭い廊下にもたれて、暖かではあるが寂しい雨を旅らしくながめているものもある。日本好きなカションにして見れば、この煙るような雨にしてからが、この国に来て初めて見られるようなものなのだ。なんでも彼は目をとめて見た。しばらく彼は書記官としての自分の勤めも忘れて、大坂道頓堀と淀の間を往復する川舟、その屋根をおおう画趣の深い苫、雨にぬれながら櫓を押す船頭の蓑と笠なぞに見とれていた。そのうちに、反対な岸の方をも見ようとして、狭い汽船の廊下を一回りして行くと、公使ロセスとオランダ代理公使ブロックとが舷に近く立って話しているそばへ出た。しとしと降り続けている雨をその廊下からながめながら、聞くつもりもなく彼は公使らの話に耳を傾けた。 「江戸が攻撃されることになったら、横浜はどうなろう」とロセスの声で。「無論危ない。救いはどこからもあの港に来ない。おそらく、その日が来たら、居留民を保護する暇なぞは日本新政府の力にもなくなろう」とブロックの声で。遠からず来たるべき江戸総攻撃のうわさが、そこにかわされている。公使らを監視しようとして一刻も油断しない戒心のために、同伴の官吏もひどく疲れた時であったから、公使らはその弱点に乗ずるともなく、互いに遠慮のないところを語り合っているのだ。「徳川慶喜はただただ謹慎の意を表しているというではないか。戦いを好まないというではないか」と今度はブロックの声で。「そこだ。そのことはだれも認めている。あの英国公使ですら、それは認めている。それほど恭順の意を表しているものに対して、攻撃を加えるようなことは、正義と人道とが許すだろうか」とロセスの声で。「まったく、君の言うとおりだ」。「なんとかして江戸攻撃をやめさせることはできないものか。自分はもう、こんなみじめな内乱を傍観してはいられない」。 オランダ公務代理総領事としてのブロックが関東の形勢の案じられると言うにも、相応の理由はあった。この人に言わせると、当時のこの国の急務は内乱をおさめるにある。日本国がいつまでも日本人の手にありたいと願うなら、早くこんな内乱をおさめるがいい。そして国内衰弊の風を諸外国に示さないがいい。これまで強大な諸大名が外国から購い入れた軍船、運送船、鉄砲、弾薬の類はおびただしい額に上り、その代金は全部直ちに支払われるはずもなく、現に諸外国の政府もしくは臣民はその債権者の位置にある。もし国内の戦争が日につぎやむ時なく、ここに終わってかしこに始まるというふうに、強大な諸大名が互いに争闘を事としたら、国勢は窮蹙し、四民は困弊するばかりであろう。これがブロックの懸念であった。「どうしてもこれは英国公使に協議する必要がある」とまたロセスの声で、「もちろんわれわれは日本の内政に干渉する意志はない。しかしなんらかの形で、南軍の参謀に反省を求める必要がある。あの慶喜をも救わねばならない。一国の政治を執って来たものを、われわれはにわかに逆賊とは見なしたくない。まして慶喜はこれまで政権を執ったばかりでなく、過去三世紀にもわたってこの国の平和を維持した徳川の旧い事業に対しても感謝されていい人だ。彼が江戸の方へにげ帰ったあとで、彼に謁見した外国人もあるが、いずれも彼の温雅であって貴人の体を失わないことをほめないものはない。今こそ徳川は不幸にして浮き雲におおわれているが、全く滅亡する事は惜しい、そう多くのものは言っている。しかし、彼慶喜がこの国にあっては、もとより凡庸の人でないことは自分も知っている。彼が自分ら外国人に対してもつねに親友の情を失わないのは不思議もない」。 フランス公使ロセスが徳川に寄せる同情は、言葉のはしにも隠せないものがあった。そこには随行員以外に、だれも公使のつかうフランス語を解するものはいなかった。それでもカションは周囲を見回してその狭い廊下を行きつ戻りつしながら、公使のそばを立ち去りかねていた。 |
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五 | |
三国公使参内のうわさは早くも京都市民の間に伝わった。往昔、朝廷では玄蕃の官を置き、鴻臚館を建てて、遠い人を迎えたためしもある。今度の使節の上京はそれとは全く別の場合で、異国人のために建春門を開き、万国公法をもって御交際があろうというのだから、日本紀元二千五百余年来、未曾有の珍事であるには相違なかった。しかし、京都側として責任のある位置に立つものは、ただそれだけでは済まされない。正直一徹で聞こえた大原三位重徳なぞは、一度は恐縮し、一度は赤面した。先年の勅使が関東下向は勅諚もあるにはあったが、もっぱら鎖攘(鎖港攘夷の略)の国是であったからで。王政一新の前日までは、鎖攘を唱えるものは忠誠とせられ、開港を唱えるものは奸悪とせられた。しかるに手の裏をかえすように、その方向を一変したとなると、改革以前までの鎖攘を唱えたのは畢竟外国人を憎むのではなくして、徳川氏を顛覆するためであったとしか解されない。もとより朝廷において、そんな卑劣な叡慮はあらせられるはずもないが、世間からながめた時は徳川氏をつぶす手段と思うであろう。御一新となってまだ間もない。かくもにわかに方向を転換することは、朝廷も徳川氏に対して御遠慮あるべきはずである。先帝にもこの事にはすこぶる叡慮を悩ませられたと言って、大原卿はその心配をひそかに松平春嶽にもらしたという。 当時、京都は兵乱のあとを承けて、殺気もまだ全く消えうせない。ことに、神戸堺の暴動、およびその処刑の始末等はひどく攘夷の党派に影響を及ぼし、人心の激昂もはなはだしい。この際、公使謁見の接待を命ぜられた新政府の人たち、小松帯刀、木戸準一郎、後藤象次郎、伊藤俊介、それに京都旅館の準備と接待とを命ぜられた中井弘蔵なぞは、どんな手配りをしてもその勤めを果たさねばならない。京都にある三大寺院は公使らの旅館にあてるために準備された。三藩の兵隊はまた、それぞれの寺院に分かれて宿泊する公使らを衛ることになった。尾州兵は智恩院。薩州兵は相国寺。加州兵は南禅寺。 外国使臣一行の異様な行装を見ようとして遠近から集まって来た老若男女の群れは京都の町々を埋めた。三国公使とも前後して伏見街道から無事に京都の旅館に到着した翌々日だ。その前日は雨で、一行はいずれも騎馬、あるいは駕籠を用い、中井、伊藤らの官吏に伴われながら、新政府の大官貴顕と聞こえた三条、岩倉、鍋島、毛利、東久世の諸邸を回礼したと伝えらるることすら、大変な評判になっているころだ。 いよいよその日の午後には、新帝も南殿に出御して各国代表者の御挨拶を受けさせられる、公使らの随行員にまで謁見を許される、その間には楽人の奏楽まである、このうわさが人の口から口へと伝わった。新政府の処置挙動に不満を抱くものはもとより少なくない。こんな外国の侵入者がわが禁闕の下に至るのは許しがたいことだとして、攘夷の決行されないのを慷慨するものもある。官吏ともあろうものが夷狄の輩を引いて皇帝陛下の謁見を許すごときは、そもそも国体を汚すの罪人だというような言葉を書きつらね、係りの官吏および外国公使を誅戮すべしなどとした壁書も見いだされる。腕をまくるもの、歯ぎしりをかむものは、激しい好奇心に燃えている群集の中を分けて、西に東にと走り回った。三条、二条の通りを縦に貫く堺町あたりの両側は、公使らの参内を待ち受ける人で、さながら立錐の地を余さない。 この人出の中に、平田門人暮田正香もまじっていた。彼も今では沢家に身を寄せ、橘東蔵の変名で、執事として内外の事に働いている人であるが、丸太町と堺町との交叉する町角あたりに立って、多勢の男や女と一緒に使節一行を待ち受けた。もっとも、その時は正香一人でもなかった。信州伊那の南条村から用事があって上京している同門の人、館松縫助という連れがあった。 彼岸のころの雨降りあげくにかわきかけた町中の道が正香らの目にある。周囲には今か今かと首を延ばして南の方角を望むものがある。そこは相国寺を出る仏国公使の通路でないまでも、智恩院を出る英国公使と、南禅寺を出るオランダ代理公使との通路に当たる。正香も縫助もまだ西洋人というものを見たこともない。昨日の紅夷は、実に今日の国賓である。そのことが新政府をささえようとする熱い思いと一緒になって、二人の胸に入れまじった。 やがて、加州の紋じるしらしい梅鉢の旗を先に立てて、剣付き鉄砲を肩にした兵隊の一組が三条の方角から堺町通りを動いて来た。公使一行を護衛して来た人たちだ。そのうちにオランダ代理公使ブロックと、その書記官クラインケエスとを乗せた駕籠は、正香や縫助の待ち受けている前へさしかかった。遠い世界の人のようにのみ思われていたものは、今二人の平田門人のすぐ目の前にある。正香らはつとめて西洋人の風貌を熟視しようとしたが、それは容易なことではなかった。というのは、先方が駕籠の中の人であり、時は短かく、かつ動いているため、思うように公使らを見る余裕もないからであった。のみならず、筒袖、だんぶくろ、それに帯刀の扮装で、周囲を警め顔な官吏が駕籠のそばに付き添うているからで。 しかし、公使らを乗せた駕籠の窓には簾が巻き揚げてある。時には捧の前後に取りつく四人の駕籠かきが肩がわりをするので、正香らは黒羅紗の日覆いの下にくっきりと浮き出しているような公使らの顔をその窓のところに見ることはできた。駕籠の造りは蓙打ちの腰黒で、そんな乗り物を異国の使臣のために提供したところにも、旧い格式などを破って出ようとする新政府の意気込みがあらわれている。初めて正香らの目に映る西洋人は、なかなかに侮りがたい人たちで、ことに代理公使の方は、犯しがたい威風をさえそなえた容貌の人であった。髪の毛色を異にし、眸の色を異にし、皮膚の色を異にし、その他風俗から言葉までを異にするような、このめずらしい異国の人たちは、これがうわさに聞いて来た京都かという顔つきで、正香らの見ているところを通り過ぎて行った。 その時、オランダ人の参内を見送った群集はさらに英国公使の一行を待ち受けた。これは随行の赤備兵を引率していて、一層華々しい見ものであろうという。ところが智恩院を出たはずの公使らの一行が、待っても、待ってもやって来ない。しまいには正香らはあきらめて、なおも辛抱強くそこに立ち尽くしている多勢の男や女の群れから離れた。「暮田さん、なんだかわたしは夢のような気がする」。正香と一緒に歩き出した時の縫助の述懐だ。 京都は、東征軍の進発に、諸藩の人々の動きに、諸制度の改変に、あるいは破格な外国使臣の参内に、一切が激しく移り変わろうとするまっ最中にある。「縫助さん、よく君は出て来た。まあ、この復興の京都を見てくれたまえ」。口にこそ出さなかったが、正香はそれを目に言わせて、その足で堺町通りの角から丸太町を連れと一緒に歩いて行った。そこは平田門人仲間に知らないもののない染め物屋伊勢久の店のある麩屋町に近い。正香自身が仮寓する衣の棚へもそう遠くない。 正香が連れの縫助は、号を千足ともいう。伊那時代からの正香のなじみである。この人の上京は自身の用事のためばかりではなかった。旧冬十一月の二十二日に徳川慶喜が将軍職を辞したころから、国政は再び復古の日を迎えたとはいうものの、東国の物情はとかく穏やかでないと聞いて、江戸にある平田篤胤の稿本類がいつ兵火の災に罹るやも知れないと心配し出したのは、伊那の方にある先師没後の門人仲間である。座光寺村の北原稲雄が発起で、伊那の谷のような安全地帯へ先師の稿本類を移したい、一時それを平田家から預かって保管したい、それにはだれか同門のうちで適当な人物を江戸表へ送りたいとなった。その使者に選ばれたのが館松縫助なのだ。縫助はその役目を果たし、稿本類の全部を江戸から運搬して来て、首尾よく座光寺村に到着したのは前年の暮れのことであった。当時そのことは京都にある師鉄胤のもとへ書面で通知してあったが、なお、縫助は今度の上京を機会に、その報告をもたらして来たのである。正香としては、このよろこばしい音信を伊勢久の亭主にも分けたかった。日ごろ懇意にする亭主に縫助をあわせ、縫助自身の口から故翁の草稿物の無事に保管されていることを亭主にも聞かせたかった。染め物屋とは言いながら、理解のある義気に富んだ町人として、伊勢屋久兵衛の名は縫助もよく聞いて知っている。「どうです、縫助さん、出て来たついでだ。一つ伊勢久へも寄っておいでなさるサ」と言って、正香は連れを誘った。 御染物所。伊勢屋とした紺暖簾の見える麩屋町のあたりは静かな時だ。正香らが店の入り口の腰高な障子をあけて訪れると、左方の帳場格子のところにただ一人留守居顔な亭主を見つけた。ここでも家のものや店員は皆、異人見物の方に吸い取られている。「これは。これは」。正香と連れだっての縫助の訪問が久兵衛をよろこばせた。「さあ、どうぞ」とまた久兵衛は言いながら、奥から座蒲団などを取り出して来て、その帳場格子のそばに客の席をつくった。久兵衛もまた平田門人の一人であった。この人は町人ながらに、早くから尊王の志を抱き、和歌をも能くした。幕末のころには、彼のもとをたよって来る勤王の志士も多かったが、彼はそれを懇切にもてなし、いろいろと斡旋紹介の労をいとわなかった。文久年代に上京した伊那伴野村の松尾多勢子、つづいて上京した美濃中津川の浅見景蔵、いずれもまず彼のもとに落ちついて、伊勢屋に草鞋をぬいだ人たちだ。南信東濃地方から勤王のため入洛を思い立って来る平田の門人仲間で、彼の世話にならないものはないくらいだ。 「この正月になりましてから、伊那からもだいぶお見えでございますな」と久兵衛は縫助に言って見せて、王政復古の声を聞くと同時に競って地方から上京して来るもの、何がな王事のために尽くそうとするものなぞの名を数えた。祭政一致をめがけて神葬古式の復旧運動に奔走する倉沢義髄と原信好、榊下枝の変名で岩倉家に身を寄せる原遊斎、伊那での長い潜伏時代から活き返って来たような権田直助、その弟子井上頼圀、それから再度上京して来て施薬院[#「施薬院」は底本では「施楽院」]の岩倉家に来客の応接や女中の取り締まりや子女の教育なぞまで担当するようになった松尾多勢子――数えて来ると、正月以来京都に集まっている同門の人たちは、伊那方面だけでも久兵衛の指に折りきれないほどあった。そう言えば、師の平田鉄胤も今では全家をあげて京都に引き移っていて、参与として新政府の創業にあずかる重い位置にある。「どれ、お茶でも差し上げて、それからお話を伺うとしましょう。あいにく、家のものを皆出してしまいました」。そう言いながら久兵衛は奥の方へ立って行って、こまかい大坂格子のかげで茶道具などを取り出す音をさせた。 その時、正香はそこの店先にすわり直して、縫助と二人で話した。「久兵衛さんもおもしろい人ですね。この店では篤胤先生の本を売りますよ。気吹の舎の著述なら、なんでもそろえてありますよ。染め物のほかに、官服の注文にも応じるしサ。まあ商売をしながら、道をひろめているんですね」。「へえ、これはよいお店だ」。その店先は、亭主が帳場格子のところにいて染め物の仕事場を監督する場所である。正香は仕事場の方を縫助にさして見せた。入り口から裏の物干し場へ通りぬけられるような土間をへだててその仕事場がある。そこはなかなか広い仕事場であるが、周囲の格子をしめきるとすこぶる薄暗い。しかし三尺もの下壁と言わず、こまかく厚手なぶッつけ格子と言わず、がっしりとした構造は念の入ったものである。正香はまた、四つずつ一組としてある藍瓶を縫助にさして見せた。わざと暗くしてあるような仕事場の格子を通して、かすかな光線がそこにさし入っている。幾組か並んだ瓶の中の染料には熱が加えてあると見えて、静かに沸く藍の香がその店先までにおって来ている。 久兵衛は自分で茶を入れて来た。それを店先へ運んで来た。その深い茶碗の形からして商家らしいものを正香らの前に置き、色も香ばしそうによく出た煎茶を客にもすすめ、自分でも飲みながら、「館松さんは、もう錦小路(鉄胤の寓居をさす)をお訪ねでございましたか」。こんな話を始めかけると、入り口の障子のあく音がして、家のものが一緒に異人見物からどやどやと戻って来た。とうとう英国公使だけは見えなかったと言うものがある。こっそりそばへ行ってあのオランダ人のにおいをかいで見たら、どんな異人臭いものかと言うものがある。「いやらし、いやらし」などと言う若い娘の声もする。隠れたところにいて同門の人たちのために働いているような久兵衛は、先師稿本の類が伊那の方に移されたことを聞いたあとで、さらに話しつづけた。「さぞ老先生(鉄胤のこと)も御安心でございましょう」。「なにしろ、王政復古の日が来たばかりのごたごたした中で、七十何里もあるところに運搬しようというんですから」と正香が言って見せる。「そいつは、なかなか」と久兵衛も言う。「いや、」と縫助はその話を引き取った。「わたしが江戸へ出ました時は、平田家でも評議の最中でした。江戸も騒がしゅうございましたよ。早速、お見舞いを申し上げて、それから保管方を申し出ましたところ、大変によろこんでくださいました。道中が心配になりましたから、護りの御符は白河家(京都神祇伯)からもらい受けました。それを荷物に付けるやら、自分で宰領をするやらして、たくさんな稿本や書類を馬で運搬したわけなんです。昨年、十二月の十八日に座光寺へ着きましたが、あの時は北原稲雄もわたしの手を執ってよろこびました。田島の前沢万里、今村豊三郎、いずれもこの事には心配して、路用なぞを出し合った仲間です」。こんな話が尽きなかった。 旅にある縫助はその日と翌日とを知人の訪問に費やし、出て来たついでに四条の雛市を見、寄れたら今一度正香のところへも寄って、京都を辞し去ろうという人であった。彼は正香の言うように、それほどこの復興の京都に浸って見る時を持たないまでも、ともかくも師鉄胤の家を訪ね、正香と旧い交わりを温め、伊勢久の店先に旅の時を送るというだけにも満足していた。この縫助が礼を述べて立ちかけるので、久兵衛はそれを引きとめるようにして、「オヤ、もうお帰りでございますか。何もおかまいいたしませんでした」。その時、久兵衛は染め物屋らしいことを言い出した。昨年の三月、諒闇の春を迎えたころから再度の入洛を思い立って来て、正香らと共にずっと奔走を続けていた人に中津川本陣の浅見景蔵がある。東山道先鋒兼鎮撫総督の一行が美濃を通過すると知って、にわかに景蔵は京都の仮寓を畳み、郷里をさして帰って行った。その節、注文の染め物を久兵衛のもとに残した。こんな街道筋の混雑する時で、それを送り届けることも容易でない。いずれ縫助の帰路は大津から中津川の方角であろうから、めんどうでもそれを届けてもらいたいというのであった。「暮田さん、あなたからもお願いしてください」と久兵衛は手をもみもみ言った。「初めてお目にかかったかたに、こんなことをお願いしちゃ失礼ですけれど」。「なあに、そこは万国公法の世の中だもの」と正香が戯れて見せた。「それ、それ、」と久兵衛も軽く笑って、「近ごろはそれが大流行」。「縫助さん、君もその意気で預かって行くさ」とまた正香が言い添える。「暮田さんらしいトボけたことを言い出したぞ」と縫助まで一緒になって笑い出した。「わたしも今度京都へ出て来て見て、皆が万国公法を振り回すには驚きましたね。では、こうします。立つ前に、もう一度暮田さんを訪ねます。その時に伊勢屋さんへもお寄りします」。 英国公使パアクスの上京には新政府でもことに意を用いた。大坂を立つ時は小松帯刀と伊藤俊介とが付き添い、京都にはいった時は中井弘蔵と後藤象次郎とが伏見稲荷の辺に出迎え、無事に智恩院の旅館に到着した。この公使の一行が赤い軍服を着けた英国の護衛兵(いわゆる赤備兵)を引率し、あるいは騎馬、あるいは駕籠で、参内のために智恩院新門前通りから繩手通りにかかった時だ。そこへ二人の攘夷家が群集の中から飛び出したのであった。かねて新政府ではこんなことのあるのを憂い、各藩からは二十人以上の兵隊を出させ、通行の道筋を厳重に取り締まらせ、旅館の近傍へは屯兵所を設けて昼夜怠りなき回り番の手配りまでしたほどであったのに、新政府が万国交際の趣意もよく攘夷家に徹しなかったのであろう。それ乱暴者だと言って、一行護衛の先頭にあった兵隊が発砲する、群集は驚いて散乱する、その間に壮漢らの撃ち合いが行なわれた。中井弘蔵と後藤象次郎とは公使の接待役として、その時も行列の中にあったが、後藤は赤備兵の中へしゃにむに斬り込んで来たもののあるのを見て、刀を抜いて一名を斃した。二度目に後藤の刀の目釘が抜けて、その刀が飛んだ。そこで中井が受けた。中井は受けそこねて、頭部を斬られながらその場に倒れた。一名が兵隊のため生捕りにされて、この騒ぎはようやくしずまったが、赤備兵の中には八、九人の手負いを出した。 騎馬で行列の中にあったパアクスその人は運強くも傷つけられなかったとはいえ、参内はこの変事のために見合わせになった。さてこそ英国公使の通行を見なかったのである。一方には、紫宸殿での御対面の式がパアクス以外の二国公使に対して行なわれた。新帝は御袴に白の御衣で、仏国のロセスとオランダのブロックとに拝謁を許された。式後の公使には鶴の間で、菓子カステラなどを饗せられたという。従来、徳川将軍の時代にもまれに外国使節の謁見を許したが、しかし将軍の態度はすこぶる尊大であったのに、その跪坐低頭の礼をすら免じ、帝みずから親しく異邦人を引見せられるばかりか、彼らをして直立して帝の尊顔を拝することを得せしめたもうたとある。この一事だけでも、彼らフランス人やオランダ人の間には信じがたいほどの大改革の感を与えたという。 しかし、繩手通りでの変事がロセスらに知られずにはいなかった。式の終わったあとで、接待役と通詞とを兼ねた伊藤俊介が二公使を接待席に伴ない、その時までロセスに示さずにあったパアクスからの書面を取り出して見せた。それは英国の一騎兵がパアクスの使いとして仏国公使あてに持参したものだ。ロセスはそれを読むと、たちまち顔色を変え、「暴動がある」と叫びながらそこそこに暇を告げて、単騎で智恩院へ駆けつけた。そしてパアクスに向かって、すみやかに兵庫へ帰ろう、軍艦で横浜の方へおもむこうと説き勧めたという。でも、パアクスは頭を左右に振って、仏国公使の勧めに応じなかったとか。 これらの話をもって、翌日の午後にまた正香は久兵衛を見に寄った。衣の棚の方へ暇乞いに来た縫助とも同道で、二人して伊勢久の店先に腰掛けた。「どうも驚きましたね」。久兵衛は奥からそこへ飛んで出て来て言った。店先に腰掛けるものも、火鉢なぞを引き寄せて客を迎えるものも、互いに顔を見合わせた。「昨日は、岩倉様が見舞いに行く、越前の殿様(春嶽)が見舞いに行く、智恩院も大変だったそうです」とまた久兵衛が言い出した。「昨晩はみんな心配したようですよ」。「でも、パアクスもおもしろい男じゃありませんか」と正香は言った。「引き連れて来た兵士に傷を負ったものは多いんだけれど、自分も、士官らも、中井、後藤二氏の奮闘のおかげで助かった、今ここで謁見の式も済まさずに帰ってしまったら、皇帝陛下に対しても不敬に当たるだろう――そう言ったそうだ」。「さあ、この処置はどう収まるものですかサ。すくなくも六、七万両ぐらいの償金は取られるだろうなんて、そんなうわさでございますよ」。 その時になると、二日を置いて改めて英国公使の参内があると触れ出されたが、町々の取り締まりは一層厳重をきわめるようになった。久兵衛は帳場格子のところへ立って行って、町役人から回って来たばかりの触れ書を取り出して来た。それを正香にも縫助にも見せた。来たる英国公使参内の当日には、繩手通り、三条通りから、堺町の往来筋へかけて、巳の刻より諸人通行留めの事とある。左右横道の木戸は締め切りの事とある。往来筋に住居する町家その他の家族と召使いのほかは、他人一切の滞留を差し留めるともある。「ホ、」と縫助は目を円くして、「公用はもちろん、私用でも、町役人の免許を得ないものは通行を許さないとありますね。ぐずぐずしてると、わたしは国の方へ立てなくなる」。「今は京都も騒がしゅうございますよ。諸藩の人が入り込んでおります。こんな新政府は今にひっくりかえるなんて、内々そんな腹でいるものもございます――なかなか油断はなりません」。久兵衛は言葉に力を入れてそれを縫助に言って見せた。 そこへ久兵衛の養子が奥から顔を出した。店には平田篤胤の遺著でも取りそろえて置こうというような町人気質の久兵衛とも違って、その養子はまた染め物屋一方という顔つきの人だ。手も濃い藍の色に染まっている。久兵衛はその人に言い付けて、帳箪笥の横手にある戸棚から紙包みを取り出させた。その上に、「御誂、伊勢久」としてあるのを縫助の前に置いた。「では、恐れ入りますが、これを中津川の浅見景蔵さんへ届けていただきたい。道中のお荷物になって、お邪魔でしょうけれど」と言って、久兵衛は養子の方を顧みて、「ちょっとお客様にお目にかけるか」。「よい色に上がりましたよ」と養子も紙包みを解きながら言った。「これはよい黒だ」と正香が言う。「京の水でなければこの色は出ません。江戸紫と申して、江戸の水は紫に合いますし、京の水はまた紅によく合います。京紅と申すくらいです。この羽織地の黒も下染めには紅が使ってございます」。久兵衛は久兵衛らしいことを言った。「確かに」。その言葉を残して置いて、縫助は久兵衛に別れを告げた。預かった染め物の風呂敷包みをも小脇にかかえながら、やがて彼は紺地に白く伊勢屋と染めぬいてある暖簾をくぐって出た。「縫助さん、わたしもそこまで一緒に行こう」と言いながら正香は縫助のあとを追って行った。 外国人滞在中は、乗輿、および乗馬のまま九門の通行を許すというだけでも、今までには聞かなかったことである。一事が実に万事であった。一切の破格なことがかもし出す空気は、この山の上の古い都に活き返るような生気をそそぎ入れつつあった。「とにかく、世界の人を相手にするような時世にはなって来ましたね」。伊那南条村の片田舎から出て来て見た縫助にこの述懐があるばかりでなく、王政復古を迎えた日は、やがて万国交際の始まった日であったとは、正香にとっても決しておろそかには考えられないことであった。縫助は三条の方角をさして、正香と一緒に麩屋町から寺町の通りに出ながら、「暮田さん、今度わたしは京都に出て来て見て、そう思います。なんと言っても今のところじゃ藩が中心です。藩というものをそれぞれ背負って立ってる人たちは、思うことがやれる。ところが、われわれ平田門人はいずれも医者か、庄屋か、本陣問屋か、でなければ百姓町人でしょう」。「そう言えば、そうさ。平田門人の大部分は。」。「でしょう。みんな縁の下の力持ちです。それでも、どうかして新政府を護り立てようとしています。それを思うと、いたいたしい」。「しかし、縫助さん、君は平田門人が下積みになってるものばかりのように言うが、士分のものだってなくはない」。「そうでしょうか」。「見たまえ、こないだわたしは鉄胤先生のところで、天保時代の古い門人帳を見せてもらったが、あの時分の篤胤直門は五百四十九人ぐらいで、その中で七十三人が士分のものさ。全国で十七藩ぐらいから、そういう人たちを出してるよ。最も多い藩が十四人、最も少ない藩が一人というふうにね。鹿児島、津和野、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台――数えて来ると、同門の藩士もふえて来たね。山吹、苗木なぞは言うまでもなしさ。あの時分の十七藩が、今じゃ三十五藩ぐらいになってやしないか。そこだよ、君――各藩は今、大きな問題につき当たって、だれもが右往左往してる。勤王か、佐幕かだ。こういう時に、平田篤胤没後の門人が諸藩の中にもあると考えて見たまえ。あの越前藩の中根雪江が、春嶽公と同藩の人たちとの間に立って、勤王を鼓吹してるなぞは、そのよい例じゃないかと思うね。それから、越前には君、橘曙覧のような同門の歌人もあるよ――もっとも、この人は士分かどうか、その辺はよく知らないがね」。「とにかく、暮田さん。同門の人たちが急にふえて来たことは、驚くようですね。他の土地は知りませんが、あなたが伊那に来て隠れていた時分、一年の入門者は二十人くらいのものでしたろう。それでもあの谷じゃ、七人か九人から急に二十人の入門者ができたと言って、みんな肩身が広くなったように思ったものです。どうでしょう、昨年の冬からこの春へかけて、一息に百人という勢いですぜ」。「この調子で行ったら、全国の御同門は今に三千人を越えるだろうね。そりゃ君、士分のものばかりじゃない。堂上の公卿衆にだって、三十人近い御同門のかたができて来たからね。こんなに故人の平田篤胤を師と頼んで来る人のあるのは、どういう理由かと尋ねて見るがいい。あの篤胤先生には『霊の真柱』という言葉がある……そうさ、魂の柱さ。そいつを皆が失っているからじゃないかね……今の時代が求めるものは、君、再び生きるということじゃなかろうか……」。 しばらく二人は黙って寺町の通りを歩いて行った。そのうちに、縫助は何か言い出そうとして、すこし躊躇して、また始めた。「暮田さん、ここまで送って来ていただけばたくさんです。あすの朝はわたしも早く立ちます。大津経由で、木曾街道の方に向かいます。ここでお別れとしましょう。」。「まあもうすこし一緒に行こう」。「どうでしょう、暮田さん、沢家のお邸の方へは何か報告が来るんでしょうか。東山道回りの鎮撫総督も行き悩んでいるようですね」。「どうも、そうらしい」。「あれで美濃にはいろいろな藩がありますからね。中には、佐幕でがんばってるところもありますからね」。「これから君の足で木曾街道を下って行ったら、大垣あたりで総督の一行に追いつきゃしないか」。「さあ」。「中津川の浅見君にはよろしく言ってくれたまえ。それから、君が馬籠峠を通ったら、あそこの青山半蔵の家へも声をかけて行ってもらいたい」。 とうとう、正香は縫助について、寺町の通りを三条まで歩いた。さらに三条大橋のたもとまで送って行った。その河原は正香にとって、通るたびに冷や汗の出るところだ。過ぐる文久三年の二月、同門の師岡正胤ら八人のものと共に、彼が等持院にある足利尊氏以下、二将軍の木像の首を抜き取って、幕府への見せしめのため晒し物としたのも、その河原だ。そこには今、徳川慶喜征討令を掲げた高札がいかめしく建てられてあるのを見る。川上の橋の方から奔り流れて来る加茂川の水に変わりはないまでも、京都はもはや昨日の京都ではない。人心を鼓舞するために新しく作られた「宮さま、宮さま」の軍歌は、言葉のやさしいのと流行唄の調子に近いのとで、手ぬぐいに髪を包んでそこいらの橋のたもとに遊んでいるような町の子守り娘の口にまで上っていた。[#改頁] |
(私論.私見)