夜明け前第一部下の5 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「島崎藤村/夜明け前第一部下の1」を確認する。「島崎藤村/夜明け前」を参照する。 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝 |
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【島崎藤村/夜明け前第一部下の5、第十二章】 | |
一 | |
「お父さんは」。一日の勤めを終わって庄屋らしい袴を脱いだ半蔵は、父吉左衛門のことを妻のお民にたずねた。「お民、ひょっとするとおれは急に思い立って、名古屋まで行って来るかもしれないぜ。もし出かけるようだったら、留守を頼むよ。お父さんやお母さんにもよく頼んで行く――なんだか西の方のことが心配になって来た」とまた彼は言って妻の顔を見た。半蔵夫婦の間にはお夏という女の子も生まれたが、わずか六十日ばかりでその四番目の子供は亡くなったころだ。お民の顔色もまだ青ざめている。 馬籠の宿場では慶応二年の七月を迎えている。毎年上り下りの大名がおびただしい人数を見る盆前の季節になっても、通行はまれだ。わずかに野尻泊まり、落合泊まりで上京する信州小諸城主牧野遠江守の一行をこの馬籠峠の上に迎えたに過ぎない。これは東山道方面ばかりでないと見えて、豊川稲荷から秋葉山へかけての参詣を済まして帰村したものの話に、旅人の往来は東海道筋にも至って寂しかったという。人馬共に通行は一向になかったともいう。街道もひっそりとしていた。 「半蔵、長州征伐のことはどうなったい」。夕方から半蔵が父の隠居する裏二階の方へのぼって行って見ると、吉左衛門はまずそれを半蔵にきいた。物情騒然とも言うべき時局のことは、半蔵ばかりでなく、年老いた吉左衛門の心をも静かにしては置かなかった。父が住む裏二階には、座敷先のような仮廂こそ掛けてないが、二間ある部屋の襖も取りはずして、きびしい残暑も身にしみるというふうに、そこいらは風通しよく片づけてある。一日母屋の方に働いていた継母のおまんも、父のそばに戻って来ている。父は先代の隠居半六が余生を送ったこの同じ部屋にすわって、相手のおまんに肩なぞをもませながら、六十八年の街道生活を思い出しているような人である。「西の方の様子はどうかね」とおまんまでが父の背後にいてそれを半蔵にたずねた。「なんですか、こんな山の中にいたんじゃ、さっぱり本当のことがわかりません。小倉方面に戦争のあったことまではよくわかってますがね、あれから以後は確かな聞書も手に入りません。幕府方の勝利は疑いないとか、大勝利は近いうちにあるとか、そんな雲をつかむようなことばかりです。」と半蔵が答える。「まあ、しかしおれは隠居の身だ」と吉左衛門は言った。「きょうは佐吉を連れて、墓掃除に行って来たよ。もう盆も近いからな」。 吉左衛門とおまんとは、新たに子供を失った半蔵よりもお民の方を案じて、中津川からもらった瓜も新しい仏のために取って置こうとか、本谷というところへ馬買いに行ったものから土産にと贈られた桃も亡き孫娘(お夏)の霊前に供えようとか、そんな老夫婦らしい心づかいをしている。万福寺での墓掃除からくたびれて帰ったという父を見ると、半蔵も名古屋行きのことをすぐにそこへ切り出しかねた。「お母さん――どれ、わたしが一つかわりましょう」と彼はおまんに言って、父の背後の方へ立って行こうとした。「や、半蔵も按摩さんをやってくれるか。肩はもうたくさんだぞ。そんなら、足を頼もう」。吉左衛門はとかく不自由でいる右の足を半蔵の前に投げ出して見せた。中風を煩ったあげくの痕跡がまだそこに残っている。馬籠の駅長時代には百里の道を平気で踏んだほどの健脚とも思われないような、変わり果てた父の脹脛が、その時半蔵の手に触れた。かつて隆起した筋肉の勁さなぞは探したくもない。膝から足の甲へかけての骨もとがって来ている。「まあ、お父さんはこんな冷たい足をしているんですか」。半蔵は話し話し、温暖かい血の気が感じられるまで根気に父の足をなでさすっていた。先年、彼が父の病を祷るために御嶽山の方へ出かけたころから見ると、父も次第に健康を回復したが、しかしめっきり老い衰えて来たことは争えない。父ももはやそんなに長くこの世に生きている人ではなかろう。手から伝わって来るその感覚が彼をかなしませた。「半蔵、街道の方に声がするぞ」と吉左衛門はきき耳を立てて言った。「また早飛脚かと思うと、おれのような年寄りにもあの声は耳についてしまったよ」。その時、半蔵は父のそばを離れて、「またか」というふうにその裏二階の縁先の位置から街道の空をうかがった。以前、京都からのがれて来た時の暮田正香を隠したこともある土蔵の壁には淡い月がさして来ていて、庭に植えてある柿の梢も暗い。峠の上の空を急ぐ早い雲脚までがなんとなく彼の心にかかった。 |
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最初、今度の軍役に使用される人馬は慶安度軍役の半減という幕府の命令ではあったが、それでも前年の五月に将軍が進発された時の導従はおびただしい数に上り、五百石以上の諸士は予備の雇い人馬まで使用することを許されたほどで、沿道人民がこうむる難儀も一通りでなかった。そうでなくてさえ、困窮疲労の声は諸国に満ちて来た。江戸の方を見ると、参覲交代廃止以来の深刻な不景気に加えて、将軍進発当時の米価は金壱両につき一斗四、五升にも上がり、窮民の騒動は実に未曾有の事であったとか。どうして天明七年の飢饉のおりに江戸に起こった打ちこわしどころの話ではない。この打ちこわしは前年五月二十八日の夜から品川宿、芝田町、四谷をはじめ、下町、本所辺を荒らし回り、横浜貿易商の家や米屋やその他富有な家を破壊して、それが七、八日にも及んだ。進発に際する諸士の動員と共に、食糧の徴発と、米穀の買い占めと、急激な物価の騰貴とが、江戸の窮民をそんなところまで追いつめたのだ。 前年五月に起こった暴動は江戸にのみとどまらない。同じ月の十四日には大坂にも打ちこわしが始まって、それらの徒党は難波から西横堀上町へ回り、天満東から西へ回り、米屋と酒屋と質屋を破壊して、数百人のものが捕縛された。兵庫では八日から暴動して、同じように米屋なぞを破壊した。前年の六月になっても米価はますます騰貴するばかりで、武州の高麗、入間、榛沢、秩父の諸郡に起こった窮民の暴動はわずかに剣鎗の力で鎮圧されたほどである。 これほど窮迫した社会の空気の中で、幕府が江戸から大坂へ大軍を進めてからすでに一年あまりになる。いったん決心した将軍の辞職も、それを喜ぶ臣下の者はすくなかったために、御沙汰に及ばれがたしとの勅諚を拝して、またまた思いとどまるやら、将軍家の威信もさんざんに見えて来た。大坂城まで乗り出した幕府方は進むにも進まれず、退くにも退かれず幾度か長州藩のためにもてあそばれて、ついに開戦の火ぶたを切った。長い戦線は山陰、山陽、西海の三道にもわたった。一昨日は井伊、榊原の軍勢が芸州口から広島へ退いたとか、昨日は長州方の奇兵隊が石州口の浜田にあらわれたとか、そういうことを伝え聞く空気の中にあって、ただただ半蔵は村の人たちと共に戦時らしい心配を分かつのほかはなかった。 戦報も次第に漠として来ている。半蔵が西から受け取る最近の聞書には、戦地の方の正確な消息も一向に知らせて来ない。それがひどく半蔵を不安にしている。しばらく彼は裏二階の縁先に出て考えていたが、また親たちのいるところへ戻って来て言った。「この節は、早飛脚の置いて行く話も当てにならなくなりました。なんですか、わたしはろくろく仕事も手につきません。一つ名古屋まで行って、西の方の様子を突きとめて来たいと思います。どうでしょう、お父さんやお母さんにしばらくお留守居を願えますまいか」。「まあ、待てよ、みんな寝ころんで話そうじゃないか」とその時、吉左衛門が言い出した。「半蔵はそこへ足でも伸ばせよ。おまん、お前も横になったら、どうだい。こういう相談は寝ながらにかぎる」。 |
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旧暦七月の晩のことで、おまんは次ぎの部屋の方へ行燈を持ち運び、燈火を遠くして来て、吉左衛門のそばに腰を延ばした。他人をまぜずの親子ぎりだ。三人思い思いに横になって見ると、薄暗いところでも咄は見える。それに、余分親しみもある。「半蔵、」と吉左衛門は寝ながら頬杖をついて、言葉を続けた。「お前も知ってるとおり、とかく人の口はうるさいし、本陣親子のものに怠りがあると言われては、御先祖さまに対しても申しわけがない。実はこの二、三年来というもの、お前が家を捨てて出て行きゃしないかと思って、おれはそればかり心配していたよ。そりゃ、今は家なぞを顧みているような、そんな時世じゃない、そういうお前のお友だちの心持ちはおれにもわかる。でも、お前までその気になられると、だれがこの街道の世話するかと思ってさ。まあ、おれはこんな昔者だ。お前の家出ばかりを案じて来た。しかし、今夜という今夜はこんなことが言えるくらいだ。もうおれもそんなに心配ばかりしていない。お前が黙って出て行かずに、そう言って相談してくれると、おれもうれしい」。「まあ、お父さんもああおっしゃるし、半蔵も思い立ったものなら、出かけて行って来るがいい。留守はどんなにしても、わたしたちが引き受けますよ」とおまんも力を入れて言った。吉左衛門がこんなに心配するのは、ただただ自分が年老いて心細いからというばかりでもない。あるいは先年のように水戸浪士を迎えたり、あるいは幕府の注意人物を家にかくして置いたりする半蔵が友だち仲間の行動は、とやかくと人の口に上るからで。この父に言わせると、中津川あたりと馬籠とでは、同じ尾州領でも土地の事情が違う。木曾谷三十三か村には福島の役人の目が絶えず光っていることを忘れてはならない。山村の旦那様は尾州の代官とは言っても、木曾街道要害の地たる福島の関所を幕府から預かっている深い縁故から、必ずしも尾州藩と歩調を同じくする人ではなく、むしろ徳川直属の旗本をもって自ら任じていることを忘れてはならない。 往昔、関ヶ原の戦いに東山道の先導となって徳川家に忠勤をぬきんでた山村氏の歴史を考えて見ても、それがわかる。平田篤胤没後の門人が、福島の旦那様によろこばれるかよろこばれないかは言わずと知れたことであって、その地方の関係から言っても、馬籠の庄屋としての半蔵には中津川の景蔵や香蔵のような自由がない。どんな姿を変えた探偵が平田門人らの行動を注意していまいものでもない。おまけに、ここは街道だからで。「壁にも耳のある世の中だぞ。まあ、半蔵にもよほど気をつけてもらわにゃならん」と吉左衛門が言う。「そんなら、あなた、こうするといい」とおまんは思いついたように、「岩村には吾家の親類もありますからね。半蔵の留守中に、もし人が尋ねましたら、美濃の親類までまいりました、そう言ってわたしが取りつくろいましょう。名古屋までとは言わずに置きましょうわい」。「いや、お母さんにそう言って留守を引き受けていただけば、わたしも安心して出かけられます。」と半蔵は答えた。「わたしは黙って家を出るようなことはしません。庄屋には庄屋の道もあろうと考えますし、黙って家を飛び出して行くくらいなら、もともと何もそんなに心配することはなかったんです」。 |
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半蔵が行こうとしている名古屋の方には、京大坂の事情を探るに好都合な種々の手がかりがあった。木曾は尾州領である関係から、馬籠の本陣問屋を兼ねた彼の家は何かにつけて藩との交渉も多い。父吉左衛門は多年尾州公のお勝手元に尽力した縁故から、永代苗字帯刀を許されたり、領主に謁見することをすら許されたりしている。この便宜に加えて、藩の勘定奉行、材木奉行、作事奉行なぞは毎年街道を下って来るたびに、必ず彼の家に休息するか宿泊するかの人たちであるばかりでなく、名古屋の家中衆のなかには平田門人らが志を認めている人もすくなくない。藩黌明倫堂の学則が改正せられてからは、『靖献遺言』のような勤王を鼓吹する書物が大いに行なわれ、山地の方に住む領民にまで時事を献白する道も開かれているくらいだ。 もともとこんなに西海の方の空が暗くならない前に、二度目の長州征伐を開始するについては最初から尾州家では反対を唱えたのであった。先年御隠居(尾張慶勝)が征討総督として出馬したおりに、長州方でも御隠居の捌きに服し、京都包囲の巨魁たる益田、国司、福原三太夫の首級を差し出し、参謀宍戸左馬助以下を萩城に斬り、毛利大膳父子も萩の菩提寺天樹院に入って謹慎を表したのであるから、これ以上の追究はかえって長州人士を激せしめ、どんな禍乱の端緒となるまいものでもないと言い立てて、しきりに幕府の反省を促したのも尾州藩である。しかし幕府当局者はこの処置を寛大に過ぐるとし、御隠居の諫争にも耳を傾けず、長州の伏罪には疑惑の廉があるとして、毛利大膳父子、および三条実美以下の五卿を江戸に護送することを主張してやまなかった。死を決して幕府に当たろうとする長州主戦派の蜂起はその結果だ。 半蔵が狭い見聞の範囲から言っても、当時における尾州藩の位置は実に重い。再度の長防征討先手総督を任ずるよしの幕府の内諭が尾州公に下ったのを見ても、それがわかる。しかし尾州公は名も以前の茂徳を玄同と改め、家督を御隠居の実子犬千代に譲って、すでに自分でも隠居の身分である。それは朝幕に関する根本の意見で全く御隠居と合わないことを知り、二人の主人が双び立つようでは一藩のためにも幸福でないと悟り、のみならず生麦償金事件で失敗してからこのかた、時勢の自己に非なることをみて取ったにもよる。この尾州公はなかなか長防征討を引き受けない。再征反対の御隠居に対してもそれの引き受けられるはずもなかったのだ。そこでお鉢は紀州公(徳川茂承)の方に回った。先手総督は尾州公と紀州公との譲り合いとなった。その時の尾州公が紀伊中納言への挨拶に、自分は隠居の身分で、国務には携わらず、内輪にはやむを得ざる事情もあって、とても一方の主将の任はお請けができない、今般自分が上京する主意は将軍の進発もあらせらるる時勢を傍観するに忍びないからであって、全く一己の微忠を尽くしたい存慮にほかならない、この上、しいて総督を命ぜられてもお請けは申し上げがたいと決心した次第である、事実自分には行き届かない、気の毒ではあるが悪しからず、ということであったのだ。この先手総督の引き受けには紀州でもよほど躊躇の色が見えた。先年来の大坂守備で国力もすでに尽きたと言って、十万両の軍用金を幕府に仰いだ上、ようやく出陣の将士を軍艦で和歌の浦から送り出したのは、前の年の十二月のことに当たる。 幕府の親藩でもこのとおりだ。水戸はまず疑われ、一橋は排斥せられ、尾州まで手を引いた。あだかも、十四代から続いた大身代が傾きかけて見ると、主家を思う親戚がかえって邪魔扱いにされて、一人去り、二人去りして行く趣に似ている。この際、どんな無理をしても一番の先鋒隊から十六番隊までの諸隊を芸州表に繰り出させ、長州はじめ幕府に離反するものを圧倒しようとするこの軍役の前途には、全く測りがたいものがあった。ただ、幕府方の勝利が疑いないとか、大勝利は近いうちにあるとか、そんなむなしい声が木曾街道にまで響けて来ているのみだった。 |
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名古屋へ向けて半蔵がたつ日の朝には、お民をはじめ下男の佐吉まで暗いうちから起きて、母屋の囲炉裏ばたや勝手口で働いた。隣近所でまだ戸をしめて寝ているうちに早く主人をたたせたいという家のものの心づかいからで。「大旦那、お早いなし」と言って、佐吉の掛ける声までが早立ちの朝らしい。吉左衛門夫婦が裏の隠居所の方から半蔵を見送りに来たころは、まだそこいらは薄暗かった。「時に、半蔵はどうする」と吉左衛門があたりを見回した。「中津川までは佐吉に送らせるか」。「ええ、おれがお供するわいなし」と佐吉は心得顔に、「おれはもうそのつもりで、自分の草鞋までそろえて置いたで」。「たぶん、香蔵さんと一緒に名古屋へ行くことになりましょう。中津川まで行って見た様子です。今度は美濃方面の人たちにもあえるだろうと思います」と半蔵は言った。「さあ、西の方の模様もどうあろうか」とまた吉左衛門が言葉を添える。「戦争の騒ぎだけでもたくさんなところへ、こないだのような大風雨じゃ、まったくやり切れない。とかく騒がしいことばかりだ。半蔵も気をつけて行って来るがいいぞ」。 ちょうど隣家の年寄役伊之助も東海道の医者のもとまで養生の旅に出て帰って来ている。半蔵はこの人だけに事情を打ち明けて、留守中の宿場の世話をよく頼んで置いてある。本陣や問屋の方の手伝いには清助もあれば、栄吉というものもある。「お母さん、お願いしますよ」。その声を残して置いて、半蔵は佐吉と共に裏口の木戸から出た。いつも早起きの子供らですら寝床の中で、半蔵が裏の竹藪の細道のところから家を離れて行ったことも知らなかった。 |
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二 | |
月の末になると、半蔵は名古屋から土岐、大井を経て、二十二里ばかりの道を家の方へ引き返した。帰りには中津川で日が暮れて、あれから馬籠の村の入り口まで三里の夜道を歩いて来た。街道も更けて人通りもない時だ。荒町から馬籠の本宿につづく石屋の坂も暗い。宿場の両側に並ぶ家々の戸も閉まって、それぞれの屋号をしるした門口の小障子からはわずかに燈火がもれている。ともかくも無事に半蔵が自分の家の本陣へ帰り着いたころは、そんなにおそかった。「子供は」。半蔵はまずそれをお民にきいた。往きと違って、彼も留守宅のことばかり心配しながら帰って来たような人だ。「あなた、あれからお父さんもお母さんもずっとお母屋の方にお留守居でしたよ。さっきまでお父さんも起きていらしった。あなたが帰ったら起こしてくれと言って、奥へ行って休んでおいでですよ」とお民は言って見せた。 寛ぎの間に脚絆を解いた半蔵は、やっぱり名古屋まで行って来てよかったことを妻に語り始めた。そこへ継母のおまんも半蔵の話を聞きに来る。この旅には名古屋まで友人の香蔵と同行したこと、美濃尾張方面の知己にもあうことができて得るところの多かったこと、そんな話の出ているところへ、吉左衛門は煙草盆をさげながら奥の部屋の方から起きて来た。「半蔵、どうだったい。いくらか京大坂の様子がわかったかい」。 半蔵が父のところへもたらした報告によると、将軍親征の計画は幕府の大失敗であるらしい。こんな無理な軍役を起こし、戦意のない将卒を遠地に送り、莫大な軍資を費やして、徳川家の前途はどうなろう。名古屋城のお留守居役で、それを言わないものはない。もはや幕府方もさんざんに見える。一橋慶喜は万般後見のことでもあるから、長州征伐のことなぞはことごとく慶喜へ一任して、すみやかに将軍は関東へ引き揚げるがいい、そしてしばらく天下の変動をみるがいい、それには小倉表に碇泊する幕府の軍艦をもって江戸へ還御のことに決するがいい、当節天下の人心は薄い氷を踏むようなおりからである、もし陸路を還御になってはいかような混乱を促すやも測りがたい。これは主君を思う幕臣らの意向であるばかりでなく、イギリスに対抗して幕府を助けようとするフランス公使ロセスなぞも同じ意味の忠告をしたとやらで、名古屋ではもっぱらその評判が行なわれていたことを父に語り聞かせたのであった。 「して見ると、この戦いはどうなったのかい」。「それがです。各藩共に、みんな初めから戦う気なぞはなくて出かけて行ったようです。長州を相手に決戦の覚悟で行ったような藩は、まあないと言ってもいいようです。ただ幕府への御義理で兵を出したというのが実際のところじゃありますまいか」。「でも、半蔵、この戦いが始まってから、もう三月近くもなるよ。六度や七度の合戦はあったと、おれは聞いてるよ」。「そりゃ、お父さん、芸州口にもありましたし、大島方面にもありましたし、下の関の方面にもありました。それがみんな長州兵を防ぐ一方です。それから、退却、退却です。どうもおかしい、おかしいとわたしは思っていました。ほんとうに戦う気のあるものなら、一部の人数を失ったぐらいで、あんなに退却ばかりしているはずはないと思っていました。幕府方に言わせましたら、榊原小平太の後裔だなんていばっていてもあの榊原の軍勢もだめだ、彦根もだめだ、赤鬼の名をとどろかした御先祖の井伊直政に恥じるがいいなんて、今じゃ味方のものを悪く言うようなありさまですからね。でも、尾州藩あたりの人たちは、そうは言いませんよ。これは内外の大勢をわきまえないんだ、ただ徳川家の過去の御威勢ばかりをみてからの言い草なんだ、そう言っていますよ。早い話が、江戸幕府のために身命をなげうとうというものがなくなって来たんですね。各藩共に、一人でも兵を損じまいというやり方で、徳川政府というよりも自分らの藩のことを考えるようになって来たんですね」。「そう言われて見ると、助郷村々の百姓だっても、徳川様の御威光というだけではもう動かなくなって来てるからな」。「まあ、名古屋の御留守居あたりじゃ、この成り行きがどうなるかと思って見ているありさまです。最初から尾州ではこんな長州征伐には反対だ、御隠居の諫めを用いさえすれば幕府もこんな羽目にはおちいらなかった、そう言って憤慨しないものはありません。なんでも、石州口の方じゃ、浜田の城も落ちたといううわさです。おまけに公方様は御病気のようなうわさも聞いて来ましたよ」。 吉左衛門は深いため息をついた。 ともあれ、この名古屋行きは半蔵にとって、いくらかでも彼の目をあけることに役立った。たとい、京都までは行かず、そこに全国の門人らを励ましつつある師鉄胤をも見ずじまいではあっても、すくなくも西の空気の通う名古屋まで行って、尾州藩に頭を持ち上げて来ている田中寅三郎、丹羽淳太郎の人たちを知るようになり、来たるべき時代のためにそれらの少壮有為な藩士らがせっせとしたくを始めていることを知っただけでも、彼にはこの小さな旅の意味があった。「今夜はもうおそい。お父さんもお母さんも休んでください」。そう言って店座敷の方へ行ってからも、彼は名古屋で探って来たことが心にかかって、そのまま眠りにはつけなかった。父にこそ告げなかったが、日に日に切迫して行く関西の形勢が彼を眠らせなかった。彼はそれを田宮如雲のような勤王家に接近する尾州藩の人たちの口ぶりから知って来たばかりでなく、従来会津と共に幕府を助けて来た薩摩が公武一和から討幕へと大きく方向を転換し、薩長の提携はもはや公然の秘密であるばかりでなく、イギリスのような外国の勢力までがこれを助けているといううわさからも知って来た。王政復古を求める声は後年を待つまでもなく、前の年、慶応元年の後半期あたり、将軍辞職の真相の知れ渡る前後あたりから、すでに、すでに諸国に起こって来て、徳川家には縁故の深い尾州藩の人たちですらそれを考えるような時になって来ている。「まあ、あなたはまだ起きてるんですか」。お民が夜中に目をさまして、夫のそばで寝返りを打つころになっても、まだ彼は寝床の上にすわっていた――枕もとに置いてある行燈が店座敷の壁に投げかけて見せる暗い影法師と二人ぎりで。 八月にはいって、馬籠峠の上へは強い雨が来た。六日から降り出した雨は夜中から雷雨に変わり、強い風も来て、荒れ模様は二日も続いた。さて、二日目の夜の五つ時ごろからは雨はさらに強く降りつづき、次第に風の方向も変わって来たところ、思いのほかな辰巳の大風となって、一晩じゅう吹きやまなかった。ようやく三日目の夜明けがた、およそ六つ半時ごろになって風雨共に穏やかになったころは、半蔵もお民も天井板の崩れ落ちた店座敷のなかにいた。本陣の表通りから下方裏通りまでの高塀はことごとく破損した。「まあ」。あっけに取られたお民の声だ。とりあえず半蔵は身軽な軽袗をはいて家の外へ見回りに出た。自分方では仮葺きの屋根瓦を百枚ほども吹き落とされたと言って、それを告げに彼のところへ走り寄るのは隣家伏見屋の年寄役伊之助だ。田畑のことは確かにもわからないが、この大荒れでは稲穂もよほど痛んだのではないかと言って、彼のそばに来てその心配を始めるのは問屋の九郎兵衛だ。周囲には、大風の吹き去ったあとの街道に立って茫然とながめたたずむものがある。互いに見舞いを言い合うものがある。そのうちにはあちこちの見回りから引き返して来て、最も破損のはなはだしかったところは村の万福寺だと言い、観音堂の屋根はころびかかり、檜木六本、杉六本、都合十二本の大木が墓地への通路で根扱ぎになったと言って見せるものがある。伏見屋の控え林では比丘尼寺で十二本ほどの大木が吹き折られ、青野原向こうの新田で二十本余の松が吹き折られ、新茶屋や大屋なぞにある付近の山林の損害はちょっと見当もつかないと告げに来るものもある。 その日の夕方までには村方被害のあらましの報告が荒町方面からも峠方面からも半蔵のところに集まって来た。馬籠以東の宿では、妻籠、三留野両宿ともに格別の障りはないとのうわさもあり、中津川辺も同様で、一向にそのうわさもない。ただ、隣宿落合の被害は馬籠よりも大きかったということで、潰れ家およそ十四、五軒、それに死傷者まで出した。こんな暴風雨に襲われたことはこの地方でもめったにない。しかし強雨のしきりにやって来ることはその年ばかりでなく、前年から天候は不順つづきで、あんな雨の多い年はまれだと言ったくらいだ。半蔵の家で幕府の大目付山口駿河を泊めた前あたりのころに、すでにその年の米穀は熟するだろうかと心配したくらいだった。その前年の不作は町方一同の貯えに響いて来ている。田にある稲穂も奥手の分はおおかた実らない。凶作の評判は早くも村民の間に立ち始めた。「天明七年以来の飢饉でも襲って来るんじゃないか」。だれが言い出すともないようなその声は半蔵の胸を打った。社会は戦時の空気の中に包まれていて、内憂外患のうわさがこもごもいたるという時に、おまけにこの天災だ。 宿役人の集まる会所も荒れて、屋根葺き替えのために七百枚ほどの栗板が問屋場のあたりに運ばれるころは、妻籠本陣の寿平次もちょっと日帰りで半蔵親子のところへ大風の見舞いに来た。そろそろ半蔵は村民のために飯米の不足を心配しなければならなかったのである。そこで、寿平次をつかまえて尋ねた。「寿平次さん、君の村にはどうでしょう、米の余裕はありますまいか」。この注文の無理なことは半蔵も承知していた。樅、栂、椹、欅、栗、それから檜木なぞの森林の内懐に抱かれているような妻籠の方に、米の供給は望めない。妻籠から東となると、耕地はなおさら少ない。西南の日あたりを受けた傾斜の多い馬籠の地勢には竹林を見るが、木曾谷の奥にはその竹すら生長しないところさえもある。 その時は半蔵以外の宿役人も、いずれもじっとしていなかった。問屋九郎兵衛をはじめ、年寄役の桝田屋小左衛門、同役蓬莱屋新七の忰新助、同じく梅屋五助なぞは、組頭の笹屋庄助と共に思い思いに奔走していた。ちょうど半蔵が寿平次と二人で会所の前にいると、そこへ隣家の伊之助も隠居金兵衛と一緒に山林の見分からぽつぽつ戻って来た。「半蔵さん、きょうはわたしも初めて家を出まして、伊之助を連れながら大荒れの跡を見てまいりましたよ」。相変わらず金兵衛の話はこまかい。この達者な隠居に言わせると、新茶屋の林の方で調べて来た倒れ木は、落合堺の峰から風道通りへかけて、松だけでも五百七十本の余に上る。杉、三十五、六本。大小の樅、四十五本。栗、およそ六百本。これに大屋下の松十五本と、比丘尼寺の松十五本と、青野原土手の十三本を加えると、都合総計およそ七百三十本ほどの大小の木が倒れたとのことだ。どんなすさまじい力で暴風が通り過ぎて行ったかは、この話を聞いただけでもわかる。「まあ、ことしはわたしも七十になりますが、こんな大風は覚えもありません。そりゃ半蔵さんのお父さんにお聞きになってもわかることです。まったく、前代未聞です」と言って、金兵衛は手にした杖を持ち直して、「そう言えば、昨晩、万福寺の和尚さま(松雲のこと)も隠宅の方へお見舞いくださいました。そのおりに、墓地での倒れ木のお話も出ましてね、かねて、村方でも相談のあった位牌堂の普請にあの材木を使いたいがどうかと言って、内々わたしまでその御相談でした。それは至極よろしい御量見です、そうわたしがお答えして置きましたよ。あの和尚さまは和尚さまらしいことを言われると思いましたっけ」。「時に、半蔵さん、飯米のことはどうしたものでしょう。」と伊之助が言い出す。「それです、妻籠の方で融通がつくかと思いましてね、今、今、そのことを寿平次さんにも頼んで見たところです。妻籠にも米がないとすると、山口はどうでしょう。」と半蔵は答える。「山口もだめ」と言うのは伊之助だ。「実はきのうのことですが、人をやって見ましたよ。あの村にも馬籠へ分けるほどの米はないらしい。やっぱりお断わりですさ。使いの者はむなしく帰って来ました」。悪い時には悪いなあ」。それを言って、寿平次はあたりを見回した。 間もなく、寿平次は去り、金兵衛も上の伏見屋の方へ戻って行った。その時になって見ると、村方一同が米の買い入れ方を頼もうにも、宿々は凶作も同様で、他所への米の出入りは少しも叶わないとなった。馬籠の宿内でもみなみなそう持ち合わせはない。日ごろ米の売買にたずさわる金兵衛方ですら、その月かぎりの家族の飯米が三俵も不足すると言ってあわて出したくらいだ。普請好きな金兵衛は本家や隠宅に工事を始めていて、諸職人の出入りも多かったからで。こうなると、西に盆地の広くひらけた美濃方面より米を買い入れるよりほかに馬籠の宿場としてはさしあたり適当な道がない。中津川の商人、ことに万屋安兵衛方なぞへはそれを依頼する使者が毎日のように飛んだ。岩村に米があると聞いては、たとい高い値段を払っても、一時の急をしのがねばならない。そういう岩村米も売り上げて、十両につき三俵替えという値段だ。米一升、実に六百二十四文もした。 毎日のように半蔵は背戸田へ見回りに出た。時には宿役人一同と出入りの百姓を引き連れて、暴風雨のために荒らされた田方の内見分に出かけた。半蔵が父の吉左衛門とも違い、金兵衛の方は上の伏見屋の隠宅にじっとしていない。長く精力の続くこの隠居は七十歳になっても若い者の中に混じって、半蔵や養子伊之助らが歩いて行く方へ一緒に歩いた。そして朝早くから日暮れに近いころまでかかって、東寄りの峠村中の田、塩沢、岩田、それから大戸あたりの稲作を調べに回った。翌々日も半蔵らは背戸田からはじめて、野戸の下へ出、湫の尻中道から青の原へ回り、中新田、比丘尼寺、杁、それから町田を見分した。その時も金兵衛は皆と一緒に歩き回った。どうかして稲を見直したいとは、一同のもののつないでいる望みであった。その年の収穫期を凶作に終わらせたくないと願わないものはなかったのである。 また、また、西よりの谷間にある稲作はどうかと心にかかって、半蔵らは馬籠の町内から橋詰、荒町の裏通りまで残らず見分に出かけた。中のかやから美濃境の新茶屋までも総見分を行なった。八月の半ば過ぎになると、稲穂もよほど見直したと言って、半蔵のところへ飛んで来るものもある。いかんせん、とかく村方の金子は払底で、美濃方面から輸入する当座の米は高い。難渋な小前の者はそのことを言いたて、宿役人へ願いの筋があるととなえて、村じゅうでの惣寄り合いを開始する。果ては、大工左官までが業を休み、町内じゅうの小前のものは阿弥陀堂に詰めて、上納御年貢米軽減の嘆願を相談するなど、人気は日に日に穏やかでなくなって行った。金兵衛は半蔵を見るたびに言った。「どうも、恐ろしい世の中になって来ました。掟年貢の斗り立てを勘弁してもらいましょう、そんなことを言って、わたしどもへ出入りの百姓が三人もそろって談判に見えましたよ」。そういう隠居は木曾谷での屈指な分限者と言われることのために、あの桝田屋と自分の家とが特に小前の者から目をつけられるのは迷惑至極だという顔つきである。米不足から普請工事も見合わせ、福島の大工にも帰ってもらい、左官その他の職人に休んでもらったからと言って、そんなことまでとやかくと言い立てられるのは、なおなお迷惑至極だという顔つきである。「金兵衛さん、」と半蔵は言った。「あなたのようにあり余るほど築き上げたかたが、こんな時に一肌脱がないのはうそです」。「いえ、ですからね、あの兼吉に二俵、道之助に七斗、半四郎に五俵二斗――都合、三口合わせて三石七斗は容赦すると言っているんですよ」。 |
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将軍家茂薨去 | 金兵衛の挨拶だ。半蔵はこの人の言うことばかりを聞いていられなかった。庄屋としての彼は、どんな骨折りでもして、小前の者を救わねばならないと考えた。この際、木曾福島からの見分奉行の出張を求め、場合によっては尾州代官山村甚兵衛氏をわずらわし、木曾谷中の不作を名古屋へ訴え、すくなくも御年貢上納の半減をきき入れてもらいたいと考えた。 あいにくな雨の日がまたやって来た。もうたくさんだと思う大雨が朝から降り出して、風の方角も北から西に変わった。本陣の奥座敷では床上がもり、袋戸棚へも雨が落ちた。半蔵は自分の家のことよりも村方を心配して、また町内を見回るために急いでしたくした。腰に結ぶ軽袗の紐もそこそこに、寛ぎの間から囲炉裏ばたに出て下男の佐吉を呼んだ。「オイ、蓑と笠だ」。その足で半蔵は町田の向こうまで行って見た。雨にぬれた穂先は五、六分には見える。稲草によっては八分通りの出来にすら見える。最初よりはよほど見直したという村の百姓たちの評判もまんざらうそでないと知った時は、思わず彼もホッとした。十四代将軍家茂の薨去が大坂表の方から伝えられたのは、村ではこの凶作で騒いでいる最中である。 |
三 | |
馬籠の宿場の中央にある高札場のところには物見高い村の人たちが集まった。何事かと足を停める奥筋行きの商人もある。馬から降りて見る旅の客もある。人々は尾州藩の方から伝達された左の掲示の前に立った。「公方様、御不例御座遊ばされ候ところ、御養生かなわせられず、去る二十日卯の上刻、大坂表において薨御遊ばされ候。かねて仰せ出だされ候通り、一橋中納言殿御相続遊ばされ、去る二十日より上様と称し奉るべき旨、大坂表において仰せ出だされ候」。 日ごろこもりがちに暮らしている吉左衛門まで本陣の裏二階を出て、そこへ上の伏見屋から降りて来た老友金兵衛と共に、この掲示を読んだ。そして、二人ともしばらく高札場の付近を立ち去りかねていた。あだかも、享年わずかに二十一歳の若さで薨去せられたという将軍を街道から遠く見送るかのように。その時はすでに鳴り物一切停止のことも触れ出された。前将軍が穏便の伝えられた時と同じように、この宿場では普請工事の類まで中止して謹慎の意を表することになった。 九月を迎えて、かねて村民の待ち受けていた木曾福島からの秋作見分奉行の出張を見、木曾谷中御年貢上納の難渋を訴えるためにいずれは代官山村氏が尾州表への出府もあるべきよしの沙汰も伝えられ、小前のもの一同もやや穏やかになったころは、将軍薨去前後の事情が名古屋方面からも福島方面からも次第に馬籠の会所へ知れて来た。八月の二十日として喪を発表せられたのは、御跡目相続および御葬送儀式のために必要とせられたのであって、実際には七月の十九日に脚気衝心の病で薨去せられたという。それまでまだ将軍家は大坂に在城で征長の指揮に当たっていたことのように、喪は秘してあったともいう。小笠原老中なぞがそこそこに戦地を去ったのも、そのためであることがわかって来た。して見ると半蔵が名古屋出府のはじめのころには、将軍はすでに重い病床にあった人だ。名古屋城のなんとなく取り込んでいたことも、その時になって彼にはいろいろと想い当たる。 将軍家の薨去と聞いて、諸藩の兵は続々戦地を去りつつあった。兵事をとどむべきよしの勅諚も下り、「何がな休戦の機会もあれかし」と待っていた幕府でも紀州公が総督辞任および長防討手諸藩兵全部引き揚げの建言を喜び迎えたとの報知すら伝わって来た。大坂城にあった将軍の遺骸は老中稲葉美濃守らに守護され、順動丸で江戸へ送られたとも言わるる。それらの報知を胸にまとめて見て、半蔵はいずれこの木曾街道に帰東の諸団体が通行を迎える日のあるべきことを感知した。同時に、敗戦を経験して来るそれらの関東方がこの宿場に置いて行く混雑をも想像した。 種々な流言が伝わって来た。家茂公の薨去は一橋慶喜が京都と薩長とに心を寄せて常に台慮に反対したのがその病因であるのだから、慶喜はすなわち公が薨去を促した人であると言い、はなはだしいのになると慶喜に望みを寄せる者があって家茂公の病中に看護を怠り、その他界を早めたのだなぞと言うものがある。もっとはなはだしいのになると、家茂公は筆の中に仕込んだ毒でお隠れになったのだと言って、そんな臆測をさも本当の事のように言い触らすものもある。いや、大坂城にある幕府方は引っ込みがつかなくなった。不幸な家茂公はその犠牲になったのだと言って、およそ困難という困難に際会せられた公の生涯と、その忍耐温良の徳と、長防親征中の心痛とを数えて見せるものもある。「暗い、暗い」。半蔵はひとりそれを言って、到底大きな変革なしに越えられないような封建社会の空気の薄暗さを思い、もはや諸国の空に遠く近く聞きつける鶏の鳴き声のような王政復古の叫びにまで、その薄暗さを持って行って見た。 |
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「武家の奉公もこれまでかと思います」。半蔵は会所の方で伊之助と一緒になった時、頼みに思う相手の顔をつくづくと見て、その述壊をした。庄屋風情の彼ですら、江戸幕府の命脈がいくばくもないことを感じて来た。彼はそれを尾州家の態度からも感じて来た。しかし、どんな崩壊が先の方に待っているにもせよ、彼は一日たりとも街道の世話を怠ることはできない。同時に、この困窮疲弊からも宿場を護らねばならない。その時になって見ると、馬籠の宿場そのものの維持も容易ではなくなって来た。彼は伊之助その他の宿役人とも相談の上、この際、一切をぶちまけて、領主たる尾州家に宿相続救助の願書を差し出そうと決心した。「まあ、お辞儀をしてかかるよりほかにしかたがありません。では、宿相続のお救い願いはわたしが書きましょう。宿勘定の仕訳帳は伊之助さんに頼みますよ。先ごろ名古屋の方へ行った時に、わたしはこの話を持ち出して見ました。尾州藩の人が言うには、奉行所あてに願書を出すがいい、どうせ藩でも足りない、しかし足りないついでになんとかしようじゃないか――そう言ってくれましたよ」。いったいなら、こんな願書は江戸の道中奉行へ差し出すべきであった。それを尾州藩の方で引き取って、届くだけは世話しようと言うところにも、時の推し移りがあらわれていた。たといこれを江戸へ持ち出して見たところで、家茂公薨去後の混雑の際では採用されそうもない。やがて大坂から公儀衆が帰東の通行も追い追いと迫って来る。急げとばかり、半蔵は宿相続お救い願いの草稿を作りにかかった。 草稿はできた。彼はそれを隣家の伏見屋へ持って行った。本陣の家から見れば一段と高い石垣の位置にある明るい静かな二階で、彼はそれを伊之助と二人で読んで見た。 宿相続お救い願い
読みかけて半蔵は深いため息をついた。「伊之助さん、わたしは吾家の阿爺から本陣問屋庄屋の三役を譲られた時、そう思いました。よくあの阿爺たちはこんなめんどうな仕事をやって来たものだと。わたしの代になって、かえって宿方の借財をふやしてしまったようなものです。これがあの阿爺でしたら、もっとよくやれたかもしれません。わたしは実にこんな経済の下手な男です」。その願書の中には、安政五年異国交易御免以来の諸物価が格外に騰貴したことから、同年の冬十一月、および万延元年十月の両度に村の火災のあったことも言ってある。文久元年の和宮様の御下向、同三年の尾州藩主上洛に引き続いて、諸藩の家族方が帰国、犬千代公ならびに家中衆の入国、十四代将軍が京都より還御のおりの諸役人らの通行、のみならず尾張大納言が参府と帰国等、前代未聞の大通行が数え切れない上に、昨年日光御神忌に際しては公家衆と警衛諸役人らの通行が数日にわたって、ついには助郷村々も疲弊を申し立て、一人一匹の人馬も差し出さないことがあり、そのたびごとに宿役人どもはじめ御伝馬役、小前のものの末に至るまで一方ならぬ辛き勤めは筆紙に尽くしがたいことも言ってある。それらの事情から人馬の雇い金はおびただしく、ゆくゆく宿相続もおぼつかないところから、木曾十一宿では定助郷設置の嘆願を申し合わせ、幾たびか宿役人らの江戸出府となったが、今だにその御理解もなく、もはや十六、七年も右の一条でかわるがわるの嘆願に出府せしため雑費はかさむばかりであったことも言ってある。ついては、去る安政三年に金三百両の頼母子講を取り立て、その以前にも百両講を取り立て、それらの方法で宿方借財返済の途を立てて来たが、近年は人馬雇い金、並びに借入金利払い、その他、宿入用が莫大にかかって、しかも入金の分は先年より格別増したわけでもないから、ますます困窮に迫って必至難渋の状態にあることにも言い及んである。恐れながら書付をもって嘆願奉り候御事 「宿方の儀は、当街道筋まれなる小宿にて、お定めの人足二十五人役の儀も隣郷山口湯舟沢両村より相勤め候ほどの宿柄、外宿同様お継立てそのほか往還御役相勤め候儀につき、自然困窮に罷りなり、就中去る天保四巳年、同七申年再度の凶年にて死亡離散等の数多くこれあり、宿役相勤めがたきありさまに罷りなり候えども、従来浅からざる御縁故をもって種々御尽力を仰ぎ、おかげにていかようにも宿相続仕り来たり候ところ、元来嶮岨の瘠せ地、山間わずかの田畑にて、宿内食料は近隣より買い入れ、塩、綿、油等は申すに及ばず、薪炭等に至るまで残らず他村より買い入れ取り用い候儀につき、至って助成薄く、毎年借財相かさみ、難渋罷りあり候。 ――往還御役の儀、役人どもはじめ、御伝馬役、歩行役、七里役相勤め、嶮岨の丁場日々折り返し艱難辛勤仕り、冬春の雪道、凍り道等の節は、荷物仕分に候わでは持ち堪えがたく、病み馬痩せ馬等も多くでき、余儀なく仕替馬つかまつり候わでは相勤めがたく、右につき年々お救い米ならびに増しお救い金等下しおかれ、おかげをもって引き続き相勤め来たり候えども、近年馬買い入れ値段格外に引き揚げ、仕替馬買い入れの儀も少金にては行き届かず、かつまた、嶮岨の往還沓草鞋等も多く踏み破り候ことゆえ、お定め賃銭のみにてはなにぶん引き足り申さず、隣宿より帰り荷物等にて雇い銭取り候儀も、下地馬の飼い立て不行き届きにつき、重荷は持ち堪えがたく、眼前の利益に離れ候次第、難渋言語に絶し候儀に御座候。 ――農作の儀、扣え地内狭少につき、近隣村々へ年々運上金差し出し、草場借り受け、あるいは一里二里にも及ぶ遠方馬足も相立たざる嶮岨へ罷り越し、笹刈り、背負い、持ち運び等仕り、ようやく田地を養い候ほどの為体、お百姓どもも近村に引き比べては一層の艱苦仕り候儀に御座候……」。 半蔵はさらに読み続けた。 「――前条難渋の宿柄、実もって嘆かわしき次第にこれあり候。右につき、高割取り集め候儀も、先年よりは多く相増し候えども、お救い拝借等年延べ願い上げ奉り候ほどのことゆえ、この上相増し候儀は行き届かず、もはや頼母子講取り立て候儀も相成りがたく、組合宿々の儀も人馬雇い立てその他多端の費用にて借財相かさみ、助力は相頼みがたき場合、いかにして宿相続仕るべきかと一同当惑悲嘆いたし候。
――この上は、前条のおもむき深く御憐察下し置かれ、御時節柄恐れ多きお願いには候えども、御金二千両拝借仰せ付けられたく、御返上の儀も当寅年より向こう二十か年賦済みにお救い拝借仰せ付けられ候わば、一同ありがたき仕合わせに存じ奉り候。以上」。 慶応二年寅九月 馬籠宿
庄屋問屋
御奉行所半蔵と伊之助の二人はこの願書について互いの意見をとりかわした。伊之助には養父金兵衛の鋭さはないが、そのかわり綿密で慎み深く、半蔵にとってのよい相談相手である。その時、伊之助は宿勘定仕訳帳を取り出して、それを半蔵の前にひろげて見せた。包み隠しない宿方やり繰りの全景がそこにある。宿方の入金としては、年内人馬賃銭の内より宿助成としての刎銭何ほどということから、お年貢の高割として取り集めの分何ほど、ずっと以前に木曾谷中に許された刎銭積み金の利息より手助け村および御伝馬その他への割り渡しを差し引きたる残り何ほど、木曾谷には古い歴史のある御切り替え手形頂戴金のうち御伝馬その他の諸役への割り渡しを差し引きたる残り何ほどとそこに記してある。支払いの分としては、御用御通行そのほか込み合いの節の人馬雇い銭、御用の諸家休泊年内旅籠の不足銭、問屋場の帳付けと馬指および人足指と定使いらへの給料、宿駕籠の買い入れ代、助郷人馬への配当、高札場ならびに道路の修繕費、それに問屋場の維持に要する諸雑費というふうに。七か年を平均した帳尻を見ると、入金二百三十六両三分、銭六貫三百八十一文。支払い金四百十一両三分、銭九貫六百三十三文。この差し引き、金百七十五両銭三貫二百四十二文が不足になっている。この不足が年々積もって行く上に、それを補って来た万延安政年代以来からの宿方の借財が十六口にも上って、利息だけでも年々二百四十四両一分二朱ほど払わねばならない。これはお役所からも神明講永代講の積み金からも、中津川の商人からも、あるいは岩村の御用達からも借り入れたもので、その中には馬籠の桝田屋の主人や上の伏見屋の金兵衛が立て替えたものもある。このまま仕法立てをせずに置いたら宿方は滅亡に及ぶかもしれない。なんとか奉行所の評議をもって宿相続をなしうるよう救ってもらいたいというのが、その帳面の内容であった。 馬籠は小駅ながらともかくも木曾街道筋のことで金が動く。この宿場の困難な時を切り抜けるも、切り抜けないも、宿役人らの肩にかかっていた。おそらく父吉左衛門でも容易でない。まして半蔵だ。彼は伊之助と顔を見合わせて、つくづく自分の無能を羞じた。 |
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大風の被害、木曾谷中の不作、前代未聞の米高、宿相続の困難、それらの心配を持ち越して、やがて馬籠の宿では十月を迎えるようになった。そろそろ峠の上へは冷たい雨もやって来る。その秋深い空気の中で、大坂を出立する幕府方の諸団体が木曾街道筋を下って帰途につくとの前触れも伝わって来る。その日取りは、十月の十三日から二十五日まで、およそ十三日間の大通行ということもほぼ明らかになった。半蔵の手伝いとして本陣へ通って来る清助は彼のそばへ寄って言った。「半蔵さま、宿割は」。「今度の御通行かい。たぶん、三留野のお泊まりで、馬籠はお昼休みになるでしょう」。「また街道はごたごたしますね」。この清助ばかりでなく、十三日間の通行と聞いては問屋場に働く栄吉まで目を円くした。間もなく、木曾福島からの役人衆も出張して来て、諸団体休泊の割当ても始まった。本陣としての半蔵の家は言うまでもなく、隣家の伊之助方も休泊所に当てられ、金兵衛の隠宅までが福島役人衆の宿を命ぜられた。こういう中で、助郷、その他のことを案じながら、よく半蔵を見に来るのは伊之助だ。伊之助は思い出したように言った。「でも、どんなものでしょうなあ、戦に敗けて帰って来るというやつは」。こんなふうで半蔵らは大坂から出立して来る公儀衆をこの街道に待ち受けた。 | |
はたしてさびしい幕府方の総退却だ。その月の十五日には、予定の日取りよりややおくれて、西から下向の団体が続々と宿場に繰り込んで来た。十七日となると、人馬の継立てが取り込んで、宿役人仲間の心づかいも一通りでない。日によっては隣村山口、湯舟沢からの人足も不参で、馬籠の宿場では草刈りの女馬まで狩り出し、それを荷送りの役に当てた。木曾福島から出張している役人衆の中には、宿の方の混雑を心配して、夜中に馬籠から発つものもある。 この大通行は二十三日までも続いた。まだそれでもあとからあとからと繰り込んで来る隊伍がある。この馬籠峠の上まで来て昼食の時を送って行く武家衆はほとんど戦争の話をしない。戦地の方のことも語らない。ただ、もう一度江戸を見うる日のことばかりを語り合って行った。 ある朝、半蔵は会所の前にいた。そこへ宿方の用談をもって妻籠の寿平次が彼を訪ねて来た。「寿平次さん、まあおはいりなさるさ。こんなところに立っていては話もできない。役人衆もくたぶれたと見えて、きょうはまだだれも出て来ません」。そう言って半蔵は会所の店座敷へ寿平次を誘い入れた。二人の話は互いの激しい疲労をねぎらうことから、毎日のように目の前を通り過ぎた諸団体のことに落ちて行った。半蔵は言った。「あの水戸浪士が通った時から見ると、隔世の感がありますね。もうあんな鎧兜や黒い竪烏帽子は見られませんね」。「一切の変わる時がやって来たんでしょう」と寿平次もそれを受けて、「――武器でも武人の服装でも」。「まあ、長州征伐がそれを早めたとも言えましょうね」。「しかし、半蔵さん、征討軍の鉄砲や大筒は古風で役に立たなかったそうですね。なんでも、長防の連中は農兵までが残らず西洋の新式な兵器で、寄せ手のものはポンポン撃たれてしまったと言うじゃありませんか。あのミニエール銃というやつは、あれはイギリスが長州に供給したんだそうですね。国情に疑惑があらばいくらでも尋問してもらおう、直接に外国から兵器を供給された覚えはないなんて、そんなに長防の連中が大きく出たところで、後方に薩摩やイギリスがついていて、どんどんそれを送ったら、同じ事でさ。そこですよ。君。諸藩に率先して異国を排斥したのはだれだくらいは半蔵さんだっても覚えがありましょう。あれほど大きな声で攘夷を唱えた人たちが、手の裏をかえすように説を変えてもいいものでしょうかね。そんなら今までの攘夷は何のためです」。「へえ、きょうは君はいろいろなことを考えて、妻籠からやって来たんですね」。「まあ見たまえ。破約攘夷の声が盛んに起こって来たかと思うと、たちまち航海遠略の説を捨てる。条約の勅許が出たかと思うと、たちまち外国に結びつく。まったく、西の方の人たちが機会をとらえるのの早いには驚く。あれも一時、これも一時と言ってしまえば、まあそれまでだが、正直なものはまごついてしまいますよ。そりゃ、幕府だってもフランスの力を借りようとしてるなんて、もっぱらそんな風評がありますさ。イギリスはこの国の四分五裂するのを待ってるが、フランスにかぎって決してそんなことはないなんて、フランスはまたフランスでなかなかうまい言を幕府の役人に持ち込んでるといううわさもありますさ。しかし、幕府が外国の力によって外藩を圧迫しようとするなぞ実にけしからんと言う人はあっても、薩長が外国の力によって幕府を破ったのは、だれも不思議だと言うものもない」。「そんな、君のような――わたしにくってかかってもしようがない」。これには寿平次も笑い出した。その時、半蔵は言葉を継いで、「いくら防長の連中だって、この国の分裂を賭してまでイギリスに頼ろうとは言いますまい。高杉晋作なんて評判な人物が舞台に上って来たじゃありませんか。下手なことをすれば、外国に乗ぜられるぐらいは、知りぬいていましょう」。「それもそうですね。まあ、長州の人たちの身になったら、こんな非常時に非常な手段を要するとでも言うんでしょうか。イギリスからの武器の供給は大事の前の小事ぐらいに考えるんでしょうか。わたしたちはお互いに庄屋ですからね。下から見上げればこそ、こんな議論が出るんですよ」。「とにかく、寿平次さん――西洋ははいり込んで来ましたね。考うべき時勢ですね」。 寿平次が宿方の用談を済ましてそこそこに妻籠の方へ帰って行った後、半蔵は会所から本陣の表玄関へ回って、広い板の間をあちこちと歩いて見た。当宿お昼休みで十三日間もかかった大通行の混雑が静まって見ると、総引き揚げに引き揚げて行った幕府方のあわただしさがその後に残った。そこへお民がちょっと顔を見せて、「あなた、妻籠の兄さんと何を話していらしったんですか。子供は会所の方へのぞきに行って、あなたがたがけんかでもしてるのかと思って、目を円くして帰って来ましたよ」。「なあに、そんな話じゃあるものか。きょうは寿平次さんにしてはめずらしい話が出た。あの人でもあんなに興奮することがあるかと思ったさ」。「そんなに」。「なあに、お前、けんかでもなんでもないさ。寿平次さんの話は、だれをとがめたのでもないのさ。あんまり世の中の変わり方が激しいもんだから、あの人はそれを疑っているのさ」。「なんでも疑って見なけりゃ兄さんは承知しませんからね」。「ごらんな、こう乱脈な時になって来ると、いろいろな人が飛び出すよ。世をはかなむ人もあるし、発狂する人もある。上州高崎在の風雅人で、木曾路の秋を見納めにして、この宿場まで来て首をくくった人もあるよ」。「そんなことを言われると心細い」。「まあ、賢明で迷っているよりかも、愚直でまっすぐに進むんだね」。半蔵の寝言だ。 東照宮二百五十年忌を機会として大いに回天の翼を張ろうとした武家の夢もむなしい。金扇の馬印を高くかかげて出発して来た江戸の方には、家茂公を失った後の上下のものが袖に絞る涙と、ことに江戸城奥向きでの尽きない悲嘆とが、帰東の公儀衆を待っていた。のみならず、あの大きな都会には将軍進発の当時にもまさる窮民の動揺があって、飢えに迫った老幼男女が群れをなし、その町々の名を記した紙の幟を押し立て、富有な町人などの店先に来て大道にひざまずき、米価はもちろん諸品高直で露命をつなぎがたいと言って、助力を求めるその形容は目も当てられないものがあるとさえ言わるる。富めるものは米一斗、あるいは五升、ないし一俵二俵と施し、その他雑穀、芋、味噌、醤油を与えると、それらの窮民らは得るに従って雑炊となし、所々の鎮守の社の空地などに屯集して野宿するさまは物すごいとさえ言わるる。紀州はじめ諸藩士の家禄は削減せられ、国札の流用はくふうせられ、当百銭(天保銭)の鋳造許可を請う藩が続出して、贋造の貨幣までがあらわれるほどの衰えた世となった。 |
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革命は近い。その考えが半蔵を休ませなかった。幕府は無力を暴露し、諸藩が勢力の割拠はさながら戦国を見るような時代を顕出した。この際微力な庄屋としてなしうることは、建白に、進言に、最も手近なところにある藩論の勤王化に尽力するよりほかになかった。一方に会津、一方に長州薩摩というような東西両勢力の相対抗する中にあって、中国の大藩としての尾州の向背は半蔵らが凝視の的となっている。そこには玄同様付きの藩士と、犬千代様付きの藩士とある。藩論は佐幕と勤王の両途にさまよっている。たとい京都までは行かないまでも、最も手近な尾州藩に地方有志の声を進めるだけの狭い扉は半蔵らの前に開かれていた。彼は景蔵や香蔵と力をあわせ、南信東濃地方にある人たちとも連絡をとって、そちらの方に手を尽くそうとした。 | |
四 | |
慶応三年の三月は平田篤胤没後の門人らにとって記念すべき季節であった。かねて伊那の谷の方に計画のあった新しい神社も、いよいよ創立の時期を迎えたからで。その月の二十一日には社殿が完成し、一切の工事を終わったからで。荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、それらの国学四大人の御霊代を安置する空前の勧請遷宮式が山吹村の条山で行なわれることになって、すでにその日取りまで定まったからで。 このめずらしい条山神社の実際の発起者たる平田門人山吹春一は、不幸にも社殿の完成を見ないで前の年の九月に亡くなった。それらの事情はこの事業に一頓挫を来たしたが、春一の嗣子左太郎と別家片桐衛門とが同門の人たちの援助を得て、これを継続完成した。山吹社中が奔走尽力の結果、四大人の遺族から贈られたという御霊代は得がたい遺品ばかりである。松坂の本居家からは銅製の鈴。浜松の賀茂家からは四寸九分無銘白鞘の短刀。荷田家からは黄銅製の円鏡。それに平田家からは水晶の玉、紫の糸で輪につないだ古い瑠璃玉。まだこのほかに、山吹社中の懇望によって鉄胤から特に贈られたという先師篤胤が遺愛の陽石。 この報告が馬籠へ届くたびに、半蔵はそれを親たちにも話し妻にも話し聞かせて、月の二十四日と定まった遷宮式には何をおいても参列したいと願っていた。よい事には魔が多い。その二日ほど前あたりから彼は腹具合を悪くして、わざわざ中津川の景蔵と香蔵とが誘いに寄ってくれた日には、寝床の中にいた。「半蔵さんは出かけられませんかね」。「そいつは残念だなあ。この正月あたりから一緒に行くお約束で、わたしたちも楽しみにして待っていましたのに」。この二人の友人が伊那の山吹村をさして発って行く姿をも、半蔵は寝衣の上に平常着を引き掛けたままで見送った。 ちょうど、その年の三月は諒闇の春をも迎えた。友人らの発って行った後、半蔵は店座敷に戻って東南向きの障子をあけて見た。山家も花のさかりではあるが、年が年だけにあたりは寂しい。彼は庭先にふくらんで来ている牡丹の蕾に目をやりながら、この街道に穏便のお触れの回ったのは正月十日のことであったが、実は主上の崩御は前の年の十二月二十九日であったということを胸に浮かべた。十二月の初めから御不予の御沙汰があり、中旬になって御疱瘡と定まって、万民が平和の父と仰ぎ奉った帝その人は実に艱難の多い三十七歳の御生涯を終わった。 一方には王政復古を急いで国家の革新を改行しようとする岩倉公以下の人たちがあり、一方には天皇の密勅を奏請して大事を挙げようとする会津藩主以下の人たちがある。飽くまで公武一和を念とする帝はそのために御病勢を募らせられたとさえ伝えるものがある。雲の上のことは半蔵なぞの想像も及ばない。もちろん、この片田舎の草叢の中にまで風の便りに伝わって来るような流言にろくなことはない。しかし彼はそういう社会の空気を悲しんだ。おそらくこの世をはかなむものは、上御一人ですら意のごとくならない時代の難さを考えて、聞くまじきおうわさを聞いたように思ったら、一層厭離の心を深くするであろう、と彼には思われた。 枕もとには本居宣長の遺著『直毘の霊』が置いてある。彼はそれを開いた。以前には彼はよくそう考えた、勤王の味方に立とうと思うほどのものは、武家の修養からはいった人たちでも、先師らのあとを追うものでも、互いに執る道こそ異なれ、同じ復古を志していると。種々な流言の伝わって来る主上の崩御に際会して見ると、もはやそんな生やさしいことで救われる時とは見えなかった。その心から、彼は本居大人の遺著を繰り返して見て、日ごろたましいの支柱と頼む翁の前に自分を持って行った。 |
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宣長の言葉にいわく、「古の大御世には、道といふ言挙げもさらになかりき」。また、いわく、「物のことわりあるべきすべ、万の教ごとをしも、何の道くれの道といふことは、異国の沙汰なり。異国は、天照大御神の御国にあらざるが故に、定まれる主なくして、狭蝿なす神ところを得て、あらぶるによりて、人心あしく、ならはしみだりがはしくして、国をし取りつれば、賤しき奴も忽ちに君ともなれば、上とある人は下なる人に奪はれまじと構へ、下なるは上のひまを窺ひて奪はむと謀りて、かたみに仇みつゝ、古より国治まりがたくなも有りける。そが中に、威力あり智り深くて、人をなつけ、人の国を奪ひ取りて、又人に奪はるまじき事量をよくして、しばし国をよく治めて、後の法ともなしたる人を唐土には聖人とぞ言ふなる。 そも/\人の国を奪ひ取らむと謀るには、よろづに心を砕き、身を苦しめつゝ、善きことの限りをして、諸人をなつけたる故に、聖人はまことに善き人めきて聞え、又そのつくり置きたる道のさまもうるはしくよろずに足らひて、めでたくは見ゆれども、まづ己からその道に背きて、君をほろぼし、国を奪へるものにしあれば、みな虚偽にて、まことはよき人にあらず、いとも/\悪しき人なりけり。もとよりしか穢悪き心もて作りて、人を欺く道なるけにや、後の人の表べこそ尊み従ひがほにもてなすめれど、まことには一人も守りつとむる人なければ、国の助けとなることもなく、その名のみひろごりて、遂に世に行はるることなくて、聖人の道はたゞいたづらに、人をそしる世々の儒者どもの、さへづりぐさとぞなれりける」。 多くの覇業の虚偽、国家の争奪、権謀と術数と巧知、制度と道徳の仮面なぞが、この『直毘の霊』に笑ってある。北条、足利をはじめ、織田、豊臣、徳川なぞの武門のことはあからさまに書かれてないまでも、すこし注意してこれを読むほどの人で、この国の過去に想いいたらないものはなかろう。『直毘の霊』の中にはまた、中世以来の政治、天の下の御制度が漢意の移ったもので、この国の青人草の心までもその意に移ったと嘆き悲しんである。「天皇尊の大御心を心とせずして、己々がさかしらごゝろを心とする」のは、すなわち、異国から学んだものだと言ってある。武家時代以前へ――もっとくわしく言えば、楠氏と足利氏との対立さえなかった武家以前への暗示がここに与えてある。御世御世の天皇の御政はやがて神の御政であった、そこにはおのずからな神の道があったと教えてある。神の道とは、道という言挙げさえもさらになかった自然だ、とも教えてある。 この自然に帰れ、というふうに、あとから歩いて行くものに全く新しい方向をさし示したのが本居大人の『直毘の霊』だ。このよろこびを知れ、というふうに言葉の探求からはいった古代の発見をくわしく報告したものが、翁の三十余年を費やした『古事記伝』だ。直毘(直び)とはおのずからな働きを示した古い言葉で、その力はよく直くし、よく健やかにし、よく破り、よく改めるをいう。国学者の身震いはそこから生まれて来ている。翁の言う復古は更生であり、革新である。天明寛政の年代に、早く夜明けを告げに生まれて来たような翁のさし示して見せたものこそ、まことの革命への道である。その考えに力を得て、半蔵は寝床の上にすわったまま、膝の上に手を置きながら自分で自分に言って見た。「寿平次さんの言い草ではないが、われわれは下から見上げればこそ、こんなことを考えるのだ」。 遷宮式のあるという当日には、半蔵は午後から店座敷に敷いてあった寝床を畳んだ。下痢も止まったばかりで、彼はまだ青ざめた顔をしていたが、それでもお民に手伝わせて部屋の内を掃き、袋戸棚に続いている床の間を片づけた。遙拝のしるしばかりに国学四大人の霊号を書きつけたものが、やがてその床の間に飾られた。荷田宿禰羽倉大人。賀茂県主岡部大人。秋津彦瑞桜根大人。神霊能真柱大人。あだかもそれらの四人の大先輩はうちそろってこの辺鄙な山家へ訪れて来たかのように。そして、半蔵夫婦が供える神酒や洗米なぞを喜び受けるかのように。 こういう時になくてならないのは清助の手だ。手先のきく清助は半蔵よりずっと器用に、冬菜、鶯菜、牛蒡、人参などの野菜を色どりよく取り合わせ、干し柿の類をも添え、台の上に載せて、その床の間を楽しくした。 |
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半蔵事案 | 半蔵夫婦が子供も大きくなった。姉のお粂は十二歳、弟の宗太は十歳にもなる。この姉弟の子供はまた、おまんに連れられて、隣家の伏見屋から贈られた大きな九年母と林檎の花をそこへ持って来た。伊之助も遷宮式のあることを聞いて、霊前に供えるようにと言って、わざわざみごとな九年母などを本陣へ寄せたのだ。思いがけない祭りの日でも来たように子供らは大騒ぎした。おまんはかわいいさかりの年ごろになって来た孫娘が部屋から走り出て行く姿を見送りながら、「でも、お民、早いものじゃないか。宗太の方はまだそれほどでもないが、お粂はもうおとなの話なぞに気をつけきっているよ。耳を澄まして、じっとみんなの言うことを聞いてるよ」。「ほんとに、あの娘のいるところじゃ、うっかりしたことは話せなくなりました」とお民も笑った。 その日の式は山吹村の方で夜の丑の刻に行なわれるという。伊那の谷から中津川辺へかけてのおもな平田門人のほとんど全部、それにまだ入門しないまでも篤胤の信仰者として聞こえた熱心な人たちが古式の祭典に参列するという。半蔵は自分一人その仲間にもれたことを思い、袴をつけたままの改まった心持ちで、山吹村追分の御仮屋から条山神社の本殿に遷さるるという四大人の御霊代を想像し、それらをささげて行く人のだれとだれとであるべきかを想像した。その年は前年凶作のあとをうけ、かつは諒闇のことでもあり、宿内倹約を申し合わせて、正月定例の家祈祷にすら本陣では家内限りで蕎麦切りを祝ったくらいである。そんな中で遷宮式の日を迎えた半蔵は、清助と栄吉を店座敷に集めて、焼※[#「魚+昜」、274-16]ぐらいを肴に、しるしばかりの神酒を振る舞った。床の間に燈明のつくころには、伊之助も顔を見せたので、半蔵はこの隣人を相手に、互いに霊前で歌なぞをよみかわした。いつのまにか伊之助は半蔵の歌の友だちになって、年寄役としての街道の世話、家業の造酒なぞの余暇に、半蔵を感心させるほど素直な歌を作るような人である。 夜はふけた。伊之助も帰って行った。そろそろ山吹村の方では行列が動きはじめたかとうわさの出るころには、なんとなくおごそかな思いが半蔵の胸に満ちて来た。彼はその深夜に動いて行く松明の輝きを想像し、榊、籏なぞを想像し、幣帛、弓、鉾なぞを想像し、その想像を同門の人たちのささげて行く四大人の御霊代にまで持って行った。彼はまた、その行列の中に加わっている先輩の暮田正香や、友人の景蔵や香蔵の姿を想像でありありと見ることができた。お民もその夜は眠らない。彼女は夫と共に起きていて、かわるがわる店座敷の戸をあけては東南の方の空を望みに行った。旧暦三月末のことで、暗い戸の外には花も匂った。 |
同門、および準同門の人たちを合わせると、百六十人の篤胤の弟子たちが式に参列したという話を持って、景蔵や香蔵が大平峠を越して馬籠まで帰って来たのは、それから二日ほど過ぎてのことである。「青山君、いよいよわたしも青天白日の身となりましたよ」と言って、伊那から景蔵らと同行して来た暮田正香もある。そういう正香は諒闇の年を迎えると共に大赦にあって、多年世を忍んでいた流浪の境涯を脱し、もう一度京都へとこころざす旅立ちの途中にある。二人の友人ばかりでなく、この先輩までも家に迎え入れて、半蔵は西向きに眺望のある仲の間の障子を明けひろげた。その部屋に客の席をつくった。何よりもまず彼は条山神社での祭典当日のことを聞きたかった。「いや、万事首尾よく済みました」と景蔵が言った。「式のあとでは、剣の舞もあり、鎮魂の雅楽もありました。何にしろ君、伊那の谷としてはめずらしい祭典でしょう。行って見ると、京都の五条家からは奉納の翠簾が来てる、平田家からは蔵版書物の板木を馬に幾駄というほど寄贈して来てるというにぎやかさサ。どうして半蔵さんは見えないかッて、伊那の衆はみんな残念がっていましたよ」。「せめて、あの晩の行列だけは半蔵さんに見せたかった」と香蔵も言って見せる。「松尾さんのお母さん(多勢子)も京都からわざわざ出かけて来ていましたし、まだそのほかに参列した婦人が三、四人はありました。あの婦人たちがいずれも短刀を帯の間にはさんで、御霊代のお供をしたのは人目をひきましたよ」。 その時、正香は条山神社の方からさげて来た神酒の小樽と菓子一折りとをそこへ取り出した。「さあ、これだ」と言って、祭典のおりに供えた記念の品を半蔵にも分けた。「や、これはよいものをくださる。吾家の阿爺もさぞ喜びましょう」。半蔵は手を鳴らしてお民を呼んだ。そこへ来て客をもてなすお民を見ると、正香はすこし改まった顔つきで、「奥さんには御挨拶をしたぎりで、まだお礼も申しませんでした。いつぞやは、お宅の土蔵の中へ隠していただいた暮田です」。聞いているものは皆笑い出した。 平田家から条山神社へ寄進のあったという篤胤遺愛の陽石の話になると、一座の中には笑い声が絶えない。陽石――男性の象徴――あれを自分の御霊代として残し伝えたいとは、先師の生前に考えて置いたことであると言わるるが、平田家ではみだりに他へもらすべき事でないとして、ごく秘密にしていた。いつのまにかそれが世間へ伝聞して、好事の者はわけもなしにおもしろがり、高い風評の種となっているところへ、今度条山神社を建てるについてはぜひにとの山吹社中の懇望だったのである。平田家では非常に迷惑がったともいう。天朝かまたは堂上方の内より御所望のあるために山吹の方へ譲らないなぞとは、とんでもない人の言い草で、決してそんなことのあるべきはずがなく、たとい右のようなお召状があっても差し出すべき品ではないと言って断わったという。ところが、山吹社中の方では、印度蔵志の記事まで考証してある先師の遺品だと聞き込んで、懇望してやまない。それほどのお望みとあれば、ということになって、平田家から送られて来たのが御霊代の大陽石だ。それにはいろいろな条件が付いていた。風紀上いかがわしい品であるから、衆人の容易にうかがい見ないようなところにしたい、これを置く場所はいかように小さく粗末でも苦しくない、板宮かまたは厨子のような物でもいい、とにかく御同殿の物のない一座ぎりのところで、本殿の後ろの社外に空地もあろうから、そんな玉垣の内にでも安置してもらいたい。好事の者が盗み取ることもないとは限るまいから堅く鎖を設けてもらいたい、とあったという。「しかし、平田先生も思い切った物をのこしたものさね」とだれかがくすくすやる。「そこがあの本居先生と違うところさ。本居先生の方には男女の恋とかさ、物のあわれとかいうことが深く説いてある。そこへ行くと、平田先生はもっと露骨だ。考えることが丸裸だ――いきなり、生め、ふやせだ」。こんな話も出た。 その日、正香はあまり長くも半蔵の家に時を送らなかった。祭典の模様を伝えるだけに止めて、景蔵と香蔵の二人も一緒に座を立ちかけた。半蔵の家族が一晩ぐらいゆっくり泊めたいと言って引き留めているうちに、三人の客は庭へおりて草鞋の紐を結んだ。「暮田さんは京都へお出かけになるんだよ。ゆっくりしていられないんだよ」と半蔵は妻に言って見せて、庭先にある草履を突ッ掛けながら、急いで客と一緒になった。彼は表門から街道へ出ないで、裏口の方へと客を誘った。「暮田さん、そこまでわたしが御案内します。こちらの方に静かな細い道があります」。 先に立って彼が案内して行ったは、吉左衛門が隠居所と土蔵の間を通りぬけ、掘り井戸について石段を降りたところだ。木小屋、米倉なぞの前から、裏の木戸をくぐると、本陣の竹藪に添うて街道と並行した村の裏道がそこに続いている。「そう言えば、師岡正胤もどうしていますかさ。ひょっとすると、わたしより先に京都へ出ているかもしれません。あの師岡も、今度の大赦にあって、生命拾いをしたように思っていましょう」。青い竹の根のあらわれた土を踏みながら、正香は歩き歩き旧友のことを言い出した。例の三条河原事件で、足利将軍らが木像の首を晒しものにした志士仲間にも、ようやく解放の日が来た。正香は上田藩の方に幽囚の身となっていた師岡正胤のうわさをして、今日あるよろこびを半蔵に言って見せた。 向こうには馬籠の万福寺の杜が見える。その畠の間まで行って、しばらく正香と半蔵とはあとから話し話し歩いて来る景蔵らを待った。そこいらには堅い地を割って出て来て、花をつけている春の草もある。それが二人の足もとにもある。正香はどんな京都の春が自分を待ち受けていてくれるかというふうで、その畠の間にある柿の木のそばへ一歩退きながら、半蔵の方を見て言った。「さあ、時局もどうなりますか。尊王佐幕の大争いも、私闘に終わってはつまりません。一、二の藩が関ヶ原の旧怨を報いるようなものであってはなりませんね。どうしてもこれは、国をあげての建て直しでなくちゃなりませんね」。「いずれ京都では鉄胤先生もお待ちかねでしょう」。「まあ、今度はあの先生にしかられに行くようなものです。しかし、青山君、見ていてくれたまえよ。長い放浪で、わたしもいくらか修業ができましたよ」。 |
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にわかに同門の人たちも動いて来た。正香の話にもあるように、師岡正胤をはじめ、八、九人の三条河原事件に連坐した平田門人らは今度の大赦に逢って、また京都にある師鉄胤の周囲に集まろうとしている。そういう正香自身も沢家に身を寄せることを志して上京の途中にあり、同じ先輩格で白河家の地方用人なる倉沢義髄、それに原信好なぞは上京の機会をうかがっている。岩倉家の周旋老媼とまで言われて多くの志士学者などの間に重きをなしている松尾多勢子のような活動的な婦人が帰郷後の月日をむなしく送っているはずもない。多勢子とは親戚の間柄にある景蔵ですら再度の上京を思い立って、近く中津川の家を出ようとしている。 その日、半蔵は正香や景蔵らを馬籠の宿はずれまで見送って、同じ道を自分の家へ引き返した。三人の客がわざわざ山吹村からさげて来てくれた祭典記念の神酒と菓子の折とがそのあとに残った。彼はそれを家の神棚に供えて置いて、そばへ来る妻に言った。「お民、このお神酒は家じゅうでいただこうぜ。お菓子もみんなに分けようぜ」。「きっと、お父さんが喜びますよ」。「おれもこれをいただいて、今夜はよく眠りたい。いろいろなことを考えるとおれは眠られなくなって来るよ。このおれの耳には、どれほどの騒がしい音が聞こえて来るかしれない」。「あなたには眠られないということが、よくあるんですね」。「ごらんな、景蔵さんもまた近いうちに京都へ出かけるそうだ。あの人もぐずぐずしちゃいられなくなったと見える」。「あなた――あなたは家のものと一緒にいてくださいよ。お父さんのそばにいてくださいよ。あのお父さんも、いつどんなことがあるかしれませんよ」。「そりゃお前に言われるまでもないサ。まあ、条山神社のお神酒でもいただいて、今夜はよく眠ることだ。こういう時世になって来ると、地方なぞはてんで顧みられない。おれのような縁の下の力持ち――そうだ、おれは自分のことを縁の下の力持ちだと思うが、どうだい。宿場の骨折りなぞはお前、説いても詮のないことだ」。夫婦はこんな言葉をかわした。 旅するものによい季節を迎えて、やがてこの街道では例年のとおりな日光例幣使の一行を待ち受けた。四月の声を聞くころには、その先触れも到来するようになった。二百十日の大嵐にたとえて百姓らの恐怖する「例幣使さま」の通行ほど、当時の社会における一面の真相を語るものはない。それは脅迫と強請のほかの何物でもない。毎年のきまりで馬籠の宿方が一行に搾られる三、四十両の金があれば、たとい十両につき三俵替えの値段でも、九俵から十二俵の飯米を美濃地方より輸入することができる。事実、この地方には、三月四月は食いじまいと百姓のよく言うころがやって来ていた。しかも、前年凶作のあとを受けてのその食いじまいだ。引き続いた世間一統の米高で、盗難はしきりに起こる、宿内での大きな造り酒屋、桝田屋と伏見屋との二軒の門口には、白米一升につき六百文で売り渡せとの文句を張り札にして、夜中にそれをはりつけて行くものさえあらわれる。上の伏見屋の金兵衛が古稀の祝いを名目に、村じゅうへの霑いのためとして、四俵の飯米を奮発したぐらいでは、なかなか追いつかない。余儀なく、馬籠の町内をはじめ、荒町、峠村では、ごく難渋なものへ施し米でも始めねばなるまいと言って騒いでいるほどの時だ。 そこへ「例幣使さま」だ。行く先の道中で旅館に金をねだったり、人足までもゆすったりするようなその一行は、公卿、大僧正をはじめ約五百人からの大集団で、例の金の御幣を中心に文字通りの大嵐のような勢いで、四月六日には落合泊まりで馬籠の宿場へ繰り込んで来た。どうして京都と江戸の間を一往復して少なくとも一年間は寝食いができるというような乱暴な人たちの耳に、宿駅の難渋を訴える声がはいろうはずもない。服従に服従を重ねて来た地方の人民も、こんな恐ろしい「例幣使さま」の掠奪に対してはこれ以上の忍耐はできなかった。「逃げろ、逃げろ」。その声は継立てをしいられる会所の宿役人仲間からも、問屋場の前に集まる人足、馬力の仲間からも起こった。ちょうど会所に詰めていた伊之助は驚きあわてて、半蔵のところへ飛んで来た。「半蔵さん、会所のものはもうみんな逃げました。それあっちへ行った、それこっちへ行ったと言って、刀に手をかけた人たちが人足を追い回しています。あなたもわたしと一緒に逃げてください」。これには半蔵も言葉が出なかった。彼は伊之助と手を引き合わないばかりにして、家の裏口からこっそり本陣林の方へ落ちのびた。「いや笑止、笑止」。それを言って金兵衛は上の伏見屋を飛び出す。吉左衛門は本陣の裏二階から出て見る。二人の隠居が言い合わせたように街道へ飛び出し、互いに驚いたような顔を合わせて、あちこちと見回したころは、例幣使の一行が妻籠をさして通り過ぎたあとだった。「はッ、はッ、はッ、は」。吉左衛門は吉左衛門で、泣いているのか笑っているのかわからなかった。 |
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その時になると、半蔵ももはや三十七歳である。ずっと年若な時分とちがい、彼もそれほど人を毛ぎらいしないで済んだから、木曾福島の役人衆でもだれでもつかまえて自分が世話する村方の事情を訴えることもできたし、なんのこれしきの凶年ぐらいに、という勇気も出た。木曾路には藤の花が咲き出すころに、彼は馬籠と福島の間を往復して、代官山村氏が名古屋表への出馬を促しにも行って来た。この領民の難渋と宿駅の疲弊とを尾州藩で黙ってみていたわけではもとよりない。同藩でもよく木曾地方のために尽くした。前年の冬には宿駅救助として宮の越、上松、馬籠の三宿へ六百両ずつを二か年度の割に貸し渡し、その年の正月には木曾谷中へ五千両をお下げ金として分配した。のみならず、かねて馬籠の村民一同が嘆願した上納御年貢の半減も容赦され、そのほかにこの際は特別の場合であるとして、三月には米にして六十石、この金高百九十両余がほどを三回に分け、一度分金十七両と米十俵ずつとを窮民の救助に当てることになった。 いかんせん、この尾州藩の救いは右から左へとすぐ受け取れるものでなかったし、村民は救いの手を目の前に見ながら飢えねばならなかった。半蔵が伊之助その他の宿役人を会所に集め、向こう十五日間を期して馬籠宿としての施し米を始めたのはこの際である。配当は馬籠の町内、荒町、峠村。白米、一人一合宛。老人子供は五勺ずつ。こんな日がやがて十日も続いた。村内には松の樹の皮を米にまぜ、自然薯なぞを掘って来て飢えをしのぐものもできた。それを聞くと、半蔵は捨て置くべき場合でないとして、町内有志への相応な救施を勧誘したいと思い立ったが、それには率先して自分の家の倉を開こうと決意した。 本陣の勝手口の木戸をあけたところに築いてある土竈からはさかんに枯れ松葉の煙のいぶるような朝が来た。餅搗きの時に使う古い大釜がそこにかかった。日ごろ出入りの百姓たちは集まって来て竈の前で働くものがある。倉から勝手口へ米を運ぶものもある。おまんやお民までが手ぬぐいをかぶり襷がけで、ごく難渋なもののために白粥をたいた。半蔵は佐吉を呼んで言った。「お前は一つ村方へ回ってもらおう。朝の粥をお振る舞い申すから、お望みのかたはどなたでも小手桶をさげて来るようにッて、そう言っておくれ」。そのわきには清助も立っていて、「半蔵さま、これは家内何人という札にして渡しましょう。白米一升に水八升の割にして、一人に三合ずつ振る舞いましょう」。 この話が村方へ知れ渡るころには、小手桶をさげた貧窮な黒鍬なぞが互いに誘い合わせて、本陣の門の内へ集まって来るようになった。その朝は吉左衛門も心配顔に、裏二階から母屋の方へ杖をついて来た。「どうして天明三年の大飢饉はこんなものじゃなかったと言うよ。おれの吾家の古い帳面には、あの年のことが残ってる。桝田屋でも、伏見屋でも、梅屋でも、焚き出しをして、毎朝百人から百二十人ほどの人数に粥を振る舞ったそうだよ」。吉左衛門の思い出話だ。 五月を迎えるころには、馬籠の村民もこんな苦しいところを切り抜けた。尾州藩からの救助金は配当され、大井米もはいって来るようになった。百姓らはいずれも刈り取った麦に力を得て、柴落し、早苗取りと続いたいそがしい農事に元気づいた。そこにもここにも田植えのしたくが始まる。大風に、強雨に、天災のしきりにやって来た前年とも違い、陽気は極々上々と聞いて、七十一歳の最後の思い出に、美濃の浅井の医師のもとへ養生の旅を思い立つ上の伏見屋の金兵衛のような人もある。 暮田正香と前後して京都にはいった景蔵からの便りも次第に半蔵のもとへ届くようになった。彼はその友人の京都便りを読んで、文久元治の間に朝譴をこうむった有栖川宮親王以下四十余人の幽閉をとかれたことを知り、長いこと機会を待っていた岩倉具視の入洛までが許されたことを知った。先帝の左右に侍して朝廷の全権を掌握していた堂上の人たちは次第にその地位を退き、朝廷における中心の勢力も移り動きつつある。先帝崩御の影響がどこまで及んで行くかはほとんど測りがたい、と景蔵の便りには言ってある。新帝はまだようやく少年期を終わらせらるるほどのお年ごろにしか達せられない、一方にはいよいよ幕府反対の旗色を鮮かにして岩倉公らに結ぶ薩摩があり、一方には気味の悪い沈黙を守って新将軍の背後に控えている会津と桑名がある、その間には微妙な関係に立つ尾州があり土佐があり越前があり芸州がある、こんな中でやかましい兵庫開港と長州処分とが問題に上ろうとしている、とある。今や人心はほとんど向かうところを知らない、諸藩の内部は分裂と党争とを事としている、上御一人よりほかに万民を統一するものはなくなった、とある。おそらく闘争は神代よりあった、上御一人をして万ずの族を統べさせたもうことは神の大御心の測りがたいところではあるまいか、ともある。 |
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五 | |
土蔵付き売屋。これは、傾きかけた徳川幕府の大身代をどうかしてささえられるだけささえようとしているような、その大番頭の一人とも言うべき小栗上野の口から出た言葉である。土蔵付き売屋とは何か。それは幕府が外国政府より購い入れた軍艦や汽船の修繕に苦しみ、小栗上野とその知友喜多村瑞見との協力の下に、元治元年あたりからその計画があって、いよいよ慶応元年のはじめより経営の端緒についた横須賀の方の新しい造船所をさす。どうして造船所が売屋であるのか。どうしてまた、それがいよいよ出来の上は旗じるしとして熨斗を染め出しても、なお土蔵付きの栄誉を残すであろうと言われるのか。これは小栗上野が一時の諧謔でもない。その内心には、もはや時事はいかんともすることができないと知りながらも、幕府の存在するかぎり、一日も任務を尽くさねばならないとする人の口から出た言葉である。実際、幕府内にはこういう人もいた。こういう諧謔の意味は知る人ぞ知ると言って、その志を憐む喜多村瑞見のような人もまた幕府内にいた。言って見れば、山上一族が住む相州三浦の公郷村からほど遠からぬ横須賀の漁港に、そこに新しいドック修船所が幕府の手によって開き始められていたのだ。地中海にある仏国ツウロン港の例にならい、ややその規模を縮小し、製鉄所、ドック、造船場、倉庫等の従来東洋になかった計画がそこに起こり始めていたのだ。そして、江戸幕府が没落の運命をたどりつつあったことは、幕府内部のものですらそれを痛感していた間にも、来たるべき時代のためにせっせとしたくを怠るまいとするような、こんな近代的な設備がその一隅には隠れていた。 | |
十五代将軍慶喜 | 十五代将軍慶喜は、あだかもこの土蔵付き売屋の札をながめに徳川の末の代にあらわれて来たような人である。その人を好むと好まないとにかかわらず、当時この国の上下のものが将軍職として仰ぎ見ねばならなかったのも、一橋からはいって徳川家を相続した慶喜である。しかし、この新将軍が貴冑の族ながらも多年内外の政局に当たり、見聞も広く、経験も積んでいて、決して尋常の貴公子でないことを忘れてはならない。 慶喜の新生涯は幾多の改革に着手することから始められた。これは文久改革以来の慶喜の素志にもより、一つは長州征伐の大失敗が幕府の覚醒を促したにもよる。そういう幕府は無謀な大軍を西へ進める当時に、尾州の御隠居や越前藩主なぞの諫争をきき入れないでおいて、今となって目をさましてもおそかった。しかしおそくも目をさましたのは、さまさないには勝っている。この戦争によって幕府をはじめ諸藩の軍制および諸制度はにわかに改革を促された。従来、数十人ないし百人以上の家臣従僕が列をなして従った大名旗下の供数も、万石以上ですら従者五人、布衣以下は侍一人に草履取り一人とまで減少された。二百年間の繁文縟礼[#「縟礼」は底本では「褥礼」]が驚くべき勢いで廃止され、上下共に競って西洋簡易の風に移り、重い役人でも単騎独歩で苦しくないとされるようになったのは、皆この慶喜の時代に始まる。 フランス伝習の陸軍所が建設せられ、御軍艦操練所は海軍所と改められ、英仏学伝習所が横浜に開かれたのも、その結果だ。小普請組支配の廃止、火付け盗賊改めの廃止、中奥御小姓同御番の廃止、御持筒頭の廃止、御先手御留守番と西丸御裏御門番と頭火消役四組との廃止なぞも、またその結果だ。すべて古式古風な散官遊職は続々廃止されて、西洋陸軍の制度に旗本の士を改造する方針が立てられた。もはや旗本の士は殿様の威儀を捨てて単騎独歩する元亀天正の昔に帰った。とにもかくにもいわゆる旗下八万騎を挙げて洋式の陸軍隊を編成し、応募の新兵はフランス人の教官に託し、従来羽織袴に刀を帯びて席上にすわっていたものに筒袖だん袋を着せ舶来の銃を携えさせて江戸城の内外を巡邏せしめるようになったというだけでも、いかに新将軍親政の手始めが旧制の一大改革にあったかがわかる。 この方針は地方にまで及んで行った。旧い伝馬制度の改革もしきりに企てられ、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、助郷の苦痛とする刎銭の割合も少なくなって、街道宿泊の方法までも簡易に改められた。手形なしには関所をも通れなかったほどの婦人が旅行の自由になったことは、この改革に忘れてならないことの一つだ。日ごろ深窓にのみこもり暮らした封建時代の婦人もその時すでに解放の第一歩を踏み出した。 もともと慶喜は自ら進んで将軍職を拝した人でもない。家茂薨去の後は、尾州公か紀州公こそしかるべしと言って、前将軍の後継者たることを肯じなかった人である。周囲の懇望によりよんどころなく徳川の家督を相続しても、それは血統の事であるとして、容易に将軍職を受けようとは言わなかったのもこの人だ。所詮、徳川家も滅亡か、との松平春嶽らの異見を待つまでもなく、天下公論の向かうところによっては少しの未練なく将軍職をなげ出そうとは、就職当時からの慶喜が公武一和の本領ででもあったのだ。 この十五代ほど四方八方からの誤解の中に立った人もめずらしい。前将軍の早世も畢竟この人あるがためだとして、慶喜を目するに家茂の敵であると思う輩は幕府内に少なくないばかりでなく、幕府反対の側にある京都の公卿たちおよび薩長の人士もまたこの人の新将軍として政治の舞台に上って来たことを恐れた。慶喜が徳川家を相続するとは言っても、将軍職を受けることは固く辞したいと言い出した時に、それを聞いて油断のならない人物としたのは岩倉公だ。慶喜の人物を評して、「譎詐百端の心術」の人であるとなし、賢い薩州侯の公論を至極公平に受けいれることなぞおぼつかないと考え、ことに慶喜が懐刀とも言うべき水戸出身の原市之進とは絶えざる暗闘反目を続けていたのも薩摩の大久保一蔵だ。慶喜を家康の再来だとして、その武備を修める形跡のあるのは警戒しなければならないとしたのは長州の木戸準一郎だ。 しかし、慶喜も水戸の御隠居の子である。弘道館の碑に尊王の志をのこした烈公の血はこの人の内にも流れていた。朝廷と幕府とが相対立しすべての方針が二途に分かれるような現状を破って、天皇の大御代を出現しないかぎり、海外諸国の圧迫に対抗してこの国の独立を維持しがたいとの民間志士の信念を受けいれたものも慶喜であった。自ら進んで諸侯の列に下り、この国を郡県の制度の下に置くか、あるいはドイツあたりの連邦の制度に改めるかの一大改革を行ないたいとの念が早くもその胸のうちにきざしはじめていたのもこの新将軍であった。その意味から言って、飽くまで公武一和を念とせられ、王政復古を急ぐ岩倉公らを戒められたという先帝の崩御ほど、この慶喜にとっての深い打撃はなかった。およそ先帝を惜しみ奉らないものはない中で、ことにその悲しみを深くしたものは、言うことなすこと周囲に誤解された慶喜であろう。大政奉還の悲壮な意志は後日を待つまでもなく、おそらく将軍職を拝してから間もなかった霜夜の御野辺送りを済ました時に、すでにこの人の内に動いたであろう。 慶応三年といえば西暦千八百六十七年、実に十九世紀の後半期に当たる。フランスではナポレオン第三世の時代に当たり、イギリスではヴィクトリア女皇の時代に当たる。新知識を吸集するに鋭意な徳川新将軍の代となってから、仏国公使ロセスの建言を用い、新内閣の組織を改め、大いに人材登庸の道を開き、商工業に関する諸税を課することから鉱山を開き運輸を盛んにすることまで、種々な計画は皆「土蔵付き売屋」の意味を帯びていた。将軍家の弟なる松平民部太夫、外国奉行喜多村瑞見などの人たちが前後して仏国に使いする日をすら迎えた。こんなに幕府側がフランスに結ぶことの深ければ深いほど、薩摩藩および長州藩ではイギリスに結んで、ヨーロッパにおける二大強国はいつのまにかこの国の背景としても相対抗するようになった。いよいよ兵庫開港の議も決せられ、長州藩主父子も許された。最も古くて、しかも最も新しい太陽を迎えようとする思いは、日一日と急な時勢の潮流と相まって、各人の胸に入り乱れた。 その年の九月には、王政復古を待ち切れないような諸勢力が相呼応して慶喜の目の前にあらわれかけて来た。その意は土佐を中心に頭を持ち上げて来た公儀政体組織の下に温和に王政復古の実をあげたいという説を手ぬるいとなし、長州芸州と連合して一切の解決を兵力に訴え、慶喜および会津桑名の勢力を京都より一掃して、岩倉公らと連絡を取りながら王室回復の実をあげようとするにある。往昔関ヶ原の合戦に屈してからこのかた、西の国のすみに忍耐し続けて来た松平修理太夫領内の健児らが、三世紀にわたる徳川氏の抑圧を脱しようとして、勇敢に動き始めたというは不思議でもない。おまけに相手は防長征討軍の苦い経験をなめ、いったん討死の覚悟までした討幕の急先鋒だ。この尻押しには、英国公使パアクスのようなロセスの激しい競争者もある。薩摩は挙兵上京と決して海路から三田尻に着こうというのであり、長州でもそれを待って相共に兵を上国に送ろうとして、出発の準備にいそがしかった。いわゆる薩長芸三藩が攻守同盟の成立だ。この形勢をみて取った松平容堂は薩長の態度を飽き足りないとして、一新更始の道を慶喜に建白した。過去の是非曲直を弁難するとも何の益がない、この際は大きく目を開いて万国に対しても恥じないような大根底を打ち建てねばならない、それには天下万民と共に公明正大の道理に帰り、皇国数百年の国体を一変して、王政復古の業を建つべき一大機会に到達したと力説した。 かねての意志を実現すべき大政奉還の機会はこんなふうにして慶喜のところへやって来た。徳川の代もこれまでだと覚悟する将軍は、討幕の密議がそれほどまで熟しているとは知らなかったが、禍機はすでにその極度に達していることを悟り、敵としての自分の前に進んで来るものよりも、もっと大きなものの前に頭を下げようとした。十月の十二日は慶喜が政権奉還のことを告げるために、大小目付以下の諸有司を二条城に召した日である。一同の驚きはなかった。今日となってはもはやこのほかに見込みがない、神祖(東照宮のこと)以来の鴻業を一朝に廃滅するは先霊に対しても恐れ入る次第であるが、畢竟天下を治め宸襟を安んじ奉るこそ神祖の盛業を継述するものである、と、慶喜に言われても、多数の有司は異議をいだいてなかなか容易に納まらない。この際、断然政権を朝廷に返上し、政令を一途にして、徳川家のあらんかぎり力の及ぶべきだけは天下の諸侯と共に朝廷を輔佐し奉り、日本全国の力をあわせて外国の侮りをふせぐことともならば、皇国今後の目的も定まるであろう。それまで慶喜に言われても、諸有司の間にはまだかれこれとのつぶやきが絶えない。 その時の慶喜の言葉に、各においても本来自分が京都にあるのは何のためかと思って見るがいい。こう穏やかでない時勢であるから輦下の騒擾をしずめ叡慮を安んじ奉らんがためであることはいずれも承知するところであろう。しかるに非徳の自分が京都にあるためその禍根を醸したとは思わずに、かえって干戈を動かし、自分を敵視するものを討つとあっては、ただただそれは宸衷を驚かし奉り万民を困苦せしむる罪を重ぬるのみであって、一つとして義理に当たるものはなく、忠貞の素志もそのためにむなしくなろう。この上は、ただ自身に反省して、己を責め、私を去り、従前の非政を改め、至忠至公の誠心をもって天下と共に朝廷を輔翼し奉るのほかはない。その事は神祖の神慮にも適うであろう。神祖は天下の安からんがために政権を執ったもので、天下の政権を私せられたのではない。自分もまた、天下の安からんがために徳川氏の政権を朝廷に還し奉るものであるから、取捨は異なるとも、朝廷に報ゆるの意はすなわち一つである。あるいは、政権返上の後は諸侯割拠の恐れがあろうとの説を出すものもあるが、今日すでに割拠の実があるではないか。幕府の威令は行なわれない。諸侯を召しても事を左右に託して来たらない。これは幕府に対してばかりでなく、朝命ですら同様の状態にある。この際、朝威を輔け、諸侯と共に王命を奉戴して、外国の防侮に力を尽くさなかったら、この日本のことはいかんともすることができないかもしれないと。 慶喜の意は決した。十月十三日には政権返上のことを列藩に通じ、十四日にはその事を御奏聞に達した。そしてこの大政奉還と、引き続く将軍職の拝辞とによって、まことの公武一和の精神がいかなるものであるかを明らかにした。あだかも高く飛ぶことを知る鳥は、風を迎え翼を収めることを知っていて、自然と自分を持って行ってくれる風の力に身を任せようとするかのように。 |
六 | |
ええじゃないか、ええじゃないか
馬籠の宿場では、毎日のように謡の囃子に調子を合わせて、おもしろおかしく往来を踊り歩く村の人たちの声が起こった。挽いておくれよ一番挽きを 二番挽きにはわしが挽く ええじゃないか、ええじゃないか ええじゃないか、ええじゃないか 臼の軽さよ相手のよさよ 相手かわるなあすの夜も ええじゃないか、ええじゃないか 十五代将軍が大政奉還のうわさの民間に知れ渡るとともに、種々な流言のしきりに伝わって来るころだ。その中で不思議なお札が諸方に降り始めたとの評判が立った。同時に、どこから起こったとも言えないような「ええじゃないか」の句に、いろいろな唄の文句や滑稽な言葉などをはさんで囃し立てることが流行って来た。 ええじゃないか、ええじゃないか
だれもがこんな謡の囃子を小ばかにし、またよろこび迎えた。その調子は卑猥ですらあるけれども、陽気で滑稽なところに親しみを覚えさせる。何かしら行儀正しいものを打ち壊すような野蛮に響く力がある。こよい摺る臼はもう知れたもの 婆々さ夜食の鍋かけろ ええじゃないか、ええじゃないか この「ええじゃないか」が村の年寄りや女子供までを浮き浮きとさせた。そこへお札だ。荒町にある氏神の境内へ下った諏訪本社のお札を降り始めとして、問屋の裏小屋の屋根へも伊勢太神宮のお札がお下りになったとか、桝田屋の坪庭へも同様であると言われると、それ祝えということになって、村の若い衆なぞの中には襦袢一枚で踊り狂いながら祝いに行くという騒ぎだ。お札の降った家では幸福があるとして、餅をつくやら、四斗樽をあけるやら、それを一同に振る舞って非常な縁起を祝った。 だれもがまた、こんな不思議を疑い、かつ信じた。実際、明るい青空からお札がちらちら降って来たのを目撃したと言うものがあり、何かこれは伊勢太神宮のお告げだと言うものがあり、豊年の瑞兆だと言って見るものもある。このにぎやかな「えいじゃないか」の騒動は木曾地方にのみ限らなかった。京大坂の方面から街道を下って来る旅人の話も戸ごとに神棚をこしらえ、拾ったお札を祭り、中には笛太鼓の鳴り物入りで老幼男女の差別なく花やかな衣裳を着けながら市中を踊り回るという賑々しさで持ち切った。不思議なお札と、熱狂する「ええじゃないか」と。まるで町内は時ならぬ祭礼の光景を出現するようになった。こんな意外なものが、つい三、四月あたりまで食うや食わずの凶年に騒いでいた馬籠あたりの村民を待ち受けていようとは。それは一切の過去の哀傷を葬り去ろうとするような大きな騒動にまで各地に広がった。そして、多くの人の心を酔うばかりにさせた。 熱田太神宮のお札は蓬莱屋の庭の椿の枝へも降り、伏見屋の表格子の内へも降り、梅屋の裏座敷の庭先にある高塀の上へも降った。まだそのほかに、八幡宮のお札の降ったところが二か所もある。いずれも奇異の思いに打たれて、ありがたく頂戴したという。こうなると、人一倍精力のあるとともにまた迷信も深い上の伏見屋の隠居はじっとしていない。どんな金満家でもこんな祝いの時の酒や投げ餅を出し惜しむものは流行節に合わせて「貧乏せ、貧乏せ」と囃し立てられると聞いては、なおなお黙って引っ込んでいない。桝田屋で四斗の餅を投げたものなら、こちらは本家と隠宅とで八斗の餅を投げると言って、親類の女衆から出入りのものまで呼び集め、村じゅうのものへ拾わせるつもりで祝いの餅をついた。投げた。投げた。八斗の餅は空を飛んで、伏見屋の表に群がり集まる村民らの袂へはいれば懐へもはいった。その時は、四斗樽の鏡をも抜いて、清酒のほかに甘酒まで用意し、辛い方でも甘い方でも、御勝手飲み放題という振る舞いであった。「ホウ、ただ飲み、ただ取りだ」と言うものさえある。 村のものは、氏神諏訪小社の改築も工事落成の近いのに事寄せて、にわかに狂言の催しまでも思い立った。気の早いものはそのけいこにすら取りかかった。この空気は――たといそれが一時的であるにしても――今まで主従の重い関係にあった将軍家没落の驚きを忘れさせ、代替り家督相続から隠居養子嫁娶の事まで届け出たような権威の高いものが眼前に崩れて行ったことを忘れさせ、葵の紋のついた提灯さえあればいかなる山野を深夜独行するとも狐狼盗難に出あうことはないとまで信ぜられていたほどの三百年来の主人を失ったことをも忘れさせた。「ええじゃないか」の騒動はいつやむとも知れなかった。村の大根引きのころから、氏神遷宮の祭礼狂言が始まるころまで続いても、まだ謡の囃子が絶えなかった。そこへ隣宿の妻籠からはお札降りの祝いという触れ込みで、過ぐる四年前水戸浪士通行の際の姿にこしらえ、鎧、兜、弓、鎗、すべて軍中のいでたちで、子供はいずれも引き馬に乗り、同勢およそ百余人の仮装行列が練り込んで来た。 本陣では皆門の外に出て見た。手習い子供のさかりの年ごろになる宗太はもとより、日ごろこもりがちに晩年を送っている吉左衛門までが出て見た。「お粂もおいで。早くおいで」とお民に呼ばれて、軽くて済んだ病気あげくのお粂もやせてかえって娘らしさを増したような姿を祖母や母のそばにあらわした。こうした全家族のものが門前に集まることは本陣ではめったになかった。多年村方の世話をして来た年老いた吉左衛門がともかくもまだ無事でいることは、それだけでも村の百姓らをよろこばせた。右も、左も、街道のわきは行列の見物でいっぱいだ。妻籠の大野屋の娘というが二人とも烏帽子陣羽織のこしらえで、引き馬に乗りながら静かにその門前を通った。「へえ、お土産」と言って、大野屋の娘に付き添いの男が祝いの供え餅一重ねをお粂や宗太への土産にくれた。「ええじゃないか、ええじゃないか」。宗太までが子供らしい声で、その口まねをして戯れる。「宗太さま、それ、それ」。大野屋の男は手を打ってよろこんだ。その時、行列のわきを走りぬけて、お粂の病気見舞いかたがた半蔵を見に来たのは妻籠の寿平次だ。寿平次はそこに家のものと一緒に門前に立つ半蔵を見つけて言った。「半蔵さん、この騒ぎは何事です」。「それは君、わたしの方から言うことでしょう」。「きのう福島から見えた客がありましてね。あの辺は今、お札の降る最中だと言っていましたっけ」。「降る最中はよかった」。「世の中が大きく変わる時には、このくらいの瑞兆があってもいいなんて、そんなことをさももっともらしく言い触らすものもありますぜ。なんだかわたしは狐にでもツマまれたような気がする」。「しかし、寿平次さん、馬籠あたりの百姓はこの十年来祝うということを知りませんでしたよ。まあ、みんな祝いたければ祝え、そう言ってわたしは見ているところです」。 |
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この表面のにぎやかさにかかわらず、強い嵐を待ち受けるような気味の悪い静かさが次第に底の方で街道を支配し始めた。名古屋の方面から半蔵のところへ伝わって来る消息によると、なかなか「えいじゃないか」どころの話ではない。薩長の真意が慶喜を誅し、同時に会津の松平容保と桑名の松平定敬とを誅戮するにあることが早く名古屋城に知れ、尾州の御隠居はこの形勢を案じて会桑二藩の引退を勧告するために、十月の末にはすでに病を力めて名古屋から上京したとある。御隠居は実に会桑二侯の舎兄に当たるからで。 万石以上の諸大名はいずれも勅命を奉じて続々京都に集合しつつあると聞くころだ。天下の公議によりこの国の前途を定めようとするものが京都を中心に渦巻き始めた。その年の十一月も末になると、薩摩の島津家、長州の毛利家、芸州藩の総督、それに徳山藩の世子、吉川家の家老などが、いずれも三、四百人から二、三千人の手兵を率いて、あるものはすでに入京し、あるものは摂津の海岸や西の宮に到着して上国の報を待つという物々しさに満たされて来た。名古屋と京都との往来も頻繁になって、薩長土肥等の諸藩と事を京畿に共にしようとする金鉄組の諸士らは進み、佐幕派として有力な御小納戸、年寄、用人らは退きつつあった。成瀬正肥、田宮如雲、荒川甚作らの尾州藩でも重立った勤王の士が御隠居を動かして百方この間に尽力していることは、手に取るように半蔵のところへも知れて来る。王政復古の実現ももはや時の問題となった。 こういう空気の中で、半蔵の耳には思いがけない新しい声が聞こえて来た。彼はその声を京都にいる同門の人からも、名古屋にある有志からも、飯田方面の心あるものからも聞きつけた。「王政の古に復することは、建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くことであらねばならない」。その声こそ彼が聞こうとして待ちわびていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんなふうにして実現される日の近づいたばかりでなく、あの本居翁が書きのこしたものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒をもって任ずる長州の志士たちですら意外とするところであろうと彼には思われた。 中津川の友人香蔵から半蔵が借り受けた写本の中にも、このことが説いてある。それを見ると世には名も知らない隠れた人があって、みんなが言おうとしてまだ言い得ないでいることをよく言いあらわして見せてくれるような篤志家のあることがわかる。その写本の中には、こういうことが説いてある。建武の中興は上の思し召しから出たことで、下々にある万民の心から起こったことではない。だから上の思し召しがすこし動けばたちまち武家の世となってしまった。ところが今度多くのものが期待する復古は建武中興の時代とは違って、草叢の中から起こって来た。そう説いてある。草叢の中が発起なのだ。それが浪士から藩士、藩士から大夫、大夫から君侯というふうに、だんだん盛大になって、自然とこんな復古の機運をよび起こしたのであるから、万一にも上の思し召しが変わることがあっても、万民の心が変わりさえしなければ、また武家の世の中に帰って行くようなことはない。そう説いてある。世には王政復古を名目にしてその実は諸侯が天下の政権を奪おうとするのであろうと言うものもあるが、これこそとんでもない見込み違いだ。というのは、根が草叢の中から起こったことだから、たとい諸侯がなんと思おうと、決してそんな自由になるものではない。 いったい、草叢の下賤なところから事が起こったは、どういうわけかと考えて見るがいい。つまり大義名分ということは下から見上げる方がはっきりする。だから桜田事件も起これば、大和五条の事件も起これば、筑波山の事件も起こる。それから長防二州ともなれば、今度は薩長両藩ともなる。いくら幕府が厳重な処置をしても、最初に水戸の数十人を殺せば桜田前後には数百人になり、筑波の数百人を殺せば数千人になり、しまいには長防西国の数万人になって、徳川の威力では制し切れない。西の方の国の力で復古ができなければ、東からも南からも北からも起こって来る。そこだ、たとい第二の幕府があらわれて、威勢を張ったにしても、また数年のうちには復古することは疑いない。そうも説いてある。半蔵はこれを読んで復古の機運が熟したのは決して偶然でないことを思った。彼の耳に聞きつける新しい声は、実にこの写本の筆者のいわゆる「草叢の中」から来たことをも思った。 もはや恵那山へは幾たびとなく雪が来た。半蔵が家の西側の廊下からよく望まれる連峰の傾斜までが白く光るようになった。一か月以上も続いた「ええじゃないか」のにぎやかな声も沈まって行って見ると、この国未曾有の一大変革を思わせるような六百年来の武家政治もようやくその終局を告げる時に近い。街道には旅人の往来もすくない、山家はすでに冬ごもりだ。夜となればことにひっそりとして、火の番の拍子木の音のみが宿場の空にひびけて聞こえた。 ある朝、半蔵は村の万福寺の方から伝わって来る鐘の音で目をさました。店座敷の枕の上できくと、その音は毎朝早い勤めを怠らない松雲和尚の方へ半蔵の心を連れて行く。それは万福寺の新住職として諸国遍歴の修行からこの村に帰り着いたその日から、当時の習慣としてまず本陣としての半蔵の家の玄関に旅の草鞋を脱いだその日から、そして本陣の一室で法衣装束に着かえて久しぶりの寺の山門をくぐったその日から、十三年も達磨の画像の前にすわりつづけて来たような人の自ら鐘楼に登って撞き鳴らす大鐘だ。 まだ朝の眠りをむさぼっている妻のそばで、半蔵はその音に耳を澄ました。谷から谷を伝い、畠から畠をはうそのひびきは、和尚が僧智現の名も松雲と改めて万福寺の住職となった安政元年の昔も、今も、同じ静かさと、同じ沈着とで、清く澄んだ響きを伝えて来ている。一音。また一音。半蔵の耳はその音の意味を追った。あのにぎやかな「ええじゃないか」の卑俗と滑稽とに比べたら、まったくこれは行ないすました閑寂の別天地から来る、遠い世界の音だ。それにしても、この驚くべき社会の変革の日にあたって、日々の雲でも変わるか、あるいは陰陽の移りかわるかぐらいにしか、心を動かされない人の修行から、その鐘は響き出して来ている。その異教の沈着はいっそ半蔵を驚かした。多くの憂国の士が生命をかけても幕政に抵抗したり国事に奔走したりするというこの難い時代に、こういう和尚のような人も生きていたかということは、なおなお彼を驚かした。 「お民」。半蔵は妻を揺り起こした。彼は自分でもはね起きて、中津川にある友人香蔵のもとまで京都の様子を探りに行こうと思い立った。「こんな山の中にいたんじゃ、さっぱり様子がわからん。王政復古の日はもう来ているんじゃないか」。その考えから、彼はお民に言い付けて下女を起こさせ、囲炉裏の火をたかせ、中津川の方へ出かける前の朝飯のしたくをさせた。慶応三年十二月のことで、街道は雪で白くおおわれていた。朝飯を済ますと間もなく半蔵は庄屋らしい袴に草鞋ばきで、荒町にある村社までさくさく音のする雪の道を踏んで行った。氏神への参拝を済まして鳥居の外へ出るころ、冬にしては温暖な日の光も街道にあたって来た。彼はその道を国境へと取って、さらに宿はずれの新茶屋まで歩いた。例の路傍にある芭蕉の句塚も雪にぬれている。見知り越しな亭主のいる休み茶屋もある。しばらく彼はそこに足を休めていると、ちょうど国境の一里塚の方から馬籠をさして十曲峠を上って来る中津川の香蔵にあった。香蔵は落合の勝重をも連れてやって来た。「お師匠さま」。その勝重の昔に変わらぬ人なつこい声をも半蔵は久しぶりで聞いた。「半蔵さん、君は中津川まで行かずに済むし、わたしたちも馬籠まで行かずに済む。この茶屋で話そうじゃありませんか」。香蔵の提議だ。 その時、半蔵は初めて王政復古の成り立ったことを知り、岩倉公を中心にする小御所の会議には薩州土州芸州越前四藩のほかに尾張も参加したことを知った。その時になると、長州藩主父子は官位を復して入洛を許さるることとなり、太宰府にある三条実美らの五卿もまた入洛復位を許されて、その時までの舞台は全く一変した。慶喜と会津と桑名とは除外せられ、会桑二藩が宮門警衛をも罷められた。摂政、関白の大官も廃され、幕府はその時に全く終わりを告げた。この消息は京都にある景蔵からの書面に伝えてある。半蔵との連名にあてて書いてよこしたと言って、香蔵の持参したものにこの消息が伝えてある。 香蔵は言った。「この前、京都から来た手紙には、こんなことが書いてありました。慶喜公が大政奉還の上表を出したとほとんど同じ日に、薩長二藩へ討幕の密勅が下ったということを確かな筋から聞き込んだが、君らはあれをどう思うか、その密勅がまた間もなくお取りやめとなったというが、あれをもどう思うかとありました。わたしも変だと思って、だれにも見せずにしまって置くうちに、この復古の報知が来ました」。「見たまえ」と半蔵はそれを受けて言った。「この手紙には、当日尾州でも禁門を守衛したとありますね。檐下詰には小瀬新太郎を首にする近侍の士、堂上裏門の警備には供方をそれに当てたとありますね」。「まあ、早い話が、先年の八月十八日の政変を逆に行ったんでしょうね。あの時はわたしは京都にいて、あの政変にあいましたから、今度のこともほぼ想像がつきます。いずれここまで出て来るには、何か動いたに相違ありません。何か、最後の力が動いたに相違ありません」。 香蔵と半蔵とは顔を見合わせて、それから京都にある師鉄胤なぞのうわさに移った。勝重は松薪を加えたり、ボヤを折りくべたりして、炉の火をさかんにする。茶屋の亭主は客のために何かあたたかいものをと言って、串魚なぞを煮るしたくを始めていた。「とにかく、半蔵さん、」と香蔵は語気を改めて言い出した。「建武中興でなしに、神武創業にまでこの復古を持って行かれたことは、意外でしたね。そりゃ機運は動いていましたさ。しかし、ここまで出て来るには十年は待たなけりゃなるまいかと思っていましたよ」。「結局、今の時世が求めるものは何か、ということなんですね」。「まあ、だれがこんな意見を岩倉公あたりの耳にささやいたかなんて、そんな詮索はしないがいい。ほら、半蔵さんに貸してあげた写本さ。あれを書いた人の言い草じゃないが、草叢の中が発起です――それでたくさんです」。「そう言えば、香蔵さん、あの鉄胤先生もほんとうに黙っていらっしゃる、そうわたしは思い思いしました。今になって見ると、やっぱりあの先生は働いていたんですね。暮田正香なぞも、まあ見ていてくれたまえなんて、そんなことを言って京都へ立って行きましたっけ。こういう日が来るまでには、どのくらいの人が陰で働いたか知れますまい」。「そりゃ、二人や三人の力でこの復古ができたと思うものがあったら、それこそとんでもない見当違いでしょう」。「して見るとあの本居先生なぞが『古事記伝』を書いた本志は、こうまで道をあけるためであったかと思いますね」。 やがて、亭主が炉にかけた鍋からは、うまそうに煮える串魚のにおいもして来た。半蔵らが温めてもらった酒もそこへ来た。時刻にはまだすこし早いころから、新茶屋の炉ばたではなめ味噌らいを酒のさかなに、盃のやり取りが始まった。「旦那、」と亭主はそこへ顔を出して、「この辺をよく通る旅の商人が塩烏賊をかついで来て、吾家へもすこし置いて行った。あれはどうだなし」。「や、そいつはありがたいぞ。」と半蔵は好物の名を聞きつけたように。「塩烏賊のおろしあえと来ては、こたえられない。酒の肴に何よりだ」と香蔵も調子を合わせる。「今に豆腐の汁もできます。ゆっくり召し上がってください。」とまた亭主が言う。「勝重さん、一盃行こう」香蔵がそれを言い出した。「わたしは元服を済ますまで盃を手にするなって、吾家の阿爺に堅く禁じられていますよ」と勝重はすこし顔を紅らめる。「まあ、そう言わなくてもいい。きょうは特別だ。時に、勝重さん、どうです。君なぞは幕府が倒れると思っていましたかい」。「まさか幕府が倒れようとは思いませんでした。徳川の世も末になったとは思いましたがね」。「そうだろうね。だれだってあの慶喜公が将軍職を投げ出そうとは夢にも思わなかったからね。勝重さんは雪に折れる竹の音を聞いたことがあろう。あの音だよ。慶喜公が投げ出したと聞いた時、わたしはあの竹の折れる音の鋭さを思い出したよ。考えて見ると、ひどい血も流さずによくこの復古が迎えられた。なんと言っても、慶喜公は慶喜公だけのことはあるね」。 香蔵と勝重とはこんなふうに語り合った。その時、半蔵は二人の話を引き取って、「しかし、香蔵さん、今の君の話さ。ひどい血を流さずに復古を迎えられたという話さ。そこがわれわれの国柄をあらわしていやしませんか。なかなか外国じゃ、こうは行くまいと思う」。「それもあるナ」と香蔵が言う。「まあ、わたしは一晩寝て、目がさめて見たら、もうこんな王政復古が来ていましたよ」。勝重はそんなふうに、香蔵にも半蔵にも言って見せた。「ようやく。ようやく」。半蔵もそれを言って、串魚に豆腐の汁、塩烏賊のおろしあえ、それに亭主の自慢な蕪と大根の切り漬けぐらいで、友人と共に山家の酒をくみかわした。 冬の日は茶屋の内にも外にも満ちて来た。食後に半蔵らは茶屋の前にある翁塚のあたりを歩き回った。踏みしめる草鞋の先は雪溶けの道に燃えて、歩き回れば歩き回るほど新しいよろこびがわいた。一切の変革はむしろ今後にあろうけれど、ともかくも今一度、神武の創造へ――遠い古代の出発点へ――その建て直しの日がやって来たことを考えたばかりでも、半蔵らの目の前には、なんとなく雄大な気象が浮かんだ。日ごろ忘れがたい先師の言葉として、篤胤の遺著『静の岩屋』の中に見つけて置いたものも、その時半蔵の胸に浮かんで来た。「一切は神の心であらうでござる」。「夜明け前」第一部――終 [#改丁] |
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改版『夜明け前』第一部の後に この作、昭和四年に起稿し、同六年に第一部を書き終わったものであるが、なにしろ作の内容が過去の時代を探り求めるような性質のものであり、これを著作するためにも多くの年月を要したから、あとになって省きたいと思うところもでき、いろいろ自分の気づかなかった誤りに気づくということも起こって来た。 そんなわけで、最初これを一巻の書物にまとめる時すでに原稿の訂正を行なったのであるが、その後も版を重ねるにつれて、なお、幾多の改むべき個処を見いだした。今回の改版を機会に、さらに第一部の訂正を思い立ったのも、心に安んじられないかずかずの誤りを除きたいと願うからであった。そういうわたしなぞが過去の事物を探り求める方法というものも実際狭い範囲に限られていて、真に考証の正確を期することは自分らの手の届かないところにある。せめて知らないことは知らないとし、改むべきことは改めて、それをもって世の識者らへの答えにかえたい。この作最初に年四回分載の形で『中央公論』誌上に発表した当時から、なにかと注意してよこしてくれた未知の諸君の厚意に対しても深く感謝する。 なお、今後とても作者としての反省を失わずに、機会あるごとに改むべきことは改めて行きたい考えである。自分らの欠点を改善し、また自分らの過誤を除去することは、実に自分らの幸福と言わねばならない。 (昭和十一年五月、麻布飯倉にて)
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底本:「夜明け前 第一部(下)」岩波文庫、岩波書店 1969(昭和44)年2月17日第1刷発行 1995(平成7)年12月15日第26刷発行 底本の親本:「改版本『夜明け前』」新潮社 1936(昭和11)年7月発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:高橋真也 校正:小林繁雄 2001年5月26日公開 2009年11月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 |
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