夜明け前第一部下の4、第十一章 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日
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ここで、「島崎藤村/夜明け前第一部下の1、第十一章」を確認する。「島崎藤村/夜明け前」を参照する。 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝 |
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一 | |
「青山君――伊那にある平田門人の発起(ほっき)で、近く有志のものが飯田に集まろうとしている。これはよい機会と思われるから、ぜひ君を誘って一緒に伊那の諸君を見に行きたい。われら両人はその心組みで馬籠までまいる。君の都合もどうあろうか。ともかくもお訪(たず)ねする」。 中津川にて 景蔵 香蔵 馬籠にある半蔵あてに、二人の友人がこういう意味の手紙を中津川から送ったのは、水戸浪士の通り過ぎてから十七日ほど後にあたる。美濃の中津川にあって聞けば、幕府の追討総督田沼玄蕃頭(げんばのかみ)の軍は水戸浪士より数日おくれて伊那の谷まで追って来たが、浪士らが清内路(せいないじ)から、馬籠、中津川を経て西へ向かったと聞き、飯田からその行路を転じた。総督は飯田藩が一戦をも交えないで浪士軍の間道通過に任せたことをもってのほかであるとした。北原稲雄兄弟をはじめ、浪士らの間道通過に斡旋した平田門人の骨折りはすでにくつがえされた。飯田藩の家老はその責めを引いて切腹し、清内路の関所を預かる藩士もまた同時に切腹した。景蔵や香蔵が訪ねて行こうとしているのはこれほど動揺したあとの飯田で、馬籠から中津川へかけての木曾街道筋には和宮様御降嫁以来の出来事だと言わるる水戸浪士の通過についても、まだ二人は馬籠の半蔵と話し合って見る機会もなかった時だ。 「いかがですか。おしたくができましたら、出かけましょう」。香蔵は中津川にある問屋の家を出て、同じ町に住む景蔵が住居(すまい)の門口から声をかけた。そこは京都の方から景蔵をたよって来て身を隠したり、しばらく逗留したりして行くような幾多の志士たち――たとえば、内藤頼蔵、磯山新助、長谷川鉄之進、伊藤祐介、二荒(ふたら)四郎、東田行蔵らの人たちを優にかばいうるほどの奥行きの深い本陣である。そこはまた、過ぐる文久二年の夏、江戸屋敷の方から来た長州侯の一行が木曾街道経由で上洛の途次、かねての藩論たる公武合体、航海遠略から破約攘夷へと、大きく方向の転換を試みるための中津川会議を開いた由緒の深い家でもある。 「どうでしょう、香蔵さん、大平峠(おおだいらとうげ)あたりは雪でしょうか」。「さあ、わたしもそのつもりでしたくして来ました」。二人の友だちはまずこんな言葉をかわした。景蔵のしたくもできた。とりあえず馬籠まで行こう、二人して半蔵を驚かそうと言うのは香蔵だ。年齢の相違こそあれ、二人は旧(ふる)い友だちであり、平田の門人仲間であり、互いに京都まで出て幾多の政変の渦の中にも立って見た間柄である。その時の二人は供の男も連れず、途中は笠に草鞋があれば足りるような身軽な心持ちで、思い思いの合羽(かっぱ)に身を包みながら、午後から町を離れた。もっとも、飯田の方に着いて同門の人たちと一緒になる場合を考えると紋付の羽織に袴(はかま)ぐらい風呂敷包みにして肩に掛けて行く用意は必要であり、馬籠本陣への手土産(てみやげ)も忘れてはいなかったが。 中津川から木曾の西のはずれまではそう遠くない。その間には落合の宿一つしかない。美濃よりするものは落合から十曲峠にかかって、あれから信濃の国境に出られる。各駅の人馬賃銭が六倍半にも高くなったその年の暮れあたりから見ると、二人の青年時代には駅と駅との間を通う本馬(ほんま)五十五文、軽尻(からじり)三十六文、人足二十八文と言ったところだ。 水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊、中津川昼食で、十一月の二十七日には西へ通り過ぎて行った。飯田の方で北原兄弟が間道通過のことに尽力してからこのかた、清内路に、馬籠に、中津川に、浪士らがそれからそれと縁故をたどって来たのはいずれもこの地方に本陣庄屋なぞをつとめる平田門人らのもとであった。一方には幕府への遠慮があり、一方には土地の人たちへの心づかいがあり、平田門人らの苦心も一通りではなかった。木曾にあるものも、東美濃にあるものも、同門の人たちは皆この事件からは強い衝動を受けた。 |
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水戸浪士の通り過ぎて行ったあとには、実にいろいろなものが残った。景蔵と香蔵とがわざわざ名ざしで中津川から落合の稲葉屋まで呼び出され、浪士の一人なる横田東四郎から渋紙包みにした首級の埋葬方を依頼された時のことも、まだ二人の記憶に生々しい。これは和田峠で戦死したのをこれまで渋紙包みにして持参したのである。二男藤三郎、当年十八歳になるものの首級であると言って、実父の東四郎がそれを二人の前に差し出したのもその時だ。景蔵は香蔵と相談の上、夜中ひそかに自家の墓地にそれを埋葬した。そういう横田東四郎は参謀山国兵部や小荷駄掛り亀山嘉治(よしはる)と共に、水戸浪士中にある三人の平田門人でもあったのだ。 浪士らの行動についてはこんな話も残った。和田峠合戦のあとをうけ下諏訪付近の混乱をきわめた晩のことで、下原村の百姓の中には逃げおくれたものがあった。背中には長煩(ながわずら)いで床についていた一人の老母もある。どうかして山手の方へ遠くと逃げ惑ううちに、母は背に負われて腹筋の痛みに堪えがたいと言い出す。その時の母の言葉に、自分はこんな年寄りのことでだれもとがめるものはあるまい、その方は若者だ、どんな憂き目を見ないともかぎるまいから、早く身を隠せよ。そう言われた百姓は、どうしたら親たる人を捨て置いてそこを逃げ延びたものかと考え、古筵(ひるむしろ)なぞを母にきせて介抱していると、ちょうどそこへ来かかった二人の浪士の発見するところとなった。 お前は当所のものであろう、寺があらば案内せよ、自分らは主君の首を納めたいと思うものであると浪士が言うので、百姓は大病の老母を控えていることを答えて、その儀は堅く御免こうむりましょうと断わった。しからば自分の家来を老母に付けて置こう、早く案内せとその浪士に言われて見ると、百姓も断わりかねた。案内した先は三町ほど隔たった来迎寺(らいごうじ)の境内だ。浪士はあちこちと場所を選んだ。扇を開いて、携えて来た首級をその上にのせた。敬い拝して言うことには、こんなところで御武運つたなくなりたまわんとは夢にも知らなかった、御本望の達する日も見ずじまいにさぞ御残念に思(おぼ)し召されよう、軍(いくさ)の習い、是非ないことと思し召されよと、生きている人にでも言うようにそれを言って、暗い土の上にぬかずいた。短刀を引き抜いて、土中に深くその首級を納めた。 それから浪士は元のところへ引き返して来て、それまで案内した男に褒美(ほうび)として短刀を与えたが、百姓の方ではそれを受けようとしなかった。元来百姓の身に武器なぞは不用の物であるとして、堅く断わった。そういうことなら、病める老母に薬を与えようとその浪士が言って、銀壱朱をそこに投げやりながら、家来らしい連れの者と一緒に下諏訪方面へ走り去ったという。こんな話を伝え聞いた土地のものは、いずれもその水戸武士の態度に打たれた。あれほどの恐怖をまき散らして行ったあとにもかかわらず、浪士らに対して好意を寄せるものも決して少なくはなかったのだ。 景蔵、香蔵の二人は落合の宿まで行って、ある町角で一人の若者にあった。稲葉屋の子息(むすこ)勝重だ。長いこと半蔵に就いて内弟子として馬籠本陣の方にあった勝重も、その年の春からは落合の自宅に帰って、年寄役の見習いを始めるほどの年ごろに達している。「勝重さんもよい子息さんになりましたね」。驚くばかりの成長の力を言いあらわすべき言葉もないというふうに、二人は勝重の前に立って、まだ前髪のあるその額(ひたい)つきをながめながら、かわるがわるいろいろなことを尋ねて見た。この勝重に勧められて、しばらく二人は落合に時を送って行くことにした。その日は二人とも馬籠泊まりのつもりであり、急ぐ道でもなかったからで。のみならず、落合村の長老として知られた勝重の父儀十郎を見ることも、二人としては水戸浪士の通過以来まだそのおりがなかったからで。 稲葉屋へ寄って見ると、そこでも浪士らのうわさが尽きない。横田東四郎からその子の首級を託せられた節は稲葉屋でも驚いたであろうという景蔵らの顔を見ると、勝重の父親はそれだけでは済まさなかった。あの翌朝、重立った幹部の人たちと見える浪士らが馬籠から落合に集まって、中津川の商人万屋安兵衛と大和屋李助(りすけ)の両人をこの稲葉屋へ呼び出し、金子(きんす)二百両の無心のあったことを語り出すのも勝重の父親だ。「その話はわたしも聞きました」と景蔵が笑う。「でも、世の中は回り回っていますね」と香蔵は言った。「横浜貿易でうんともうけた安兵衛さんが、水戸浪士の前へ引き出されるなんて」。「そこは安兵衛さんです」と儀十郎は昔気質(むかしかたぎ)な年寄役らしい調子で、「あの人は即答はできないが、一同でよく相談して来ると言って、いったん中津川の方へ引き取って行きました。それから、あなた、生糸(きいと)取引に関係のあったものが割前で出し合いまして、二百両耳をそろえてそこへ持って来ましたよ」。「あの安兵衛さんと水戸浪士の応対が見たかった」と香蔵が言う。 しかし、一方に、浪士らが軍律をきびしくすることも想像以上で、幹部の目を盗んで民家を掠奪(りゃくだつ)した一人の土佐の浪人のあることが発見され、この落合宿からそう遠くない三五沢まで仲間同志で追跡して、とうとうその男を天誅に処した、その男の逃げ込んだ百姓家へは手当てとして金子一両を家内のものへ残して行ったと語って見せるのも、またこの儀十郎だ。「何にいたせ、あの同勢が鋭い抜き身の鎗や抜刀で馬籠の方から押して来ました時は、恐ろしゅうございました」。それを儀十郎が言うと、子息は子息で、「あの藤田小四郎が吾家(うち)へも書いたものを残して行きましたよ。大きな刀をそばに置きましてね、何か書くから、わたしに紙を押えていろと言われた時は、思わずこの手が震えました」。「勝重、あれを持って来て、浅見さんにも蜂谷さんにもお目にかけな」。 浪士らは行く先に種々(さまざま)な形見を残した。景蔵のところへは特に世話になった礼だと言って、副将田丸稲右衛門が所伝の黒糸縅(くろいとおどし)の甲冑片袖(かっちゅうかたそで)を残した。それは玉子色の羽二重(はぶたえ)に白麻の裏のとった袋に入れて、別に自筆の手厚い感謝状を添えたものである。「馬籠の御本陣へも何か残して置いて行ったようなお話です」と儀十郎が言う。「どうせ、帰れる旅とは思っていないからでしょう」。景蔵の答えだ。 その時、勝重は若々しい目つきをしながら、小四郎の記念というものを奥から取り出して来た。景蔵らの目にはさながら剣を抜いて敵王の衣を刺し貫いたという唐土(とうど)の予譲(よじょう)を想(おも)わせるようなはげしい水戸人の気性がその紙の上におどっていた。しかも、二十三、四歳の青年とは思われないような老成な筆蹟で。 大丈夫当雄飛(まさにゆうひすべし)安雌伏(いずyくんぞしふくせんや)
「そう言えば、浪士もどの辺まで行きましたろう」。景蔵らと稲葉屋親子の間にはそんなうわさも出る。その後の浪士らが美濃を通り過ぎて越前の国まではいったことはわかっていた。しかしそれから先の消息は判然(はっきり)しない。藤田信 中津川や落合へ飛脚が持って来る情報によると、十一月二十七日に中津川を出立した浪士らは加納藩や大垣藩との衝突を避け、本曾街道の赤坂、垂井あたりの要処には彦根藩の出兵があると聞いて、あれから道を西北方に転じ、長良川を渡ったものらしい。師走の四日か五日ごろにはすでに美濃と越前の国境にあたる蝿帽子峠の険路を越えて行ったという。「あの蝿帽子峠の手前に、クラヤミ峠というのがございます」と儀十郎は言って見せた。「ひどい峠で、三里の間は闇を行くようだと申しますんで、それで俗にクラヤミでございますさ。あの辺は深い雪と聞きますから、浪士も難渋いたしましたろうよ」。「千辛万苦の旅ですね」と勝重も言っていた。 間もなく景蔵らはこの稲葉屋を辞して、落合の宿をも離れた。中山薬師から十曲峠にかかって、新茶屋に出ると、そこはもう隣の国だ。雪まじりに土のあらわれた街道は次第に白く変わっていた。鋭い角度を見せた路傍の大石も雪にぬれていて、まず木曾路の入り口の感じを二人に与える。師走の五日には中津川や落合へも初雪が来た。その晩に大雪だったという馬籠峠の上では、宿場そのものがすでに冬ごもりだ。南側の雪は溶けても、北側は溶けずに、石を載せた板屋根までが山家らしいところで、中津川から行った二人の友だちはそこに待ちわび顔な半蔵とも、その家族の人たちとも一緒になった。 この伊那行きはひどく半蔵をもよろこばせた。水戸浪士の通過を最後にして、その年の街道の仕事もどうやら一段落を告げたばかりではない。浪士らの残して置いて行った刺激は彼の心を静かにさせて置かなかったからである。浪士らの通過以来、伊那にある平田門人らはしきりに往来し始めたと聞くころだ。半蔵もまた二人の年上の友だちと共に、たとい大平峠の雪を踏んでも、伊那の谷の方にある同門の人たちを見に行かずにはいられなかった。 馬籠本陣の店座敷では、翌朝の出発を楽しみにする三人が久しぶりの炬燵話に集まった。そこへ半蔵の父吉左衛門も茶色な袖無し羽織などを重ねながらちょっと挨拶に来て、水戸浪士のうわさを始める。「中津川の方はいかがでしたか」。「そりゃ、香蔵さん、馬籠は君たちの方と違って、隣に妻籠いうものを控えていましょう。福島から出張した人たちは大平口を堅める。えらい騒ぎでしたさ。」と半蔵が言う。「いや、はや、あの時は福島の家中衆も大あわて」とまた吉左衛門が言って見せた。「あとになって軍用の荷物をあけて見たら、あなた、桜沢口の方へは鉄砲の玉ばかり行って、大平口の方へはまた焔硝(火薬)ばかり来ておりましたなんて。まあ、無事に浪士を落としてやってよかったと思うものは、わたしたちばかりじゃありますまい。あれから総督の田沼玄蕃頭が浪士の跡を追って来るというので、またこちらじゃ一騒ぎでしたよ。御同勢千人あまり、残らず軍の陣立てで、剣付鉄砲を一挺ずつ用意しまして、浪士の立った翌日には伊那道の広瀬村泊まりで追って来るなぞといううわさでしょう。御承知のとおり、宅では浪士の宿をしましたから、どういうことになろうかと思って、ひどく心配しました。あの翌々日には、お先荷の長持だけはまいりましたが、とうとう田沼侯の御同勢はまいりませんでした。あの時ばかりはわたしもホッとしましたよ。聞けば飯田藩じゃ、御家老が切腹したといううわさじゃありませんか。おまけに、清内路の御関所番までも……」。 吉左衛門は年老いた手を膝の上に置いて、深いため息をついた。父が席を避けて行った後、半蔵は水戸浪士の幹部の人たちから礼ごころに贈られたものを二人の友だちの前に取り出した。武田、田丸、山国、藤田諸将の書いた詩歌の短冊、小桜縅の甲冑片袖、そのほかに小荷駄掛りの亀山嘉治が特に半蔵のもとに残して置いて行った歌がある。水戸浪士に加わって来た同門の人が飯田や馬籠での述懐だ。 あられなす矢玉の中は越えくれどすすみかねたる駒の山麓
ふみわくる深山紅葉を敷島のやまとにしきと見る人もがも 八束穂のしげる飯田の畔にさへ君に仕ふる道はありけり みだれ世のうき世の中にまじらなく山家は人の住みよからまし 草まくら夜ふす猪の床とはに宿りさだめぬ身にもあるかな つはものに数ならぬ身も神にます我が大君の御楯ともがな 木曾山の八岳ふみこえ君がへに草むす屍ゆかむとぞおもふ 嘉治
「亀山は亀山らしい歌を残して行きましたね。思い入った人の歌ですね」と景蔵が言うと、半蔵は炬燵の上に手を置きながら、「あの騒ぎの中で、亀山とは一晩じゅう話してしまいました。もっとも、番士は交代で篝を焚く、村のものは村のもので宿内を警戒する、火の番は回って来る、なかなか寝られるようなものじゃありませんでしたよ。わたしも興奮しましてね、あの翌晩もひとりで起きていて、旧作の長歌を一晩かかって書き改めたりなぞしましたよ」。ちょうどその時、年寄役の伊之助が村方の用事をもって家の囲炉裏ばたまで見えたので、半蔵は伊那行きのことを伊之助に話しかつ留守中のことをも頼んで置くつもりで、ちょっとその席をはずした。そして、店座敷へ引き返して来て見ると、景蔵、香蔵の二人はお民にすすめられて、かわるがわる風呂場の方へからだを温めに行っていた。「半蔵、なんにもないが、お客さまに一杯あげる。ごらんな、お客さまというと子供が大はしゃぎだよ。にぎやかでありさえすれば子供はうれしいんだね」と継母のおまんが言うころは、店座敷の障子も薄暗い。下女は行燈をさげて来た。 やがて、こうした土地での習いで、炬燵板の上を食卓に代用して、半蔵は二人の友だちに山家の酒をすすめた。「愉快、愉快」と香蔵はそこへ心づくしの手料理を運んで来るお民を見て言った。「奥さんの前ですが、わたしたちが三人寄ることはこれでめったにないんです。半蔵さんとわたしと二人の時は、景蔵さんは京都の方へ行ってる。景蔵さんと一緒の時は、半蔵さんは江戸に出てる。まあ、きょうは久しぶりで、あの寛斎老人の家に三人机を並べた時分の心持ちに帰りましたよ」。「こうして三人集まって見ると、やっぱり話したい。いや、ことしは実にえらい年でした。いろいろなものが一年のうちに、どしどし片づいて行ってしまいましたよ」。 食後に、景蔵はそんなことを言い出した。その暮れになって見ると、天王山における真木和泉の自刃も、京都における佐久間象山の横死も、皆その年の出来事だ。名高い攘夷論者も、開港論者も、同じように故人になってしまった。その時、三人の話は水戸の人たちのことに落ちて行った。尊攘は水戸浪士の掲げて来た旗じるしである。景蔵に言わせると、もともと尊王と攘夷とを結びつけ、その二つのものの堅い結合から新機運をよび起こそうと企てたのは真木和泉らの運動で、これは幕府の専横と外国公使らの不遜とを憤り一方に王室の衰微を嘆く至情からほとばしり出たことは明らかであるが、この尊攘の結合を王室回復の手段とするの可否はだんだん心あるものの間に疑問となって来た。尊王は尊王、攘夷は攘夷――尊王は遠い理想、攘夷は当面の外交問題であるからである。しかし、あの真木和泉にはそれを結びつけるだけの誠意があった。衆にさきがけして諸国の志士を導くに足るだけの熱意があった。もはやその人はない。尊攘の運動は事実においてすでにその中心の人物を失っている。のみならず、筑後水天宮の祠官の家に生まれ、京都学習院の徴士にまで補せられ、堂々たる朝臣の列にあった真木和泉がたとい生きながらえているとしても、大和行幸論に一代を揺り動かしたほどの熱意を持ちつづけて、今後もあの尊攘論で十八隻から成る英米仏蘭四国の連合艦隊を向こうに回すようなこの国の難局を押し通せるものかどうか。尊王と攘夷との切り離して考えられるような時がようやくやって来たのではなかろうか。これが景蔵の意見であった。景蔵は言った。「どうでしょう、尊攘ということもあの水戸の人たちを最後とするんじゃありますまいか」。 「しかし、景蔵さん」とその時、香蔵は年上の友だちの話を引き取って言った。「あの亀山嘉治なぞは、そうは考えていませんぜ」。「亀山は亀山、われわれはわれわれですさ」と景蔵は言う。「そういう景蔵さんの意見は、実際の京都生活から来てる。どうもわたしはそう思う」。「そんなら見たまえ、長州藩あたりじゃ伊藤俊助だの井上聞多だのという人たちをイギリスへ送っていますぜ。それが君、去年あたりのことですぜ。あの人たちの密航は、あれはなかなか意味が深いといううわさです。攘夷派の筆頭として知られた長州藩の人たちがそれですもの」。「世の中も変わって来ましたな」。「まあ、わたしに言わせると、尊攘ということを今だにまっ向から振りかざしているのは、水戸ばかりじゃないでしょうか。そこがあの人たちの実に正直なところでもありますがね」。 木曾山の栗の季節はすでに過ぎ去り、青い香のする焼き米にもおそい。それまで半蔵は炬燵の上に手を置いて二人の友だちの話を聞いていたが、雪の来るまで枯れ枝の上に残ったような信濃柿の小粒で霜に熟したのなぞをそこへ取り出して来て、景蔵や香蔵と一緒に熱い茶をすすりながら、店座敷の行燈のかげに長い冬の夜を送ろうとしていた。彼にして見ると、ヨーロッパを受けいれるか、受けいれないかは、多くの同時代の人の悩みであって、たとい先師篤胤がその日まで達者に在世せられたとしても、これには苦しまれたろうと思われる問題である。もはや、異国と言えば、オランダ一国を相手にしていて済まされたような、先師の時代ではなくなって来たからである。それにしても、あれほど京都方の反対があったにもかかわらず、江戸幕府が開港を固執して来たについては、何か理由がなくてはならない。幕府の役人にそれほどの先見の明があったとは言いがたい。なるほど、安政万延年代には岩瀬肥後のような人もあった。しかし、それはごくまれな人のことで、大概の幕府の役人は皆京都あたりの攘夷家に輪をかけたような西洋ぎらいであると言わるる。その人たちが開港を固執して来た。これは外国公使らの脅迫がましい態度に余儀なくせられたとのみ言えるだろうか。水戸浪士の尊攘が話題に上ったのを幸いに、半蔵はその不思議さを二人の友だちの前に持ち出した。 「こういう説もあります」と景蔵は言った。「政府がひとりで外国貿易の利益を私するから、それでこんなに攘夷がやかましくなった。一年なら一年に、得るところを計算してですね、朝廷へ何ほど、公卿へ何ほど、大小各藩へ何ほどというふうに、その額をきめて、公明正大な分配をして来たら、上御一人から下は諸藩の臣下にまでよろこばれて、これほど全国に不平の声は起こらなかったかもしれない。今になって君、そういうことを言い出して来たものもありますよ」。「政府ばかりが外国貿易の利益をひとり占めにする法はないか」と香蔵はくすくすやる。「ところが、そういうことを言い出して、政府のお役人に忠告を試みたのが、英国公使のアールコックだといううわさだからおもしろいじゃありませんか」とまた景蔵が言って見せた。「いや、」と半蔵はそれを引き取って、「そう言われると、いろいろ思い当たることはありますよ」。「横浜には外国人相手の大遊郭も許可してあるしね」と香蔵が言い添える。「あの生麦償金のことを考えてもわかります」と景蔵は言った。「見たまえ、この苦しい政府のやり繰りの中で、十万ポンドという大金がどこから吐き出せると思います。幕府のお役人が開港を固執して来たはずじゃありませんか」。 しばらく沈黙が続いた。「半蔵さん。攘夷論がやかましくなって来たそもそもは、あれはいつごろだったでしょう。ほら、幕府の大官が外国商人と結託してるの、英国公使に愛妾をくれたのッて、やかましく言われた時がありましたっけね」。「そりゃ、尊王攘夷の大争いにだって、利害関係はついて回る。横浜開港以来の影響はだれだって考えて来たことですからね。でも、尊攘と言えば、一種の宗教運動に似たもので、成敗利害の外にある心持ちから動いて来たものじゃありますまいか」。「今日まではそうでしょうがね。しかし、これから先はどうありましょうかサ」。「まあ、西の方へ行って見たまえ。公卿でも、武士でも、驚くほど実際的ですよ。水戸の人たちのように、ああ物事にこだわっていませんよ」。「いや、京都へ行って帰って来てから、君らの話まで違って来た」。こんな話も出た。 その夜、半蔵は家のものに言い付けて二人の友だちの寝床を店座敷に敷かせ、自分も同じように枕を並べて、また寝ながら語りつづけた。近く中津川を去って国学者に縁故の深い伊勢方へ晩年を送りに行った旧師宮川寛斎のうわさ、江戸の方にあった家を挙げて京都に移り住みたい意向であるという師平田鉄胤のうわさ、枕の上で語り合うこともなかなか尽きない。半蔵は江戸の旅を、景蔵らは京都の方の話まで持ち出して、寝物語に時のたつのも忘れているうちに、やがて一番鶏が鳴いた。 |
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二 | |
「あなた、佐吉が飯田までお供をすると言っていますよ」。お民はそれを言って、あがりはなのところに腰を曲めながら新しい草鞋をつけている半蔵のそばへ来た。景蔵、香蔵の二人もしたくして伊那行きの朝を迎えていた。「飯田行きの馬は通っているんだろう」と半蔵は草鞋の紐を結びながら言う。「けさはもう荷をつけて通りましたよ」。「馬さえ通っていれば大丈夫さ」。「なにしろ、道が悪くて御苦労さまです」。そういうお民から半蔵は笠を受け取った。下男の佐吉は主人らの荷物のほかに、その朝の囲炉裏で焼いた芋焼餅を背中に背負った。一同したくができた。そこで出かけた。 降った雪の溶けずに凍る馬籠峠の上。雪を踏み堅め踏み堅めしてある街道には、猿羽織を着た村の小娘たちまでが集まって、一年の中の最も楽しい季節を迎え顔に遊び戯れている。愛らしい軽袗ばきの姿に、鳶口を携え、坂になった往来の道を利用して、朝早くから氷滑りに余念もない男の子の中には、半蔵が家の宗太もいる。 一日は一日より、白さ、寒さ、深さを増す恵那山連峰の谿谷を右手に望みながら、やがて半蔵は連れと一緒に峠の上を離れた。木曾山森林保護の目的で尾州藩から見張りのために置いてある役人の駐在所は一石栃(略称、一石)にある。いわゆる白木の番所だ。番所の屋根から立ちのぼる煙も沢深いところだ。その辺は馬籠峠の裏山つづきで、やがて大きな木曾谷の入り口とも言うべき男垂山の付近へと続いて行っている。この地勢のやや窮まったところに、雪崩をも押し流す谿流の勢いを見せて、凍った花崗石の間を落ちて来ているのが蘭川だ。木曾川の支流の一つだ。そこに妻籠手前の橋場があり、伊那への通路がある。 蘭川の谷の昔はくわしく知るよしもない。ただしかし、尾張美濃から馬籠峠を経て、伊那諏訪へと進んだ遠い昔の人の足跡をそこに想像することはできる。そこにはまた、幾世紀の長さにわたるかと思われるような沈黙と寂寥との支配する原生林の大きな沢を行く先に見つけることもできる。蘭はこの谷に添い、山に倚っている村だ。全村が生活の主な資本を山林に仰いで、木曾名物の手工業に親代々からの熟練を見せているのもそこだ。そこで造らるる檜木笠の匂いと、石垣の間を伝って来る温暖な冬の清水と、雪の中にも遠く聞こえる犬や鶏の声と。しばらく半蔵らはその山家の中の山家とも言うべきところに足を休めた。 そこまで行くと、水戸浪士の進んで来た清内路も近い。清内路の関所と言えば、飯田藩から番士を出張させてある山間の関門である。千余人からの浪士らの同勢が押し寄せて来た当時、飯田藩で間道通過を黙許したものなら、清内路の関所を預かるものがそれをするにさしつかえがあるまいとは、番士でないものが考えても一応言い訳の立つ事柄である。飯田藩の家老と運命を共にしたという関所番が切腹のうわさは、半蔵らにとってまだ実に生々しかった。 |
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蘭から道は二つに分かれる。右は清内路に続き、左は広瀬、大平に続いている。半蔵らはその左の方の道を取った。時には樅、檜木、杉などの暗い木立ちの間に出、時には栗、その他の枯れがれな雑木の間の道にも出た。そして越えて来た蘭川の谷から広瀬の村までを後方に振り返って見ることのできるような木曾峠の上の位置に出た。枝と枝を交えた常磐木がささえる雪は恐ろしい音を立てて、半蔵らが踏んで行く路傍に崩れ落ちた。黒い木、白い雪の傾斜――一同の目にあるものは、ところまだらにあらわれている冬の山々の肌だった。 昼すこし過ぎに半蔵らは大平峠の上にある小さな村に着いた。旅するものはもとより、荷をつけて中津川と飯田の間を往復する馬方なぞの必ず立ち寄る休み茶屋がそこにある。まず笠を脱いで炉ばたに足を休めようとしたのは景蔵だ。香蔵も半蔵も草鞋ばきのままそのそばにふん込んで、雪にぬれた足袋の先をあたためようとした。「どれ、芋焼餅でも出さずか」と供の佐吉は言って、馬籠から背負って来た風呂敷包みの中のものをそこへ取り出した。「山で食えば、焼きざましの炙ったのもうまからず」とも言い添えた。炉にくべた枯れ枝はさかんに燃えた。いくつかの芋焼餅は、火に近く寄せた鉄の渡しの上に並んだ。しばらく一同はあかあかと燃え上がる火をながめていたが、そのうちに焼餅もよい色に焦げて来る。それを割ると蕎麦粉の香と共に、ホクホクするような白い里芋の子があらわれる。大根おろしはこれを食うになくてならないものだ。佐吉はそれを茶屋の婆さんに頼んで、熱い焼餅におろしだまりを添え、主人や客にも勧めれば自分でも頬ばった。 その時、※頭巾[#「くさかんむり/稾」、171-13]をかぶって鉄砲をかついだ一人の猟師が土間のところに来て立った。「これさ、休んでおいでや」と声をかけるのは、勝手口の流しもとに皿小鉢を洗う音をさせている婆さんだ。半蔵は炉ばたにいて尋ねて見た。「お前はこの辺の者かい」。「おれかなし。おれは清内路だ」。肩にした鉄砲と一緒に一羽の獲物の山鳥をそこへおろしての猟師の答えだ。清内路と聞くと、半蔵は炉ばたから離れて、その男の方へ立って行った。見ると、耳のとがった、尻尾の上に巻き揚がった猟犬をも連れている。こいつはその鋭い鼻ですぐに炉ばたの方の焼餅の匂いをかぎつけるやつだ。「妙なことを尋ねるようだが、お前はお関所の話をよく知らんかい」と半蔵が言った。「おれが何を知らすか」と猟師は※[#「くさかんむり/稾」、172-6]頭巾を脱ぎながら答える。「お前だって、あのお関所番のことは聞いたろうに」。「うん、あの話か。おれもそうくわしいことは知らんぞなし。なんでも、水戸浪士が来た時に、飯田のお侍様が一人と、二、三十人の足軽の組が出て、お関所に詰めていたげな。そんな小勢でどうしようもあらすか。通るものは通れというふうで、あのお侍様も黙って見てござらっせいたそうな。」と言って、猟師は気をかえて、「おれは毎日鉄砲打ちで、山ばかり歩いていて、お関所番の亡くなったこともあとから聞いた。そりゃ、お前さま、この茶屋の婆さんの方がよっぽどくわしい。おれはこんな犬を相手だが、ここの婆さんはお客さまを相手だで」。 日暮れごろに半蔵らは飯田の城下町にはいった。水戸浪士が間道通過のあとをうけてこの地方に田沼侯の追討軍を迎えることになった飯田では、またまた一時大騒ぎを繰り返したというところへ着いた。飯田藩の家老が切腹の事情は、中津川や馬籠から来た庄屋問屋のうかがい知るところではなかった。しかし、半蔵らは木曾地方に縁故の深いこの町の旅籠屋に身を置いて見て、ほぼその悲劇を想像することはできた。人が激しい運命に直面した時は身をもってそれに当たらねばならない。何ゆえにこの家老は一藩の重きに任ずる身で、それほどせっぱ詰まった運命に直面しなければならなかったか。半蔵らに言わせると、当時は幕府閣僚の権威が強くなって、何事につけても権威をもって高二万石にも達しない飯田のような外藩にまで臨もうとするからである。その強い権威の目から見たら、飯田藩が弓矢沢の防備を撤退したはもってのほかだと言われよう。間道の修繕を加えたはもってのほかだと言われよう。飯田町が水戸浪士に軍資金三千両の醵出を約したことなぞはなおなおもってのほかだと言われよう。しかし、砥沢口合戦の日にも和田峠に近づかず、諏訪松本両勢の苦戦をも救おうとせず、必ず二十里ずつの距離を置いて徐行しながら水戸浪士のあとを追って来たというのも、そういう幕府の追討総督だ。 ともあれ、この飯田藩家老の死は強い力をもって伊那地方に散在する平田門人を押した。もともと飯田藩では初めから戦いを避けようとしたでもない。御会所の軍議は籠城のことに一決され、もし浪士らが来たら市内は焼き払われて戦乱の巷ともなるべく予想されたから、飯田の町としては未曾有の混乱状態を現出した際に、それを見かねてたち上がったのが北原稲雄兄弟であるからだ。稲雄がその弟の豊三郎をして地方係りと代官とに提出させた意見書の中には、高崎はじめ諏訪高遠の領地をも浪士らが通行の上のことであるから、当飯田の領分ばかりが恥辱にもなるまいとの意味のことが認めてあった。豊三郎はそれをもって、おりから軍議最中の飯田城へ駆けつけたところ、郡奉行はひそかに彼を別室に招き間道通過に尽力すべきことを依託したという。その足で豊三郎は飯田の町役人とも会見した。もし北原兄弟の尽力で、兵火戦乱の災から免れることができるなら、これに過ぎた町の幸福はない、ついては町役人は合議の上で、十三か町の負担をもって、翌日浪士軍に中食を供し、かつ三千両の軍資金を醵出すべき旨の申し出があったというのもその時だ。もっとも、この金の調達はおくれ、そのうち千両だけできたのを持って浪士軍を追いかけたものがあるが、はたして無事にその金を武田藤田らの手に渡しうるかどうかは疑問とされていた。「これを責めるとは、酷だ」。その声は伊那地方にある同門の人たちを奮いたたせた。上にあって飯田藩の責任を問う人よりもさらによく武士らしい責任を知っていたというべき家老や関所番の死を憐むものが続々と出て来て、手向けの花や線香がその新しい墓地に絶えないという時だ。半蔵が景蔵や香蔵と一緒に伊那の谷を訪れたのは、この際である。 水戸浪士の間道通過に尽力しあわせて未曾有の混乱から飯田の町を救おうとした北原兄弟らの骨折りは、しかし決してむなしくはなかった。厳密な意味での平田篤胤没後の門人なるものは、これまで伊那の谷に三十六人を数えたが、その年の暮れには一息に二十三人の入門候補者を得たほど、この地方の信用と同情とを増した。その時になって見ると、片桐春一らの山吹社中を中心にする篤胤研究はにわかに活気を帯びて来る。従来国恩の万分の一にも報いようとの意気込みで北原稲雄らによって計画された先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布は一層順調に諸門人が合同協力の実をあげる。小野の倉沢義髄、清内路の原信好のように、中世否定の第一歩を宗教改革に置く意味で、神仏混淆の排斥と古神道の復活とを唱えるために、相携えて京都へ向かおうとしているものもある。 この機運を迎えた、伊那地方にある同門の人たちは、日ごろ彼らが抱いている夢をなんらかの形に実現しようとして、国学者として大きな諸先達のためにある記念事業を計画していた。半蔵らが飯田にはいった翌々日には、三人ともその下相談にあずかるために、町にある同門の有志の家に集まることになった。ここですこしく平田門人の位置を知る必要がある。篤胤の学説に心を傾けたものは武士階級に少なく、その多くは庄屋、本陣、問屋、医者、もしくは百姓、町人であった。先師篤胤その人がすでに医者の出であり、師の師なる本居宣長もまた医者であった。半蔵らの旧師宮川寛斎が中津川の医者であったことも偶然ではない。その中にも、庄屋と本陣問屋とが、東美濃から伊那へかけての平田門人を代表すると見ていい。しかし、当時の庄屋問屋本陣なるものの位置がその籍を置く公私の領地に深き地方的な関係のあったことを忘れてはならない。たとえば、景蔵、香蔵の生まれた地方は尾州領である。その地方は一方は木曾川を隔てて苗木領に続き、一方は丘陵の起伏する地勢を隔てて岩村領に続いている。尾州の家老成瀬氏は犬山に、竹腰氏は今尾に、石河氏は駒塚に、その他八神の毛利氏、久々里九人衆など、いずれも同じ美濃の国内に居所を置き、食邑をわかち与えられている。言って見れば、中津川の庄屋は村方の年貢米だけを木曾福島の山村氏(尾州代官)に納める義務はあるが、その他の関係においては御三家の随一なる尾州の縄張りの内にある。江戸幕府の権力も直接にはその地方に及ばない。東美濃と南信濃とでは、領地関係もおのずから異なっているが、そこに籍を置く本陣問屋庄屋なぞの位置はやや似ている。あるところは尾州旗本領、あるところはいわゆる交代寄り合いの小藩なる山吹領というふうに、公領私領のいくつにも分かれた伊那地方が篤胤研究者の苗床であったのも、決して偶然ではない。たとえば暮田正香のような幕府の注意人物が小野の倉沢家にも、田島の前沢家にも、伴野の松尾家にも、座光寺の北原家にも、飯田の桜井家にも、あるいは山吹の片桐家にもというふうに、巡行寄食して隠れていられるのも、伊那の谷なればこそだ。また、たとえば長谷川鉄之進、権田直助、落合直亮らの志士たちが小野の倉沢家に来たり投じて潜伏していられるということも、この谷なればこそそれができたのである。 町の有志の家に集まる約束の時が来た。半蔵は二人の友だちと同じように飯田の髪結いに髪を結わせ、純白で新しい元結の引き締まったここちよさを味わいながら一緒に旅籠屋を出た。時こそ元治元年の多事な年の暮れであったが、こんなに友だちと歩調を合わせて、日ごろ尊敬する諸大人のために何かの役に立ちに行くということは、そうたんと来そうな機会とも思われなかったからで。三人連れだって歩いて行く中にも、一番年上で、一番左右の肩の釣合いの取れているのは景蔵だ。香蔵と来たら、隆く持ち上げた左の肩に物を言わせ、歩きながらでもそれをすぼめたり、揺ったりする。この二人に比べると、息づかいも若く、骨太で、しかも幅の広い肩こそは半蔵のものだ。行き過ぎる町中には、男のさかりも好ましいものだと言いたげに、深い表格子の内からこちらをのぞいているような女の眸に出あわないではなかったが、三人はそんなことを気にも留めなかった。その日の集まりが集まりだけに、半蔵らはめったに踏まないような厳粛な道を踏んだ。 |
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新しい社を建てる。荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、この国学四大人の御霊代を置く。伊那の谷を一望の中にあつめることのできる山吹村の条山(俗に小枝山とも)の位置をえらび、九畝歩ばかりの土地を山の持ち主から譲り受け、枝ぶりのおもしろい松の林の中にその新しい神社を創立する。この楽しい考えが、平田門人片桐春一を中心にする山吹社中に起こったことは、何よりもまず半蔵らをよろこばせた。独立した山の上に建てらるべき木造の建築。四人の翁を祭るための新しい社殿。それは平田の諸門人にとって郷土後進にも伝うべきよき記念事業であり、彼らが心から要求する復古と再生との夢の象徴である。なぜかなら、より明るい世界への啓示を彼らに与え、健全な国民性の古代に発見せらるることを彼らに教えたのも、そういう四人の翁の大きな功績であるからで。 その日、山吹社中の重立ったものが飯田にある有志の家に来て、そこに集まった同門の人たちに賛助を求めた。景蔵はじめ、香蔵、半蔵のように半ば客分のかたちでそこに出席したものまで、この記念の創立事業に異議のあろうはずもない。山吹から来た門人らの説明によると、これは片桐春一が畢生の事業の一つとしたい考えで、社地の選定、松林の譲り受け、社殿の造営工事の監督等は一切山吹社中で引き受ける。これを条山神社とすべきか、条山霊社とすべきか、あるいは国学霊社とすべきかはまだ決定しない。その社号は師平田鉄胤の意見によって決定することにしたい。なお、四大人の御霊代としては、先人の遺物を全部平田家から仰ぐつもりであるとの話で、片桐春一ははたから見ても涙ぐましいほどの熱心さでこの創立事業に着手しているとのことであった。その日の顔ぶれも半蔵らにはめずらしい。平素から名前はよく聞いていても、互いに見る機会のない飯田居住の同門の人たちがそこに集まっていた。駒場の医者山田文郁、浪合の増田平八郎に浪合佐源太なぞの顔も見える。景蔵には親戚にあたる松尾誠(多勢子の長男)もわざわざ伴野からやって来た。先師没後の同じ流れをくむとは言え、国学四大人の過去にのこした仕事はこんなにいろいろな弟子たちを結びつけた。 その時、一室から皆の集まっている方へ来て、半蔵の肩をたたいた人があった。「青山君」。声をかけたは暮田正香だ。半蔵はめずらしいところでこの人の無事な顔を見ることもできた。伊那の谷に来て隠れてからこのかた、あちこちと身を寄せて世を忍んでいるような正香も、こうして一同が集まったところで見ると、さすがに先輩だ。小野村の倉沢義髄を初めて平田鉄胤の講筵に導いて、北伊那に国学の種をまく機縁をつくったほどの古株だ。「世の中はおもしろくなって来ましたね」。だれが言い出すともないその声、だれが言いあらわして見せるともないその新しいよろこびは、一座のものの顔に読まれた。山吹社中のものが持って来た下相談は、言わば内輪の披露で、大体の輪郭に過ぎなかったが、もしこの条山神社創立の企てが諸国同門の人たちの間に知れ渡ったらどんな驚きと同情とをもって迎えられるだろう、第一京都の方にある師鉄胤はどんなに喜ばれるだろう、そんな話でその日の集まりは持ち切った。「暮田さん、わたしたちの宿屋まで御一緒にいかがですか」。半蔵は二人の友だちと共に正香を誘った。その晩は飯田の親戚の家に泊まるという松尾誠と別れて、四人一緒に旅籠屋をさして歩いた。正香は思い出したように、「青山君、わたしも今じゃあの松尾家に居候でさ。京都からやって来た時はいろいろお世話さまでした。あの時は二日二晩も歩き通しに歩いて、中津川へたどり着くまでは全く生きた心地もありませんでした。浅見君のお留守宅や青山君のところで御厄介になったことは忘れませんよ」。 半蔵らの旧師宮川寛斎が横浜引き揚げ後にその老後の「隠れ家」を求めた場所も伴野であり、今またこの先輩が同じ村の松尾家に居候だと聞くことも、半蔵らの耳には奇遇と言えば奇遇であった。伊那の方へ来て聞くと、あの寛斎老人が伴野での二、三年はかなり不遇な月日を送ったらしい。率先した横浜貿易があの旧師に祟った上に、磊落な酒癖から、松尾の子息ともよくけんかしたなぞという旧い話も残っていた。「伊勢の方へ行った宮川先生にも、今度の話を聞かせたいね」。「あの老人のことですから、山吹に神社ができて平田先生なぞを祭ると知ったら、きっと落涙するでしょう」。「喜びのあまりにですか。そりゃ、人はいろいろなことを言いますがね、あの宮川先生ぐらい涙の多い人を見たことはありません」。三人の友だちの間には、何かにつけて旧師のうわさが出た。 旅籠屋に帰ってから、半蔵らは珍客を取り囲いて一緒にその日の夕方を送った。正香というものが一枚加わると、三人は膝を乗り出して、あとからあとからといろいろな話を引き出される。あつらえたちょうしが来て、盃のやり取りが始まるころになると、正香がまずあぐらにやった。「どれ、無礼講とやりますか。そう、そう、あの馬籠の本陣の方で、わたしは一晩土蔵の中に御厄介になった。あの時、青山君が瓢箪に酒を入れて持って来てくだすった。あんなうまい酒は、あとにも先にもわたしは飲んだことがありませんよ」。「まあ、そう言わずに、飯田の酒も味わって見てください。」と半蔵が言う。「暮田さんの前ですが、いったい、今の洋学者は何をしているんでしょう」と言い出したのは香蔵だ。「また香蔵さんがきまりを始めた。」と景蔵は笑いながら、「君は出し抜けに何か言い出して、ときどきびっくりさせる人だ。しょッちゅう一つ事を考えてるせいじゃありませんかね」。「でも、わたしは黒船というものを考えないわけにいきません」とまた香蔵が言った。なんの事はない。この二人の年上の友だちがそこへ言い出したことは、やがて半蔵自身の内部の光景でもある。彼としても「一つ事を考えている」と言わるる香蔵を笑えなかった。「そりゃ、君、ことしの夏京都へ行って斬られた佐久間象山だって、一面は洋学者さ」と正香は言った。「あの人は木曾路を通って京都の方へ行ったんでしょう。青山君の家へも休むか泊まるかして行ったんじゃありませんか」。「いえ、ちょうどわたしは留守の時でした」と半蔵は答える。「あれは三月の山桜がようやくほころびる時分でした。わたしは福島の出張先から帰って、そのことを知りました」。「蜂谷君は」。「わたしは景蔵さんと一緒に京都の方にいた時です。象山も陪臣ではあるが、それが幕府に召されたという評判で、十五、六人の従者をつれて、秘蔵の愛馬に西洋鞍か何かで松代から乗り込んで来た時は、京都人は目をそばだてたものでした」。「でしょう。象山のことですから、おれが出たらと思って、意気込んで行ったものでしょうかね。でも、あの人は吉田松陰の事件で、九年も禁錮の身だったというじゃありませんか。戸を出でずして天下を知るですか。どんな博識多才の名士だって、君、九年も戸を出なかったら、京都の事情にも暗くなりますね。あのとおり、上洛して三月もたつかたたないうちに、ばっさり殺られてしまいましたよ。いや、はや、京都は恐ろしいところです。わたしが知ってるだけでも、何度形勢が激変したかわかりません」。「それにはこういう事情もあります」と景蔵は正香の話を引き取って、「象山が斬られたのは、あれは池田屋事件の前あたりでしたろう。ねえ、香蔵さん、たしかそうでしたね」。「そう、そう、みんな気が立ってる最中でしたよ」。「あれは長州の大兵が京都を包囲する前で、叡山に御輿を奉ずる計画なぞのあった時だと思います。そこへ象山が松代藩から六百石の格式でやって来て、山階宮に伺候したり慶喜公に会ったりして、彦根への御動座を謀るといううわさが立ったものですからね。これは邪魔になると一派の志士からにらまれたものらしい」。「まあ、あれほどの名士でしたら、もっと光を包んでいてもらいたかったと思いますね」とまた正香が言った。「どうも今の洋学者に共通なところは、とかくこのおれを見てくれと言ったようなところがある。あいつは困る。でも、象山のような人になると、『東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)』というくらいの見きわめがありますよ。あの人には、かなり東洋もあったようです。そりゃ、象山のような洋学者ばかりなら頼もしいと思いますがね、洋学一点張りの人たちと来たら、はたから見ても実に心細い。見たまえ、こんな徳川のような圧制政府は倒してしまえなんて、そういうことを平気で口にしているのも今の洋学者ですぜ。そんなら陰で言う言葉がどんな人たちの口から出て来るのかと思うと、外国関係の翻訳なぞに雇われて、食っているものも着ているものも幕府の物ばかりだという御用学者だから心細い。それに衣食していながら、徳川をつぶすというのはどういう理屈かと突ッ込むものがあると、なあに、それはかまわない、自分らが幕府の御用をするというのは何も人物がえらいと言って用いられているのじゃない、これは横文字を知ってるというに過ぎない、たとえば革細工だから雪駄直しにさせると同じ事だ、洋学者は雪駄直しみたようなものだ、殿様方はきたない事はできない、幸いここに革細工をするやつがいるからそれにさせろと言われるのと少しも変わったことはない、それに遠慮会釈も糸瓜も要るものか、さっさと打ちこわしてやれ、ただしおれたちは自分でその先棒になろうとは思わない――どうでしょう、君、これが相当に見識のある洋学者の言い草ですよ。どうしたって幕府は早晩倒さなけりゃならない、ただ、さしあたり倒す人間がないからしかたなしに見ているんだ、そういうことも言うんです。こんな無責任なことを言わせる今の洋学は考えて見たばかりでも心細い。自分さえよければ人はどうでもいい、百姓や町人はどうなってもいい、そんな学問のどこに熱烈峻厳な革新の気魄が求められましょうか――」。後進の半蔵らを前に置いて、多感で正直なこの先輩は色のあせた着物の襟をかき合わせた。あだかも、つくづく身の落魄を感ずるというふうに。 |
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「半蔵さん、ともかくもわたしと一緒に伴野までおいでください。君や香蔵さんをお誘いするようにッて、松尾の子息がくれぐれも言い置いて行きました。あの人は暮田正香と一緒に、けさ一歩先へ立って行きました」。「そんなに多勢で押し掛けてもかまいますまいか」。「なあに、三人や四人押し掛けて行ったって迷惑するような家じゃありませんよ」。「わたしもせっかく飯田まで来たものですから、ついでに山吹社中の輪講に出席して見たい。あの社中の篤胤研究をききたいと思いますよ。こんなよい機会はちょっとありませんからね」。「そんなら、こうなさるさ。伴野から山吹へお回りなさるさ」。翌日の朝、景蔵と半蔵とはこの言葉をかわした。こんなふうで友だちに誘われて行った伴野村での一日は半蔵にとって忘れがたいほどであった。彼は松尾の家で付近の平田門人を歴訪する手引きを得、日ごろ好む和歌の道をもって男女の未知の友と交遊するいとぐちをも見つけた。当時洛外に侘住居する岩倉公の知遇を得て朝に晩に岩倉家に出入りするという松尾多勢子から、その子の誠にあてた京都便りも、半蔵にはめずらしかった。 伊那の谷の空にはまた雪のちらつく日に、半蔵は中津川の方へ帰って行く景蔵や香蔵と手を分かった。その日まで供の佐吉を引き留めて置いたのも、二人の友だちを送らせる下心があったからで。伊那には彼ひとり残った。それからの彼は、山吹での篤胤研究会とも言うべき『義雄集』への聴講に心をひかれたのと、あちこちと訪ねて見たい同門の人たちのあったのと、一晩のうちに四尺も深い雪が来たという大平峠の通行の困難なのとで、とうとう飯田に年を越してしまった。この小さな旅は、しかし平田門人としての半蔵の目をいくらかでも開けることに役立った。「あはれあはれ上つ代は人の心ひたぶるに直くぞありける」。 先人の言うこの上つ代とは何か。その時になって見ると、この上つ代はこれまで彼がかりそめに考えていたようなものではなかった。世にいわゆる古代ではもとよりなかった。言って見れば、それこそ本居平田諸大人が発見した上つ代である。中世以来の武家時代に生まれ、どの道かの道という異国の沙汰にほだされ、仁義礼譲孝悌忠信などとやかましい名をくさぐさ作り設けてきびしく人間を縛りつけてしまった封建社会の空気の中に立ちながらも、本居平田諸大人のみがこの暗い世界に探り得たものこそ、その上つ代である。国学者としての大きな諸先輩が創造の偉業は、古ながらの古に帰れと教えたところにあるのではなくて、新しき古を発見したところにある。 そこまでたどって行って見ると、半蔵は新しき古を人智のますます進み行く「近つ代」に結びつけて考えることもできた。この新しき古は、中世のような権力万能の殻を脱ぎ捨てることによってのみ得らるる。この世に王と民としかなかったような上つ代に帰って行って、もう一度あの出発点から出直すことによってのみ得らるる。この彼がたどり着いた解釈のしかたによれば、古代に帰ることはすなわち自然に帰ることであり、自然に帰ることはすなわち新しき古を発見することである。中世は捨てねばならぬ。近つ代は迎えねばならぬ。どうかして現代の生活を根からくつがえして、全く新規なものを始めたい。そう彼が考えるようになったのもこの伊那の小さな旅であった。そして、もう一度彼が大平峠を越して帰って行こうとするころには、気の早い一部の同門の人たちが本地垂跡の説や金胎両部の打破を叫び、すでにすでに祖先葬祭の改革に着手するのを見た。全く神仏を混淆してしまったような、いかがわしい仏像の焼きすてはそこにもここにも始まりかけていた。 |
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三 | |
元治二年の三月になった。恵那山の谷の雪が溶けはじめた季節を迎えて、山麓にある馬籠の宿場も活気づいた。伊勢参りは出発する。中津川商人はやって来る。宿々村々の人たちの往来、無尽の相談、山林売り払いの入札、万福寺中興開祖乗山和尚五十年忌、および桑山和尚十五年忌など、村方でもその季節を待っていないものはなかった。毎年の例で、長い冬ごもりの状態にあった街道の活動は彼岸過ぎのころから始まる。諸国の旅人をこの街道に迎えるのもそのころからである。 その年の春は、ことに参覲交代制度を復活した幕府方によって待たれた。幕府は老中水野和泉守の名で正月の二十五日あたりからすでにその催促を万石以上の面々に達し、三百の諸侯を頤使した旧時のごとくに大いに幕威を一振しようと試みていた。諸物価騰貴と共に、諸大名が旅も困難になった。道中筋の賃銀も割増し、割増しで、元治元年の三月からその年の二月まで五割増しの令があったが、さらにその年三月から来たる辰年二月まで三か年間五割増しの達しが出た。実に十割の増加だ。諸大名の家族がその困難な旅を冒してまで、幕府の命令を遵奉して、もう一度江戸への道を踏むか、どうかは、見ものであった。この街道の空気の中で、半蔵は伊那行き以来懇意にする同門の先輩の一人を馬籠本陣に迎えた。暮田正香の紹介で知るようになった伊那小野村の倉沢義髄だ。その年の二月はじめに郷里を出た義髄は京大坂へかけて五十日ばかりの意味のある旅をして帰って来た。 義髄の上洛はかねてうわさのあったことであり、この先輩の京都土産にはかなりの望みをかけた同門の人たちも多かった。義髄は、伊勢、大和の方から泉州を経めぐり、そこに潜伏中の宮和田胤影を訪い、大坂にある岩崎長世、および高山、河口らの旧友と会見し、それから京都に出て、直ちに白河家に参候し神祇伯資訓卿に謁し祗役の上申をしてその聴許を得、同家の地方用人を命ぜられた。彼が京都にとどまる間、交わりを結んだのは福羽美静、池村邦則、小川一敏、矢野玄道、巣内式部らであった。彼はこれらの志士と相往来して国事を語り、共に画策するところがあった、という。 彼はまた、ある日偶然に旧友近藤至邦に会い、相携えて東山長楽寺に隠れていた品川弥二郎をひそかに訪問し、長州藩が討幕の先駆たる大義をきくことを得たという。これらの志士との往来が幕府の嫌疑を受けるもとになって、身辺に危険を感じて来た彼はにわかに京都を去ることになり、夜中江州の八幡にたどり着いて西川善六を訪い、足利木像事件後における残存諸士の消息を語り、それより回り路をして幕府探偵の目を避けながら、放浪約五十日の後郷里をさして帰って来ることができたということだった。 この先輩が帰省の途次、立ち寄って行った旅の話はいろいろな意味で半蔵の注意をひいた。義髄と前後して上洛した清内路の先輩原信好が神祇伯白河殿に奉仕して当道学士に補せられたことと言い、義髄が同じ白河家から地方用人を命ぜられたことと言い、従来地方から上洛するものが堂上の公卿たちに遊説する縁故をなした白河家と平田門人との結びつきが一層親密を加えたことは、その一つであった。西にあって古学に心を寄せる人々との連絡のついたことは、その一つであった。十二年の飯田を去った後まで平田諸門人が忘れることのできない先輩岩崎長世の大坂にあることがわかったのも、その一つであった。しかしそれにもまして半蔵の注意をひいたのは、なんと言っても討幕の志を抱く志士らと相往来して共に画策するところがあったということだった。 そういうこの先輩は最初水戸の学問からはいったが、暮田正香と相知るようになってから吉川流の神道と儒学を捨て、純粋な古学に突進した熱心家であるばかりでなく、篤胤の武学本論を読んで武技の必要をも感じ、一刀流の剣法を習得したという肌合の人である。古学というものもまだ伊那の谷にはなかったころに行商しながら道を伝えたという松沢義章、和歌や能楽に堪能なところからそれを諸人に教えながら古学をひろめたという甲府生まれの岩崎長世、この二人についで平田派の先駆をなしたのが義髄などだ。当時伊那にある四人の先輩のうち、片桐春一、北原稲雄、原信好の三人が南を代表するとすれば、義髄は北を代表すると言われている人である。「青山君――こんな油断のならない旅は、わたしも初めてでしたよ」。これは一度義髄を見たものが忘れることのできないような頬髯の印象と共に、半蔵のところに残して行ったこの先輩の言葉だ。半蔵は周囲を見回した。義髄が旅の話も心にかかった。あの大和五条の最初の旗あげに破れ、生野銀山に破れ、つづいて京都の包囲戦に破れ、さらに筑波の挙兵につまずき、近くは尾州の御隠居を総督にする長州征討軍の進発に屈したとは言うものの、所詮このままに屏息すべき討幕運動とは思われなかった。この勢いのおもむくところは何か。 そこまでつき当たると、半蔵は一歩退いて考えたかった。日ごろ百姓は末の考えもないものと見なされ、その人格なぞはてんで話にならないものと見なされ、生かさず殺さずと言われたような方針で、衣食住の末まで干渉されて来た武家の下に立って、すくなくも彼はその百姓らを相手にする田舎者である。仮りに楠公の意気をもって立つような人がこの徳川の末の代に起こって来て、往時の足利氏を討つように現在の徳川氏に当たるものがあるとしても、その人が自己の力を過信しやすい武家であるかぎり、またまた第二の徳川の代を繰り返すに過ぎないのではないかとは、下から見上げる彼のようなものが考えずにはいられなかったことである。どんな英雄でもその起こる時は、民意の尊重を約束しないものはないが、いったん権力をその掌中に収めたとなると、かつて民意を尊重したためしがない。どうして彼がそんなところへ自分を持って行って考えて見るかと言うに、これまで武家の威力と権勢とに苦しんで来たものは、そういう彼ら自身にほかならないからで。妻籠の庄屋寿平次の言葉ではないが、百姓がどうなろうと、人民がどうなろうと、そんなことにおかまいなしでいられるくらいなら、何も最初から心配することはなかったからで…… 考え続けて行くと、半蔵は一時代前の先輩とも言うべき義髄になんと言っても水戸の旧い影響の働いていることを想い見た。水戸の学問は要するに武家の学問だからである。武家の学問は多分に漢意のまじったものだからである。たとえば、水戸の人たちの中には実力をもって京都の実権を握り天子を挾んで天下に号令するというを何か丈夫の本懐のように説くものもある。たといそれがやむにやまれぬ慨世のあまりに出た言葉だとしても、天子を挾むというはすなわち武家の考えで、篤胤の弟子から見れば多分に漢意のまじったものであることは争えなかった。武家中心の時はようやく過ぎ去りつつある。先輩義髄が西の志士らと共に画策するところのあったということも、もしそれが自分らの生活を根から新しくするようなものでなくて、徳川氏に代わるもの出でよというにとどまるなら、日ごろ彼が本居平田諸大人から学んだ中世の否定とはかなり遠いものであった。その心から、彼は言いあらわしがたい憂いを誘われた。 |
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水戸浪士処刑 | 水戸浪士に連れられて人足として西の方へ行った諏訪の百姓も、ぽつぽつ木曾街道を帰って来るようになった。諏訪の百姓は馬籠本陣をたよって来て、一通の書付を旅の懐から取り出し、主人への取り次ぎを頼むと言い入れた。その書付は、敦賀の町役人から街道筋の問屋にあてたもので、書き出しに信州諏訪飯島村、当時無宿降蔵とまず生国と名前が断わってあり、右は水戸浪士について越前まで罷り越したものであるが、取り調べの上、子細はないから今度帰国を許すという意味を認めてあり、ついては追放の節に小遣いとして金壱分をあてがってあるが、万一途中で路銀に不足したら、街道筋の問屋でよろしく取り計らってやってくれと認めてある。 半蔵はすぐにその百姓の尋ねて来た意味を読んだ。武田耕雲斎以下、水戸浪士処刑のことはすでに彼の耳にはいっていた際で、自分のところへその書付を持って来た諏訪の百姓の追放と共に、信じがたいほどの多数の浪士処刑のことが彼の胸に来た。 「旦那、わたくしは鎗をかつぎまして、昨年十一月の二十七日にお宅の前を通りましたものでございます」。降蔵の挨拶だ。旅の百姓は本陣の表玄関のところに立って、広い板の間の前の片すみに腰を曲めている。ちょうど半蔵は昼の食事を済ましたころであったが、この男がまだ飯前だと聞いて、玄関から手をたたいた。家のものを呼んで旅の百姓のために簡単な食事のしたくを言いつけた。「この書付のことは承知した」と半蔵は降蔵の方を見て言った。「まあ、いろいろ聞きたいこともある。こんな玄関先じゃ話もできない。何もないが茶漬けを一ぱい出すで、勝手口の方へ回っておくれ」。降蔵は手をもみながら、玄関先から囲炉裏ばたの方へ回って来た。草鞋ばきのままそこの上がりはなに腰掛けた。「水戸の人たちも、えらいことになったそうだね」。それを半蔵が言い出すと、浪士ら最期のことが、諏訪の百姓の口からもれて来た。二月の朔日、二日は敦賀の本正寺で大将方のお調べがあり、四日になって武田伊賀守はじめ二十四人が死罪になった。五日よりだんだんお呼び出しで、降蔵同様に人足として連れられて行ったものまで調べられた。降蔵は六番の土蔵にいたが、その時白洲に引き出されて、五日より十日まで惣勢かわるがわる訊問を受けた。浪士らのうち、百三十四人は十五日に、百三人は十六日に打ち首になった。そうこうしていると、ちょうど十七日は東照宮の忌日に当たったから、御鬮を引いて、下回りの者を助けるか、助けないかの伺いを立てたという。ところが御鬮のおもてには助けろとあらわれた。そこで降蔵らは本正寺に呼び出され、門前で足枷を解かれ、一同書付を読み聞かせられた。それからいったん役人の前を下がり、門前で髪を結って、またまた呼び出された上で最後の御免の言葉を受けた。読み聞かせられた書付は爪印を押して引き下がった。その時、降蔵同様に追放になったものは七十六人あったという。 「さようでございます」と降蔵は同国生まれの仲間の者だけを数えて見せた。「わたくし同様のものは、下諏訪の宿から一人、佐久郡の無宿の雲助が一人、和田の宿から一人、松本から一人、それに伊那の松島宿から十四、五人でした。さよう、さよう、まだそのほかに高遠の宮城からも一人ありました。なにしろ、お前さま、昨年の十一月に伊那を出るから、わたくしも難儀な旅をいたしまして、すこしからだを悪くしたものですから、しばらく敦賀のお寺に御厄介になってまいりました。まあ、命拾いをしたようなものでございます」。お民は下女に言いつけて、飯櫃と膳とをその上がりはなへ運ばせた。「亀山さんもどうなりましたろう」。それをお民が半蔵に言うと、降蔵は遠慮なく頂戴というふうで、そこに腰掛けたまま飯櫃を引きよせ、おりからの山の蕨の煮つけなぞを菜にして、手盛りにした冷飯をやりはじめた。半蔵は鎗をかついで浪士らの供をしたという百姓の骨太な手をながめながら、「お前は小荷駄掛りの亀山嘉治のことを聞かなかったかい。あの人はわたしの旧い友だちだが」。「へえ、わたくしは正武隊付きで、兵糧方でございましたから、よくも存じませんが、重立った御仁で助けられたものは一人もございませんようです。ただいま申し上げましたように、わたくしは追放となりましてから患いまして、しばらく敦賀に居残りました。先月十七日以後のこともすこしは存じておりますが、十九日にも七十六人、二十三日も十六人が打ち首になりました」。「とうとう、あの亀山も武田耕雲斎や藤田小四郎なぞと死生を共にしたか」。半蔵はお民と顔を見合わせた。おまんをはじめ、清助から下男の佐吉までが水戸浪士のことを聞こうとして、諏訪の百姓の周囲に集まって来た。この本陣に働くものはいずれも前の年十一月の雨の降った日の恐ろしかった思いを噛み返して見るというふうで。 順序もなく降蔵が語り出したところによると、美濃から越前へ越えるいくつかの難場のうち、最も浪士一行の困難をきわめたのは国境の蝿帽子峠へかかった時であったという。毎日雪は降り続き、馬もそこで多分に捨て置いた。荷物は浪士ら各自に背負い、降蔵も鉄砲の玉のはいった葛籠を負わせられたが、まことに重荷で難渋した。極々の難所で、木の枝に取りついたり、岩の間をつたったりして、ようやく峠を越えることができた。その辺の五か村は焼き払われていて、人家もない。よんどころなく野陣を張って焼け跡で一夜を明かした。兵糧は不足する、雪中の寒気は堪えがたい。降蔵と同行した人足も多くそこで果てた。それからも雪は毎日降り続き、峠は幾重にもかさなっていて、前後の日数も覚えないくらいにようやく北国街道の今庄宿までたどり着いて見ると、町家は残らず土蔵へ目塗りがしてあり、人一人も残らず逃げ去っていた。もっとも食糧だけは家の前に出してあって、なにぶん火の用心頼むと張り紙をしてあった。その今庄を出てさらに峠にかかるころは深い雪が浪士一行を埋めた。家数四十軒ほどある新保村まで行って、一同はほとんど立ち往生の姿であった。その時の浪士らはすでに加州金沢藩をはじめ、諸藩の大軍が囲みの中にあった。 降蔵の話によると、彼は水戸浪士中の幹部のものが三、四人の供を連れ、いずれも平服で加州の陣屋へ趣くところを目撃したという。加州からも平服で周旋に来て、浪士らが京都へ嘆願の趣はかなわせるようせいぜい尽力するとの風聞であった。それから加州方からは毎日のように兵糧の応援があった。米、菜の物、煮豆など余るくらい送ってくれた。降蔵らもにわかに閑暇になったから、火焚きその他の用事を弁じ、米も洗えば醤油も各隊へ持ち運んだ。師走も十日過ぎのこと、浪士らの所持する武器はすべて加州侯へお預けということになった時、副将田丸稲右衛門や参謀山国兵部らは武田耕雲斎を諫め、武器を渡すことはいかにも残念であると言って、その翌日の暁八つ時を期し囲みを衝いて切り抜ける決心をせよと全軍に言い渡し、降蔵らまで九つ時ごろから起きて兵糧を炊いたが、とうとう耕雲斎の意見で浪士軍中の鎗や刀は全部先方へ渡してしまった。二十五、六日のころには一同は加州侯の周旋で越前の敦賀に移った。そこにある三つの寺へ惣人数を割り入れられ、加州方からは朝夕の食事に肴を添え、昼は香の物、酒も毎日一本ずつは送って来た。手ぬぐい、足袋、その他、手厚い取り扱いで、病人には薬を与え、医師まで出張して来て高価な薬品をあてがわれたが、その寺で病死した浪士も多かった。 正月の二十七日は浪士らが加州侯の手を離れて幕府総督田沼玄蕃頭に引き渡された日であった。その日は加州から浪士一同へ酒肴を贈られ、降蔵らまでそのもてなしがあった上で、加州の家老永原甚七郎が来ての言葉に、これまでだんだん周旋したいつもりで種々尽力したが、なにぶんにも行き届かず、公辺へ引き渡すことになったからその断わりに罷り出たのであると。それを聞いた時の隊長らの驚きはなかった。ここで切腹すべきかと言い出すものがあり、加州を恨むものがある。いったん身柄を任せた上は是非もないことだ、いかように取り扱われるとも拠なしと覚悟した浪士の中には辞世の詩を作り歌を読むものがあった。十一人ずつの組で、降蔵らまで駕籠で送られて行った先は十六番からある暗い土蔵の中だ。所持の巾着、また懐中物等はすべてお預けということになった。手枷、足枷がそこに降蔵らを待っていたのだった…… 清助は諏訪の百姓の方を見て言った。「どうして、お前は伊那から越前の敦賀まで、そんな供をするようになったのかい」。「そりゃ、お前さま、何度わたくしも国の方へ逃げ帰りたいと思ったか知れません。お暇をいただきます、御免こうむりますと言い出せばそのたびに天誅、天誅ですで。でも、妙なもので、毎日鎗をかついだり、荷物を持ったり、隊長の話を聞いたりするうちに、しまいにはこの人たちの行くところまで供をしようという気になりました」。「和田峠の話は出なかったかい。浪士の中にいたら、あの合戦の話も聞いたろう」。「さようでございます。諏訪の合戦はなかなか難儀だったそうで、今一手もあったらなにぶん当惑するところだったと申しておりました。あの山国兵部の謀で、奇兵に回ったものですから、ようやく打ち破りはしたものの、ずいぶん難戦いたしたような咄を承りました」。 |
四月が来たら、というその月の末まで待って見ても、西の領地にある諸大名で国から出て来るものはほとんどない。越前、尾州、紀州の若殿や奥方をはじめ、肥前、因州なぞの女中方や姫君から薩州の簾中まで、かつてこの街道経由で帰国を急いだそれらの諸大名の家族がもう一度江戸への道を踏んで、あの不景気のどん底にある都会をにぎわすことなぞは思いもよらない。わずかにこの街道では四月二十七日に美濃苗木の女中方が江戸をさしての通行と、その前日に中津川泊まりで東下する弘前城主津軽侯の通行とを迎えたのみだ。 しかし、馬籠の宿場が閑散であったわけではない。二度と参覲交代の道を踏む諸大名こそまれであったが、三月二十二日あたりから四月七日ごろへかけて日光大法会のために東下する勅使や公卿たちの通行の混雑で、半蔵は隣家の年寄役伊之助らと共に熱い汗を流し続けた。幕府では四月十七日を期し東照宮二百五十回忌の大法会を日光山に催し、法親王および諸僧正を京都より迎え、江戸にある老中はもとより、寺社奉行、大目付、勘定奉行から納戸頭までも参列させ、天台宗徒をあつめて万部の仏経を読ませ、諸人にその盛典をみせ、この際――年号までも慶応元年と改めて、大いに東照宮の二百五十年を記念しようとしたのだ。この街道へは尾州家から千五百両の金を携えた役人が出張して来て、日によっては千人の人足を買い揚げたのを見ても、いかにその通行の大がかりなものであったかがわかる。奈良井宿詰めの尾張人足なぞは、毎日のようにおびただしく馬籠峠を通った。伊那助郷が五百人も出た日の後には、須原通しの人足五千人の備えを要するほどの勅使通行の日が続いた。 この混雑も静まって行くと、水戸浪士事件の顛末がいろいろな形で世上に流布するようになった。これほど各地の沿道を騒がした出来事の真相がそう秘密に葬られるはずもない。宍戸侯(松平大炊頭)の悲惨な最期を序幕とする水府義士の悲劇はようやく世上に知れ渡った。 いくつかの多感な光景は半蔵の眼前にもちらついた。武田耕雲斎の同勢が軍装で中仙道を通過し、沿道各所に交戦し、追い追い西上するとのうわさがやかましく京都へ伝えられた時、それを自身に関係ある事だとして直ちに江州路へ出張し鎮撫に向かいたいよしを朝廷に奏請したのも、京都警衛総督の一橋慶喜であったという。朝議もそれを容れた。一橋中納言が京都を出発して大津に着陣したのは前年十二月三日のことだ。金沢、小田原、会津、桑名の藩兵がそれにしたがった。そのうちに武田勢が今庄に到着したので、諸藩の探偵は日夜織るがごとくであり、実にまれなる騒擾であったという。十二月の十日ごろには加州金沢藩の士卒二千余人が一橋中納言の命を奉じてまず敦賀に着港し、続いて桑名藩の七百余人、会津藩の千余人、津藩の六百余人、大垣藩の千余人、水戸藩の七百人が着港した。このほかに、間道、海岸、山々の要所要所へ出兵したのは福井藩、大野藩、彦根藩、丸山藩であって、その中でも監軍永原甚七郎に率いられる加州の士卒が先陣を承ったものらしい。水戸浪士の一行がこんな大軍の囲みの中にあって、野も山もほとんど諸藩の士卒で埋められたとは、半蔵などの想像以上であった。 武田耕雲斎は新保宿を距る二十町ほどの村に加州の兵が在陣すると聞き、そこで一書を金沢藩の陣に送って西上の趣意を述べ、諸藩の兵に対して敵意のないことを述べ、一同のために道を開かれたいと願った。その時の加州方からの返書は左のようなものであったとある。 お手紙披見いたし候。されば御嘆願のおもむきこれあり候につき、滞りなく通行の儀、かつ外諸侯へ対し接戦の存じ寄り毛頭これなき旨、委曲承知いたし候えども、加賀中納言殿人数当宿出張いたし候儀は一橋中納言殿の厳命に候条、是非なく一戦に及ぶべき存じ寄りに御座候。なお、後刻を期し一戦の節は御報に及ぶべく候。貴報かくのごとくに御座候。以上。
武田伊賀守殿内 安藤彦之進殿子十二月十一日 加賀中納言内 永原甚七郎 時に雪は一丈余、浪士らは食も竭き、力も窮まった。金沢藩ではそれを察し、こんな飢えと寒さとに迫られたものと交戦するのは本意でないとして、その日に白米二百俵、漬け物十樽、酒二石、※[#「魚+昜」、198-14]二千枚を武田の陣中に送った。同時に来たる十七日の暁天を期して交戦に及ぼうとの戦書をも送った。ところが耕雲斎は藤田小四郎以下三名の将士を使者として金沢藩の陣所に遣わし、永原甚七郎に面会を求めさせた。甚七郎は帯刀までそこへ投げ捨てるほどにして誠意を示した小四郎らの態度に感じ、一統へ相談に及ぶべき旨を答えて使者をかえした。すると今度は耕雲斎が単身で金沢藩の陣中へやって来たから、そういうことなら当方から拙者一人推参すると甚七郎は言って、ひとまず耕雲斎の帰陣を求めた。そこで甚七郎は出かけた。新保宿にある武田の本営では入り口に柵を結いめぐらし、鎗大砲を備え、三百人の銃手がおのおの火繩を消し、一礼してこの甚七郎を迎え入れた。耕雲斎は白羅紗の陣羽織を着け、一刀を帯び、草鞋をはいて甚七郎を迎えたという。甚七郎は自己の率いて行った兵を営外にとどめ、単身耕雲斎の案内で玄関に行って見ると、そこには山国兵部、田丸稲右衛門、藤田小四郎を始め二十五人の幹部のものがいずれも大小刀を帯びないで出迎えていた。その時だ。甚七郎も浪士らの態度に打たれ、規律正しい陣所の光景にも意外の思いをなし、ようやくさきの戦意をひるがえした。しからば願意をきき届けようと言って、その旨を耕雲斎に確答し、一橋中納言に捧呈する嘆願書並びに始末書を受け取って退営した。翌日甚七郎は未明に金沢藩の陣所を出発し、馬を駆って江州梅津の本営にいたり、二通の書面を一橋公に捧呈した。その嘆願書と始末書には、筑波挙兵のそもそもから、市川三左衛門らの讒言によって幕府の嫌疑をこうむったことに及び、源烈公が積年の本懐も滅びるようであっては臣子の情として遺憾に堪えないことを述べ、亡き宍戸侯のために冤をそそぐという意味からも京都をさして国を離れて来たことを書き添え、なお、一同が西上の心事は尊攘の精神にほかならないことをこまごまと言いあらわしてあったという。 過ぐる日に諏訪の百姓降蔵が置いて行った話も、半蔵にはいろいろと思い合わされた。その時になると、浪士軍中に二つのものの流れのあったことも彼には想い当たる。最初金沢藩の永原甚七郎から一戦に及ぼうとの返書のあった時、武田耕雲斎は将士を集めて評議を凝らしたという。ちょうど長州藩からは密使を送って来て、若狭、丹後を経て石見の国に出、長州に来ることを勧めてよこした時だ。山国兵部は浪士軍中の最年長者ではあるものの、その意気は壮者をしのぐほどで、しきりに長州行きを主張した。その時の兵部の言葉に、これから間道を通って山陰道に入り、長州に達することを得たなら、尊攘の大義を暢ぶることも難くはあるまい、今さら加州藩に嘆願哀訴するごときことはいかにも残念である、むしろ潔く決戦したいとの意見を述べたとか。しかし耕雲斎にして見ると、一橋公の先鋒を承る金沢藩を敵として戦うことはその本志でなかった。筑波組の田丸、藤田らと、館山から合流した武田との立場の相違はそこにもあらわれている。「所詮、水戸家もいつまで幕府のきげんをとってはいられまい」との反抗心から出発した藤田らと、飽くまで尊攘の名義を重んじ一橋慶喜の裁断に死生を託し宍戸侯の冤罪を晴らさないことには済まないと考える武田とは、最初から必ずしも同じものではなかったのだ。 ともあれ、水戸浪士の最後にたどり着いた運命は、半蔵らにとってただただ山国兵部や横田東四郎や亀山嘉治のような犠牲者を平田同門の中から出したというにとどまらなかった。なぜかなら、幕府の水戸における内外の施政に反対した志士はほとんど一掃せられ、水戸領内の郷校に学んだ有為な子弟の多くが滅ぼし尽くされたことは実に明日の水戸のなくなってしまったことを意味するからで。水戸は何もかも早かった。諸藩に魁して大義名分を唱えたことも早かった。激しい党争の結果、時代から沈んで行くことも早かった。 |
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半蔵はこの水戸浪士の事件を通して、いろいろなことを学んだ。これほど関東から中国へかけての諸藩の態度をまざまざと見せつけられた出来事もない。幕府が一橋慶喜に対する反目のはなはだしいには、これにも彼は心を驚かされた。一方は江戸の諸有司から大奥にまで及び、一方は京都守護職から在京の諸藩士にまでつながっているそれらの暗闘の奥には奥のあることが、思いがけなくも水戸浪士の事件を通して、それからそれと彼の胸に浮かんで来るようになった。 もともと一橋慶喜は紀州出の家茂を将軍とする幕府方によろこばれている人ではない。井伊大老在世の日、徳川世子の継嗣問題が起こって来たおりに、今の将軍と競争者の位置に立たせられたのもこの人だ。薩長二藩の京都手入れはやがて江戸への勅使下向となった時、京都方の希望をもいれ、将軍後見職に就いたのもこの人だ。幕府改革の意見を抱いた越前の松平春嶽が説を採用して、まず全国諸大名が参覲交代制度廃止の英断に出たのもこの人だ。禁裡守衛総督摂海防禦指揮の重職にあって、公武一和を念とし、時代の趨勢をも見る目を持ったこの人は、何事にも江戸を主にするほど偏頗でない。時は慶応元年を迎え、越前の松平春嶽もすでに手を引き、薩摩の島津久光も不平を抱き、公武一和の到底行なわれがたいことを思うものの中に立って、とにもかくにも京都の現状を維持しつつあるのは慶喜の熱心と忍耐とで、朝廷とてもその誠意は認められ、加うるに会津のような勢力があって終始その後ろ楯となっている。どうかすると慶喜の声望は将軍家茂をしのぐものがある。これは江戸幕府から言って煙たい存在にはちがいない。慶喜排斥の声は一朝一夕に起こって来たことでもないのだ。はたして、幕府方の反目は水戸浪士の処分にもその隠れた鋒先をあらわした。 慶喜は厳然たる態度をとって容易に水戸浪士を許そうとはしなかった。そのために武田耕雲斎は浪士全軍を率いて加州の陣屋に降るの余儀なきに至った。しかし水戸烈公を父とする慶喜は、その実、浪士らを救おうとして陰ながら尽力するところがあったとのことである。同じ御隠居の庶子にあたる浜田、島原、喜連川の三侯も、武田らのために朝廷と幕府とへ嘆願書を差し出し、因州、備前の二侯も、浪士らの寛典に処せらるることを奏請した。そこへ江戸から乗り込んで行ったのが田沼玄蕃頭だ。田沼侯は筑波以来の顛末を奏して処置したいとの考えから、その年の正月に京都の東関門に着いた。ところが朝廷では田沼侯の入京お差し止めとある。怒るまいことか、田沼侯は朝廷が幕府を辱かしめるもはなはだしいとして、兵権政権は幕府に存するととなえ、あだかも一橋慶喜なぞは眼中にもないかのように、その足で引き返して敦賀に向かった。正月の二十六日、田沼侯は幕命を金沢藩に伝えて、押収の武器一切を受け取り、二十八日には武田以下浪士全員の引き取りを言い渡した。この総督は、市川三左衛門らの進言に耳を傾け、慶喜が武田ら死罪赦免の儀を朝廷より御沙汰あるよう尽力中であると聞いて、にわかに浪士の処刑を急いだという。 加州ほどの大藩の力でどうして水戸浪士の生命を助けることができなかったか。それにつき、世間には種々な風評が立った。あるいは水戸浪士はうまくやられたのだ、金沢藩のために欺かれたのだ、そんな説までが半蔵の耳に聞こえて来た。現に伊那の方にいる暮田正香なぞもその説であるという。しかし半蔵はそれを穿ち過ぎた説だとして、伯耆から敦賀を通って近く帰って来た諏訪頼岳寺の和尚なぞの置いて行った話の方を信じたかった。いよいよ金沢藩が武器人員の引き渡しを終わった時に、敦賀本勝寺の書院に耕雲斎らを見に行って胸がふさがったという永原甚七郎の古武士らしい正直さを信じたかった。 田沼侯に対する世間の非難の声も高い。水戸浪士を敵として戦い負傷までした諏訪藩の用人塩原彦七ですらそれを言って、幕府の若年寄ともあろう人が士を愛することを知らない、武の道の立たないことも久しいと言って、嘆息したとも伝えらるる。この諏訪藩の用人は田沼侯を評して言った。浪士らの勢いのさかんな時は二十里ずつの距離の外に屏息し、徐行逗留してあえて近づこうともせず、いわゆる風声鶴唳にも胆が身に添わなかったほどでありながら、いったん浪士らが金沢藩に降ったと見ると、虎の威を借りて刑戮をほしいままにするとはなんという卑怯さだと。しかしまた一方には、個人としての田沼侯はそんな思い切ったことのできる性質ではなく、むしろ肥満長身の泰然たる風采の人で、天狗連追討のはじめに近臣の眠りをさまさせるため金米糖を席にまき、そんなことをして終夜戒厳したほどの貴公子に過ぎない、周囲の者がその刑戮をあえてさせたのだと言うものも出て来た。 千余人の同勢と言われた水戸浪士も、途中で戦死するもの、負傷するもの、沿道で死亡するものを出して、敦賀まで到着するころには八百二十三人だけしか生き残らなかった。そのうちの三百五十三名が前後五日にわたって敦賀郡松原村の刑場で斬られた。耕雲斎ら四人の首級は首桶に納められ、塩詰めとされたが、その他のものは三間四方の五つの土穴の中へ投げ込まれた。残る二百五十名は遠島を申し付けられ、百八十名の雑兵歩人らと、数名の婦人と、十五名の少年とが無構追放となった。 ある日、半蔵は本陣の店座敷から西側の廊下を通って、家のものの集まっている仲の間へ行って見た。継母のおまんはお民を相手に糸などを巻きながら、日光大法会のうわさをしたり、水戸浪士のうわさをしたりしている。おまんは糸巻きを手にしている。お民は山梔色の染め糸を両手に掛けている。おまんがすこしずつ繰るたびに、その染め糸の束はお民の両手を回って、順にほどけて行った。廂の深い障子の間からさし込む日光はその黄な染め糸の色を明るく見せている。「お母さんもお聞きでしたか」と半蔵は言った。「いよいよ耕雲斎たちの首級も江戸から水戸へ回されたそうですね。あの城下町を引き回されたそうですね」。おまんはお民の手にからまる染め糸をほぐしほぐし、「どうも、えらい話さ。お父さん(吉左衛門)もそう言っていたよ、三百五十人からの死罪なんて、こんな話は今まで聞いたこともないッて」。 その時、半蔵は江戸の方から来た聞書を取り出して、それを継母や妻にひろげて見せた。武田らの遺族で刑せられたものの名がそこに出ていた。武田伊賀の妻で四十八歳になるときの名も出ていた。八歳になる忰の桃丸、三歳になる兼吉の名も出ていた。それから、武田彦右衛門の忰で十二歳になる三郎、十歳になる二男の金四郎、八歳になる三男の熊五郎の名も出ていた。この六名はみな死罪で、ことに桃丸と三郎の二名は梟首を命ぜられた。「市川党もずいぶん惨酷をきわめましたね。こいつを生かして置いたら、仇を復される時があるとでも思うんでしょうか。それにしても、こんな罪もない幼いものにまで極刑を加えるなんて、あさましくなる」と半蔵が言う。「まあ、お母さん、ここに武田伊賀忰、桃丸、八歳とありますよ。吾家の宗太の年齢ですよ」とお民もそれをおまんに言って見せた。「そう言えば、あの遺族が牢屋に入れられていますと、そこへ牢屋の役人が耕雲斎以下の首を持って来まして、牢屋の外からその首を見せたと言いますよ。今は花見時だ、お前たちはこの花を見ろと、そう役人が言ったそうですよ」。「どういうつもりで、そんなことを言ったものかいなあ。」とおまんも半蔵夫婦の顔を見比べながら、「遺族にお別れをさせるつもりだったのか、それとも辱じしめるつもりだったのか」。「実にけしからん、無情な事をしたものだッて、そう言わないものはありませんよ」。武田、山国、田丸らが遺族の男の子は死罪に、女の子は永牢を命ぜられた。そのうち、永牢を申し渡されたものの名は次のように出ていた。 武田伊賀娘
よし
十一歳
同妾
むめ
十八歳
武田彦右衛門妻
いく
四十三歳
山国兵部妻
なつ
五十歳
同娘
ちい
三十歳
山国淳一郎娘
みよ
十一歳
同娘
ゆき
七歳
同娘
くに
五歳
田丸稲右衛門娘
まつ
十九歳
同娘
むめ
十歳
おまんは言った。「半蔵、あのお父さんがこれを見たら、なんと言うだろうね。こないだも裏の隠居所の方で何を言い出すかと思ったら、あゝあゝ、おれも六十七の歳まで生きて、この世の末を見過ぎたわいとさ」。 |
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四 | |
参覲交代制度の復活が幕府の期待を裏切ったことは、諸藩の人心がすでに幕府を去ったことを示した。すこしく当時の形勢を注意して見るものは諸藩が各自に発展の道を講じはじめたことを見いだす。海運業のにわかな発達、船舶の増加、学生の海外留学なぞは皆その結果で、その他あるいは兵制に、あるいは物産に、後日のために計るものはいずれもまず力をその藩に尽くしはじめた。 中国の大藩、御三家の一つなる尾州ですらこの例にもれない。そのことは尾州家の領地なる木曾地方にもあらわれて、一層の注意が森林の保護と良材の運輸とに向けられ、塩の買〆も行なわれ、御嶽山麓に産する薬種の専売は同藩が財源の一つと数えられた。人参の栽培は木曾地方をはじめ、伊那、松本辺から、佐久の岩村田、小県の上田、水内の飯山あたりまでさかんに奨励され、それを尾州藩で一手に買い上げた。尾州家の御用という提灯をふりかざし、尾州御薬園御用の旗を立てて、いわゆる尾張薬種の荷が木曾の奥筋から馬籠へと運ばれて来る光景は、ちょっと他の街道に見られない図だ。 五月にはいって、半蔵は木曾福島の地方御役所から呼ばれた用向きを済まし、同行した宿方のものと一緒に馬籠へ帰って来た。その用向きは、前年十二月に尾州藩から仰せ出された献金の件で、ようやくその年の五月に福島へ行って献納の手続きを済まして来たところであった。献金の用途とはほかでもない。尾州の御隠居を征討総督にする最初の長州征伐についてである。最初、長州征伐のことが起こった時、あれは半蔵が木曾下四宿の総代として江戸に出ていたころで、尾州藩では木曾谷中三十三か村の庄屋あてに御隠居の直書になる依頼状を送ってよこした。それには、今般長州征伐の件で格別の台命をこうむり病中を押して上京することになった、その上で西国筋へ出陣にも及ばねばならないということから始めて、この容易ならぬ用途はさらに見当もつかないほど莫大なことであると書いてあり、従来不如意な勝手元でほかに借財の途もほとんど絶えている、この上は領民において入費を引き受けてくれるよりほかにない、これは木曾地方の領民にのみ負担させるわけでもない、もとよりこれまで追い追いと調達を依頼し実に気の毒な次第ではあるが、尋常ならぬ時勢をとくと会得して今般の費用を調えるよう、よくよく各村民へ言い聞かせてもらいたいとの意味が書いてあった。 この御隠居の依頼状に添えて、尾州家の年寄衆からも別に一通の回状を送ってよこした。それもやはり領民へ献金依頼のことを書いたもので、御隠居が直書をもって仰せ出されるほどこの非常時の入費については心配しておらるる次第である、方今の形勢は上下一致の力に待つのほかはない、領民一同報国の至誠を励むべき時節に差し迫ったと書いてあり、これまでとても追い追いと御為筋を取り計らってもらった上で、今また右のような用途を引き受けるよう仰せ出されるのは深く気の毒な次第であるが、余儀なき御趣意を恐察して一同御国威のためと心得るようとの意味が書いてあった。 当時、木曾福島の代官山村氏は各庄屋を鎗の間に呼び集めた。三役所の役人立ち会いの上で、名古屋からの二通の回状を庄屋たちに示し、なおその趣意を徹底させるため代官自身に認めたものをも読み聞かせ、正月十五日までに各自めいめいの献納高を書付にして調べて出すように、とのことであったのだ。半蔵が福島の役所へ持参したのは、その年の五月までかかってどうにかこの献金を取りまとめたものだ。それでも木曾谷全体では、二十二か村の在方で三百十四両の余をつくり、十一宿で三百両をつくり、都合六百十四両の余を献納することができた。そして馬籠の宿方から山口、湯舟沢の近村まで、これで一同ようやく重荷をおろすこともできようと考えながら、彼は宿役人の集まる馬籠の会所まで帰って来て見た。「また、長州征伐だそうですよ」。隣家の年寄役伊之助がそのことを半蔵にささやいた。「半蔵さん、今度は公方様の御進発だそうですよ」とまた伊之助が言って見せた。「わたしもそのうわさは聞いて来ました。いよいよ事実でしょうか。まったく、これじゃ地方の人民は息がつけませんね」と言って半蔵は嘆息した。 街道も多忙な時であった。なんとなく雲行きの急なことを思わせるような公儀の役人衆の通行が続きに続いた。時には、三挺の早駕籠が京都方面から急いで来た。そのあとには江戸行きの長持が暮れ合いから夜の五つ時過ぎまでも続いた。 長防再征の触れ書が馬籠の中央にある高札場に掲げられるようになったのも、それから間もなくであった。江戸から西の沿道諸駅へはすでに一貫目ずつの秣と、百石ずつの糠と、十二石ずつの大豆を備えよとの布告が出た。普請役、および小人目付は長防征討のために人馬の伝令休泊等の任務を命ぜられ、西の山陽道方面ではそのために助郷の課役を免ぜられた。 |
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この将軍の進発には諸藩でも異論を唱えるものが続出した。越前家でも備前家でも黙ってみている場合でないとして、不賛成を意味する建白書を幕府に提出した。それを約めて言えば、旧冬尾州の御隠居を総督として長州兵が京都包囲の責めを問うた時、長州藩でもその罪に伏し、罪魁の老臣と参謀の家臣らを処刑して謹慎の意を表したことで、この上は大膳父子をはじめ長防二州の処置を適当に裁決あることと心得ていたところ、またまた将軍の進発と聞いては天下の人心は愕然たるのほかはないというにある。幸いに最初の長州征伐は戦争にも及ばずに済み、朝野ともようやく安堵の思いをしたところ、またまた大兵を動かすとあっては諸大名の困窮、万民の怨嗟はまことに一方ならないことで、この上どんな不測な変が生じないとも計りがたいというにある。軽々しく事を挙げるのは慎まねばならない、天下の乱階となることは畏れねばならない、今度仰せ出されたところによると大膳父子に悔悟の様子もなくその上に容易ならぬ企てが台聴に達したとあるが、もし父子の譴責が厳重に過ぎて一同死守の勢いにもならば実に容易ならぬ事柄だというにある。当今は人心沸騰の時勢、何事も叡慮を伺った上でないと朝廷の思し召しはもとより長防鎮庄の運命もどうなることであろうか、今般の征伐はしばらく猶予され、大小の侯伯の声に聞いて国是を立てられたい、長州一藩のゆえをもって皇国擾乱の緒を開くようではいったんの盛挙もかえって後日の害となるべきかと深く憂慮されるというにある。 しかし、幕府ではこれらの建白に耳を傾けようとしなかった。細川のような徳川譜代と同様の感のあった大諸侯までが参覲交代の復旧を非難するとは幕府としては堪えられなかったことで、この際どんな無理をしても幕府の頽勢を盛り返し、自己にそむくものは討伐し、日光山大法会の余勢と水戸浪士三百五十余人を斬った権幕とで、年号まで慶応元年と改めた東照宮二百五十回忌を期とし、大いに回天の翼を張ろうとした。 事実、幕府では回天、回陽と命名せらるべき二隻の軍艦を造る準備最中の時でもあった。この二艦の名ほど当時の幕府の真相をよく語って見せているものもない。もう一度太陽のかがやきを見たいとは、東照宮の覇業を追想するものの願いであったのだ。再度の長州征伐は徳川全盛の昔を忘れかねる諸有司の強硬な主張から生まれた。これは長防の征討とは言うものの、その実、種々な目的をもって企てられた。四国外交団をあやなすこともその一つであった。ひそかに朝廷に結ぼうとする外藩をくじくこともその一つであった。飽くまでも公武合体の道を進もうとする一橋慶喜と会津との排斥も、あるいはその奥の奥には隠されてあったと言うものもある。 閏五月十六日、将軍はついに征長のために進発した。往時東照宮が関ヶ原合戦の日に用いたという金扇の馬印はまた高くかかげられた。江戸在府の譜代の諸大名、陸軍奉行、歩兵奉行、騎兵頭、剣術と鎗術と砲術との諸師範役、大目付、勘定奉行、軍艦奉行なぞは供奉の列の中にあった。その盛んな軍装をみたものは幕府の威信がまだ全く地に墜ちないことを感じたという。江戸の町人で三万両から一万両までの御用金を命ぜられたものが二十人もあり、全国の寺社までが国恩のために上納金を願い出ることを説諭された。幕府がこの進発の入用のために立てた一か月分の予算は十七万四千二百両の余であった。当時幕府には二つの宝蔵があって、富士見にあるを内蔵ととなえ、蓮池にあるを外蔵ととなえたが、そのうち内蔵にあった一千万両の古金をあげてこの進発の入用にあてたというのを見ても、いかに大がかりな計画であったかがわかる。 同じ月の二十二、三日には将軍はすでに京都に着き、二十五日には大坂城にはいった。伝うるところによると、前年尾州の御隠居が総督として芸州まで進まれた時は実に長州に向かって開戦する覚悟であった、それにひきかえて今度の進発は初めから戦わない覚悟である。いかに長州が強藩でも天下の敵に当たって戦うことはできまい、去年尾州殿の陣頭にさえ首を下げて服罪したくらいである、まして将軍家の進発と聞いたら驚き恐れて毛利父子が大坂に来たり謝罪して御処置を奉ずるのは、あだかも関ヶ原のあとで輝元一家が家康公におけるがごとくであろう。これは幕府方の閣老をはじめ幕軍一同の期待するところであったという。ところが再度の長防征討の企ては、備前家や越前家をはじめこの進発に不服な諸大名の憂慮したような死守の勢いにまで長州方を追いつめてしまった。 幕府方にはすでに砲刃矢石の間に相見る心が初めからない。金扇のかがやきは高くかかげられても、山陽道まで進もうとはしない。大軍が悠々と閑日月を送る地は豊臣氏の恩沢を慕うところの大坂である。ある人の言葉に、ほととぎすは啼いて天主台のほとりを過ぎ、五月の風は茅渟の浦端にとどまる征衣を吹いて、兵気も三伏の暑さに倦みはてた、とある。過ぐる文久年度の生麦事件以上ともいうべき外国関係の大きなつまずきが、この不安な時の空気の中に引き起こって来た。 安政五年の江戸条約が諸外国との間に結ばれてから、すでに足掛け八年になる。この条約によると、神奈川、長崎、函館の三港を開き、新潟の港をも開き、文久二年十二月になって江戸、大坂、兵庫を開くべき約束であった。文久年度の初めになって見ると、当時の排外熱は非常な高度に達して、なかなか江戸、大坂、兵庫のような肝要な地を開くべくもなかった。時の老中安藤対馬は新潟、兵庫、江戸、大坂の開港延期を外国公使らに提議し、輸入税の減率を報酬として、五か年間の延期を承諾させたのである。 過ぐる四年は、実にこの国が全くの未知数とも言うべきヨーロッパに向かって大切な窓々を開くべきか否かの瀬戸ぎわに立たせられた苦い試練の期間であった。下の関における長州藩が外国船の砲撃なぞもこの間に行なわれた。その代償として、幕府が三百万両からの背負い切れないほどの償金を負わせられたのも、当時に高い排外熱の結果にほかならない。最初この償金は長州藩より提出すべき四国公使の要求であったという。しかし同藩では朝廷と幕府の命令に基づいて砲撃したのであるから、これを幕府に求めるのが当然だと言い張り、四国公使もまた長州藩から出させることの困難を察して、幕府が大名の取り締まりを怠りその職責を尽くさなかったことの罪に帰した。この償金の無理なことは四国公使も承知していて、例の開港さえ決行したなら償金は要求しないとの意味をその際の取りきめ書に付け添えたくらいである。そういう公使らはとらえられるだけの機会をとらえて、条約の履行を幕府に促そうとした。四年の月日は早くも経過して慶応元年となったが、幕府にはさらに開港の準備をする様子もない。そこで下の関償金三分の二を免除する代わりに兵庫の先期開港を幕府に迫れと主張する英国の新公使パアクスのような人が出て来た。その強い主張によると、幕府は条約にそむくことの恐るべき結果を生ずる旨を朝廷に申し上げて、よろしく条約の勅許を仰ぐべきである。それでもなお勅許を得られないとあるなら、四国公使はもはや徳川将軍を相手としまい、直接に朝廷に向かって条約の履行を要求しようというにあった。英艦四隻、仏艦三隻、米艦一隻、蘭艦一隻、都合九隻の艦隊が連合して横浜から兵庫に入港したのは、その年の九月十六日のことであった。十七日には、そのうち三隻が大坂の天保山沖まで来て、七日を期して決答ありたいという各公使らの書翰を提出した。莫大な費用をかけて江戸から動いた幕府方は、国内の強藩を相手とする前に、より大きな勢力をもって海の外から迫って来たものを相手としなければならなかったのである。どうしてこれは長州征伐どころの話ではなかった。四国連合の艦隊を向こうに回しては、長州藩ですら敵し得なかったのみか、砲台は破壊され、市街は焼かれ、今すこしで占領の憂き目を見るところであったことは、下の関の戦いが実際にそれを証拠立てていた。 連合艦隊出動のことが江戸に聞こえると、江戸城の留守をあずかる大老や老中は捨て置くべき場合でないとして、昼夜兼行で大坂に赴きその交渉の役目に服すべき二人を任命した。山口駿河はその一人であったのだ。 |
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山口駿河は号を泉処という。当時外国奉行の首席である。函館奉行の組頭から監察(目付)に進んだ友人の喜多村瑞見とも親しい。この人が大坂へ出て行って、将軍にも面謁し、江戸の方にある大老や老中の意向を伝えたころは、当路の諸有司は皆途方に暮れている。将軍は西上して国内がすでに多端の際であるのに、この上、外国から逼られてはどうしたらいいかと言って、ほとんどなすべきところを知らないに近いようなものばかりだ。その時、駿河は改めて大目付兼外国奉行に任ずるよしの命をうけ、とりあえず外国船に行って一応の尋問をなし、二十三日には老中阿部豊後と共に翔鶴丸という船に乗って、兵庫にある英仏米蘭四国公使に面接した。阿部老中はこれくらいのことが大事件かという顔つきの人で、万事ひとりのみ込みに開港事件を担任して、決答の日限を来たる二十九日まで延期するという約束で帰った。時に大坂へは切迫した形勢を案じ顔な京都守衛の会津藩士が続々と下って来た。駿河らをつかまえて言うには、各国公使は軍艦を率いて来て、開港を要求している、これはいわゆる城下の盟であって、これほど大きな恥辱はない、もし万一ますます乱暴をきわめて上京でもする様子があったら弊藩は一同死力を尽くして拒もう、淀鳥羽から上は一歩も踏ませまい、いささかもその辺に掛念なく押し切って充分の談判を願いたいと。同時に、薩摩藩の大久保市蔵からも幕府への建言があって、これは人心の向背にもかかわり、莫大な後難もこの一挙にある、公使らの意見にのみ動かされぬよう至急諸侯を召してその建言をきかれたい、そのために日数がかかって万一先方から軽はずみな振る舞いに出るようなことがあったら、ただいま弊邸は人少なではあるが、かねがね修理太夫大隅守の申し付けて置いた趣もあるから、その際は先鋒を承って死力を尽くしたいと申し出た。 十月にはいって、阿部豊後、松前伊豆両閣老免職の御沙汰が突然京都から伝えられた。京都伝奏からのその来書によると、叡慮により官位を召し上げられ、かつ国元へ謹慎を命ずるとあって、関白がその御沙汰をうけたと認めてある。大坂城中のものは皆顔色を失い、びっくり仰天して叡慮のいずれにあるやを知らない。将軍家茂も大いに驚いて、尾州紀州の両公をはじめ老中、若年寄から、大目付、勘定奉行、目付の諸役を御用部屋(内閣)に呼び集め、いわゆる御前会議を開いた。にわかな大評定があった。この外国関係の危機にあたり、その事を担当する二人の閣老の官位を召し上げ、かつ謹慎を命ずるとは何か。朝廷は四国公使との交渉に何の相談もない幕府の専断を強くとがめられたのである。しかも、老中をば朝廷より免職するというは全く前例のないことであった。いろいろな議論が出て、一座は鼎の沸くがごとくである。その時、山口駿河は監察(目付)の向山栄五郎(黄村)と共に進み出て、将軍が臣下のことは黜陟褒貶共に将軍の手にあるべきものと存ずる、しかるに、今朝廷からこの指令のあるのは将軍の権を奪うにもひとしい、将権がひとたび奪われたら天下の政事はなしがたい、ただいま内外多端の際に喙を容れてその主任の人を廃するのは将軍をして職掌を尽くさしめないのである、上は帝の知遇を辱かしめ下は万民の希望にそむき祖先へ対しても実に面目ない次第だ、すみやかに大任を解き関東へ帰駿あって、すこしも未練がましくない衷情を表されるこそしかるべきだと申し上げた。これにはだれも服さない。激しい声は席に満ちて来た。その時の家茂の言葉に、両人ともよく言った、その意見は至極自分の意に適った、自分は弱年の身でこの大任を受け継いだとは言うものの、不幸にして内外多事な時にあたり、禍乱はしずめ得ず、人心は統御し得ず今また半途にして股肱の臣までも罷めさせられることになった、畢竟これは不才のいたすところで、所詮自分の力で太平を保つことはおぼつかない。いさぎよく位を避けて隠退しよう、一橋慶喜をあげて朝廷の命をきこう、ついては謹んで叡旨を奉じ豊後伊豆両人の登城は差し止めるがいい、それを言って将軍が奥へはいった時は、すすり泣く諸臣の声がそこにもここにも起こった。 実に、徳川氏の運命は驚かれるほどの勢いをもってこの時に急転した。間もなく将軍の辞職となった。上疏の草稿は向山栄五郎が作った。年若な将軍はまだようやく二十歳にしかならない。その上疏も栄五郎の書いたのを透き写しにされ、親ら署名して、それを尾州公(徳川茂徳、当時玄同と改名)に託された。なお、その上疏には諸有司相談の上で、一通の別紙を添え、開港のやみがたいことを述べ、征夷大将軍の職を賭けても勅許を争おうとする幕府の目的を明らかにした。 |
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しかし、その時になって見ると、幕府内の心あるものは決して党争のために水戸を笑えなかった。幕府の老中らはその専断で外人の圧迫を免れようとする日にあたり、慶喜は飽くまで公武一和の道を守り、勅命を仰ぐの必要を主張し、断然として幕府を制える態度に出たからである。かつて安政大獄を引き起こしたほどの幕府内部の暗闘――神奈川条約調印の是非と、徳川世子の継嗣問題とにからんであらわれたそれらの根深い党争は、長くその時まで続いて来た。慶喜の野心を疑う老中らは、ほとんど水戸の野心を疑う安政当時の紀州慶福擁立者たちに異ならなかった。老中らは慶喜の態度をもって、ことさらに幕府をくるしめるものとした。日ごろの慶喜排斥の声がその時ほど深刻な形をとってあらわれて来たこともなかった。幕府は老中罷免に対する反抗の意志を上疏の手段に表白したばかりでなく、その鋒先を「永々在京、事務にも通じた」というところの慶喜に向けた。そして、将軍家茂に勧めて、慶喜に政務を譲りたい旨、諸事家茂の時のように御委任ありたい旨、その御沙汰を慶喜へ賜わるように朝廷に願い出た。 将軍はすでに伏見に移った。大坂城を去る日、扈従の面々が始めて将軍帰東の命をうけた時は皆おどろいて顔色を失い、相顧みて言葉を出すものもない。その時、講武所生徒の銃隊長と同じ刀鎗隊長とが相談の上、各隊の頭取を集めて演説し、銃隊は先発のことに、刀鎗隊は将軍警備のことに心得よと伝えたところ、銃隊は早速その命令に服したが、刀鎗隊はなかなか服従しないで各自の意見を述べるなど、一時は悲壮な混雑の光景を呈した。その中には一言も発しないで、涙をのみながら始終謹んで命をきいていた隊士もあったという。 一橋慶喜はこの事を聞いて尾州公を語らい、会津、桑名の両侯をも同道して、伏見にある奉行の館に急いだ。将軍に面謁して、その決意をひるがえさせることを努めた。上疏を奉ったのみで、直ちに帰東せらるるはよろしくない、しかも帝と将軍とは義理ある御兄弟の間柄でもある、必ず京都へ上られて親しく事情を奏聞の後でなければ敬意を欠く、ぜひともしばらく思いとどまって進退完全の処置なくてはかなわぬ場合である、慶喜らはそれを言って、固く執ってやまなかった。この辞職譲位は幕府の老中らも心から願っていることではもとよりない。とうとう、将軍は伏見から京都へと引き返し、二条城にはいって、慶喜をして種々代奏せしめた。その時、監察の向山栄五郎も、上疏の草稿が彼の手に成ったというかどで深く朝廷から憎まれたと見え、それとなく忌避の御沙汰があった。三日を出ないうちに、これも職を奪われ、家に禁錮を命ぜられた。 これらの報知が江戸城へ伝えられた時の人々の驚きはなかったという。ことに天璋院、和宮様をはじめ、大奥にある婦人たちの嘆きは一通りでなかったとか。中には慟哭して、井戸に身を投げようとしたものがあり、自害しようとするものさえあったという。 慶応元年十月五日はこの国の歴史に記念すべき日である。一橋慶喜をはじめ、小笠原壱岐守、松平越中守、松平肥後守が連署して、外国条約の勅許を奏請したのも、その日である。その前夜には、この大きな問題について意見を求めるために、諸藩の藩士が御所に召された。三十六人のものがそのために十五藩から選ばれた。三人は薩摩から、三人は肥後から、三人は備前から、四人は土佐から、二人は久留米から、一人は因州から、一人は福岡から、一人は金沢から、一人は柳川から、二人は津から、一人は福井から、一人は佐賀から、一人は広島から、五人は桑名から、それに七人は会津から。徳川将軍の進退と外国条約の問題とが諸藩の藩主でなしに、その重立った家来によって議せらるるようになったとは、そこにも時勢の推し移りを語っていた。井伊大老の時代以来、幾たびか幕府で懇請して許されなかった条約も、朝廷としては四国の力を合わせた黒船に直面し、幕府としては将軍の職を賭けるところまで行って、ようやくその許しが出た。長い鎖国の解かれる日も近づいた。 山口駿河は大坂にいた。その時は将軍も大坂城を発したあとで、そこにとどまるものはただ老中の松平伯耆と城代牧野越中とがある。その他は町奉行、および武官の番頭ばかりだ。駿河は外国応接の用務のためにそこに残っていたが、相談相手とすべき人もなく、いたずらに大坂と兵庫の間を往復して各公使を言いなだめていた。彼はまだ京都からの決答も聞かず、老中阿部が退職の後はだれが外交の担任であるやも知らなかったくらいだ。 十月六日のこと。駿河は心配のあまり、監察の赤松左京とも相談の上で、京都へ行って様子をさぐろうとした。暁に発って淀川をさかのぼり、淀の駅まで行った。そこいらの茶店ではまだ戸が閉まっている。それをたたき起こして、酒をもとめ、粥を炊かせなぞして、しばらくそこにからだを温めていると、騎馬で急いで来る別手組のものにあった。京都からの使者として、松浦という目付役が勅諚を持参したのだ。その時、はじめて駿河は外国条約の勅許が出たことを知り、前の夜に禁中では大評定のあったことをも知った。多くの公卿たちの中には今だに鎖港攘夷を主張するものもあったが、ようやくのことで意見の一致を見たとの話も出た。なお、詳細のことは老中松平伯耆から外国公使へ談判に及べとの話も出た。その勅書には条約は確かにお許しになったから適当の処置をするがいいとはあっても、これまでの条約面には不都合なかどもあるから、新たに取り調べて、諸藩衆議の上でお取りきめに相成るべき事との御沙汰である。「兵庫港の儀は止められ候事」ともある。駿河は驚いて、使者の松浦を見た。この勅書には外国公使は決して満足しまい、必ず推して京都に上り彼らの目的を貫かずには置くまい、もしそんな場合にでも立ちいたったら、談判はさておき、殺気立った会津藩士らが何をしでかさないとも限らない、のみならず応接の主任が松平伯耆ではこの事のまとまる見込みがない、もっと外交の事務に通じた人物がありながらこんな取り計らいはいかにも心得がたい、それを駿河が言い出すと、相手の松浦は迷惑がって、自分はただ使いに来たものである、君の議論を聞きに来たものではないと。これには駿河も笑い出した。早速これから大坂へ引き返そう、時間があらば兵庫まで行って見よう、なお、決答の期日を延ばすことはできないまでもなんとか尽力しよう、なるべくはこの談判主任として小笠原壱岐をわずらわしたい、その約束で松浦に別れた。彼はその足で大坂へ帰るために、別手組の馬をも借りることにした。 その日の午後には、駿河は監察赤松左京を伴い天保山沖に碇泊する順動丸に乗り移った。兵庫行きを急ぐ彼は船長を催促して、さかんに石炭を焚かせた。その時、川口の方面から船印の旗を立てて進んで来る一艘の川船が彼の目に映った。彼はその船の赤い色で長官を乗せて来たことを知った。近づいて見ると、彼が心待ちにした小笠原壱岐ではなくて、松平伯耆であった。この人は温厚淡泊な君子ではあるが、外国応接の事件を担当すべき人柄でない。これは、と思っている彼の方へその赤い川船はこぎ寄せて来た。間もなく松平伯耆は順動丸に乗り移った。その時の老中の言葉に、京都からの急命で各国公使へ勅諚の趣を達しにやって来た、万事はよろしく君らの方で談判ありたいとのきわめてあっさりとした挨拶だ。なんら苦慮の様子もないには、駿河も左京と顔を見合わせた。 そこへ大きな外国船だ。やがて一人の西洋人を乗せたボオトが親船からこぎ離れて、波に揺られながらこちらを望んで近づいて来た。英国書記官アレキサンドル・シイボルトが兵庫からの使者として催促にやって来たのだ。シイボルトは約束の期日の来たことを告げ、日本執政の来るのを待ちあぐんだことを告げ、各国の船艦は蒸汽を焚いてここに来る準備をしているところだと告げた。順動丸が兵庫に近づくと、そこにはまた仏国書記官メルメット・カションが日本執政の来港を待ちわびていた。談判はまず英船内で開始された。初対面のこととて、駿河が姓名職掌を紹介すると、英国公使パアクスは不審を打って松平老中に言った。「本日は約束の期日であるのに、阿部豊後はどうして見えないのか」。「阿部豊後でござるか。先日職を罷められたによって」。「小笠原壱岐はどうしたか」。「これは病気でござるで」。「松平周防は」。「はて、松平周防は機務に多忙で、なかなかこの席へはお越しになれない」。 それを聞くと、公使は冷笑して、結局の談判に旧識の人たちは皆来ない、初対面の貴下が来臨あるとははなはだその意を得ないと言い出す。松平伯耆はそんなことに頓着なしで、右手に勅書をささげて、公使の前でそれを読み上げた。その時、書記官シイボルトがそばにいて、勅書の字句を駿河に質問し、それを一々公使に通じた。パアクスはたちまち顔色を火のように変え、拳を揚げて卓をたたくやら、椅子を離れて大股に歩き回るやらしたあとで、口から沫を飛ばして言うことには、条約許容とは何事であるか、大英国と日本とは前年すでに結んだのを知らないのか、兵庫開港をやめるとは条約にそむく、勅書と言って貴重にされるからは徳川将軍よりもさらに権の重い者である、しからば直ちにその権の重い者について談判するであろう、もはや貴下らと談判する必要がない、すみやかに日本の国権を有するところへ案内せられよ、かつまた真に日本皇帝の書であるならその印璽が押してなければならない、それさえない一片の紙をどうして外国のものが信ずることができるか、君らは自分を瞞着するために来たのであろう、自分はこれから艦長に言い付けてすぐさま京都に行くであろう、貴下らはよろしく同行するがよいと。 何を言われても泰然と構え込んで苦笑いしている松平伯耆と、パアクスとがそれに対い合っていた。それにこの二人は言葉も通じない。鼻息の荒いパアクスはもはや幕府の外交手段に欺かれないという顔つきで、今にもその勅書を引き裂きそうにするので、駿河はあわてて公使を押し止め、にわかに兵庫の港を開きがたいこの国の事情を述べ、この勅書は元来天皇から将軍に授けられたので君らへそのまま示すべき性質のものでないが、それをありのまま示すのは懇信の意を表するからであると言って、印璽のない場合に旧例のあることをも説明した。もはや日暮れにも近い、仏国公使も待っていることだろうから、同公使の意見をも聞いた上で、また貴艦を訪ねようと言い添えると、パアクスもやや気色を和らげた。そこで一行は英国公使らにわかれて、フランス船の方へ行った。 仏国公使ロセスと駿河とはすでに江戸の方で幾たびか相往来している間柄である。横須賀造船所の経営に、陸軍の伝習に、フランス語学所の開設に、海外留学生の派遣に、ロセスが幕府に忠告したり種々な助力を与えたりしたことは一度や二度にとどまらない。それに、書記官のメルメット・カションが以前函館の方にあったころ、函館奉行津田近江の世話により駿河の友人喜多村瑞見から邦語を伝えられたという縁故もあって、駿河の方でも応対に心やすい。この公使と書記官とが駿河らから英国側の態度をきき取った時は、さすがに少しも驚かなかった。ただフランス人の癖らしく両手をひろげて、肩をゆすって見せたばかりだ。 のみならず、ロセスはせっかく勅書まで持参した幕府側の苦心を知るだけの思いやりもあって、この際どうすればいいかという方法まで松平老中に教えた。それには、老中連名の書面をすみやかに渡してもらいたい。その文意はカションの通訳で大体駿河からきいたように、国事多端の際であるからこの地では事を尽くせない、兵庫開港の事も将軍においては承諾している、これらはことごとく江戸にある水野和泉守に任すべきゆえ、すみやかに江戸において談判せられよ、京都の皇帝へは外国事情をよく告げ置くであろうとの趣に認めてもらいたい。自分はその書面を証拠として、今夜各国公使へ説諭し、明日はすみやかに退帆するように取り計らうことにする。そうすれば目下の急を救うこともできよう。これが仏国公使の意見であった。「さて、これはどうしたものであろう。拙者一人ならすぐにもこの書面は認められる。同僚連署ということであれば、一応その人たちに相談した上でないと渡されない。はて、困ったことになったわい」。松平伯耆は順動丸に帰ってからそれを言った。夜はすでに八つ時を過ぎた。それから京都に往復して相談なぞをしていると、翌日の間に合わない。一行にとってこれは見のがせない機会でもあった。もし翌日になって、各国の船艦が大坂まで動き、淀川をさかのぼって京都に行くようなことが起こったら、人心も動揺する憂いがあった。駿河はそのことを松平伯耆に言って、今は一刻もむなしく過せない、仏国公使の厚意をむなしくしたらあとになって臍をかんでも追いつかない、これは大事の前の小事である、老中連署が不承知とあれば御一存で処置せられたい、付き添いの任はまっぴら御免をこうむると述べた。松平老中もしかたなしに、然らば好きように取り計らえ、後日同僚に不平があっても自分の罪ではないと言う。駿河は甘んじてその責めを受けた。書面は同行の祐筆が認めた。老中松平伯耆守、同じく松平周防守、同じく小笠原壱岐守の名が書かれた。みんなが暗記する花押までその紙の上に記された。この老中連署の書面が仏国公使の手を通して、英船へも、米蘭両船へも持ち運ばれたころは、夜も深かった。駿河がひとり仏国船に出かけて行ってその返事を待っていると、やがてそこにロセスがやって来て、「トレ、ビヤン――トレ、ビヤン」と述べる。意は、万事満足な結果に終了したとの意味を通わせたのだ。その時、公使は駿河と共に甲板の上に立って深夜の海上をながめながら、自分らの船は明日の夕刻を待って兵庫を発し、四国から九州海岸を経て、横浜へ帰るであろうと告げ、なおこのことを将軍に伝え、江戸の水野老中の尽力をも頼むと付け添えた。別れぎわに、ロセスは堅く堅く駿河の手を握った。 老中松平伯耆は帰りのおそい駿河を順動丸の方に待っていた。駿河がこの談判の結果をもたらした時にも、老中はまだ半信半疑でいた。「駿河、あすは必ず退帆いたすであろうか」。「それは御心配に及びません。あのロセスが保証しております。もはや御安心でございます」。「しからば、そちはここに逗留いたせ。各国の船が退帆するのを見届けた上で、京都の方へまいることにいたせ。大君さまへも老中一同へもよく申し上げるがいいぞ」。こんなことで、駿河はその夜のうちに大坂へ向けて帰って行く松平老中を見送った。陸へ上がってからの彼は、監察の左京と二人で兵庫の旅籠屋にいて、不安な時を送りつづけた。翌朝も二人で首を長くして各国船の出帆を待っていると、夜が明けないうちから諸藩の侍が続々と旅籠屋へ押しかけて来た。各国船がゆえなく退帆するのはどういう理由であるかの、前日松平伯耆が談判の模様はいかがであったの、ほとんどこの交渉を信じられないかのような詰問だ。各国船の退帆は約束の時よりおくれた。ようやく九日の朝になって、退去を告げる汽笛の音が各国の船から起こった。その音は兵庫開港の遠くないことを期するかのように、高く港の空に響き渡った。 |
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山口駿河が赤松左京と共に各国船退帆の報告をもって、兵庫から京都の二条城にたどり着いたころはもはや黄昏時に近い。例の御用部屋に行って老中に面謁し一切の顛末を述べようとすると、そこにはまた思いがけないことがこの駿河を待っていた。「駿河、そちは今少しで切腹を仰せ出されるところであったぞ」。上座にある慶喜が微笑を見せながらの挨拶だ。駿河が驚いてその理由を尋ねようとすると、老中小笠原壱岐は別室へ彼を招き、その前日あたりの京都での風聞によると彼が兵庫で勝手に勅書を変更し専断の応接をしたとのうわさが立ったと語り聞かせ、そのために各公使は異議なく退帆したが、彼の罪は大逆無道にも相当する、直ちに切腹を命ずるがいいと奏上するものがあって、朝廷でも今少しでそれをお許しになるところであったと語り聞かせた。しかし、将軍と一橋公とは、さすがにそんな軽はずみを戒められ、小笠原壱岐もまた親しく本人の言うことを聞き、松平伯耆の言うことも聞かなければ容易に当事者を罪すべきでないと陳述したという話もあった。ちょうど松平伯耆からの来状を得て、ほぼ談判の模様も知れたから、もはや深く憂いるにも及ぶまいとの話もあった。「しかし、御同列のお名前を拝借いたしまして、連署で書面を送りましたことは、専断と申されても一言もございません。こればかりは恐縮に存じます」 と言って駿河はそこへ手をついた。臨機の処置を執るまでの談判の模様をも語った。「いや危急の場合だ。それくらいの事を決断するのは至極もっともな話だ」。 小笠原老中は同情のある語気でそれを言った。さらに声を低くして、駿河が京都に滞在するのははなはだ危ない、早速今晩にも去るがいい、江戸の方へ行って閉門謹慎するがいい、あとの事は自分がこの地においてなんとか取り繕おう、周旋もしようと言い聞かせた。この小笠原老中の言葉にやや安心して、駿河はそこをすべり出た。監察向山栄五郎のことが彼の胸に浮かんだ。せめて栄五郎だけにはあい、今度の事から後日の処置を話して行きたいと思って、そばにいる人に尋ねると、栄五郎は過ぐる日すでに罪を得て旅籠屋に閉居する身であるとの返事であった。夕闇が迫って来た。城内の廊下も薄暗い。その時、蓬髪で急ぎ足に向こうから廊下を踏んで来るものがある。その人こそ軍艦奉行、兼外務取り扱いとして、江戸から駆けつけて来た彼の友人だ。監察の喜多村瑞見だ。駿河は友人を物の陰に招いたが、こまかい話なぞする時がない。ただ、時事はまたいかんともしようがない、友人が自分に代わって努力してくれるように、とのわずかなことだけが言えた。「あとの事はよろしく頼む」。その言葉を瑞見に残して置いて、そこそこに駿河は二条城を出た。彼は大坂からその城に移って来ている知人らに別れを告げる暇をすら持たなかった。 |
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五 | |
京都から大津経由で木曾街道を下って来て、馬籠本陣の前で馬を停めた一人の旅人がある。合羽に身をつつんだ二人の家来と、そこへ来て荷をおろす供の男をも連れている。この旅人は旧暦九月の半ばに昼夜兼行で江戸を発つから、十月半ばに近くの木曾路の西のはずれにたどり着くまで、ほとんど歩きづめに歩き、働きづめに働いて、休息することを知らなかったような人である。薄暗い空気に包まれていた洛中の風物をあとに見て、ようやく危険区域からも脱出し、大津の宿から五十四里も離れた馬籠峠の上までやって来て、心から深いため息のつける場所をその山家に見つけたような人である。この旅人が山口駿河だ。泊まりの客人と聞いて、本陣では清助が表玄関の広い板の間に出て迎えた。客人は皆くたびれてその玄関先に着いた。笠を脱ぎ、草鞋を脱ぐ客人の手つきを見たばかりでも、清助にはどういう人たちの微行であるかがすぐに読めた。「ちょうど、よいお部屋があいております。ただいま主人は福島の方へ出張しておりますが、もう追ッつけ帰って見えるころです。こんな山の中で、なんにもおかまいはできません。どうぞごゆっくりとなすってください」と清助は言って、主な客人を一番奥の方の上段の間へ案内した。二人の家来には次ぎの奥の間を、供の男には表玄関に近い部屋をあてがった。 木曾では鳥屋の小鳥も捕れ、茸の種類も多くあるころで、旅人をもてなすには最もよい季節を迎えていた。清助は奥の部屋と囲炉裏ばたの間を往ったり来たりして、二人の下女を相手に働いているお民のそばへ来てからも、風呂の用意から夕飯として出す客膳の献立まで相談する。お平には新芋に黄な柚子を添え、椀はしめじ茸と豆腐の露にすることから、いくら山家でも花玉子に鮹ぐらいは皿に盛り、それに木曾名物の鶫の二羽も焼いて出すことまで、その辺は清助も心得たものだ。お民のそばにいる二人の子供はまためずらしい客でもあるごとに着物を着かえさせられるのを楽しみにした。その中でも、姉のお粂はすでに十歳にもなる。奥の方で客の呼ぶ声でもすると、耳さとくそれをききつけて、清助や下女に知らせるのもこの娘だ。「お手が鳴りますよ」。本陣ではこの調子だ。その夕方に、半蔵は木曾福島の役所から呼ばれた用を済まし、野尻泊まりで村へ帰って来た。家に泊まり客のあることも彼はその時に知った。諸大名や諸公役が通行のたびに休泊の室にあててある奥の上段の間には、幕府の大目付で外交奉行を兼ねた人が微行の姿でやって来ていて、山家の酒をあつらえるなぞの旅らしい時を送っていることをも知った。 翌朝になって見ると、客人はなかなか起きない。暁から降り出した雨が客人のからだから疲労を引き出したかして、ようやく昼近くなって、上段の間の雨戸を繰らせる音がする。家来の衆までがっかりした顔つきで、雨を冒しても予定の宿へ出発するような様子がない。半蔵が挨拶に行って見たころは、駿河は上段の間から薄縁の敷いてある廊下に出て、部屋の柱に倚りかかりながら坪庭へ来る雨を見ていた。石を載せた板屋根、色づいた葉の残った柿の梢なぞの木曾路らしいものは、その北側の廊下の位置からは望まれないまでも、たましいを落ち着けるによいような奥まった静かさはその部屋の内にも外にもある。「だいぶごゆっくりでございますな。今日は御逗留のおつもりでいらっしゃいますか」。「そう願いましょう。きょうは一日休ませてもらいましょう。江戸へと思って急いでは来ましたが、ここまで来て見たら、ひどく疲れが出ましたよ。このお天気じゃ出かける気にもなれません。しかし、木曾へはいって雨に降りこめられるのも悪くありませんね」。「ことしは雨の多い年でして、閏の五月あたりから毎日よく降りました。当年のように強雨の来たことは古老も覚えがない、そんなことを申しまして、一時はかなり心配したくらいでした。川留め、川留めで、旅のかたが御逗留になることは、この地方ではめずらしいことでもございません」。 午後にも半蔵はこの客人を見に来た。雨の日の薄暗い光線は、その白地に黒く雲形を織り出した高麗縁の畳の上にさして来ている。そこは彦根の城主井伊掃部頭も近江から江戸への往き還りに必ずからだを休め、監察の岩瀬肥後も神奈川条約上奏のために寝泊まりして行った部屋である。この半蔵の話が、外交条約のことに縁故の深い駿河の心をひいた。「御主人はまだお聞きにもなりますまいが、いよいよ条約も朝廷からお許しが出ましたよ。長い間の条約の大争いも一段落を告げる時が来ました。井伊大老や岩瀬肥後なぞの骨折りも、決してむだにはならなかった。そう思って、わたしたちは自分を慰めますよ。やかましい攘夷の問題も今に全くなくなりましょう。この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもありますまい」。駿河はそれを半蔵に言って見せて、両手を後方に組み合わせながら、あちこちとその部屋の内を静かに歩き回った。あだかもそこの壁や柱にむかって話しかけでもするかのように…… 大目付で外国奉行を兼ねた人の口からもれて来たことは、何がなしに半蔵の胸に迫った。彼はまだ将軍辞職の真相も知らず、それを説き勧めた人が自分の目の前にいるとも知らず、ましてその人が閉門謹慎の日を送るために江戸へ行く途中にあるとは夢にも知らなかった。ただ、衰えた徳川の末の代に、どうかしてそれをささえられるだけささえようとしているような、こんな頼もしい人物も幕府方にあるかと想って見た。深い秋雨はなかなかやみそうもない。大目付に随いて来た家来の衆はいずれもひどく疲れが出たというふうで、部屋の片すみに高いびきだ。半蔵は清助を相手に村方の用事なぞを済まして置いて、また客人を上段の間に見に行こうとした。心にかかる京大坂の方の様子も聞きたくて、北側の廊下を回って行って見た。思いがけなくも、彼はその隠れた部屋の内に、激しくすすり泣く客人を見つけた。[#改頁] |
(私論.私見)