夜明け前第一部下の3

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


【島崎藤村/夜明け前第一部下の3、第十章】
 一
 和田峠の上には諏訪藩すわはんの斥候隊が集まった。藩士菅沼恩右衛門すがぬまおんえもん、同じく栗田市兵衛くりたいちべえ二人御取次御使番おとりつぎおつかいばんという格で伝令の任務を果たすため五人ずつの従者を引率して来ている。徒士目付かちめつけ三人、書役かきやく一人、歩兵斥候三人、おのおの一人ずつの小者を連れて集まって来ている。足軽小頭こがしら肝煎きもいりの率いる十九人の組もいる。その他には、新式の鉄砲を携えた二人の藩士も出張している。和田峠口の一隊はこれらの人数から編成されていて、それぞれ手分けをしながら斥候の任務にいていた。

 諏訪高島の城主諏訪
因幡守いなばのかみは幕府閣老の一人として江戸表の方にあったが、急使を高島城に送ってよこして部下のものに防禦の準備を命じ、自己の領地内に水戸浪士の素通りを許すまいとした。和田宿を経て下諏訪宿に通ずる木曾街道の一部は戦闘区域と定められた。峠の上にある東餅屋ひがしもちや、西餅屋に住む町民らは立ち退きを命ぜられた。

 こんなに周囲の事情が切迫する前、高島城の
御留守居おるすいは江戸屋敷からの早飛脚が持参した書面を受け取った。その書面は特に幕府から諏訪藩にあてたもので、水戸浪士西下のうわさを伝え、和田峠その他へ早速さっそく人数を出張させるようにとしてあった。右の峠の内には松本方面への抜けみちもあるから、時宜によっては松本藩からも応援すべき心得で、万事取り計らうようにと仰せ出されたとしてあった。さてまた、甲府からも応援の人数を差し出すよう申しまいるやも知れないから、そのつもりに出兵の手配りをして置いて、中仙道はもとより甲州方面のことは万事手抜かりのないようにと仰せ出されたともしてあった。

 このお達しが諏訪藩に届いた翌日には、江戸から表立ったお書付が諸藩へ一斉に伝達せられた。
武蔵むさし上野こうずけ下野しもつけ甲斐信濃の諸国に領地のある諸大名はもとより、相模さがみ遠江とおとうみ駿河するがの諸大名まで皆そのお書付を受けた。それはかなり厳重な内容のもので、筑波つくば辺に屯集とんしゅうした賊徒どものうち甲州路または中仙道方面へ多人数の脱走者が落ち行くやに相聞こえるから、すみやかに手はずして見かけ次第もらさずち取れという意味のことがしたためてあり、万一討ちもらしたら他領までも付け入って討ち取るように、それを等閑なおざりにしたらきっと御沙汰があるであろうという意味のことも書き添えてあった。同時に、幕府では三河尾張伊勢近江若狭飛騨伊賀越後に領地のある諸大名にまで別のお書付を回し、筑波辺の賊徒どものうちには所々へ散乱するやにも相聞こえるから、めいめいの領分はもとより、付近までも手はずをして置いて、怪しい者は見かけ次第すみやかにち取れと言いつけた。

 あの
みなとでの合戦以来、水戸の諸生党を応援した参政田沼玄蕃頭げんばのかみは追討総督として浪士らのあとを追って来た。幕府は一方に長州征伐の事に従いながら、大きな網を諸国に張って、一人残らず水府義士なるものを滅ぼし尽くそうとしていた。その時はまだ八十里も先から信じがたいような種々さまざまな風聞が諏訪藩へ伝わって来るころだ。高島城に留守居するものだれ一人として水戸浪士の来ることなぞをこころにかけるものもなかった。初めて浪士らが上州にはいったと聞いた時にも、真偽のほどは不確実ふたしかで、なお相去ること数十里の隔たりがあった。諏訪藩ではまだまだ心を許していた。その浪士らが信州にはいったと聞き、佐久さくへ来たと聞くようになると、急を知らせる使いの者がしきりに飛んで来る。にわかに城内では評定があった。あるものはまず甲州口をふさぐがいいと言った。あるものは水戸の精鋭を相手にすることを考え、はたして千余人からの同勢で押し寄せて来たら敵しうるはずもない、沿道の諸藩がとうとしないのは無理もない、これはよろしく城を守っていて浪士らの通り過ぎるままに任せるがいい、後方うしろから鉄砲でも撃ちかけて置けば公儀への御義理はそれで済む、そんなことも言った。しかし君侯は現に幕府の老中である、その諏訪藩として浪士らをそう放縦ほしいままにさせて置けないと言うものがあり、大げさの風評が当てになるものでもないと言うものがあって、軽々しい行動は慎もうという説が出た。そこへ諏訪藩では江戸屋敷からの急使を迎えた。その急使は家中でも重きを成す老臣で、幕府のきびしい命令をもたらして来た。やがて水戸浪士が望月もちづきまで到着したとの知らせがあって見ると、大砲十五門、騎馬武者百五十人、歩兵七百余、旌旗せいきから輜重駄馬しちょうだばまでがそれにかなっているとの風評には一藩のものは皆顔色を失ってしまった。その時、用人の塩原彦七しおばらひこしちが進み出て、浪士らは必ず和田峠を越して来るに相違ない。峠のうちの樋橋といはしというところは、谷川を前にし、後方うしろに丘陵を負い、昔時むかし諏訪頼重すわよりしげが古戦場でもある。高島城から三里ほどの距離にある。当方より進んでその嶮岨けんそな地勢にり、要所要所を固めてかかったなら、敵をち取ることができようと力説した。幸いなことには、幕府追討総督として大兵を率いる田沼玄蕃頭げんばのかみが浪士らのあとを追って来ることが確かめられた。諏訪藩の家老はじめ多くのものはそれを頼みにした。和田峠に水戸浪士を追いつめ、一方は田沼勢、一方は高島勢で双方から敵を挾撃する公儀の手はずであるということが何よりの力になった。一藩の態度は決した。さてこそ斥候隊の出動となったのである。元治げんじ元年十一月十九日のことで、峠の上へは朝から深い雨が来た。

 やがて和田方面へ偵察に出かけて行ったものは、また雨をついて峠の上に引き返して来る。いよいよ水戸浪士がその日の晩に
長窪ながくぼ和田両宿へ止宿のはずだという風聞が伝えられるころには、諏訪藩の物頭ものがしら矢島伝左衛門でんざえもんが九人の従者を引き連れ和田峠御境目おさかいめ詰方つめかたとして出張した。手明きの若党、鎗持やりもちの中間ちゅうげん草履取ぞうりとり、具足持ぐそくもち、高張持たかはりもちなぞ、なかなかものものしい。それにこの物頭ものがしらが馬の口を取る二人のうまやの者も随行して来た。「敵はもう近いと思わんけりゃなりません」。御使番おつかいばんは早馬で城へ注進に行くと言って、馬上からその言葉を残した。あとの人数にも早速さっそく出張するようにその言伝ことづてを御使番に頼んで置いて、物頭もまた乗馬で種々さまざまな打ち合わせに急いだ。遠い山々は隠れて見えないほどの大降りで、人も馬もぬれながら峠の上をったり来たりした。

 物頭はまず峠の内の
注連掛しめかけという場所を選び、一手限ひとてぎりにても防戦しうるようそこに防禦工事を施すことにした。その考えから、彼は人足の徴発を付近の村々に命じて置いた。小役人を連れて地利の見分にも行って来た。注連掛しめかけへは大木を並べ、士居どいを築き、鉄砲を備え、人数を伏せることにした。大平おおだいらから馬道下の嶮岨けんそな山の上には大木大石を集め、道路には大木を横たえ、急速には通行のできないようにして置いて、敵を間近に引き寄せてから、鉄砲で撃ち立て、大木大石を落としかけたら、たとえ多人数が押し寄せて来ても右の一手で何ほどか防ぎ止めることができよう、そのうちには追い追い味方の人数も出張するであろう、物頭はその用意のために雨中を奔走した。手を分けてそれぞれ下知げじを伝えた。それを済ましたころにはもう昼時刻だ。物頭が樋橋といはしまで峠を降りて昼飯をしたためていると、追い追いと人足も集まって来た。

 諏訪城への注進の御使番は間もなく引き返して来て、いよいよ人数の出張があることを告げた。そのうちに二十八人の番士と十九人の砲隊士の一隊が諏訪から到着した。別に二十九人の銃隊士の出張をも見た。大砲二百目
玉筒たまづつちょう、百目玉筒二挺、西洋流十一寸半も来た。その時、諏訪から出張した藩士が樋橋といはし上の砥沢口とざわぐちというところで防戦のことに城中の評議決定のむねを物頭に告げた。東餅屋、西餅屋は敵の足だまりとなる恐れもあるから、代官所へ申し渡してあるように両餅屋とも焼き払う、かけはしも取り払う、橋々は切り落とす、そんな話があって、一隊の兵と人足らは峠の上に向かった。

 ちょうど松本藩主
松平丹波守たんばのかみから派遣せられた三百五十人ばかりの兵は長窪ながくぼの陣地を退いて、東餅屋に集まっている時であった。もともと松本藩の出兵は追討総督田沼玄蕃頭げんばのかみの厳命を拒みかねたので、沿道警備のため長窪まで出陣したが、上田藩も松代藩まつしろはん小諸藩こもろはんも出兵しないのを知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言って、諏訪から繰り出す人数と一手になり防戦したいむね、重役をもって、諏訪方へ交渉に来た。諏訪方としては、これは思いがけない友軍を得たわけである。早速、物頭ものがしらは歓迎の意を表し、及ばずながら諏訪藩では先陣を承るであろうとの意味を松本方の重役にした。両餅屋焼き払いのこともすでに決定せられた。急げとばかり、東餅屋へは松本勢の手で火を掛け、西餅屋に控えていた諏訪方の兵は松本勢の通行が全部済むのを待って餅屋を焼き払った。

 物頭は
樋橋といはしにいた。五、六百人からの人足を指揮して、雨中の防禦工事を急いでいた。そこへ松本勢が追い追いと峠から到着した。物頭は樋橋下の民家を三軒ほど貸し渡して松本勢の宿泊にあてた。松本方の持参した大砲は百目玉筒二ちょう、小銃五十挺ほどだ。物頭の計らいで、松本方三百五十人への一度分の弁当、白米三俵、味噌みそたるけ物一樽、それに酒二樽を贈った。樋橋付近のとりでの防備、および配置なぞは、多くこの物頭の考案により、策戦のことは諏訪藩銃隊頭を命ぜられた用人塩原彦七の方略に出た。日がな一日降りしきる強雨の中で、蓑笠みのかさを着た数百人の人夫が山から大木をり出す音だけでも周囲に響き渡った。そこには砲座を定めて木の幹をたたむものがある。ここには土居を築き土俵を積んで胸壁を起こすものがある。下諏訪しもすわから運ぶ兵糧では間に合わないとあって、樋橋には役所も設けられ、き出しもそこで始まった。この工事は夜に入って松明たいまつの光で谷々を照らすまで続いた。垂木岩たるきいわかけはしも断絶せられ、落合橋おちあいばしも切って落とされた。村上の森のわきにあたる街道筋にはかがりいて、四、五人ずつの番士が交代でそこに見張りをした。
水戸浪士の西下  水戸浪士の西下が伝わると、沿道の住民の間にも非常な混乱を引き起こした。樋橋の山の神のとりでで浪士らをくい止める諏訪藩のおぼし召しではあるけれども、なにしろ相手はこれまで所々で数十度の実戦に臨み、場数を踏んでいる浪士らのことである、万一破れたらどうなろう。このことが沿道の住民に恐怖をいだかせるようになった。種々さまざまな風評は人の口から口へと伝わった。万一和田峠に破れたら、諏訪勢は樋橋村を焼き払うだろう、下諏訪へ退いて宿内をも焼き払うだろう、高島の方へは一歩も入れまいとして下諏訪で防戦するだろう、そんなことを言い触らすものがある。その「万一」がもし事実となるとすると、下原村は焼き払われるだろう、宿内のともの町、久保くぼ武居たけいあぶない、事急な時は高木大和町たかぎやまとちょうまでも焼き払い、浪士らの足だまりをなくして防ぐべき諏訪藩での御相談だなぞと、だれが言い出したともないような風評がひろがった。

 沿道の住民はこれには驚かされた。家財は言うまでもなく、戸障子まで取りはずして土蔵へ入れるものがある。土蔵のないものは最寄りの方へ預けると言って
背負しょい出すものがあり、近村まで持ち運ぶものがある。また、また、土蔵も残らず打ち破り家屋敷もことごとく焼きくずして浪士らの足だまりのないようにされるとの風聞が伝わった。それを聞いたものは皆大いに驚いて、一度土蔵にしまった大切な品物をまた持ち出し、穴を掘って土中に埋めるものもあれば、畑の方へ持ち出すものもある。何はともあれ、この雨天ではしのぎかねると言って、できるだけ衣類を背負しょうことに気のつくものもある。人々は互いにこの混乱のうずの中に立った。乱世もこんなであろうかとは、互いの目がそれを言った。付近の老若男女はその夜のうちに山の方へ逃げせ、そうでないものは畑に立ち退いて、そこに隠れた。
 伊賀守いがのかみとしての武田耕雲斎を主将に、水戸家の元町奉行ぶぎょう田丸稲右衛門を副将に、軍学に精通することにかけては他藩までその名を知られた元小姓頭取もとこしょうとうどり山国兵部やまぐにひょうぶを参謀にする水戸浪士の群れは、未明に和田宿を出発してこの街道を進んで来た。毎日の行程およそ四、五里。これは雑兵どもが足疲れをおそれての浪士らの動きであったが、その日ばかりは和田峠を越すだけにも上り三里の道を踏まねばならなかった。天気は晴れだ。朝の空には一点の雲もなかった。やがて浪士らは峠にかかった。八本の紅白の旗を押し立て、三段に別れた人数がまっ黒になってあとからあとからと峠を登った。両餅屋もちやはすでに焼き払われていて、その辺には一人の諏訪兵をも見なかった。先鋒隊香炉岩こうろいわに近づいたころ、騎馬で進んだものはまず山林の間に四発の銃声を聞いた。飛んで来る玉は一発も味方に当たらずに、木立ちの方へそれたり、大地に打ち入ったりしたが、その音で伏兵のあることが知れた。左手の山の上にも諏訪への合図の旗を振るものがあらわれた。

 
山間やまあいの道路には行く先に大木が横たえてある。それを乗り越え乗り越えして進もうとするもの、幾多の障害物を除こうとするもの、かけはしを繕おうとするもの、浪士側にとっては全軍のために道をあけるためにもかなりの時を費やした。間もなく香炉岩の上の山によじ登り、そこに白と紺とを染め交ぜにした一本の吹き流しを高くひるがえした味方のものがある。一方の山の上にも登って行って三本のあかい旗を押し立てるものが続いた。浪士の一隊は高い山上の位置から諏訪松本両勢の陣地を望み見るところまで達した。こんなに浪士側が迫って行く間に、一方諏訪勢はその時までも幕府の討伐隊を頼みにした。来る、来るという田沼勢が和田峠に近づく模様もない。もはや諏訪勢は松本勢と力を合わせ、敵として進んで来る浪士らを迎え撃つのほかはない。間もなく、峠の峰から一面に道を押しくだった浪士側は干草山ほしくさやまの位置まで迫った。そこは谷を隔てて諏訪勢の陣地と相距あいへだたること四、五町ばかりだ。両軍の衝突はまず浪士側から切った火蓋で開始された。山の上にも、谷口にも、砲声はわくように起こった。

 諏訪勢もよく防いだ。次第に浪士側は山の地勢を降り、
砥沢口とざわぐちから樋橋といはしの方へ諏訪勢を圧迫し、鯨波ときの声を揚げて進んだが、胸壁にる諏訪勢が砲火のために撃退せられた。諏訪松本両藩の兵は五段の備えを立て、右翼は砲隊を先にしやり隊をあとにした尋常の備えであったが、左翼は鎗隊を先にして、浪士側が突撃を試みるたびに吶喊とっかんし逆襲して来た。こんなふうにして追い返さるること三度。浪士側も進むことができなかった。その日の戦闘はひつじこくから始まって、日没に近いころに及んだが、敵味方の大小砲の打ち合いでまだ勝負はつかなかった。まぶしい夕日の反射を真面まともに受けて、鉄砲のねらいを定めるだけにも浪士側は不利の位置に立つようになった。それを見て一策を案じたのは参謀の山国兵部だ。彼は道案内者の言葉で探り知っていた地理を考え、右手の山の上へ百目砲を引き上げさせ、そちらの方に諏訪勢の注意を奪って置いて、五、六十人ばかりの一隊を深沢山ふかざわやまの峰に回らせた。この一隊は左手のかわを渡って、松本勢の陣地を側面から攻撃しうるような山の上の位置に出た。この奇計は松本方ばかりでなく諏訪方の不意をもついた。日はすでに山に入って松本勢も戦い疲れた。その時浪士の一人が山の上から放った銃丸は松本勢を指揮する大将に命中した。混乱はまずそこに起こった。勢いに乗じた浪士の一隊は小銃を連発しながら、直下の敵陣をめがけて山から乱れくだった。

 耕雲斎は
砥沢口とざわぐちまで進出した本陣にいた。それとばかり采配さいはいを振り、自ら陣太鼓を打ち鳴らして、最後の突撃に移った。あたりはもう暗い。諏訪方ではすでに浮き腰になるもの、後方の退路を危ぶむものが続出した。その時はまだまだ諏訪勢の陣は堅く、樋橋に踏みとどまって頑強がんきょうに抵抗を続けようとする部隊もあったが、くずれはじめた全軍の足並みをどうすることもできなかった。もはや松本方もさんざんに見えるというふうで、早く退こうとするものが続きに続いた。
 とうとう、田沼玄蕃頭げんばのかみは来なかった。合戦は諏訪松本両勢の敗退となった。にわかの火の手が天の一方に揚がった。諏訪方の放火だ。浪士らの足だまりをなくする意味で、彼らはその手段に出た。樋橋村の民家三軒に火を放って置いて退却し始めた。白昼のように明るく燃え上がる光の中で、諏訪方にはなおも踏みとどまろうとする勇者もあり、ただ一人元の陣地に引き返して来て二発の大砲を放つものさえあった。追撃の小競合こぜりあいはそこにもここにもあった。そのうちに放火もすこし下火になって、二十日の夜の五つ時の空には地上を照らす月代つきしろとてもない。敵と味方の見定めもつかないような深いやみが総崩れに崩れて行く諏訪松本両勢を包んでしまった。

 この砥沢口の戦闘には、浪士側では十七人ほど
討死うちじにした。百人あまりの鉄砲きず鎗疵なぞの手負いを出した。主将耕雲斎も戦い疲れたが、また味方のもの一同を樋橋に呼び集めるほど元気づいた。みなと出発以来、婦人の身でずっと陣中にある大納言簾中れんちゅうも無事、山国親子も無事、筑波つくば組の稲右衛門、小四郎、皆無事だ。一同は手分けをして高島陣地その他を松明たいまつで改めた。そこのとりで、ここの胸壁の跡には、打ち捨ててあるかぶとや小銃や鎗や脇差わきざしや、それから床几しょうぎ陣羽織じんばおりなどの間に、目もあてられないような敵味方の戦死者が横たわっている。生臭なまぐさい血の臭気においはひしひしと迫って来る夜の空気にまじって一同の鼻をついた。

 耕雲斎は抜き身の鎗を
つえにして、稲右衛門や兵部や小四郎と共に、兵士らの間をあちこちと見て回った。戦場のならいで敵の逆襲がないとは言えなかった。一同はまたにわかに勢ぞろいして、本陣の四方を固める。その時、耕雲斎は一手の大将に命じ、味方の死骸を改めさせ、その首を打ち落とし、思い思いのところに土深く納めさせた。深手ふかでに苦しむものは十人ばかりある。それも歩人ぶにんに下知して戸板に載せ介抱を与えた。こういう時になくてならないのは二人の従軍する医者の手だ。陣中には五十ばかりになる一人の老女も水戸からいて来ていたが、この人も脇差を帯の間にさしながら、医者たちを助けてかいがいしく立ち働いた。

 夜もはや四つ半時を過ぎた。浪士らは味方の死骸を取り片づけ、名のある人々は草小屋の中に引き入れて、火をかけた。その他は死骸のあるところでいささかの火をかけ、土中に
うずめた。仮りの埋葬も済んだ。樋橋には敵の遺棄した兵糧や弁当もあったので、それで一同はわずかに空腹をしのいだ。激しいえ。激しいかわき。それをいやそうためばかりにも、一同の足は下諏訪の宿へ向いた。やがて二十五人ずつ隊伍をつくった人たちは樋橋を離れようとして、夜の空に鳴り渡る行進の法螺ほらの貝を聞いた。

 樋橋から下諏訪までの間には、村二つほどある。道案内のものを先に立て、
松明たいまつも捨て、途中に敵の待ち伏せするものもあろうかと用心する浪士らの長い行列は夜の街道に続いた。落合村まで進み、下の原村まで進んだ。もはやその辺には一人の敵の踏みとどまるものもなかった。合図の空砲の音と共に、浪士らの先着隊が下諏訪にはいったころは夜も深かった。敗退した諏訪松本両勢は高島城の方角をさして落ちて行ったあとで、そこにも一兵を見ない。町々もからっぽだ。浪士らは思い思いの家を見立てて、鍋釜なべかまから洗い米などのざるにそのまま置き捨ててあるようなところへはいった。耕雲斎は問屋といやの宅に、稲右衛門は来迎寺らいごうじにというふうに。町々のつじ秋宮あきみやの鳥居前、会所前、湯のわき、その他ところどころにかがりかれた。四、五人ずつの浪士は交代で敵の夜襲を警戒したり、宿内の火の番に回ったりした。

 三百人ばかりの後陣の者は容易に下諏訪へ到着しない。今度の戦闘の遊軍で、負傷者などを介抱するのもそれらの人たちであったから、道に
ひまがとれておくれるものと知れた。その間、本陣に集まる幹部のものの中にはすでに「明日」の評定がある。もともと浪士らは高島城を目がけて来たものでもない。西への進路を切り開くためにのみ、やむを得ず諏訪藩を敵として悪戦したまでだ。その夜の評定に上ったは、前途にどこをたどるべきかだ。道は二つある。これから塩尻峠へかかり、桔梗ききょうを過ぎ、洗馬せば本山もとやまから贄川にえがわへと取って、木曾街道をまっすぐに進むか。それとも岡谷おかや辰野たつのから伊那道へと折れるか。木曾福島の関所を破ることは浪士らの本意ではなかった。二十二里余にわたる木曾の森林の間は、嶮岨けんそな山坂が多く、人馬の継立つぎたても容易でないと見なされた。彼らはむしろ谷も広く間道も多い伊那の方をえらんで、一筋の血路をそちらの方に求めようと企てたのである。

 不眠不休ともいうべき下諏訪での一夜。ようやく後陣のものが町に到着して一息ついたと思うころには、本陣ではすでに夜立ちの行動を開始した。だれ一人、この楽しい湯の香のする町に長く踏みとどまろうとするものもない。一刻も早くこれを引き揚げようとして多くの中にはろくろく湯水を飲まないものさえある。「夜盗を警戒せよ」。その声は、幹部のものの間からも、心ある兵士らの間からも起こった。この混雑の中で、十五、六軒ばかりの土蔵が切り破られた。だれの
所業しわざともわからないような盗みが行なわれた。浪士らが引き揚げを急いでいるどさくさまぎれの中で。ほとんど無警察にもひとしい町々の暗黒の中で。

 暁(あけ)の六つ時(どき)には浪士は残らず下諏訪を出立した。平出宿(ひらでしゅく)小休み、岡谷(おかや)昼飯の予定で。あわただしく道を急ごうとする多数のものの中には、陣羽織のままで大八車(だいはちぐるま)を押して行くのもある。甲冑(かっちゅう)も着ないで馬に乗って行くのもある。負傷兵を戸板で運ぶのもある。もはや、大霜(おおしも)だ。天もまさに寒かった。
 二
 もとより浪士らは後方へ引き返すべくもない。幕府から回された討手(うって)の田沼勢は絶えず後ろから追って来るとの報知(しらせ)もある。千余人からの長い行列は前後を警戒しながら伊那の谷に続いた。筑波(つくば)の脱走者、浮浪の徒というふうに、世間の風評のみを真(ま)に受けた地方人民の中には、実際に浪士の一行を迎えて見て旅籠銭(はたごせん)一人前弁当用共にお定めの二百五十文ずつ払って通るのを意外とした。あるものはまた、一行と共に動いて行く金の葵紋(あおいもん)の箱、長柄(ながえ)の傘、御紋付きの長持から、長棒の駕籠の類まであるのを意外として、まるで三、四十万石の大名が通行の騒ぎだと言うものもある。

 しかし、それも理のないことではない。なぜかなら、その葵紋の箱も、傘も、長持も、長棒の駕籠も、すべて水戸烈公を記念するためのものであったからで。たとい御隠居はそこにいないまでも、一行が「従二位大納言」の大旗を奉じながら動いて行くところは、生きてる人を護(まも)るとほとんど変わりがなかったからで。あの江戸駒込(こまごめ)の別邸で永蟄居(えいちっきょ)を免ぜられたことも知らずじまいにこの世を去った御隠居が生前に京都からの勅使を迎えることもできなかったかわりに、今「奉勅」と大書した旗を押し立てながら動いて行くのは、その人の愛する子か孫かのような水戸人もしくは準水戸人であるからで。幕府のいう賊徒であり、反対党のいう不忠の臣である彼らは、そこにいない御隠居にでもすがり、その人の志を彼らの志として、一歩でも遠く常陸(ひたち)のふるさとから離れようとしていたからで。

 天龍川のほとりに出てからも、浪士らは武装を解こうとしなかった。いずれも鎧兜(よろいかぶと)、あるいは黒の竪烏帽子(たてえぼし)、陣羽織のいでたちである。高く掲げた紅白の旗、隊伍を区別する馬印(うまじるし)などは、馬上の騎士が携えた抜き身の鎗に映り合って、その無数の群立と集合との感じが一行の陣容をさかんにした。各部隊の護って行く二門ずつの大砲には皆御隠居の筆の跡が鋳(い)てある。「発而皆中節(はっしてみなせつにあたる)、源斉昭(みなもとのなりあきら)書」の銘は浪士らが誇りとするものだ。行列の中央に高く「尊攘」の二字を掲げた旗は、陣太鼓と共に、筑波以来の記念でもあった。

 参謀の兵部は軍中第二班にある。采配を腰にさし、甲冑(かっちゅう)騎馬で、金の三蓋猩々緋(さんがいしょうじょうひ)の一段幡連(ばれん)を馬印に立て、鎗鉄砲を携える百余人の武者を率いた。総勢の隊伍を、第一班から第六班までの備えに編み、騎馬の使番に絶えず前後周囲を見回らせ、隊列の整頓と行進の合図には拍子木を用いることなぞ皆この人の精密な頭脳から出た。水戸家の元側用人(そばようにん)で、一方の統率者なる小四郎は騎馬の側に惣金(そうきん)の馬印を立て、百人ほどの銃隊士に護られながら中央の部隊を堅めた。五十人ばかりの鎗隊士を従えた稲右衛門は梶(かじ)の葉の馬印で、副将らしい威厳を見せながらそのあとに続いた。主将耕雲斎は「奉勅」の旗を先に立て、三蓋菱(さんがいびし)の馬印を立てた百人ばかりの騎兵隊がその前に進み、二百人ばかりの歩行武者の同勢は抜き身の鎗でそのあとから続いた。山国兵部父子はもとよりその他にも親子で連れだって従軍するものもある。各部隊が護って行く思い思いの旗の文字は、いずれも水府義士をもって任ずる彼らの面目を語っている。その中にまじる「百花の魁(さきがけ)」とは、中世以来の堅い殻(から)を割ってわずかに頭を持ち上げようとするような、彼らの早い先駆感をあらわして見せている。

 伊那には高遠藩(たかとおはん)も控えていた。和田峠での合戦の模様は早くも同藩に伝わっていた。松本藩の家老水野新左衛門という人の討死(うちじに)、そのほか多数の死傷に加えて浪士側に分捕(ぶんど)りせられた陣太鼓、鎗、具足、大砲なぞのうわさは高遠藩を沈黙させた。それでも幕府のきびしい命令を拒みかねて、同藩では天龍川の両岸に出兵したが、浪士らの押し寄せて来たと聞いた時は指揮官はにわかに平出(ひらで)の陣地を撤退して天神山という方へ引き揚げた。それからの浪士らは一層勇んで一団となった行進を続けることができた。進み過ぎる部隊もなく、おくれる部隊もなかった。中にはめずらしい放吟の声さえ起こる。馬上で歌を詠ずるものもある。路傍(みちばた)の子供に菓子などを与えながら行くものもある。途中で一行におくれて、また一目散に馬を飛ばす十六、七歳の小冠者(こかんじゃ)もある。こんなふうにしてさらに谷深く進んだ。二十二日には浪士らは上穂(かみほ)まで動いた。そこまで行くと、一万七千石を領する飯田城主堀石見守(いわみのかみ)は部下に命じて市田村(いちだむら)の弓矢沢というところに防禦工事を施し、そこに大砲数門を据え付けたとの報知も伝わって来た。浪士らは一つの難関を通り過ぎて、さらにまた他の難関を望んだ。
 「わたしたちは水戸の諸君に同情してまいったんです。実は、あなたがたの立場を思い、飯田藩の立場を思いまして、及ばずながら斡旋の労を執りたい考えで同道してまいりました。わたしたちは三人とも平田篤胤の門人です」。浪士らの幹部の前には、そういうめずらしい人たちがあらわれた。そのうちの一人は伊那座光寺(いなざこうじ)にある熱心な国学の鼓吹者(こすいしゃ)仲間で、北原稲雄が弟の今村豊三郎である。一人は将軍最初の上洛に先立って足利尊氏が木像の首を三条河原(がわら)に晒(さら)した示威の関係者、あの事件以来伊那に来て隠れている暮田正香(まさか)である。

 入り込んで来る間諜(かんちょう)を警戒する際で、浪士側では容易にこの三人を信じなかった。その時応接に出たのは道中掛(がか)りの田村宇之助であったが、字之助は思いついたように尋ねた。「念のためにうかがいますが、伊那の平田御門人は『古史伝』の発行を企てているように聞いています。あれは何巻まで行ったでしょうか」。「そのことですか。今じゃ第四帙(ちつ)まで進行しております。一帙四巻としてありますが、もう第十六の巻(まき)を出しました。お聞き及びかどうか知りませんが、その上木(じょうぼく)を思い立ったのは座光寺の北原稲雄です。これにおります今村豊三郎の兄に当たります」、正香が答えた。こんなことから浪士らの疑いは解けた。そこへ三人が持ち出して、及ばずながら斡旋の労を執りたいというは、浪士らに間道の通過を勧め、飯田藩との衝突を避けさせたいということだった。正香や豊三郎は一応浪士らの意向を探りにやって来たのだ。もとより浪士側でも戦いを好むものではない。飯田藩を傷つけずに済み、また浪士側も傷つかずに済むようなこの提案に不賛成のあろうはずもない。異議なし。それを聞いた三人は座光寺の方に待っている北原稲雄へもこの情報を伝え、飯田藩ともよく交渉を重ねて来ると言って、大急ぎで帰って行った。

 二十三日には浪士らは片桐まで動いた。その辺から飯田へかけての谷間(たにあい)には、数十の郷村が天龍川の両岸に散布している。岩崎長世(ながよ)、北原稲雄、片桐春一らの中心の人物をはじめ、平田篤胤没後の門人が堅く根を張っているところだ。飯田に、山吹(やまぶき)に、伴野(ともの)に、阿島(あじま)に、市田に、座光寺に、その他にも熱心な篤胤の使徒を数えることができる。この谷だ。今は黙ってみている場合でないとして、北原兄弟のような人たちがたち上がったのに不思議もない。

 その片桐まで行くと、飯田の城下も近い。堀石見守の居城はそこに測りがたい沈黙を守って、浪士らの近づいて行くのを待っていた。その沈黙の中には御会所での軍議、にわかな籠城(ろうじょう)の準備、要所要所の警戒、その他、どれほどの混乱を押し隠しているやも知れないかのようであった。万一、同藩で籠城のことに決したら、市内はたちまち焼き払われるであろう。その兵火戦乱の恐怖は老若男女の町の人々を襲いつつあった。

 夜、武田本陣にあてられた片桐の問屋へは、飯田方面から、豊三郎が兄の北原稲雄と一緒に早駕籠かごを急がせて来た。その時、浪士側では横田東四郎と藤田小四郎とが応接に出た。飯田藩として間道の通過を公然と許すことは幕府に対しはばかるところがあるからと言い添えながら、北原兄弟は町役人との交渉の結果を書面にして携えて来た。その書面には左の三つの条件がしたためてあった。
 一、飯田藩は弓矢沢の防備を撤退すること。
 二、間道に修繕を加うること。
 三、飯田町にて軍資金三千両を
醵出きょしゅつすること。

 「お前はこの辺の百姓か。人足の手が足りないから、
やりをかついで供をいたせ」。「いえ、わたくしは旅の者でございます、お供をいたすことは御免こうむりましょう」。「うんにゃ、そう言わずに、片桐の宿までまいれば許してつかわす」。上伊那の沢渡村さわどむらという方から片桐宿まで、こんな押し問答の末に一人の百姓を無理押しつけに供に連れて来た浪士仲間の後殿しんがりのものもあった。いよいよ北原兄弟が奔走周旋の結果、間道通過のことに決した浪士の一行は片桐出立の朝を迎えた。先鋒隊のうちにはすでに駒場こまば泊まりで出かけるものもある。

 
後殿しんがりの浪士は上伊那から引ッぱって来た百姓をなかなか放そうとしなかった。その百姓は年のころ二十六、七の働き盛りで、荷物を持ち運ばせるには屈強な体格をしている。「お前はどこの者か。」と浪士がきいた。「わたくしですか。諏訪飯島村すわいいじまむらの生まれ、降蔵こうぞうと申します。お約束のとおり片桐までお供をいたしました。これでおいとまをいただきます」。「何、諏訪だ?」。 いきなり浪士はその降蔵を帯で縛りあげた。それから言葉をつづけた。「その方は天誅てんちゅうに連れて行くから、そう心得るがいい」。 近くにあるかわのところまで浪士は後ろ手にくくった百姓を引き立てた。「天誅」とはどういうわけかと降蔵が尋ねると、天誅とは首を切ることだと浪士が言って見せる。不幸な百姓は震えた。「お武家様、わたくしは怪しい者でもなんでもございません。伊那[#「伊那」は底本では「伊奈」]辺まで用事があってまいる途中、御通行ということで差し控えていたものでございます。これからはいかようにもお供をいたしますから、お助けを願います」。「そうか。しからば、その方は正武隊に預けるから、兵糧方ひょうろうかたの供をいたせ」。人足一人を拾って行くにも、浪士らはこの調子だった。

 諸隊はすでに続々間道を通過しつつある。その道は飯田の城下を避けて、上黒田で右に折れ、野底山から上飯田にかかって、今宮という方へと取った。今宮に着いたころは一同休憩して昼食をとる時刻だ。正武隊付きを命ぜられた諏訪の百姓降蔵は片桐から
背負しょって来た具足櫃ぐそくびつをそこへおろして休んでいると、いろは付けの番号札を渡され、一本の脇差わきざしをも渡された。家の方へ手紙を届けたければ飛脚に頼んでやるなぞと言って、兵糧方の別当はいろいろにこの男をなだめたりすかしたりした。荷物を持ちつかれたら、ほかの人足に申し付けるから、ぜひ京都まで一緒に行けとも言い聞かせた。別当はこの男の逃亡を気づかって、小用に立つにも番人をつけることを忘れなかった。京都と聞いて、諏訪の百姓は言った。「わたくしも国元には両親がございます。御免こうむりとうございます。おいとまをいただきとうございます」。「そんなことを言うと天誅てんちゅうだぞ」。別当のおどし文句だ。

 切石まで間道を通って、この浪士の諸隊は伊那の本道に出た。参州街道がそこに続いて来ている。
大瀬木おおせぎというところまでは、北原稲雄が先に立って浪士らを案内した。伊那にある平田門人の先輩株で、浪士間道通過の交渉には陰ながら尽力した倉沢義髄くらさわよしゆきも、その日は稲雄と一緒に歩いた。別れぎわに浪士らは、稲雄の骨折りを感謝し、それに報いる意味で記念の陣羽織を贈ろうとしたが、稲雄の方では幕府の嫌疑おもんぱかって受けなかった。その日の泊まりと定められた駒場こまばへは、平田派の同志のものが集まった。暮田正香と松尾誠まつおまこと(松尾多勢子たせこの長男)とは伴野とものから。増田平八郎ますだへいはちろう浪合佐源太なみあいさげんたとは浪合から。駒場には同門の医者山田文郁ぶんいくもある。武田本陣にあてられた駒場の家で、土地の事情にくわしいこれらの人たちはこの先とも小藩や代官との無益な衝突の避けられそうな山国の間道を浪士らに教えた。その時、もし参州街道を経由することとなれば名古屋の大藩とも対抗しなければならないこと、のみならず非常に道路の険悪なことを言って見せるのは浪合から来た連中だ。木曾路から中津川辺へかけては熱心な同門のものもある、清内路せいないじの原信好のぶよし馬籠の青山半蔵、中津川の浅見景蔵、それから峰谷はちや香蔵なぞは、いずれも水戸の人たちに同情を送るであろうと言って見せるのは伴野から来た連中だ。清内路を経て、馬籠、中津川へ。浪士らの行路はその時変更せらるることに決した。「諸君――これから一里北へ引き返してください。山本というところから右に折れて、清内路の方へ向かうようにしてください」。道中掛りはそのことを諸隊に触れて回った。

 伊那の谷から木曾の西のはずれへ出るには、
大平峠おおだいらとうげを越えるか、梨子野峠なしのとうげを越えるか、いずれにしても奥山の道をたどらねばならない。木曾下四宿への当分助郷すけごう、あるいは大助郷の勤めとして、伊那百十九か村の村民が行き悩むのもその道だ。木から落ちる山蛭やまびる往来ゆききの人に取りつくぶよつよい風に鳴る熊笹くまざさ、そのおりおりの路傍に見つけるものを引き合いに出さないまでも、昼でも暗い森林の谷は四里あまりにわたっている。旅するものはそこにそまの生活と、わずかな桑畠くわばたけと、米穀も実らないような寒い土地とを見いだす。その深い山間やまあいを分けて、浪士らは和田峠合戦以来の負傷者から十数門の大砲までも運ばねばならない。
 三
 半蔵は馬籠本陣の方にいて、この水戸浪士を待ち受けた。彼が贄川にえがわや福島の庄屋と共に急いで江戸を立って来たのは十月下旬で、ようやく浪士らの西上が伝えらるるころであった。時と場合により、街道の混乱から村民をまもらねばならないとの彼の考えは、すでにそのころに起こって来た。諸国の人の注意は尊攘を標榜する水戸人士の行動と、筑波つくば挙兵以来の出来事とに集まっている当時のことで、那珂港なかみなとの没落と共に榊原新左衛門さかきばらしんざえもん以下千二百余人の降参者と武田耕雲斎はじめ九百余人の脱走者とをいかに幕府が取りさばくであろうということも多くの人の注意を引いた。三十日近くの時の間には、幕府方にくだった宍戸侯ししどこう(松平大炊頭おおいのかみ)の心事も、その運命も、半蔵はほぼそれを聞き知ることができたのである。幕府の参政田沼玄蕃頭は耕雲斎らが政敵市川三左衛門の意見をいれ、宍戸侯に死を賜わったという。それについで死罪に処せられた従臣二十八人、同じく水戸藩士二人、宍戸侯の切腹を聞いて悲憤のあまり自殺した家来数人、この難に死んだものは都合四十三人に及んだという。宍戸侯の悲惨な最期――それが水戸浪士に与えた影響は大きかった。賊名を負う彼らの足が西へと向いたのは、それを聞いた時であったとも言わるる。「所詮、水戸家もいつまで幕府のきげんを取ってはいられまい」との意志の下に、潔く首途かどでに上ったという彼ら水戸浪士は、もはや幕府に用のない人たちだった。前進あるのみだった。

 半蔵に言わせると、この水戸浪士がいたるところで、人の心を揺り動かして来るには驚かれるものがある。高島城をめがけて来たでもないものがどうしてそんなに諏訪藩に恐れられ、戦いを好むでもないものがどうしてそんなに
高遠藩たかとおはん飯田藩に恐れられるだろう。実にそれは命がけだからで。二百何十年の泰平に慣れた諸藩の武士が尚武しょうぶの気性のすでに失われていることを眼前に暴露して見せるのも、万一の節はひとかどの御奉公に立てと日ごろ下の者に教えている人たちの忠誠がおよそいかなるものであるかを眼前に暴露して見せるのも、一方に討死うちじにを覚悟してかかっているこんな水戸浪士のあるからで。

 それにしても、江戸両国の橋の上から
丑寅うしとらの方角に遠く望んだ人たちの動きが、わずか一月ひとつき近くの間に伊那の谷まで進んで来ようとは半蔵の身にしても思いがけないことであった。水戸の学問と言えば、少年時代からの彼が心をひかれたものであり、あの藤田東湖の『正気せいきの歌』なぞを好んで諳誦あんしょうしたころの心は今だに忘れられずにある。この東湖先生の子息むすこさんにあたる人を近くこの峠の上に、しかも彼の自宅に迎え入れようとは、思いがけないことであった。平田門人としての彼が、水戸の最後のものとも言うべき人たちの前に自分を見つける日のこんなふうにして来ようとは、なおなお思いがけないことであった。

 別に、半蔵には、浪士の一行に加わって来るもので、心にかかる一人の旧友もあった。平田同門の
亀山嘉治よしはるが八月十四日那珂港なかみなと小荷駄掛こにだがかりとなって以来、十一月の下旬までずっと浪士らの軍中にあったことを半蔵が知ったのは、つい最近のことである。いよいよ浪士らの行路が変更され、参州街道から東海道に向かうと見せて、その実は清内路より馬籠、中津川に出ると決した時、二十六日馬籠泊まりの触れ書と共にあの旧友が陣中からよこした一通の手紙でその事が判然はっきりした。それには水戸派尊攘の義挙を聞いて、その軍に身を投じたのであるが、寸功なくして今日にいたったとあり、いったん武田藤田らと約した上は死生を共にする覚悟であるということもしたためてある。今回下伊那の飯島というところまで来て、はからず同門の先輩暮田正香に面会することができたとある。馬籠泊まりの節はよろしく頼む、その節は何年ぶりかでむかしを語りたいともある。

 「半蔵さん、この騒ぎは何事でしょう」と言って、隣宿妻籠本陣の寿平次はこっそり半蔵を見に来た。その時は木曾福島の代官山村氏も幕府の命令を受けて、木曾谷の両端へお堅めの兵を出している。東は
贄川にえがわの桜沢口へ。西は妻籠の大平口へ。もっとも、妻籠の方へは福島の砲術指南役植松菖助うえまつしょうすけが大将で五、六十人の一隊を引き連れながら、伊那の通路を堅めるために出張して来た。夜は往還へ綱を張り、その端に鈴をつけ、番士を伏せて、鳴りを沈めながら周囲を警戒している。寿平次はその妻籠の方の報告を持って、馬籠の様子をも探りに来た。「寿平次さん、君の方へは福島から何か沙汰がありましたか」。「浪士のことについてですか。本陣問屋へはなんとも言って来ません」。「何か考えがあると見えて、わたしの方へもなんとも言って来ない。これが普通の場合なら、浪士なぞは泊めちゃならないなんて、沙汰のあるところですがね」。「そりゃ、半蔵さん、福島の旦那様だってなるべく浪士にはけて通ってもらいたい腹でいますさ」。「いずれ浪士は清内路せいないじからあららぎへかかって、橋場へ出て来ましょう。あれからわたしの家をめがけてやって来るだろうと思うんです。もし来たら、わたしは旅人として迎えるつもりです」。「それを聞いてわたしも安心しました。馬籠から中津川の方へ無事に浪士を落としてやることですね、福島の旦那様も内々ないないはそれを望んでいるんですよ」。「妻籠の方は心配なしですね。そんなら、寿平次さん、お願いがあります。あすはかなりごたごたするだろうと思うんです。もし妻籠の方の都合がついたら来てくれませんか。なにしろ、君、急な話で、したくのしようもない。けさは会所で寄り合いをしましてね、村じゅう総がかりでやることにしました。みんな手分けをして、出かけています。わたしも今、一息入れているところなんです」。「そう言えば、今度は飯田でもよっぽど平田の御門人にお礼を言っていい。君たちのお仲間もなかなかやる」。「平田門人もいくらか寿平次さんに認められたわけですかね」。

 その時、宿泊人数の割り当てに村方へ出歩いていた宿役人仲間も帰って来て、そこへ顔を見せる。年寄役の伊之助は
荒町あらまちから。問屋九郎兵衛は峠から。馬籠ではたいがいの家が浪士の宿をすることになって、万福寺あたりでも引き受けられるだけ引き受ける。本陣としての半蔵の家はもとより、隣家の伊之助方でも向こう側の隠宅まで御用宿ということになり同勢二十一人の宿泊の用意を引き受けた。「半蔵さん、それじゃわたしは失礼します。都合さえついたら、あす出直して来ます」。寿平次はこっそりやって来て、またこっそり妻籠の方へ帰って行った。にわかに宿内の光景も変わりつつあった。千余人からの浪士の同勢が梨子野峠なしのとうげを登って来ることが知れると、在方ざいかたへ逃げ去るものがある。諸道具を土蔵に入れるものがある。大切な帳面や腰の物を長持に入れ、青野という方まで運ぶものがある。

 旧暦十一月の末だ。二十六日には冬らしい雨が朝から降り出した。その日の午後になると、馬籠宿内の女子供で家にとどまるものは少なかった。いずれも握飯(むすび)、鰹節(かつおぶし)なぞを持って、山へ林へと逃げ惑うた。半蔵の家でもお民は子供や下女を連れて裏の隠居所まで立ち退(の)いた。本陣の囲炉裏ばたには、栄吉、清助をはじめ、出入りの百姓や下男の佐吉を相手に立ち働くおまんだけが残った。「姉さま」。台所の入り口から、声をかけながら土間のところに来て立つ近所のさんもあった。婆さんはあたりを見回しながら言った。「お前さまはお一人かなし。そんならお前さまはここに残らっせるつもりか。おれも心細いで、お前さまが行くなら一緒に本陣林へでも逃げずかと思って、ちょっくら様子を見に来た。今夜はみんな山で夜明かしだげな。おまけに、この意地の悪い雨はどうだなし」。り者の婆さんまでが逃げじたくだ。

 半蔵は家の外にも内にもいそがしい時を送った。水戸浪士をこの峠の上の宿場に迎えるばかりにしたくのできたころ、彼は広い囲炉裏ばたへ通って、そこへ裏二階から母屋の様子を見に来る父吉左衛門とも一緒になった。「何しろ、これはえらい騒ぎになった」と吉左衛門は案じ顔に言った。「文久元年十月の和宮さまがお通り以来だぞ。千何百人からの同勢をこんな宿場で引き受けようもあるまい」。「お父さん、そのことなら、落合の宿でも分けて引き受けると言っています」と半蔵が言う。「今夜のお客さまの中には、御老人もあるそうだね」。「その話ですが、山国兵部という人はもう七十以上だそうです。武田耕雲斎、田丸稲右衛門、この二人も六十を越してると言いますよ」。「おれも聞いた。人が六、七十にもなって、全く後方(うしろ)を振り返ることもできないと考えてごらんな。生命(いのち)がけとは言いながら――えらい話だぞ」。「今度は東湖先生の御子息さんも御一緒です。この藤田小四郎という人はまだ若い。二十三、四で一方の大将だというから驚くじゃありませんか」。「おそろしく早熟なかただと見えるな」。「まあ、お父さん。わたしに言わせると、浪士も若いものばかりでしたら、京都まで行こうとしますまい。水戸の城下の方で討死(うちじに)の覚悟をするだろうと思いますね」。「そりゃ、半蔵。老人ばかりなら、最初から筑波山には立てこもるまいよ」。父と子は互いに顔を見合わせた。

 幕府への遠慮から、駅長としての半蔵は家の門前に「武田伊賀守様御宿(おんやど)」の札も公然とは掲げさせなかったが、それでも玄関のところには本陣らしい幕を張り回させた。表向きの出迎えも遠慮して、年寄役伊之助と組頭庄助の二人と共に宿はずれまで水戸の人たちを迎えようとした。「お母さん、お願いしますよ」と彼が声をかけて行こうとすると、おまんはあたりに気を配って、堅く帯を締め直したり、短刀をその帯の間にはさんだりしていた。もはや、太鼓の音だ。おのおの抜き身の鎗を手にした六人の騎馬武者と二十人ばかりの歩行(かち)武者とを先頭にして、各部隊が東の方角から順に街道を踏んで来た。この一行の中には、浪士らのために人質に取られて、腰繩で連れられて来た一人の飯田の商人もあった。浪士らは、椀屋(わんや)文七と聞こえたこの飯田の商人が横浜貿易で一万両からの金をもうけたことを聞き出し、すくなくも二、三百両の利得を吐き出させるために、二人の番士付きで伊那から護送して来た。きびしく軍の掠奪を戒め、それを犯すものは味方でも許すまいとしている浪士らにも一方にはこのお灸の術があった。ヨーロッパに向かって、この国を開くか開かないかはまだ解決のつかない多年の懸案であって、幕府に許されても朝廷から許されない貿易は売国であるとさえ考えるものは、排外熱の高い水戸浪士中に少なくなかったのである。




(私論.私見)