島崎藤村/夜明け前第一部下の2、第九章

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.6日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝



【島崎藤村/夜明け前第一部下の2、第九章】
 一
江戸詣で  江戸の町々では元治(げんじ)元年の六月を迎えた。木曾街道方面よりの入り口とも言うべき板橋から、巣鴨(すがも)の立場(たてば)、本郷森川宿なぞを通り過ぎて、両国の旅籠屋(はたごや)十一屋に旅の草鞋をぬいだ三人の木曾の庄屋がある。この庄屋たちは江戸の道中奉行から呼び出されて、いずれも木曾十一宿の総代として来たのである。その中に半蔵も加わっていた。もっとも、木曾の上四宿からは贄川(にえがわ)の庄屋、中三宿からは福島の庄屋で、馬籠から来た半蔵は下四宿の総代としてであった。五月下旬に半蔵は郷里の方をたって来たが、こんなふうに再び江戸を見うる日のあろうとは、彼としても思いがけないことであった。両国の十一屋は彼にはすでになじみの旅籠屋である。他の二人の庄屋――福島の幸兵衛、贄川(にえがわ)の平助、この人たちも半蔵と一緒にひとまずその旅籠屋に落ちつくことを便宜とした。そこには木曾出身で世話好きな十一屋の隠居のような人があるからで。

 「早いものでございますな。あれから、もう十年近くもなりますかな」。十一屋の隠居は半蔵のそばに来て、旅籠屋の亭主らしいことを言い出す。この隠居は十年近くも前に来て泊まった木曾の客を忘れずにいた。半蔵が江戸から横須賀在へかけての以前の旅の連れは妻籠本陣の寿平次であったことまでよく覚えていた。「そりゃ、十一屋さん、この前にわたしたちが出て来ました時は、まだ横浜開港以前でしたものね」。「さよう、さよう、」と隠居も思い出したように、「あれから宮川寛斎先生も手前どもへお泊まりくださいましたよ。えゝ、お連れさまは中津川の万屋さんたちで。あれは横浜貿易の始まった年でした。あの時は神奈川の牡丹屋へも手前どもから御案内いたしましたっけ。毎度皆さまにはごひいきにしてくださいまして、ありがとうございます」。

 そういう隠居も大分(だいぶ)年をとったが、しかし元気は相変わらずだ。この宿屋には隠居に見比べると親子ほど年の違うかみさんもある。親子かと思えば、どうもそうでもないようだし、夫婦にしては年が違いすぎる。そう半蔵も以前の旅には想(おも)って見たが、今度江戸へ出て来た時は、そのかみさんが隠居の子供を抱いていた。

 見るもの聞くもの半蔵には過ぐる年の旅の記憶をよび起こした。あれは安政三年で、半蔵が平田入門を思い立って来たころだ。彼が江戸に出て、初めて平田鉄胤を知り、その子(むすこ)さんの延胤(のぶたね)をも知ったころだ。当時の江戸城にはようやく交易大評定のうわさがあって、長崎の港の方に初めてのイギリスの船がはいったと聞くも胸をおどらせたくらいのころだ。なんと言ってもあのころの徳川政府の威信はまだまだ全国を圧していた。
 十年近い月日はいかに半蔵の周囲を変え、今度踏んで来た街道の光景までも変えたことか。道中奉行からのお呼び出しで、半蔵も自分の宿場を離れて来て見ると、あの木曾街道筋の堅めとして聞こえた福島の関所あたりからして、えらいあわて方であった。諸国に頻発する暴動ざたが幕府を驚かしてか、宿村の取り締まりも実に厳重をきわめるようになった。半蔵が国を出るころは、街道に怪しいものは見つけ次第注進せよと言われていた。ひとり旅の者はもちろん、怪しい浪人体のものは休息させまじき事、俳諧師生花師(いけばなし)等の無用の遊歴は差し置くまじき事、そればかりでなく、狼藉者があったら村内打ち寄って取り押え、万一手にあまる場合は切り捨てても鉄砲で打ち殺しても苦しくないというような、そんな御用達所からのお書付が宿々村々へ渡っていた。

 江戸へ出る途中、半蔵は以前の旅を思い出して、二人の連れと一緒に追分宿の名主(なぬし)文太夫(ゆう)の家へも寄って来た。あの地方では取締役なるものができ、村民は七名ずつ交替で御影(みかげ)の陣屋を護り、強賊や乱暴者の横行を防ぐために各自自衛の道を講ずるというほどの騒ぎだ。その陣屋には新たに百二十間あまりの柵矢来(さくやらい)が造りつけられ、非常時の合図として村々には半鐘、太鼓、板木が用意され、それに鉄砲、竹鎗、袖(そで)がらみ、六尺棒、松明(たいまつ)なぞを備え置くという。村内のものでも長脇差(ながわきざし)を帯びるか、または無宿者(むしゅくもの)を隠し泊めるかするものがあればきびしく取り締まるようになって、毎月五日には各村民が陣屋に参集するという。この申し合わせに加わる村々は、北佐久、南佐久の方面で七十四か村にも及んでいる。

 いかに生活難に追い詰められた無宿浮浪の群れが浪人のまねをしたり大刀を帯びたりしてあの辺の街道を押し歩いているかがわかる。追分、軽井沢あたりは長脇差の本場に近いところから、ことに騒がしい。それにしても、村民各自に自警団を組織するほどのぎょうぎょうしいことはまだ木曾地方にはない。それをしなければ小前(こまえ)のものが安心して農業家業に従事し得られないというほどのことはない。半蔵が二人の連れのように、これまでたびたび江戸に出たことのある庄屋たちでも、こんな油断のならない道中は初めてだと言っている。どうして些細(ささい)のことにも気を配って、互いに助け合うことなしに踏んで出て来られる八十里の道ではなかったのだ。

 さしあたり一行三人のものの仕事は、当時の道中奉行都筑(つづき)駿河守が役宅を訪ね、今度総代として来たことを告げ、木曾宿々から取りそろえて来た人馬立辻帳(じんばたてつじちょう)なぞを差し出すことであった。言うまでもなく、その帳簿には過ぐる一年間の人馬徴発の総高が計算してある。最初に半蔵らが奉行の屋敷に出た日には、徒士目付(かちめつけ)が応接に出て、奉行へは自分から諸事取り次ぐであろうとの話があった末に、今度三人の庄屋を呼び出した奉行の意向を言い聞かせた。それには諸大名が江戸への参覲交代をもう一度復活したい徳川現内閣の方針であることを言い聞かせた。徒士目付の口ぶりによると、いずれ奉行から改めてお呼び出しがあるであろう、そのおりは木曾地方における人馬継立ての現状を問いただされるであろう、そんなことで半蔵らは引き取って来た。同行の幸兵衛、平助、共に半蔵から見ればずっと年の違った人たちで、宿駅のことにも経験の多い庄屋たちであるが、三人連れだって両国の旅籠屋まで戻って来た時は、互いに街道の推し移りを語り合って、今後の成り行きに額(ひたい)を(あつ)めた。
 参覲交代制度変革の影響は江戸にも深いものがあった。武家六分、町人四分と言われた江戸から、諸国大小名の家族がそれぞれ国もとをさして引き揚げて行ったあとの町々は、あだかも大きな潮の引いて行ったあとのようになった。

 二度目に来てこの大きな都会の深さにはいって見る半蔵の目には、もはや江戸城もない。過ぐる文久三年十一月十五日の火災で、本丸、西丸、共に炎上した。将軍家ですら田安御殿の方に移り住むと聞くころだ。西丸だけは復興の工事中であるが、それすら幕府御勘定所のやり繰りで、諸国の町人百姓から上納した百両二百両のまとまった金はもとより、一朱二朱ずつの細かい金まではいっている御普請上納金より成り立つことは、半蔵のように地方にいていくらかでも上納金の世話を命ぜられたものにわかる。西丸の復興ですらこのとおりだ。本丸の方の再度の造営はもとより困難と見られている。

 朝日夕日に輝いて八百八町(はっぴゃくやちょう)を支配するようにそびえ立っていたあの建築物も、周囲に松の緑の配置してあった高い白壁も、特色のあった窓々も、幕府大城の壮観はとうとうその美を失ってしまった。言って見れば、ここは広大な城下町である。大小の武家屋敷、すなわち上(かみ)屋敷、中屋敷、下(しも)屋敷、御用屋敷、小屋敷、百人組その他の組々の住宅など、皆大城を中心にしてあるようなものである、変革はこの封建都市に持ち来たされた。諸大名は国勝手を許され、その家族の多くは屋敷を去った。急激に多くの消費者を失った江戸は、どれほどの財界の混乱に襲われているやも知れないかのようである。

 しかし、あの制度の廃止は文久の改革の結果だ。あれは時代の趨勢に着眼して幕政改革の意見を抱いた諸国の大名や識者なぞの間に早くから考えられて来たことだ。もっと政治は明るくして新鮮な空気を注ぎ入れなければだめだとの多数の声に聞いて、京都の方へ返すべき慣例はどしどし廃される、幕府から任命していた皇居九門の警衛は撤去されるというふうに、多くの繁文縟礼(はんぶんじょくれい)が改められた時、幕府が大改革の眼目として惜しげもなく投げ出したのも参覲交代の旧(ふる)い慣例だ。

 もともと徳川氏にとっては重要なあの政策を捨てるということが越前の松平春嶽(しゅんがく)から持ち出された時に、幕府の諸有司の中には反対するものが多かったというが、一橋慶喜は越前藩主の意見をいれ、多くの反対説を排して、改革の英断に出た。今さらあの制度を復活するとなると、当時幕府を代表して京都の方に禁裡(きんり)守衛総督摂海防禦指揮の重職にある慶喜の面目を踏みつぶすにもひとしい。遠くは紀州と一橋との将軍継嗣問題以来、苦しい反目を続けて来た幕府の内部は、ここにもその内訌(ないこう)の消息を語っていた。

 それにしても、政治の中心はすでに江戸を去って、京都の方に移りつつある。いつまでも大江戸の昔の繁華を忘れかねているような諸有司が、いったん投げ出した政策を復活して、幕府の頽勢(たいせい)を挽回しうるか、どうかは、半蔵なぞのように下から見上げるものにすら疑問であった。時節がら、無用な費用を省いて、兵力を充実し、海岸を防禦するために国に就いた諸大名が、はたして幕府の言うなりになって、もう一度江戸への道を踏むか、どうかも疑問であった。

 諸大名の家族が江戸屋敷から解き放たれた日、あれは半蔵が父吉左衛門から家督を譲られて、新しい駅長の職に就いてまだ間もなかったころにあたる。彼はあの馬籠の宿場の方で、越前の女中方や、尾州の若殿に簾中(れんちゅう)や、紀州の奥方ならびに女中方なぞを迎えたり送ったりしたいそがしさをまだ忘れずにいる。昨日は秋田の姫君が峠の上に着いたとか、今日は肥前島原の女中方が着いたとか、こういう婦人や子供の一行が毎日のようにあの街道に続いた。まるで人質も同様にこもり暮らした江戸から手足の鎖を解かれたようにして、歓呼の声を揚げて行った屋敷方の人々だ。それらの御隠居、奥方、若様、女中衆なぞが江戸をにぎわそうとして、もう一度この都会に帰り来る日のあるか、どうかは、なおなお疑問であった。

 江戸に出て数日の間、半蔵は連れの庄屋と共に道中奉行から呼び出される日を待った。一行三人のものは思い思いに出歩いた。そして両国の旅籠屋をさして帰って行くたびに、互いに見たり聞いたりして来る町々の話を持ち寄った。江戸にある木曾福島の代官山村氏の屋敷を東片町に訪ねたが、あの辺の屋敷町もさみしかったと言うのは幸兵衛だ。木曾の領主にあたる尾州侯の屋敷へも顔出しに行って来て、いたるところの町々に「かしや」の札の出ているのが目についたと言うのは平助だ。両国から親父橋まで歩いて、当時江戸での最も繁華な場所とされている芳町(よしちょう)のごちゃごちゃとした通りをあの橋の畔(たもと)に出ると、芋の煮込みで名高い居酒屋には人だかりがして、その反対の町角(まちかど)にある大きな口入宿(くちいれやど)には何百人もの職を求める人が詰めかけていたと言うのは半蔵だ。十一屋の隠居は半蔵らを宿へ迎え入れるたびに言った。「皆さんは町へお出かけになりましても、日暮れまでには両国へお帰りください。なるべく夜分はお出ましにならない方がよろしゅうございますぞ」。
 ようやく道中奉行からの差紙(さしがみ)で、三人の庄屋の出頭する日が来た。十一屋の二階で、半蔵は連れと同じように旅の合羽をぬいで、国から用意して来た麻の※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)(かみしも)に着かえた。「さあ、これから御奉行さまの前だ」と贄川(にえがわ)の平助は用心深い目つきをしながら、半蔵の袖をひいた。「きょうは、うっかりした口はきけませんよ。半蔵さんはまだ若いから、何か言い出しそうで心配です」。「わたしですか。わたしは平素(ふだん)から黙っていたい方ですから、そんなよけいなことはしゃべりませんよ」。その時、福島の幸兵衛も庄屋らしい袴の紐を結んでいたが、半分串談(じょうだん)のような調子で、「半蔵さんは平田の御門人だと言うから、余分に目をつけられますぜ」と戯れた。「いえ」と半蔵は言った。「わたしは馬籠をたつ時に、家のものからもそんなことを言われて来ましたよ。でも、木曾十一宿の総代で呼び出されるものをつかまえて、まさか入牢(にゅうろう)を申し付けるとも言いますまい」。幸兵衛も平助も笑った。

 三人ともしたくができた。そこで出かけた。道中奉行都筑駿河の役宅は神田橋外にある。そこには例の徒士目付(かちめつけ)が待ち受けていてくれて、やがて三人は二部屋続いた広間に通された。旧暦六月のことで、襖障子なぞも取りはずしてあった。正面に奉行、そのそばに道中下方掛(したかたがか)りの役人らが控え、徒士目付はいろいろとその間を斡旋(あっせん)した。そこへ新たに道中奉行の一人となった神保佐渡もはいって来て、席に着いた。

尾張殿領分
東山道贄川宿、外(ほか)十か宿総代
組合宿々取締役
右贄川宿庄屋 遠山平助
福島宿庄屋 堤幸兵衛
馬籠宿庄屋本陣問屋 青山半蔵
 徒士目付は三人の庄屋を奉行に紹介するようにそれを読み上げる。平助も、幸兵衛も、それから半蔵も扇子を前に置き、各自の名前が読まれるたびに両手を軽く畳の上に置いて、順に挨拶した。

 都筑駿河はかつて勘定奉行であり、神保佐渡は大目付であった閲歴を持つ人たちである。下々の役人のようにいばらない。奉行としての威厳を失わない程度で、砕けた物の言いようもすれば、笑いもする。徒士目付からすでに三人の庄屋も聞いたであろうように、文久二年以来廃止同様の姿であった参覲交代を復活したい意志が幕府にある、将軍の上洛は二度にも及んで沿道の宿々は難渋の聞こえもある、木曾は諸大名通行の難場でもあるから地方の事情をきき取った上で奉行所の参考としたい、それには人馬継立ての現状を腹蔵なく申し立てよというのが奉行の意向であった。

 その日の会見はあまり細目にわたらないようにとの徒士目付の注意もあって、平助は異国船渡来以後の諸大名諸公役の頻繁な往来が街道筋に及ぼした影響から、和宮様の御通過、諸大名家族の帰国というふうに、次第に人馬徴発の激増して来たことをあるがままに述べ、宿駅の疲弊も、常備人馬補充の困難も、助郷勤め村や手助け村の人馬の不参も、いずれも過度な人馬徴発の結果であることを述べた末に言った。

 「恐れながら申し上げます。昨年三月より七月へかけ、公方様の還御にあたりまして、木曾街道の方にも諸家様のおびただしい御通行がございました。何分にも毎日のことで、お継立ても行き届かず、それを心配いたしまして木曾十一宿のものが定助郷の嘆願に当お役所へ罷(まか)り出ました。問屋四名、年寄役一名、都合五名のものが総代として出たような次第でございます。その節、定助郷はお許しがなく、本年二月から六か月の間、当分助郷を申し付けるとのことで、あの五名のものも帰村いたしました。もはやその期日も残りすくなでございますし、なんとかその辺のことも御配慮に預かりませんと、またまた元通り継立てに難渋することかと心配いたされます」。「そういう注文も出ようかと思って、実は当方でも協議中であるぞ」と都筑駿河は言った。

 その時、幸兵衛はまた、別の立場から木曾地方の付近にある助郷の組織を改良すべき時機に達したことを申し立てた。彼に言わせると、従来課役として公用藩用に役立って来たもの以外に、民間交通事業の見るべきものが追い追いと発達して来ている。伊那の中馬(ちゅうま)、木曾の牛、あんこ馬(駄馬)、それから雲助の仕事なぞがそれだ。もっとも、木曾の方にあるものは牛以外に取りたてて言うほどでもないが、伊那の中馬と来ては物資の陸上運搬にさかんな活動を始め、松本から三河、尾張の街道、および甲州街道は彼ら中馬が往還するところに当たり、木曾街道にも出稼ぎするものが少なくない。その村数は百六十か村の余を数え、最も多い村は百四十五疋、最も少ない村でも十疋の中馬を出している。もしこの際、定助郷の設備もなく、彼らを優遇する方法もなく、課役に応ずる百姓の位置をもっとはっきりさせることもなかったら、割のよい民間の仕事に圧(お)されて、ますます多くの助郷不参の村々を出すであろう。公辺に参覲交代復活の意向があるなら、その辺の事情も一応考慮の中に入れて置いていただきたいというのが福島の庄屋の意見であった。

 「いや、いろいろな注文が出る」と都筑駿河が言った。「将軍二度目の御上洛には往復共に軍艦にお召しになった。それも人民が多年の疲弊を憐(あわれ)むという御思し召し(おぼしめし)によることだぞ。もう一度諸大名を江戸へお呼び寄せになるにしても、そういう参覲交代の古式を回復するにしても、願い出るものには軍艦を貸そうという御内議もある。その方たちの心配は無理もないが、今度はもうそれほど宿場のごたごたするようなこともあるまい」。「木曾下四宿の総代もこれに控えております」と徒士目付は奉行の言葉を引き取って言った。「昨年出てまいりました年寄役の新七なるものは、これに控えております半蔵と同宿のように聞き及びます」。「三人ともいそがしいところをよく出て来てくれた。どうだ、半蔵、その方の意見も聞こう」。

 そういう都筑駿河ばかりでなく、新参で控え目がちな神保佐渡の眸(ひとみ)も半蔵の方にそそいだ。それまで二人の庄屋のそばにすわっていた半蔵は何か言い出すべき順に回って来た。「さようでございます」と彼は答えた。「近年は諸家様の御権威が強くなりまして、何事にも御威勢をもって人民へ仰せ付けられるようになりました。御承知のとおり、木曾の下四宿はいずれも小駅でございまして、お定めの人馬はわずかに二十五人二十五疋でお継立てをいたしてまいりました。そこへ美濃の落合宿あたりから、助郷人馬をもちまして、一時に多数の継立てがございますと、そうは宿方(しゅくがた)でも応じきれません。まず多数にお入り込みの場合を申しますと、宿方にあり合わせた人馬を出払いまして、その余は人馬の立ち帰るまで御猶予を願います。また、時刻によりましては宿方にお泊まりをも願います。これが平素の場合でございましたところ、近年は諸家様がそういう宿方の願いをもお聞き入れになりません。なんでも御威勢をもって継立て方をきびしく仰せ付けられるものですから、まあよんどころなく付近の村々から人馬を雇い入れまして、無理にもお継立てをいたします。そんな次第で。雇い金も年々に積もってまいりました。宿方困窮の基(もと)と申せば、あまりに諸家様の御権威が高くなったためかと存じます。それさえありませんでしたら、街道の仕事はもっと安らかに運べるはずでございます」。

 「なるほど、そういうこともあろう」と都筑駿河は言って、居並ぶ神保佐渡の方へ膝(ひざ)を向け直して、「御同役、いかがでしょう。くわしいことは書面にして差し出してもらいたいと思いますが」。「御同感です」と神保佐渡は手にした扇子で胸のあたりをあおぎながら答えた。道中下方掛(したかたがか)りの役人らの間にもしきりに扇子が動いた。その時、徒士目付は奉行の意を受けて、庄屋側から差し出した人馬立辻帳の検閲を終わったら、いずれ三人に沙汰するであろうと言った。なお、過ぐる亥年(いどし)の三月から七月まで、将軍還御のおりのお供と諸役人が通行中に下された人馬賃銭の仕訳書上帳(かきあげちょう)なるものを至急国もとから取り寄せて差し出せと言いつけた。
 細目にわたることは書面で、あとから庄屋側より差し出すように。そんな約束で半蔵らは神田橋外の奉行屋敷を出た。江戸城西丸の新築工事ができ上がる日を待つと見えて、剃髪(ていはつ)した茶坊主なぞが用事ありげに町を通り過ぎるのも目につく。城内で給仕役を勤めるそれらの茶坊主までが、大名からもらうのを誇りとしていた縮緬(ちりめん)の羽織も捨て、短い脇差も捨て、長い脇差を腰にぶちこみながら歩くというだけにも、武道一偏の世の中になって来たことがわかる。幕府に召し出されて幅をきかせている剣術師なぞは江戸で大変な人気だ。当時、御家人旗本の間の大流行は、黄白(きじろ)な色の生平(きびら)の羽織に漆紋(うるしもん)と言われるが、往昔(むかし)家康公が関ヶ原の合戦に用い、水戸の御隠居も生前好んで常用したというそんな武張(ぶば)った風俗がまた江戸に回(かえ)って来た。

 両国をさして帰って行く途中、平助は連れを顧みて、「半蔵さん、君は時々立ち止まって、じっとながめているような人ですね」。「御覧なさい、小さな宮本武蔵や荒木又右衛門がいますよ」。「ほんとに、江戸じゃ子供まで武者修行のまねだ。一般の人気がこうなって来たんでしょうかね」。そういう平助は実にゆっくりゆっくりと歩いた。

 その日は風の多い日で、半蔵らは柳原の土手にかかるまでに何度かひどい砂塵(すなぼこり)を浴びた。往(い)きには追い風であったから、まだよかったが、戻りには向い風になったからたまらない。土手の柳の間に古着古足袋(たび)古股引(ももひき)の類を並べる露店から、客待ち顔な易者の店までが砂だらけだ。目もあけていられないようなやつが、また向こうからやって来る。そのたびに半蔵らは口をふさぎ、顔をそむけて、深い砂塵の通り過ぎるのを待った。乾燥しきった道路に舞い揚がる塵埃(ほこり)で、町の空までが濁った色に黄いろい。

 両国の旅籠屋に戻ってから、三人は二階で※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)(かみしも)をぬいだり、腰につけた印籠(いんろう)を床の間に預けたりして、互いにその日のことを語り合った。「とにかく、きょうの模様を国の方へ報告して置くんですね」。「早速福島の方へそう言ってやりましょう」。「わたしも一つ馬籠へ手紙を出して、仕訳帳を至急取り寄せなけりゃならない」。

 多くの江戸の旅人宿と同じように、十一屋にも風呂場は設けてない。半蔵らは町の銭湯へ汗になったからだを洗いに行ったが、手ぬぐいを肩にかけて帰って来るころは、風も静まった。家々の表に打たれる水も都会の町中らしい時が来た。十一屋では夕飯も台所で出た。普通の場合、旅客は皆台所に集まって食った。食後に、半蔵らが二階にくつろいでいると、とかく同郷の客はなつかしいと言っている話し好きな十一屋の隠居がそこへ話し込みに来る。部屋の片すみに女中の置いて行った古風な行燈(あんどん)からして、堅気(かたぎ)な旅籠屋らしいところだ。「なんと言っても[「なんと言っても」は底本では「なんと言っも」]、江戸は江戸ですね」と言い出すのは平助だ。「きょうは屋敷町の方で蚊帳(かや)売りの声を聞いて来ましたよ」。「えゝ、蚊帳や蚊帳と、よい声で呼んでまいります。一町も先から呼んで来るのがわかります。あれは越後者(もの)だそうですが、江戸名物の一つでございます。あの声を聞きますと、手前なぞは木曾から初めて江戸へ出てまいりました時分のことをよく思い出します」と隠居が言う。

 幸兵衛も手さげのついた煙草盆を引き寄せて、一服吸い付けながらその話を引き取った。「十一屋さん、江戸もずいぶん不景気のようですね」。「いや、あなた、不景気にも何にも」と隠居は受けて、「お屋敷方があのとおりでしょう。きのうもあの建具屋の阿爺(おやじ)が見えまして、どこのお屋敷からも仕事が出ない、吾家(うち)忰(せがれ)なぞは去年の暮れからまるきり遊びです、そう言いまして、こぼし抜いておりました。そんならお前の家の子息(むすこ)は何をしてるッて、手前が言いましたら、することがないから当時流行の剣術のけいこですとさ。

 だんだん聞いて見ますと、江戸にはちょいちょい火事があるんで、まあ息がつけます、仕事にありつけますなんて、そんなことを言っていましたっけ。ああいう職人にして見たら、それが正直なところかもしれませんね」。「火事があるんで、息がつけるか。江戸は広い」と平助はくすくすやる。「いえ、串談(じょうだん)でなしに。火事は江戸の花――だれがあんなことを言い出したものですかさ。そのくせ、江戸の人くらい火事をこわがってるものもありませんがね。この節は夏でも火事があるんで、みんな用心しておりますよ。放火、放火――あのうわさはどうでしょう。苦しくなって来ると、それをやりかねないんです。ひどいやつになりますと、樋(とい)を逆さに伏せて、それを軒から軒へ渡して、わざわざ火を呼ぶと言いますよ」。「全く、これじゃ公方様のお膝元はひどい」と幸兵衛は言った。「今度わたしも出て来て見て、そう思いました。この江戸を毎日見ていたら、参覲交代を元通りにしたいと考えるのも無理はないと思いますね」。

 幸兵衛と半蔵とはかなり庄屋気質(かたぎ)を異にしていた。不思議にも、旅は年齢の相違や立場を忘れさせる。半蔵は宿屋のかみさんが貸してくれた糊(のり)のこわい浴衣(ゆかた)のざわりにも旅の心を誘われながら、黙しがちにみんなの話に耳を傾けた。「どうも、油断のならない世の中になりました」と隠居は言葉をつづけて、「大店(おおだな)は大店で、仕入れも手控え、手控えのようです。おまけに昼は押し借り、夜は強盗の心配でございましょう。まあ、手前どもにはよくわかりませんが、お屋敷方の御隠居でも若様でも御簾中(ごれんちゅう)でも御帰国御勝手次第というような、そんな御改革はだれがしたなんて、慶喜公を恨んでいるものもございます。あの豚一様(ぶたいちさま)(豚肉を試食したという一橋公の異名)か、何も知らないものは諧謔(ふざけ)半分にそんなことを申しまして、とかく江戸では慶喜公の評判がよくございません……」。江戸の話は尽きなかった。

 その晩、半蔵はおそくまでかかって、旅籠屋の行燈のかげで郷里の伏見屋伊之助あてに手紙を書いた。町々では夜燈なしに出歩くことを禁ぜられ、木戸木戸は堅く閉ざされた。警察もきびしくなって、その年の四月以来江戸市中に置かれたという邏卒(らそつ)が組の印(しる)しを腰につけながら屯所(たむろしょ)から回って来た。それすら十一屋の隠居のように町に居住するものから言わせれば、実に歯がゆいほどの巡回の仕方で。
 二
 江戸の旅籠屋は公事宿(くじやど)か商人宿のたぐいで、京坂地方のように銀三匁も四匁も宿泊料を取るようなぜいたくを尽くした家はほとんどない。公用商用のためこの都会に集まるものを泊めるのが旨としてあって、家には風呂場も設けず、膳部(ぜんぶ)も台所で出すくらいで、万事が実に質素だ。しかし半蔵が十年前に来て泊まって見たころとは宿賃からして違う。昼食抜きの二百五十文ぐらいでは泊めてくれない。

 
道中奉行の意向がわかってから、間もなく半蔵は両国の十一屋を去ることにした。同行の二人の庄屋をそこに残して置いて、自分だけは本所相生町(ほんじょあいおいちょう)の方へ移った。同じ本所に住む平田同門の医者の世話で、その人の懇意にする家の二階に置いてもらうことをしきりに勧められたからで。半蔵が移って行った相生町の家は、十一屋からもそう遠くない。回向院(えこういん)から東にあたる位置で、一つ目の橋の近くだ。そこには親子三人暮らしの気の置けない家族が住む。亭主多吉深川の米問屋へ帳付けにっているような人で、付近には名のある相撲関取も住むような町中であった。

 早速
平助は十一屋のあるところから両国橋を渡って、その家に半蔵をねて来た。「これはよい家が見つかりましたね」。平助は半蔵と一緒にその二階に上がってから言った。夏は二階の部屋も暑いとされているが、ここは思ったより風通しもよい。西に窓もある。しばらく二人はそんなことを語り合った。「時に、半蔵さん」と平助が言い出した。「どうもお役所の仕事は長い。去年木曾[底本では「木曽」]から総代が出て来た時は、あれは四月の末でした。それが今年の正月までかかりました。今度もわたしは長いと見た」。「まったく、近ごろは道中奉行の交代も頻繁ですね」と半蔵は答える。「せっかく地方の事情に通じた時分には一年か二年で罷(や)めさせられる。あれじゃお役所の仕事も手につかないわけですね」。

 「そう言えば、半蔵さん、江戸にはえらい話がありますよ。わたしは山村様のお屋敷にいる人たちから、神奈川奉行の組頭まえられた話を聞いて来ましたよ。どうして、君、これは聞き捨てにならない。その人は神奈川奉行の組頭だと言うんですから、ずいぶん身分のある人でしょうね。親類が長州の方にあって、まあ手紙をやったと想(おも)ってごらんなさい。親類へやるくらいですから普通の手紙でしょうが、ふとそれが探偵の手にはいったそうです。まことに穏やかでない御時節がらで、お互いに心配だ、どうか明君賢相が出てなんとか始末をつけてもらいたい、そういうことが書いてあったそうです。それを幕府のお役人が見て、何、天下が騒々しい、これは公方様蔑(ないがしろ)ろにしたものだ、公方様以外に明君が出てほしいと言うなら、いわゆる謀反人だということになって、組頭はすぐにお城の中で捕縛されてしまった。

 どうも、大変な話じゃありませんか。それから組頭が捕まえられると同時に家捜(やさが)しをされて、当人はそのまま伝馬町(てんまちょう)に入牢(にゅうろう)さ。なんでもたわいない吟味のあったあとで、組頭は牢中で切腹を申し付けられたと言いますよ。東片町のお屋敷でその話が出て、皆驚いていましたっけ。組頭の検死に行った御小人(おこびと)目付を知ってる人もあのお屋敷にありましてね、検死には行ったがまことに気の毒だったと、あとで御小人目付がそう言ったそうです。あの話を聞いたら、なんだかわたしは江戸にいるのが恐ろしくなって来ました。こうして宿方の費用で滞在して、旅籠屋の飯を食ってるのも気が気じゃありません」。

 この平助の言うように、長い旅食(りょしょく)は半蔵にしても心苦しかった。しかし、道中奉行に差し出す諸帳簿の検閲を受け、問わるるままに地方の事情を上申するというだけでは済まされなかった。この江戸出府を機会に、もう一度定助郷(じょうすけごう)設置の嘆願を持ち出し、かねての木曾十一宿の申し合わせを貫かないことには、平助にしてもまた半蔵にしても、このまま国へは帰って行かれなかった。

 前年、五人の総代が木曾から出て来た時、何ゆえに一行の嘆願が道中奉行の容(い)れるところとならなかったか。それは、よくよく村柄(むらがら)をお糺(ただし)しの上でなければ、容易に定助郷を仰せ付けがたいとの理由による。しかし、五人の総代からの嘆願も余儀なき事情に聞こえるからと言って、道中奉行は元治元年の二月から向こう六か月を限り、定助郷のかわりに当分助郷を許した。そして木曾下四宿への当分助郷としては伊奈百十九か村、中三宿へは伊奈九十九か村、上四宿へは筑摩郡(ちくまごおり)八十九か村と安曇郡(あずみごおり)百四十四か村を指定した。このうち遠村で正人馬(しょうじんば)を差し出しかね代永勤(だいえいづと)めの示談に及ぶとしても、一か年高百石につき金五両の割合より余分には触れ当てまいとの約束であった。

 
過ぐる半年近くの半蔵らの経験によると、この新規な当分助郷の村数が驚くばかりに拡大されたことは、かえって以前からの勤め村に人馬の不参を多くするという結果を招いた。これはどうしても前年の総代が嘆願したように、やはり東海道の例にならって定助郷を設置するにかぎる。道中奉行に誠意があるなら、適当な村柄を糺(ただ)されたい、もっと助郷の制度を完備して街道の混乱を防がれたい。もしこの木曾十一宿の願いがいれられなかったら、前年の総代が申し合わせたごとく、お定めの人馬二十五人二十五以外には継立てに応じまい、その余は翌日を待って継ぎ立てることにしたい。そのことに平助と半蔵とは申し合わせをしたのであった。

 時も時だ。西にはすでに大和(やまと)五条の乱があり、続いて生野(いくの)銀山の乱があり、それがようやくしずまったかと思うと、今度は東の筑波山(つくばさん)の方に新しい時代の来るのを待ち切れないような第三の烽火(のろし)が揚がった。尊王攘夷を旗じるしにする一部の水戸の志士はひそかに長州と連絡を執り、四月以来反旗をひるがえしているが、まだその騒動もしずまらない時だ。

 両国をさして帰って行く平助を送りながら、半蔵は一緒に
相生町(あいおいちょう)の家を出た。不自由な旅の身で、半蔵には郷里の方から届く手紙のことが気にかかっていた。十一屋まで平助と一緒に歩いて、そのことを隠居によく頼みたいつもりで出た。「平助さん、筑波が見えますよ」。半蔵は長い両国橋の上まで歩いて行った時に言った。「あれが筑波ですかね」と言ったぎり、平助も口をつぐんだ。水戸はどんなに騒いでいるだろうかとも、江戸詰めの諸藩の家中や徳川の家の子郎党なぞはどんな心持ちで筑波の方を望みながらこの橋を渡るだろうかとも、そんな話は出なかった。ただただ平助は昔風の庄屋気質(かたぎ)から、半蔵と共に旅の心配を分(わか)つのほかはなかった。

 その時、半蔵は向こうから橋を渡って帰って来る二人連れの女の子にもあった。その一人は相生町の家の娘だ。清元(きよもと)の師匠のもとからの帰りででもあると見えて、二人とも稽古本を小脇にかかえながら橋を渡って来る。ちょうど半蔵が郷里の馬籠の家に残して置いて来たお粂を思い出させるような年ごろの小娘たちだ。「半蔵さん、相生町にはあんな子供があるんですか」と平助が言っているところへ、一人の方の女の子が近づいて来て、半蔵にお辞儀をして通り過ぎた。後ろ姿もかわいらしい。男の子のように結った髪のかたちから、さっぱりとした浴衣(ゆかた)に幅の狭い更紗(さらさ)の帯をしめ、後ろにたれ下がった浅黄(あさぎ)の付け紐(ひも)を見せたところまで、ちょっと女の子とは見えない。小娘ではありながら男の子の服装だ。その異様な風俗がかえってなまめかしくもある。

 「へえ、あれが女の子ですかい。わたしは男の子かとばかり思った」と平助が笑う。「でしょう。何かの願掛けで、親たちがわざとあんな男の子の服装(なり)をさせてあるんだそうです」。そう答えながら、半蔵の目はなおも歩いて行く小娘たちの後ろ姿を追った。連れだって肩を並べて行く一人の方の女の子は、髪をお煙草盆(たばこぼん)というやつにして、渦巻きの浴衣に紅い鹿の子(かのこ)の帯を幅狭くしめたのも、親の好みをあらわしている。巾着(きんちゃく)もかわいらしい。「都に育つ子供は違いますね」。それを半蔵が言って、平助と一緒に見送った。
 十一屋の隠居は店先にいた。格子戸(こうしど)のなかで、旅籠屋らしい掛け行燈(あんどん)を張り替えていた。頼む用事があって来た半蔵を見ると、それだけでは済まさせない。毎年五月二十八日には浅草川の川開きの例だが、その年の花火には日ごろ出入りする屋敷方の御隠居をも若様をも迎えることができなかったと言って見せるのはこの隠居だ。遠くは水神(すいじん)、近くは首尾(しゅび)の松あたりを納涼の場所とし、両国を遊覧の起点とする江戸で、柳橋につないである多くの屋形船は今後どうなるだろうなどと言って見せるのもこの人だ。川一丸、関東丸、十一間丸などと名のある大船を水に浮かべ、舳先(へさき)に鎗(やり)を立てて壮(さか)んな船遊びをしたという武家全盛の時代を引き合いに出さないまでも、船屋形の両辺を障子で囲み、浅草川に暑さを避けに来る大名旗本の多かったころには、水に流れる提灯の影がさながら火の都鳥であったと言って見せるのもこの話し好きの人だ。

 「半蔵さん、まあ話しておいでなさるさ」と平助も二階へ上がらずにいて、半蔵と一緒にその店先でしばらく旅らしい時を送ろうとしていた。その時、隠居は思い出したように、「青山さん、あれから宮川先生もどうなすったでしょう。浜の貿易にはあの先生もしっかりお儲(もう)けでございましたろうねえ。なんでも一駄(だ)もあるほどの小判を馬につけまして、宰領の衆も御一緒で、中津川へお帰りの時も手前どもから江戸をお立ちになりましたよ」。これには半蔵も答えられなかった。彼は忘れがたい旧師のことを一時の浮沈(うきしずみ)ぐらいで一口に言ってしまいたくなかった。ただあの旧師が近く中津川を去って、伊勢の方に晩年を送ろうとしている人であることをうわさするにとどめていた。「横浜貿易と言えば、あれにはずいぶん祟(たた)られた人がある」と言うのは平助だ。「中津川あたりには太田の陣屋へ呼び出されて、尾州藩から閉門を仰せ付けられた商人もあるなんて、そんな話じゃありませんか。お灸(きゅう)だ。もうけ過ぎるからでさ」。

 「万屋(よろづや)さんもどうなすったでしょう」と隠居が言う。「万屋さんですか」と半蔵は受けて、「あの人はぐずぐずしてやしません。横浜の商売も生糸(きいと)の相場が下がると見ると、すぐに見切りをつけて、今度は京都の方へ目をつけています。今じゃ上方(かみがた)へどんどん生糸の荷を送っているでしょうよ」。「どうも美濃の商人にあっちゃ、かなわない。中津川あたりにはなかなか勇敢な人がいますね」と平助が言って見せる。

 「宮川先生で思い出しました」と隠居は言った。「手前が喜多村瑞見(ずいけん)というかたのお供をして、一度神奈川の牡丹屋にお訪ねしたことがございました。青山さんは御存じないかもしれませんが、この喜多村先生がまた変わり物と来てる。元は幕府の奥詰のお医者様ですが、開港当時の函館(はこだて)の方へ行って長いこと勤めていらっしゃるうちに、士分に取り立てられて、間もなく函館奉行の組頭でさ。今じゃ江戸へお帰りになって、昌平校の頭取から御目付(監察)に出世なすった。外交掛りを勤めておいでですが、あの調子で行きますと今に外国奉行でしょう。手前もこんな旅籠屋渡世をして見ていますが、あんなに出世をなすったかたもめずらしゅうございます」。「徳川幕府に人がないでもありませんかね」。この平助のトボケた調子に、隠居も笑い出した、外国貿易に、開港の結果に、それにつながる多くの人の浮沈(うきしずみ)に、聞いている半蔵には心にかかることばかりであった。

 その日から、半蔵は両国橋の往き還(いきかえ)りに筑波山を望むようになった。関東の平野の空がなんとなく戦塵におおわれて来たことは、それだけでも役人たちの心を奪い、お役所の事務を滞らせ、したがって自分らの江戸滞在を長引かせることを恐れた。時には九十六間(けん)からある長い橋の上に立って、木造の欄干に倚(よ)りかかりながら丑寅(うしとら)の方角に青く光る遠い山を望んだ。どんな暑苦しい日でも、そこまで行くと風がある。目にある隅田川も彼には江戸の運命と切り離して考えられないようなものだった。どれほどの米穀を貯(たくわ)え、どれほどの御家人旗本を養うためにあるかと見えるような御蔵(おくら)の位置はもとより、両岸にある形勝の地のほとんど大部分も武家のお下屋敷で占められている。おそらく百本杭(ひゃっぽんぐい)は河水の氾濫からこの河岸(かし)や橋梁(きょうりょう)を防ぐ工事の一つであろうが、大川橋(今の吾妻橋(あずまばし))の方からやって来る隅田川の水はあだかも二百何十年の歴史を語るかのように、その百本杭の側に最も急な水勢を見せながら、両国の橋の下へと渦巻き流れて来ていた。

 三人の庄屋が今度の江戸出府を機会に嘆願を持ち出したのは、理由のないことでもない。早い話が参覲交代制度の廃止は上から余儀なくされたばかりでなく、下からも余儀なくされたものである。たといその制度の復活が幕府の頽勢(たいせい)挽回する上からも、またこの深刻な不景気から江戸を救う上からも幕府の急務と考えられて来たにもせよ、繁文縟礼(はんぶんじょぅれい)が旧のままであったら、そのために苦しむものは地方の人民であったからで。しかし、道中奉行の協議中、協議中で、庄屋側からの願いの筋も容易にはかどらなかった。半蔵らは江戸の町々に山王社(さんのうしゃ)の祭礼の来るころまで待ち、月を越えて将軍が天璋院(てんしょういん)和宮様と共に新たに土木の落成した江戸城西丸へ田安(たやす)御殿の方から移るころまで待った。

 七月の二十日ごろまで待つうちに、さらに半蔵らの旅を困難にすることが起こった。「長州様がいよいよ御謀反だそうな」。そのうわさは人の口から口へと伝わって行くようになった。早乗りの駕籠は毎日幾立(いくたて)となく町へ急いで来て、京都の方は大変だと知らせ、十九日の昼時に大筒(おおづつ)鉄砲から移った火で洛中の町家の大半は焼け失(う)せたとのうわさをすら伝えた。半蔵が十一屋まで行って幸兵衛や平助と一緒になり、さらに三人連れだって殺気のあふれた町々を浅草橋の見附(みつけ)から筋違(すじかい)の見附まで歩いて行って見たのは二十三日のことであったが、そこに人だかりのする高札場(こうさつば)にはすでに長州征伐のお触れ書(ふれしょ)が掲げられていた。

 七月二十九日はちょうど二百十日の前日にあたる。半蔵は他の二人の庄屋と共に、もっと京都の方の事実を確かめたいつもりで、東片町の屋敷に木曾福島の山村氏が家中衆を訪ねた。そこでは京都まで騒動聞き届け役なるものを仰せ付けられた人があって、その前夜にわかに屋敷を出立したという騒ぎだ。京都合戦の真相もほぼその屋敷へ行ってわかった。確かな書面が名古屋のお留守居からそこに届いていて、長州方の敗北となったこともわかった。その時になって見ると、長州征伐の命令が下ったばかりでなく、松平大膳太夫(だゆう)ならびに長門守は官位を剥(は)がれ、幕府より与えられた松平姓と将軍家御諱(おんいみな)の一字をも召し上げられた。長防両国への物貨輸送は諸街道を通じてすでに堅く禁ぜられていた。

 ある朝、暁(あけ)の七つ時とも思われるころ。半蔵は本所相生町の家の二階に目をさまして、半鐘の音をの上で聞いた。火事かと思って、彼は起き出した。まず二階の雨戸を繰って見ると、別に煙らしいものも目に映らない。そのうちに寝衣(ねまき)のままで下から梯子段をのぼって来たのはその家の亭主多吉だ。「火事はどこでございましょう」という亭主と一緒に、半蔵はその二階から物干し場に登った。家々の屋根がそこから見渡される。付近に火の見のある家は、高い屋根の上に登って、町の空に火の手の揚がる方角を見さだめようとするものもある。「青山さん、表が騒がしゅうございますよ」と下から呼ぶ多吉がかみさんの声もする。半蔵と亭主はそれを聞きつけて、二階から降りて見た。多くの人は両国橋の方角をさして走った。半蔵らが橋の畔(たもと)まで急いで行って見た時は、本所方面からの鳶(とび)の者の群れが刺子(さしこ)の半天に猫頭巾(ずきん)で、手に手に鳶口(とびぐち)を携えながら甲高(かんだか)い叫び声を揚げて繰り出して来ていた。組の纏(まとい)が動いて行ったあとには、消防用の梯子が続いた。革羽織(かわばおり)兜頭巾(かぶとずきん)の火事装束をした人たちはそれらの火消し人足を引きつれて半蔵らの目の前を通り過ぎた。
長州屋敷打ち  長州屋敷の打ち壊(うちこわ)しが始まったのだ。幕府はおのれにそむくものに対してその手段に出た。江戸じゅうの火消し人足が集められて、まず日比谷にある毛利家の上屋敷が破壊された。かねて長州方ではこの事のあるのを予期してか、あるいは江戸を見捨てるの意味よりか、先年諸大名の家族が江戸屋敷から解放されて国勝手(うにがって)の命令が出たおりに、日比谷にある長州の上屋敷では表奥(おもておく)の諸殿を取り払ったから、打ち壊されたのは四方の長屋のみであった。麻布龍土町(あざぶりゅうどちょう)の中屋敷、俗に長州の檜(ひのき)屋敷と呼ぶ方にはまだ土蔵が二十か所もあって、広大な建物も残っていた。打ち壊しはそこでも始まった。大きな柱は鋸(のこぎり)伐(き)られ、それに大綱を鯱巻(しゃちま)きにして引きつぶされた。諸道具諸書物の類(たぐい)は越中島で焼き捨てられ、毛利家の定紋のついた品はことごとくふみにじられた。
池田屋の変  やがて京都にある友人景蔵からのめずらしい便りが、両国米沢町よねざわちょう十一屋あてで、半蔵のもとに届くようになった。あの年上の友人が安否のほども気づかわれていた時だ。彼は十一屋からそれを受け取って来て、相生町の二階でひらいて見た。とりあえず彼はその手紙に目を通して、あの友人も無事、師鉄胤かねたねも無事、京都にある平田同門の人たちのうち下京しもぎょう方面のものは焼け出されたが幸いに皆無事とあるのを確かめた。さらに彼は繰り返し読んで見た。相変わらず景蔵の手紙はこまかい。過ぐる年の八月十七日の政変に、王室回復の志をいだ公卿くげたち、および尊攘派の志士たちと気脈を通ずる長州藩が京都より退却を余儀なくされたことを思えば、今日この事のあるのは不思議もないとして、七月十九日前後の消息を伝えてある。

 池田屋の変は六月五日の早暁のことであった。守護職、
所司代、および新撰組の兵はそこに集まる諸藩の志士二十余名を捕えた。尊攘派の勢力を京都に回復し、会津薩摩との支持する公武合体派の本拠をくつがえし、筑波山つくばさんの方にる一派の水戸の志士たちとも東西相呼応して事をげようとしたそれらの種々の計画は、与党の一人なる近江人おうみじんの捕縛より発覚せらるるに至った。この出来事があってから、長州方はもはや躊躇ちゅうちょすべきでないとし、かねて準備していた挙兵上京の行動に移り、それを探知した幕府方もようやく伏見、大津の辺を警戒するようになった。守護職松平容保かたもりのにわかな参内さんだいと共に、九門の堅くとざされたころは、洛中の物情騒然たるものがあった。七月十八日には三道よりする長州方の進軍がすでに開始されたとの報知しらせが京都へ伝わった。夜が明けて十九日となると、景蔵は西の蛤御門はまぐりごもん中立売御門なかだちうりごもんの方面にわくような砲声を聞き、やがて室町むろまち付近より洛中に延焼した火災の囲みの中にいたとある。
長州の乱  今度の京都の出来事を注意して見るものには、長州藩に気脈を通じていて、しかも反覆常なき二、三藩のあったことも見のがせない事実であり、堂上にはまた、この計画に荷担して幕府に反対しあわせて公武合体派を排斥しようとする有栖川宮ありすがわのみやをはじめ、正親町おおぎまち、日野、石山その他の公卿たちがあったことも見のがせない、と景蔵は言っている。烈風に乗じて火を内裏だいりに放ち、中川宮および松平容保の参内を途中に要撃し、その擾乱じょうらんにまぎれて鸞輿らんよ叡山えいざんに奉ずる計画のあったことも知らねばならないと言ってある。流れだまはしばしば飛んで宮中の内垣うちがきに及んだという。板輿いたこしをお庭にかつぎ入れてみかどの御動座をはかりまいらせるものがあったけれども、一橋慶喜はそれをおさえて動かなかったという。なんと言っても蛤御門の付近は最も激戦であった。この方面は会津、桑名まもるところであったからで。皇居の西南にはくすの大樹がある。築地ついじたてとし家をとりでとする戦闘はそのの周囲でことに激烈をきわめたという。その時になって長州は実にその正反対を会津に見いだしたのである。薩州勢なぞは別の方面にあって幕府方に多大な応援を与えたけれども、会津ほど正面の位置には立たなかった。ひたすら京都の守護をもって任ずる会津武士は敵として進んで来る長州勢を迎え撃ち、時には蛤御門を押し開き、筒先も恐れずに刀鎗を用いて接戦するほどの東北的な勇気をあらわしたという。

 この市街戦はその日
ひつじこくの終わりにわたった。長州方は中立売なかだちうり、蛤門、境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。兵火の起こったのはこくのころであったが、おりから風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川から西は堀川に及び、南は九条にまで及んで下京のほとんど全都は火災のうちにあった。年寄りをたすけ幼いものをおぶった男や女は景蔵の右にも左にもあって、目も当てられないありさまであったとしたためてある。しかし、景蔵の手紙はそれだけにとどまらない。その中には、真木和泉まきいずみの死も報じてある。弘化こうか安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児とうたわれた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼、この尊攘の鼓吹者こすいしゃは自ら引き起こした戦闘の悲壮な空気の中に倒れて行った。彼は最後の二十一日まで踏みとどまろうとしたが、その時は山崎に退いた長州兵も散乱し、久坂くさか、寺島、入江らの有力な同僚も皆戦死したあとで、天王山に走って、そこで自刃した。
 この真木和泉の死について、景蔵の所感もその手紙の中に書き添えてある。尊王と攘夷との一致結合をねらい、それによって世態の変革を促そうとした安政以来の志士の運動は、事実においてその中心の人物を失ったとも言ってある。平田門人としての自分らは――ことに後進な自分らは、彼真木和泉が生涯しょうがいを振り返って見て、もっと自分らの進路を見さだむべき時に到達したと言ってある。 半蔵はその手紙で、中津川の友人香蔵がすでに京都にいないことを知った。その手紙をくれた景蔵も、ひとまず長い京都の仮寓かぐうを去って、これを機会に中津川の方へ引き揚げようとしていることを知った。

 真木和泉の死を聞いたことは、半蔵にもいろいろなことを考えさせた。景蔵の手紙にもあるように、対外関係のことにかけては硬派中の硬派とも言うべき真木和泉らのような人たちも、もはやこの世にいなかった。生前幕府の軟弱な態度を攻撃することに力をそそぎ、横浜
鎖港さこうの談判にも海外使節の派遣にもなんら誠意の見るべきものがないとし、将軍の名によって公布された幕府の攘夷もその実は名のみであるとしたそれらの志士たちも京都の一戦を最後にして、それぞれ活動の舞台から去って行った。

 これに加えて、先年五月以来の長州藩が攘夷の実行は
豊前ぶぜんにおけるアメリカ商船の砲撃を手始めとして、しも海峡を通過する仏国軍艦や伊国軍艦の砲撃となり、その結果長州では十八隻から成る英米仏蘭四国連合艦隊の来襲を受くるに至った。長州の諸砲台は多く破壊せられ、長藩はことごとく撃退せられ、下の関の市街もまたまさに占領せらるるばかりのにがい経験をなめたあとで、講和の談判はどうやら下の関から江戸へ移されたとか、そんな評判がもっぱら人のうわさに上るころである。開港か、攘夷か。それは四そうの黒船が浦賀の久里くりの沖合いにあらわれてから以来の問題である。国の上下をあげてどれほど深刻な動揺と狼狽ろうばいと混乱とを経験して来たかしれない問題である。一方に攘夷派を頑迷がんめいとののしる声があれば、一方に開港派を国賊とののしり返す声があって、そのためにどれほどの犠牲者を出したかもしれない問題である。英米仏蘭四国を相手の苦い経験を下の関になめるまで、攘夷のできるものと信じていた人たちはまだまだこの国に少なくなかった。かれしかれ、実際に行なって見て、初めてその意味を悟ったのは、ひとり長州地方の人たちのみではなかった。その時になって見ると、全国を通じてあれほどやかましかった多年の排外熱も、ようやく行くところまで行き尽くしたかと思わせる。
 三
 とうとう、半蔵は他の庄屋たちと共に、道中奉行からの沙汰を九月末まで待った。奉行から話のあった仕訳書上帳しわけかきあげちょうの郷里から届いたのも差し出してあり、木曾十一宿総代として願書も差し出してあって、半蔵らはかわるがわる神田橋かんだばし外の屋敷へ足を運んだが、そのたびに今すこし待て、今すこし待てと言われるばかり。両国十一屋に滞在する平助も、幸兵衛もしびれを切らしてしまった。こんな場合に金を使ったら、尾州あたりの留守居役を通しても、もっとてきぱき運ぶ方法がありはしないかなどとなぞをかけるものがある。そんな無責任な人の言うことが一層半蔵をさびしがらせた。「さぞ、御退屈でしょう」と言って相生町あいおいちょうの家の亭主が深川の米問屋へ出かける前に、よく半蔵を見に来る。四か月も二階に置いてもらううちに、半蔵はこの人を多吉さんと呼び、かみさんをおすみさんと呼び、清元きよもとのけいこにかよっている小娘のことをお三輪みわさんと呼ぶほどの親しみを持つようになった。「青山さん、宅じゃこんな勤めをしていますが、たまにおひまをもらいまして、運座うんざへ出かけるのが何よりの楽しみなんですよ。ごらんなさい、わたしどもの家には白い団扇うちわが一本も残っていません。一夏もたって見ますと、どの団扇にも宅の発句ほっくが書き散らしてあるんですよ」。お隅がそれを半蔵に言って見せると、多吉は苦笑にがわらいして、矢立てを腰にすることを忘れずに深川米の積んである方へ出かけて行くような人だ。

 
筑波つくばの騒動以来、関東の平野の空も戦塵せんじんにおおわれているような時に、ここには一切の争いをよそにして、好きな俳諧はいかいの道に遊ぶ多吉のような人も住んでいた。生まれは川越かわごえで、米問屋と酒問屋を兼ねた大きな商家の主人であったころには、川越と江戸の間を川舟でよく往来したという。生来の寡欲かよくと商法の手違いとから、この多吉が古い暖簾のれんたたまねばならなくなった時、かみさんはまた、草鞋わらじばき尻端折しりはしょりになって「おすみ団子だんご」というものを売り出したこともあり、一家をあげて江戸に移り住むようになってからは、を助けてこの都会に運命を開拓しようとしているような健気けなげな婦人だ。そういうかみさんはまだ半蔵が妻のお民と同年ぐらいにしかならない。半蔵はこの婦人の顔を見るたびに、郷里の本陣の方に留守居するお民を思い出し、都育ちのお三輪の姿を見るたびに、母親のそばで自分の帰国を待ち受けている娘のおくめを思い出した。徳川の代ももはや元治年代の末だ。社会は武装してかかっているような江戸の空気の中で、全く抵抗力のない町家の婦人なぞが何を精神の支柱とし、何を力として生きて行くだろうか。そう思って半蔵がこの宿のかみさんを見ると、お隅は正直ということをその娘に教え、それさえあればこの世にこわいもののないことを言って聞かせ、こうと彼女が思ったことに決して間違ったためしのないのもそれは正直なおかげだと言って、その女の一心にまだ幼いお三輪を導こうとしている。「青山さん、あなたの前ですが、青表紙あおびょうしの二枚や三枚読んで見たところで、何の役にも立ちますまいねえ」。「どうもおかみさんのような人にあっちゃ、かないませんよ」。

 この家へは、亭主が俳友らしい人たちも
たずねて来れば、近くに住む相撲取りも訪ねて来る。かみさんを力にして、酒の席を取り持つ客商売から時々息抜きにやって来るような芸妓げいぎもある。かみさんとは全く正反対な性格で、男から男へと心を移すような女でありながら、しかもかみさんとは一番仲がよくて、気持ちのいいほど江戸の水に洗われたような三味線しゃみせんの師匠もよく訪ねて来る。お隅は言った。「不景気、不景気でも、芝居しばいばかりは大入りですね。春の狂言なぞはどこもいっぱい。どれ――青山さんに、猿若町さるわかちょう番付ばんづけをお目にかけて」。相生町ではこの調子だ。

 六月の江戸出府以来、四月近くもむなしく奉行の沙汰を待つうちに、旅費のかさむことも半蔵には気が気でなかった。
東片町ひがしかたまちにある山村氏の屋敷には、いろいろな家中衆もいるが、木曾福島の田舎侍いなかざむらいとは大違いで、いずれも交際上手じょうずな人たちばかり。そういう人たちがよく半蔵を誘いに来て、広小路ひろこうじにかかっている松本松玉しょうぎょくの講釈でもききに行こうと言われると、帰りには酒のある家へ一緒に付き合わないわけにいかない。それらの人たちへの義理で、幸兵衛や平助と共にある屋敷へ招かれ、物数奇ものずきな座敷へ通され、薄茶うすちゃを出されたり、酒を出されたり、江戸の留守居とも思われないような美しい女まで出されて取り持たれると、どうしても一人前につき三ぐらいの土産みやげを持参しなければならない。半蔵は国から持って来た金子きんす払底ふっていになった。もっとも、多吉方ではむだな金を使わせるようなことはすこしもなく、食膳しょくぜんも質素ではあるが朔日ついたち十五日には必ず赤の御飯をたいて出すほど家族同様な親切を見せ、かみさんのおすみがいったん引き受けた上は、どこまでも世話をするという顔つきでいてくれたが。こんなに半蔵も長逗留ながとうりゅうで、追い追いとふところの寒くなったところへ、西の方からは尾張の御隠居を総督にする三十五藩の征長軍が陸路からも海路からも山口の攻撃に向かうとのうわさすら伝わって来た。
 この長逗留の中で、わずかに旅の半蔵を慰めたのは、国の方へ求めて行きたいものもあるかと思って本屋をあさったり、江戸にある平田同門の知人をたずねたり、時には平田家を訪ねてそこに留守居する師鉄胤かねたねの家族を見舞ったりすることであった。しかしそれにも増して彼が心を引かれたのは多吉夫婦で、わけてもかみさんのお隅のような目の光った人を見つけたことであった。江戸はもはや安政年度の江戸ではなかった。文化文政のそれではもとよりなかった。十年前の江戸の旅にはまだそれでも、紙、織り物、象牙ぞうげぎょく、金属のたぐいを応用した諸種の工芸の見るべきものもないではなかったが、今は元治年代を誇るべき意匠とてもない。半蔵はよく町々の絵草紙問屋えぞうしどんやの前に立って見るが、そこで売る人情本や、敵打かたきうちの物語や、怪談物なぞを見ると、以前にも増して書物としての形も小さく、紙質もしく、版画も粗末に、一切が実に手薄てうすになっている。相変わらずさかんなのは江戸の芝居でも、怪奇なものはますます怪奇に、繊細なものはますます繊細だ。とがった神経質と世紀末の機知とが淫靡いんび頽廃たいはいした色彩に混じ合っている。

 この江戸出府のはじめのころには、半蔵はよくそう思った。江戸の見物はこんな流行を舞台の上に見せつけられて、やり切れないような心持ちにはならないものかと。あるいは
藍微塵あいみじんあわせ格子こうし単衣ひとえ、豆絞りの手ぬぐいというこしらえで、贔屓ひいき役者が美しいならずものにふんしながら舞台に登る時は、いよすごいぞすごいぞとはやし立てるような見物ばかりがそこにあるのだろうかと。四月も江戸に滞在して、いろいろな人にも交際して見るうちに、彼はこの想像がごくうわつらなものでしかなかったことを知るようになった。よく見れば、この頽廃たいはいと、精神の無秩序との中にも、ただただその日その日の刺激を求めて明日のことも考えずに生きているような人たちばかりが決して江戸の人ではなかった。相生町のかみさんのように、婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかった名もない町人の妻ですら、世の移り変わりを舞台の上にながめ、ふとした場面から時の感じを誘われると、人の泣かないようなことに泣けてしかたがないとさえ言っている。うっかり連中の仲間入りをして芝居見物には出かけられないと言っている。

 当時の武士でないものは人間でないような封建社会に、従順ではあるが決して屈してはいない町人をそう遠いところに求めるまでもなく、高い権威ぐらいに
おそれないものは半蔵のすぐそばにもいた。背は高く、色は白く、目の光も強く生まれついたかわりに、白粉おしろい一つつけたこともなくて、せっせと台所に働いているような相生町の家のかみさんには、こんな話もある。彼女の夫がまだ大きな商家の若主人として川越の方に暮らしていたころのことだ。当時、お国替えの藩主を迎えた川越藩では、きびしいお触れを町家に回して、藩の侍に酒を売ることを禁じた。百姓町人に対しては実にいばったものだという川越藩の新しい侍の中には、長い脇差わきざしを腰にぶちこんで、ある日のよいの口ひそかに多吉が家の店先に立つものがあった。ちょうど多吉は番頭を相手に、その店先で将棋をさしていた。いきなり抜き身の刀を突きつけて酒を売れという侍を見ると、多吉も番頭もびっくりして、奥へ逃げ込んでしまった。そのころのおすみは十八の若さであったが、侍の前に出て、すごい権幕けんまくをもおそれずにきっぱりと断わった。先方はおこるまいことか。そこへ店の小僧が運んで来た行燈あんどんをぶちって見せ、店先の畳にぐざと刀を突き立て、それを十文字に切り裂いて、これでも酒を売れないかとおどしにかかった。なんと言われても城主の厳禁をまげることはできないとお隅が答えた時に、その侍は彼女の顔をながめながら、「そちは、何者の娘か」と言って、やがて立ち去ったという話もある。「江戸はどうなるでしょう」。半蔵は十一屋の二階の方に平助を見に行った時、腹下しの気味で寝ている連れの庄屋にそれを言った。平助は半蔵の顔を見ると、旅のもとに置いてある児童の読本よみほんでも読んでくれと言った。幸兵衛も長い滞在に疲れたかして、そのそばに毛深い足を投げ出していた。
 ようやく十月の下旬にはいって、三人の庄屋は道中奉行からの呼び出しを受けた。都筑駿河つづきするがの役宅には例の徒士目付かちめつけが三人を待ち受けていて、しばらく一室に控えさせた後、訴えじょの方へ呼び込んだ。「ただいま駿河守は登城中であるから、自分が代理としてこれを申し渡す」。この挨拶が公用人からあって、十一宿総代のものは一通の書付を読み聞かせられた。それには、定助郷じょうすけごう嘆願の趣ももっともには聞こえるが、よくよく村方の原簿をおただしの上でないと、容易には仰せ付けがたいとある。元来定助郷は宿駅の常備人馬を補充するために、最寄もよりの村々へ正人馬勤しょうじんばづとめを申し付けるの趣意であるから、宿駅への距離の関係をよくよく調査した上でないと、定助郷の意味もないとある。しかし三人の総代からの嘆願も余儀なき事情に聞こえるから、十一宿救助のお手当てとして一宿につき金三百両ずつを下し置かれるとある。ただし、右はおまわとして、その利息にて年々各宿の不足を補うように心得よともある。別に、三人は請書うけしょを出せと言わるる三通の書付をも公用人から受け取った。それには十一宿あてのお救いお手当て金下付のことがしたためてあって、駿河佐渡二奉行の署名もしてある。

 木曾地方における街道付近の助郷が組織を完備したいとの願いは、ついにきき入れられなかった。三人の庄屋は定助郷設置のかわりに、そのお手当てを許されただけにも満足しなければならなかった。その時、庄屋方から差し出してあった
人馬立辻帳じんばたてつじちょう、宿勘定仕訳帳等の返却を受けて、そんなことで屋敷から引き取った。「どうも、こんな膏薬こうやくをはるようなやり方じゃ、これから先のことも心配です」。両国の十一屋まで三人一緒にもどって来た時、半蔵はそれを言い出したが、心中の失望は隠せなかった。「半蔵さんはまだ若い」と幸兵衛は言った。「まるきりお役人に誠意のないものなら、一もんだってお手当てなぞの下がるもんじゃありません」。「まあ、まあ、これくらいのところで、早く国の方へ引き揚げるんですね――長居は無用ですよ」。平助は平助らしいことを言った。ともかくも、地方の事情を直接に道中奉行の耳に入れただけでも、十一宿総代として江戸へ呼び出された勤めは果たした。請書うけしょは出した。今度は帰りじたくだ。半蔵らは東片町にある山村氏の屋敷から一時旅費の融通をしてもらって、長い逗留とうりゅうの間に不足して来た一切の支払いを済ませることにした。ところが、東片町には何かの機会に一ぱいやりたい人たちがそろっていて、十一宿の願書が首尾よく納まったと聞くからには、とりあえず祝おう、そんなことを先方から切り出した。江戸詰めの侍たちは、目立たないところに料理屋を見立てることから、酒を置き、芸妓げいぎを呼ぶことまで、その辺は慣れたものだ。半蔵とてもその席に一座して交際上手じょうずな人たちから祝盃しゅくはいをさされて見ると、それを受けないわけに行かなかったが、宿方の用事で出て来ている身には酒も咽喉のどを通らなかった。その日は酒盛さかもり最中に十月ももはや二十日過ぎらしい雨がやって来た[#「やって来た」は底本では「やった来た」]。一座六人の中には、よいきげんになっても、まだ飲み足りないという人もいた。二軒も梯子はしごで飲み歩いて、無事に屋敷へ帰ったかもわからないような大酩酊めいていの人もいた。

 間もなく
相生町あいおいちょうの二階で半蔵が送るついの晩も来た。出発の前日には十一屋の方へ移って他の庄屋とも一緒になる約束であったからで。その晩は江戸出府以来のことが胸に集まって来て、実に不用な雑費のみかさんだことを考え、宿方総代としてのこころざしも思うように届かなかったことを考えると、彼は眠られなかった。階下したでも多吉夫婦がおそくまで起きていると見えて、二人の話し声がぼそぼそ聞こえる。彼はの上で、郷里の方の街道を胸に浮かべた。去る天保四年、同じく七年の再度の凶年で、村民が死亡したり離散したりしたために、馬籠のごとき峠の上の小駅ではお定めの人足二十五人を集めるにさえも、隣郷の山口村や湯舟沢村の加勢に待たねばならないことを思い出した。駅長としての彼が世話する宿駅の地勢を言って見るなら、上りは十曲峠じっきょくとうげ、下りは馬籠峠、大雨でも降れば道は河原のようになって、おまけに土は赤土と来ているから、嶮岨けんそな道筋での継立つぎたても人馬共に容易でないことを思い出した。冬春の雪道、あるいは凍り道などのおりはことに荷物の運搬も困難で、宿方役人どもをはじめ、伝馬役てんまやく、歩行役、七里役等の辛労は言葉にも尽くされないもののあることを思い出した。病み馬、疲れ馬のできるのも無理のないことを思い出した。郷里の方にいる時こそ、宿方と助郷村々との利害の衝突も感じられるようなものだが、遠く江戸へ離れて来て見ると、街道筋での奉公には皆同じように熱い汗を流していることを思い出した。彼は郷里の街道のことを考え、江戸を見た目でもう一度あの宿場を見うる日のことを考え、そこに働く人たちと共に武家の奉公を忍耐しようとした。

 徳川幕府の
頽勢たいせい挽回ばんかいし、あわせてこの不景気のどん底から江戸を救おうとするような参覲交代の復活は、半蔵らが出発以前にすでに触れ出された。
一、万石まんごく以上の面々ならびに交代寄合こうたいよりあい、参覲の年割ねんわり御猶予成し下されそうろうむね、去々戌年いぬどし仰せいだされ候ところ、深きおぼし召しもあらせられ候につき、向後こうご前々まえまえお定めの割合に相心得あいこころえ、参覲交代これあるべき旨、仰せ出さる。
一、万石以上の面々ならびに交代寄合、その嫡子在国しかつ妻子国もとへ引き取り候とも勝手たるべき次第の旨、去々戌年仰せ出され、めいめい国もとへ引き取り候面々もこれあり候ところ、このたび御進発も遊ばされ候については、深き思し召しあらせられ候につき、前々の通り相心得、当地(江戸)へ呼び寄せ候よういたすべき旨、仰せ出さる。
 このお触れ書の中に「御進発」とあるは、行く行く将軍の出馬することもあるべき大坂城への進発をさす。尾張大納言おわりだいなごんを総督にする長州征討軍の進発をさす。

 三人の庄屋には、道中奉行から江戸に呼び出され、諸大名通行の難関たる木曾地方の事情を問いただされ、たとい一時的の応急策たりとも宿駅補助のお手当てを下付された意味が、このお触れ書の発表で一層はっきりした。江戸は、三人の庄屋にとって、もはやぐずぐずしているべきところではなかった。「長居は無用だ」。そう考えるのは、ひとり用心深い平助ばかりではなかったのだ。

 しかし、郷里の方の空も心にかかって、三人の庄屋がそこそこに江戸を引き揚げようとしたのは、彼らの滞在が六月から十月まで長引いたためばかりでもなかったのである。出発の前日、
筑波つくばの方の水戸浪士の動静について、確かな筋へ届いたといううわさを東片町の屋敷から聞き込んで来たものもあったからで。

 出発の日には、半蔵はすでに十一屋の方に移って、同行の庄屋たちとも一緒になっていたが、そのまま江戸をたって行くに忍びなかった。多吉夫婦に別れを告げるつもりで、ひとりで朝早く両国の
旅籠屋はたごやを出た。霜だ。まだ人通りも少ない両国橋の上に草鞋わらじの跡をつけて、彼は急いで相生町の家まで行って見た。青い河内木綿かわちもめん合羽かっぱ脚絆きゃはんをつけたままで門口から訪れる半蔵の道中姿を見つけると、小娘のお三輪は多吉やおすみを呼んだ。「オヤ、もうお立ちですか。すっかりおしたくもできましたね」と言うお隅のあとから、多吉もそこへ挨拶に来る。その時、多吉はお隅に言いつけて、紺木綿の切れの編みまぜてある二足の草鞋を奥から持って来させた。それを餞別せんべつのしるしにと言って、風呂敷包ふろしきづつみにして半蔵の前に出した。「これは何よりのものをいただいて、ありがたい」。「いえ、お邪魔かもしれませんが、道中でおはきください。それでも宅が心がけまして、わざわざ造らせたものですよ」。「多吉さんは多吉さんらしいものをくださる」。あわただしい中にも、半蔵は相生町の家の人とこんな言葉をかわした。多吉は別れを惜しんで、せめて十一屋までは見送ろうと言った。暇乞いとまごいして行く半蔵の後ろから、尻端しりはしを折りながら追いかけて来た。「青山さん、あなたの荷物は」。「荷物ですか。きのうのうちに馬が頼んであります」。「それにしても、早いお立ちですね。実は吾家うちから立っていただきたいと思って、お隅ともその話をしていたんですけれど、連れがありなさるんじゃしかたがない。この次ぎ、江戸へお出かけになるおりもありましたら、ぜひおたずねください。お宿はいつでもいたしますよ」。「さあ、いつまた出かけて来られますかさ」。「ほんとに、これも何かの御縁かと思いますね」。

 両国十一屋の方には、幸兵衛、平助の二人がもう
草鞋わらじまではいて、半蔵を待ち受けていた。頼んで置いた馬も来た。その日はお茶壺ちゃつぼの御通行があるとかで、なるべく朝のうちに出発しなければならなかった。半蔵は大小二の旅の荷物を引きまとめ、そのうち一つは琉球莚包こもづつみにして、同行の庄屋たちと共に馬荷に付き添いながら板橋経由で木曾街道の方面に向かった。
 四
水戸浪士の決起  四月以来、筑波つくばの方に集合していた水戸の尊攘派の志士は、九月下旬になって那珂湊なかみなとに移り、そこにある味方の軍勢と合体して、幕府方の援助を得た水戸の佐幕党さばくとうと戦いを交えた。この湊の戦いは水戸尊攘派の運命を決した。力尽きて幕府方にくだるものが続出した。二十三日まで湊をささえていた筑波勢は、館山たてやまっていた味方の軍勢と合流し、一筋の血路を西に求めるために囲みを突いて出た。この水戸浪士の動きかけた方向は、まさしく上州路じょうしゅうじから信州路に当たっていたのである。木曾の庄屋たちが急いで両国の旅籠屋を引き揚げて行ったのは、この水戸地方の戦報がしきりに江戸に届くころであった。

 筑波の空に揚がった高い
烽火のろしは西の志士らと連絡のないものではなかった。筑波の勢いが大いにふるったのは、あだかも長州の大兵が京都包囲のまっ最中であったと言わるる。水長二藩の提携は従来幾たびか画策せられたことであって、一部の志士らが互いに往来し始めたのは安藤老中あんどうろうじゅう要撃の以前にも当たる。東西相呼応して起こった尊攘派の運動は、西には長州の敗退となり、東には水戸浪士らの悪戦苦闘となった。

 
みなとを出て西に向かった水戸浪士は、石神村いしがみむらを通過して、久慈郡大子村くじごおりだいごむらをさして進んだが、討手うっての軍勢もそれをささえることはできなかった。それから月折峠つきおれとうげに一戦し、那須なす雲巌寺うんがんじに宿泊して、上州路に向かった。この一団はある一派を代表するというよりも、有為な人物を集めた点で、ほとんど水戸志士の最後のものであった。その人数は、すくなくも九百人の余であった。水戸領内の郷校に学んだ子弟が、なんと言ってもその中堅を成す人たちであったのだ。名高い水戸の御隠居(烈公れっこう)が在世の日、領内の各地に郷校を設けて武士庶民の子弟に文武を習わせた学館の組織はやや鹿児島の私学校に似ている。水戸浪士の運命をたどるには、一応彼らの気質を知らねばならない。

 寺がある。付近は子供らの遊び場処である。寺には
閻魔えんま大王の木像が置いてある。その大王の目がぎらぎら光るので、子供心にもそれを水晶であると考え、得がたい宝石をしさのあまり盗み取るつもりで、昼でも寂しいその古寺の内へ忍び込んだ一人の子供がある。木像に近よると、子供のことで手が届かない。閻魔王のひざに上り、短刀を抜いてその目をえぐり取り、莫大ばくだい分捕ぶんどり品でもしたつもりで、よろこんで持ち帰った。あとになってガラスだと知れた時は、いまいましくなってその大王の目を捨ててしまったという。これが九歳にしかならない当時の水戸の子供だ。

 森がある。神社の鳥居がある。昼でも暗い社頭の境内がある。何げなくその境内を行き過ぎようとして、小僧待て、と声をかけられた一人の少年がある。見ると、神社の祭礼のおりに、服装のみすぼらしい浪人とあなどって、
腕白盛わんぱくざかりのいたずらから多勢を頼みに悪口を浴びせかけた背の高い男がそこにたたずんでいる。浪人は一人ぽっちの旅烏たびがらすなので、祭りのおりには知らぬ顔で通り過ぎたが、その時は少年の素通りを許さなかった。よくも悪口雑言あっこうぞうごんを吐いて祭りの日に自分をはずかしめたと言って、一人と一人で勝負をするから、その覚悟をしろと言いながら、刀のつかに手をかけた。少年も負けてはいない。かねてから勝負の時には第一撃に敵をってしまわねば勝てるものではない、それには互いに抜き合って身構えてからではおそい。抜き打ちに斬りつけて先手を打つのが肝要だとは、日ごろ親から言われていた少年のことだ。居合いあいの心得は充分ある。よし、とばかり刀のをとってたすきにかけ、はかま股立ももだちを取りながら先方の浪人を見ると、その身構えがまるで素人しろうとだ。掛け声勇ましくこちらは飛び込んで行った。抜き打ちに敵の小手こてに斬りつけた。あいにくと少年のことで、一尺八寸ばかりの小脇差こわきざししか差していない。その尖端が相手に触れたか触れないくらいのことに先方の浪人はきびすかえして、一目散に逃げ出した。こちらもびっくりして、抜き身の刀を肩にかつぎながら、あとも見ずに逃げ出して帰ったという。これがわずかに十六歳ばかりの当時の水戸の少年だ。

 二階がある。座敷がある。酒が置いてある。その酒楼の二階座敷の
手摺てすりには、やりぶすまを造って下からずらりと突き出した数十本の抜き身の鎗がある。町奉行のために、不逞ふていの徒の集まるものとにらまれて、包囲せられた二人の侍がそこにある。なんらの罪を犯した覚えもないのに、これは何事だ、と一人の侍が捕縛に向かって来たものに尋ねると、それは自分らの知った事ではない。足下そっからを引致いんちするのが役目であるとの答えだ。しからば同行しようと言って、数人にまもられながらかわやにはいった時、一人の侍は懐中の書類をことごとくつぼの中に捨て、刀を抜いてそれを深く汚水の中に押し入れ、それから身軽になって連れの侍と共に引き立てられた。罪人を乗せる網の乗り物に乗せられて行った先は、町奉行所だ。厳重な取り調べがあった。証拠となるべきものはなかったが、二人とも小人目付こびとめつけに引き渡された。

 ちょうど水戸藩では佐幕派の
領袖りょうしゅう市川三左衛門いちかわさんざえもんが得意の時代で、尊攘派征伐のために筑波つくば出陣の日を迎えた。邸内は雑沓ざっとうして、侍たちについた番兵もわずかに二人のみであった。夕方が来た。とらわれとなった連れの侍は仲間にささやいて言う。自分はかの反対党に敵視せらるること久しいもので、もしこのままにいたらられることは確かである、彼らのために死ぬよりもむしろ番兵を斬りたおして逃げられるだけ逃げて見ようと思うが、どうだと。それを聞いた一人の方の侍はそれほど反対党から憎まれてもいなかったが、同じ囚われの身でありながら、行動を共にしないのは武士のなすべきことでないとの考えから、その夜の月の出ないうちに脱出しようと約束した。待て、番士に何の罪もない、これを斬るはよろしくない、一つ説いて見ようとその侍が言って、番士を一室に呼び入れた。聞くところによると水府は今非常な混乱に陥っている、これは国家危急のときで武士の坐視ざしすべきでない、よって今からここを退去する、幸いに見のがしてくれるならあえてかまわないが万一職務上見のがすことはならないとあるならやむを得ない、自分らの刀の切れ味を試みることにするが、どうだ。それを言って、刀を引き寄せ、鯉口こいぐちを切って見せた。二人の番士はハッと答えて、平伏したまま仰ぎ見もしない。しからば御無礼する、あとの事はよろしく頼む、そう言い捨てて、侍は二人ともそこを立ち去り、庭からかきを乗り越えて、その夜のうちに身をかくしたという。これが当時の水戸の天狗連てんぐれんだ。

 水戸人の持つこのたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられた。かつては横浜在留の外国人にも。井伊大老もしくは安藤老中のような幕府当局の大官にも。これほど敵を攻撃することにかけては身命をも
してかかるような気性きしょうの人たちが、もしその正反対を江戸にある藩主の側にも、郷里なる水戸城の内にも見いだしたとしたら。
 水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。それは実に藩論分裂の形であらわれて来た。もとより、一般の人心は動揺し、新しい世紀もようやくめぐって来て、だれもが右すべきか左すべきかと狼狽ろうばいする時に当たっては、二百何十年来の旧を守って来た諸藩のうちで藩論の分裂しないところとてもなかった。水戸はことにそれが激しかったのだ。『大日本史』の大業を成就して、大義名分を明らかにし、学問を曲げてまで世におもねるものもある徳川時代にあってとにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。彰考館しょうこうかんの修史、弘道館こうどうかんの学問は、諸藩の学風を指導する役目を勤めた。当時における青年で多少なりとも水戸の影響を受けないものはなかったくらいである。いかんせん、水戸はこの熱意をもって尊王佐幕の一大矛盾につき当たった。あの波瀾はらんの多い御隠居の生涯がそれだ。遠く西山公せいざんこう以来の遺志を受けつぎ王室尊崇の念のあつかった御隠居は、紀州や尾州の藩主と並んで幕府を輔佐する上にも人一倍責任を感ずる位置に立たせられた。

 この水戸の
苦悶くもんは一方に誠党と称する勤王派の人たちを生み、一方に奸党かんとうと呼ばるる佐幕派の人たちを生んだ。一つの藩は裂けてたたかった。当時諸藩に党派争いはあっても、水戸のように惨酷ざんこくをきわめたところはない。誠党が奸党を見るのは極悪ごくあくの人間と心の底から信じたのであって、奸党が誠党を見るのもまたお家の大事も思わず御本家大事ということも知らない不忠の臣と思い込んだのであった。水戸の党派争いはほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあるものだと言った人もある。いわゆる誠党は天狗連てんぐれんとも呼び、いわゆる奸党は諸生党とも言った。当時の水戸藩にある才能の士で、誠でないものは奸、奸でないものは誠、両派全く分かれて相鬩あいせめぎ、その中間にあるものをば柳と呼んだ。市川三左衛門をはじめ諸生党の領袖りょうしゅうが国政を左右する時を迎えて見ると、天狗連の一派は筑波山の方に立てこもり、田丸稲右衛門たまるいなえもんを主将に推し、き御隠居の御霊代みたましろを奉じて、尊攘の志をいたそうとしていた。

 かねて幕府は水戸の尊攘派を毛ぎらいし、誠党領袖の一人なる
武田耕雲斎たけだこううんさいと筑波に兵をげた志士らとの通謀を疑っていた際であるから、早速さっそく耕雲斎に隠居慎いんきょつつしみを命じ、諸生党の三左衛門らを助けて筑波の暴徒をたしめるために関東十一藩の諸大名に命令を下した。三左衛門は兵を率いて江戸を出発し、水戸城に帰って簾中れんちゅう母公貞芳院ていほういんならびに公子らを奉じ、その根拠を堅めた。これを聞いた耕雲斎らは水戸家の存亡が今日にあるとして、幽屏ゆうへいの身ではあるが禁を破って水戸を出発した。そして江戸にある藩主をいさめて奸徒かんとの排斥をはかろうとした。かく一藩が党派を分かち、争闘を事とし、しばらくも鎮静する時のなかったため、松平大炊頭おおいのかみ宍戸侯ししどこう)は藩主の目代もくだいとして、八月十日に水戸の吉田に着いた。ところが、水戸にある三左衛門はこの鎮撫ちんぶの使者に随行して来たものの多くが自己の反対党であるのを見、その中には京都より来た公子余四麿よしまろの従者や尊攘派の志士なぞのあるのを見、大炊頭が真意を疑って、その入城を拒んだ。朋党ほうとうの乱はその結果であった。

 混戦が続いた。大炊頭、耕雲斎、稲右衛門、この三人はそれぞれの立場にあったが、尊攘の志には一致していた。水戸城を根拠とする三左衛門らを共同の敵とすることにも一致した。
みなとの戦いで、大炊頭が幕府方の田沼玄蕃頭たぬまげんばのかみくだるころは、民兵や浮浪兵の離散するものも多かった。天狗連の全軍も分裂して、味方の陣営に火を放ち、田沼侯に降るのが千百人の余に上った。稲右衛門の率いる筑波勢の残党は湊の戦地から退いて、ほど近き館山たてやまる耕雲斎の一隊に合流し、共に西に走るのほかはなかったのである。湊における諸生党の勝利は攘夷をきらっていた幕府方の応援を得たためと、形勢を観望していた土民の兵を味方につけたためであった。一方、天狗党では、幹部として相応名の聞こえた田中源蔵げんぞうが軍用金調達を名として付近を掠奪りゃくだつし、民心を失ったことにもよると言わるるが、軍資の供給をさえ惜しまなかったという長州方の京都における敗北が水戸の尊攘派にとっての深い打撃であったことは争われない。

 西の空へと動き始めた水戸浪士の一団については、当時いろいろな取りざたがあった。行く先は京都だろうと言うものがあり、長州まで落ち延びるつもりだろうと言うものも多かった。しかし、これは
き水戸の御隠居を師父と仰ぐ人たちが、従二位大納言じゅにいだいなごんの旗を押し立て、その遺志を奉じて動く意味のものであったことを忘れてはならない。九百余人から成る一団のうち、水戸の精鋭をあつめたと言わるる筑波組は三百余名で、他の六百余名は常陸ひたち下野しもつけ地方の百姓であった。中にはまた、京都方面から応援に来た志士もまじり、数名の婦人も加わっていた。二名の医者までいた。その堅い結び付きは、実際の戦闘力を有するものから、兵糧方ひょうろうかた賄方まかないかた雑兵ぞうひょう歩人ぶにん等を入れると、千人以上の人を動かした。軍馬百五十頭、それにたくさんな小荷駄こにだを従えた。陣太鼓と旗十三、四本を用意した。これはただの落ち武者の群れではない。その行動は尊攘の意志の表示である。さてこそ幕府方を狼狽ろうばいせしめたのである。

 この浪士の中には、
藤田小四郎ふじたこしろうもいた。亡き御隠居を動かして尊攘の説を主唱した藤田東湖がこの世を去ってから、その子の小四郎が実行運動に参加するまでには十一年の月日がたった。衆に先んじて郷校の子弟を説き、先輩稲右衛門を説き、日光参拝と唱えて最初から下野国大平山しもつけのくにおおひらやまにこもったのも小四郎であった。水戸の家老職を父とする彼もまた、四人の統率者より成る最高幹部の一人たることを失わなかった。

 高崎での一戦の後、上州
下仁田しもにたまで動いたころの水戸浪士はほとんど敵らしい敵を見出さなかった。高崎勢は同所の橋を破壊し、五十人ばかりの警固の組で銃を遠矢に打ち掛けたまでであった。鏑川かぶらがわは豊かな耕地の間を流れる川である。そのほとりから内山峠まで行って、嶮岨けんそな山の地勢にかかる。朝早く下仁田を立って峠の上まで荷を運ぶに慣れた馬でも、茶漬ちゃづけごろでなくては帰れない。そこは上州と信州の国境くにざかいにあたる。上り二里、下り一里半のごくの難場だ。千余人からの同勢がその峠にかかると、道は細く、橋は破壊してある。警固の人数が引き退いたあとと見えて、兵糧雑具等が山間やまあいに打ち捨ててある。浪士らは木をり倒し、その上に蒲団ふとん衣類を敷き重ねて人馬を渡した。大砲、玉箱から、御紋付きの長持、駕籠かごまでそのけわしい峠を引き上げて、やがて一同佐久さくの高原地に出た。

 十一月の十八日には、浪士らは
千曲川ちくまがわを渡って望月宿もちづきじゅくまで動いた。松本藩の人が姿を変えてひそかに探偵に入り込んで来たとの報知しらせも伝わった。それを聞いた浪士らは警戒を加え、きびしく味方の掠奪りゃくだつをも戒めた。十九日和田泊まりの予定で、尊攘の旗は高く山国の空にひるがえった。




(私論.私見)