和解一、二、三、四、五 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.9.3日
(れんだいこのショートメッセージ) |
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【和解一】 |
この7月31日は昨年生れて五十六日目に死んだ最初の児の一周忌に当たっていた。自分は墓参りの為め我孫子(あびこ)から久しぶりで上京した。 |
上野から麻布(あざぶ)の家(うち)へ電話をかけた。出て来た女中に母を呼び出して貰った。「お祖母(ばあ)さんは如何(いかが)ですか」と云った。「お元気ですけど未(ま)だお出掛けになるのは少し早いので、お墓へは今朝私が出て来ました」と母が答えた。「そうですか。僕もこれから青山へ行く心算(つもり)です」。 |
二人は一寸(ちょっと)黙った。「今日は青山だけですか?」と母が云った。「友達の所へも寄る心算(つもり)です」と答えた。母は云いにくそうに少し小声になって、「今日はお父さんお在宅(うち)なの---」と云った。「そうですか。又その内に出て来ましょう」。 |
自分はできるだけそれを無心らしく云ったが、屈辱から来る不愉快な表情は電話口だけに露骨に自分の顔に現れるのを感じた。母は、「康子(さだこ)や留女子(るめこ)も元気ですネ」と未だ産褥(さんじょく)にいる妻や九日前に生れた第二の児の事を訊(き)いた。「元気にしています」、「お乳もよく出ますか?」、「よく出ます」。そして自分は「それじゃあ-----」と云った。「あのね。もしお出かけになるかも知れないから、又後で掛けて見てください」と母が云った。承知して電話を断(き)った。 |
自分は直(す)ぐ電車で青山に向かった。三丁目で降りて墓地へ行く途中花屋によって色花を買った。自分はまだ少し早いとは思ったが、その店の電話を借りて又母へ掛けて見ると、父はまだ自家(うち)にいるという事だった。ここでも自分は不愉快な、そして腹立たしい気分に被(おお)われた。 |
何時(いつも)よりその日自分は祖母に会いたかった。一つは祖母が自分に会いたがっていそうな気がしたからであった。 |
去年の児は東京の病院で生れたので、一日おき或いは二日おきに祖母はそれを見に出かけた。しかし今年の児は我孫子で生まれたから祖母はまだ一度も見なかった。暑さと少し勝れない健康とで、祖母は来たがりながら来られなかった。それで尚(なお)自分に会って赤子の様子を聴きたがっていそうな気がしたのである。自分は父とだけの不愉快な関係からそう云う気持ちまで犠牲にするのは少し馬鹿々々しい気がした。祖母や母がそれを破れないのは仕方がない。しかし自分も一緒になってそれを認めているのは馬鹿げている気がした。第一父の留守にこそこそと祖母に会いに行く自分の姿が如何にも醜く、そして腹立たしく自分に感じられた。 |
自分は先に祖父と実母の墓へ行った。祖父の兄夫婦の墓も其処(そこ)にあった。花立はその朝差した花でどれも一杯だった。自分は今持って来ただけの花は自分の赤子の墓へ差してやろうと思って、それは帽子と一緒に刈り込んだ金目垣(かなめがき)の上に置いた。 |
特別な場合の他は墓の前でお辞儀しない癖が自分にあった。それは十六七年前キリスト教を信じた頃の或る理屈から来た習慣だったが、墓の前を只ぶらぶら歩いている内に、他の場所では到底それ程はできない近さと明瞭(はっきり)さで、その墓の下の人が自分の心裡(しんり)に蘇(よみがえ)って来る。 |
自分は祖父の墓の前を少時(しばらく)歩いていた。その内祖父が自分の心裡に蘇って来た。その祖父に対し自分には「今日祖母に会いに行きたいと思うが」という相談するような気持が浮んだ。「会いに行ったらよかろう」と直ぐその祖父が答えた。自分の想像が祖父にそう答えさしたと云うにしては余りに明かに、余りに自然に、直ぐそれが浮んだ。それは夢の中で出会う人のように客観性を持っていて、自分には如何にも生きていた時の祖父らしかった。自分はその簡単な言葉の裡(うち)に年寄った祖母に対する祖父の愛撫(あいぶ)をさえ感じたような気がした。そしてその時自分の心は不快から明かに父を非難していたにもかかわらず同じ自分の心に蘇っている祖父には少しも父を非難する調子はなかった。 |
自分は実母の墓の前へ行った。それは祖父ほどに明瞭(はっきり)とは蘇って来なかったが、自分が同じ事を話しかけた時に、実母は如何にも臆病な女らしく不徹底な調子で何か愚図々々(ぐずぐず)云った。自分は相手にしないようにその前を去った。 |
自分はやはり祖母に会いに行こうと思った。板挟みになる母には気の毒な気がした。勝手の方から廻って直接祖母の部屋に行ってやろうかしらと考えた。父の家(うち)へ出入りするのではない、祖母の部屋だけに出入りするのだと云いたかった。しかし勝手から廻るのはやはり不愉快だった。仲の口から茶の間を抜けて電話室の前へ来て、其処(そこ)で電話室に居る父と窓越しに顔を見合わす場合もないとは云えない。それにしろ勝手から廻るのは不愉快だと考えた。 |
慧(さと)子の墓へ来た。そこの花立てにも花が一杯だった。自分は持って来た花束を墓の前へ置いて、祖母のいる麻布の家へ向かった。 |
自分は門を入って行った。そして仲の口を上がると直ぐそこの廊下で女中に何か命じている母に会った。母は一寸驚いたようだったが、直ぐ何気なく普通の挨拶をした。自分はそのまま祖母の部屋へ行った。祖母はどうしたのか扇(旋)風機を二つも据えて、一つは止めてあったが、片方のに背中を吹かせながら背を丸くして一人氷水を匙(さじ)ですくって飲んでいた。 |
祖母は妻の事や赤児の事を色々と訊いた。そして、もう少し涼しくなったら是非我孫子へ行くといった。母や小さい妹などが出てきた。女中が菓子や冷した飲物などを運んで来た。自分は三十分ほどいてそこを出た。父には会わずに済んだ。 |
【和解二】 |
自分は八月十九日までに仕上げねばならぬ仕事を持っていた、夜十時ごろから書いたが、材料が何だか取扱いにくかった。最初「空想家」という題にしていたが後に「夢想家」と変えた。それで自分は六年前、自分が尾の道で独り住まいをしていた前後の父と自分との事を書こうとした。自分は父に対して随分不愉快を持っていた。それは親子という事から来る逃れられない色々なよれ混(まじ)った複雑な感情を含んでいたにしろ、その基調は尚(なお)不和から来る憎しみであると自分は思っていた。自分は口でそれを話す時は比較的簡単な気持ちで露骨に父を悪くいった。しかし書く場合何故(なぜ)かそれはできなかった。自分は自分の仕事の上で父に私怨(しえん)を晴らすような事はしたくないと考えていた。それは父にも気の毒だし、尚それ以上に自身の仕事がそれで穢(けが)されるのが恐ろしかった。 |
自分の気持は複雑だった。それを書き出して見てその複雑さが段々に知れた。経験を正確に見て、公平に判断しようとすると自分の力はそれに充分でない事が解(わか)った。自分は一度書いて失敗した。又書いたがそれも気に入らなかった。とうとう約束の期日まで六日ほどしかなくなって、それで少しも完成の見込みが立たなかった。自分は材料を変えるより仕方がなかった。十月号の雑誌に約束して、それに書こうと思っていた空想の自由に利(き)く材料にかえた。支(つか)えていた関から流れ出すように遅筆の自分にしては珍しいほどに書けた。十五日中にそれは書上げられた。 |
十六日の朝自分はその原稿を持って自家(うち)を出た。郵便局に寄ってそれを頼んで九時何分かの汽車で、東京へ出て来た。その原稿を書き上げたら会いたいと端書(はがき)を出して置いた友があったので上野でその友に電話をかけて見た。ところがその日鎌倉へ行ったという返事だった。鎌倉ならSの家(うち)へ行ったという事がわかっていた。自分はSにも会いたい気があった。鎌倉まで出掛けようかと考えた。しかし何だか身体(からだ)が疲れていて、気分にも張りがなく、それが物臭い気がした。兎も角(ともかく)麻布の家へ電話を掛ける事にして、母を呼び出すと、父は小さい連中を皆連れて箱根の別荘に行っていて、今日帰る筈(はず)だが今は祖母と二人だけだからよかったら、直(すぐ)に来てくれという事だった。祖母は一週間ほど前から少し風邪気で弱っているという事を便りで自分は知っていた。自分は父の事で箱根を朝早く起(た)って来るとすると自分のいる間に屹度(きっと)返って来るだろうという気はしたが、行く事にして電話を切ると直ぐ電車に乗って麻布の家へ向かった。 |
祖母は寝床の上に坐(すわ)っていた。もう余程回復して割りにいい顔色をしていた。一時間ほど経った時に、彼方(むこう)で人々の気色(けしき)立つのが聞えた。皆(みんな)帰って来たなと思った。 |
廊下を女中が駆けて来た。そして、「皆様、お帰りになりました」と報告して帰って行った。直ぐ隆子という三番目の妹と昌子という小さい四番目の妹とが来た。二人は、「只今」といってお辞儀した。隆子は自分を見て一寸驚いたような顔をした。そして少し当惑したような顔をして、「お父様も一緒にお帰りになったのよ」と自分を見て云った。「よろしいよろしい」と自分は答えた。「淑子や禄子はどうしたの?」と祖母が訊いた。「禄(ろ)ォちゃんも一緒よ」。「禄ォちゃん―」と昌子が大きな声をして呼んだ。禄子の「なあに?」と云う声が彼方(うこう)でした。「淑子は?」と又祖母が云った。「淑(よ)っ子ちゃんだけ残ったの」、「どうしてっさ」、「---みんな帰ると云うとお父様が何だか不快(いや)な顔をおしになるの」、「どうして」、「どうしてですか」と隆子は当惑したような顔をして「本統は私も残るつもりだったの。だけど、余(あんま)り色んな物を食べて昨日から下痢したもんで帰る事にしたの」。 |
淑子が何故一緒に帰って来なかったかは、隆子の話では結局わからなかったが、祖母は頻(しき)りに「一緒に帰って来ればいいものを」とそれを繰返していた。一番下の禄子が駆けて来た。昌子は、「お祖母(ばあ)さん。お祖母さん。お父様ね。毎日お客様と碁ばかり打っていらっしゃるの。昌(ま)ァちゃんつまんなかったわ」と甘えるような調子で云った。禄子も一緒になって、「お父様碁ばかり打っていらっしゃるんですもの。禄ォちゃん何処(どこ)へも行かなかったわ」とこんな事を云った。「うそ」と隆子が睨んで云った。「乙女峠の方へ行ったじゃないの?」、「うん、そうか」と禄子は首を縮(ちぢ)めて一寸舌を出した。 |
廊下から父が来た。自分は、胡坐(あぐら)をかいていた足を、横坐りに直しながら、その為めともお辞儀ともつかぬ程度に少し頭を下げた。最初父は一寸自分がわからない風だった。二人は丸二年会わなかった。(尤(もっと)も一度その間に東京駅の横で彼方(むこう)から車で来る父と擦違(すれちが)った事があったが、路幅(みちはば)の広い所だったし、一緒に歩いていた妻も気がつかずにいたぐらいで、そう不自然でなく自分は知らん顔をした)その上自分は無精から一寸近く顎鬚(あごひげ)を延ばしていたから顔も少し変っていた。が、間もなく父は自分と認めると、云いようのない不愉快な顔をした。父はそのまま引返そうとするような様子を一寸したが、それでも祖母に、「どうだっす?」と云った。祖母は、「段々いい」と云った。それきりだった。緊張した沈黙が一寸来た。こういう場合自分は毎時(いつも)人一倍それを強く意識してギュ-ッと堅くなる性質だが、その時はどうしたのか穏やかな気持で父の顔を見上げていられた。こういう場合はこれまでも度々あった。その場合父が不愉快な顔をすれば、それだけ自分も不愉快な顔をする方だった。そうしまいとしても自分の頑(かたくな)な気持が承知しなかった。そしてその場が過ぎてもその不愉快は残って今度は自身を苦しめるのが例であった。 |
父は黙って引き返して行った。 昼飯の支度ができたので呼ばれて皆(みんな)は茶の間へ行った。自分の食事だけが祖母の部屋に運ばれた。 |
暫(しばら)くして自分は麻布の家を出た。 身体が甚(ひど)く大儀だ。病気かも知れないと思った。自分は直ぐ我孫子へ帰る事にしたが、汽車の時間には少し間があった。 神田の古本屋で金を払いに行かねばならぬ所があったのでそこへ寄った。時間つぶしに暫く主人と話していたが、如何(いか)にも応答が面倒臭い気がした。 |
上野の待合室で暫く休んだ。汽車に乗ってからはウトウトとして何時(いつ)か眠って了(しま)った。北小金(きたこがね)で眼を覚ましてからは乗り越す恐れから、(四五度(たび)前の上京の帰り乗越をしたので)眠らぬようにしていた。 自家(うち)まで車に乗ろうと思って停車場(ていしゃば)を出ると、一台しかない車に人が乗ろうとしているところだった。 |
ようよう漕ぎつけたと云う気持で自家の段々を登って行くと門の所で何かしていた使っている男が急いで降りて来て、自分の荷物を受取った。そして、「どうかなさいましたか、大変お顔の色が悪いですが」と云った。「お帰り遊ばせ」といって赤児(あかご)を抱いた妻が玄関へ出て来た。光りが背後(うしろ)からきているので妻には自分の顔色は分からなかった。「お父ちゃま、お帰り遊ばせ」。妻は少し浮わついた調子でこんな事をいって赤児を差しつけて、それを自分に抱かせようとした。自分は何だかむかむかした。黙って座敷の次の間へ来てごろりと横になった。浮かれた気持を不意に叩かれた妻は調子の取れない不安な顔をして、脇へ来て坐った。「少し具合が悪い、身体が大儀で仕方がない」、「お腰を揉みましょうか」。 |
妻の気持が少しもピッタリしていない。自分は黙って便所へ起(た)って行った。少し下痢だった。出て来ると妻は同じ所に坐ったまま、ポカンとしていた。自分はそこから故(わざ)と少し離れた所に妻の方を背にして又ごろりと横になった。妻は赤児を傍(わき)に寝かして寄って来た。そして自分の腰を揉もうとした、自分は黙ってその手を払いのけた。「何故?」と情ない声をした。「兎も角(ともかく)、触らないでくれ」。「何を怒っていらっしゃるの?」と云う。「こう云う時お前のような奴と一緒にいるのは、独り身の時より余程(よっぽど)不愉快だ」。 |
暫くすると妻が泣き出した。 こう云う時自分はジリジリするほど意地悪くなる。自分で自分を制しきれなくなる。しかし一方妻の乳が止められると厄介だという気があった。去年の赤児に対し、死んだと云うより自分の不注意で殺したというような気がどうかするとする自分は今度の赤児にはできるだけ注意深く扱ってやろうという気が中々強かった。自分はいい加減のところで我慢した。 その晩医者を呼んだ。二日ほど寝た。 |
【和解三】 |
身体(からだ)が直ると又十月の雑誌に出すべき仕事にかからねばならなかった。「夢想家」を書き直す事にした。 |
事実を書く場合自分にはよく散漫に色々な出来事を並べたくなる悪い誘惑があった。色々な事が憶(おも)い出される。あれもこれもと云う風にそれが書きたくなる。実際それらは何(いず)れも多少の因果関係を持っていた。しかしそれを片端(かたっぱし)から書いて行く事はできなかった。書けば必ずそれらの合わせ目に不十分なところができて不愉快になる。自分は書きたくなる出来事を巧みに捨てて行く努力をしなければならなかった。 父との不和を書こうとすると殊(こと)にこの困難を余計に感じた。不和の出来事は余りに多かった。 |
それから前にも書いた如く、それを書く事で父に対する私怨(しえん)を晴すような事はしたくないという考えが筆の進みを中々に邪魔をした。ところが実際は私怨を含んでいる自分が自分の中にあったのである。しかし、それが全体ではなかった。他方に心から父に同情している自分が一緒に住んでいた。のみならず丁度十一年前父が「これからは如何(どん)な事があっても決して彼奴(あいつ)の為めには涙はこぼれない」と人に云ったと云う。そして父がそう云い出した前に自分が父に対して現わした或る態度を憶うと自分は何時(いつ)もぞッとした。父として子からこんな態度をとられた人間がこれまで何人あろう。自分が父として子にそんな態度を取られた場合を想像しても堪えられない気がした。父がそう云ったと聞いた時に父の云う事は無理でないと思った。そして自分も孤独を感じた。 |
しかし父が今明ら様(あからさま)に自分に就いて云っている不快はそれではなかった。一昨年の春だった。自分が京都に住んでいる時に、その前に起った二人の間の不和の後(あと)に或る和(やわら)ぎを作る目的で、父は自分の一番上の妹を連れて京都に遊びに来た。「今たつ」という電報を受取った時、自分はその電報の来る前に出発した態(てい)にして擦違(すれちが)いに東京へ行こうと考えた。自分は父に不愉快を与えるのは好まなかった。しかし会うのは尚(なお)厭(いや)だった。自分がその時の現在に持っている父に対する不快を押し包んで何気ない顔で話しする事はとても堪えられなかった。若(も)しそんな事をして自分を欺(あざむ)き、第三者を欺きしたところで何になると思った。後に残るものは今の不和よりもなお悪いものだ。今の不和に更になお悪いものを付け加えるばかりだと考えた。本統の和解がその時に来ようなどとは自分には夢にも考えられなかった。父も自分の上京を偶然の擦違いとは考えないかも知れない。しかし多少は半信半疑の気持になるだろうと考えた。自分は上京する事にした。丁度その頃妻は神経衰弱のかかりかけで、よく弱っていた。結婚して三月ほどにしかならぬ妻には仮に神経衰弱でなかったにしろ、まだ馴染(なじ)みの薄い父と妹とを良人(おっと)の留守に客として受ける事は大きな重荷に違いない。その上に妻は神経衰弱だった。その上に妻との結婚が父との不和の最近の原因になっていた。妻は弱って泣いた。自分は怒った。怒ったまま家(うち)を出た。 |
家を出ると自分は妻が可哀想になった。実際今の妻には少し重荷過ぎると思った。自分は停車場まで行かずに帰って来た。 |
自分は父に手紙を書いた。礼儀を欠かない程度で正直にそして簡単に、自分の気持を書いて会いたくないといった。しかし妹だけはどうか寄越して貰いたいと頼んだ。父がそれを承知するかどうかを危ぶみながらそう書いた。 |
汽車は日が暮れてから着く筈(はず)だった。手紙を持たして妻を迎いに出した。出る時、自分は繰返し繰返し手紙は必ず停車場で父に渡さなければいけないと念を押した。妻は泣いた。自分は「もしお前が手紙を渡さずに帰って来たら、俺は直ぐ東京へ行くからね」といった。 妻の出て行った後自分は直ぐ家(うち)を出た。そして大阪から来ている友達をその宿屋へ訪ねた。 |
十時頃自分は衣笠(きぬがさ)村の家へ帰って来た。妻と妹と、留守に偶然来合わせた従弟(いとこ)とが出て来た。皆(みんな)は割りに元気な顔をしていた。久し振で会う妹を見て自分にも和らいだ喜びが湧いた。しかし自分は直ぐ妻に手紙の事を訊(き)いて見た。妻は停車場ではどうしても渡せなく、一緒に宿屋に行って食事をして今までいたが、その間にもその機会がなく、今妹と車で帰ってから車夫を待たせて、三人で色々相談した挙句車夫に持たせてとうとうお届けする事にしたところですと答えた。尚妻は父が吾々(われわれ)を連れてこれから奈良大阪を歩く心算(つもり)ならあえってからへチでいる事を話した。自分は宿屋の一部屋で自分の手紙を読んで不快な気持で一人居る父の様子を想像した。自分も不愉快になった。しかし仕方がないと思った。 |
翌日は朝から出て銀閣寺から三十三間堂まで東山側を四人で歩いた。その翌日は嵐山へ行った。夕方嵐山から帰って四条の小さい料理屋で食事をする時、自分は妹に父の宿屋に電話を掛けさせた。父は甚(ひど)く怒って妹に直ぐ宿屋へ帰るよういったと云う事だった。自分達(たち)は妹に別れて衣笠村の家へ帰って来た。間もなく宿屋から車夫が妹の手紙を二通持って来た。一つは父のいる前で書いた、使いの車夫に置いて来た荷物を渡してくれという手紙だった。一つは父に隠れて鉛筆で走書きした、父が甚く怒っている事、そして叱られた事、そして明日(あした)の朝京都は引上げて大阪へ行くという事を書いた手紙だった。 |
この事があってから半年余り経(た)った。その間に自分と妻とは京都を引払い鎌倉に住む心算(つもり)で雪の下に借家したが妻の神経衰弱が少し甚くなったので、一週間ほどで又其所(そこ)を出て上州の赤城山に行き、そこに四カ月ほど暮し、それから暫く又旅をして十月の初めから我孫子の手賀沼の畔(ほとり)の今の家に落ち着いたのである。妻の神経衰弱は殆(ほとん)ど直った。そして妻は懐妊した。 |
或る日自分と妻とは祖母を見舞に上京した。その晩は麻布の家へ泊る事にして自分だけ友達夫婦を訪ねて、二人の泊っている麹町の或る宿屋へ遊びに行った。そして夜十二時頃自分は麻布の家へ帰って来た。皆は寝ていたが、母と妻が起きて来た。祖母も眼を覚まして暫く話をした。暫くして自分も寝間着に着更えて床に入った。すると一度寝室へ帰った母が又出て来て「つらい事はお察ししますが、どうか一寸(ちょっと)、京都の事をお詫びして来て下さい」と云った。自分は一寸まごついた。自分は我孫子へ住むようになった時、父の部屋にそれを云い方々(かたがた)挨拶に行った。父は碌に返事をしなかったが、自分から挨拶に行った事で京都時分と気持ちの変わった事を下た手(したで)から示した心算(つもり)でいた。それでもうその事は済んだ心算でいた。 |
「お父さんはお部屋ですか」と自分は云った。「お起きになってお部屋で待っていらっしゃるの」。自分は帯の結び目を後ろへ廻して、父の部屋へ行った。父は机の前に机を背にして坐っていた。父は、「貴様がこの家へ出入りする事は少しも差し支えない。それは俺は喜んで許す。しかしきまり(キマリ)をつけんばならん事は明瞭(はっきり)つけたいが、どうだ」と云った。「京都の事はお気の毒な事をしたとは思っています。あの頃とはお父さんに対する感情も余程変っています。しかしあの時私がした事は今でも少しも悪いとは思っていません」。こう答えた。「そうか。それなら貴様はこの家へ出入(ではい)りする事は止して貰おう」、「そうですか」。自分はお辞儀をして起って来た。自分はもうカッとしていた。「直ぐ帰ります」。自分は祖母と母にそういって、妻に「お前も来るなら来い」と云って着物を着かえ出した。 |
「何も今から出なくてもいいじゃ、ありませんか」と母は涙を流しながら帯をしめようとする自分の手を握って動かさなかった。「今から出ても泊まる所もないでしょう。明日(あした)の朝早くお帰りなさい。どうかそうして下さい」といった。妻も一緒になって泣き声を出して何か云った。自分は怒って妻を突飛ばした。妻は寝床の上へ倒れた。 黙って寝床にいた祖母が亢奮(こうふん)した調子で、「康子(さだこ)も一緒について行け」と云った。母も諦(あきらめ)めた。妻の支度のできるのを待って、麻布の家を出た。 |
一時を過ぎた往来には人通りも少なかった。妻は一と足遅れに黙って後(あと)からついてきていた。自分は麹町の二時間ほど前までいた宿屋へ行って泊ろうと思ってその方に歩いた。「もしお前が俺のする事に少しでも非難するような気持ちを持てば、お前も他人だぞ」。自分は突然こんな事を云った。妻は黙っていた。「もし俺がお父さんの云う事をはいはい諾(き)く人間だったらお前とは結婚してやしなかったぞ」。自分は嚇(おど)かすように又こんな事を云った。 |
宿屋は皆(みんな)寝ていた。戸を叩いて起すと寝間着を来た女中が潜り戸(くぐりど)を開けてくれた。 二人は二階の小さい部屋に通された。 翌朝妻は女中が妻だけに仲間同士のような妙にぞんざいな言葉使いをすると怒っていた。「あんなに晩(おそ)く連れて来たのでお前を只(ただ)の女でないと思っているのだろう」と自分は云った。妻は腹を立てた。そして早くこんな家を出ようと云った。 |
【和解四】 |
翌年の六月に妻は産をする筈(はず)だった。産婆もいない土地で、産は東京でする事にした。丁度妻の伯母の知っている婦人科の病院があるので其所(そこ)へ入れる筈にして置いた。すると父が自分の親しくしている婦人科の医者があるから其所へ入れたらいいだろうと云ったそうだ。六月初めに妻は上京して麻布の家(うち)へ行った。そしていよいよ近づいた時にその病院に移り、間もなく女の児(こ)を安産した。 |
父はその初めての孫を見る為に病院に一度来た。しかしそこで自分と落ち合う、多分その恐れから二度は来なかった。しかし三週間して病院から又麻布の家へ帰ってからは赤児が一人眠っている所などに時々来て見ていると云うような噂(うわさ)を自分は妻から度々聞いた。妻は喜びを以(も)ってそれを話した。しかし父に対しては妙に邪推深くなっている自分は妻のような素直な喜びを以ってはそれを聴けなかった。 |
父は出産の費用を総(すべ)て出してくれるといったと云って祖母や妻はその好意を喜んでいた。自分はそれにも拘泥(こだわ)った。しかし結局出して貰った。祖母は、「一寸お父さんの所へ行ってお礼を云っておいで」と再三繰返した。時分は、「うん、うん」とその度曖昧な返事をしながら、とうとう行かなかった。そして妻を代理にやって礼を云わした。 |
この赤児が父と自分との和解の縁になるようと皆が願っている事がわかっていた。皆にはこの赤児をその為できるだけよく利用しようと云う気が暗々の裡(うち)にある事がわかっていた。しかしこの赤児を通してと云う気は自分にはなかった。 |
麻布の家の門番の児が二人続いて赤痢にかかったので予定より早く、丁度生後二十四日目に赤児は妻と一緒に我孫子へ帰って来た。それは汽車に乗せるには未だ少し早かった。その晩は頭に受けた刺激から亢奮してよく眠れなかった。しかしそれは翌日はよくなっていた。 |
それから一ト月近く経った。祖母からの便りで、父が赤児を見たがっているから最近に連れて来てくれと云って来た。自分は何だか赤児を東京にやりたくなかった。その上に自分には又邪推があった。父が赤児を呼びたがるには八十一歳になった祖母を我孫子へ寄越したくないからだと云う気がした。父は祖母が自分の家へ来ている事を前から、非常に嫌がった。それは年寄った祖母がもし自分の家へ来ている間に重い病気にでもなった場合、自身出入りを止めている身でその家へ入っては行けないという考えが絶えず脅迫しているらしかったからである。 (自分は時々祖母に会いに行った。しかし妻は泊っても自分だけは友達の家や叔父の家や或いは宿屋などに泊って麻布の家へは泊まらなかった) |
自分は祖母へ返事を出す前に東京の医者に手紙を出して赤児はもう汽車に乗せてもいいかどうかを訊いて見た。医者からはなるべく百日くらいは動かさぬようと云う返事が来た。自分は上京した時電話で母にそれを云って祖母の方から来て貰いたいと云った。 |
二三日すると祖母が麻布の小さい連中を四人と赤坂の叔父の子供とを連れて我孫子へ来た。皆は二タ晩泊って翌々日の午後帰る事にした。 |
帰る時祖母は又父が見たがっているからと赤児を連れて帰りたがった。自分は医者が今はなるべく動かさぬようと云っているのに祖母がそんな事を云うのを変に思った。しかし医者は一番安全な事を云っているのだとは思った。現に二十四日目にこの地へ連れて来る時相談したのには医者は大丈夫ですと答えたのだと云うような事を考えた。それにしろ何だか気が進まなかった。後で知ったが、祖母は医者が動かさぬようと云った事は知らなかった。母がそれを伝え忘れたか、祖母がそれを聴き落としたかわからない。それは何方(どっち)にしろ落度とは自分は思っていない。只落度は自分がそれを知りながら、且つ何となく気が進まないなりに、弱々しい気持から赤児を連れて行く事を承知したところにあった。 |
赤児も不運だった。もしその場合、自分が電話で母に云った医者の言葉を繰返したら、祖母も自身の云い出した事を取消したに違いない。しかし何故か自分はその時それを云わなかった---しかし兎も角(ともかく)今からそんな事を云うのは馬鹿気ている。こういう云い方で幸不幸の別れ道が決められるものではないから。 |
上野から祖母と妻と赤児と小さい連中だけ客待自動車に乗せて、自分は上の妹二人を連れて、村井銀行の下に食事をしに行った。自分はそこから麻布へ電話を掛けた。途中自転車と衝突して、東京駅で自動車を取代えたが、皆は無事に着いたと云う返事だった。 |
暫くして妹等と別れて自分は友達の家へいった。そこに他(ほか)の友達が三人来た。そしてその晩は勝負事で夜明かしをした。翌日も昼頃までそれを続けた。 |
夕方自分は友達の家を出て赤坂の叔父の家へ行った。吹き降りの甚い日だった。叔父夫婦は切(しき)りに泊って行けと勧めた。しかし疲れ切っている自分は自分の寝床が恋しかった。自分の寝床でぐっすり眠りたかった。 |
嵐の中を自分は終列車に乗る為に叔父の家を出た。電車へ行くまでに自分はずく濡れになった。 自分は電車の中で中川の欄干のない鉄橋を想い出すと急に恐ろしくなった。普段でも欄干のない鉄橋は気持よくなかった。まして今晩のような嵐にあの鉄橋の上から横倒しに吹き落されたら、それっきりだという気がした。 |
自分は須田町で電車を降りて終(しま)った。大粒な雨が人道の三和土(たたき)の上ではね返っていた。電線は変な音を立てていた。或る店屋の前で濡れ鼠(ネズミ)になった工夫が鉤(かぎ)のついた長い竹竿を電燈線へかけて雨の中にしょんぼり立っていた。それでも嵐が烈(はげ)しくなると何かと擦れ合って、被覆帯(ひふくたい)の破れた所から紫色の火花が散って来た。 |
自分はともかく雨宿りをしなければならなかった。その辺の店は皆もう戸を閉めていた。自分は万世橋の停車場へ行った。自分はこれから又赤坂の叔父の家まで帰るのもいやだった。自分はそこにいた子供の夕刊売りから一枚夕刊を買って、ベンチでそれを読んだ。その内もう終列車にも間に合わないだけの時間になった。決心して又電車に乗って叔父の家へ帰って行った。 |
その晩は寝不足の癖に妙に亢奮して、それに蚤(のみ)に食われて眠れなかった。 翌朝九時頃麻布の家へ人をやって、自分がまだ東京にいる事を妻に知らした。ところが妻はその朝早く赤児を連れて我孫子へ帰ったと云う母からの返事だった。 自分も午後の汽車で帰って来た。 |
【和解五】 |
その晩自分達は蚊やりを焚(た)いて食事をしていると、彼方(むこう)で赤児の泣声ががした。「蚊がひどいのよ。慧坊(さとぼう)を呼んでやりましょうか」と妻が云った。そして妻は坐ったまま、「龍、龍」と十二になる守(もり)の名を呼んだ。 |
龍は返事をしなかった。自分も大きい声をして呼んだ。しかし自分が呼んだ時は龍は直ぐ襖の陰に来ていて、返事をせずに襖を開けた。「お嬢様、今吐くような事、なさいました」と龍がいった。 妻は赤児を受取って座布団の上に寝かしておむつを見た。赤児は又泣き出した。 |
妻はおむつをランプの灯に翳(かざ)して、「少し青いようよ」といった。「粘液が混っているわ」と眉を顰(しか)めた。「そんなら今晩は乳をよせ。---熱を計って見よう」、「もう少し前、計りましたが、ありません」。額をおさえて見たが熱もないらしかった。 |
妻はおむつを更えてから赤児を抱上げた。赤児は尚しきりに泣く。「オオ、誰れが誰れが」。こんな事を云って妻は自身の頬(ほお)を擦りつけると、赤児は触られた頬の方へ口を持って行こうとした。「もしもし。それはお母さんのお頬(ほ)っぺですよ」と妻が云った。龍は笑いながら女中部屋へ下(さが)って行った。赤児は中々泣き止まなかった。 |
「慧(さと)ちゃん、どうしたの?」。妻は少し不安な顔をした。そして、「少し泣きようが変じゃないこと?」と云った。実際泣声は普段と変わっていた。「お湯の時、ガアゼの水が少し鼻へ入ったんですけど、それでじゃないでしょうね」と妻が云った。「そんな事はないだろう。ともかく早く寝かす方がいい」と自分は云った。「床はとらしたか?」、「まだ」、「そんなら早くとらせないか」。何という事もなく自分は腹が立って来た。 |
自分は続いた寝不足で頭痛のする上に、前に書くのを忘れたが股(もも)にできた根太(ねぶと)の膿(う)みきる前でそこがずきずき痛く、気分が悪かった。常と云う女中が床を延べると直ぐ自分は寝間着に着更えて寝床へ入った。 |
妻は暫く子守唄を唄いながら暗い縁側を往復していた。そして赤児が眠ると蚊帳(かや)へ入って来て、小さい網の寝台へそれを寝かした。 妻は自分の頭を少時(しばらく)揉(も)んでから蚊帳を出て行った。 |
十五分ぐらいすると又赤児は眼を覚まして泣き出した。妻は茶の間から起(た)って来て蚊帳へ額をつけて中を覗(のぞ)いた。自分は小声で云った。「かまうと、抱かれようと思って尚泣くから、ほって置く方がいいよ」、「どうかしたんでしょうか」、「いいからお前はあっちへ行っといで」。 |
妻はそっと立去った。赤児は烈しくは泣かないが、中々泣き止まなかった。「もう私も休みますわ」と妻も寝支度にかかった。 |
自分は少し不安になって来た。自分は少時(しばらく)その不安を抑えて黙っていた。しかし我慢いきれなくなって、起上がると赤児を抱き上げ、胡坐(あぐら)の儘(まま)身体をゆすっていた。赤児は間もなく又眠った。 |
妻は浴衣(ゆかた)を衣紋竹(えもんだけ)へかけたり、少し片付け物などをしてから、御本尊様(ごほんぞんさま)と云っている自身の仏様を拝みに行って、それから蚊帳へ入って来た。その間二人は赤児を覚ます恐れから口をきかずにいた。自分は赤児の顔色の悪いのに気がついた。どうかしていると思った。すると赤児は又眼を覚まして泣き出した。自分は抱上げながら赤児の顔に自分の頬を当てて見た。頬が冷(ひや)りとした。唇が紫がかっていた。「オイ直ぐ回春堂を迎えにやってくれ。一人じゃ淋(さび)しいだろう。二人でやれ」。 |
妻は蚊帳を出て急いで台所へ行った。「直ぐだよ。いいかい?すぐだよ。慧坊(さとぼう)の様子が少し変なんだから」。こう云っているのが聞えた。 |
泣きようが著しく変になった。「あっは。あっは」と云う風な泣き方だった。「何でもいいから、大急ぎで行け」と自分も大声で云った。 妻が蚊帳へ入って来た。「お乳をやって見ましょうか」、「やって御覧」。 赤児を妻に渡した。しかし赤児にはもう乳を飲む気はなかった。顔の色は見る見る変って行くように思えた。妻は亢奮して了(しま)った。そして叱りでもするように、烈しい声で、「慧ちゃん!慧ちゃん!」と紫色をした小さい唇に無闇と自身の乳首(ちちくび)を擦りつけた。 |
自分は妻の手から赤児を受取った。そして起って、赤児の足の方を持って倒様(さかさま)に振って見た。何の甲斐もなかった。顔色は寧(むし)ろ土に近かった。「直ぐ抱いて行こう」。 |
自分は抱いたまま蚊帳を出て、他はしまっていたので台所口から裸足(はだし)で出た。「ああ。ああ」。絶望的な妙な声を出して、妻は赤児を抱いている自分の手へつかまった。「どうしましょう」と云う。自分は、「お前はついて来ちゃ、いけない」と云った。「独りで自家(うち)に居られませんわ」と妻は首を振った。「そんならYの所へ行っていろ」。 |
急いで自分は門から暗い路(みち)へ降りて行った。雨上りの田舎路は踝(くるぶし)までぬかった。隣りの百姓の家族が起きていた。「急いで提灯をつけて下さい」と自分は大きい声で云った。しかしそう云いながら自分は足を止めなかった。今出してやった常と龍との行く提灯が遠く見えた。自分は赤子の身体を烈しく揺らない程度でできるだけ急いだ。追い着くと自分は、「お前は直ぐ俺と回春堂へ行くんだ。---龍は奥さんを連れてYさんの所へ行ってくれ」と云った。尚自分はニ三十間後ろに薄白く見える妻に「お前は龍と一緒にYの所へ行くんだぞ。此方(こっち)へ来ちゃ、いけないぞ」と大きい声をして云った。 |
寝間着の裾が膝まで泥水に濡れて、それが足に絡まりついた。自分はその儘急いだ。 赤児は絶えず、「あ-ァ。あ-ァ」と弱々しい声で泣いた。身体も何時もより何となく軽いような気がした。筋肉が総て緩んでいた。死んだ兎を抱いて行くような感じがした。「慧坊、慧坊」と自分は時々赤児の名を呼んだ。 |
町長の小さい家(うち)が町から離れた小さい坂の下にあった。その側(わき)を通る時自分は、「道はもう見えるから、お前医者まで走って行け」と云った。常は少し急いだが走ろうとはしなかった。「何故(なぜ)駈けないんだ」。自分は少し怒った。「私、駆けられません」と答えた。常に脚気(かっけ)の病気のある事を憶(おも)い出した。それでも常はできるだけ急いだ。 |
町では人々が軒先で涼んでいた。漸(ようや)く医者の家へ来たが、医者は五六丁ほど先の糸取工場へ行って留守だった。直ぐ迎いをやって貰った。----又迎いをやって貰った。 |
赤児の顔は普段と変って了った。そして口の辺りが細かく震えていた。 自分は妻が龍と一緒に土間の入り口の暗い陰に立っているのに気がついた。「Yの所へ行っていなくちゃ、いけない。又頭でも変になると二重に面倒じゃないか。---直ぐおいで!」。そう云った。 妻は尚、往来で医者を待っているらしかった。しかしその内、見えなくなった。「慧坊、慧坊」。自分は時々そう云った。 |
自分は往来と赤児とを交(かわ)る交るに見ていた。「お上りなさいませ」と医者の細君が、土間へ下りる幅の狭い縁に腰かけている自分に云った。「足が泥です」、「私がお抱きしますから、足をお洗いなさいませ」と云った。自分は赤児渡して土間続きの台所へ往(い)って足を洗って来た。 |
敷布団を二つ折りにした上に赤児は寝かされていた。医者の細君は赤児の額に手を当てて、「お熱はないようでございますね」と云った。 医者は急いで帰って来た。 自分は先刻(さっき)からの経過と、前々日東京へ連れて往って。今日午前中帰って来て夕方まで元気にしていた事などを簡単に話した。 |
医者は仰向けに寝ている赤児の後ろ頭の両方から二本ずつ指を入れて何遍も何遍もそれを挙げて見た。 自分は医者の顔色を覗(うかが)った。医者は首を傾けた。その顔には希望は見えなかった。「熱はないようですね。こりゃあ脳の刺激かも知れません」。医者は尚赤児の頭を挙げ下げして見せて、「こうして、顎(あご)が胸に着くようでないといけません。---大分痙攣(けいれん)を起しています」。医者は尚手を見た。両方とも堅く握りしめていた。医者はそれを黙って自分に見せた。 医者は次の間から真ん中に穴のある反射鏡を取って来て蝋燭(ろうそく)の光で赤児の眼を見た。「どうですか」と自分は云った。「瞳孔(どうこう)は開いてますね」、「心臓はどうですか」。 |
医者はそこに投げ出して置いた聴診器を取上げて聴いた。耳からそれを取りながら、「心臓はまだ大丈夫なようです」と云った。そして医者はよくする癖でその垂れ下がっている口髭(くちひげ)の先を下唇の端で口へ掬(すく)い込みながら考えていた。医者は、「とにかくカンフルを一本射(さ)して置きましょうか」と云った。医者は直ぐ支度をして来た。赤児の小さい乳の側(そば)をアルコ-ルを湿した綿でよく拭(ぬぐ)ってから、そこを摘(つま)みあげると、一寸余りある針を横に深くさし込んだ。赤児には全く感覚がないらしく見えた。薬は静かに射された。医者は針を抜くと指で跡をおさえ、その手の甲に着けて置いたゴム絆創膏をそこにはった。 |
医者は道具を片づけながら、「頭を冷やして見ましょう」と云った。医者は家(うち)の者に氷を取らしにやった。「浣腸(かんちょう)もやって置きましょう」。そ云いながら又医者は次の間に起って行った。何故か自分もそれについて起って行った。 自分は医者はもう見離していると思った。しかしそれでも訊いて見た。医者は返事に困っていた。そして云いにくそうに、「大分困難なようです」と答えた。 |
自分も浣腸の手伝いをした。すると氷を取りに行った使いが何所にも氷はありません、と云って帰って来た。医者は、「半左衛門所へ往って見たか?」と訊いた。「半左衛門とこにもありません」と答えた。「停車場前の菓子屋にあるがな。その自転車を借りて自分で往って来よう」と自分は云った。 |
自分は東京の医者も呼ばねばならぬと思った。自分は紙と筆を借りてその小児科の医者と麻布の家とへの電文を書くと医者の自転車で急いで停車場へ向かった。灯(あか)りなしで暗い町を急ぐ時、こういう時落ち着かないと衝突なぞをするぞ、と云うような事を考えた。 |
氷は菓子屋にもなかった。前日の嵐で沼向うから来る筈のが来なかったから、今日は何処にもありますまいと云った。自分は当惑した。 |
上野発は九時が終列車だった。で、自分は医者への電報に「赤児危篤、ここの医者は脳の刺激と云う、自動車にておいで願う」と書いて置いた後に「この地には氷なし」と加えて駅から打った。 |
自分が又医者の家へ帰って来た時にはYが来ていてくれた。使っている男の三造も来ていた。隣りの百姓家の婆さんも来てくれた。妻を送った龍も帰っていた。 医者は息子に、「山市(やまいち)にある筈だ。お前直ぐ行って来い」と云いつけた。Yは三造と隣の婆さんとを沼向うの氷蔵(こおりぐら)へやってくれた。 |
赤児の土色をした唇は妙に痙攣(ひきつっ)て、かすかに震えていた。身体は全体に冷え渡っていた。そして下腹が異様に膨(ふく)らんでいた。 |
間もなく氷が来た。細かくかいて氷枕(こおりまくら)をさした。上からも氷嚢で頭を冷やした。腹に温湿布をする事にした。Yは裾の方に廻って両手で赤児の冷えた足を温めてくれた。吾々はできるだけの事は何でもしようとした。しかしいい考えもなかった。 |
医者は又浣腸をした。便らしいものは何も出なかった。入れただけの液体が直ぐその儘に出て来た。医者はおむつに浸み込んだあとを指で擦(こす)って見て、「やはり粘液が少し出ますね」と云った。自分も指先で擦って見た。ぬるぬるした。「脳膜炎とは異(ちが)いますか」と自分は訊いた。「脳膜炎じゃ、ありますまい。只脳が刺激を受けたんです」。「龍」と自分は土間に立って此方(こっち)を見ている龍を呼んだ。「お前先刻(さっき)抱いている時に頭をぶつけや、しなかったろうね」、「どうも、しませんでした」と龍は直ぐ答えた。「そりゃあ、頭でもぶつければ直ぐ大きな声をして泣くから知れますね」と医者も云った。 |
「やはり汽車が悪かったかな」と自分は云った。自分は心苦しかった。「汽車に揺られた為に受けた刺激とすると、もう少し早く出そうなものですがね」と医者が云った。「康(さだ)子さんは午前に帰っていらしたんだろう?」とYが訊いた。「非常に元気だったそうだ。僕が帰ったのは夕方で、その時は眠っていたが、その前までよく笑っていたそうだ」。 |
自分は赤児の枕元に坐って氷嚢を抑えていた。自分は空(くう)に見開いている赤児の眼を見る事が堪えられなかった。自分は氷嚢の下に当てている布(きれ)を眼にかぶせた。視力を働かさないだけでも多少はエネルギ-の経済になるだろうと云う気がした。「あっあァ。---あっあァ」。 そう云っている赤児の顔には苦痛の表情は殆(ほとん)どなかった。しかしできるだけ病気に抵抗しようとするその努力が見ていて堪らなかった。「腹が痛むかも知れません」と医者が云った。 |
Yの家(うち)の婆ァやが平たい瓶と一緒にK子さんの手紙を持って来た。「K子から芥子(からし)をはったらどうかと云って来たがね。親類にそれで助かった児があるんだ」と手紙を見ながらYが云った。「やって頂きましょうか」と自分は医者の方を見た。「やりましょう」。 |
医者は平たい瓶の芥子を皿にあけてそれを練った。Yはその手伝いをしながら、「K子に何か又いい考えがついたら、直ぐ云って寄越せと云ってくれ」と婆ァやに云った。Yは又自分に、「康子さんは御心配なくと云って来たよ」と云った。「ありがとう」。自分は心から礼を云った。紙に延ばしたのを鳩尾(みずおち)から下腹(したはら)、それから背中、それから両方の足にはった。「まあ十分ですかね」と医者は掛け時計を見上げた。「そんなものですか」、「余り長くやると火膨(ひぶくれ)のようになって、あとで困ります」。自分は少しぐらい困ってもいいから十分にやってもらいたいと云った。Yも賛成した。 |
今は東京の医者の来るのが僅(わず)かな望みだった。「九時半に電報がついて、支度に三十分と見て、それから一時間半したら来ましょう」と医者が云った。「一時間なら来るさ」とYが云った。「夜道だからな」と自分は危ぶんだ。「早くて十一時半ですか」と医者が云った。「昨日の荒れで水がどうかな」と又自分が云った。 |
医者は胸の芥子をそっと剥(は)がして見た。明瞭(はっきり)した輪郭でそこだけ赤くなっていた。「利(き)いて来ました」。こう云って医者は又枕元へ廻って立膝(たてひざ)をした儘、赤子の頭を挙げ下げして見た。「少し曲がりますね」と医者は自分の顔を見た。「痙攣も余程とれました。口の辺に少しまだ残っていますが」。医者は又赤子の手の掌(ひら)を開けて見せて、「これが開くようになりました」と云った。自分は望みを得てYを顧(かえり)みた。「すこしよくなったようだね」。「先刻(さっき)からすると余程よくなったさ」とYは云った。「これで泣声が、あ-と大きく続くようになると大概大丈夫ですがね」と医者が云う。「そうですか。---慧坊。大きく泣け!大きな声で泣いて見ろ!」。自分は力を入れて云った。 |
「もう十五分ですが腹の方だけ取りましょうか」と医者が云った。「そうですね」。自分はもう少しその儘にして置きたいような気がした。 |
医者は鳩尾(みずおち)の所を剥がして見せた。かなり甚く赤くなっていた。医者は細君に手拭(てぬぐい)を湯で絞らせて、剥がした跡をそれで拭(ふ)いた。自分は皮がつるりと剥げはしまいかと云う気がした。医者は、「背中だけ、もう少しこうして置きましょう」と云った。 |
緊張した中(うち)に一種の小康が来た。医者が云う。「普通の赤さんだと先刻の痙攣で大概いけなくなるのですがね。よく抵抗しました」。自分は腹の底に喜びを感じた。自分は又腹に力を入れて、「さあ、もっと大きい声をして泣け!」と云った。 |
蒸し暑い晩だった。吾々は足を蚊に食われて弱った。 間もなく三造と隣の婆さんとが沼向うから氷を十分に買って来た。自分は三造に、赤児の夜着とおむつと、それから八畳釣りの蚊帳と、自分の着物とをとらしにやった。 |
自分は自分の頭痛が何時の間にか直っているのに気がついた。そして夕方迄ずきずきと痛んでいた根太(ねぶと)も今はどうもなくなっていたのに気がついた。しかし時々欠伸(あくび)だけが出た。 |
赤児が「あア-」と大きく泣く度が少しふえて来た。吾々は喜んだ。しかし医者はもっと大きく泣かなければいけないと云った。それが二タ声三声続くようになればしめたものだと云った。 医者は反射鏡で又眼を調べてくれた。「どうですか」と自分は側から云った。「よほど窄(つぼ)みましたね」と答えた。「もしかすると助かるぞ」と自分は云った。自分は自分の眼の輝くのを感じた。 三造が色々な物を運んで来た。更えられる物は新しい物と取り更えて、皆は蚊帳へ入った。着物を更えさす時に医者は下腹(したばら)を診た。余程前より小さくなっていた。総てが僅かずつ順調に行くよう思われた。 「これで心臓が仕舞いまで堪えてくれると、うまいですね」と医者が云った。 |
十一時が鳴った。もう三十分、或いは一時間と思う。今は東京からの専門医を待つばかりだった。 「あア-」と赤児は時々大きい声を出した。その度吾々は顔を見合わせた。しかしもう少し大きくと念じてもそこまで届かなかった。自分は叱るように、「もっと、しっかり泣けないか!」と云った。 時は段々に経(た)って行った。赤児はそれより良くも悪くもならなかった。吾々は自動車の響きを今か今かと待った。僅かな響きにも「来たかな」と云って耳をそば立てた。 吾々は何遍も貨物列車の響きに騙(だま)された。「しかしもう来てもいい頃だがな」。こんな事を云って時々時計を見上げた。「今度はそうだ」とYが往来へ出てくれた事もあった。十二時になった。 |
ここへ来て、もう四時間になる。その間赤児は眼を開いたきりである。今まで乳を飲むと、飲んでいる内に眠くなって眠って了う児が。---殊に夜は、間に乳で一度起きる外いつもよく眠っている児が、こうして死に抵抗し、努力しているのを見ると如何にもいたいたしかった。「あ-、あ-、あ-」。赤児は初めて大きく啼(な)いた。自分は直ぐ医者の顔を見た。「ええ」と医者は首肯(うなず)いた。 |
Yも非常に喜んでくれた。「これが連続するとしめたものです!」と医者が云った。自分は波だぐんだ。見ていた赤児の顔が見えなくなった。自分は、「康子を呼んでやろうか」とYに相談した。「直ぐ呼んで上げ給え」とYは賛成した。医者も賛成した。自分は土間の細い縁に腰かけていた常をYの家へ直ぐ迎いにやった。 |
(私論.私見)